解説:石川 良輔 (東京都立大学名誉教授)
色鉛筆の魔術師 - 木村政司さん
s初めて木村さんの昆虫画を見たのは東京都立大学の理学部がまだ世田谷にあった頃である。ワシントンのスミソニアン博物館の昆虫学者T. Erwin博士の紹介で私の研究室に現れた木村さんは、昆虫の画を描いているので見てくださいと言って数枚の昆虫画を取り出した。分類学者である私が精密な昆虫画に並々ならぬ関心を持っていることは言うまでもない。それまでに日本で名の知られた昆虫画家の標本画も少なからず見ていたし、私自身、少しは描く。だが、それまで私が知っていた昆虫の画はレベルこそ違え、大体私の画の延長線上にあった。しかし、その時見せられた木村さんの画は私が今まで見たものと全く異質のものであった。それは信じられない程リアルであるが何の誇張もデフォルメもなく、しかも全く見当のつかない技法で、半透明のフィルムシートに描かれていた。
昆虫の標本画は芸術作品ではない。科学的研究のための基礎資料である。それに求められるのは第一に限りなく正確な描写で、写真では十分にとらえることのできない細部まで忠実に描かれていることが求められる。昆虫の体の表面の金属光沢ひとつとってみても、その感じを“芸術的に”出すのではなく“実物通り”でなければならない。だが、この要求を限りなく満たしているように見えたこれらの画は意外にも色鉛筆で描かれていた。双眼実態顕微鏡で標本を観察しながら芯の先端を針の様に尖らせた色鉛筆で描きあげるという。
一方、黒一色の甲虫はカーボン・ダストという手法で描かれていた。これが現在、米国で使われている細密画の手法であるという。フィルムシートは製図用のものの中から表面の微細な凹凸が最も均一なものを走査型電子顕微鏡で比較して選んだということであった。標本画についての私の見方は完全に変わってしまった。
数年の後、木村さんは私の著書『オサムシを分ける錠と鍵』(1991)の口絵を引き受けて下さった。それがここに掲げたオオルリオサムシの画である。約1ヶ月かかって出来上がった画がただものではなかっただけに、それがどのような印刷物に仕上がるか心配であった。幸い、原画から縮小して印刷された口絵の出来上がりはかなりのもので、予想通り非常な評判になった。この画を見て高価な本を衝動買いした人もあったらしい。だが、残念なことに、この画の真骨頂は原画をルーペで丹念に眺めて見なければわからないのである。体長約20cmに描かれているオオルリオサムシは拡大すると、体表面の微細構造や細かい皺や点刻などが実物さながらに見えてくるのである。毛に陰影までつけられている緻密さは、まさに別世界といってよい。これが木村政司の昆虫画なのである。
東京都立大学名誉教授・石川良輔/Copyright: Ishikawa Ryosuke 2000
2000.3.17
大学研究室にて
日本大学芸術学部美術学科卒業後、米国ワシントン州立大学留学(交換留学)。
1985年、米国スミソニアン国立自然人類歴史博物館インターンシップ取得、ジョージ・ベナブル氏に師事し、昆虫標本制作とサイエンティフィック・イラストレーションの特殊技法を学ぶ。現在、日本大学芸術学部デザイン学科助教授。
この間、デザイン事務所アーリーバードを経営しながら、企画展示デザイン(JT生命誌研究館、群馬県立自然史博物館など)や、『オサムシを分ける錠と鍵』『昆虫のパンセ』『昆虫の誕生』などの出版物のための昆虫図版制作や装丁などを数多く手がける。
JAGDA日本グラフィックデザイナー協会会員、ザ・ギルド・オブ・ナチュラル・サイエンス・イラストレーターズ会員、基礎デザイン学会会員。
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