このところ続けて、標本ラベルについての提言が載った。鈴木会長の仕掛けである。植物分類学会の会誌ではこれ迄は、もっと高尚な話題がふさわしい、という雰囲気があったように思う。最近のコンピュータの普及とソフトの進化に伴い、資料のデータベース化にどこでも取り組むことになり、話題のレベルも上がったのだろう。これに加えて博物館の数が増え、そこが分類学研究者の仕事場になってきた結果、大学ではあまり考慮する必要のなかった、他人の標本の大量整理や、アマチュアの寄贈標本の処理という負担が実感されるようになったからだろう。研究者がこういう現実問題に気づくことは、歓迎すべき情勢である。
ただ、コンピュータを扱う人間は、どうしても自分のシステムに都合のよい資料を要求しがちで、帽子に頭を合わさせたがる習性がある。そのくせ帽子をいつの間にかとり変えてしまって、またそれに頭を合わせろという。エンジニアがその典型だが、自分でラベルを作ることと、他人にラベルを作らせることとは事情がうんと違うので、作らせるためにはそれなりの思いやりが必要である。天野さんや藤井さんの意見は、もちろん聴くべきところ多大であり、要点をついているが、私もラベルやデータベースの問題ではいくつか書いたことがあるので、過去の文章に重複するところがあるが、蛇足を加える。
まず、ラベルには二種類あることを認識しておく必要がある。台紙にマウントして標本室という公的施設で配架する標本につけるラベル(本ラベルと称しておく)と、採集しておしばにするときにつける新聞紙上のメモやはさみ込む紙片や私蔵用のラベル(一括して仮ラベルと称しておく)である。この二つは作る環境や要求水準が全く異なる。前の場合は設備、資材、時間に原則として制限はないが、後の場合は短時間に限られた材料でたくさんの仮ラベルを作らねばならない。仮ラベルはおしばを作るすべての人が自分用に作るという問題であり、かつ本ラベルの源である。本ラベルはアカの他人の標本について、標本室を運用・利用する立場からの問題である。それから、扱う標本が自分の縄張り内が多い場合(たとえば県博物館で県内の標本が主対象となる場合)と、日本はおろか世界中どこから来るかわからないという場合では、かなり事情がちがう。データベースはラベルのどちらにも関連はあるが、また別な立場から見る必要がある。だからこれらを一緒にしない方がよい。そうでないと折角の提言が空回りする。以下作られる順序に、仮ラベル、本ラベル、データベースに分けてのべる。
〇仮ラベルに関して
仮ラベルの資質 仮ラベルに最小限の情報がのっているということが、すべての出発点である。その前に、自然史研究に必要な標本で、研究者が集めるものは量的に微々たるもので、いわゆるアマチュアのコレクションを、いかに活用できるかが死命を制すると思う。だがアマチュアは文字通り愛好者であり、研究者のような義務感に基づいて行動しない。そういう人達に研究上の立場から号令を下しても効き目は少ないと思う。「こうしておいてくれれば、あなたの死後、折角のコレクションを皆が有難がって使ってくれる」とアドバイスするのがせいぜいだろう。
まず、はさみ紙の新聞紙上に書いたメモは、標本室の立場からはきわめて不便である。独立した紙片に最小限の情報は書いてはさみ込んでおいてもらいたい。イザとなれば単にその紙片を台紙に貼れば、一応の情報は伝わる。これで本ラベルの代行ができれば、言うことはない。ただしこういう紙片を入れても、外からは中身がわからないので、私蔵用にははさみ紙上のメモは必要だから、二重手間になる。だから本ラベル作り側からの要求は、それでも仮ラベル作りをやってもらえる程度のものでないといけない。
最小限の情報とは 私のいう最小限の情報とは、採集者、年月日、産地である。それらが、自分が死んでから、一枚の素標本をみてアカの他人に理解できればよい。「アカの他人」という立場に立ってもらいたいのは、ほとんどの標本には、採集者自身の氏名が入ってないからである。標本が自分用ならこれは不要だが、他人の役に立つためには、是非とも必要となる。採集者名のない標本は、ちょっと信用する気になれない。標本というものは自分の興味なり関心に基づいて作るのだから、そのラベルは自分にわかりさえすればよい。だがそれを少々拡張して、他人にもわかるようにして欲しいのだ。私的な標本台帳をいくらくわしくつけてあっても、標本をマウントするときのラベル作りの役にはたたない。私蔵用ラベルには、採集者と所蔵者を混同しているものが多い。日付や産地については、さきの二人が書いているが、あまりまともに実践しようとすると、つきあい切れないこともあるだろう。
文字の耐久性 これは優先テーマではない。何を使おうと文句は言えない。記事の中身の方が大事である。自分の名前や日付なら、ゴム印にスタンプインクが1番早い。
産地の文字表記 現在わかる限りの細かい地点名を記すのがよい。だからといって、通常の地図に出ていない地名(たとえば第1林班第5界標)は、特殊な立場の人でなければ再発見できないので不適当である。他所者がここはどこだと探す地図は、結局2.5 万図がいいところだろう。だからそれに載っている地名を記しておくのが無難である。正確らしく見せるために「~付近」と記しても、これはあってもなくても認識は同じである。「松原湖」と「松原湖畔」は、位置としては違わない。それどころか、「付近」の範囲はA氏とB氏で違うし、同じ人の同じ場所でも採集品によって「付近」の範囲は違うから、「そこではないゾ」ということでしかない。地点名だけではインスピレーションに乏しいから、市町村名は付けた方がよい。しかしこれはいずれ変わってしまうので、あれば便利だがアテにはできない。県名と小字大字名の方が保存され易い。ほんとに「正確」に示したければ、数値表記にするしかない。産地を記す意味は何なのかをつきつめて考えれば、理解されると思う。
産地の数値表記 使えとはいえないが、使うならば経緯度に限る。数字は細かいほどよいとは思わないし、細かく位置決めすることは実際的ではない。採集で移動しながら、採った地点を一々精密に記録することなどできはしない。小数点下3ケタまで記してあったりすると、かえって記録者のセンスを疑いたくなることがある。そんな精密な位置ぎめができないことは瞭然だからである。細かいほど測定誤差は大きいのだから、むしろかなり大ざっぱに区切る方が現実的である。その最小単位は「分」だと思う。これは藤井説をとる。小地域の精密な調査、たとえば~町のタンポポ調査を、秒単位や1キロメッシュや 10mメッシュで記録することに反対するものではないが、これは一般に拡張できない。ハンディーなGPS 測位装置は、今ではそんなに高価ではない。それがなくても地図が読めれば位置はわかる。一冊で日本中どこでも分単位で位置を読み取れる、スケールつきのロードマップもある。
PR こういうことを分類学会の中でワーワー言っても、肝心の標本を寄贈してくれる採集者の人達には直接伝わらない。アマチュア同好会誌に繰り返しアッピールする必要がある。とくに仮ラベルの資質に関しては、十分理解してもらわねばならない。そういう会誌はサーキュレーションが限られているので、あちこちの会誌に同じことを書かねばならない。そうすると「二重投稿」とイビられるかもしれないし、複数の人がやればどうしても文章が似てくるので「盗用」と叱られるかもしれないけれど、肝心の寄贈元に周知してもらうためには、そうするよりほかはない。なぜかというと、これ迄に標本を蓄積した人達にいくらこういうことを口説いても、いま更ラベルを作ってさし込むことなど出来はしない。これから標本を作るときに心掛けてもらわねばならないことなのである。だから、分類学会に参加していない多数の人達に、最も知ってもらわねばならないのである。それも、「これなら俺にもやれる」という程度のものである必要がある。いくら微に入り細をうがったご高説も、やる気になってもらわねば仕方がない。やる気になっても、一時の流行では無意味である。
瀬戸口さんが79号に書いておられるように、おしば標本からDNA解析ができる時代になり、先に行けば技術は更に進むだろう。環境変化をおしば標本の微成分分析から追跡することは、そのつもりになれば今でも可能だろう。そういう時代になれば、物質生物学者に邪魔物扱いされながら先人やわれわれが蓄積してきたおしば標本は、分類学研究の枠を超えて、遺伝子資源どころか一般研究に不可欠な材料となるに違いない。その供給源は研究者よりも、たくさんのアマチュアに期待されるのである。だから、仮ラベルの役割を理解してもらうことは、とても重要なことだと思う。
フィールドノート ネパールの研究者と採集に出たとき、彼らが標本作りはポーターにまかせ、フィールドノートをつけることに時間をかけているのを見て、ノートつけは見習う必要があると思った。ここでフィールドノートというのは、標本ができたときにそれに付加するメモのことで、自己の研究用ノートではない。これは言うべくして行いがたいが、あれば標本の情報を豊かにする。資料データベースの面から見れば、フィールドノートの番号は重複標本を識別するうえで不可欠であり、標本番号では代用できない。野外でフィールドノートをつけるとき、ボールペンやインクペンは雨天のときはすべって書けなかったりにじんだりする。デルマトグラフは太すぎる。マジックインクは先がすぐ乾いてしまう。鉛筆はよいけれどすぐ先が太くなる。私はシャープペンシルを使っている。
〇本ラベルに関して
文字の耐久性 要するに顔料が紙繊維の中に埋められればよい。だから筆記なら鉛筆は捨てがたい。現在のインクやトナーは、耐候性や耐薬剤性については頼りにならないからである。鉛筆は消しゴムで消えるけれど、消すつもりならばリキドペーパーで何でも消せるのだから、心配しても仕方がない。プリンタの場合はドットプリンタが良いと思うのだが、近頃のインクリボンは顔料を使っているかどうかよくわからず、とにかく信じて使っている。天野さんが言われるような、ドットプリンタがパソコンで使えなくなりつつあるということは知らなかった。熱転写やページプリンタはナフタリンやパラゾールに弱いという。これはコピープリントも同じだろうから、コピーで本ラベルを作るのはイカンという人もいる。仮ラベルには要求しても無駄である。
産地の文字表記 本ラベルは仮ラベルの記事が元になるが、その多くは小さい地名しか書いてない、それを県郡市町村まで調べ、かつ現在の状況に合わせる手間は大変である。私の地名索引は、この手間を省くのが一つの目的であるが、現状に合わせたところで、どうせいまに変わってしまうのだから、苦労のし甲斐がない。元の記事以外では県名が入ればたくさんである。県名とその縄張りはもうあまり変わりそうもないから…。文字は漢字と共にローマ字併記の藤井さんに賛成する。外国人に見せるときや送るときに、翻訳する手間が大変なのである。国際性という面からローマ字表記一点張りというのは、日本語情報より内容がはるかに乏しいので賛成しかねる。ローマ字の綴りなどは、読めさえすればどうでもよい。
産地の位置の数値表記 経緯度しかおすすめできない。それ以外のもろもろのメッシュコードや位置座標は、私が提起したLocality Indexも含めて、ラベル1枚に記されたコードを見て、それがどういうメッシュシステムのものであり、各数字がどんな意味をもっているかを、誰もが理解できるとはとても考えられないので、使わない方がよい。国土基準メッシュも同様である。メッシュコードの代わりに地図名を記すことは、その地図がどこかを探すことがけっこう大変であることと、地名の文字表記と同様図名が変わる心配があるので、私は気がすすまない。2.5万図は4,000枚以上あり、土地カンのない他人の採集地の図を探し出すことは、できそうにないからである。経緯度なら、誰が見てもすぐ分かるし、細かく記録したければいくらでも細かくできる。一つ困るのは、位置記録の精度を示しにくいことである。これは分布図を描くとき、大問題になる。精度に応じて度や分の小数とその桁数を使い分ける必要がある。これについてはデータベースの項で再述する。この項はラベルの記事には経緯度のみがおすすめだ、と言っているのであって、データベースでもそうしろと言っているのではないことに留意してもらいたい。
何故自分が提案したLocality Indexを薦めないのかというと、日本地名索引を作ったときのやむをえない事情に関係している。分で記録しなかった主な理由は2つある。1つは経済的なことである。20万図は約120枚あった。地名の位置を分単位で読み取るためには、1枚につき98本の補助線を引かねばならないので、始める前にウンザリしてしまった。それにそんなにたくさんの線の入った図では、地名採録のバイトさんもウンザリするに違いないし、校正もややこしい。Locality Indexなら1枚あたり30本の線を引けばよい。もう1つの主な理由は、分布図作りのためにあちこちの標本室でデータをとっていたが、経緯度の分で示せるほど「精密な」産地記録は1つもなかったからである。これは今でもそうだろう。だからこそ、「精密な」記録をほしがる人達が、声をからし始めたのだ。「分でほしい」と言ってるのは、県分布図が頭にあるからにちがいない。日本全図ならもっと粗なデータでもよいのだから…。Locality Indexは堀川芳雄博士のGeoquadratに由来しており、それより「細かい」記録法だったのである。当時はメッシュコードを使う者は稀だったので、特殊性を主張できた。だがこれを元にした「日本地名索引」は、「位置ぎめがやりにくい」という陰の声があった。それに、今日のようにいろんな種類のメッシュコードが現れると、ラベル1枚からではどのコード体系なのか見分けがつかない。唯一わかるのが経緯度なのである。
記録用メッシュと表示用メッシュと調査用メッシュ これを区別してくれる人はほとんどいない。とくに記録用メッシュと調査用メッシュの混同は蔓延している。記録用メッシュは採集者各自が気のすむように選べばよい。表示用メッシュとは、分布図に示すときのメッシュで、たとえば1/700万日本全図で分単位の分布点を描くことは無駄で、もっと粗いメッシュで表示する方がスッキリする。ということは、Locality Indexや地図単位の位置記録でもよいということである。同じデータから町の植物分布図を作るなら、秒単位のメッシュでないと表現しにくい。その代わり分単位や地図単位の記録はネグらねばならない。調査用メッシュは分布調査のとき必ず足を運ぶことを前提とするメッシュなので、予算と期間と調査者のエネルギーを勘案して決める必要がある。調査用メッシュと記録用メッシュを混同した調査計画は、たいへん始末の悪いものとなる。
位置記録は地図ラベルで代用できるか? 略地図に点を打ったものは、感覚的には位置情報として使える。しかしデータベースには文字・数字にならないと取り込めない。それを読み取れるような目盛りが入っている略地図には、あまりお目にかからない。経緯度線が二組かそれに代わる目盛りがないと、位置は数値表現できない。だから略地図があるからと、安心しない方がよい。データベースに入力するときに、あらためて文字情報に作り直すという手間は楽ではないというより、マアできないだろう。地図のままでは、後記のような入力してからまとめて直すというやり方ができない。
〇データベースに関して
採集番号と標本番号 藤井さんの文には標本番号のことが書いてなかった。標本番号は公的標本になってから付けるもので、採集者に付けてもらうものでないから当然である。寄贈標本に先方の標本番号がついていても、こちらの標本としての番号をあらためて与えねばならない。データベースになってから、あるレコードを呼び出して参照したり訂正しようとすると、レコードを特定するための標本番号は大変重要になる。だからどの標本室でもつけてもらいたい。標本番号は重複しないということだけが大事で、ヤミクモにつければよい。オートナンバリングを持ち込んで、片端からバンバン打てばよい。標本番号に分類序列だの備品種別だの年代順だのを含ませようとすると、番号の管理が面倒になる。標本番号をつける作業は、データベース化に先立ってやる必要がある。順序が逆になると、たいへん面倒である。後記のようにデータベースの項目内容は次第に更新されてゆくので、標本番号が唯一の「定数」なのである。データベースを交換検討した結果、訂正されたレコードを元のファイルに入れ換えるには、標本番号を頼りにやるほかはない。一方採集番号は採集者がつけるものなので、これはフィールドノートをつけることと関連して、ぜひ習慣づけることをすすめてもらいたい。採集番号はフィールドノートと標本を結び付ける手段なので、そんなに神経質に管理する必要はないが、重複標本を判別する材料となり、研究上重要な参考データである。
データベース仕様 以前はデータベースというと、まず「みんなで同じ仕様にする。その方が共通性が高くて便利だ」というわけで、植物も動物も藻類も菌類も化石も岩石も、一つの仕様を設計したがったものだ。それも、データベースを実際に扱う前の、みんなの頭がブランクのうちに…。今はこういう馬鹿げたことは少なくなった。私は植物の中でも統一仕様はなくてよいと思っている。それぞれの作者の都合のよいように作ればよい。まして項目長などを協定する必要は感じない。ただ、最小限必要な項目は何かということが共通理解されていればよい。これについては既に何度も書いた。互いに交換するような標本資料データの必要項目が、とんでもなく違うことはない筈だから、もらったデータを自分の仕様に取り込むことは、今日では大して苦労はないだろう。
記述の統一 データベースを扱うとき、各項目の書き方が統一されていないと困る。行政区画名に新旧があったり、同一人の氏名の表記や略し方がマチマチだったりするときには、オリジナルの記事がどうであろうと、元の作者が何と言おうと、統一的表現に直さねばならない。だからといって、仮ラベルを作る人に統一基準による記述を要求しても、無理にきまっている。これは帽子に頭を合わせろというものだ。その次の段階として、データ入力時に一々訂正している場合が多いが、これはエネルギーの無駄使いという他はない。出現する一つ一つのケースを調べて直すことは、手間ばかりかかって入力者泣かせであり、そうしたところでエラーは残る。構わず入力してしまえばよい。データがたくさん集まってから項目ごとにソートをかければ、同じようなデータが集まるから、そこでいっぺんに直すのが楽だと思う。データベースのエラー訂正の手数は、エラーがいくつあったかではなく、何度訂正したかで決まる。機関によっては積み上げたシソーラスを用意し、入力時にソフト的に統一仕様にしているところも既にある。ただこういうやり方ができるのは、冒頭に記したように、地域を主対象とする機関で、どこでもやれるとは限らない。あまり対象が広くなると、シソーラスが不足なのにソフトがどこかにヒットさせてしまうおそれが大きくなる。これには気づくことが少ないのでコワイのである。シソーラスを充実すると、今度はヒットし過ぎて立ち往生するということがおこる。それを避けようとデータ仕様を細かく規定すると、作るのがめんどうになる。
過去の記録をどうするか(表記の精度) 自分のラベルを作ることなら、いくらでも注文をつけられる。少々拡張して、他人もこういう風にやれというのも、条件を緩めれば不可能ではない。号令をかけて集団の計画としてやる調査ならなおさらである。しかし既に作られてしまった標本や記録は、そういう条件にあてはめるだけの資質を備えていないものがほとんどである。だからといってこれらを無視するわけにはゆかない。環境変化や分布記録は、時間の経過と関連させる必要があるので、過去の資料も現在のそれと同じに扱わねばならない。ついでにいうと、「累積分布図」はホントの分布を示すのかということを、そろそろ考える必要がある。そうすると現在の記録がいくら「正確」でも、過去のものと混ぜて扱うときには、「正確さ」は低い方にならわざるを得ない。データベースの統一スタイルでは、これらの見分けがつかない。たとえば「千葉」という産地名しかない標本には、千葉駅か千葉市役所の位置座標がつくだろう。私は実際そうやっている。なぜかというと、その資料を無視したら、過去の記録がなくなってしまうというケースがあるからである。この記録は日本全図の分布図なら使えるが、千葉県の分布図には使えない。しかしデータベースになってしまうと、その見分けがつかない。きわめて「正確な」数字がついているのだが、その±Xはわからないのである。データベースが一定のメッシュシステムしか受け入れない場合、帽子に合わせて換算してしまうから、元の記録の精度はわからなくなる。元のメッシュ記録のまま入力しておけば、その精度は保存でき、地図の縮尺に応じてデータを取捨することが可能である。あるいは統一メッシュにした上で、精度をつけ加えるのもよかろう。
電子媒体記録のウサン臭さ データベースは文字型資料の保存形態として優れているという通念があるが、私は信じない。データベースは検索やソートを効果的におこない、さまざまな形態で出力してくれるという点では大変有用であるが、それを行うためには、オリジナルデータを統一した様態に変形する必要がある。たとえば同じ産地なのに昔は氷川村と記録され、今は奥多摩町となっている。リストを作ったり検索するときには、これを現在の方に統一する必要がある。先日ある論文を見ていたら、千葉県の富津洲を「フッツス」とローマ字書きしてあった。私の記憶では「フッツノス」なので著者に問い合わせたところ、教育委員会の説明書きが送られてきた。それには「フッツス」と記してあった。また同じ千葉県で、これはTVで姉崎を「アネサキ」と発音していた。これも私の記憶では「アネガサキ」だった筈で、おそらく教育委員会がらみだろう。そうすると過去の「フッツノス」や「アネガサキ」の記録をそれぞれ「フッツス」「アネサキ」に統一してしまわないと、たとえば産地の50音ソートに差し支える。したがってデータベース上では歴史的発音はなかったことになり、いつまで「フッツノス」「アネガサキ」であったかはわからなくなる。データベースがオリジナル情報を保存しないということは、それだけ情報が減るということである。
これらに限らず、地名のよみ方、年号の個人による使い方のくせ、植物名や人名にいたるまで、統一せねばデータベースとして使えないものは数かぎりない。ラベルやメモ紙の上だと、たとえ書き直しても、線で消してあることがわかったり、筆跡で誰がそれをしたのかがわかる。しかしデータベースには筆跡はもともとないし、訂正は上書きされてしまうので、変形の履歴は失われる。ということはオリジナル情報は保存されず、しかもいつ誰がどのように改ざんしたかもわからないまま横行するのである。誰もそれに責任をとらない。私はこれがいやで、「訂正するならオリジナルデータはそのまま残し、別項目を立てて行うべきだ」と言ったことがあるが、頭を冷やして考えると、実際にはこんなことはしていられない。だから電子媒体記録は「保存」のためにあるのではなく、「活用」のためにあり、常に「更新」されてゆくものだと考えねばならない。ラベルの永続性を心配しても、データの安定性についてはだれも心配せず、いつの間にか変わってしまうので始末が悪い。 データベースがうさん臭いとき、立ち帰って見なければならないのは仮ラベルであり、それをつなぐのは標本番号である。
※もっと根本的な問題は、電子記録では文字パタンが規定されていて、システムにない文字は使えないということである。「外字パタンを作ればよい」とすぐに反論されるが、そんなものはデータ交換のとき消えてしまうし、もっとコワイことに他の文字に化けてしまうから、ウカツにやらない方が賢明である。実際にそういう悲劇を体験している。コードブックで文字パタンを調べてみれば、同じであるべき篇やつくりの形が複数あって(たとえばシンニュウには2つのパタンがある)、複数あるのは当然と思っていると、文字によってどっちを使うかが決められているのを知るだろう。操作性の便利さと引換えに、オリジナル情報を型にはめて変形せねばならないのである。※
データベースは誰のものか? 私はみんながテンデに同じ種類のデータベース、とくにシソーラスを作っている現状は、エネルギーの無駄遣いだと思う。和名・学名のシソーラスはたくさんの人が作っている。少なくとも和名や学名や文献情報の文字列は、誰がやっても同じである。だからだれかが一度入力してそれをみんなが使えば、余計な手間が省けると共にエラーを最小限に抑えることができる。近頃標本を調べに来る人達は、パソコン入力をしている人が多くなった。そのデータを標本室に還元してほしいものだ。標本室でも関係標本のデータベースがあるなら、わざわざ入力させないで分与してあげればよい。不足不備のところは、見つけた人がつけ足せばよい。それらをどう使うかは、人によって異なるだろう。余ったエネルギーと時間を、他のデータ処理に振り向けられる。だからデータベースは、できるだけ頻繁に交換するのがよい。そうすればその度に内容は充実してゆくだろう。同時に変形もしてゆくけれど。この頃の風潮では、自分の作ったものは自分のものだと主張する傾向が強い。だからあそこに同じものがあると分かっていながら、自分でまた同じものを作り、「俺のものだ」と囲い込む。中身は同じなのに…。他人にそれを与えると、もらった人がそれになにか手を加えるから、「自分」の権利が輻輳して弱くなる。だから「ください」とも言いにくい。「他人の努力をただ取りする」といわれかねないから…。そういう人は、自分と同じ結果を出すために、他人も同じだけ汗を流せと言いたいのだろうが、同じ汗で自分と異なる結果を出せるようにしてやる方が、お互いの為ではなかろうか。多くの人達が関与してできたデータベースに各人が権利を主張すれば、使う立場や改善する立場の人達の参加意欲が失われるだろう。データベースは手段・過程であって、東京から京都へ行くのに、歩いて行くか、バスで行くか、新幹線で行くか、飛行機で行くかということではないのか?現状は各自がテンデに自動車を組み立て、道路を開発しているようなものではなかろうか。だれかが自動車を作ったらそれに便乗して、京都での仕事を能率よく片づけるのがよくはないだろうか?データベースやソフトウエアは活発に交換し、互いに作者に敬意ははらうが遠慮なく利用・増強するのがよくはないだろうか。むかしある有名教授で「俺の研究室の機械を使わせてやるから、論文は共著にしろ」と言った人があるそうだ。言われた人は同じ教室なのに敬遠して、わざわざ遠方へ使わせてもらいに行った。われわれの間でこういうことは起こってほしくないものだ。ただ、データベースの開発や製作には、資金の関係で企業や集団の利害がからむことがあるから,それに配慮せねばならないことは当然である。
[日本植物分類学会Newsletter(80):9-14(1995)]
編集部注:原文の提供情報は一部割愛いたしました。
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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