□木村陽二郎(編):白井光太郎著作集、第1巻 本草学・本草学史研究
434pp.1985.科学書院.¥15,000.
白井光太郎「本草学論攻」の第4巻は出版数が少なく、第5巻は未刊に終わった。今回は未刊の第5巻の原稿も含めて、上記の標題のもとに、第1巻「本草学・本草学史研究」、第2巻「植物研究」、第3巻「園芸植物と有用植物」、第4巻「自然保護・植物園・考古学・人類学」、第5巻「植物採集紀行・雑」に分けて、活字も組み直して順次出版の予定で、今回第1巻が出版された。編者のまえがきと令息白井秀雄氏の「跋に代えて」の文がある。
[植物研究雑誌60(11):345(1985)]
□富山市科学文化センター(太田道人編著):進野久五郎植物コレクション
(富山市科学文化センター収蔵資料目録第1号)222pp.1987.非売品.
富山県の植物研究家として知られる進野久五郎氏(1900-1984)は、晩年採集標本を富山市科学技術センターに寄贈された。同センターは学芸員太田道人氏を中心にその同定・整理を行なう一方、大型計算横によるデータベース化を行なったうえ、このたび目録を作成した。科は分類順配列で、種子植物は大井(1983)新日本植物誌に従っている。種の配列は学名のABC順で、学名、和名を併記する。標本の引用はすべて県からはじまる産地名、採集者、年月日(略記)、標本番号が記されている。巻末に和名索引がある。本書は6,640点の進野コレクションを分類順配列を含めて完全な電算機処理により目録としたもので、画期的な業績である。現在多くの機関や個人で電算機利用の資料整理が試みられているが、まだ十分満足できる出力を得るには至っていなかったので、その手法には学ぶべき点が多いだろう。センターが比較的後発であったため、機器の進歩と自然誌資料計算機処理の予備知識の蓄積がマッチしたこと、大型機を直接利用したこと、標本量が手頃だったことなどが成功の理由として考えられるが、同定や標本整理、データ作成のための背後の努力も無視できない。富山市科学技術センターではすべての資料を同様にデータ化しているとのことであるが、他分野の成果にも注目したい。ひとつ気になるのは、採集者が進野氏の場合は省略してあることで、これは今後多くの人の資料が加わるとわからなくなるおそれがある。データとしては手が打たれていると思うが、老婆心でつけ加える。
[植物研究雑誌62(10):310(1987)]
□望月市恵・宮崎市定・桜井和市・原 寛・小原二郎:来し方の記8
245pp.1984.信濃毎日新聞社、長野.¥1,000.
1986年9月24日亡くなられた原寛先生は、自らを語ることは全くなさらなかった。本書は信州出身者の銘々録で、先生の唯一の自伝といえるたいへん珍しい文章が145-182頁にみられる。とくに少年時代から学生・米国留学・戦時中の記述は、こういう本がなければ誰も知らないままになってしまったことだろう。初めて正式の外国調査隊としてブータンへ入ったときの裏話もある。最近のことがらは、植物学会100周年のあたりまでが、出来事を追って記されている。先生はこの本のあることを言いふらされたくなかったようなので、どこかで苦笑されながら鼻のわきを掻いておられることだろう。
[植物研究雑誌62(2):38(1987)]
□横内 齋:草木寸景 横内齋著作集2
301pp.1986年.「横内齋著作集」刊行会.¥2,300.
1980年に亡くなられた著者の遺族によって行刊されている著作集の第2号である。内容は山岳夜話、信州植物寸景、高山植物見聞録、信州植物概説、ウェストン師のサイン、珍名集の部にわかれ、各誌にかかれた文章が集成され、それぞれ出典がつけられている。フロラの調査は過去と現在を比較する必要があるので、このように得がたい文献の集成はたいへん有用である。
[植物研究雑誌62(4):126(1987)]
□韓国植物研究所(編):李永魯文集
211pp.1986.同研究所.Seoul.非売品.
梨花女子大学教授李永魯氏の停年を記念して、同氏の学術論文以外の小文を集成した紙上植物記と、世界各地への族行メモ世界植物探訪記より成る。巻末に履歴と論文目録があり、韓国の植物分類学の傾向の一端を知るに足るものである。全文韓語。
[植物研究雑誌63(2):48(1988)]
□牧野植物同好会:Makino80『植物同好会』八十年の歩み
314pp.1992.非売品.
牧野富太郎博士が1911年に始められた東京植物同好会は、博士の指導の下にアマチュアも専門家も含めた歴史の古い会だったが、太平洋戦争と続く敗戦による社会情勢の激変で休会となった。1965年博士の希望もあって、高齢の博士にかわって久内清孝博士をはじめとする有志により「牧野植物同好会」として復活された。以来、川村カウ氏を世話人として、会報『Makino』の刊行をはじめ、頻繁に観察会、研究会を行ないながら今日に至っている。本書は東京植物同好会発足80周年を記念するものである。140頁までは、同好会の歴史を物語る写真、資料、回顧談で、牧野博士をはじめとする先達のエピソードや同好会活動の思い出が綴られている。後半はMakinoに連載された伊藤洋(決め手と手がかり)、林弥栄(珍しい木)、深津正(植物和名の語源)、許田倉園(イネ科の話)、長谷川義人(植物雑記)の五氏の報文をまとめたもので、内容の豊富な読みものとなっている。この後半は「植物遊報『Makino』論文集」として分冊にもなっている。
[植物研究雑誌67(3):186(1992)]
□しだとこけ談話会:しだとこけ 服部新佐先生追悼記念号
129pp.1993.¥3,000.
13件の追悼記念報文のほか、1992年5月12日亡くなられた服部新佐氏の思い出が16人によって語られている。服部氏が宮崎県飫肥町に研究所をつくり、これを蘚苔類の世界的な研究機関に育て上げたことはよく知られているが、その背景には私財を投じた運営ばかりでなく、専攻者アマチュアを問わず、誰にでもへだてなく研究協力をおしまなかったことによって育成された人材が、それを支えたのだということが、誰の文章にも表れている。おさな友達・守永敏夫氏の弔辞や故・上村登氏の思い出は、服部植物研究所のいきさつや、それより以前の服部氏の行動を伝えるもので、知る人の少ない貴重な記録だろう。第二次大戦敗戦直後の九州の田舎町(と言っては失礼だが)の小さな私立研究所、それもコケなどというマイナー(これまた失礼な言い方だが)な植物を対象とする研究所が、植物研究の一分野の世界的なレベルアップにこれほどの業績を残すとは誰が予想したろう。現在の東京でさえたくさんの私立研究所があるのに、服部研に比肩すべきものはあるまい。しかし服部氏個人に会ってみれば、私には物腰の低い訥弁のおじさんとしか感じられなかった。研究と経営の希有の才に富み、それを表に出さない奥行きの深さをもった人物像が浮かびあがる。岩槻邦男氏の一文は、そういう異能の人の活動のむずかしさをおしはかって書かれている。一読をおすすめする。
[植物研究雑誌68(5):313-314(1993)]
□清水敏一(編):小泉秀雄植物図集
251pp.1995.小泉秀雄植物図集刊行会.¥7,000.
小泉秀雄先生の遺品の中に、多数の植物図があることがわかり、このたび没後50年を記念して、故人の職場であった共立女子薬専の関係者等の協力により刊行された。編者は登山家で、大雪山に「小泉岳」と呼ばれるピークがあることから、山名の由来をたずねて小泉先生にゆき当たったとのことで、「大雪山わが山小泉秀雄(1982)、同続編(1984)」の著作がある。今回の出版は、清水氏の努力によるところが大きい。また刊行会代表の矢武三知氏は先生の教え子である。
小泉秀雄先生の詳細な図は夙に知られているが、本書の図はそれに輪をかけている。どれもがB5版に4枚(ときに3枚)の図を配置し、部分図までも切り貼りの跡が全くない描き下ろしである。シダや裸子植物もあるが、イネ科、スゲ属、タンポポ属が最も多い。先生は遠大な計画のもとに、図鑑の制作を意図しておられたのだろう。それにしても、仕上がり寸法の図を、融通のきかせようもない頁単位に作って行くというおそろしい計画である。金井は原図のコピーを見せられたとき、ゲラ刷りではないかと疑ったものだが、先生の講義を受けた水島によって、直筆の図であることが確かめられた。ただ、植物名など僅かなメモが付記されているだけで、図の説明はなく、種類も限られているので、散逸しないようにと記念出版にしたものである。130頁にわたる図のほか、植物名目録、著作論文一覧、略年譜があり、アルバムと関係者の回想記がついている。スプリッターとして知られる小泉秀雄先生の見解、詳細な観察眼と描画力を知る上で有用な資料である。この点からすると植物名目録は、検索を目的としたものが望ましかった。また原図の植物名のメモの読み誤りが散見されるが、これは近く正誤表をつけるとのことである。本年6月に刊行されたが、先生の命日に合わせて出版日付は1995年1月18日となっている。
小泉秀雄先生は京都大学名誉教授小泉源一氏の実弟だが、家庭の事情で兄は大学へ進み、弟は農林高校を中退せざるを得なかった。独学と検定によって教員免許を得、のち共立女子薬学専門学校教授となられたが、1945年胃癌のため亡くなれた。この間、1911-1920年を北海道各地で、1920-1933年を松本ですごし、寒地植物の詳細な観察による膨大な資料を蓄積された。ことにタンポポ属、オトギリソウ属に関心をもたれ、新種の記載をされた。標本の多くは国立科学博物館に入っている。また松本時代には横内齋氏はじめ、多くの在野の植物研究者を指導し影響を与えられた。なお、木村敏朗氏から清水氏への私信によると、タンポポ属の図は昭和10年頃の本誌に掲載されたものだとのことである。
[植物研究雑誌70(6):348(1995)]
□神奈川県植物誌調査会:籾山泰一先生論文集―卒寿記念―
293pp.1994.同会.¥3,000.
本年卒寿をむかえられた籾山泰一氏の記念出版である。籾山氏は太平洋戦争の前後に資源科学研究所に勤務されたほかは、いわゆる研究機関には所属せず、自由な立場で独自の研鑽を進められた。とは言っても殻にとじこもるわけではなく、東京大学や都立大学の依顧に応じて標本整理を支援され、誰にもへだてなくその薀蓄を披露された。これは神奈川県立博物館でも同様だったときく。あのナフタリン臭い標本室へ、しかも暖房なしの冬場でも、ほとんど1日中とじこもって仕事をしておられたのを記憶している。はじめの4頁に履歴、採集地が簡単に記録されている。続く6ページは思い出話しで、二子の谷のこと、サクラバハンノキのこと、資源研のことなどが独特の語りくちのまま写しとられている。著作目録には単著87点、共著6点、分担執筆6点がリストされ、氏の発表した植物名のリストが続く。以降が論文集の主体で、作品のほとんどが採録されている。ただ原著の組版の関係で、頁づけが途中で反転しており、やむをえないことだがまごつかされる。表舞台に出ようとしない碩学の作品を、一挙に目にすることができるようにして下さった編集委員の労を多とする。
[植物研究雑誌70(2):122(1995)]
□林 孝三:私の研究履歴書―昭和植物学60年を歩む―
267pp.1996.林孝三先生記念出版会.非売品.
1995年2月6日、86歳で亡くなられた著者が、死の直前まで執筆されていた原稿を、遺族、後輩の手でまとめて刊行したものである。「日本植物学会百年の歩み」の同氏作の年表でわかるように、林氏の記録の丹念さはつとに知られているが、本書はそのすべてを動員した周到な計画で書き進められ、脱稿寸前で余人が手を加える必要はなかったという。昭和という動乱期を生きた研究者の心情が余すところ無く吐露されており、同時代の者にとって一読巻を措くあたわず、という本である。自己の研究の詳細な流れを軸に、こういう場でないと語りえない人物評や、岩田研究所、資源科学研究所、遺伝学研究所、教育大学、学術会議などの裏話が随所に記述されている。定年間際の筑波大移転にまつわるくだりは、著者の書き遺したかったことだろう。2才の息子の病気に、自分で作ったペニシリンを試したという敗戦直後の秘話もある。個人の回想録にとどまらず、きわめて史料価値の高い、密度の濃い一書である。一口解説つきの研究論文一覧、その他の刊行物目録、年譜がついている。
[植物研究雑誌71(4):238(1996)]
□山口県植物誌の会(編):命あるかぎり―花と樹と人と―見明長門追悼選集
104pp.1996.
山口県在住の植物研究者で1996年1月5日亡くなられた見明長門氏の遺稿を、仲間の人達が刊行したものである。故人が晩年力を注いでいたササ類をはじめ、スミレ類、菌類、本草など、研究の成果がまとめられている。やりかけの仕事というものは、当人以外にはなかなかわからず、陽の目をみずに終わることが多いが、これで故人の努力も報いられたというものである。
[植物研究雑誌72(4):252(1997)]
□大阪府立大学総合情報センター:中尾佐助 文献・資料目録
159pp.1997.同センター.
1993年11月20日亡くなられた中尾佐助氏所蔵の、研究関連文献・資料の提供を受けた大阪府立大学総合情報センターが、そのすべてを情報化したリストである。同氏の蔵書については、すでに同学図書館に登録しているので、除かれている。文献、オリジナル資料(スライド、ネガ、ノート、テープなど)、研究用資料(原稿、メモ、日記など)、参照資料の4部から成る。冒頭に略歴、探検歴および梅棹忠雄氏による50年の交遊の回顧があり、故人の人柄がいきいきと描写されている。敗戦後はじめての、京都大学学士山岳会によるマナスル登山計画は、のちに日本山岳会による国家的プロジェクトになるのだが、中尾氏はその最初の学術調査隊に加わり、ただ1人で収集した膨大な標本類が、わが国のヒマラヤ植物研究の出発点となった。旅行記「秘境ブータン」によって、ヒマラヤの未知の領域への関心をかき立てられた人は多いだろう。中尾氏の提唱した照葉樹林文化という単語は、いまや人口に膾炙している。「分類学の発想(1990)」では、広範な知識に裏づけされたユニークな議論の展開が見られる。そういう異色な人物の思考の元になった資料の一覧でもある。個人のコレクションが寄贈されても、その全てを整理するということは、たいへん面倒な問題が多く、なかなかできるものではない。項目の仕分けかた、見出しのつけ方などについても、参考になることが多いだろう。頒布についてはセンターに問い合わせられたい。
[植物研究雑誌73(5):300(1998)]
□知識拓史:牧野晩成
504+x pp.1998.八坂書房.¥20,000.
野外植物研究会とそのユニークな会誌「野草」を永年にわたって支え、1997年に亡くなられた牧野晩成氏の追悼集である。120名を超える人達の文が、年代順、トピック順に並び、教育者としてまた植物研究者としての追憶が記されている。その合間に写真、図、作文、新聞記事、年表などが散りばめられ、製版の苦労もさぞやと思わせる非常に凝った作品に仕上がっている。編者は個人の孫で、死去のときには大学生だったが、祖父の仕事については何の予備知識もなかったという。どうやらこういうことに天賦の才をもつ編者が、一から始めて作りあげたもので、もっとも参考になったのは前川文夫氏の追悼集だという。晩成氏が若い頃からの資料をよく整理保存していたことも、多いに役立っている。「編集後記」と称する80頁もの別冊が付随しているが、これは編集日記を含む編者の若者らしい自由奔放な発送に満たされている。牧野晩成氏の生涯の掉尾を創る作品であり、また知識拓史氏の自分史の第一頁を飾る作品でもある。
[植物研究雑誌74(3):190(1999)]
□掘込静香(編):沼田 真・自然との歩み年譜/著作総目録
240pp.信山サイテック.¥5,000.
掘込氏は1983年にも沼田氏の年譜・著作目録を刊行しており、それを踏まえて追補充実をはかったもので、専門の司書による一個人の書誌の見本といえる。内容は年譜、著作目録、項目索引、タイトル索引、キーワード索引である。項目索引(本書では分類項目としてある)は学問分野、地域、教育関係などの項目に分けて文献を示したもので、当然のことに生態学関係の仕分けは細かくなっている。タイトル索引は和文表題のみによる仕分けである。キーワード索引は欧文表題の単語からひけるようになっている。これらの索引は文献番号によって著作目録と結び付けられている。和文単語によるキーワード索引ができるとありがたい。著作目録がデータベースとして供給されるようになれば、索引の作り方も変わってくるだろう。
[植物研究雑誌74(3):190(1999)]
□高知県立牧野植物園・日本大学生物資源科学部資料室(監):牧野富太郎とマキシモヴイッチ
183pp.2000.(財)高知県牧野記念財団 ¥2,625.
高知市五台山に新設された牧野富太郎記念館の開館記念特別展(1999年11 月)の図録である。牧野富太郎がMaximowiczに師事し、留学の意思まで持っていたことはよく知られている。そのほかの明治期の植物学者もMaximowiczの指導を仰ぐ者が多かった。本書はその交流を軸に、我が国の近代植物分類学の黎明期を、ロシア所蔵の標本や資料を主体に描くもので、小山鐡夫館長の奔走の賜物である。いずれも見事なカラー写真である。前後には日本、ロシアの筆者による解説があり、それぞれ一読に値する。巻末に日露植物学交流年譜がついている。
私は本書を大村敏朗氏からいただいた。大村氏は新刊書を多量に購入し、それを利用の見込まれる者に無料で配付するという篤志活動を永年続けてこられた。これが著者たちに利すること多大であったことはいうまでもない。その一方、配付の際に付けられる詳細かつ手厳しい批評には、煙たがる人もいただろう。私もかつて某書の刊行の際、そういうことは公開の場で行なう方がよいとやりあったことがある。しかしどこでやるにせよ、それ程よく読んで下さり、忌憚のない意見を述べていただくことが、著者のその後の活動に良い影響を与えたことは間違いあるまい。大村氏の活動は今年限りと言っておられる。永年のご努力に、この場を借りて謝意を表する。
[植物研究雑誌76(3):182(2001)]
□小山鐵夫(監)・水島うらら(脚注):牧野富太郎著・植物一家言
247pp.2000.北隆館.¥2,500.
すでに知られている本書を現代文に書換えて、多くの人達に読んでもらおうという企画である。やってみたら書換えはまだしも、博引旁証の古典の辞句はそれだけでは通ぜず、たくさんの注釈をつけねばならないことになった。とくに、原本自体が急いで刊行され、校正に十分時間をかける間がなかったという事情から、誤字脱字が多く、その詮索にも手間ひまがかかったようだ。そのほとんどの作業は、水島氏の手になるとのことである。こういう「古典」を人々にわかり易く…という趣旨は歓迎だが、出版社はもう少し落ちついて作業してほしい。今回も校正が不十分だったようで、配付された本には40件を超える正誤表がついてきた。それと、こういう本に索引がないというのは、出版企画として考えものである。
[植物研究雑誌76(2):124(2001)]
□森 和男:誰がスーリエを殺したか1
みねはな(50):122-203.2003.
みねはな会は関西を本拠とする山草同好会で、このたび創刊50年記念号(273頁)が刊行された。多くの記念投塙の中から、東亜植物に関係の深いプラントハンターJ.A. Soulieについての表記の一文を紹介する。森氏は丹念な文献探索に加えて、度々の現地調査を行なった結果を、彼独特の筆致で記述している。長い前置きの中では、文中に登場する29名もの人物(日本人では雲南奥地で殺害されたと言われる能海 寛を含む)の簡潔な紹介、関係地名、政治情勢、当時の報道など、たくさんの情報が記述され、これだけでも当時の情勢、とくに西欧列強の進出に伴う現地の動きがわかる。
文末に四川・雲南・チベット辺境地区年譜(1624-1914年)、利用した文献一覧がある。欧米関係文献の原典は少なく、それらの訳本はかなりたくさん参照しているが、むしろ中国内の文献を多量に利用し、日本国内の出版物を併せて用いている点、自分らの都合のよいように記録された欧米出版物からの翻訳による偏向を排除しようという、著者の気の入れ方が一通りではないことをうかがわせる。まだ続きがあるはずなので、期待したい。なお本号には里見信生氏、久保田秀夫氏の追悼文、1-50号の著者別総目録(約1,600件)も含まれている。
[植物研究雑誌78(5):314(2003)]
□高山龍三(編著):展望河口慧海論
348pp.2002.法蔵館.¥3,800.
われわれにとっては、ヒマラヤ・チベットの植物を最初に持ちかえった探検家・求道者として知られる河口慧海氏の全貌を、余すところなく記録、解説したものである。1. 河口慧海賛論、2. 国内の著作に見る河口慧海、3. 河口慧海に関する著作集成、4. 河口慧海に関する著作一覧、5. 河口慧海に言及引用の外国文献解題、6. 河口慧海の著作、7. 河口慧海編年誌より成る(番号は紹介者がつけたもの)。1897-1903年、1904-1915年の河口氏の2度にわたるネパール・チベット入りは、世界的にみても画期的な事件で、1915年9月の第2回入蔵後の帰国は、当時世界的名声を得た野口英世氏の帰国と前後したためもあって、新聞紙上でもてはやされた。反面、外国では当初から高い評価を受けたにもかかわらず、国内では彼の業績が計りがたかったためもあり、毀誉褒貶が入り乱れた。第2次大戦後、川喜多二郎氏らによる業績の「再発見」(第1章)と、その後の編者らによる丹念な探索の結果、今日では河口氏の多方面にわたる業績の評価は動かしがたいものとなっている。第2章はその変遷をたどるものである。第3章は、今日では入手困難な当時の原文を採録し(ずい分悪口も書かれている)、第4章ではその元になった文献をリストしてある。第5章には88件の文献(河口氏の英文著作を含む)について要約がついている。ヤングハズバンドやヘディンなどが、チベット人の中で生活した河口氏の情報を、引用せざるを得なかったことがうかがわれる。戦前と戦後を比較すると、1945年以降の文献が戦前の2倍以上あり、河口氏の業績が今なお利用されていることを示している。第7章も詳細をきわめ、あわせてチベットやネパールで同氏と接触のあった日本人の消息も知ることができる。植物分類学的情報を特に含むわけではないが、先覚者を理解するうえで一読をおすすめする著書である。一個人の評伝が、こんなに面白いものになるとは知らなかった。その理由は、河口慧海氏の破天荒な行動と、編著者の永年にわたる丹念な調査研究のたまものである。
[投稿中]
□本間建彦:「イチョウ精子発見」の検証 平瀬作五郎の生涯
B5版.292pp.2004.新泉社.¥2,300.
わが国の近代植物学発展の初期、平瀬作五郎によるイチョウの精子発見は、植物系統学上の世界的な業績として知らぬものはいない。彼は東大理学部の図工だったが、用器画の教科書を出版するなど、その方面でも知られていた。ところがイチョウの業績発表の後、彼は東大を辞職して中学校の教師となり、その後は研究者としての仕事はほとんど見られないまま終わった。退官前後の事情は謎に包まれたままである。著者はノンフィクション作家としてこの点に関心を持ち、多くの資料を猟渉して推理を積み重ね、本書を公表したものである。
前半は平瀬の生い立ちから東大へ勤めるようになるまでに、彼の精神的成長に影響を与えた諸事件、とくに武士社会の崩壊、黒船による開国、明治維新などの時代背景が丹念に描写されている。後半はイチョウの精子発見のいきさつ、平瀬をとりまく人々の動き、退職から晩年までを物語る。ノンフィクションだけあって、普通の小説ならたくさん登場するであろう人物の架空の行動や心理描写は一切なく、著者の推理のみによって話が進行する。著者がしばしばこぼしているように、平瀬は自分の個人記録を残しておらず、周囲の人々による資料もほとんどない。彼の墓もどこにあるのか分からず、菩提寺とみられる福井の寺も戦災で焼失しているという。
同じ頃起こった矢田部良吉の非職とともに、平瀬作五郎の退官の事情は謎に包まれている。私も昔、国立科学博物館植物研究部に保存されていた個人の往復書簡の中に、その間の事情を知る手がかりがあるかと探ったことがあるが、得るところはなかった。本書は栄光と挫折を身をもって体験した平瀬作五郎氏の業績を、改めて想起する資料としてお薦めする。
[植物研究雑誌80(4):259(2005)]
□山本正江・田中伸幸(編):牧野富太郎植物採集行動録
明治・大正篇, 200pp., 2004;同昭和篇, 208pp., 2005.B5版.高知県立牧野植物園.¥5,700.
牧野富太郎博士の日記を軸に、採集標本ラベルをはじめ、田代善太郎日記、根本莞爾伝などの資料から抽出した情報を元にして、博士の行動を日単位で記録したものである。編者の山本氏は、東京都立大学牧野標本館で、永年にわたって牧野標本の整理にたずさわってきた。牧野標本館では設立当初から、わが国ではじめてカードシステムを採用し、1点につき1枚のカードに標本情報を記録してきたが、標本につけられた走り書きのメモの解読に非常に苦労したと聞いている。また産地が読み取られたとしても、それを地図上に特定して位置情報化するに足る記述が伴っていないため、同じ地名があちこちにあってどこだかわからないというジレンマも少なくなかったようだ。この日記がそういう問題を解決する鍵になると、山本氏が考えたのはもっともである。実際この日記によって、ラベルの記録を訂正することができた例もあるという。
日記自体の解読も、そうたやすいことではなかったという。田中氏は牧野植物園にあって、一般の質問に対応するためにも日記の利用が必要であることを実感し、山本氏に協力して編纂にたずさわった。中にははがきの消印から場所や日時を特定したケースもあるという。
お二人の努力と多くの方の協力により出来上がった本書は、牧野博士の行動の記録にとどまらず、彼と交流した人たちの足取りを記録するものとして、多方面の利用が期待される。私は覗き見しただけだが、明治29年に台湾での採集に先立って、ピストルと弾丸50発を購入との記事が目にとまり、当時の調査にそれほどの覚悟が必要だったことを、あらためて認識した。
[植物研究雑誌80(6):363(2005)]
□清水敏一:大雪山の父・小泉秀雄
A5版.438pp.2004.北海道出版企画センター.¥4,725.
植物分類学の研究者として、全貌があまり知られていなかった小泉秀雄氏の人物像を、多くの資料を発掘しながら明らかにしたもので、同じ著者の「大雪山わが山小泉秀雄」「小泉秀雄植物図集」に続く決定版である。前半は小泉の生涯を物語ると共に、大雪山の開発や研究に果たした小泉の大きな業績が詳細に語られる。後半は南アルプス、北アルプス、千島などにおける小泉の調査行である。これらは主として小泉の野帳に基づいて横内齋氏が謄写印刷した記録から抽出したもので、この地域の小泉の活動が活字になったのははじめてのことだという。自ら恃むところの多かった小泉の、論敵に対する強烈な表現が各所に見られる一方、彼を指導者と仰ぐ人達も少なくなかったことも知られる。成果と追録という終章があり、国立科学博物館に引き取られ、標本化が進行中の小泉標本の現状や小泉の遺族について記述されている。小泉は三度結婚し、それぞれ子をもうけているが、消息がわからなかった人たちが、前著の出版を期に判明し、その家族を大雪山小泉岳に案内する記事で結ばれている。著者は登山史家で、とくに大雪山に関心が深いので、登山、探検、地図、日程などに主題が置かれ、小泉の野帳の多くを占める植物名の羅列は省略されているが、独学で孤高の境地を築いた小泉秀雄氏を知る、絶好の著書である。なお小泉ミサオ夫人は2004年6月17日、102才で亡くなられたという。年譜、著作論文一覧(160篇)、人名索引がある。人名については本文の各所に略歴や業績を交えた注記があり、自然史関係ばかりでなく実業家や文人墨客を含む多くの人物が紹介されていて、これはこれで興味深い。同じ著者による「知られざる大雪山の画家・村田丹下」(北海道出版企画センター2003年)があり、ここにも小泉の名が各所に見られるので、合わせて参考になる。
[植物研究雑誌79(6):382(2004)]
長野県の植物を語る上で小泉秀雄氏の業績は欠かすことはできない。しかしながら彼の人物像や経歴については、あまり明らかになっていなかった。とくにその植物学上の成果を専門誌や同好会誌に発表することが少なかったため、評価されにくいうらみがあった。
著者は山岳史家として、とくに大雪山について集中的に研究し、「大雪山文献書誌」4巻を公表している。その過程で、小泉が大雪山登山・開発の文字通りの先駆者であり、彼が命名した山名が参謀本部の地図に取り込まれ、今日に至っていることを明らかにした。そして上記書誌と前後して、「大雪山わが山小泉秀雄」正・続を公表している。その資料取材の目的で訪れた東京都小金井市の小泉家で、遺品である膨大な数の、極めて精細な植物図が死蔵されているのを知り、これを世に出そうと、小泉の最後の職場であった共立女子薬専の卒業生の協力を得て、「小泉秀雄植物図集」を刊行した。
本書はその後の資料調査の成果を取り込んだ、小泉秀雄研究の決定版である。六章から成り、一.小泉秀雄の生涯、二.大雪山調査行、三.南アルプス調査行、四.北アルプス調査行、五.千島エトロフ島調査行、六.北千島調査行の見出しがついている。第一章は誕生から学歴、職歴、結婚歴を含んで死に至るまでの詳細な記録である。家庭での苦労をかかえながら、大雪山の調査とその成果発表に取り組んだ旭川時代、1920年にはわずか二ヵ月の間に旭川から高知を経て松本へと謎の転職、大雪山の山名についての大論争など、話題に欠かない。第二章は著者の本領である、大雪山開発に果たした小泉の役割が語られ、ここ迄で全巻の2/3を費やしている。小泉は家庭では物静かな父親であり、教えを乞う者には親身な師であったが、いざ論争となると、歯に衣着せぬ激烈な論調で、相手を辟易させたようだ。これは松本時代にも発揮されている。とくに権威に対する反発は強烈だったらしい。
第三章以降は松本に定着してからの小泉の活動を記すものだが、小泉自身の記録は極めて乏しいという。これに代わるものとして、横内齋氏の発表した「山野巡歴」、「千島エトロフ島植物調査紀行」、「北千島植物採集行」、「日本南アルプス寒地植物誌」「日本中央アルプス植物誌」などが利用されており、なじみのある方々のお名前もたくさん登場する。横内氏は小泉の野帳を丹念に掘り起こして謄写出版されたが、中にはそれが唯一の公表資料だというものもあるそうだ。彼は休む間もなく採集旅行に出歩き、出先から押し葉を送ってきて、それを乾燥させるのはミサオ夫人の役割で、吸湿紙を屋根にまで拡げていたという。
成果と追録と題した終章があり、国立科学博物館に引き取られ、標本化が進行中の小泉標本の現状や小泉の遺族について記述されている。小泉は三度結婚し、それぞれ子をもうけているが、消息がわからなかった人たちが、前著の出版を期に判明し、その家族を大雪山小泉岳に案内する記事で結ばれている。独学で孤高の境地を築いた小泉秀雄氏を知る、絶好の著書である。なお小泉ミサオ夫人は2004年6月17日、102才で亡くなられたという。年譜、著作論文一覧(160篇)、人名索引がある。全巻に写真、地図、ノートなど、多くの資料映像がちりばめられ、自然史関係ばかりでなく実業家や文人墨客を含む多数の人物が紹介されている。同じ著者による「知られざる大雪山の画家・村田丹下」(北海道出版企画センター.2003年)があり。ここにも小泉の名が各所に見られるので、合わせて参考になる。
[長野県植物研究会誌(38):143(2005)]
□大場秀章:大場秀章著作選Ⅰ 植物学史・植物文化史
A5版.419pp.2006.八坂書房.¥4,800.
本年4月で定年退職する著者の多くの作品を、あらためて整理し書き改めたもので、2巻となる予定である。本巻では植物学史、植物文化史関係を扱ったもので、初出一覧によると22点の作品から抽出されている。第1部、植物学における知の体系化、第2部、日本近代植物学への架け橋-江戸・明治の巨人たち、第3部、日本の植物に魅せられた人々、の3部より成る。第1部では、分類という作業の発展にともなう命名の必要性から、学名の誕生と発達、それを裏付ける標本と標本館の意義、転じてヨーロッパ本草書の紹介と評価におよぶ。第2部は江戸末期から明治へかけて、日本の近代植物分類学の発達にかかわりを持つ本草家、研究者、植物画家の紹介である。第3部では第2部との関係で、ヨーロッパ植物学を日本へもたらし、また日本植物を世界に紹介した人たち、ケンペル、ツュンベルク、シーボルト、ミクエルの業績の再検討がなされている。著者はまえがきに「既知の文献・資料を活用して、私なりの解釈や評価を述べたに過ぎない」と記しているが、文中至る所にそういう解釈や評価が散りばめられ、博引旁証、各章の参考文献や注記は240件を超える。非常に読みでのある1冊である。Ⅱ巻は植物分類学・植物地理生態学と題するものだそうで、期待される。
[植物研究雑誌81(4):253(2006)]
□大場秀章:大場秀章著作選Ⅱ 植物分類学・植物地理生態学
A5版.443+43pp.2006.八坂書房.¥4,800.
選集Ⅰは文化史にかかわる話題だったので、通して読めたが、このⅡでは1. 極限に生きる植物、2. 生態系の保全と植物学、3. 日本の自然と植物の多様性、4. 植物の分類と生物地理と分かれていて、著者の40年にわたるさまざまな年代の作品が集成されているので、通読するよりは拾い読みの方が適しているかも知れない。1. ではヒマラヤをはじめ各大陸の高山帯の植物についての知見、2. では環境の変動に伴う野生植物の保護の現状と方策、3. では日本の植物的自然のあり様、4. ではいくつかの分類群についての見解とその手法についての論考が集められている。主要著作一覧として和文129、欧文111編の著作、論文が挙げられており、これで「主要」なのだから、著者の多才ぶりに驚かされる。初出一覧、事項索引、植物名索引がある。
[植物研究雑誌81(4):253(2006)]
□神奈川県植物調査会:小原 敬先生著作集
A4版.280pp.2007.同会.¥1,500.
小原 敬氏は神奈川県を中心に活躍しておられるが、それよりも科学史やとくにロシヤ語関係文献に詳しいことで貴重な存在である。1921年生まれの小原氏の活躍を記念して、このたびその著作集が刊行された。まず10名を超える方々による賛辞に続いて小原氏がその出自を簡潔に語っている。出生はアメリカだが小学生時代に満州へ移り、戦争、敗戦とご苦労を重ねながら藤沢に落ち着いたことが、略歴と共に読み取れる。著作目録では全作品242点が年代順に示されている。これに続く本書の主部では、Ⅰ.研究論文、Ⅱ.地域への貢献と分けて、作品のおそらくすべてが採録され、ところどころには小原氏の手書きの修正が見られる。巻末に研究史関係論文に出てくる人名の索引がある。このように個人の業績が一冊に集積され、履歴や背景説明が付加されると、あらためてその方の全貌を見直すことになり、感銘を受ける。
[植物研究雑誌82(4):248(2007)]
□大場秀章(編):植物文化人物事典
A5版.632pp.2007.日外アソシエーツ.¥7,600.
副題は「江戸から近現代・植物に魅せられた人々」であるが、英文表題のA Dictionary of Botanists and Persons Concerned with Japanese Plantsの方が、内容をよく表していると思う。われわれが常識的に考える「学」の範囲を取り払って、実業、芸術、趣味、政治と、職業や分野を問わず、とにかく日本の植物に関係を持った人物1,157名の銘々録である。外国人も多少混ざっているが、ほとんどは日本人である。内容は氏名、その読み、生没年月日、肩書、出生地、親族、学歴、師弟、所属団体、受賞歴などの羅列の後に、経歴や業績が文章体で述べられている。この文章の部分は簡潔ながらもかなり突っ込んだ表現で、つい読まされてしまう。これに続いて著作、評伝が列記されているが、人によってはずい分詳しく、たとえば白井光太郎では64件も挙げられている。編集にあたった大場秀章氏の努力を多としたい。
このように多方面な人物を拾うのだから、当然ながら欠落も目につき、あってよい筈の人物や書かれてよさそうな業績が載っていなかったり、生没年が不明だったりという例は少なくない。私もこの紹介文を書きながら、自分の記録とつい引き比べてしまうので、書くのにとても時間がかかってしまった。はじめから完璧を求めるのは無理だから、気付いた利用者は随時追加訂正を入れて行けばよかろう。対象は物故者なのだから毎年増える。だから出版社としては、こういうものを作った以上は、そういう訂正追加の受け皿を作っておいて、何年おきかに改訂版を作ることを考えてはどうだろう。近頃はプライバシーとやらで、こういう「個人情報」を他人が取得することがたいへん難しくなった。国立科学博物館では、毎年作って配布していた職員録を作らなくなってしまったし、転居先などを簡単には教えてくれない。私は氏名・年齢・性別・住所・電話番号のたぐいは個人を特定するマーカーであって、「個人情報」ではないと考えているのだが、都合の悪そうなことを隠したがるお役所や企業やはては個人までが、「個人情報」という単語を黄門様の印籠のように利用する。「個人情報」には公的な定義がなく、お役所の各部局が勝手な解釈で使っているということは、法制局も総務庁も認めている(日本植物分類学会ニュースNo.93(1998))。本書に「個人情報」を書かれたことに文句を付ける人が出ないとも限らない。マスコミ側は、それに対して毅然たる態度をとれるのだろうか。
[植物研究雑誌82(4):248-249(2007)]
□清末忠人:わたしの歩み―清末忠人研究集録
B5版.348pp.2005.¥2,500.
亡くなった友人の勧めにより作ったと前書きに書かれていて、作品49点を再編集してスタイルを統一し、読みやすくなっているのだが、ご自分がまとめたものだけに、個人的感想や意見はあとがき2頁と略年譜1頁にとどまり、もっと書いておいて下さればよかったのにと思う。とくに1931年のお生まれから今日に至る途上の社会的背景は個人ごとに異なるので、読む人の参考になるのではないだろうか。次の機会にはお願いしたい。しかしこうしてまとめられると、植物だけのおつきあいと思っていたのに、動物や菌類まで広範囲に研究されていることを知り、認識を新たにした。
[植物研究雑誌82(4):249(2007)]
□清末忠人:自然と教育を語る―思い出をたぐって
A5版.641+20pp.2007.自版.¥3,000.
先に清末氏の「わたしの歩み-清末忠人研究集録」の紹介をしたとき、自選集では物足りない旨を表明しておいた。同感の人が多いようで、あとがきによると「(前回同様)友人にすすめられて…」130篇の作品が集録され、喜寿の記念出版となった。永年教育界にあった著者だけに話題は広範で、植物・動物はもとより、自然保護、歴史、民俗、教育・行政にまで及ぶ。1952年の鳥取大火で、それまでの資料すべてを焼失したとのことで、集録されていないが、いずれそれらを発掘する動きもおこるのではあるまいか。
[植物研究雑誌82(6):365(2007)]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
〔花の美術館〕カテゴリリンク