成蹊学園の尋常科(中学)へ入ったのは昭和18年である。出身の盈進学園の丸山鋭雄校長は、もとは成蹊の教師だったので、入試は受けたものの推薦入学のようなものだったのだろう。一学年わずか5-6人の寺子屋のような小学校から、一組30人の普通の規模の学校に入ったのだが、私にはなにもかも巨大で異質だった。日米の戦争はすでに昭和16年から始まっていたが、まだそれほどの切迫感はなかった。
小金井の家は駅から1.5kmほど南で、小金井村のはずれ、府中町との境目にあった。物心ついた頃には周囲は一面の畑と栗林とアカマツの疎林で、家の門から富士山が直接見えた。今のオートバックスのあたり(小金井街道と新小金井街道の交叉点)に蛇窪という葦に囲まれた小さな沼があり、そこから出た小川が家のそばを流れていて、よく笹舟を流して遊んだ。今は遊歩道になっている中倉さんの前の通りである。バスはなく、乗り物としては駅前に人力車が1台、タクシーが1台あるだけで、父(英一)は家から駅まで歩いて、神田の店(絵本出版の金井信生堂)に通っていた。なんでこんな不便なところに住んだのかというと、もともとここは別荘地として売り出されたが、見込み外れで買い手がなく、祖父(直造)がまとめて土地を買ったものらしい。家は建てたものの頻繁に来るような所ではなく、子供の多い長男の父に住まわせたもののようだ。父は三井物産に勤め、台北に家族ぐるみで赴任していたが、直造が家業を継がせようと呼び戻したのである。建築の際には、電気を引くための電柱を何十本だか買ったと聞いている。近くには小山商店という藁葺きの小さな雑貨店(今のスリーエフの前身)があるだけで、買い物はすべて駅前まで行かねばならなかったが、八百屋や魚屋は御用聞きが毎日やってきて、午後には品物が届けられた。祖父と祖母(とよ)は年末年始の数日、泊まりにくるだけで、その間は家中はすごく緊張していた。官立学校の嫌いな父は、子供の小学校には1つ隣の武蔵境駅(東小金井駅はまだなかった)から北へ1kmほどにある盈進学園を選んでいた。天気の悪い日には駅までの道はつらかった。ある年には台風の大雨で野川が氾濫し、道路が1週間ほど水没したこともある。野川のまわりは一面の田圃で、蛙の大合唱が聞こえ、夏には蛍が家の庭まで入って来た。昭和12年頃、すぐ近くに横河電気の工場が建つことになり、工事が始まった。家の前の畑には工員のための青年学校が建てられ、府中街道(今の小金井街道)までの道沿いには職員住宅が並んだ。バスが通るようになったのは、戦後だったと思う。戦争が進むにつれて灯火管制が強化され、街灯がつかなくなった。そうすると夜遅く帰る父は暗夜には道が見えず、「上を向いて歩くと、両側の樹木の隙間がわずかに暗さが違うので見当がつけられる」と言っていた。
同じクラスに後藤英一(ユニークな計算素子パラメトロンの発明者、綽名三角おむすび)と槇原稔(後の三菱商事会長、綽名マキドン)がいて、どういういきさつか覚えていないが、3人で「共同研究」をしようということになった。カエルにどのくらい電流を流せば死ぬか、というテーマである。エーコン(加藤藤吉・物理の教師)から昇圧型のトランスを借り出し、ノミ(鈴木豊、生物の教師)に頼んで日曜日に生物実験室のドアを開けておいてもらい、校庭で運の悪いガマガエルを1匹つかまえてきた。トタンの解剖皿では漏電するので、板の上にじかにカエルを載せ、麻酔してから腹を開いて両腕に針金を巻いて通電するという、残酷きわまる実験である。ところがいくら電気を通しても、カエルの心臓は止まらなかった。半日くり返したあげくあきらめて、花壇の縁にカエルを埋葬して引き上げた。この昇圧型のトランスというのは、われわれの当初の目標は、真空放電に使う感応コイルだったのだが、大きくて重いうえに危険と思われたか断られ、次善の選択として提示実験用の通常型のトランスを借りた。それでもコイルや端子はむき出しで、やっと持ち上げられるほどの重さだった。後藤のもくろみでは、1次コイルと2次コイルを逆に使えば、充分な高圧が出るという。そんなことをすればコイルが焼き切れるか電源ヒューズが飛んだはずなのだが、彼は何か細工をしたらしく、そういう事故は起こらなかった。電圧計は借りなかったので何ボルト出たか知らないが、ウッカリ感電したらただではすまなかったろう。
戦局の深刻化につれて、学校の本館は航空軍に接収され、軍人軍属たちが我が物顔に横行し、遊びに夢中でウッカリ隊列を横切った生徒が、こっぴどく怒鳴りつけられたりした。陸上競技の400mグラウンドは工事の車両に踏みにじられ、見るかげもなくなった。「公認グラウンドなので荒らさないでください」という小さな立て札が、ゾル(Soldat:軍人に対するわれわれの蔑称)に対するせめてもの抵抗だった。学校の裏手には高射砲陣地が築かれ、発砲するのを一度だけそばで見た。砲口の炎は焦げ茶色をしていた。通学の途上で高射砲弾の破片を拾って見せあった。破片は熟れたニガウリ(ゴウヤ)の裂片に似ていた。昭和19年(1944年)サイパン島が陥落すると、B29 による空襲が本格的となった。昼間爆撃の彼らの目標の第1は、学校のそば(いまの武蔵野市緑町)にある中島飛行機製作所の大工場だった。編隊は高々度で八王子の方向からやってきて爆弾を落とした後、学校の北側を通り抜けていった。空襲警報が鳴ると授業は中止となり、下校させられたが、吉祥寺駅に行っても電車は動いていなかった。そこで近くの井の頭公園で、空襲が終わるのを待った。編隊が爆弾を放つと、空一帯に「カラカラカラ… 」と荷車を引き回すような音が響きわたり、目標から2kmも離れているのに怖ろしさに思わず身を伏せた。爆風を防ぐために、小指を歯の間に挟み、親指で耳を、残る指で目をふさぐ動作を自然に身につけた。やがて「ドン・ドン」という爆発音と地響きが伝わってくると、やっとホッとして立ち上がった。焼夷弾ではなく、破壊力の強い爆弾なので、地響きはすごかった。遠いからといって、爆弾がこないとは限らない。ある日警報が遅れて、駅に着く前に爆撃が始まってしまった。近くの藤村女学校の校庭で見上げていたら、なんの前触れもなく「スパッ」という音と共に20mほどのところに着弾した。あわててそばの防空壕に飛び込んだが、爆発しなかったからよかったもののさもなければ手遅れだった。不発弾か時限爆弾か知らないが、しばらくの間は、道路脇の小さな穴に立入禁止の縄張りがあるのを横目に通学していた。戦争が終わってから井の頭公園に行ってみたら、池のそばに大穴があいており、ここにも爆弾が落ちたことを知った。
やがて夜間の空襲も頻繁になり、この場合には敵機は小金井のわが家の上空を通って東京に向かった。3月10日の大空襲では、大火災に照らし出された銀色のB29の大編隊が低空で通過するのを眺めた。近くの調布飛行場は東京の防衛戦闘機の基地だったが、1機も迎撃にこなかった。敵は南方洋上から直進するように見せかけ、戦闘機を飛び立たせた後で近海で旋回して時間をつぶし、戦闘機の燃料が切れて着陸したころを見計らって進入したという。
昭和20年(1945年)4月に硫黄島が陥落すると、戦闘機の空襲が始まった。これは機関砲の弾が先に飛んできて、それから轟音と共に低空で飛行機がやってくるので逃げようがない。クラスでは、空襲による死傷者はなかったようだが、別な犠牲者が出た。大輪田が北鎌倉駅で死んだのだ。当時は空襲を避けて、鎌倉の疎開先から吉祥寺まで2時間かけて通学する者が多かった。昭和19年だったと思うが、電車は超満員の殺人電車で、窓から乗り降りするのは当たり前、連結器や屋根の上にまで人が乗っていた。大輪田は連結器に乗ろうとして足を踏み外し、電車とホームの間に挟まれて即死した。彼の墓は北鎌倉の寿福寺にある。
3年になるとすぐ、学校疎開のはなしが持ち上がり、われわれ3年生は箱根の寮に行くことになった。当時は中3(学校によっては中2)は勤労動員の対象だったが、成蹊では4年生からで、一部は軍需工場に働きに出かけ、一部は雨天体操場を工場として通信機のコイル巻きをしていた。軍需工場は空襲の対象になるので命の危険がある。学校は早晩避けられない勤労動員に対して、疎開によって勉学の場を確保しようとしたのだろう。小学生はともかく、中学高学年生の学校疎開は例外的だったと思う。なお中2年は福島県の二本松に疎開した。7月2日、約60名の生徒は箱根登山鉄道の小涌谷駅から重い荷物を背に、延々と歩いて芦ノ湖畔の寮に入った。引率は鈴木先生(数学、綽名ウルフ)、清水先生(英語、綽名シミッタレ)、谷岡先生(OB、国語、漢文、綽名タニオカ)で、川上先生(数学、綽名サンタロウ)もいたかもしれない。寮は箱根神社の西隣の高台にある東西に細長い平屋で、中央の洗面所を挟んで左右に二室づつあり、3班に分かれた生徒が東側から3部屋に入り、西端の部屋は職員室だった。われわれの班は東端の部屋で、その隣は便所になっていた。
ここで晴耕雨読の生活が始まった。「耕」は裏のゴルフ場の芝生を掘り返して畑を作り、蕎麦や大豆をまいた。「読」は各班の居室を使って、先生方が交代で担当科目を教えた。鈴木先生の数学はむつかしかった。谷岡先生は国士風の雰囲気で、忠君愛国の精神を鼓吹した。鈴木先生はまた作業の方の指導者でもあり、暇があれば薪割りに精出していて、割りにくい二股になった薪の割り方のコツをわれわれに伝授した。この技術はあとで虹芝寮で合宿したとき役立ち、先輩面をすることができた。加藤先生(物理、綽名エーコン)は東京とかけ持ちで、ときどき現れては授業をしたが、あるとき分光器を背負ってきて、太陽スペクトルのフラウンホーファー線のD線がナトリウムの輝線に一致することを、アルコールランプを使って見せてくれた。
箱根の夏は雨が少なく、せっかくまいた蕎麦や大豆はなかなか芽が出ず、芦ノ湖から水を運び上げてかけたりした。ところが芽が出ると、カラスに端から食べられてしまった。毎日の食事が、われわれの最大の関心事だった。別棟の炊事場から当番が鍋に入れて運んできて、各自の食器に盛り分けるのを、一同目を皿のようにして見守り、ちょっとでも少ないと文句をつけた。配膳されてからも、左右の者の食器の盛り具合を横目で観察し、スバシコイ奴は目にもとまらぬ早業で取り替えてしまう。一同気がつかないふりをしているが、実はみんなシッカリ見ていて、夜になると蒲団むしの制裁となる。職員室の隣の班ではあまり騒ぐわけには行かないので、われわれの部屋まで遠征して蒲団むしを執行した。蒲団持参で来るものだから、われわれの蒲団と混ざって天井近くまで積み上がった。でもこういう制裁はそのとき限りで、翌日はみんな元通りだった。他の学校疎開の思い出話にあるような、ボスができて手下と共に横行するというようなことは起こらなかった。作業や授業のない休日は、あたりを歩いたり、カッター(訓練用のボート)で湖に乗り出したりしたが、雨の日はみんなでトランプやゼスチャーをして時間をつぶした。「箱根ヤナとこ二度とは来ない・・・ 。」と、草津節の替え歌を作って憂さばらしをした。このとき採集したウメバチソウが私の作った標本第1号で、東大の標本室に入っている。1番時間を使ったのは食い物の話である。みんな腹を空かしていたから・・・ 。職員室への食事はわれわれが届けることになっていたが、腹いせに飯に草の葉や虫(大きな銀蠅)を混ぜ込んだりした。そういう中で起こったのが缶詰紛失事件である。職員室に保管してあった缶詰が多量になくなったのだ。これには複数の人がかかわっていたようだが、わが班に関する限りこれは共同謀議で、私も犯人の1人である。
学校側でも、開墾の収穫は期待できず、配給だけではとても足りないことは分かっていたのだろう。その対策として、吉祥寺の学校農園から野菜を運ぶ仕事が、生徒数名づつ順番に割り当てられた。教師の引率はもちろん無しである。帰宅して親に顔を見せてやろうという配慮もあったのだろう。私も2回その当番に指名された。帰宅できるといっても、小田急の沿線には厚木基地があり、しょっちゅう空襲されていて、そのたびに電車が止まって車外へ退避せねばならず、ときには銃撃されることもあるので、安全ではなかった。寮から小涌谷駅までは、間道を通って約7kmあるが、われわれは遠回りの国道を選ぶことが多かった。たまに通る軍のトラックの荷台に便乗できる可能性があるからだ。運よく小田原まで運んでもらったときもある。1回目のときはさしたるトラブルもなく、夕方学校に着いたら夕食を出してくれた。飯は高粱入りの赤黒いものだったが、食べていたらドアの外に兵隊が大勢集まってのぞいていた。「こんな子供に飯を食わせるなんて」というような、穏やかならぬ雰囲気で、食堂の係も「早く食べてしまえ」と、隠すようにしていた。戦争末期で、軍隊といえどもまともな食事にありつけなかったのだろう。
家で一日二日過ごしてから、学校農場のイモや野菜をいっぱい背負って箱根に向かった。当時の買い出しとは逆の風景である。小涌谷駅からの道では、トラックは期待できなかった。馬力が弱くて坂道を登れないのだ。重い荷物を背負って間道を歩いた。帰宅した生徒はなにがしかの「おみやげ」(つまり食い物)を班のみんなに配るのが、暗黙の仁義だった。これを怠ったり隠したりすれば、やはり蒲団むしの制裁で酬いられた。連合艦隊司令長官の息子の小沢が持ち帰った海軍乾パンは、最高の御馳走だった。後年、ヒマラヤ調査の食品調達で、偶然この製造元に行き当たったときには、とても懐かしい思いがした。私の場合は、大豆の塩煎りを茶筒に1本がセイゼイだった。
敗戦の8月15日は偶然にも運搬当番で、終戦の放送を自宅で聞いた。戦争が終わったことだけはわかったが、それ以外の感慨はなかった。良く晴れたとても暑い日だったこと、夕方外へ出たら、調布飛行場の方角で盛大な黒煙が上がっていたことを記憶している。多摩墓地は飛行機の退避場所だったので、翌年になっても双発機が放置されたままになっていた。戦争末期には長距離旅行の切符は許可制で、あらかじめ申請書を出して、前日に駅長の判断を仰ぐ必要があった。
季節は秋に入り、朝夕は冷たい露が降りるようになっていた。みんなホームシックで、清水先生が英語で教えてくれたホームスイートホームをよく歌った。後になって音楽の時間にこの歌が課題として出され、私は草川信先生(夕焼け小焼けの作曲者)に「君の発音は正しい」とほめられた。私が外国語でほめられたのは、この時だけである。栄養状態が悪いので、みんな虫刺されのあとが治らず、掻きつぶして手足に潰瘍を持つ者が多くなっていた。湖畔には成蹊小学校の生徒が疎開しており、そこの保健室で診てもらうのだが、消毒薬を塗る以外の手当てはできなかった。私はその結果、顔が西瓜のように膨らみ、足は大根のように水膨れになった。急性腎炎なのだが、その時は誰もわからなかった。朝起きてみると、横になっていた顔の下側は風船のように膨らんでいる一方、反対側は普通の顔で、自分ではわからないが、みんなには不気味に見えたらしい。私は小学校5年のときにも急性腎炎の前歴があるが、その時は手当てが早かったので、こんなになるとは知らなかった。さすがに休養を命ぜられ、1日中蒲団にくるまって寝ていた。皆はそれでも邪魔扱いはせず、何かと世話をやいてくれた。授業や食事は私の寝ている枕元で行われた。
霜が降りようとする10月15日、とうとう帰京することになった。結局、疎開は終戦前1ヶ月半、終戦後2ヶ月ということになる。しかし私は寝たままで、みんながいそいそと帰り支度をするのを、黙って見ているほかはなかった。そして誰もいなくなってガランとなった部屋に1人取り残され、蒲団の中からボンヤリ天井を見上げていた。悲しいとか、これからどうなるとかいう感情は湧かなかった。やがて事務担当の浜田先生が現れ、一緒に帰ることになった。彼は後始末の要員を引き連れていた。小涌谷までどうやって行ったのか覚えていない。長距離を歩けるはずはなかったから、トラックにでも便乗したのだろう。超満員の小田急を乗り継ぎ、新宿で別れて、夕方暗くなってから1人で小金井の家に帰り着いた。先に帰京した班長の片山透が、家まで来て様子を話してくれていたので、家人はどうしたものかと思案しているところだった。私は反抗期の最中だったので、疎開先から手紙を1度も出しておらず、様子がわからなかったのだ。疎開が冬まで続いたら、私は生きていなかったろう。昭和18年に長兄の謹一郎を長患いの末に亡くしたばかりなので、親は深刻な思いだった違いない。湖畔の小学生の疎開につき添っていた滑川道夫先生は教育評論家で父と顔見知りで、ときどき私の様子を書き送ってくれていたらしい。翌日からお茶の水の杏雲堂病院に2月まで入院していた。食料品の配給制度はまだ続いていたし、敗戦でそういうシステムが最も混乱した時期だったので、上野の東京薬専女子部に通う姉の澄子が、毎日おにぎりを運んできて、それで食いつないだ。だから私は、敗戦直後の世間や校内の混乱を、見ないでしまった。
新学期になって、私は長期欠席のため留年して新しいクラスに入った。吉祥寺の駅前は盛大な闇市場となっていて、人でゴッタ返していた。電車はとにかく動いていたが、超満員という言葉以上の混雑で、乗り降りにはラグビーなみの力業が必要だった。乗ってしまうと身動きがとれず、足の上に体があることはほとんどなかった。窓ガラスはみんな破れて雨や寒風が吹き込み、座席が空いても坐ると前の人が押されてのしかかってきて危険なため、みんな座席の上に立っていた。東中野と大久保の間で、乗客の圧力で走行中の急行のドアがはずれ、数人が神田川に転落死亡したのもこの頃である。一番楽なのは、ドアと座席の端の間の空間だった。だから私は、今でもそこへ立つことが多い。けれども進行方向側は危険だった、しばしばかかる急ブレーキで座席の側板に圧しつけられ、骨折する人さえいたのである。食料事情が悪くて、アメリカが恵んでくれた飼料のトウモロコシ粉や大豆粉の粉食が多いので、そういう中でガスの放出をする奴が少なくなく、臭いが消散するまで長い間我慢せねばならなかった。中野から先の沿線は焼け野原、中野から手前で焼けていないところでも、線路から数十メートルの間は戦争末期に行われた強制疎開のため、家がなかった。これは空襲による火災から鉄道を守るために、建築物を取り壊したことによる。
小金井の家は居間だけでも九室ほどある大きな日本家屋で、空襲で焼け出されたり、子供だけでも安全なところへという親戚など、多いときには30人近い人数が生活していた。親が近所の農家と親しかったので、食料はかなり融通してもらえたから、買い出しに走り回ることはなかった。しかしいくつもの家族が1つ屋根の下に住むことはトラブルを生みやすく、新聞紙上にはそのための悲劇がしばしば報道されていた。とくに食料の配分についてが、その原因となりやすかった。台所は1つしかないので、それぞれの家族が交代で使い、食料のストックはオープンにして、それぞれ別な食事を作っていたらしい。この結果、少なくとも表立ったトラブルはおこらなかったようだ。母親たちは神経を使ったことだろう。空襲の翌日には、被害に遇ったと思われる親戚や知人のところへ、自転車に食料を積んで届けたこともあるが、一面の焼け野原で目印がなく、行き着くのが大変だった。
戦争が終わったのに犠牲者が出た。黒田が米軍放出のガソリン焜炉を使っていて爆発、家が全焼したうえ彼は焼死したのだ。片山透の父親は成蹊のドイツ語教師だったが、出征したまま未帰還で、家は収入が途絶え、彼と2人の弟は吉祥寺の駅前で新聞売りに立っていた。しまいには母親も見かけた。父親が帰還復職してからも、この立ち売りは続いていた。彼らはこれを1つの人生修行として続けたのだろう。制帽をかぶったまま、平然と仕事をしていた。私は腎炎の後遺症もなく、生物部と蹴球部で楽しんでいた。
敗戦により、日本の教育制度は目まぐるしく変わった。旧来なら中学5年、高校3年のところを、成蹊のような7年制高校では、一貫教育を理由に中学(尋常科)4年、高等科3年で通過する仕組みだった。ところが尋常科4年はとにかく修了したものの、高等科(旧制)は1年で新制大学受験となってしまい、高等科へ入ったトタンに受験勉強をせねばならなくなった。だから同窓会名簿を見ると、われわれ24回生は昭和24年修了なのに対して、1年早く入学した23回生(私がもといたクラス)は、昭和25年修了となっている。当時のクラスには、敗戦で行き場を失った海軍兵学校や陸軍幼年学校出身の、成績優秀な(これらの学校には国内最優秀の人材が集まっていた)人たちがたくさん入っていた。彼らは年齢も上で人生経験豊富なので、子供っぽいわれわれとは雲泥の差があった。こういう人達と受験競争をしても、とても勝ち目はない。だが、入試制度そのものも大きく変わり、大学受験の前にアチーブメントテストという全国一斉テストが導入された。今日のセンター試験と似ているが、内容は大いに異なる。たとえば積み木を立方体に組んだ見取り図があって、それを構成する積み木の数を答えるというような、直観重視の問題が多かった。これは旧来の理詰めの勉強では間に合わない。ところが私にはこのテストが性に合っていた。というのは盈進学園には幼稚園があり、そこで遊んだ積み木にソックリだったのだ。立方体の箱に収まっているのを取り出して遊んだ後、その箱へ戻すのだが、箱へ直接戻すのはむつかしい。だから外で立方体に組んでおいて、箱をかぶせて収めていたのだ。おかげでアチーブメントテストは好成績で、いつも平均点附近をうろうろしている私がクラスで2番の成績をとり、みんなを驚かせた。
大学入試の最初は学芸大だった。これには腕試しを兼ねて志願者が殺到し、驚異的な倍率となった。東大の入試はその次だったが、大学側の準備が遅れてしばらく待ち時間があり、間がもたない。そこで小海線沿線で2-3泊の採集旅行をしてガス抜きをした。こういう旅行は、前年にも京都で旧制高校最後のインターハイに参加して緒戦敗退した後、1人で紀伊半島を1周して体験ずみだった。鈍行で行ってフラリと降りて、駅前旅館(かつてはどの駅にもあった)へ飛び込みで泊まるのである。はじめのうちは米を持参せねばならなかったが、その頃になるとかなり融通がきくようになっていた。当時は偏差値というものがなかったから、学校側は「受けたい」と言えば誰がどの大学を受けようと、内申書を作ってくれた。陰でなんとうわさしていたかは知らない。試験の前日の夕方、父が「明日は雪の予報なので、交通機関が止まるかも知れないから、今夜のうちに牛込の叔父の家へ行って泊めてもらえ」と言う。私はなんとなく反発したが、結局不承不承それに従い、もう寝支度をしていた敬吉叔父を煩わせた。翌朝は重たい雪が10cmほど積もっていて、国鉄は動かなかった。市電は動いていたので試験場へは定刻前に着けたが、試験開始は数時間延期された。試験問題は覚えていないが、数学については解法がわからないので、あてずっぽにピタゴラスの定理の応用と見当をつけて答えを先に決めてしまってから逆にたどったら、解法がわかったものがあった。東大の次は教育大の入試だったが、印象に残っていない。結果は学芸大は「否」、東大は「合」、教育大は「合」だった。入試制度の変更で、いわゆる秀才タイプが失敗する例が多かった中、高校側としてはかなり番狂わせな結果だったようだ。しかし東大教養学部に入ってみたものの、やはり背伸びしたことは争えず、2年後の専門課程への進学は、単位不足 (とくに語学)で留年し、翌年理学部植物学科に進んだ。語学の弱さは、その後も私の弱点だった。もっとも留年しなかったら、成績の関係で農学部に振り分けられたはずだから、将来は全く違ったものとなっただろう。2度の留年が、将来を分けるキーとなったことは否めない。
これで高校生活は終わったわけだが、通学路が吉祥寺経由だったので、帰途に成蹊に寄って生物部の部室でとぐろを巻いたり、蹴球部の練習に加わったりした。採集会や合宿にもよく参加し、新制高校の連中ともなじみになった。戦争の影響で諸先輩の多くは連絡がとれなくなり、せいぜい2-3年前の先輩しか知らなかったので、自然とわれわれの世代がOBとして部の世話をやくことになった。スプトニークが打ち上げられたときには、理化館屋上で天文気象部がエーコンの指導で観測(成蹊は正式の測候所と認められており、この観測も全国的に行われた事業の一環である)するのを見学した。あのときが人工衛星を見た最初で最後である。アルバイトで高校の生物の授業をやったこともあるが、教科書を教えることは私の気質に合わなかった。そのうち自分の仕事が忙しくなり、高校と中学が別な校舎に移ったこともあって疎遠になった。その次に接触ができたのは、ヒマラヤ植物調査に使う大量の新聞紙を、生物部を通じて調達してもらったときである。1回の遠征で、半頁に畳んで重ねた新聞紙が10mほど必要なのである。これは2-3年おきに4回ほど世話になり、大変助かった。
(2007年11月20日記)
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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