〇はじめに
昭和35年春から夏にかけて、東大インド植物調査団の一員としてインドへ行ってきた。インド東部の大都会、カルカッタ[現コルカタ]を皮切りに、山の避暑地のダージリンからカンチェンジュンガの麓まで、植物採取をしながら歩いた。その時の話を断片的に書いてみます。なおこの準備のために、成蹊生物研究会の皆さんの協力を得たことを御礼申し上げる。
〇夏休みは4月
カルカッタに着いたのは3月中旬で、日本ならまだ寒い日が多いのに、ここは夏の真盛り、連日40℃を越えていた。
インドの気候はモンスーンの動きに支配され、秋から春にかけて好天が続き、空気は乾燥する。3月から4月までは気温が1年で最も高く、雨が降らない。事実3月13日から4月29日まで1滴の雨も降らず、雲さえ無かった。この季節が当地では1番生活し難いそうで、学校の夏休みもこの頃あるのだそうだ。どんな小さい部屋でも天井に必らず扇風機がつけられ、それを回して窓を開放しても夜は眠れないほどだ。商店などは窓や入口いっぱいにむしろをぶら下げ、それに水をぶっかけて涼しい風を作るようにしている。乾燥も大したもので、日本から送った煎餅が湿ってしまったので部屋に放り出して置いたら、カリカリになって食べられるようになった。
5月から8月まではモンスーン入り、毎日夕立のような雨が2-3回降り、その合間は日が照りつける。気温はやや下ってしのぎやすくなるけれど、25℃位だ。時によると豪雨が3日も降り続いたことがあり、そうなると地面の低いカルカッタは至るところ水びたしになる。町の地図には浸水のおそれのある地区がちゃんと表示してあった。インド人は夕立がきても平気なもので傘もささず、駆け出しもせず、ゆうゆうと歩く。着物が布1枚なので日が当たればすぐ乾くのだろう。
秋から冬にかけてカルカッタの最も良い時期だという。晴天が続いて涼しくなり、気持ちの良い日が続くのだそうだ。
モンスーンは毎年ベンガル湾を北上してインド東部に上陸し、ヒマラヤの南側に沿って西へ進むので、インドの西部では東部より遅れて変化が進んで行く。
〇「古」新聞の値段
カルカッタで荷物の通関を待っている間、われわれはじっとしてはいられず、毎日近所を歩いては街路樹や他人の庭の木を採集した。公園の木を千切って巡査につかまったり、夜陰に乗じてヒッコ抜いてきたり、あんまり感心しない採集もやった。ところが採ったものを乾かす段になって困ったのは、新聞紙が無いことだった。新聞は10頁位のを毎日とっていたが、これでは全く間に合わない。ホテルのボーイに古新聞はないかと聞くとあると言うので、値段を聞いたら毎朝くる新聞(夕刊はない)と同じ値段なので驚いて買うのを止めた。
大体インドの新聞は発行部数が少なく、従って古新聞もそう簡単に手に入らないようだ。商品の包装は大きい店では特製のものを使っているけれど、小さい店ではサラソウジュの葉(20×15cm位ある)をつづり合せたものを使っている。日本で準備する時、新聞紙は重いし、向うにたくさんあるだろうから持って行かなくても…と考えたのだが、念のためにと用意して行って助かった。この新聞紙は成蹊大学と生物研究会からの寄贈品で、他のいろいろな寄贈品よりもわれわれにとってありがたかったことも申し添える。これが無ければ今度の調査に重大な支障をきしたことは明らかである。
〇街頭の商人たち
店を構えているのは別にして、インドでは実に多くの流しの商売人に出会った。
鍵屋 インド人は鍵が大好き。自動車のドアはもちろん、エンジンカバー、スペアタイヤ、ガソリンタンクには鍵がついている。ショーウィンドウや店のドアには特大の鍵を少なくも4個はつけてある。弁当箱に鍵前をつけたのも見た。だから鍵屋が繁盛するのは当り前だろう。道具箱を頭にのせ、鍵をたくさん針金に通して、それをジャラジャラ鳴らしながら歩いている。
猿廻し これも大変よく見かける。猿を1匹か2匹つれ、デンデン太鼓の柄の無いのをカタカタいわせながら歩く。この太鼓はシッキムではラマ僧がタクハツする時に使っていた。猿の代りに小熊をつれたのもいる。黒くて胸に月の輪があった。こういう動物はカルカッタの市場で売っている。
綿打ち ふとんの綿を打ち直す商売。日本にも昔あった。特殊な形をした弓を持ってそれをビンビン鳴らして歩く。
祭文語り カルカッタの広場に夕方出て見ると、あちこちに人が円陣を作って、その中央にいる楽師の歌を聞いている。みんな1人づつで、二人一組のは見なかった。風琴、太鼓、シンバル、三味線(エクタールと言うのか?弦は1本しかない)など思い思いに鳴らしながら、お経の様な調子でうたっている。多分長い物語りの一部なのだろう。日本の平家語りの様なものだろう。
床屋 店を持っている床屋の他に流しの床屋がいる。ダージリンではホテルでもこれを呼び込んで理髪する。持物は鏡とかみそりと鋏と櫛と石ケン。客に鏡を持たせて道へしゃがみ込んでチョキチョキ始める。そう下手ではなさそうだけれど、さすがにやってもらう気がしないので、安い床屋(店のある)に入ったら、頭の上で扇風機をブンブン廻して切った毛を飛ばし、乾いて髪がポサポサしてくると霧吹きで水をかけて落ち着かせて又やるという調子だった。ヒゲをそってもらうのはこわいからやめた。あちらの料金はhair cutが50-100円、洗顔、ヒゲソリ、ポマードなどはそれぞれ別に金をとる。
インド人は毛深くて中学生くらいの男の子や、高校生くらいの女の子もヒゲがかなり濃く見える。男はたいてい口ヒゲを生やしている。
乞食 これは書くことがありすぎるので別項。
人力車 リキシャと言う。車輪は木製だからガタガタする。街角にたむろして、真鍮の鈴で梶棒をたたいて客を呼ぶ。ただし言葉は全然わからず、一度乗ったらとんでもない所へつれて行かれて閉口した。
タクシー 屋根は白、下半分は黒のヒンダスタンというインド製の車。運チャンはみんなターバンを巻いてヒゲを生やしたシク族という人種。タクシー商売は同族的な独占企業らしく、他の人種は見ない。車の中はうす汚なく、シャツが黒くなる。ダッシュボードのメーター類は動くものは滞印中に3-4回見ただけ。タクシーメーターは窓の外にあり、これだけは動くが、ときどき停車中でもメーターがどんどん進むのがあって油断できない。英語はだいたいわかるのだが発音がドイツ式?で、Northはノルト、Sudder(われわれのホテルのある所)はサッドルではないとわからない。大変陽気で始終ブツブツつぶやいたり、歌をうたったりしている。アステと言うとゆっくり走り、バースと言うと止る。バースと言う言葉はもう良い、十分の意味で、後に述べるアッチャーと共にいろいろ応用できた。
三輪車 終戦直後にはやった厚生車(もう知らない人が多いだろうが)。カルカッタの市内ではないが、市外や田舎ではこればかり見る。カルカッタ市内は人力車の勢力が強くては入れないのだそうだ。
蛇使い インドへ行ったら是非見たいと思っていたが、とうとう出会わなかった。
ポン引き この話は教育上良くないから割愛。
〇乞食
カルカッタでは至る所で乞食に会う。着いた晩、目抜き通りのチョウロンギーを散歩したら、子供が1人寄ってきてだまって手を出しながら傍らを離れず、300mもついてきた。しかってもこわい顔をしてもテンデ効果はない。もらうまでは離れないつもりだろう。
お祭りの日などは通りの両側にギッシリ乞食が並んで、道行く人に各人各様のやり方であわれみを乞う。手につけた木片で地面をたたくいざり、空缶に小銭を入れてガチャつかせながら道の真中に坐り込むめくら、子供を抱いているの、親子別々に商売にはげむ者、シンバルを鳴らしている男、歌をうたう者、カルカッタ中の乞食のやり方が見られるだろう。
インド人は割と乞食に金をやる。持てる者が持たざる者に与えるのは、宗教上の美徳と思われる。もらう方も当然のこととして、ひけ目を感じている様子は全く見えない。面白いのは大きい金を崩すのに乞食を利用する人がかなりいることだ。1ルピーを出して乞食の持っている金の中から小銭をお釣につまんでいく。お釣をとられる乞食は不平も云わずに見ている。インド人の生活を律する古典「マヌの法典」という本を読んだら、ブラーマンという階級(カースト)は、捧げ物を受けることが唯一の義務だと書いてあった。乞食はブラーマンなのだろうか。
この他に交叉点に待ちかまえていて赤信号で止った車の窓に手を出すのがいる。もっと知能的なのは、「子供が蛇に咬まれて死にそうだから医者にみせる金をくれ」と夫婦で泣きつくのがいた。しかし3日たっても4日たっても同じ所で同じことを言うので、芝居がバレてしまう。ライ患者が多くて指のくずれた手を出されるのには閉口だった。
〇ボクセス
持てる者から金品をもらうのは当然という考え方はわれわれ日本人にはちょっと真似はできない。外国旅行でチップ(インドではボクセスと言う)の必要なことはよく聞かされたが、インドでは更に輪をかけているようだ。ホテルのわれわれの部屋にインド人がくると、ほとんどの人がわれわれの荷物の何かを「記念のために」くれと言う。役所でボクセスをやるのは半ば公然と行われ、同僚や公衆の前でも平気でやりとりする。官吏がこうだから一般の人たちでは当り前のことらしく、タクシーは釣銭をよこそうとしない。要求すれば出すようになったのはつい最近のことだそうだ。動物園で写真を撮っていたら、園丁がきて俺を撮ってくれと言うのでパチリとやったら、住所を教えるから送ってくれと書かせたあげく、ボクセスと手を出したのにはあきれた。日本人の目から見れば腐敗堕落しているが、金に対するものの考え方が全然違うので、一概にそう決めつけるわけにも行かない。いずれにしてもシャクにさわるので、市場に写真を撮りに行ったとき、あちこちから撮れ撮れと言うので、シャッターを押す度に、撮ってやったからボクセスをよこせと、売ってる品物を一つづつもらい、果物ばかりただでせしめて溜飲を下げた。
こういう中でガソリンスタンドの使用人だけはボクセスを要求せず、出しても受け取らなかった。会社間のサービス競争が激しくて、しつけがやかましいのだろう。日本人の使用人もそうだった。
初めのうちはどのくらいのボクセスをやったら良いかわからず、1ルピーをやったりしていましたが、1/10ルピーもやればよいのだと後になってわかった。
レストランで食事をしていざ勘定という時には、ボーイが請求書を持ってくる。馴れている人は請求書通りの金額でなく、少し多い目の金額を出す。ボーイはそれを会計係のカウンター(鉄柵で囲まれた中に坐っている)に持って行き、お釣りを持ってくる。客はその中から紙幣や大きい金額のコインを取り、残りの小銭をボクセスとして残すのだ。こういうのは阿吽の呼吸と言おうか、釣り銭にはボクセスを見込んだハンパなコインを混ぜてあるのだ。
〇良いお金と悪いお金
町で買物をして金を払うと、時によって突き返されることがある。ニセ金かと思ってよく見ても、多少すりへっているだけで違いはない。ホテルのおばさんに聞いたら、ニセ金もあるけれどその他に「bad money」というのがあり、正真正銘のお金だけれど受け取らない方が無難なのがあるとのこと。金を受け取ると賃幣なら掌にころがしたりこすったりし、紙幣ならちょっとすかしてみてからしまう。
税金を払う時に紙幣の番号を全部書いて、これこれの紙幣は何月何日誰それが支払ったという書類を提出させられたのにはビックリした。もしニセ札があった場合にはこの書類を頼りに、支払った本人にクレームが来るのだそうだ。紙幣の片側に白い部分があってここにサインをしたのをよく見かけるが、これも同様に、ニセ札ならサインした奴の所に責任がかけられる。だからサインのたくさんある札ほど、信用度が高いのだ。
いつか両替屋で1ルピー紙幣を100ルピーもらったら、ホッチキスで綴じてあった。インドでは大量の紙幣はみんな綴じてあり、だから紙幣にはホッチキスのあとがついている。
〇水
カルカッタには水道が2通りある様だ。洗面台に出る水は無色透明で飲めるが、コップに入れてしばらくすると白い沈殿がいっぱいできる。だから多くの在留邦人は、水道の水は飲むなと言う。便所に出る水はうす赤い色をしており、川の水そのままのようだ。この赤い水は町の歩道の所々にある消火栓にも出るようになっていて、人々はこれで体や着物を洗ったり食事に使ったりしている。インド人の「キレイ」という観念はわれわれとはケタ違いで、四ツ谷の堀よりまだ汚い水の中で牛と一緒に体を洗い、口をゆすぎ、食器も洗う。それでもチフスなんか(年中発生はしているけれど)でみんな死んでしまわないところを見ると、よほど体の耐性が強いのだろう。
山へ行ったら冷たい水がいっぱい飲めると思っていたら、ここでは人家が山の上の方にも多くあるので、どんな流でも汚染されていると思わなければならないそうだ。川は厠そのものなのだ。地下水でも危険だと言われ、ガッカリした。けれどもあんまりのどが乾くので2度ほど川の水を飲んでしまったが、幸い何ともなかった。まずい水だった。
〇お茶
「Tea」と言ったら紅茶のこと。シェルパはチャと言う。インド人のお茶好きは大したものだ。至る所に小屋がけのお茶屋がある。紅茶とミルクをグラグラ煮て砂糖を入れたものだ。日本のような細かい砂糖はなく、大粒のザラメで、上等のものほど結晶が大きく、氷砂糖の小粒といったところ。溶けないので困る。とても栄養がありそうでかつ衛生的だが、コップはバケツに汲み置きの水で洗って着物の端で拭くので何にもならない。素焼の茶わんに入れて、終ると叩きつけてこわしてしまうのもある。われわれはコップ持参で飲みに行った。温度が高くて乾燥しているので、こういうものをうんと飲まないとたまらないだろう。店によって味が違うらしく、新聞にどこそこのはうまいなどと出ているのを見た。
山奥へ行くと、バターと塩の入った茶を出す。これはチベット系の人が常用する。これも疲れた時にはうまいものだった。
ダージリンはお茶の名産地だ。しかしここのホテルの紅茶はちっともうまくなく、チャのできない隣の町のガントクのレストランで出された茶は、僕の様に味に無頓着な人間でも、つがれたとたんにわかったくらい良い香りがした。今までの紅茶の中で1番うまい茶だった。
ダージリン茶の製品は、日本で見るのと違って番茶くらいの大きい葉でできている。
キャンプを張った朝は、6時になると炊事係のニマ・シェルパが「サーブ ティー」とテントの中へ熱いのを持ってきてくれるのを飲んで、目をさますのが1日の始めだった。疲れてテント場にたどり着いた時のお茶の味も忘れられない。砂糖と粉ミルクはほとんど全部お茶に入れて飲んでしまった。
〇オナラ
ヒマラヤに行った人の話では、オナラが出て弱るということだった。携行食料ばかりで繊維質のものが不足するからだそうだ。だからなるべく野菜を買うつもりでいたのだが、行ってみたら野菜なんてほとんどなく、ジャガイモ、キャベツ、タマネギの他は買うべきものはみつからなかった。そこで全員ガス生産が盛んになるのは避けられないことになった。昼間ヤラカシている中はよいけれど、夜、テントの中、おまけに寝袋の中となると、発生した全量が顔面を通過して出て行くのでちょっとばかり忍耐を要した。おまけにせまいテントに2人入っているのだから。今度くる時は繊維の缶詰を発明してやるゾと心に誓ったしだいである。
シェルパやポーターたちが大してガスを出さないのは不思議だった。彼らは年中食べなれてるから適応してしまったのだろう。
〇立小便
きたないついでにもう1つ。インドでは立小便はしない。男でもしゃがんでやる(女の方はどうするか見なかったが)。あちらの人は人を待ったり話をしたりお茶を飲んだりの際、しゃがみ込むので、しゃがむという格好はしょっちゅう見かける。だから用を足すためにしゃがみ込んでいるのかどうか区別がつかない。射出口と地面の距離が小さいから音もしない。立去った後で始めて知るのである。すぐ隣でやられても、低姿勢のため気がつかない。われわれのやり方にくらべて数等進歩していると言わざるを得ない。これはまねをすべき数少ない例の1つだろう。
〇近づくほど遠くなる
日本と違って道標なんか立っていない。おまけにわれわれは遠回りのコースをとったので、シェルパたちもよく知らない。そこで1番くわしいのが先に行って、分れ道の地面に矢印を書いといてくれる。これで行き先はわかるのだが距離はサッパリわからない。地図に出ていたとしても、上り下りがはげしいから、水平距離などは問題にならない。
シェルパにも「あとどのくらいか」と聞くと「7マイル」と言う。1時間近くセッセと歩いて又聞くとやはり7マイルだと言う。別なのに聞くと4マイルだったり8マイルだったりする。こんなのは良い方で、あと5マイルと言うからもう近いと勇んで行って又聞くと今度は7マイルになっていたりしてガッカリしたことも一再ならずある。
シェルパの言いわけによると、彼らは各人が頭の中に地図があって、それをたどりながら返事をするので、人によって違うのはそのためだし、風景を見て記憶を修正することもあるので、先に行ったら距離が遠くなることだってあるそうだ。それにしても聞かれて即座に何マイルと断言するし、後で違ったことを言う時にも何の言いわけもなく単に修正した結果を言う。これはインド人の誰でもそうであるらしく、「私の考えでは」とか「たぶん」とか言うことなしに、自分の言うことが絶対の真理であるかのごとくおごそかに宣言するので、こっちはツイ信用してしまう。カルカッタで巡査に道を聞いたら親切に教えてくれたので、そこへ行ってみたら全然ちがう。結局訪ねる場所は最初に聞いた巡査が立っていた所だった。相手にわかるようにコッチがしゃべらなかったのが悪いのである。
〇踏切に錠前
踏切に鍵をかけるといっても本当にしないだろうがホントである。
踏切はドアのような片開きになっていて、普段は線路をさえぎる様に開かれているが、列車がくる時はこれを閉めて鍵をかける。駅の近くの開け閉めのひんぱんな所でも、一々鍵をかけたり外したりしている。ガンジス平原の真中の地平線が見える様な踏切でも、列車がまだ全然見えない前からちゃんと鍵をかけて15分でも30分でも待っている。この調子だから踏切事故なんか起らないだろうと思うのに、ぶつかってつぶされたトラックが置いてあるのを見た。一体どうやれば衝突できるのか判断に苦しむ。
あんまり長く待たされるので、踏切の両側にはお茶屋や食物屋の列ができており、シリグリなどで大集落を形成している。インドの人文地理をやる人は、日本の門前町の様に踏切集落というものを認めなければならないだろう。
踏切で止められるのは自動車だけで、人や自転車は、踏切のわきの隙間から自由に行き来している。
〇汽車
インドはもちろん広軌である。けれども支線や山地では狭軌の、それもいろいろのゲージの線路がしかれていて簡単でないようだ。シリグリからダージリンへの鉄道は「toy train」と呼ばれており、トロッコの線路くらいのちっぽけだ。レールが小さくて勾配が急なため、長い列車は組めず、4-5両づつの小編成にして、それを3本くらい続けて走らせていた。
時刻表は立派なのがありますが、始発駅でしか役に立たないだろう。カルカッタを20時に出て翌朝8時に目的地に着くはずの急行が、12時に着いた。
等級は1等から4等まであり、1等の上に(Air Conditioned Class)というのがある。われわれは1等に乗った。車両を横に仕切って、中に入って鍵をかければ独立した室になる。窓には鉄格子がついており、便所と扇風機がついている。ベッドが窓に沿って2段ずつ4つついていて日本の昔の3等車くらいの感じ。特等はシートも室も立派だし、シャワーや使用人の控室まであるそうだ。
駅などでは外から呼ばれても絶対開けるなと言われていたので、そんなに物騒なのかとビクビクしていたが、実はただ乗りをする連中がたくさんいて、開けたら最後入り込んでしまって我物顔に占領してしまうからなのだ。窓から外を見ていると、空いていると見てとって、同乗させろとしつこく話しをもちかける人がかなりいた。窓の格子もこういう連中の実力行使を防ぐためなのだ。
駅にはいろいろな食物、水などの売子が出ており、日本と同様、窓からあれこれと買っている。乞食もそれに劣らず多く、あわれっぽく呼びながら忍耐強く金をくれるのを待っている。うるさくなってホームと反対の側に寄ると、こちら側にも線路の上から手を出すのがいる。停車時間が長いのでやりきれない。
〇バス
カルカッタでは2階建のバスが走っている。2-3度乗ってみた。2階は立っていてはいけないと書いてある。たしかにカーブや止る時のショックはかなりある。バスと市電が1番利用されるのか混んでおり、インド人の体臭で一杯で、ちょっとたまらないほどだ。朝夕のラッシュ時にはドアの外まで鈴なりで、傾きながらそれでも猛然とすっとばす。人の1人や2人落しても平気だ。落された方もケロッとして着物をはたいて次のバスを待つ。田舎では屋根に荷物を積んで走っている。
〇市電
2両つながって走っており、前が1等、後が2等。1等は扇風機があってバネの入ったシートだが、2等は扇風機がなくて木の腰掛け。1等にはインテリ風なのが、2等には労働者風なのが多い。婦人席があって、混んでいても男は座らない。
下りたい時は車内の紐を引くと止めてくれる。切符は1等で最低9ナヤパイス(1ナヤパイスは0.75円)で1区毎に2ナヤパイス増。乗ったらすぐ買って、下りる時は切符を渡さなくてよい。
〇インド人という「民族」
インド人とわれわれは一口に言うが、そんなものは存在しないと言った方がよいだろう。日本人のように一定のワクの中にはめて考えても差しつかえないほど単純ではないのだ。カルカッタで最もよく見るのはベンガル人、これは頬骨が高く、目がくぼんでサイズチ頭、脚がものすごく細くてやせている。ガンジーを思い出せばよい。商人に多いマルワリ、背が高くて目玉が大きく立派な顔立ちをしており、日本でいうインド人の概念に最も近かった。タクシーの運転手によく見るシク族はターバンを巻き(その下にチョンマゲみたいなものがある)、頬からあごにヒゲをモジャモジャ生やし、体がガッチリしている。軍人に多いそうだ。その他マラーターだのグジャラータだのドラヴィダだのアッサミだのたくさんいて、それぞれ日本人と韓国人くらいの違いはある。そのうえ言葉だけでも15-6あるし、宗教はヒンドゥー教、回教、火教、仏教等これまたたくさんある。インドとパキスタンが分裂したのは宗教のためであるし、言語問題でもしばしば流血事件を起こす。われわれがいた時にも公用語の決定にからんでアッサムで暴動が起り、われわれが通過したシリグリの駅は焼き打ちにあってしまった。何しろインドの各州で公用語が違うんだそうだから、始末が悪い。ネルー(日本ではネールと言うがあちらではみんなネルーと言う)さんも頭の痛いことだろう。
そのうえ、平地の住民と山地の住民とは全然異なっていて、平地はアーリアン系だが山地はチベット系なのだ。ガンジス平野をジープで3日走って登り口のシリグリに着くと、それまでと全く違ってわれわれに似た人々がたくさん住んでいる。中国人かと思ったらネパールやチベット人だった。そして海抜2,000mのダージリンでは、少数の「インド人」以外はみんなネパール人、シッキム人、レプチャ人、ブータン人、チベット人で、われわれと同じ顔ばかり。インドにいると言う気にはちっともならなかった。宗教もチベットから入ったラマ教で、例のオムマニパドメフムのお題目が至る所目につく。連中の方もインド人よりわれわれ日本人に親しみを示し、「俺の国籍はインドだけども、インドは好きじゃない」なんて言っている。
シッキムは最近まで両隣のブータン、ネパールと同様、独立した王国だった所で、今でも王様がおり、王子は大の親日家である。この王家はチベットから入ってきたので、家の調度品などはすべてチベット式だった。チベット人は体が大きく、ちょっと男女川のような感じで、厚い刺子のような着物の片袖だけ腕を通していることが多く、長靴をはいて肩をゆすって歩く。これに対しネパール人(この中に多くの種族があって、グルカ兵になるグルン、ネワリなどもそれである)はわれわれにとてもよく似ており、僕のシェルパをやったロブソン君などは、写真で見た人はみんな日本人と思うほどだった。インド人に「お前は日本人か」と聞かれたりしていた。日本人の祖先はレプチャ(これもネパール民族の1つ)だ、と言う説も信じたくなる。
〇アッチャー
最初、カルカッタ空港の税関で荷物の入国検査をされた時、役人同志の話の中にさかんに「アジャーアジャー」という言葉が現れ、アジャーは日本語だったはずだがと不思議に思った。後で聞くとその当時流行していたアジャパーの省略語ではなくて、立派なインドの言葉だった。英語の「well」にほぼ相当するもので、非常に応用範囲が広いものだった。話し始めの「アノー」、「エート」や話しかけの「オイコラ」的の意味、OKの意味、よろしいの意味、goodの意味、何でも使えて面白かった。日本のアジャパーに相当する使い方もあるらしい。「アッチャー、ベアラー、ジョル」「アッチャー」・・・・・・「アッチャー、ハイ?」「アッチャー」てな具合になる。ベアラーは召使、ジョルは水(ネパール語ならパニ)、アッチャーハイ?はよろしいですか?という意味。
〇タバコ
タバコはいろいろな種類が売られている。ピースなんかも街頭に出ていて、日本人と見ると売りつけにかかる。普通の人はシガレットを1-2本ずつ買って行くのが多い。1番安いのは葉巻である。といってもいわゆるシガーではなく、粗く刻んだタバコを木の葉(名はとうとうわからなかった)で巻いて赤い糸でくくった、5cmくらいのものだった。僕は全然タバコはやらないけれど、ヘビースモーカーの津山先生は、外貨節約の意味もあって、この葉巻を愛用した。この葉巻を専売公社に持って行ったら「今までずいぶんインドのタバコを見に行かせたが、こんなのは初めてだ」とのことだった。高級ホテルに泊って車で用を足していたのでは、こんなものにお目にかかれるはずはない。カルカッタの街角にはあちこちに、ヤシの実の繊維で作った長い縄がぶら下げられ、これに火がつけられてゆっくり燃えている。道行く人はこれからタバコの火を無料でつけて行くのだった。建物の壁にぶら下げてあるのだが、あちらの家はレンガ造りなので、火事の心配はない。
山の中では日本から持参した新生とピースを使っていた。シェルパや人夫はタバコを欲しがるので、チップ代りにやることにしていたが、日本のタバコはうまいけれど強くてかなわんと言っていた。それでもこのチップは効き目があり、富樫さんが「新聞紙一束乾かしたら1本やる」なんて言うと一生懸命乾かしては、入れ代り立ち代りタバコをもらいにくるのだった。そのまま口にくわえるものもあるし、握りこぶしを作って、中指と人さし指のつけ根の間にタバコをはさみ、親指と人さし指でできる凹みを口につけて吸い込む人もあった。
〇お酒
インドは禁酒国なので、どこでもお酒を売っている日本とはちがう。少数の店が免許を持って、外国人にだけ売ることになっているらしい。ホテルのボーイに頼んでも、よほどチップをやらないと買ってきてくれなかった。ビヤホールがあってそこにはインド人もたくさん入っていたけれど、僕らの会ったインド人はたいてい酒は飲まないと言っていた。そのビヤホールも次の日行ったら酒は全然出さない。週に1日はドライデーと言って禁酒日があるのだそうだ。
〇ビール
インド産のビール、これに1番厄介になったのだが、どうもいただけない。第一冷えてない。「ベリーコールド」なのをくれと言っても、気温より多少低いくらいのを持ってくる。飲むと石ケン臭くてどうも感心しない。しかし安いのでよく飲んだものだ。
シッキムの主都ガントクで、役人の家へ呼ばれて行ったらビールが出た。きっと何十年もしまってあったのだろう。王冠がボロボロにさびている。「rare old」のビールだ。それでも泡が出たのは不思議だった。
山の中では日本製の缶詰ビール。これは文句なしにいただけた。ところが、4,000mのキャンプでこれを開けると、アッと言う間に半分吹き出してしまう。気圧が低いのだ。穴を開けたトタン、間髪を入れずに口を持っていっても、いたずらに泡を食うだけで半分は無くなってしまった。高所用ビールは圧力を半分くらいにしといてください。ビール会社へおつとめの方々にお願いします。
[後日譚 当時は缶ビールが市販された初期で、缶は鉄板製だった。後になってアルミ缶が出回った頃には、高所での吹き出しは起らなくなった。]
〇ウィスキー
インドでは飲めるウィスキーは作ってないらしい。そこで輸入品が幅をきかすことになる。ホワイトホースだのジョニーウォーカーだのを、僕みたいな下戸が愛用できたのは、インドが禁酒国なればこそだろう。
〇ラム
ダージリンに来たら、高級ウィスキーは手に入らなくなった。寝酒を愛用する和田ドクターは、その代りにラムを手に入れてきた。アルコールくさいけれど、それでも山の中でアルコールを飲んだのにくらべればましなそうだ。面白いのはダージリンがその中に位置するウエストベンガル州は禁酒州なのに、その隣りのシッキムは禁酒していない。だからガントクに行くと、どの店にも酒がずらりと並んでいる。その大部分はウエストベンガル産で、ラベルには「ウエストベンガル州内で販売するべからず」と書いてある。安い酒を買いたければガントクで買って行けば良いのだそうだ。
〇チャン
シッキムのビール。粟(シコクビエ)をふやかしたものに酵母が混ぜてある。これを太い竹筒に一杯、山盛りになるほど入れ、上から熱湯を注いで竹製のストローで吸うのだ。甘酸っぱくてほのかな酒の香がする。シッキムの王宮でこれを出された。王女が何度もすすめにくるので、しまいに飲む真似だけすると、筒に耳をつけて中味が減って行く時のブツブツいう音がしないと言うのでバレてしまう。おかげでたら腹飲まされてしまい、帰りのジープをもう少しで落っことすところだった。
こういう手の込んだ方法ではなく、発酵させたシコクビエ(コドという)を水に溶いたものもチャンという。白く濁っていて、シコクビエの粒々が泳いでいる。ドップーともいうらしい。これはどの家でも作っているようで、どこでもでも手に入る。お燗をつけたものもある。
〇マフィア酒とヨーグルト
マドゥカ(Madhuca latifolia)という木の花を醗酵さして蒸留したマフア酒、うす桃色でものすごく強い。一口飲んだらフラフラしてきた。家によってそれぞれ秘伝があって味がちがうのだそうだ。
ヤクや牛の乳を醗酵させた、いわゆるヨーグルト。日本のみたいにゼラチンも甘味料も入っていないので、すっぱくてにおいが悪くてうまくはないが、これが本物だろう。
〇朝のお祈り
一緒に行動した2人のインド人、ボース、シャーの両氏は古生物学者だった。ボース氏はパリ留学から帰国早々であり、シャー氏はアフリカなどに探検旅行に出かけたことのあるインテリだった。しかし2人共、高地のキャンプ生活には馴れぬらしく大部不自由な思いをしたらしい。とにかくあちらの人は口で指図をして召使にやらせるばかりで、自分で手を下すことはないのだ。それがわれわれのようなどちらかと言えば不言実行派と共同生活をするのだから、その不自由さは思いのほかだったろう。
ある朝、いつもより早く食事の用意ができたのでみんなで早速食べにかかった。ところがボース氏だけはなかなか現れない。30分もたったころやっと顔を出した。お祈りをしていたのだと言う。前から彼は朝ベッドの上でお祈りをすると聞いていたが、食事を後まわしにしてまでやるほど、信仰深いとは知らなかった。座禅の時のような姿勢で30分ほどジッと眼をつぶっているのだ。その日彼は原先生に要求した。朝の食事時間を予告なしにくり上げられるとお祈りを落着いてできなくなるから、予定時間を守ってくれと言うのだ。彼は食事についてもなかなか面倒な注文をつけた。牛肉は食べない、そのうえ、火曜日は一切の肉食をしないと言うのだ。ヒンドゥー教徒が牛肉を食べないことはよく知っていたけれど、彼一人のためにみんなの食事を変えるわけには行かない。おまけに缶詰には牛肉が多いのだ。だから肉が出ると彼は一々牛肉であるか否かを食料係の僕に質問する。牛となると味噌汁の中のコンビーフ一片でも避ける。ただし、汁の方は飲んでもよいのだそうだ。火曜日となると肉は種類を問わず食わない。ただし魚は別格だ。インドでは魚を食うことはほとんどないので、肉の範囲外のものらしい。鯨などは彼らは生れて初めてなので、どう扱うか興味があったが、さすがは古生物学者で、哺乳類だから魚ではないと決めたようだった。いつも弁当の缶詰を配給する度に、今日は何曜だったっけと考えねばならなかった。これが無ければ曜日なんか全く忘れてしまっただろう。シャー氏の方はお祈りもせず、牛でも何でも火曜も金曜も平気で食べていた。
この2人の助手として若いインド人が途中まで同行したが、この人は全くの菜食主義者で、シェルパたちとは別な食事を作って食べていた。
〇国境侵犯
われわれの最初のプランは、シッキムの中央部を流れるラチェン川を伝って、インドとチベットの国境まで北上するものだった。ところが中印国境紛争で神経をとがらしたインド政府は、そんな所へ外国人をやるのはもってのほかと、簡単に断られてしまった。そればかりか、シッキムへ入ることすら “いかん” と言うのだった。仕方がないから予定を変えて、インドとネパール国境方面を歩くことにしてシッキムに入れてくれないかと持ちかけた。これならチベットから離れているから大丈夫と思ったら、これもどうも “うん” と言ってくれない。シッキムに外国人が入ることが駄目らしいのだ。とうとう5月1日の出発日が来て、一行はダージリンを発つことになった。ここからシッキムの境まで一週間かかるので、その間に原先生だけダージリンに残って交渉するという背水の陣だ。
バスの終点マニバンジャンはもうネパール国境で、ここに役人がいてこれから奥に行く人間をチェックする。ここで先ず騒ぎが起った。役人は政府から何も聞いてないから入れるわけにいかんと言う。別にシッキムに行くとは言ってないのにウルサイ話だ。第一そんな許可が必要だとは聞いてなかった。厄介なことになったと思っていたら、インドの隊員と何か話していただけでいきなりもう通って良いということになってしまった。インドではこういうことはしばしば起る。初めは断固として不可を主張していても、しばらくすると掌を返すように良くなってしまう。しかもその豹変した本人は表情一つ変えない。不可の理由も時々理解に苦しむことがある。カルカッタから1日ジープで走ったクリシュナガールの町で、和田先生が写真を撮っていたら警察に連れて行かれて「写真を撮る許可を持っているか」と聞かれたのだという。そんな許可なんてありゃしない。とうとう憲兵隊まで連れて行かれたうえ、インドからの招待状を見せて身分を明らかにしたら、たちまちあやまったそうだ。小さな町で軍隊がいるわけでなし、国境に近いわけでもなし、何のことかわからなかったが、どうやら「変な奴がカメラを持ってウロついてる」と密告されたらしい。中国人に対する感情が悪く、われわれに向って「Chinese no good!」と叫ぶ人もいた。しかし日本人となると好感を持っているようだった。
脱線を元に戻して・・・・・・・・・、やっと役人の所を脱出して歩きにかかると、道は国境から外れた山腹をうねって行った。これでは何で騒いだのかわからない。われわれがネパールの国境に立ったのはそれから1週間後だった。3,600mのファルートには、ダージリンで交渉していた原先生が、シッキム入域の特別許可を持って待っていた。そして次の日にはまた2,500mも下って、われわれはやっとシッキムに入ったのだった。役人の簡単な手続が終ると、もうこれから先はウルサイことはなくなったと、やっと一安心したものだった。
こうして4,000mのジョングリの最高キャンプまでは、シッキムの中なので問題はない。ところが帰途はシッキム、ネパールの境界を10日も歩くので、一歩でも踏込んだらさぞうるさいことだろうと、いささかユーウツになっていたのだが・・・・・・・・・。
5月31日、ミゴタンに着いた翌朝、モンスーン中には珍らしい好天にめぐまれて、周囲を見回すと、どうも様子がおかしい。東側は山でさえぎられているのに、西側ははるか彼方まで低い山並が連なっている。ネパール領にいるのだとわかった。聞いてみると、昨日歩いた道もずっとネパール側なのだった。ここまで来ると国境なんて地図の上だけで、実際にはありはしない。道は西側の山腹が季節風の関係で草原が多いので、みんなネパール側についている。ここらの山を利用するのは、みんなネパールの人なのだ。それから後も道の大部分はネパール側についていた。そしてファルートに来て、初めて国境の標柱が現れた。ガンジス平原のインド、東パキスタン国境の厳重さ、インドの中でも州の境界には必らずゲートがあって番兵がいるのにくらべれば何という相違だろう。その手続きの困難さ、複雑さにくらべて、実際には何にも無いのだ。国境なんていうのは人間がいるからできるのだと思った。
〇二人のリエゾン・オフィサー
リエゾン・オフィサーというのは、登山隊のお目付役兼連絡官のことである。シッキムに入った最初の宿泊地デンタムで、シッキム政府派遣のリエゾン・オフィサー、シュミック氏がわれわれをにこやかに出迎えた。彼は翌日の泊地であるパミアンチの森林官で、わざわざここまで来てくれたのだ。彼の機嫌さえ損ねなければ、今後の行動は公的なトラブルは無くなる。原先生はじめ一同お気に召すように気を配った。彼はとても良い人で、植物の名も知っているし、親切だった。パミアンチでは彼の家に行ってご馳走になった。
ところが、翌々日、ヨクサムの山小屋にいるわれわれの所に、ポーターを1人連れたオジサンが現れた。おれはリエゾン・オフィサーだと言うのだ。2人も連れて歩くには装備が足りない。インド隊の不用意のために、一人一テントのはずが2人で1テントに入ることにしたばかりなのだ。どっちかニセ者だろうということになって、聞いてみると、後から来た方のラマ氏はダージリンから派遣されたと言ってインド中央政府のお墨付を出す。シュミック氏がシッキム政府の派遣であることも間違いない。原先生はこういう所で政治的手腕を発揮する。「2人とも行ってもらいたいけれど、ごらんの通り用意が足りない。お二人で相談してどちらか適当な方が来ていただけないか?」トタンに2人の間に猛烈な論争が始まった。インド人の議論好きは大したもので、堀田善衛氏の『インドで考えたこと』の中にも汽車で同室した青年に、30時間ブッ通しにしゃべり通されて閉口したことが書いてある。この2人はそれほどでもないけれど、口角泡を飛ばして相当なものだった。結局インド中央政府派遣のラマ氏の方が、シッキム政府派遣のシュミック氏よりエライということになったのだろう。シュミック氏はわれわれに借りた装備を返してスゴスゴと帰って行った。
〇シェルパたち
あちらに行くまではサッパリ注意していなかったのだが、シェルパは人夫ではなかった。シェルパは元来ネパールのエベレスト山麓に住むチベット系一種族の名だが、今は登山の世話をする職業の名として通用していることは周知の通りだ。「シェルパは女房より便利だ」と、行った人が話していた。つまりシェルパはサーブ(主人)の世話一切をする人で、1人のサーブに1人のシェルパが専属するのが普通なのだ。われわれはこれを知らなかったから、全部に1人あればいいだの、われわれの半数で良いだの言っていたが、実際に1人に1人ついてくれなければ到底やっては行けなかった。
朝起きると、寝袋をしまい、テントをたたみ、これを人夫に背負わせ、歩く時はサーブのリュックを持っていっしょに歩く。だからわれわれサーブはカメラと胴乱ぐらい持てばよい。けれどもこれでは時々困ることがある。フィルムを代えたくても傍にいなかったり、雨が降り出して傘が欲しかったり、腹が減ってお菓子が食べたくなっても、ずっと先を歩いていて急場に間に合わなかったりするのだった。他の人たちはやかましく言って傍にいさせたが、僕はその点ルーズだったので、しばしばこんな目に会った。
シェルパはサーブの世話役で、荷物を背負う人夫(ポーターとかクーリーとか言う)よりは1クラス上なのだ。しかしシェルパが足りなくなるとポーターの中から選んでシェルパにしたり、この前はシェルパだったが今度はポーターとして来たなんていうのもいた。
サーブ付きのシェルパの他に、サーダーという総指揮者、ローカルサーダーという人夫頭、コックの2人が別にいる。その中から2、3人を紹介しよう。
〇アン・プルバ
17才というがもう少し大きそうだ。これがサーダーだった。ヒマラヤンクラブのテンジン・ノルケイ(エベレストの登頂者)が推薦したのだから、若くても優秀なのだと思っていた。英語は1番よくでき、物を聞くとたいてい知っていた(インド人は知っていても知らなくても何か立派な返事をすることが、後になってわかった)。ところが、最初の朝から、昨日まで全部運んだはずの荷物が、2つ3つと取り残される様になった。つまり人夫が背負う時、軽いのを選ぶのは良いとして、重い荷の一部を置いて行ってしまうのだ。彼がそこを監督しなければいけないのに見ていないらしい。こうして毎日いくつかの荷を残しては、翌日取りに帰ることを繰り返した。われわれは1日歩いては1日休むのでこれが出来たのだが、先を急ぐ旅だったらどうなったかわからない。どうも頼りにならぬ奴だとサーブたちの間では噂が出ていた。
ジョングリについた時、別なトラブルが起った。ここはもう人里離れた、4,000mの山中、市場には2日歩かねばならぬ。そしてこれから先20日ほどは、買い物のできない土地を歩くのだ。そのためダージリンから食料を買い、2日前のパミアンチでまた買い足して、十二分に食物があるはずだった。ところがもう食料の先行が不足だとシェルパたちが騒ぎ出した。われわれはアン・プルバを問いただす。お前何していたんだ、ちゃんと配給してたのか?彼は何やら返事をする。よくもこううまく返事が出てくるものだ。食物は袋からこぼれたのか、買い方が不足なのか、盗まれたのか、いずれにしても彼の責任ではないんだそうだ。仕方がないので人夫に買いに戻らせる。ここは1週間いるのだからその間に持ってくればよい。今度からちゃんと配給してくれよと念を押した。彼は承知して引き下る。ところが、ところがである。次の泊地のガモタンで、又もや米騒動が持ち上った。ここからは市場まで3日かかる。買って帰るまで3日かかる。外はショボショボ雨が降っている。その中でいくら似ていると言っても異民族のポーターやシェルパたちが食料のことなので真剣な顔をして交渉にくる。どうも気味の良い話じゃない。とうとう一部の人夫を市場に買いに下らせ、われわれの次の泊地に持って上らせることにした。食料はそれにギリギリしか無いと言う。われわれはレーションが充分あるが、彼らの分が無いのだ。分けてやろうにも大人数だし、こんなものでは腹にたまらないと受付けない。ガモタンはこの旅行で1番美しいサクラソウの花園だったが、こんなことになったのは残念だった。この頃になるとアン・プルバはサーブたちから全く見放されてしまった。そしてミゴタンに着くと、ダージリンに先行してバスの連絡その他をするという名目で、体よく追い払われてしまった。ミゴタンの次のナヤタンに来ると、市場で買った食料の一部が着いており、大部分は指示に従ってその又次のファルートへ送られていた。ナヤタンに来た食料は十分な量でなく、シェルパの中には朝食をとれなかった者もいた。
ファルートに着いて買った食料全部を手に入れ、ヤレヤレこれで食料騒動も終りと安心したら、驚ろいたことにその晩又々米騒動が持ち上った。また食料が足りないというのだ。ここはネパールとの国境の稜線で、人家はあるがまとまった食料は1日半行かないと手に入らない。第一あれほど買った食料がそんな簡単に無くなるはずがない。ロブソンを通訳にして人夫代表と交渉にかかる。彼らの言うにはサーダーのアン・プルバがダージリンへ先行する時、食料を余分に持って行ったのだと言う。欠席裁判では仕方が無いが、彼の今までの実績ではありそうに思われる。配給も定量を守らず、人夫たちの好きなだけやっていたらしい。人夫の方も大部チョロマカした奴がいたのだろう。
そんなわけでまたもや食料不足と判明した。こうたびたび買出しをやられたのでは予算が全く狂ってしまう。食料費は賃金に含まれているのでほとんど用意していないのだ。「買うのはいいが、その分は賃金から引く」と言ったら、「今度のことはアン・プルバの責任なのだから、われわれの賃金から引くのは不当だ。それならここで解雇してもらうから今までの賃金を払ってくれ」と言い出した。スッタモンダの末、インド隊の仲介もあって、今度の食料費は差し引かない、アン・プルバの給料から取り上げる、ということで落着した。
1番大切なサーダーがこの有様だったので、余計なところでわれわれはずいぶん迷惑な目にあってしまった。ダージリンに帰ったらテンジンに抗議して、減俸にしてやろうと意気込んでいたけれど、結局は日本的寛容さを発揮して不問に附してしまった様だ。テンジンも推薦する以上は、もっと能力のある人をしてもらいたかった。彼らの推薦は、血族の人間を儲けさせようというのが主目的で、能力などはどうでもよいらしい。
〇トゥンドウ
60歳の老コック。今回のシェルパの中で1番の経験者。エベレスト登頂の時もコックとして参加しており、8,000mを超えた優秀なシェルパに与えられるタイガーバッジも持っている。4,000mのジョングリでちょっと体を壊していたので、僕が「高度が高いからな」と言ったら色をなして、「こんな高さは問題じゃない。おれはもっと高い所へいく度も行っている」と誇らしげに言っていた。と言っても別に自分の経歴を自慢するわけでもなく、いつでも控えめで、山の名や地理をよく教えてくれた。
彼の仕事は、みんなが出発した後で炊事場を片づけてポーターに背負わせ、自分は本隊を追い越して途中で道しるべをつけたりしながら一番先に目的地に着き、キャンプ地を選定し、お茶をわかしてわれわれを迎えることだった。追い越して行く彼を追っかけてみたけれど、山でも坂でもものすごい大またでサッサと歩くスピードに歯が立たず、すぐにあきらめてしまった。小さなリュックを背負って大きなコウモリ傘を小脇にかかえ、霧雨の中に消えて行く彼の姿は、ちょっと天狗みたいな感じがした。
彼は何度もエクスペディションに参加しているくせに英語はあまり得意ではなかった。パライライスというから何かと思ったらフライドライス(チャーハン)のことだったり、ポテトがパテトになったりしていた。ある朝米のおかゆを作ってくれと言ったら早速作ったのはよかったが、砂糖がしこたま入っていて閉口した。インドでは米はたいてい何かと一緒にいためてあり、何にも入れないでそのまま食うことはないらしい。砂糖入りの米などは上等のお菓子に相当するとのことだった。彼は大いにフンパツしたつもりだったのだろう。
〇プルバ・ロブソン
僕のシェルパをした男で僕と同年、ダージリン近くのソナダに奥さんと母親と暮している。これもかなり経験があり、チョオユーやマカルーに行っている。アン・ブルパの次に英語がわかる。サーダーを返してしまってから誰を次のサーダーにするか、シェルパたちに決めさせたら、プルバ・ロブソンを選んだ。彼がサーダーになってからは荷物の置き去りはピタリと止んでしまった。出発となると飛び回って、逃げるポーターをつかまえつ、否応なしに荷物を背負わせる光景は頼もしくもおかしくもあった。トゥンドウが病気の時はコックもやったし、アン・プルバのおかげで荷がどうしても1つ余分になった時はポーターの役もやってくれた。米騒動には彼も手を焼き、アン・プルバは子供でしょうがない、と文句を言っていた。今度僕が行くとすれば彼をサーダーにするだろう。何でもやれるし、人夫の使い方もうまい。もっとも、ファルートで、たまたま来ていたネパール美人に夜這いをかけてオヤジに発見され、油をしぼられていたが、こんなことはたいしたことではないらしく、翌日はケロっとして指揮をしていたし、他のシェルパたちも何も変化を示さなかったのは興味が深かった。
歩く時は僕があまりやかましくなかったので、1人で先に行って適当な所で休んで待っていたりしたが、村田さんや富樫さんのシェルパも道連れにしてしまうので悪評だった。
ダージリンを発つ前の日、1人で彼の家に行ってみた。驚いたことに、何も知らせてなかったのに彼は道端で待っていた。お別れを言うために、飛行場へ行くバスの時刻を見計らって、昨日も待っていたのだと言う。やっぱり好い男だと嬉しくなった。ソナダの彼の家は四軒長屋の中の2室だった。低い屋根はジュートでおおった上を泥で固めてあった。6畳位の部屋には壁の半分を占める仏壇、ショウケースのようなガラス戸の衣類棚、反対側はベッドと長椅子と小机。それに不似合に大きいオールウェーブ受信機、それだけだった。ベッドはロブソン夫妻のもの、長椅子(と言っても部屋にあるような)はやはりポーターをやっている彼の妹の寝床なのだ。隣室は台所と母親の部屋らしい。お茶とビスケットと塩からいオムレツを御馳走になってから、奥さんの写真をとってやると言ったら、しばらく待たしたあげく、盛装して出てきた。この辺の婦人はふだんでもきれいな横じまのついた前かけをつけている。それに首からお守りを入れた大きいペンダント、刺繍をした靴という格好だ。済んでから妹やお母さんもいっしょに、と言ったら、今度は妹の方がそのペンダントと靴をつけて出てきた。ロブソン夫人はサンダルばきとなる。家に1つしかなかったのだろう。前かけはみんな持っていたが母親のが1番すり切れていた。
翌朝、いよいよダージリンを去ってカルカッタへ向う日、ロブソンはソナダの駅前でわれわれのジープを待っていた。僕らは固く握手して別れた。その後のうわさでは、彼は登山隊に同行中、転落死したそうだ。
〇テンバ・シェルパ
われわれが行きがけにファルートについた時、ダージリンから食料を補給しに来た人夫の中に、ばかに小さいポーターが1人いた。この人夫たちはすぐ解雇することになっていたのだが、このチビ公はサーダーを通じて引続いて使ってほしいと申し出た。僕はたいして気にもとめずにノーと返事しておいたのだが、翌日出発してみるとこの小僧はチャンと荷を背負って歩いていた。誰かと入れ代ったらしい。あまり小さいから年を聞くと18だと言う。どうみたって15-6なのに。17才と言うアン・プルバより2つ3つ若いことは確かだ。あまり子供だとすぐ解雇されるおそれがあるので、年齢をサバよんでいるらしい。話に聞くとジョングリに行きたいためについて来たのだという。小さくても働きがあるところを認めてもらいたいのだろう。大荷物を背負いながら空身のわれわれを小走りに追越してみたり、キャンプ地につくと標本の片付けや台所を手伝ったり大車輪で働いていた。石油バーナーの取り扱いはシェルパたちもあまりうまくなく、僕がつき切りでやっていたのだが、彼はすぐ要領をのみ込んで上手に扱えるようになった。言葉は通じないがカンは他の誰よりも良く、自分から働いてくれるのでしまいにはわれわれの誰もが彼を好きになり、何かにつけて働いてもらった。
ダージリンに帰って全員を解雇した時も、テンバ・シェルパだけは4日ほど残ってもらって標本作りを手伝ってもらった。アン・プルバが若くて地位があるのに、それに値しない無能さだったのに対して、テンバ・シェルパはそのカンの良さと誠実さのゆえに誰にも好かれたのだった。彼は良いシェルパになるに違いない。
〇女たち
カルカッタの第一印象の1つは、女性がいないということだった。商店で女の働いているところは大きな本屋、文具店くらい、あとは航空会社や観光案内所だ。税関の大きなビルの中にも、女性は2人しか僕の目にはとまらなかった。理論的には男と同数の女がいると思うのだが、彼女たちはどこにいるのか?おかげで街頭でも喫茶店でも車の中でも、風景が乾燥していて目を楽しませない。下層階級の女は街で働いているのを見る時もあるが、中流以上になると家から出ないのだそうだ。朝、市場へ買物に行くのはダンナ様の仕事だと聞いたことがある。家の中でも召使いを使うので、自分で働くことはないらしい。元植物園長の家にお茶に呼ばれた時も、男の召使いが出てくるだけで、夫人は遂に現われなかった。働かないせいかも知れないが中年過ぎの御婦人は太った人が多かった。サリーというのは長い1枚の布片で、それを腰から肩にまきつけるのだが、お腹の周囲はどうしてもはみ出してくる。それが太っているほど目立つけれど一向平気らしくみえた。大学には女学生がたくさんいたけれど、このくらいの年頃はスラリとして美人が多い。胴着を着ているので残念ながら肌は見えない。これが年をとるとあんなデブチャンになるのかと思うと、なんだかもったいなかった。髪は真中から分けてあり、その分け目が赤く染めてあるのは既婚者の印である。オデコの赤丸(ティカ)は誰でもつけている。男でもつける人がある。鼻翼(たいてい左側)にピアスして、とても小さい金色の飾をつけている人も多い。
田舎に行くと、鉄道工事などに女の人夫がたくさん働いていた。ツルハシを振ったり、ジャリの籠を頭で運んだり、男と同じに働いていた。シッキムでは女のポーターが大勢おり、高い所では男よりも優れているのだそうだ。
シッキムでは印象的な2人の婦人に会った。1人はテンジンの娘、もう1人はブータンハウスのタシ・ドルジ。
テンジンの娘はペムペム(多分この名だったと思う)と言い、御主人と共にヒマラヤンクラブに勤めている。われわれのシェルパやポーターの世話を一切してくれた。すばらしく切れの良い人で、仕事をテキパキ片づける、何か聞くとかなり面倒なことでも立ち所に筋道の通った返事をする。大勢のシェルパや人夫に次々と部署を指図する、男勝りと言うことばがピタリとあてはまる人だろう。
カリンポンには、ブータンの出店みたいなブータンハウスがある。われわれが訪ねた時、応対してくれたのがタシ・ドルジだった。だいたいシッキムやブータンの女は、低地のインド女と違って男と対等、時にはそれ以上に働く。タシ・ドルジなどはその典型らしい。まだ僕なんかよりずっと若いようだが、ブータンに関する政治、外交、文化上の仕事をここで処理しているのだという。ちょうど居合せたアメリカ人と一緒にしばらく話をして、お茶を呼ばれた。もの静かな感じで、ニコニコ笑っていた。そんなことよりわれわれが1番気に入ったのは、インドへ来て以来の美人だったことだ。それもわれわれ日本人のイメージに最も近い。村田さんなんかスッカリ気に入って、引っ張り出して玄関先で記念撮影をした。できた写真をみるとそれほどキレイではないのだが、そのインテリジェンスと共に、面会したわれわれ3人共、今度のインド行の最大の収穫の1つだった。
サーニー夫人は今度の調査の協同機関である、ビルバルサーニー古植物研究所の所長だった。彼女の御主人がこの研究所を作ったのだが、最近亡くなったので、その遺志をついで所長になっている。もっとも彼女は学者ではない。しかし所長となるとトテモ偉いらしく、インド隊の人たちは彼女の前ではみんな小さくなっていた。ダージリンへは旅行の前後に送迎にきてくれた。黒い服を着て、ジュズをいくつも持ち、話し出すといつまでも終らない。和田先生が専ら聞き役に回っていた。中々気難しい所もあって、われわれだけでホテルの近所を採集したら、協同調査なのにこちらにだまってやるとはケシカラン、と怒っていたそうだ。帰りにスバラシイ画を買ったと言って自慢するので、ちょっとのぞいたら、風呂屋の壁画みたいだったのでガッカリしてしまった。
〇ラマ教
インドの平地ではヒンドゥー教、イスラム教その他数多くの宗教が入り混っているけれど、山地へくるとラマ教一色になる。
至る所チョルテンと白い旗のぼりが見られる。チョルテンというのは塚のような塔で、日本の五輪の塔みたいな形をしている。石を積んだのや、シックイを塗ったのや、大小いろいろある。見晴しの良い所にはたいてい建っており、道祖神みたいな感じだ。白い旗(タルチョ)は八幡様ののぼりとそっくりなもので、お経の文句が一面に書きつけてある。チョルテンのまわりはもちろん、家の周囲もお寺の周囲も、何もない所にも何本も立ててある。お寺はゴンパと言い、真四角で頑丈な建物、中は広間で金銀赤青の極彩色の壁画、いずれもお経の文句と関係があるらしい、ただしあまり上手ではない。一方の壁は御本尊、その両側はお経を納めた棚、御本尊の前には水を入れたシンチュウの鉢がズラリと並び、その他モロモロの祭礼用具が置いてある。1番目につくのは銅製のラッパで、ふだんは写真の三脚のようにはめ込み式になっているが、使う時は引のばして3mくらいになったのを、1人が先を持ち、1人が元を持って吹く。
本堂の中央には直径1m以上もあって長さは床から天井に達するほどの円筒が立っている。この表面にお経の文句が書かれている。例のオムマニパドメフムというヤツだ。この円筒を1回まわせばお経を1回あげたことになる。お経が10行書いてあれば1回転で10回分のお経があげられることになる。円筒の横に腕木が出ていて、これを押しながら回すのだが、もっと頭の良いお寺では円筒の軸がクランクになっていて、いながらにして回すことができる。1回まわるとカーンと鐘が鳴るようにできているのもある。もっとケッサクなのは水車に連結してあって勝手にグルグル回っている。これならどんな御利益のあるお経でも労せずにあげられるのだ。お経を書いたタルチョも、風でゆれるたびにお経をあげているわけだ。信者はこの円筒の小形のを持っている。ちょうど赤ん坊のガラガラの様に、柄があって上部がグルグル回るのだ。回りやすいように分銅がつけてある。これを常にグルグル回している。必らず右回しだ。ロブソンの家に行った時うっかりこれ(マニという)を逆に回そうとしたら慌てて止められた。ロブソンの家では回り灯籠にお経が書いてあって、小さなローソクがこれを回していた。
この他に、道を歩いていると、長い塀の様なものにぶつかることがある。その側面には平たい石にお経を彫ったものがいっぱいはめこまれている。ネパールに行った人の話ではメンダンと言うと聞いていたが、シェルパたちはマニと言っていた。これは回すわけにはいかないから、人間の方が周囲を回って歩く。やはり右回りだ。右回りという事は大切で、チョルテンでもゴンパでもマニでも、通りすぎる時は必らずそれを右に見て通り過ぎねばならない。だからこれらのそばには両側に道がついている。われわれがうっかり左回りに通ろうとして引き戻されたこともたびたびあった。
山の奥に行くと石を積み上げて棒を立てただけのチョルテンが峠などにある。その他に道行く人が石を一かけらずつ投げて出来上ったケルンみたいなものがあった。これは何か特定の場所に限って作られるようだった。
ガントクの王宮附属のゴンパには宿泊所が設けられ、シッキム各地から来た坊さんたちが寝泊りして修行していた。年配の人から十才くらいの子供までいた。
リエゾンオフィサーの名はラマと言うし、その他にもラマの名をもつシェルパやポーターは多勢おり、みんなラマ僧の家柄だということだった。チベットでは、男の教育機関としてラマ寺があり、多くの男子は通過儀礼のようにその一時期を僧院で過ごすようだ。中には家へ帰ると坊さんになり、仕事がある時はポーターとしてかせぐという人もいた。
道を歩くとあちこちの平たい岩の面に、オムマニパドメフムの文字が刻まれている。古いのも新しいのもあったが、苔むして見えなくなりかけているようなものはなく、みんなきれいになっている。文字に色をつけたものもあるが、どれも真新しかった。きっと毎年信者が塗り替えているのだろう。
〇山で1番こわかったもの
猛獣毒蛇マラリヤ蚊のたぐいと想像していたが大違い。マラリア防疫は行き届いており、乾季にはインド国内どこでもまず安全であるという。毒蛇はコブラがいるいると話はよく出るが、コブラはおろか蛇をみたのは2回だけ、それも死んだのだった。名物のコブラの踊りもついに見なかった。山奥まで耕作されているので猛獣もいない。ある晩、「この辺はブラックレオパードがいる」と言っていたが、1年に何頭というほどらしい。もっともインド平原に面するヒマラヤの前山は、テライと言って虎狩りが名物の所であるが。
そんなわけで何にも怖いものは無いと思っていたら伏兵が現れた。山蛭である。
2,000mから3,000mにかけてのカシの森林の中は、ヒルの多産地だった。歩いていても、気がつくと靴に3匹、5匹とくっついている。みんなはがし取ってしばらく歩いてまた見ると、もう何匹もついている。日本の山蛭と同じ形のヤツだ。靴紐の穴から入り込み、毛糸の靴下の編み目の間から足にとりついて、気がつくと小指ほどに膨らんでいる。傷口は中々血が止らず、後になっても中々治らない。日本に帰ってからもまだカサブタができたりはがれたりしていた。
1番困るのは用便の時だ。朝起きぬけやりに行って、シャガミ込んでおもむろに取りかかろうとしてヒョイと見ると、グルリの落葉の間からカマ首をもたげて殺到して来るのだ。尺取り虫と同じ歩き方で、結構速い。こういう姿勢では最も重要な部分が、無防備で彼らの至近距離に露出されることになる。一遍でやる気がなくなってとんで帰ってきた。しかしやらないわけには行かないから、その次の日には食塩水の濃いのをビンに入れて行き、目的地の落葉を全部蹴散らして地面を露出させ、グルリに塩水をまいてその真中より少し前方に位置をきめた。土の上では足場が不安定なので、ヒルの進行速度は落葉の上よりはるかに落ちる。塩水の所まで達しても、これに触るとコロリと丸まって倒れてしまう。中心より前方に位置したのは、後方からの攻撃に距離をもたせるためである。これでやっと安心してキジがうてることになった。犬が眠る時グルグル回る意味がわかったような気がする。
山の見回り人と一緒に採集に行ったら、こちらは歩いていてさえヒルにとりつかれるのに、彼はハダシで立ち止っていても何ともないのには呆れた。もっともこれは例外で、やはりたかられることにはたかられるらしい。タバコの葉をもっている人を見たことがある。これでヒルにちょっとさわるとクルッと丸まって落ちてしまうのだ。
彼らは殺生をしない。人夫たちの見ている前でネズミをホルマリン漬にしたら、一斉に舌うちをして遺憾の意を表していた。そんなわけだから、ヒルでもシラミでもブッつぶしてしまうことはなく、自分の体から放すだけで放免してしまう。人間は手で取れるからよいが、馬やロバはそれもできないので、親指くらいのをたくさんぶら下げて歩いていた。
ヒルに次いでよくたかられるのはダニである。日本のと同じ赤くて小さいのが多いが、中には5mmくらいの緑色でピカピカつやのあるのがいる。われわれはしょっちゅう気にして取っているのでそれほどでもなかったが、ちっとも気にかけずにやぶでも何でももぐり込む富樫さんは、毎日宿についてから3匹5匹と見つけ出していた。
ノミなんかさぞかし多いだろうと思ったが、一度もお目にかからなかった。自分のテントに泊まったからだろうか。バンガロウに泊まったときにも、出会わなかった。後年、ネパールで学校に泊まったときには、ノミにたくさんたかられた。
〇お菓子
カルカッタでは街頭であちら風のお菓子をたくさん売っているが、どうも環境に清潔感がないので買って食べる気がしなかった。二通りの種類がみられた。1つは粉を固めたもの、1つは油であげたもの。
元カルカッタ植物園長ビシュワス氏の家によばれた時、粉で固めた方が出た。小さな饅頭くらいの大きさで、ミルクがいっぱいしみ込ませてある。後で物知りに聞いたら、牛乳のカゼイン質を固めたものだそうだ。頭に来るほど甘く、金色の紙がはってある。はがそうとしても薄くて千切れやすくてはがれない。ビシュワス氏がそのまま食べるのだと教えてくれた。後で考えると金色のは紙ではなく、本物の金箔だったらしい。
ガントクで営林署のプラダン氏の家へ呼ばれた。この人は僕くらいの年頃、スラリとした美青年で独身、小さいきれいな家に父親と2人で住んでいた。「rare old」のビールを飲んだのもこの時だ。いろいろなお菓子を出してくれたが、みんな油であげたものだった。甘いの塩からいの、赤いの黄色いの、まっすぐなの、8の字になったの、カリカリなの柔らかいの、各種各様なお菓子が次々と出てきた。インドにいたとき食べたものの中、うまい方の部類に入る。
山を歩いている時のある日、インド隊員が変ったお菓子を出してきた。カキ餅のようだがツヤがあって真白な不定形(というより牛のフンみたいな形)のもの、食べるとショッパくてカリカリする。飯をすりつぶして穴から押し出し、それを干し固めたものだそうだ。保存がきいて、食べる時には油であげるのだ。日本でもできそうなので、誰かもの好きが作らないカナと考えた。
〇名前
同じ名がとても多い。アン・プルバ、アンチョタールといったアン。ガルチェン、テンジン、ラマ、シェルパなど、5人もいれば同じ部分をもつ人がたいていいる。タシ・ドルジ、リンチェン・ドルジのドルジは雷という意味だそうで、シッキムで多かった。
カルカッタではもっと同名が多かった。ムカジー、バナジー、チャタジー、ゴーシュ、ボース、シャー、グプタなどという名はいくらでもいる。役所のデスクの名札をみると、例えば6人いる中で同姓が4人いたことがある。その上ムカジーだけでも色々なスペリングがある。Mukerjee, Mokergee, Muckaje それに類する変型があって、同じ読みでも綴りが違う。神様の名が多いということだ。
「テンジン!」なんて叫ぶと2-3人が顔をあげるので、フルネームで呼ばないといけなかった。
インド人がわれわれの名をどう思うかと思ったら、だいたい憶えやすいという。僕の名などは1番やさしい。カノイ・ティーなんていうお茶があるし、カナは食事のことだ。1番むずかしいのは津山先生だという。Tsuyamaのツの発音は舌がもつれるようだ。多くはチュヤマになる。二重子音が発音できず、スヤマになったりチャマになったり。ツの字に気をとられてチヤマだのチミヤと順序が狂ったり。津山先生は人に会うたびに自分の名をちゃんといわせるのに苦労していた。
〇宿屋
町ではホテル、山ではバンガロウに泊った。ホテルもピンからキリまである。カルカッタで最初に泊ったスペンセスは中の上くらいで、よく日本人がくるそうだ。古い建物だが一応全館冷房。廊下にはジュウタンが敷かれ、エレベーターもある。とにかく生れて初めてホテルに泊るので勝手がわからない。何でもチップはやるもんだと聞いているので最初にきたボーイに1ルピー(75円)やった。これがその時持っていた最小額だった。その次にきたのはバスルームをちょっといじって帰りかけ、入口でこっちを向いている。これにも1ルピー。入れ代りにまた一人きて靴をなおしてジュータンをちょっといじる、これにも1ルピー。荷物を4人で運んできたのでまた4ルピー。とうとう1ルピーがなくなってしまった。いくら何でも10ルピーやるわけにはいかない「これをくずしてこい」と言ってこまかくさせ、また1ルピーとられる。どうやら「カモが来た」と、用もないのに入れ代わり立ち変わりやって来たらしい。どう考えても割が合わないので次の日からやらないことにした。長くいる人に聞いたら1/10ルピーもやればよいのだそうだ。
食堂は朝食用と昼夜食用と別な広間を使う。席につくとボーイ長が来て今日のメニュー(毎日違う)を見せて注文をとる。その次に「Wine」と腕章を巻いた男がきて酒の注文をとる。酒を頼んだ時はこの男にチップをやるのだ。ボーイはターバンを巻いてインド風の服装をした偉丈夫だ。みんなヒゲを生やしており、お客のこっちが気がひけるほど堂々としている。もっとも、インド人は自分が悪い時だっていつも胸を張って泰然としているが……。
昼と夜は楽隊の演奏がある。ヨーロッパ風の音楽だが、ムードとしては全然われわれには合わない。食欲を減退させる。3日目に僕は飯がまずくて食えなくなった。
あんまり居心地が良くないし、部屋代も高いので、どこかもっと気楽な所を見つけようと3人で町をブラブラ散歩しがてら見に行った。博物館のわきの道を入って行くと小さなホテルがあった。小ぎれいな庭があって何となく感じが良いので、こっちが良さそうだと入って行った。主人は今昼寝中というので1時間ほど待った。ここはリットンホテル(Lytton Hotel)、主人はクリーチと言う。話してみるとここは日本の登山隊の常宿とわかった。宿料も15ルピーだという。スペンセスの30ルピーにくらべればわれわれにとって大変ありがたい。早速引っ越すことにした。ここはむしろ下宿で安く、長期滞在する人たちが利用していた。日本の商社の人も3人ほど泊っていた。そしてしばらくすると慶応、全日本、同志社の3つの登山隊がやって来て、さながら日本人の貸切ホテルみたいになった。同志社ははみ出して隣のホテルに入った。
ここは冷房はないが、モノモノしいサービスもなく、ボーイもチップをもらいにこない。とても家族的でノンビリできた。食事は定食制で、一々メニューを選ぶ手間もなく、こちらの知らない家庭料理のようなものが出るので、面白かった。こういうホテルを案内なしに見つけ出したわれわれのカンは大したものと自賛したものだ。
インドはたいていの町にダク・バンガロウ、レストハウス、インスペクション・バンガロウといった国立の宿泊所がある。その区別はよくわからないが、役人が地方に出張する時に泊るために、英国人が造ったものだ。チョキダルと称する番人がいつもいて、料理その他の世話をしている。山でもかなり奥までだいたい一日行程の所に建てられている。
ここに泊るには前以て役所に届けてパスを持って行かねばならない。山ではダージリンで手続きをして行った。ところが、カルカッタからダージリンまでのジープの旅は、そんな面倒な手続きはするヒマがなかった。第一、予定が決まらないのだ。途中の町にはインド式のホテルはあるが、話に聞くと到底われわれの泊れるシロモノではないらしい。結局行き当たりバッタリでバンガロウに転がり込もうということになった。津山先生はこういう出まかせ主義には向いている。町につくとバンガロウの場所を聞き、乗りつけてチョキダルを呼び出して、英語のほとんどわからぬ彼らにトウトウとわれわれの旅の目的や今夜ここに泊る重要さを述べ、最後にチップを握らせる。外国人であることと金のおかげで泊れることになる。幸い満員の所には一度しかぶつからなかったが、その時はレストハウスを教わって首尾よく目的を達した。
バンガロウといっても町によって良いものも悪いものもあって、フカフカのベッドやソファーに電話まである所も、藁のベッドだけの所もあった。天井をみると衝立のようなものがぶら下っている。扇風機だ。これに紐をつけて外から召使が一晩中動かすのだ。英国時代の名残りだろう。われわれはそんなことをさせる気もしない。大体部屋の中なんか暑くて眠れやしない。フカフカのベッドなどは体が埋まって最悪だ。ベッドを外に出して眠った。いくらマラリヤの心配がないといわれても、マラリヤの予防薬を飲んでいても、蚊はたくさん飛んでくるので安心できない。そこで蚊帳をつる。ベッドの四隅には細い棒を立てて1人づつの蚊帳を吊るようになっている。これで一安心だ。カルカッタを出る時マーケットで買った一番安い蚊帳をとり出してみたら、ばかに小さい。フッカケられるのがいやさに散々まけさせたら、「こんなのは赤坊用だ」と言って出してきた代物なのだ。体を曲げてようやく納まった。
テントも持っていたので、ある晩これに入った。夜中に水の流れる音がする。雨ではない。顔を出すと牛が放尿しているのだ。こっちの位置は下流に当る。浸水かなと流れる方向を見つめていたら、テントの隅をカスメて流れ去った。ベッドを庭に出して寝た津山先生は、牛が蚊帳を引張ったり顔を突込んだりするので散々な目に遭った。
ダージリンではセントラルホテルに泊っていた。中級ホテルだが、リットンホテル並み。3-4月は避暑シーズンなので混んでいたが、6月にはもうガラガラだった。1年の半分くらいしか泊り客はないらしい。われわれはおよそホテル住いの客らしからぬ行動だった。新聞紙を廊下一面に並べて乾かしたり、部屋の中はゴミだらけ、ボーイもあきらめて掃除にこなくなった。トイレの中では一日中バーナーを燃やし放して乾燥を続ける。部屋のドアを開けると、ムっと熱い空気が流れてくる。ホルマリン処理した標本を乾かす時などは、部屋中目がチカチカする。ちょうどその時和田先生が飛び込んできた。われわれは二部屋に分れているのだが、隣の便所に先客がいるのでこっちへ入るのだそうだ。緊急事態だったのでご利用願ったが、一分もたたぬうちに飛び出してきた。涙が出ていられないのだ。乾燥のための石油の消費量はものすごく、2缶の石油を3日で燃やしてしまった。熱気で造作が狂やしなかったかと心配だ。
カリンポンに一軒しかないヒマラヤンホテルの主人は、70歳を超える老人。耳は遠いがとても元気な人だった。若い頃チベットに長く住み、英国とチベットの混血児だ。食堂の壁には一面にチベットの道具が飾られている。チベットに潜入した河口慧海にも会っており、「彼はgreat manだ」と噂していた。
ガントクのホテル。名は忘れた。1階は店、2階が食堂、3-4階がホテルになっている。小さな部屋にベッドが2つ。景色は良いがうすら汚ない。晩飯を食べに2階の食堂に行った。ライスカレーらしきもの、白い飯(これは珍しかった)を盛った皿、ドロドロにしたものを盛った皿、これが2組出た。われわれは4人なのに。スプーンとホークも2組しか出ない。「これで終りか?」と念を押すと「終りだ」と言う。隣のテーブルをみると同じものを1人が1組食べている。何のことかサッパリわからない。おまけにまずい。とうとうあきらめて外に出、別な家をみつけて飯を食った。ここはうまかった。すばらしい香のダージリン茶を出してくれたのもこの家だ。こっちもホテルだったが、部屋は前のより悪かったので泊るのはやめにした。
シッキム王のゲストハウス。ここに泊ったのは原先生と富樫さんだけだ。手続がとれなくて、われわれは前述の半人分ホテルに泊ったのだ。雲泥の差とはこのことだろう。絶壁の上のシッキム風の新建築、窓からは数百mの谷をへだてて対岸の農家、無数の段々畠が見渡せる。朝夕の雲の動きなどすばらしい。ここは国賓が泊まる所だから料理人も腕の良いのがいて、本当の洋食が食えたそうだ。それよりもうらやましかったのは、テーブルの上に世界の銘酒がズラリ(といっても数は多くないが)と並び、何時でも自由に飲めることだった。
山の奥までバンガロウが発達しているので、テントに泊ったのは15日間ばかりだった。われわれはみんなテント生活に馴れていないので、ケッサクな話もある。寝袋をフトンと間違えてかぶったりした。一人一人の暖房用にと用意した小型のバーナーは、こわがって誰も手を出さない。おかげでみんな乾燥用に使えた。ショングリに一週間いた時、インド人たち(われわれはインチャンと呼んだ)はやや凹地の平らな所をテント場に選んだ。風当たりが少なくて、安定しているためらしい。僕はわざわざ少し高くなった傾斜地にした。湿るのがいやだったから。この場所は寝ている間に体がズリ下って行くが、馴れたらそれは止った。和田先生も2-3日こういう所にいたが、体が動くのでインド人たちの近くへ移ってしまった。ここを引き払うとき見たら、低い所のテントは大部湿っていたが、高い所のはたいしたことはなかった。
シェルパたちはこんなことはよく知ってるかと思ったら、ジョングリでは大テントを岡の頂上に、しかも入口を風に向けて張ってしまった。サーダーをつかまえて何でこんな所に張るんだと聞いたら、「先に来た奴が張っちゃったんで俺は知らん」という。おまけにフライ[テントの外側につける雨よけのシート]が無い。「フライはどうした」というと人夫の雨除けに持って行ったという。なるほど、フライでもってテントまがいのものができており、既に人夫が入り込んでいる。監督が悪くてしようがない。おかげでそれ以後、フライは人夫用になってしまった。だが大した雨も風もなかったので何ともなかった。連中は着のみ着のままで雨具も持たない。ダージリンを出発して2-3日したら夕立があり、その晩早速「雨具をよこせ」と交渉にきた。余計な騒ぎを起したくないので、ポリエチレンの袋を切ってみんなにやっておいた。
テントの生活は馴れてないとうっとうしいもので、とくに天気が悪いとなおさらだ。和田先生などは初めは珍しがっていたが、3日もするとスッカリユーウツになったらしく、自分のテントに引きこもって、日中も出てこなくなってしまった。のぞいてみると、アルコールをチビチビやってわずかに気をまぎらしているらしい。ファルートのバンガロウに帰ってきたときにはすっかり元気になり、やっと人心地がついたようだった。
僕らの泊った最低の宿はシリグリだった。ジープの旅で明日はダージリンという日、道草を食ってシリグリの町に入ったのは日が暮れてからだった。最後の日だからホテルに泊ろうと行ってみると満員だった。別のホテルを教わって道を聞きながら行くと、ここも満員、もう8時過ぎだ。バンガロウは町外れで遠い。どこでも良いから近くで泊れる所を……。と言ったら筋向いのホテルを教えてくれた。下は食堂、2階が宿なのだが、何ともセセコマしく、ガタピシで物置みたい。壁板の隙間から隣の灯がもれてくるし、同宿のインド人たちが深夜過ぎまで大声でしゃべっている。ベッドは壁に80cmほどの木の棚があるだけ。3人1室で3畳くらい。まともな時ならとてもいられるものではないが、疲れているから無いよりましと寝袋に入ったが、夜中原因不明のカユミになやまされ、4時頃には早々に逃げ出してしまった。10時にクルセオンのChinese Restaurantで食事をするまでは、何も食べられなかった。出がけにバナナを買ったのだが、これはすかすかでまずく、おまけに種子がたくさん入っていた。
〇インドの道の良さ
インドの道路はとても良い。キシャンガンジからシリグリに至る国道は、古くからの幹線道路で、舗装の幅は4車分、その両側に同じくらい土の部分があり、大きなマンゴーの並木がどこまでも続く、これが無ければうだってしまう。狭い橋が所々あるのが気になるが、それも大部分取払って川を埋めてある。そこに来ると道が凹んでいて、急にフワッと落込んでガタンと乗っり上げるのが玉にキズだった。
カルカッタからキシャンガンジまでのナショナルハイウェイ24号は、東パキスタンが分離したためあちこちに新しく作られた部分があり、所によって出来不出来がある。1番始末の悪いのは一見何とも無いのだが細かい波状にできてしまった所で、良いと思ってフッ飛ばすと急にガタガタといやなゆれ方をするので困った。われわれは大荷物を積んでいるので、急にブレーキをかけると荷が前へなだれ込んでくるのだ。街路樹も植えたばかりで日陰がなく、暑くてしようがない。その代り良い所は幅30mもあったろうか、コンクリートの真平な道が2kmも続いていた。戦争中の飛行場の滑走路がそのまま利用されていたのだ。
道路が良いと言っても厚い舗装がしてあるのではない。砂利をまいてアスファルトを流しただけの簡易舗装だ。大体地面が固い。乾季の田圃なんかカチカチで、どうにもならないほどだ。それに交通量が全然少ない。1日走ったって数台のバスやトラックに出会うだけ。大型トラックだのダンプカーなんか無い。言ってみれば産業活動がそれだけ低いのだろう。こんな道を日本並の交通量が動いたら、1日でメチャクチャになってしまう。外国の道は良い良いと言う人たちはこんなことも見た上で言ってるのだろうかと疑問に思った。
街路樹のマンゴーやジャックフルーツ(パンの木の一種)にいっぱい実がついている。この果実の所有権はどうなっているのかと、よそ事ながら心配になった。ジャックフルートなんか1個で一抱えもあるのだから、どっちに行くかでもめるだろう。所によっては木の幹に棘のある枝をからませて取られないようにしてあった。やっぱり持ち主がいるらしい。
〇フェリー
カルカッタからダージリンまでの約700kmの間、橋の無い川を5ヶ所渡らねばならない。乾季には舟橋を作ってある所もあって3ヶ所で済んだが、帰途には雨季の増水で5ヶ所とも渡し舟だった。舟を2つ並べて竹を渡して床が作ってあるだけ。手擦なんかついておらず、車の長さギリギリなので、少し行き過ぎるとドボンとやってしまう。僕も村田さんも日本出発寸前にやっと免許をとったばかり。できなくても上手な人に代ってもらうわけにいかない。ただ運を天にまかせるばかりだ。運転してる奴は落っこちれば自分も一緒なのでクソ度胸をすえてしまうが、見ている方は気が気でない。それでも無事に渡りおえて岸を上って行く時の気持ちは何とも言えなかった。
ガンジス河を渡るフェリーはこの中でも最大のもので、大型船なので乗せる際の心配はない。桟橋がついていて誰でも楽に入れられる。大きな鉄の船で、トラック10台は乗せられる。一日一回しか出ないので、時間を気にしながらギリギリに飛込み、やっと入れてもらえた。すぐ後からもう1台きて乗せろという。全部の車をわきに寄せれば入れられるのだが、それには車を出したり入れたりせねばならない。事務長は人夫を10人ばかり呼んでくると3台の車を次々に持上げさせて片方に寄せてしまった。おかげでその車は入れたが、今度は出る時が大変。スレスレに置いてあるのでちょっとでもマズると擦ってしまう。隣はピカピカの高級車、運転手がコワイ目をしてにらんでいる。冷汗タラタラでやっと脱出することができた。
ガンジス河がインド最大の河であることは言うまでもない。カルカッタから行く時はこれをさか上る。向い風もあって3時間かかった。河と言っても水平線が見えそうな大きさで、真白な中洲からは砂煙が立ち上り、河岸の絶壁が風や波で次々と崩れて行くのが見られる。堤防も何もなく、ガンジス平野が突然切れて高さ10mほどの下をうす茶色の膨大な水量がゆるやかに流れているのだ。その壁には数千年の歴史を語る無数の横縞がどこまでも続いていた。
帰りは雨期で小さな河はすごく増水し、流れも速くなっているので、ガンジスはさぞすごいだろうと思ったら、水面がちょっと上ったかと思う位で、最初見たのと何も変っていなかった。西へ走るこの河の上流では、まだ雨期に入ってなかったのかも知れない。行く時3時間かかったこの河も、帰りは1時間で渡ってしまった。
〇牛
牛はヒンドゥー教の神様の使いで人類の母なんだそうだ。だからインド人は牛を食べない。カルカッタの町ではどこでも牛があふれている。誰かが管理しているのでもなさそうだ。牛が道を歩けば自動車も止って待っている。町の牛は交通道徳をわきまえていて、車道の真中で横になったりはしない。ちゃんと車と平行に歩いて行くことが多い。田舎の牛はその点困る。自動車の何たるかを解さないらしい。雨上りの道をジープで走っていた。はるか彼方に道にねそべった牛が見えたので、ブーブー鳴らしながらよけるだろうと思ってそのまま進んだら、全然動かない。とうとうぶつかってしまった。雨で滑ってブレーキが効かなかったのだ。はねとばされてもまだ坐っている。腰が抜けたかなと心配になった。神様をはねたんだから人に見られると怖い、幸い畠ばかりで女の子が1人そばにいるだけだった。その子が身ぶりで「大丈夫」と言うので(と言ってもこっちで勝手にそう解釈したのだが)、見つからない中にと逃げ出した。大部行ってふり返ると、やっと立ち上って道を外れて行くところだった。どうせよけるなら早くしてくれればよいのに。
ここの牛はインド牛で、背中にコブがある。牛によってコブが大きいのも小さいのもあり、大きいのは肩の所が烏帽子の様に30cm以上も盛り上っている。とてもおとなしい目をしており、体の色は黒と白のブチが多い。茶色は見なかったが白いのはずいぶんいた。以前、善光寺にインドから聖牛がきた時、真白だと珍しがったが、インドではちっとも珍しくないのだ。
神様だから大事にするだけかと思ったら、荷車を引かせているのにもたくさん出あった。コブがあるのを利用して、ここに横木をひっかけ、2頭並べて使っている。
おそらく人間の数くらいの牛が、ほとんどが生産と無関係に生きているのだろう。食糧事情が良い国ではなく、米を輸入しているほどなのに、こんなに牛がいては大変だろう。
山へかかったらインド牛は見えなくなった。日本で見るような茶色のコブのない牛になった。それも数は多くない。もっと山奥へ行ったらシッキムの牛飼いに会うことが多くなった。彼らはホルスタインを飼っている。オーストラリヤから輸入したものだそうだ。
ヒマラヤにつきもののヤクは低い土地では生活できず、4,000m以上で見られた。長い毛がたれ下った巨大な体をしている。おとなしいと聞いていたが、写真を撮ろうとするとグッとにらみつける、ノソノソ近寄って来るのでこわくなり、とうとう撮り損った。山を駆け歩いてる所を見たが、ズウ体に似合わずとても速かった。
ダージリンを発つ前日、老コックのトゥンドゥの家へ行ったら大きなホッスみたいなものをくれた。雪男かなと思ったらヤクのシッポだと言った。面白いけれど日本では使いようがなく、しまっておいたらみんな虫に食われてしまった。
〇交通法規
左側通行なので楽だ。それに日本のみたいに複雑ではないらしい。日本の国際免許があればインドの運転免許もすぐくれると思ったら、法規の口頭試問をやられてあわててしまった。特に日本と変ったところはないが、交叉点で左折する時は赤信号でもやってかまわないのが違っていた。
閉口したのは道路標識だ。カルカッタは一方交通が至る所にある。それもタクシーはいけないとか、トラック(ローリーという)はいかんとか、小型車はよいとか、何時から何時までいかんとかが小さい字で書いてあるだけなのだ。初めての人間ではとうてい目的地に達することはできない。日本でも近頃そうなって来たが。町へ出ると前に走ってる車の後にピタリとくっついて、自分の曲りたい角をそれが曲らない時は曲るのをあきらめたものだった。その中にだいたいの見当がついてきたので、朝の混んだ時でも何とか走れるようになった。
ただし書つきの標識はこの他にもたくさんあり、交叉点の赤信号左折でも「No Infiltration」と書いてある所ではやってはいけないのだ。駐車禁止も、時間の規定だけでなく、何曜と何曜はこっち側、その他の日はあっち側なんていう場合もあった。
1番困るのはゴーストップ。交叉点の真中に立ってるヤツは問題ない。道路のわきにあるヤツだ。あちらではメインストリートの歩道はみんなアーケードになっている。レンガの太い柱のすぐ裏側に信号機があって、しかも縦形なので、すぐそばまで行かないと存在すらわからない。これも前の自動車を信用してピッタリついて行くよりテはなかった。
夜、自動車を走らせる時、市内では前照灯をつけないことになっている。そういう規則があるのかどうか知らない。すれ違う車の光で目がくらまないためだろう、と考えるのは好意的で、実はバッテリー節約のためかもしれない。ところが街が明るいかというとそうでもないので困る。目抜き通りのチョウロンギーあたりはよいが、マイダン(芝生の大広場)の中の通りなどは、ガス灯(街灯の半分以上はガス灯だった)がまばらにあるだけで、前後の車もよく見えない。だからときどきライトをつけて前を確かめると共に、こちらの存在を知らせる必要があった。そんな暗い交叉点で巡査が手信号をやってる時がある。暗い中からいきなりドナられるので何だかサッパリわからない。こっちも暗いのを幸い逃げてしまった。
巡査はとても多勢目につく。田舎の1日に車が何台も通りそうもない所でも交通整理をしていた。交叉点ではドラム缶を胴切りにした台の上で手を振っているが、これなどは良い方だ。大きい道と小さい道の交叉点などは、小さい道の出口に立っている。その道をくる車はわかるが、大通りをくると信号していることもわからない。そこで又どなられることになる。
ジープを手に入れた日の夕方、巡査につかまってしまった。交叉点で左右に気をとられてしまっていて、巡査が手信号しているのを見落してしまったのだ。夕闇の中に黒い巡査が立っているのだからシロウトが見落すのもやむを得ないかも知れない。驚いたことに、法規の本を出してその場で口頭試問を始める。そんなことやられたら昨日もらったばかりの免許を取り上げられてしまう。「今日運転を始めたばかりだから」と言ってやっと放免となった。外国人と見て大目に見てくれたのかも知れないれない。ボクセスは要求されなかった。
ダージリンでも1度巡査につかまった。カルカッタからジープで着いた日の午後、岡の上の見晴しのよい所へ行こうと、狭い道を無理して上って行ったところ、頂上で巡査につかまった。こっちは車で入る所じゃないというのだ。「ダージリンの道路はむずかしいから、俺が教えてやる」と乗込んできた。道をあちこち指図しながら進むので、これは親切な男だわいと思っていたら、行き着いた所は警察だった。オエラ方の所へつれて行かれて油をしぼられそうになったので、この時も「さっき着いたばかりだから」と無事帰してもらった。ダージリンは坂ばかりの狭い道で、至る所通行止と一方交通ばかり。われわれのホテルから上は全部通行止だったのだ。
カルカッタでは少なくも3種類の巡査がいた。1番多いのは白い服に黒ゲートル、赤いトルコ帽みたいなのをかぶっている。肩からH型にベルトをしめていて、このベルトについている金具にコウモリ傘をとりつけ、両手が使えるようになっている。乾季の日除け、雨期の雨除けだ。帰国してから、野外観察会の説明役のとき便利なので、同じようなものを作ろうとしたが、うまくいかなかった。ゲートルなんかして暑いだろうと思ったら、ズボンのヒザの所に切込がついていて、風が通るようになっていた。
この他に白い服(前のより上等)で、日本のポリスと同じ白い帽子をかぶったの、カーキ色で同様な格好のポリスがいた。ベンガル州のポリス、カルカッタ市のポリス、もう1つ何とかのポリスなんだそうだ。
ダージリンの巡査はカーキ色の上衣と半ズボン、ストッキング、黒いトルコ帽に赤い房がつき、必らずアゴ紐をかけていた。所によってポリスの服は違うらしい。
脱線してしまったが、巡査が多くても自動車の運転はすごく乱暴だ。交叉点でUターンしたり(近頃は日本でも公認となった)、道を車が斜めに横切ったり、左側を追越してグイと前へ出てきたり。巡査が見ていても平気でやるし何とも言わない。あちこちぶつけてクシャクシャになった車がずいぶん走っている。別に機能に支障はないからだろう。
ダージリン近辺のバスはみんなランドローバーに座席をつけたもので、ギュウ詰めにして9人乗り、それに前後左右上下一杯荷物を載せている。原先生や富樫さんはこれに乗ったが、荷物にはさまれて身動きできなかったそうだ。ガントクでジープで採集していた時、前を行くバスがときどき妙によろめく、酔っぱらい運転かナと思ったが、よろめき方が規則的なのでよく見ると、前輪のボルトがゆるんでグラグラになっているのだ。片側は絶壁である。こちらが追い越しぎわにどなって知らせてやるまで、平気で走らせていた神経には感心するより仕方がなかった。
人間の方は道路交通法などは全く無頓着だ。交叉点の斜め横断など朝飯前。神様である牛がやるんだから人間がやるのは当り前なんだろう。夜になると歩道は涼しく、眠る人で占領される。ゴザを敷いてその上にゴロ寝。木で作った寝台のワクだけみたいなのに粗い網を張ったものに寝ているものもいる。これなら下の方からも風がきてよいだろう。涼み台の元祖はこれかなと思った。蚊のような刺す虫が多いけれど、そこまで気にする人は少ないらしい。一度見たのは、バナナを白い布で包んだように、屋根形にピンと張ったものがベッドの上に載っていた。よく見たら、自分自身を布で巻いて、足先とおでこで支えて蚊帳の役目をさせているのだった。これでは寝返りを打てないだろうに、どうやって一晩過ごすのか、考えてもわからなかった。
〇カストムハウス
カストムは関税でカストムハウスは税関(の建物)。カルカッタのフーグリ河にかかる大橋、ハウラーブリッジの近くにある白い大きな建物が、われわれのウラミの地だ。40日間、文字通り朝な夕なにここに通ったものだ。津山先生なんか1日に4回も行ったことだってある。おかげでわれわれは関係のある1階と2階はくわしくおぼえてしまった。
カストムハウスにおけるわれわれの経験だけで、優に1冊の本ができるだろうが、行く度にやり方が違うだろうから、参考にはなるまい。
始業は10時。ところが役人はなかなか出てこない。11時になってもこないことがあった。遅刻しても減給されないし、上役にコゴトを言われることも無いらしい。一説によるとダンナ様方は、朝市場へ行って買物をすませ、それから御出勤なのだそうだ。12時になればまた昼食に出てしまう。とにかく午前中に何か1つ聞いておく。こっちもホテルに帰って昼食。午後は2時から5時まで。この間にたくさんの人間が仕事を済ませようと殺到するから、また1つ聞き出すくらいで1日が終ってしまう。もうちょっとくわしく言うと次のようになる。
荷物のパッキングリストの検査をしてもらいたいとする。通関業者の所へ行って、それはどこの係の誰がやるのか聞き出してもらう。通関業者と一緒にその人の所に行く。コレコレこうだと話すると、「願書を書いて出せ」と言う。これで午前は終り。業者はそんなことはわかっているはずなのに、一々お伺いを立てる。午後は通関業者の所で願書の原稿を書いてもらう。これで終り。夜の中にタイプして翌日役人の所へもって行く。「ココをこう直せ」とくる。午後直して持って行く。受取る。それでいいかと思ったら、翌日行くと又別な書類を作らせられ、同じ手数をかける。最初の1つを書く時は、これが済めば万事終り、といった顔をしているのに、次々と同じことが起ってくる。初めにコレとコレとコレとコレが必要、とは決して言わない。書類を直すのにも、1つ直すと同じ書類の次の1つを指摘する。イジワルなのではなく、そういう習慣なのだ。通関業者があきれているが、その業者自身も同じことをやる。金を払う行列に並んでいる間に、「この次の原稿を考えよう」と言うと「それはできない、これが済んでから」と言う。業者の話では、今までの最高は同じ書類を直すために午前中に8度、役所の階段を上下したことだそうだ。役所の実働時間から考えると、そんな回数はとても考えられない。
役所のデスク間の連絡もすごく悪い。電話がないので一々見に行かねばならぬ。書類の回転も遅く、同じ建物の同じ階の端にある部屋から書類を小使いが持ってくるのに、1日かかったことがある。確かめに行ったらさっき持たせたと言う。くる先で待っていたが、それがきたのは午後遅くだった。いくらあちこち寄ってくるにしてもかかりすぎる。成蹊の本館くらいしかないのに。
こんな具合だから、速く仕事をしてもらうためにはチップをやらねばならぬ。チップはここでは半ば公然と行われている。役人から「日本へ帰ったら人形を送ってくれ」と言われたこともある。
カストムハウスの1階の左翼はホールになっていて、通関業者がデスクをかまえている。輸出入の事務はみんな彼らの手を経て行われるのだ。50人もいたろうか。いつもザワザワガヤガヤして、落ち着かない所だ。1人が1つ机を持っていて、書類綴りが少しある。それで全部。あとは税関の中を歩き回って役人と交渉するのだ。こんな事務屋に重要な道具であるはずのタイプライターを持っているのは2-3人しかいない。電話もそんなものだ。インド人の鍵好きは前に話したが、電話にも鍵をつける。自分の外出中に他人が使うのを防止するため、ダイヤルの爪穴に小さい錠前をかけてしまう。こういうところにも鍵がかけられるのかと感心してしまった。
税関での話は書けばいくらでもあるが、思い出してもクソ面白くもないことばかりだから止めよう。
〇風呂
インド人は風呂へ入らない。水で体を拭くだけだ。カルカッタあたりのホテルでは西洋式のバスがあるが、ダージリンのセントラルホテルにはなく、湯の出るシャワーがあるだけだった。インド人の体臭が強いのも、風呂へ入らないためかも知れない。
東京みたいに空気が汚れていないから、カルカッタでもそんなにシャツが汚れない。洗濯に出すと、水が汚ないのでかえってシャツがだんだん汚れてくる。空気が乾いているから少し風呂へ入らなくても体がベタつくこともない。
カルカッタをジープで出発してから、山の中を歩いてダージリンへ帰って標本作りが一段落するまでの50余日、僕は風呂へ入らなかったし体も拭かなかった。下着も1度換えただけ。山の中は湿度が高く、天気も良くないことが多かったが、大して気持ちが悪くもなかったのは、あながち僕が鈍感なせいばかりでもなさそうだ。体を拭く段になって、さぞかしアカがたくさん出るだろうと思ったら、これもたいしたこともなかった。どうも日本とは気象条件も違うらしいし、体の方も違ってくるようだ。
バスルームには大きなアルミのコップが置いてある。1リットルほども入るだろうか?湯をかい出したりする道具だと思ったので、そのように使ったり、ヒゲソリに使ったり、体に湯をかけたりして使っていた。しかし風呂おけのないところにもこのコップがある。どうも用途が違うらしい。
ダクバンガロウのバスルームにもこれがあった。ここにはシャワーも水道もなく、バケツに水を汲んで浴びるのだ。そして床には大便用の穴が小さく開いている。そのわきに例のコップが置いてあった。ウンチの後始末には紙を使わず、左手の指で水をかけるのだという。その水源が例のコップなのだと、後で教えられた。
用途はわかったが、ヒゲソリに使ったりした手前、どうもにわかに認めたくはない。もう少しよく聞いてみたら、カルカッタあたりのは、われわれが考えていた用途に使われることが多いという話だった。でも、インドでもネパールでも、モノの後始末は前述の通りなのである。
〇拍子木叩き
ダージリンで6月の夜、サーニー夫人が散歩をするというので、みんなおつき合いでついて行った。インドの晩飯は8時過ぎだし、観光シーズンも終ったダージリンの町は、もう商店も閉まっている。わずかにレストランから音楽がもれてくるだけ。1軒だけクリスマスのように中を飾り、ジャズを鳴らしていた。若い人たちはどこも同じと見えて、中はいっぱいだった。サーニー夫人はこんなものは見向きもしない。町を抜けて公園の方に進む。噴水には美しい照明がしてあった。展望台へ行って月光のカンチェンジュンガを見ようということになり、岡の中腹を回って行ったが、カンチは雲の中だった。谷間のあちこちに灯がまたたいていて、それなりに美しい。静かな夜の中で「カチン、カチン」という音がそこらの草むらから聞こえてくる。ちょうど紙芝居の拍子木のようだ。何か虫にちがいない。インド隊員に聞くと、「バッタだよ」と言った。僕は、日本にカネタタキがいるのだから、インドにヒョウシギタタキがいても不思議はないナと思った。
ガントクのバンガロウの附近は、王宮を縁取る林の続きになっている。ここにはホタルが一杯いた。日本でもよく見かける小形のものだが、翅が茶色っぽく、光は橙色を帯びている。たまに大きい光のが飛んでくるのはメスだろう。こいつを採集してやろうと思うがなかなか現れない。やっときても、ネットがないから、そばに来たヤツを手でたたき落すのだからくたびれる。急斜面なので、追いかけ回すとこちらがころげ落ちてしまう。ジット闇を見つめて待ちかまえていると、ダージリンで聞いたカチンカチンがそこら中で鳴いているのだった。まるでカチカチ山だ。バッタなら鳴きやみそうな近くでも鳴いている。ねらいをつけて懐中電灯で照らしてみたら、4-5cmの茶色のカエルだった。木の枝にとまって、ノドを透き通るほど膨らませては、体に不似合な激しい音をたてるのだ。明かりで照らしても一向平気で、一所懸命カチンカチンとやっていた。
〇バルカカナの日本人
インドは休日が多い。日曜日の他に1年に50日あるという。カルカッタで通関を待つ間にも、3日続きの連休があった。津山先生は体があまり調子がよくないのに、ジッと休んでいられないタチだ。どこかへ行こうというわけで、ランチという避暑地へ行くことになった。カルカッタのハウラー駅を20時に発つランチ・エクスプレスに乗れば、翌朝8時には着くのだ。切符を買う時の話と汽車の中の話はいずれ話すことにして、とにかく翌日の10時にわれわれはランチに着いた。2時間延着と日本なら大騒ぎだろうが、インドでは問題にする方がアホらしい。とにかく着いたのだから。カルカッタで往復切符を買おうとしたが、連休で売り切れだったので、行けば何とかなると神風精神を発揮したのがいけなかった。帰りの切符はここでも全部売れてしまってるという。おまけに泊ろうと思っていた洋式ホテルは満員。近くのインド式ホテルに入った。ここは思ったより良かった。ランチへきた目的は、大きな滝があるというので、滝のそばなら植物が豊富だろうと思ったからだ。ところが乾期なので、滝には水が1滴もなく、ハゲチョロケだった。
カルカッタ帰着が1日でも遅れれば、それだけ通関が延びることになるので、是非休日明けには帰りたい。ホテルの支配人と相談すると、自動車で半日行程の所にバルカカナという町があり、そこが急行の始発駅だから何とかなるだろうと教えてくれた。翌日タクシーを呼び、炎天下をバルカカナへ向ったが、商売は仕方のないもので、何度も道草を食い、バルカカナには13時過ぎに着いたろうか。駅長に聞くと1枚しか切符がないという。津山先生は丁度ぶら下っていた親切強調週間のポスターを指しながら、われわれの日印協同科学調査の意義について大演説をブチ、何とかしてくれと喰い下がる。インドでは断られてアッサリ引っ込む手はないのだ。駅長は、親切週間は先週で終ったけれど、君らは外国人だし、他の駅に問い合わせて何とかしようと言った。やっとホッとしたら、トタンに腹がへってきた。朝から焼けつくような太陽の下をテンピのようなタクシーに乗ってきたのだ。急行の始発駅なのに、この町には食堂もない。すると駅長が、この近くに日本人がいると言い出した。そこに行って休ませてもらおうということになり、電話をかけてもらった。あちらも驚いたろう。出し抜けに知りもしない連中が休ませろなんて言うのだから。とにかくいらっしゃいと言われて、また車を走らせた。この辺は一面の荒地で、マメ科のトゲだらけの木や低木がまばらにある他は、赤い地面がむき出しだ。空まで何だか赤っぽい。
14時を回ったころやっとたどりついた所は、アサヒガラスの工場だった。赤い地肌の盆地の真中に、大きな工場がある。ガラス工場としてはインド最大だそうだ。こんな所に建てたのは、何か原料を得る関係からかと思ったら、近くに石炭が少し出るくらいで、原料はみんな遠くから汽車で運んで来るのだそうだ。イギリス人が最初にここに作ってしまったので、仕方なくそれを引き継いでいるだけらしい。
出迎えてくれたのは山中さんという人で、他に日本人は数人いるが、今日は休日で遊びに出かけているとのことだった。ここで飲ませてもらったビールの味は、未だに忘れられない。まずいまずいと言っていたインドビールだが、冷えていたことと、こちらの受入れ態勢が申し分なかったからだろう。続いてふるまわれた日本的食事も、カルカッタの邦人の家で出た方がずっと上等だったにもかかわらず、インドへ来て以来の日本食みたいに感じた。やっと人心地がついて、景色を見に室外へ出ると、ムッとくる熱風、ギラギラまぶしい太陽、荒涼として緑のないながめ、カゲロウの中に住んでいるようなものだ。山中さんはもう2年いると言った。この工場は赤字でどうにも仕方がなかったのだが、日本人がきて指導を始め、この頃ではインド最大の生産をあげるまでになったと言う。こんな所で仕事以外には何の楽しみもなく、食事もたまに日本のものが少し入るだけ、家族もここでは呼ぶわけにもいかない。全く感心するというか、大変だナと思うのが精一杯だった。
夕方になって駅へ戻る時間になり、工場の車で送ってもらった。岡の上から見下した荒地の中の工場の景色は、大変印象的だった。
駅では切符が手に入り、せまいコンパートメントに3人もぐりこんだ。翌朝カルカッタに帰ることができた。
〇ボダイジュの借り倒し
日本の山地にあるボダイジュというのはシナノキ科だが、インドのはクワ科だ。この方が本物で、オシャカ様もこの下で悟りをひらき、説教し、死んだのだ。種類はたくさんあるが、Ficus benghalensisとF. religiosaがよく見られる。前者は葉が小判型、後者は心形で先が長いのですぐわかる。日本でもF. religiosaは観賞用によく見かける。インドで1番よくお目にかかったのはF. benghalensisの方で、その名の通りベンガル平原の至る所で目につく。
カルカッタ植物園には世界で1番大きい木がある。大きいといっても高さや幹の直径ではなく、その樹冠が覆う面積だ。グレイト・バンヤン・トリーとよばれるこの植物園の名物は、1本の木で1つの森を作っており、直径が129mもある。これがF. benghalensisでありベンガルボダイジュであり土名バンヤンなのである。この木は枝から気根が下り、地につくとそれが太くなって支柱となり、さらには枝を遠くに伸ばして行く。そこで年経たバンヤンは大きな日陰を作り、日ざしの激しいこの地方では、無くてはならないものとなっている。古い街道にそって大きいバンヤンがどこまでも続き、被陰樹として大きな役を果す。村はずれの1本のバンヤンの下は、子供の遊び場となり、バスの待合所となり、旅商人のたまり場となリ、バザールができる。オシャカ様を真似たわけではなかろうが、昼寝をするために涼み台を組んである所も多い。この下で瞑想にふけるのも、人を集めて説教をするのもごく当り前のことと思われた。
これらのボダイジュはその成長の過程で面白いことをやる。鳥の糞と共に木の枝に排泄された種子は成長し、宿主の幹を伝って地面に根を下す。これは寄主から養分を奪う寄生ではなく、単なる足がかりとする着生のようだ。地面に足を下したボダイジュは、今度は上へ上へと伸び、枝を四方に張り出す。その幹は曲がりくねって宿主の幹をとり囲んでしまう。最後に宿主はボダイジュの枝におおわれ、その幹にとりかこまれて死んでしまう。こうして1本のボダイジュが独立するのだ。正にひさしを貸して母屋をとられるの類だろう。近頃は、こういうものに「絞め殺し植物」という物騒な名前がつけられている。あちらこちらを歩くと、この乗っ取り計画のいろんな段階をみることができた。慈悲や博愛の精神を説いたオシャカ様も、自分に陰を作ってくれるボダイジュが、まさかこんなガメツイことをするとは気がつかなかったろう。オシャカ様でもご存知あるまいとはよく言ったものだ。
〇タテガミのあるブタ
カルカッタからランチへ行く汽車の中から見ると、平らなところはみんな畠になっている。農家などはごくまばらで、こんなに少ない人口でよくこんな広く耕せると思う。イノシシがときどき目についた。人手が足りなくてイノシシに荒らされて大変だなと思っていた。
カルカッタからジープでダージリンへ行く途中では、いろいろな動物に出会った。日本のと同じくらいの小さいリス、これはカルカッタ市内でもよく見る。えりが灰色のカラス。カラスより小形でくちばしが赤くヨタヨタ人を食った歩き方をする黒い鳥。ムクドリでミーナと呼ばれる。動物園にもいたが、もの真似がうまい。子供くらいでカンガルーのように跳ねる尾の長いラングールザル。日本ザルに似たアカゲザル。牛の死骸にむらがるハゲタカ。それに例のイノシシ。
よく見るとイノシシは農家の中にも入り込んでいる。それにキバがない。どうやらこれはブタらしいということになった。日本で見なれた白い太った奴はほとんど現れなかった。インドのはスマートだが黒い剛毛が生え、タテガミがある。回教徒がブタを食わないから食用としてはとるに足りないものらしい。その代りものすごく足が早い。
ヨクサムは2,000mほどの高台で、畠がよく作られている。畠の周囲には胸くらいの高さまで竹を2-3本わたした柵がめぐらされている。日本の山地に行くとこれと同じイノシシよけの柵があるので、ここでも野獣よけだろうと思っていた。
道を散歩していたら例の黒いブタに会った。首に木を三角に組んだ首カセをつけている。1本道で両側は柵だから、彼(か彼女)はあっちへ走って行く。面白半分追いかけたら農家の入口にきてしまった。ここにも柵があるので行きづまりだ。彼はウロウロしたあげく、柵をくぐろうとしたが首かせが引っかかってくぐれない。とうとう柵をヘシ折って逃げて行った。畠の柵はブタよけであり、ブタの首カセと合せた高さに横木がかけられているのだとわかった。
〇封蝋
日本では封蝋なぞは物好きな人間しか使うまいが、インドでは日用品である。日本へ小包を送ろうと、クラフト紙に包んで麻紐をかけ、郵便局へ持って行ったら受付けてくれない。布で包んで端を縫いつけ、縫目は5インチおきに封印しろというのだ。おかげでものすごく包装費のかかる小包になった。封筒などもわれわれが〆印で済ませるところを、封蝋を5つばかりつけてある。郵便局にはちゃんとそういうことの世話をする人がいて、封蝋さえ垂らせば封印をいいかげんな所にサッサと押してくれる。局員かと思ったら商売で金をとるのだった。
〇食いもの
われわれの隊は年齢が大きく、1番若い僕が29歳、村田さんが32歳、津山先生が50歳、あとはその少し下だから平均で40何歳となる。日本を出る前に、食料や嗜好品の準備のためにどんなものがよいか聞いてみた。「何でも食べるから大丈夫。欲を言えばうまいオカズやオツマミが少々あればよい」ということになった。お菓子なんぞは子供の食物と言った口ぶりだった。津山先生は大のタバコのみ、和田先生は朝夕スコッチウィスキーを傾ける御仁、富樫さんは魚がきらいでチーズやビフテキのようなバタ臭いものを好む。原先生は食う量は問題にならないほど少ないが高級趣味。村田さんは聞きもらした。結局たいした参考にならず。あまり消費しそうもない菓子類は減らし、オカズの種類を増やした。
現地についたら早速異変が起った。ヘビースモーカーの津山先生がタバコをのまなくなってしまったのだ。日本にいる時ならマッチを使わず、タバコが短くなると次の1本に火を移してのみ続けるという工合なのだが、カルカッタでカゼをひいてからだんだん少なくなり、ダージリンにくる頃には1本ものまなくなってしまった。津山先生の消費量をもとにしたタバコは、こうして全然計画と違ってしまった。タバコをのまなくなった代りに甘いものを要求するようになった。
いよいよ徒歩旅行が始まると、エネルギーの消費が激しいのだろう、みんな甘味品をものすごく食べ始めた。バンガロウに泊っている日は粉ミルク、ココア、コーヒー、砂糖、ハチミツなどを、いつでも摂れるようにしておいた。一同入れ代り立ち代り現れては何やら作って飲んでいる。1日で1kgの砂糖を食ったこともあり、5人で2リットルの蜂蜜をなめてしまったこともある。
オカズに至っては全く見込みはずれで、1番売れたのがラッキョウだった。中でも村田さんがラッキョウ消費の主役を演じた。海苔の佃煮だの塩辛などはサッパリで、かなり余りができた。面白いことに一人一人の食物の傾向がみんな違っていて、好みがぶつかっていないことだった。村田さんはラッキョウと梅干、津山先生はα米と氷砂糖とドロップ、これはタバコをすわなくなったので優先的に配給してしまったため、他の人はほとんどありつけなかった。原先生はオイルサージンとレバーペースト、富樫さんはチーズ、和田先生はアルコール類。こんなわけで食物でケンカは起らないようになっていたのは幸いだった。
オカズの方は種類を多く準備したので、それほど飽きがきたり不足したりはしなかったが、お菓子特に甘味品は少なくて困った。1日1箱のキャラメルでは、日本の遠足では僕なんか食べはしないが、とても足りるものではない。毎晩明日のお菓子を配りながら、今度くる時はもっとうんと持って来なければと思った。
缶詰以外の食品の多くは寄贈品だったが、赤道を越えての船荷なので変質しないかと、くれた方でも心配していた。しかし甘納豆がやや醗酵したのを除いて、全然何ともなかったのはむしろ意外だった。もっとも準備の時に、防湿や圧力による変形、水もれなどにはそれぞれ対応する包装をしておいたので、それが役に立っていたこともある。チョコレートなどは40℃にもなるとグズグズになるので、厚いボール紙で一つ一つ箱を作ったし、ビン類は新聞紙(これも後で使えるように切らないで)で何重にもくるみ、さらにポリ袋に入れて減圧しながらシールした。アルコールはポリビンに入れておいたが、蒸気圧のために栓にヒビが入ったものがかなりあったのだけれど、内容が少し減ったくらいで外には全く出ていなかった。何しろ1つの箱に缶でもビンでも菓子でも一緒に入ってるから、液体がもれたりしたら1日分が台なしになってしまう。しかし幸いなことに、扱い方は相当乱暴だったのだが、何も壊れていなかった。これは外箱がダンボールだったことにもよる。海外遠征でダンボール箱を外装に使ったのは、たぶん初めてだろう。ダンボールだと、たとえ落っことしても凹んでしまうので、内部に衝撃が伝わらないのだ。
このようにして、食物は日本からほとんど持って行ったので、現地で調達したのは生鮮食料、米、粉、紅茶くらいだった。紅茶は本場だから申し分ない。粉だって山地では麦が主作物だから別に日本と違わない。ただし精白してないし少しフスマが混っていた。米は不足気味だったので、ふくらし粉抜きのホットケーキのようなチャパティをよく食べたものだ。1番気になったのは米だった。何しろ古くは外米、新しくは黄変米の本場に近い。カルカッタで食べた米はみんな細長くてポロポロして何やらにおいがある。米屋ではみかん色や黄色の米(何やらカビでも生えているらしく、黄変米そのものかもしれない)を売っている。インド人はそういう米が好きで日本のように丸くてネバって無臭の米は好まぬらしい。その上、米の購入はインド隊員に頼んであり、1番上等なのを用意したという。毎日ポロポロの黄変米を食わされるかとガッカリしていたら、これが意外にも日本の米ソックリのもので、白くふっくらして臭もない。おかげでカルカッタの米の飯より大分うまい飯が食えた。高地へ行くと米が生にえになることは誰でも経験する。富士山だってそうだ。われわれは4,000mに行くのだからと圧力釜を用意した。ところが不思議なことに4,000mのジョングリでも、圧力釜を使わないのにチャンと飯がたけるのだ。気圧が高いのかというとそうでなく、気圧高度計は4,000mを指している。いまだに何故だかわからない。
こんなわけで山の中での食事が1番日本的で楽しいものとなったのはありがたかった。しかし一方、多量の消耗品を輸入したので税金を目玉の飛び出るほどフンダクられたことは他で述べよう。食料などはすべて現地調達にすべきだという意見もよくあるが、われわれの場合は、食い馴れない物を食べながら馴れない山の長旅をするのでは、植物採集に打ち込めないだろうと考えたのだ。ただし税金の額とテンビンにかけると再考の必要がある。
〇カースト(階級制度)
インドの階級制度はよく知られているが、僕はよく知らない。とにかく1番上が僧侶(ブラーマン)で、1番下が不可触賎民(アンタッチャブル)なんだそうだ。その中がいくつかの段階にわかれ、そのおのおのが職業などでさらに細分されている。しかし現在ではこういう制度はなくなっていると聞いていた。ところが実際に見ると、どうもまだ残っているというより厳存しているようだ。リットンホテルには少なくも2種類の使用人がいる。1つはいわゆるボーイ、食事の世話をしたりベッドを片付けたりする。もう1つは床を掃除し、便所と風呂をきれいにする人だ。日本だってこういった2種類の仕事があれば、前者を高級とするだろう。インドではそれ以外の理由、つまりこれらの仕事をするカーストが違うために、もっと本質的な差異を持つようだ。床を掃除するのは不可触賎民のやることで、一般のボーイはそれより上級のカーストなのだという。ボーイは決して床をはかない。スイーパー(床掃除人)と一緒に食事をしないし、彼らを見下した態度を当然のこととしてとる。スィーパーの1人などは立派なカイゼルヒゲを生やし、校長先生くらいのカンロクがあるけれど、階級の差はどうにもならず、1日中床をふいている。津山先生が荷づくりにきた大工に、僕等の部屋にあったコップでお茶をのまそうとしたら、ボーイにすごくおこられたそうだ。「あんな下賎な連中にお客のコップで飲ますなんてとんでもない」というわけだ。お茶なんかやる必要はないのだ、たってやりたければ金をやって茶をのんで来いと言えばよいのだ。非民主的だなんて言っても通用しない。ここにはここのやり方があるのだ。
階級があるために上下の区別はとてもはっきりしているし、仕事の分担も実にキチンとしている。自分のやる範囲外のことは決してやらない。日本のお役所を思わせる。役所へ行くとあちこちで鈴を鳴らす音がひっきりなしにきこえる。小使い以上の役人の机には必らず鈴が置いてある。ついでに机上には必ずある物をあげると、針刺しと石ころだ。書類が多いのでピンでとめる、そのピンをさしておくもの。天井で扇風機がいつも回っているので、書類が飛ばないように石ころやレンガのかけら、ガラスの文鎮などが置いてある。
その鈴をチーンと鳴らすと小使いがやってきて、御用をうけたまわることになっている。水をくんでくるのも、書類を持ってくるのも、鉛筆をけずるのも小使の仕事だ。そんなことは自分でやれば良かろうと思ったら、そうすると小使いの仕事を奪うことになって、小使の方が怒るのだそうだ。
採集をしていてもこのことはよくわかる。胴乱その他一切の道具は助手が持つ。採りたい草を指せば助手が掘る。木の上の花を見つけると、木登り専用の人夫がいて採ってくる。そいつがいなければ取らない。宿舎へ着くと、御本人は早速ガウンを着てベッドにヒックリ返る。その足元で助手がセッセと標本を作る。われわれから見れば明治大正時代の採集風景だ。日本だってその頃は、大学の先生ともなると、コシに乗って雨傘をさしかけさせながら採集したものだ。
この様にして上に立つものは絶対的権力を保有し、下のものは当然のこととして甘受する。われわれの様に助手と教授がケンカをしたり、生徒がセンセイをヘコましたりすることは決してない。上にいる者は出来得る限りエラそうに振舞う、そうすればするほど自分がその地位にふさわしいことを示せるのだ。日本的な考え方でへり下ったりうちとけようとすれば、下の連中から「アイツはえらくないんだ」と思われてつけ込まれるばかりなのだ。だからインド隊員たちは、われわれがシェルパやポーターと気やすく口をきくのをとても嫌ったものだ。「彼らに対等に口をきかせてはいけない。いつも距離を保っていろ」と言うのだ。
ところがシッキムでは、インドの平原とは住む人も物の考え方も違っている。どちらかというとわれわれの考え方に近い。謙遜とか寛容とかいうことがいくぶんでも通用する所だ。インド隊員たちはここへインド的上下関係をそのまま持ち込んだので、大部嫌われたようだ。もちろん契約による主従関係だから、表面上は何事もない。しかしインド隊員にとって都合の悪いことに、われわれのような非インド的生活態度を実践する人間がそばにいる。イバリかえって冗談口もたたかない者と、気前がよくてうちとけたがる人とどっちが歓迎されるかは明らかだ。まして相手に幾分でもこちらと共通点があればなおさらだろう。シッキムの住人が、インドは嫌いだと陰口をするのもうなずける。
各自がおのおのの職分を厳守するから、家を1軒持ったりすると使用人も数多く雇わねばならない。掃除人は前に述べた様に2人。それに門番、庭番、コック、運転手、幼児がいれば子守といった調子だ。たいていの家ではこれくらい使っているところをみると、人件費がとても安いのだろう。
〇デモ
われわれは5月1日の朝ダージリンを出発して40日の徒歩旅行に向ったのだが、僕と和田先生は荷物の片付けの関係で、午後まで残った。昼近くなると近所がザワザワするので窓から見ると、はるか下のバザールに赤旗が見える。今日はメーデーだったと気がついた。折しも中印国境紛争が燃え上り、ここダージリンはチベットへの中継地、インド人の中共感は大変悪い。さぞかし激越なデモときびしい取締りがあるのだろうと思った。そのうちにバザールに集った群衆が列を作って動きはじめた。ダージリンは坂の町、すぐ目の下の市場から出ても、七曲りの道をわれわれのホテルの前までは30分近くもかかる。デモの参加者は茶園の労働者ということだった。この附近にはそれ以外に大きな企業はない。
いよいよホテル前にさしかかったデモを見ると、ほとんど全部女性なのには驚いた。それも後半分ほどは子供なのだ。先頭に立った男が何とか叫ぶと、みんなが(と言っても先頭から30人くらいまで)それを繰り返す。後の方はそれにおかまいなく、ガヤガヤおしゃべりをしながらついて来る。100mくらいあったろうか。警官もついておらず、のどかな風景だ。
インド隊員に「これはみんな労働者か?」と聞いたら、「そうじゃない、みんなデモのために雇われた連中だ」と言う。コミュニストは先頭の男だけらしい。これでは巡査が目を光らせなくても安心だろう。
カルカッタでも大小さまざまなデモに出会った。小さいのは20-30人、こんなのは週に1度くらいは見かける。大きいのは数百人にも及ぶ。こうなると巡査や騎馬巡査がつきそって整理をしている。どれにも共通なのは、シュプレヒコールみたいに叫ぶけれど、歌をうたわないことだ。日本のように興奮していない。だいたいインド人が興奮したのは見たことがない。ケンカなんていうものは一度もお目にかからなかった。ただしこれはわれわれの見たかぎりでのことで、インドのデモほどすさまじいものは少ないという。大きなデモだとたいてい死人が出るそうだ。民度が低いので煽動されやすく、一度火がつくと収まりがつかぬらしい。ダージリンへ行く直前に聞いたところでは、ネパールの東部でヒンドゥー教徒と仏教徒の対立から起こった暴動で、何人かが火あぶりにされてしまった。われわれが歩こうとしていた地域の近くなので、情勢悪化で旅行許可が取り消されやしないかと心配したものだ。われわれがカルカッタに引きあげてからも、アッサムの国語問題で暴動が起り、シリグリの駅にいた関係当局の役人に群集が押しよせ、役人は逃げたけれど駅は焼かれてしまった。ジープでダージリンを下るのがもう少し遅れていたら、これにぶつかるところだった。なかなかきれいな駅だったので、焼かれるのなら写真でも撮っておけばよかったとくやまれる。鎮圧には軍隊が出動したそうだ。カルカッタでもこれの同情デモがあったが、その日は商店会社は全部休み、ホテルの人達も外へ出ると危ないと言うのでわれわれも閉じこもっていた。その夜、日本人の家へ呼ばれて行ったら、その隣が文部大臣の家とかで陳情団が押しかけ、警官が出勤してきた。袋小路なので連中が帰らないとこっちも帰れない。どうなるかと思ったが、1時間ほどワイワイガヤガヤやったあげく、いつの間にか静かになり、われわれが帰る頃にはポリスのトラックがいるだけだった。
この他に2回、出ると危ないと言われた日があった。官公労のストが一日おきにあったのだ。この時は退屈してしまって、津山先生と支那料理を食いに出た。何時もなら交通ヒンパンなチョウロンギーに人一人見えず、警官をのせたトラックが1台いるだけだった。目ざす料理屋も閉店で飯は食いそこなった。われわれの居る所は中心街なので何ともないが、下町へ行くと、特に外国人は何をされるかわからないのだそうだ。自動車に投石されたりするので、空港行きのバスが動いてくれない。飛行機は動いていても、乗り場に行けない。原先生はおかげで帰国をのばさなければならなかった。カルカッタからダムダム空港に行く途中には、パキスタンからの難民の部落があって治安が悪く、見てくれも悪い。僕らがカルカッタに着いたのは夕方だが、うす暗がりでこの貧民街を見た時はガッカリしてしまった。カルカッタの第一印象としては台なしである。先頃皇太子殿下の訪印の際、カルカッタ夕着を夜中にしたのは、この貧民街を第一番に見せたくないという配慮もあったのだろう。
ストの際の危険感はとても強いので、その日は結局休日になってしまう。日本の様に行きたくても電車が動かないというのでなく、命が惜しいから家から出ないのだ。われわれのようによく事情を知らない者には、そういう感覚はコッケイに見える。カルカッタなどでは、そのうえにストによる影響は重大なものだと聞かされた。鉄道が止ると石炭輸送が止る。カルカッタの水道は、水を一端大きいタンクに汲み上げ、そこで圧力を作って給水している。それにはモーターを回さねばならない。ところが電気は火力発電なので、石炭が止ると停電した上に水とガスが止ってしまう。カルカッタでは電気はともかく、水道が止ったら恐ろしいことになるだろう。
ここではデモやストの新聞記事を見ると、コミュニストの煽動という風にきめつけることが非常に多いように思った。どうも政治的色分けをハッキリ2つにしたがる傾向が伺われる。デモなんかする奴はコミュニストときめつけてしまう。日本でもアイツは赤だとやるのとよく似ている。2元論で何事も明快に規定してしまうようだ。僕なんかにはどうも明快すぎて首をかしげたくなる。
ちょうど日本でも安保反対のデモの最中、国会乱入事件などがインドの新聞にも大きく出る。ホテルの食堂などでこのことについてよく質問された。日本はどうなるんだ、共産主義者に占領されるんじゃなかというのが共通だった。驚いたことに、邦人までが同じことを聞くことだ。日本の新聞や雑誌を毎日毎週見ているし、日本を出てから1年か2年しかたっていない人たちでこうなのだ。環境の影響はたいしたものだ。どこかの大使で日本の新聞は読まぬと言う人がいたが、おして知るべしだ。自分がどこから出てきたかわからなくなるだろう。しかし日本のように明らかに一方の陣営に属しながら、中間的意見の記事を見ることができるのは幸いだと思った。ハッキリ割り切った明快さがないという不満はあるけれど。
〇鶏と卵
リットンホテルの朝食はオートミールと卵。ついでにあちらの食事時間を言うと、6時にお茶をもってくる、これをベッドに腰かけてすするのはヨキものだった。朝食は8時から。6時のお茶で起されてしまうのでこの間腹のへること。昼食は1時。4時にお茶とビスケットが出る。これにアブレルとちょっと悲惨である。夕食が8時なのだ。インド隊員としばらく一緒に歩いた富樫さんの話だと、1日歩いて宿舎に着いても、9時過ぎないと食事にならぬことが多くて閉口したそうだ。
さてその卵であるが。目玉焼、いり卵、ゆで卵のどれかにしてくれる。ゆで卵にしたら、馬鹿に小さいのが出てきた。ウズラの玉子の一回り大きいくらいの奴だ。2つで日本の1個分くらいだろう。
店で見るとそんな大きさのばかりだし、ウズラもいないからやっぱりニワトリだということになった。ニワトリは茶色のものばかりで白いのを見ない。朝、街へ出ると、平たい籠にニワトリをいっぱい入れ、円錐形に網をかぶせたものを頭にのせて運ぶのによく出会った。
ヒンドゥー教徒は牛を食わず、回教徒は豚を食わないから、山羊と鶏がもっぱら食われ役を引き受けている。だからうまいかというと大違い、だいたい山羊でも鶏でも食肉用として改良しているとは思えない。
山では鶏が手に入りやすいので、まずくてもごちそうとして買ったものだ。しかしどっちを向いても山坂ばかりの土地で放し飼いされた鶏は、申し分なくきたえられていて手強いことおびただしい。パルマジュアの鶏は、羽毛をむしっておいといたら、裸のまま山の中に逃げ込んでしまった。和田先生は“Chicken escaped from Kitchen”なんてしゃれていたけれど、オカズに逃げられては一大事と、シェルパと一緒になって追いかけ回していた。
ガントクでは卵ばかりで肉が出ない。コックにローストチキンを食わせろと言ったら、あきれた様な顔をした。その晩出されたローストチキンはおそるべき代物で、ナイフの刃が立たない。おさえつけて切ろうとしたらフォークがヒン曲ってしまう、僕なんか面倒臭いとかぶりついたら、骨で指を切ってしまった。4人がかりで2匹のローストチキンを相手に悪戦苦闘、ついに食うのをあきらめたのだった。ここらでは肉はブツ切りにして煮込んでしまうのは、こうした事故を起さないためだろう。
〇切符を買う
連休のヒマつぶしにランチへ行こうということになり、4等じゃいやだから1等にして、寝台で寝て行こうと決まった。日本だって寝台券は前もって買うのが常識だ。カルカッタには駅の他に町の中に乗車券発売所があることを津山先生が聞き出し、場所も教ってきたので早速タクシーで行ってみた。税関の裏のあたりにある。あるにはあったけれど、当ってみるとどうもおかしい。こっちではランチ行きの切符は売ってないのだ。カルカッタにはイースタン・レールウェイとサウスイースタン・レールウェイの2系統の鉄道が入っており、両方とも国鉄なのだが、切符売場は別なのだ。結局買えないで、イースタンの販売所を聞いて帰ってきた。ホテルの人に話をしたら、すぐそばに両社共営の売場があると言う。ほんとにすぐそばのパークストリートのモカンボという高級レストランの隣にあった。寝台券は本社に問合せないとわからないと言う。30分ほど待たしたあげく、ここでは手に入らないと言われた。そこでガバメントハウスのそばにあるイースタンの売店に行くことになった。ここはインポートエキスポートライセンスオフィスという、通関業者が半日で8度も階段を上り下りした役所と、タッカースピンクという大きな本屋の並びにあった。タッカースピンクの他に大きな本屋は、ニューマンがある。その他にオックスフォードやケンブリッジなどもあった。
みんなが並んだシッポにくっついて待つことしばし、順番がきて、先ず切符、別な窓口で寝台券を手に入れた。料金の計算は全部筆算、全額を計算してこれで良いかとこちらに同意を求めるのは面白かった。
それを持って定刻、ハウラーステーションに行く。入口には赤帽ならぬ赤シャツを着たポーターが待ちかまえていて、荷物をサッサと持って行く。われわれは知らないから駅員に聞いたりしていたが、赤シャツがちゃんと乗るべき車両に連れて行ってくれた。これのチップで一騒ぎあったのは言うまでもない。発車時刻までは逃げられないのだから、連中のネバルこと。寝台は4つでわれわれは3人だから、もう1つの寝台のインド人はよいとして、いつの間にか小銃を持った兵士が乗り込んでいた。早速只乗りに利用されたわけだ。ついでに言うと改札口というものはない。
等級は5つあって、われわれは上から2番目のクラスを使ったのだが、これ以下では初心者?には無理とのことだった。1等だって日本のローカル線の3等くらいの感じだ。でも1等の客は駅のプラットホームまで自動車を乗り入れてもよいのだそうだ。
いよいよ走り出すと、かねて教えられた通り中から鍵をかけてしまう。ただ乗りの侵入を防ぐ意味もあるが、強盗に入られないためでもある。日本のように通路でずっとつながっておらず、部屋ごとに独立しているので、強盗に入られたらどうにもならない。そういう事件もときどきあるという。2人の兵隊は真夜中すぎに降りて行った。
駅につくとドアをドンドンたたいて開けろという。これもただ乗り志願者だ。別に貧乏くさい人物ではなく、ちゃんとしたサラリーマン風の男だ。親切気を出すにはおよばぬと教えられていたので知らん顔をきめ込む、暑いので窓を開けてあるから外国人とわかると、くみしやすしと思ってか執拗である。乞食も一緒になってのぞき込む。鉄格子がはまっているので、何だかコッチが囚人列車に乗せられてるような感じだった。
眠るだんになって気がつくと寝具がない。インド人は「bedding」は持ち歩くから、車の方にはその用意がないのだ。ほこりでザラザラの座席でゴロ寝。幅が広いから落ちる心配はない。明方は大分冷えこんだ。
朝になって腹がへってきた。日本のように折詰めの駅弁は売ってない。色々な食物は売ってるけれどちょっと手を出しかねる。大きな駅についたら、駅の食堂から御用聞きがきた。メニューに何やら書いてあるが、こちらになじみのあるカレーライスを頼む。レストランと同じ、テーブルセットである。持ってきたのはよいが、半分も食べないうちに列車が動き出した。ボーイが片付けにも来ないし、まだ金も払ってない。大いにうろたえたが、同室のインド人が「大丈夫、大丈夫」というので落着くことにした。列車内に通路がないのだから、走り出してしまったら金も取りにこられない。インド人のやることにしては鷹揚だと思っていたら、次の停車場についたらちゃんと片付けにきて、金も払わされてしまった。前の駅から電話で連絡してあったのだろう。われわれは下り列車に乗ったのだから、食器を洗って今度は上り列車で使うのだろう。とすると、2つの駅でそれぞれ食事を作る手筈を整えておかねばならない。ずい分手間のかかる駅弁である。
〇街路樹
植物調査に行ったのだから、植物の話も少しはせねばなるまい。
インドでの街路樹の大切さは、日本とはくらべものにならない。とにかく部屋から1歩外へ出るとムッと熱気が押し寄せ、頭がクラクラッとする。こんな所をウッカリ歩くと日射病になるにきまってる。タクシーには冷房がないからといって、窓を開けていたら吹き込む熱風でたまったもんじゃない。窓を閉め切ってる方がいくぶんでもマシなのだ。そこで太陽の輻射熱と熱気の少なくとも一方をさえぎる工夫をせねばならない。そこで街路樹が必要となる。
ボダイジュ 1番ふつうに植えられているクワ科の大木。この木のことはもう話したから多くは書かない。気根をよく出すのとあまり出さないのがあり、町では後者をえらんで植えていると村田さんは言っていた。カルカッタにいた頃、マイダンのボダイジュに5cmばかりのたわら形の橙々の実がたくさんついていた。イチジクの仲間だからあれと同じで、外側はツルツルしている。山の中で部落のはずれにまっ紅な実のついているのがあって、うまそうだったのでかじってみたが、全然味のないヌルヌルしたものだった。
サルスベリ あまり多くはないが、日本のとちがった大きな葉をしており、花も大きくて紫色だった。カリンポンへ行く途中の山腹に、たくさん野生していた。
チーク 材が硬いので名高い。葉がとても大きい菱形をしていて、金太郎の腹がけみたいだ。和田先生は裸でこれを着用して記念撮影をすると言っていたが、とうとう実行しなかった。花は小さい緑白色のものが円錐花序をなしてつく。
アカシア 札幌の町にあるのはニセアカシア。Acacia arabicaといって、日本の花屋に時々出ているけれど、ネムの葉を小さくした感じ。花もネムの様に丸くポヤポヤしたのが着く。ただし色は黄色で小さい。これが満開になると、緑白色の葉と対象的できれいだ。実はサヤインゲンみたいだけれど、ジュズ状にくびれていて愛きょうのある形でした。郊外や田舎道でよく見かけた。(マメ科)
タマリンド これもマメ科の大木。ニセアカシアの葉を一回り小さくしたくらいのをワンサとつけて、見るからに涼しげな木だ。花は2cmくらい、白っぽい地に紫の点のある品の良いもので、一見ランの花みたいだった。市場に行くと、これの実をサヤごと押しつぶしてグシャグシャに醗酵させたものを売っている。味つけに使うのだそうで、スッパイのだそうだ。紫色でグロテスクで、味ってみるチャンスがなかった。
アルトカルプス パラミツという、パンノキの仲間(クワ科)。実は表面がパイナップルのようにトゲトゲしていて、小さいものはラグビーのボールくらい、大きいのは石油缶くらいあった。石油缶の方を買ってきて5人で食べたら、半分も食えなかった。甘味があるけれど、しつこくてにおいが強いのと汁気が少ないためだ。改良すると面白い果物になると思う。大きな実が幹からいきなりぶら下っていて、コブ取りじいさんのようだ。ナタで切り落したら(ちゃんと持主に断ってから)白い汁が出てベタベタになった。
ホウオウボク Delonix regiaというマメ科の木。雨期が始まると、それまで葉を落していた梢に緑が出はじめ、それと同時に目の覚めるような朱色の大きな花を咲かせる。遠くから見ると朱色の雲の様で見事だった。
マンゴー 田舎に行くと至るところでマンゴーの畠にぶつかる。枝を真横に張り出し、マンジュウ形にもり上った樹形は遠くからでもすぐわかる。面白いのは、地上一定の高さ以下には全く枝がないことだ。丁度人が手をのばしたくらいの高さで、どんなにたくさん植えてあっても、向う側まできれいに見通せます。実は梢につくので、ドロボウよけでもなさそうだ。放し飼いの牛が食ってしまうのか、風通しをよくするために下を伐ってあるのかどっちかだろう。田舎の子は石をぶつけて青い実を落し、日本の田舎の子が青梅をかじるようにカリカリかじっていました。若い果実はおそろしく酸っぱくてヤニくさいです。マンゴーはウルシ科で、人によっては食べるとかぶれて、顔に吹き出物ができることがあるそうです。そんな人も牛乳を一緒に飲めば大丈夫なのだとインド隊員が教えてくれた。
マホガニー 家具材として有名。カルカッタのビクトリアメモリアルの裏手の大通りには、この木の見事な並木があった。
ポリアルチア ちょっとヤナギに似た大木で、ヤナギの様な葉をつけるが、モクレンの仲間に近いもの。花は6弁の星形で黄緑色で目立たぬもの。
ダルベルギア マメ科の木はこちらにくると多種多様で、この木なんかはポプラみたいな葉をしてる。実に至ってはピラピラの長楕円形で、これでもマメかいナと思う。バルカカナの駅前で、おなかをへらしながらタクシーの屋根に上って採ったのでよく覚えている。
ナンバンサイカチ Cassia fistula。これもマメ科の木。葉に先立って桃色や黄色の花をたくさんつけ、とてもにぎやか。これの実は長さ30cmほどの茶色の円柱形で、ちょうどこんな形をしたカタパンのあるのを思い出した。中には碁石のような黒い種子がギッシリ重なっており、一つ一つの間にはクッションの様に白い肉がはさまっている。スズバチの泥の巣みたいな構造。チャンバラをやるには絶好の道具だけど、インドの子供はチャンバラはやってなかった。
〇事故
事故らしい事故は無かったと言ってよい。カルカッタの郊外で牛をはねとばしたこと、これは向うがよけないんだから仕方がない。カルカッタの町で和田先生がタクシーにぶつけられた、これは相手がいうなれば「当り屋」で、勝手にぶつけといて金をふっかける奴だったらしい、少々とられたそうだ。ジープ旅行では往復とも1回ずつ牛車に衝突した。こっちが大丈夫とみて追い越そうとするのに、向うが気をきかしたつもりでよけようとして、急に車の向を変えるのでぶつけてしまうのだ。あちらの牛車は太い肉厚の竹で頑丈に作られており、車台がうしろへ長く突き出している。一度はジープの鉄棒がヒン曲り、村田さんはすんでのところで横腹をえぐられるところだった。これもだいぶあとになって気がついたのだからノンキなものだ。
事故ではないが、マルダからシリグリへ行く時、まだいくらもあるだろうと思ってガソリンスタンドを素通りしてしまったら、行けども行けどもスタンドが無い。だんだん日が暮れて暗くなるにつれて、燃料計は0に近づいてくる。あたりは広大な茶畑で人家は無い、後どのくらいで次の町バグドグラにつくのかわからない。この時は心細かった。ジープの経済速度の30-40kmで走りながら、3人とも息をころして早く町の灯が見えないかナと首を前につき出していた様は、今も語り草である。バグドグラの飛行場の滑走路の灯が点々と見えた時には本当にホッとしたものだ。その時には指針はとっくに0になっていた。
山の中では食料問題以外には盗難も転落もけが人もなく、意外なほど無事だった。一度、石油の缶をズック袋に入れて背負わせたら、しみ出た油で背中から腰にかけて一面に火ぶくれのようになり、気の毒だったことがある。
最大の事故らしいものは山の旅行を終ろうとする頃起った。富樫さんのホルマリン誤飲事件である。ジョングリからファルートのバンガロウに下りてきて、もうテントは不要、あと3泊でダージリンに帰れるという日の晩、富樫さんが猛烈な嘔吐をした。
元来食料その他荷物の手配は一切僕がやっており、毎日の食料の中から誰に何を分けるかは僕の一存で行われていた。例えば今日のタバコは和田先生に多くし、原先生は昨日ドロップを配ったから今日は甘いものは減らすとか・・・。こんなことを勝手にやられて文句が出なかったのは、隊員一同の寛容によるものだろう。そんなわけでその日は出てきたアルコールを富樫さんに特配したのである。彼はそれを水で薄めて蜂蜜とコーヒーを入れて夕食のデザートに飲んだところ吐いてしまったのだ。僕のわたしたアルコールが実はホルマリンだったのだ。応急用の注射液を探しながら考えてみたら、たしかにアルコールの確認をしていなかったのだ。ホルマリンもアルコールも同じポリビンに入って紙でくるんでポリ袋に入っている。まぎらわしいのでアルコールにはEと書いてあるのだが、何の気なしに何も書いてないのを渡してしまい、富樫さんも何の気なしに一息に飲んでしまったらしい。幸い量が少なくて翌朝には治ってしまったけれど、自分で用意したものさえウッカリ間違えるのだから、もっと大規模な隊でいろいろな人が関係していたらもっと間違えることが多いに違いない。十分注意しなくてはならないと思った。
〇インドの英語
長い間英国の支配下にあった国だから、さぞ英語は普及してるだろうと思ったらそうでもなかった。たしかに役所や大きい商店では英語で用が足りる。しかし小さい店や流しの職人、車屋などになると全然通じないのが多い。田舎へなぞ行ったら全然ダメである。英語を話す人でも、インテリはともかく、インド的なまりがあってなかなかわからない。
タクシーの運ちゃんがノルト(North)、サウト(South)とやることは前にも書いた。われわれのホテルのあるSudder Streetはサッドルストリート、総領事館のあるTheater Roadはテアットルロードである。
シェルパたちになると、カルカッタの連中みたいにとにかく日常英語に接しているわけではないのでもっと面白い。コックが「今夜はパライライスだ」と言うので何かと思ったら「fried rice」つまり炒飯だった。クルセオンの支那料理屋のオヤジさんは盛にティンキュウを連発する。どうやらThank youと言ってるらしいのだった。
われわれのシェルパにはあまり英語を解するのはおらず、こっちも(と言うのは僕のことだが)彼らと同程度なので、単語を並べてあとはゼスチュアとなる。シェルパも何やら言われてるナとわかると、近くの物を手当りしだいさわってみてこちらの顔色をうかがう。たまたまこちらの思ってる物にさわると「Oh, Yes!」となって意志が通ずるのである。これで意外に手取り早く片がつくのだった。
こんな調子で人夫の米よこせの交渉の相手になったり賃金の計算をやったりしたのだから、わかる奴が聞いてたらさぞかしオワライだったことだろう。言葉が通じなくたって、セッパつまれば何とかなるものだ。
津山先生とタクシーにのって田舎を走っていたら、先生は下痢気味で、運悪くもよおしてきた。泥の家の並んだ部落で車を止め、便所を借りる交渉を始めたがなかなか通じない。ついにソノモノズバリのゼスチュアまで演じたあげく、村の人々はゲラゲラ笑いながら先生が何をしたいのかを理解した。しかしセンセイが村の人に何をしてもらいたいかということは遂にわからなかった。こういう家には便所はないのである。やる時は屋外に行ってやる。他人の家の中で生理的欲求を発散させたいなどという奴は、世にもケシカラン奴と思ったかも知れない。
[本稿は1960年のシッキム調査の後、準備に協力してくれた成蹊学園生物部の部報『プラナリヤ恰好』のために準備したもので一部公表したが、本書収載に際して全体を見直した]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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