ナマエを作ったり変えたり数えあげたりするより、ナマエの箱の中にいろんなものを放り込もうという私の説に賛成するとしても、一体何を入れればよいか、とまどう人も多いようだ。我々の見ている植物体はもう何もかもわかってしまっていて、微視的な見方を除けば調べることはなく、生態的な見方とか、どこに生えているとか、いつどうしたとかいうことにしか観察対象が無いと思っている人が、意外と多いのではなかろうか?そんなことは全然ないのであって、見て記録してゆくと、これ迄十把ひとからげに教科書で教わった(あるいは自分が現に教えている)形態学的事実でさえ、どうもそればかりではないらしいということがいくらもありそうである。そんな中から話の種を提供しておくのも、無駄ではあるまい。私自身こういうことを突込んで調べているわけではないので、他人のうけ売りや、ちょっと見ただけというものばかりだから、流し読みして、面白そうなら自分で調べていただきたい。多くは科学博物館へよせられる質問に発端がある。
「ヘチマのつるは右巻きか左巻きか?」ときかれたことがある。教科書会社が小学校向けの本にのせるのだそうだ。私の反問は「そんなクダラないことを、何故小学校で教えねばならないのか?」である。会社のコモンのえらい先生が、こういう基本的なことは早く教えるべきだというのだそうだ。私は回答しないことにした。つるの巻さ方には2通りあることはわかっていた方がよいだろうが、これは実は、あらゆるラセンの巻き方が2通りあるということであって、植物のテーマではない。ましてそれが右巻きか左巻きかということは、ナマエのつけ方の約束だけの問題であり、特に植物では確定しておらず、本質的な問題とは思われない。うっかり返事をすると「科博の先生がこう云った」と権威づけに利用されるだけだろう。会社の云うには「右か左かということのクダラなさはお説の通りかも知れないので、テキストを検討する。しかし、さし図をかくのに、どういう風に巻きついているのか知りたい」ということになった。時は冬の最中で、外へ行って見てこいと云うわけにはゆかない。ウリ科種物だから、つるは途中で反巻するだろうが、そもそもの始めのまきつき方がどうなっているのか私は知らない。そこで亘理氏の植物写真集だの、朝日植物百科だのをのぞいてみたが、どうもハッキリしない。そのうち「ヘチマのつるはみな同じ方向に巻く」のかどうかも心もとなくなって来た。へチマの巻きひげは基部で2〜5本に分かれている。もし異なる方向に巻くのなら、つるの位置と巻き方と関係があるのではないか?こんなことを考えたのだが、いざ確かめようとすると、なかなか適当な場面に行き当たらない。そのうちに時期が過ぎて、2・3年たってしまった。
今度この作文を書くので、近所に植えてあるのをつまんで来て調べたのだが、図1の通りで決まった巻き方などありそうにない。そのうえ、1本のつるの途中で何度も逆転が起こっている。「巻きひげは途中で1回巻き方が逆転しており、これはつるが一方向にのみねじられてねじ切られてしまわない合理的な方法だ」とよく書かれているが、こう何度もでたらめに逆転しているのをみると、それほど「理性的」とは思えなくなった。
[野草47(377):66-68(1980)]
(2)
「アサガオのつるは左巻き」というのが、近頃の大勢のようだ。その根拠は「生長方向から見て先端が時計廻りの方向にのびて行くのが右巻き」という定義による。一方、巻貝では「生長方向へ向かって時計方向に巻くのが右巻き」である。巻貝の見方でアサガオを見ると、これは右巻きである。つまりこういう定義のし方では、視点を変えるとナマエが違ってしまうのである。どちらにせよ「これこそ本質的で変えようがない」という確固たる根拠があるのならそれはそれでよいのだが、これは単なる申し合わせにすぎない。悪いことに、違うと云っても2通りしかないものだから、ひとつ違うと天地がひっくり返ったような大事件に感ぜられてしまう。こういう「感じ」が、この現象を「基本的」と思わせる理由なのだろう。
もし巻いた茎の一部分だけ持って来られると、芽のつき方や毛の生え方などで生長方向がわからない限り、どっち巻きか決められない。同様に、図1Bのように針金を巻いたラセンに矢印をつけたものは、Aの方から見ると(巻貝の見方)右巻き、Cの方から見ると(アサガオの見方)左巻きとなり、矢印をとり去ってしまうとどっちか決められないことになる。ところが、少しでも機械をいじったことのある人なら、矢印が無くともこのラセンは右巻きであると直ちに云うだろう。ということは、別な定義のし方があるということである。それは「右ネジと同じラセンは右巻き」というものである。これだと「生長方向」だの「時計廻り」などという高度の判定要素は必要なく、どこにでもころがっているネジとくらべればよいし、見る方向や角度でナマエが変わることもない。
ラセンというものは大変面白い研究テーマで、古来いろいろと論じられているが、巻き方のナマエのつけ方には何の根拠もあるわけではない。要するに、ふつうの人間の心臓のある側を何故左倒と云わねばならないかという問題と同じで、議論しても決着はつかないのである。何故そうなのかをここで論ずるのは『野草』にふさわしくないが、ガードナー『自然界における左と右』(坪井・小島訳 紀伊之国屋書店[紀伊国屋書店])という本があるので一読をおすすめする。木原均氏もこの問題に興味をもたれ、いろいろ論説したり実験されたりしておられる。例えば実験ではコムギの葉序のラセンの向きは、発芽の際に種子がどっちの側(種子にも前後左右がある)を下にして横たわっていたかで決まることを示している。またラセンの名付け方についてもネジとの対比に言及している。ラセンの名付け方については私もネジとくらべるのが最も簡単だと思うので、今後は従来の名付け方にとらわれず、断りなくネジの左右と同じ呼び方を用いる。つまりアサガオは右巻きである。「あまりいろいろな定義を出されても、単に右巻き左巻きと云った場合、どの定義によっているのかわからないで困る」と文句が出るに違いない。ここでも植物におけるナマエの問題と同じように、ナマエに著者名を付けないと解釈がわからないというようなことが起こるのである。だが、今の場合にはナマエを用いないで「右ネジと同じ巻き方」と云えば片付いてしまうだろう。
「生物学は遅れているから、こういう基本的なことがいつ迄も決まらない。そこへゆくと工学や物理化学は…」などと感心しなくてもよい。例えば旋光性だが、これは「平面波が進行方向から見て時計廻りに廻るのが右旋性」となっている。「アサガオは左巻き」と同じ決め方で、実際には右旋性の平面波が作るラセンは左巻きなのである。とにかくすべての立体ラセンの巻き方は、これで簡単に定義される。
ラセンの巻き方の名付け方は、これでみんな片付いたかというとそうではない。蚊取線香の巻き方はこれでは決められない。というのは、蚊取線香は裏返すと逆の巻き方になってしまうからである。高気圧周辺の風向は右巻きといわれる。これは天気図上、つまり地球を外から見下ろした時の話であって、地上からこれを見上げれば、風の作る渦は左巻きである。それどころか、「犬のシッポは上巻き」と云うことさえできる。たとえば、サルトリイバラの巻きひげがまだ若くて、巻きつく相手に出合っていない時などは、こういう呼び方をしても文句は云えないだろう。
[野草47(378):82-83(1980)]
(3)
植物において平面ラセン的なものに、花弁の重なり方がある。例えばAのような重なり方があると、ふつうは右巻きと呼ばれる。その定義は「花弁上を指でなぞって行って、反対側へぬけ出てしまわないような方向が時計廻りなら右巻」である。この花をつけ根から切って裏からなぞっても元通り右巻きで、蚊取線香のように逆にはならない。ところがこの花がつぼみの時に上の定義をあてはめると、これは左巻きということになる。
こういう違いは花式図を描いてみると理解し易い。(図−1)Aの並び方はCに相当する。花弁の並びをなぞるということは、その内側をなぞることである。つぼみをなぞるということは、外側をなぞることなので、向きは逆になる。花を裏返しにするということはDの図になるが、それをなぞることは外側をなぞることなので、逆の逆となって元と同じ巻き方ということになるのである。本来は同じラセン配置なのに、見方によって見え方が違ってしまうような定義のし方では、この種の現象の記録には不適当である。「花の開いたところを標準にして、常に上から見ることにすればよい」とする意見は強いだろうが、私には賛成できない。というのは前回で述べた通り、「上」だの「生長方向」だのというファクターは必ずしも対象に具わっているわけではなく、またあっても判断しにくいことがある。そのうえネジとくらべるという簡単明瞭な、しかも共通性の高い決め方があるからである。例えばアオミドロの葉緑体や、レンコンの糸の巻き方などは、こうでもしなければ決めようがあるまい。ついでながら、アオミドロの葉緑体を顕微鏡と虫めがねを用いて見たとき、両者の像は逆の巻き方に見える筈である。
花の諸器官は葉の変形であると教えられて来た。つまり、非常に短縮した茎に変形した葉がたくさん着いているということである。そうすると、葉の並び方(葉序)と同じ見方で花被の並び方をとらえられないだろうか?葉序は最も認識しやすいラセンなので、これと同じに解釈できれば記録にも理解にも楽なことだろう。1つそういう見方を試みてみよう。
その前に、記録に欠かせない用語について検討しておかねばならない。AやBはふつう回旋状とか片巻きとか呼ばれ、convolute(convoluta)という述語が当てられているが、Stearn『Botanical Latin』やDaydon&Jackson『Glossary of Botanical Terms』を見ると違う。AやBはtwisted(torsiva)と呼ぶべきで、これに対する日本語が存在しないようである。twistedはAやBの配置で、かつ花被にゆがみが無いものに用いられる。花被がゆがんでいるとcontorted(contorta)と呼ぶ。convoluteというのは1つのものが他のものを完全に巻き込む場合で、Eのようなものである。(図−2)その例として、アブラナ科のニオイアラセイトウ(Cheiranthus)やエゾスズシロ(Eythimum)の花弁があげられている。この他にも、我々が普通に用いられている形態用語には、本来のそれと異なった解釈で用いられているものがあることは、その都度注意することにしよう。ついでに云うと、「花被の重なり方」にはaestivationという語が用いられているが、この単語にはこの他に「芽の中の葉のたたまれ方」、「夏眠」などいろいろに用いられ、しかも「花被の重なり方」を意味する日本語の述語が無いのである。「葉のたたまれ方」に対して葉層、芽層、幼葉態などという語があり、「葉の並び方」に対しては葉序という立派な用語があるのにくらべると何とも淋しいことである。つまりあまり研究対象にされたことがないということなのだろう。
さて、葉序と同じ見方で花弁の重なり方を見るとどうなるか?先のA、Bは後廻しにした方が都合がよいので、かわら状(imbricate…これも後で説明し直さねばならない)の5弁花をとり上げる。まずどれか1番下に来る花弁を基準とし、これを1と名付けておく。(図−3、F)5枚の花弁が等しい角度で並ぶには1/5、2/5、3/5、4/5の4通りがあるが、4/5は1/5の逆廻り、3/5は2/5の逆廻りと思えばよいから、1/5と2/5だけ考えればよい。この内1/5はA、Bに似てくるので、後廻しにする。
さて右廻りのみ2/5だと、2番の花弁の位置はGのようになり、続いて3、4、5を加えるとそれぞれH、Ⅰ、Jとなる。こういう花冠では「指でなぞって裏側へ出ない」などという定義では調べようがないので、どっち巻きなどという問題は意識にのぼらないが、ちゃんとラセン配列として説明がつく。この配置は左ラセンとしても説明できる。1から始めて前と反対方向へ角度を3/5ずつとればよいのである。葉序でも同様に2通りの解釈ができる。こういう場合、「分子の小さい方をとる」と決めておけば一義的に決まる。
[野草48(379):2-4(1981)]
(4)
Jの並び方は2/5の葉序を押しつぶしたものと同じである。花式図で示せばKである。注意すべきは、いくら押しつぶされても花被のつく位置(節)の上下関係は保存されていることである。換言すれば、花被の発生に時間的な前後関係があることになる。
ところでこういう配列を何と呼ぶのだろうか?「かわら状」(imbricate)と何の気なしに呼んでいるだろう。ところが、大井『日本植物誌』や広川書店『最新植物用語辞典』ではimbricateはLのように示されている。Kでは1番下(外側)に来る花弁が2枚あるが、Lでは1枚しかない。imbricateというのは、1番外側と1番内側が1枚ずつのものをいう。つまりLである。「かわら状とは、花弁の隣同士との関係が、一方は上に、他方は下にあるような配列」と説明されている本が、我が国のにも外国のにもあるが、これではAかB(前回参照)になってしまうから、誤っていると云わねばならない。ところが、花弁数が5枚でなく、多数になるとこの定義は生きてくる。キク科の総苞片の並び方などは、明らかにこの意味での「かわら状」(imbricate)なのである。
さてKの並び方は何と呼ばれるか?quincuncialという聞きなれぬ術語を用いねばならない。久内清孝氏の御教示によると、この訳語として三輪・池田『植物用語新辞典』(1942)に交互覆瓦襞、五点性というのがあるとのことである。また佐竹『植物の分類』では梅花状となっている。いずれにしても聞いたことのある人は少ないだろう。五弁花の最も普通な並び方に対してこれである。
次にAやBのでき方の説明を試みよう。図を見ると1/5の葉序を押しつぶせばできそうである。試しにやってみると、Mのように今までとは異なったものとなる。MとCとでどこが違うかというと、1と5の重なり方だけである。Mをながめると先のimbricateの定義にあてはまることがわかる。従ってこれはimbricate「かわら状」と呼ぶべきだろう。ところが同じかわら状でもLとMは明らかに違うのに、これらを区別する術語が無いのである。
さて、MとCの違いは花弁1と5の重なり方の違いだけなのだが、これはささいな問題ではない。これ迄の話では、花被がつく節の上下関係が保存されることを前提とし、花被の重なり方はそれを表すものと解釈して来た。だから、Mの1と5は隣り合っていても、実際は5レベル違っていることになる(図N)。Cのように5が1の外側に来るためには、両者が同レベルか5の方が下位に位置しなければならない。下位にするのは無理だから同レベルと仮定すると、他の2、3、4の花弁も1、5と同レベルということになる。つまりAやBの5枚の花弁は、1/5の互生に由来するのではなく、すべて1つの節から出た輪生と考える方がよいことになる。(図O)換言すれば、発生に時間的前後関係がないと考えるのがよいのだろう。ラセン配置の説明としてとりつき易かったAやBには、実はラセン配置は無かったということになる。
[野草48(380):18-20(1981)]
(5)
「twisted(torsiva)やcontorted(contorta)は輪生に由来する」という解釈は、これだけで済ませるわけにはゆかない。もしOのように同じレベル5ケ所で同時に発生が起こり、花被片がそれぞれ横に成長すれば当然隣同士がぶつかることになる。その時どちらが外になるか内になるかは、偶然に支配されると考えるのが自然だろう。ぷつかる場所は5ケ所あるから、Cのようになる可能性は2の5乗回に1回(1/32)である。従ってある種の花がすべてCのような配置になるということは、それが偶然の結果とは考えられないので、何か説明を与える必要がある。私はPのように原基から発生が両側に一様に進むのではなく、Qのように片側へだけ(あるいは両側へ不平等に)進む結果だろうと推察している。野草同人には形態学専攻の方もおられるので、ぜひ御意見をうかがいたい。
それから、2/5の配置のところで示したquincuncial(梅花状)は、ラセン配列ばかりでなく、輪生配列からも偶然できることがある。だから梅花状だからこれは2/5配列のラセンに由来するのだと直ちに云うことはできない。こういうことを調べるには量を統計的にこなした観察が必要なのだが、こういう簡単なことがらでもちゃんと調べた人がないらしい。統計というとたくさん調べて何%とやれば片付くと思っている人が多いが、出た結果の解釈はなかなかむずかしい。この間題によく似た現象の観察が『採集と飼育』1977年9月号に報告されているが、現象aの出現数44、現象bの出現数64に対して、aとbは明らかに差があると結論されている。私はこの数値ではaとbに差があるとは云えない場合もまだあると思うのだが…。
一方、Pのような発生のし方をしてぶつかると、重なり合うものができる一方、互いに道をゆずらずに押し合ったままになったり、同じ方向に曲ったりする場合も起こるだろう(R、S、T)。これが「すり合せ状」(valvate)で、ブドウ科、フトモモ科、センニンソウ属などに例がある。この中でTのようなものはありそうに思えなかったが、カミさんが買って来たBubaliaのつぼみを見たら正にこれだった。
[野草48(381):34-35(1981)]
(6)
前回、5花弁の重なり方は32通りあると云った。重なりが起こる個所が5つあってそれぞれ2通りの重なり方があるから、2⁵で32通りである。もしある植物の花を観察の結果、これら32通りが一様に出現するならば、花被片の重なり方は偶然が支配するとみてさしつかえなかろう。これを確かめるには、これらの組み合わせの見本を作っておいて、実際とくらべればよい。32通りも作るのはシンドイと思うだろうが、やってみると大したことではない。使宜上見方を変えてやってみる。
まず5花弁のうち、1番下(外側)に来る(左右側とも隣の花弁の下にある)花弁が1枚もない型を考える。これは1、2であり互いに対称である。これらは既にA、B(又はC、D)で示したものである。これ以外の組み合わせはこの型にはない。
次に1番下に来る花弁が1枚だけある型を考える。これには3、4、5、6の4通りがあり、3と4、5と6は互いに対称である。そして3とM、5とLは同じである。
次に1番下に来る花弁が2枚ある型を考える。これには7と8の互いに対称な配置があるだけである。次に1番下に来る花弁が3枚ある型を考える、と云ってもこれは存在しない。従って5枚の花弁のあらゆる重なり方はこの8型で尽きている。32通りある筈のものが8通りになってしまった理由は…、これは教学の問題なので『野草』誌上に出そうとしてもボツになるだろう。簡単に云えば、見かけ上異なっていてもクルリと廻すと上のどれかと一致してしまうのである。
上の議論は5枚の花弁がすべて対等であって、廻してみてもよいということが前提となる。しかしながら花には向軸側と背軸側がある。これは花と茎との関係で生ずるもので、花式図上では上方に黒点が1つと下方に苞葉の記号が1つ書かれている。これを考えに入れると、花をクルリと廻すわけに行かなくなって、話がむずかしくて私の手に余るので、そこまでは考えないことにしておく。
このような見え方を得る為には、花を図式としてとらえねばならない。「ありのまま」を見ていたのでは、こういうことは分かりにくいのである。よく観察法や描画法の要諦として「見たままを描く」ことが強調される。これはもちろん結構なことで、例えば花と虫の関係だとか、葉の先の関係などは、自然のままの展開のし方や配置を記録しなければ意味はない。しかしそれとは別にこういう図式化した見方があり、こうすると別な見え方をするものだということにも留意してもらいたい。『野草』に現れる観察記録や図の中にも、もう少し図式化した見方や描き方をすれば面白いのにと思うものがある。図式化ということは標準化、一般化することで、個々別々な観察結果をまとめたり比較したりするのに役立つ。それにこういう見方は、観察対象の質をそろえるということに注意を向けるのにも役立つだろう。質をそろえておかないで、いくら量を多くしても統計的な処理とは言えない。
何もわざわざそんな見え方をするような見方をしなくても、自然のままに見ていれば、そのうちわかる筈ではないかと思う人もいるだろう。別にそれに異議をとなえるつもりはないが、身近な例をあげておく。
ミニスカートが「よく見える」条件は、視線が水平面となす角度(視角と呼んでおく)が最大の限定要素である。少なくともこれが水平より上(プラス)でなければならない。もう1つの限定要素は視線の長さ(距離と呼んでおく)であるが、これは第二義的である。従って「自然のまま」の水平な道路では「よい見え方」を得ることは決してない。「よい見え方」を得るためには、観察者はある程度以上の勾配の坂や階段の下に立ち、明視の距離になるべく近く対象をとらえる必要がある。もし勾配が十分でなければ、距離をギセイに(長く)してでも視角を大きくする方がよい。こんなことは誰でも心得ている。
植物はミニスカートとちがって、手にとって好きなような見方をすることができる。「よい見え方」というのは1つしかないわけではなく、見る角度や考え方によってたくさんの「よい見え方」が生じるので、各自で工夫すればよいのである。ところで冒頭に述べた、花弁の重なり方が偶然に決まるような場合が実際にあるのかというと、「アル」と云ってよいことを最近の観察結果から知った。
[野草48(382):50-52(1981)]
(7)
かわら状(imbricate)には2通りあると話した。最外の弁と最内の弁が隣り合う場合と、間に1つ他の弁がはさまる場合で、前者は3、4であり、後者は5、6である。5、6についてはまだラセン配置による解釈を与えていない。実をいうと、これについてはラセンによる説明を見つけることができなかったのである。対称像については一方の説明がつけば他も同様に片付くから、5について考えてみる。5にはラセン配列による規則は認められないが、花弁1または4を通る対称面を考えることができる。1を通る面を考えるとき、3と4の重なり方は対称性を失なわせているのだが、どうせどちらかに重ならねばならぬのだから、1ケ所はガマンすることにしてもらおう。こうするとPやQのように、発生の時間的関係を示すモデルを作ることができる。即ちUである。これはマメ科の一部にあてはまるだろう。
こういうモデルを思いつくと、その変形がすぐ出てくる。即ちV-Zの5型で、Uを入れて全部で6型である。各型の1番手前の2枚の花弁の重なり方が2通りあるから、総計12型となる。このうち隣り合う弁の内外関係という点から見ればVとYは同じであり、WとZも同じである。この4つはquincuncialである。換言すれば、この4つは相称としてもラセンとしても説明できるということになる。Xは少々異なって見えるが、実際に弁の重なりを描いてみればUを廻してできる型と同じであり、最外と最内の弁の間に他の弁が1つはさまったimbricateである。Xの型はスミレがこれに当たるだろう。
[野草48(383):70-71(1981)]
(8)
花のことばかり書いたから葉のラセンのことも書こう。ハコベの葉序は十字対生といわれるもので、ある節につく一対の葉とその次の節につく一対とは90°をなしている。これでは右巻きも左巻きもわからない。ところが都合のよいことに、ハコベの茎には一列の毛条がある。この毛条は葉腋に始まって上の節の対生葉の間に終わる。こういう云い方については後で説明し直さねばならないのだが、とにかくこうして対生葉が90°ずつズレるのに伴って、毛条も同じようにズレて行く。毛条は茎の片側にしかないので対生葉がどっち向きにズレるかは毛条のズレに現れてくることになる。実際、毛条は節ごとに一方向にズレるラセンをなしている。このラセンの向きは茎のどの部分でも同じかというと、そうではない。
ハコベの茎の分枝の型は2通りある。1つは主茎があって腋生の枝が出るという関係がハッキリしている場合で、これをAタイプとする。越冬中のハコベを見るとこのやり方をしている。もう1つは春になって花をつける為に盛んに生長している時見られる型で、みかけ上二叉分枝をしており(偽叉分枝)、茎と枝の区別がつかないもので、これをBタイプとしておく。いずれの場合にも、分岐点で毛条がどこについているかを調べると、2本の茎(或いは茎と枝)の向き合った側にある。さっき「毛条は葉腋に始まり」と記したが、これは分枝しない節での観察であって、正しく云おうとすると「毛条は葉腋の反対側に始まり」とでもせねばならない。
分枝がないかAタイプの分枝が起こる限り、主茎上の毛条のズレは一定の方向を維持している。Bタイブの分枝ではどちらが主茎と云いかねるから、むしろ毛条のズレが同じ方向の枝を主茎(主軸)とみなしておこう。こうすると、「枝」の上の毛条のラセンの向きは分枝したところからは逆向きとなる。だから、ハコベの毛条は枝によって右巻きのと左巻きのがあることになる。
断っておくが、ラセンの向きが維持される方が主軸だと云っているのではない。そういうことはチャンと形態学的、解剖学的に調べてから云うべきである。私は一応そのようにみなして話を進めようというだけのことである。
こうして茎を上へたどると花序となるが、ここで少々ちがったことが起こる。花序では枝が3出するのである。その中央のものは必ず花となって終わる。(Cタイプ)両側の枝は更に同様な分枝をくり返して遂に花となって終わる。そして左右に出る枝では、茎における分枝で見られたのと同じ毛条のラセンの規則がくり返される。一方、中央の花梗にも一条の毛条が走っているが、これは直下の節間の毛条の位置をそのまま踏襲する。つまりどちらへもズレないのである。
こういうことを見たうえで、これを学校で習った形態学の知識にてらすとどうもうまく説明がつかない。
Bのような分枝は見かけ上二叉分枝であるが、この分枝法はシダ類以下の下等植物に広く知られているものの、高等植物には無いことになっている。イチョウの葉脈がその名残りとして引用されるくらいだろう。
高等植物の分枝法には単軸分我と仮軸分枚があると教えられている。前者は主軸が発達しながら枝も伸ばすもので、Dのようになる。主軸と枝が同等に発達すればFである。仮軸分枝は主軸の伸長が止まって枝のみが発達するもので、Eである。これが極端になるとGのように、枝が主軸の延長のような見かけになる。以上は互生葉の場合だが、これを対生葉にあてはめるとH〜Kである。ハコベのBタイプの分枝はⅠでもJでも考えられる。そのいずれであるかは節のところにかくされた発達しない主軸や枝の原基がどちら側についているかを調べればわかる筈である。そこで節部をそいでルーペで調べたが、原基らしいものはどこにも見つからなかった。もっと高度な調べ方をしないとわからないものらしい。A、B、Cが同じ分枝法に由来するのなら、CはⅠに対応するのだから、この2本の枝の問に原基が見つかりそうに思えるのである。それではと茎の太いカーネーションを買ってみた。この茎でも枝分れは2又で、1つは太く、他方はいく分細いのがふつうである。マアBタイプと云ってよかろう。この茎を縦切りにして節を調べたが、茎の上方の分枝のない節に、伸びるべき枝に当たる小さな芽がある以外には、目的としていたものは見つからなかった。もっとも、以前の観察では太い茎をはさんで細い枝と反対側の葉腋にごく小さな芽の原基がついているのを見た記憶がある。苞の上方の花に近いところだった。従って元来は両方の葉腋から芽が出るタイブなのに、種類によって一方の葉腋の芽が退化したものとも考えられる。現にフシグロなどでは両方の腋から枝が出ている。一方が退化すると云ってもデタラメではなく、退化する側が決まっていて、これも節ごとにラセンをなしてズレて行くのである。ハコベのように片方の葉腋には全く芽が作られないとなると、その節の一対の葉について別な解釈をする余地も出てくる。
アカネの葉は4輪生とされているが、実はこの中の一対は本当の葉であり、他の一対は本当の葉の托葉が癒合して出来たものだということだ。このことは枝の出る葉腋が決まっていることで傍証されるし、解剖学的には維管束の配置から確かめられるそうである。ハコベの葉は実は対生ではなく、1/4の互生であり、その托葉が癒合して反対側に同じ葉の形を作ったと考えることもできないわけではあるまい。もちろんこれを云う為には解剖学的に確証を挙げねばならない。しかしもしそうならば、節の一方の葉腋からしか枝が出ないということはむしろ当たり前のこととなる。ただしこう仮定するとCタイプの説明はむずかしくなる。
[野草48(384):86-89(1981)]
(9)
これまでゴタゴタ並べて来た5枚の花弁の重なり方には、実はチャンとしたよび名がついていないものがいくつかある。ナマエがついていなかったり、定義がはっきりしていないと、情報交換が正確に行なわれないということは、植物名のときと変わりはない。そこでこれらに名前を与えたものを図1に示す。図における「おもて」、「うら」のよび方は回旋状(おもて)、メタ瓦状(うら)のようにカッコをつけて用いることにする。「おもて」「うら」を区別する必要がない場合には、カッコの部分をつけなければよい。花式図の中心に記したⅠa、Ⅲbなどの記号は説明の使宜上つけた略号で、型の名前として与えたものではない。日本女子大の相馬レイ子さんの卒業研究に、この8型がいろんな植物でどんなふうに出現するか統計をとってもらった。中学生の自由研究なみだと馬鹿にしないでもらいたい。中学生と大学生のちがいはデータのとり上げ方と処理のし方による。とにかく大変面白い結果が得られたのである。この研究は完結したものではないのでまだ調べなければならないことが山ほどあり、アマチュアのとりつき易い研究テーマの1つだと思う。
[野草49(385):2-3(1982)]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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