1970
〇自動車事故
9月 ちょっとした自動車事故に遭いました。C嬢たちを空港に迎えに行く途中、大型乗用車が追い越しざま早目に左へ寄りすぎたため、後ろのバンバーの左端でこちらの右フェンダーを引っかけたのです。僕の車はフォルクスワーゲンのワゴンで、イギリスの学生がロンドンで中古車を買って、ドライブして来たのをカトマンズで売り払ったものですから、十分クタビレており、フェンダーがソックリはがれてしまいました。動くのには何も支障はないけれど、はがれたフェンダーをボンネットに積むと、トランク(この車はエンジンが後輪直結型でトランクは前にある)の蓋がはね上がってしまって前が見えません。むこうの男が「俺の車に乗って行け、こっちも人を迎えに行くところだ」というので、道端に車をほうり出して行きました。
この男は旅行社のマネージャーで、空港に客引きに行くところなので、ウロウロしていると今日の稼ぎがなくなってしまうのです。こっちも途中でひまをつぶすと、彼女らに頼んで持ってきてもらった品物が、税関でひっかかってベソをかくといけないので、不用心だけれど車はそのままにしておきました。 さて彼女らを無事拾ってから、例の男を探し出し、「修理代を払え」とかけあうと、 「俺に何をしろというんだ!そんなことは知らん」という返事です。二言三言やりあったあげく、「話は俺の事務所へきてやってくれ」ということになりました。むこうも拾ったお客がそばで聞いているので、ここでやり合っては不利とみたのでしょう。空港でつかまえたからよかったので、後になったら顔なんか憶えていないし、向こうも知らん顔をきめこむから、これから後の話しはなかったことでしょう。
C嬢達をタクシーに乗せ、僕の車はトランクの蓋がはね上がらないように縛って、とにかく家まで転がして行きました。右の前輪が剥き出しで、前から見るとおかしな恰好です。
その車で役所へ行くと、みんなが「どうした?」と尋ねるから訳を話すと、マルラが「俺が掛け合ってやる」と一緒について来てくれました。例の男はインド航空の隣といういい場所にオフィスを持つ旅行業者で、そいつがマスターなのです。マルラはたいへん顔の広い人で、今まで僕が彼に会わせたネパール人はたいてい知っていました。今度も「こいつは知っている」そうです。
カトマンズの紳士たちは夕方5時過ぎになると、ニューロードの一角へ続々と集まってきて、道ばたの新聞売り場を中心にゾロゾロと行き交い、知人同士で立ち話をする習慣があります。一種の社交場ですが、こういうところへコマメに出ていれば、だんだん顔が広くなるわけです。なかなかよい習慣だと思います。見ていると、大の男同士が親密の情を表すのに、手をつないで話したり歩いたり、更には膝の上に坐ったりしているので、何だか奇妙な感じがします。
しかし知っているからといって、そう簡単に片づくようなものではありません。
- 「お前の追い越し方が悪くて引っかけたんだから、修理代を払え」
- 「お前見てないくせに何を言うか、コイツ(僕のこと)が中央線を越えていたから接触したんだ」
- 「何を言ってる、俺はお前が町からずっと後ろについていて、追い越したがってたのをバックミラーで見てたから、わきへ寄って追い越さしたんだ、第一、前の車がよけないのに追い越すヤツがあるか」
- 「お前のよけ方が足りなかったんだ」
- 「ウソいえ、あそこは道幅が十分あるところで、こっちは端に寄っていて、左ハンドルなのに中央線が窓から見えるくらいだったんだゾ(ネパールは左側通行)。それなのにお前がスレスレに追い越して、しかも早く前に回り込み過ぎたから引っかかったんだ」
- 「ゴタゴタ言ってもはじまらん。お前のミスは明らかだから、全額払えと言ってもよいが、4分の3払うことにしようじゃないか」
- 「見てないのにまたそんなことを言う。俺が引っかけたのならコイツの車体に長い引っかき傷が出来てるはずだから調べてみろ」
というので、3人で外へ出て車を調べてみたら、そんな傷はありません。彼の車は後ろのバンバーの端に、ホンノ少しへこみがあるだけです。後バンバーの端が前方に曲がっている先端のわずか1-2cmのところで、僕の車のフェンダーを引っかけたのです。そこで外でまた一問答。
- 「これで見るとお前があまりそばに寄って追い越したうえ、早目にハンドルを左に切ったのが原因だぞ」
- 「そうじゃない、俺が追い越し切らないうちにお前がハンドルを右に切ったんだ」
- 「他の車が追い越してるのに、何で右にハンドルを切る奴があるか」
- 「何だか知らんがとにかくお前が右に切ったから引っかかったんだ」
- 「俺はコイツ(僕のこと)が運転がうまいことは知ってるんだ。どう見たってお前が悪い」
彼は僕に向かって
「アイツはおかしなことを言うね。現場にいたわけでもないのに…。俺はちゃんと正しく追い越したんだ、それなのにアンタが右に切ったからぶつかったんだ。それ以外にありようがない。それなのにアイツはデタラメをデッチあげて俺のせいにする…」
ここまで言ったらマルラが烈火のごとく怒りだし。
「デタラメとはなんだ!お前がそんなに逃げるのならもう話はやめだ!この男はうちの役所のアドバイザーだから、役所と日本大使館の両方から警察に持ち出すからそう思え」と、僕の車の方へ歩いて行って、引き上げる格好を見せます。この頃には野次馬が30-40人取り巻いていて、中には警官もいるのですが、見ているだけで何もしません。彼氏も何となくついて来て、僕の車のところでまたやりとりが始まりました。
こう書いてくるといかにも彼の方が旗色が悪そうにみえますが、実際には逆で、彼が居丈高にベラベラしゃべるのに対して、僕の方は単語を探し探しボソボソ応酬するだけで、景気が悪いのです。今考えると、我ながらあんなやりとりがよくもできたと思います。僕がどんなに無口かはご存知でしょう。
とにかくまた部屋へ戻ろうということになり、椅子にかけたとたんにマルラ
「お前の方が悪い!しかし誰も見てないのだから折半にしよう」
「俺に責任はない。しかしこの人は外国人でお気の毒だから4分の1は出してもよい」
もう僕の出る幕ではなさそうなので、成り行きを見ていたら、ネパール語でまた2-3やりとりがあり、形としてはちっとも落着したとは思えないのにマルラが立ち上がり、「さあ帰ろう」と言うのです。外へ出てから「どうなったんだ?」とたずねると「折半だ」そうです。
役所へ戻ったら「同意書を作らねばならん」と自分で文章をつくり、「工場で見積りをとってから、これと一緒に持って言ってアイツにサインさせればよい」とくれました。同意書をつくるのはわかるけれど、彼氏が本当に折半に同意したのか、こっちは半信半疑です。とにかくまず行きつけの工場へ行って、見積りをとりました。114ルピー。それを持って旅行社へ行って見せたら
「あそこの工場は高くていかん、俺の知ってるところならもっと安いはずだから、そこで見積らしてくれ」といいます。教えてくれた工場へ行ったら、何度行っても「マネージャー チャイナ(いない)」で、見積書ができません。こっちもC嬢たちのご接待やなんかで忙しいので、とうとう3週間ほど経ってしまいました。なんだかしめし合わせて居留守を使われているような気がしました。それでもやっとのことマネージャーをつかまえ、もう1つの見積りのことは黙って見積らしたら140ルピーの見積書をくれました。
「お前の推薦した工場の方が高かったぞ」と見せると「そんなはずはない。よそで114ルピーだというなら俺がまけさせる」とその場で電話をかけて値下げさせてしまいました。安い方へ修理に出せばよいのに、何で自分の推薦した方に無理にまけさせたのか、わけがわかりません。
「さて、これで値段は決まったから、同意書にサインしてくれ」と切り出したら、「そんな面倒な書類はいらん。今払う」と現金で半額渡されました。やっぱり折半に同意していたのです。交渉のときあんなにゴチャゴチャ言っていて、ちっともきりがついていなかったように見え、事実彼はOKの返事はしていなかったと思うのですが、マルラの情勢判断のとおりでした。僕1人で話合っていたら、修理代どころか、「俺のバンバーが曲がったから修理代をよこせ」と、逆に100ルピーもとられていたことでしょう。だいたい自分でぶつけておいて「お前が右へハンドルを切るのが悪い」なんて言うのは、われわれ日本人同士ではなかなかできないでしょう。マルラの駆け引きも堂に入ったもので、ネパールではこういうやり方をしないと食われてしまうんだなと思いました。こっちにはとてもできることではありません。それどころか、マルラがいなかったら「お前なんか見たこともない」くらい言い出しかねません。ことによると「俺は彼の車に同乗していたけれど、そんな事故はなかった」という証人だって現れたかも知れません。
自動車ははじめの工場に修理に出したら100ルピーしかとられませんでしたので、ちょっともうかりました。ヘッドライトをどこかのポンコツ車からはずしてきて、安くしてくれたのです。そのかわりサイズが小さく、ガタガタのところを走るとはずれそうになります。そのうえ取りつけるとき上下を逆にしてしまったので(もう片方はちゃんとついている)ライトを下向きにしようとスイッチを押すと、右目は上を向き、左目は下を向きます。上下の斜視というのは大変珍しいそうです。
〇創立記念パーティー
もっと直接的な表題にしたかったが、日本では受け取り方が違うと思うので遠慮した。
「今日はわが研究所の創立記念日なので、夕方からゴダワリ植物園でパーティーをやるから来ないか」と誘われた。もちろん、断る理由はない。研究所はカトマンズ市内の南端にある。創立記念パーティーならお客をたくさん呼んで盛大にやるだろうに、町から車で30分もかかる盆地の端の、電気もロクに来ない植物園でやるというのがちょっと引っかかった。
とにかく夕方行ってみたら、集まっているのは研究所の職員、しかも男性ばかりだった。この研究所はネパールのお役所としては、女性の数が多いので有名なのだが…。飾りつけも宴会場の用意もないし、みんな普段着である。どんなことをやるのか尋ねたら、なんと「大麻パーティー」だそうだ。式辞もあいさつもなく、一同屋上に坐り込んで、トランプ博打を始めた。それも6-7人がハリケンランプの明かりを頼りに車座を組み、あとの人たちはてんでに周りにたむろしておしゃべりをしている。念のため言っておくが、この国では男どもが賭け事をやるのはごく普通のことである。今日は無礼講らしく、会議のときには小さくなっている若手も、年長者と対等にしゃべっている。私はこういうことは苦手だし、ウッカリ参加したらいいカモにされるだけだ。それより大麻をどうやってパーティーに使うのか興味が湧いた。
ネパールでは大麻は危険視されていない。「あんなもの、別に習慣性になるわけでもなし、子供の病気のときだってどこでも使っている」そうだ。それをいいことに、ヒッピーどもが大勢入り込んで世界中に知らせてしまったので、国際的にうるさくなって迷惑してるという。たしかに当時はヒッピーがたくさん入っていて、ネパール人から見れば野放図な生活ぶりを見せつけ、スワヤンブ・ナートでは、それがかえって野外動物園のように見物の対象になっていた。大麻はそこらにいくらでも生えていて、人夫たちは雌株を選んで茎をしごき、手についたネバネバしたヤニをこすって集めている。この樹脂はガジャと呼ばれるが、作り方を見ているとかなり手垢がまざっているようだ。
2月にパシュパテナート(ネパールで1番大きいヒンズー寺院)で行われる祭りを見物に行ったら、路上で大麻やガジャをいくらも売っていた。この祭では、大麻が重要な役割をしているそうだ。雌花を固めて半発酵させたものを苧殻で包み、納豆のような形と大きさにしたものがあったので、1つ買った。その中身をほんのわずか取って封筒に入れ、日本の麻薬の専門家に「こんなものがあった」と送ったら、たいへん叱られた。「今後絶対にこういうことはしないで欲しい」というのだ。
みんなで大麻たばこをふかすのかと思ったら、そうではなかった。建物の一隅で役所の人夫たちが、乾燥した大麻の花の塊を粉にしていた。平らな石の上にのせ、拳大の石で硯で墨を摺るようにこするのだ。古代エジプトの壁画や彫像にこれと同じ道具が見られるが、ここでは珍しくない。スパイスや薬草を粉にしたり、ナッツを割ったりするのに使っている。高地のヤク飼いのテントでは、家畜にやる岩塩を細かくするのに使っていた。
やがて出てきたのは、ガラスコップにヨーグルトが200ccほど入ったもので、マンゴーやパパイヤの細切れで味つけしてあった。中に大麻の粉が入っていることは言うまでもない。ネパールのヨーグルト(ダヒと言う)は日本のように味つけしてないから、そのままでは酸っぱいだけだが、これは非常にうまかった。ダヒは朝暗いうちにマーケットへ行くと、近在の農家の人達が、素焼きの浅い丼に入れて天秤棒でかついで売りに来ている。生産者によって、うまいまずいの差がとても大きいそうだ。酸っぱいだけと言っても、食べ比べるとたしかに差がある。
飲んで30分ほどしたら、一同しだいに陽気になってきた。50-60代の長老格の人達までが、「箸が転んでもおかしい」という具合に、ちょっとしたことでケラケラ笑い転げるのだ。1時間たっても同じだった。ところが私の方は全く何も感じない。周りの人達が「金井さん、頭の隅がジンジンしてこないか?」と尋ねるのだが、残念ながら快楽を共にすることはできなかった。生理的に鈍感らしく、もったいないはなしだった。
1時間ほどしたらお代りが出たが、自他ともに状況にそれ以上の変化は起こらなかった。今年の大麻は弱いそうだ。強いときにはみんな歌ったり踊ったりし、ついには眠り込んでしまうとのこと。そうこうしているうちに、いつの間にか解散になってしまった。帰途は自分で車を運転したが、特に異常は感じなかった。
私が買った大麻のつとは、帰国のとき「来年のパーティー用に」と寄付してきた。持って帰ったら、つかまって新聞種になったことだろう。
〇カリンチョークの旅(1)
1970年9月9日 C嬢とN嬢が来たので、カリンチョーク(Kalingchok)へ行きました。なんといってもここが1番手っ取り早く高いところへ登れます。9月も中旬なので天候も安定しただろうから、お嬢さん方にはよいだろうというわけです。うちの奥さんはダンナが若い女性を2人もつれてイソイソと出かけるのでおかんむりです。シェルパはまたジャンブーの兄貴のアンツェリンです。
早朝、ジープで出かけましたが、コダリ道路はこの夏の雨ですっかり壊され、なかには道がそっくり流失したところもありました。バラビセで先着の人夫に荷を背負わせて歩き出し、夕方1番上の部落のターレへつきました。Cさんは歩きだして1時間もしないうちに、アンツェリンを顎で使うようになりました。きっと普段のとおりなのでしょう。ボーイフレンドに見せたら行く先を案じることでしょう。ときどき雨がパラついたりしましたが、日射が強くなくてかえって楽でした。トウモロコシ畑のあとでキャンプ。
翌日から森林帯に入りましたが、どうも天気が悪く、ただでも蛭が多いところなのに、湿っているからノミ屋街の客引きのように蛭が至るところで手をふっています。1枚の葉に5匹も乗っかっているのもあります。面白いのは道の山側からのアタックがほとんどで、谷側からはきわめて少ないことです。蛭がどうやって道の谷側と山側を見分けるのかわかりません。手を振っている蛭にちょっと触ると、上側からだとずいぶんゆっくり触っても吸いつかないのに、下側からなでるとどんなに素早くさわっても確実にこっち側に乗り移ってきます。僕は蛭に慣れたけれど、こんなにたくさんの蛭に出会ったのは初めてです。だから生まれてはじめて蛭に出会う2人には大変な経験で、文字通り応接に暇がなかったでしょう。Nさんなどは初めのうちは、蛭にとりつかれると、必死になって振りとばそうと大奮闘でしたが、そのうちに覚悟ができて、指でつまんで丸めてポイとやれるようになりました。頚筋や腕もかなりやられたようです。それより内部もやられたかどうかは、教えてくれませんでした。でもCさんは、背中に入った蛭をアンツェリンにとってもらったと口走ったのを聞きました。
今日中に稜線のジャンダン・カルカまで上がろうと考えていたのですが、Cさんの方は1本ずつ念入りに採集するものだからそうはゆかず、途中で夕方になってしまいました。雨がだんだんひどくなるので、この前泊まったことのある斜面のカルカ小屋へ行ってみたら、小屋は取り払われて草ぼうぼうでした。アンツェリンが「何とかなる」というので、ビショ濡れの草の中にテントを張りました。彼等は小屋がけの跡にグランドシートを張ってもぐり込みました。
4日で帰らないと2人のビザが切れてしまうので、翌日は下りにかかるあたりで泊まろうと考えていましたがちょっと無理で、次の日は稜線のカルカにテントを張りました。この日も雨が降ったりやんだり、いやな天気でした。このカルカは広い船窪形の広場ですが、通りがかった男が「雨が降ると大水になるよ」と注意してくれました。でも他に適当な場所がないので、なるべく乾いていそうな所を選び、2つのテントの入り口を2mほど離して向い合せに張り、間の空き地にもグランドシートをかぶせて作業場兼食堂にしました。排水溝も思い切り大きく掘り、食堂の中にも運河を1本通しました。夜になったら雨が強くなり、あたりはプールのようになってしまいました。この広場の土は水はけがおそろしく悪く、さっきの注意は本当だったのです。しかし「運河」と「堤防」のおかげでテントは浸水しないですみました。「食堂」の中央を濁流が矢のように流れるのを見ながら晩飯を食べました。曲水の宴にしては風情がなかったです。
翌日もうっとうしい天気。この日のうちにバラビセに着こうと急がせましたが、やっぱり採るものが多く、途中で日が暮れてしまいました。迎えのジープは今日来ることになっており、われわれが間にあわなければ翌日の昼まで待つことになっています。代金は後払いで、前渡し金しかやっていませんが、そんな約束はアテにはなりません。払いのよい客がいればいつでも帰ってしまいます。ジープがなくてもバスがあるのですが、このバスははじめての普通の女性には、ちょっとすすめられません。道はもう畑の中で採るものもあまりありませんが、なにしろ遠く、バラビセへあと半日というところで泊りました。学校の運動場ともいうべき5-6坪の草地で、山側が急斜面になっていて、雨になるとまた洪水のおそれがありましたが、幸い雨は少ししか降りませんでした。
次の日は、今日こそ昼前にバラビセへ着かないとジープはおぼつかないので、あまり採るなと酷な命令をして急ぎました。Nさんはあまり僕に近づきすぎて高枝鋏でひっかかれたり、Cさんは川の石を渡りそこねてズブ濡れになったりしながら、11時頃バラビセへ着きました。ジープはちゃんと待っていたので、バッティ(茶店)でお茶をのみました。このお茶も行きがけにご馳走するには早すぎたでしょうが、4日も歩いたあとなのでもう抵抗は無かったようです。今回は9月だから雨は降るまいと思いましたが、連日さみだれ式のいやな雨降りでした。でもおかげで普通なら寄らないカルカの小屋のいろり端で雨宿りしたりしたのですから、悪いことばかりではありません。
カトマンズに着いたのは4時近くで、ビザの延長に役所(5時までやってる)に行くことはできたのですが、くたびれていたので明日でもいいやとそのまま家に帰りました。ところが翌日になったら誰か偉い人の出国だか入国だかで役所は休み、その次の日は土曜日で休みという具合で、2人のビザは切れてしまいました。ネパールでは土曜日が休日で日曜日は出勤日、半ドンはなしです。トリップに出る前にインミグレーション・オフィスへ行って、明朝出発だから今夕までに延長してくれと言ったら「明日にならないとできない」という返事なので「そんならいいよ」と引き上げた手前、同じ奴に「ビザが切れたから何とかしてくれ」と言うのもシャクです。そこで日曜日(ネパールでは勤務日)に外務省のアジア課に持っていったら、顔見知りの部長が簡単に延長してくれました。ほんとはここでは公用旅券しか扱わないはずなのです。
〇インドラジャトラ
1970年9月14日 今日はインドラジャトラの祭で午後は休みでした。夜、ハヌマンドカ(旧市街の中心部)で踊りがあるというので、暗くなってからC嬢とN嬢と3人で見にゆきました。ニューロードに車を置き、そこらで買物をしてからダルバルスクエアを通って行きました。いつもは格子のはまっているハヌマンドカが今夜はご開帳で、中の金色の神像に照明が当り、とてもきれいでした。ポリスが立ち番しており、人々がお参りしています。その前の広場で踊りがあるらしく、群衆がかたまっていました。踊りはちょうど終わったところで、踊り手が帰ってゆくところでした。すると急に群衆の中から喊声があがり、一方から強く押されてみんなよろめきました。よくあることなので気にもとめなかったのですが、2度も3度もやられるので、喧嘩でも始まったかなと思いました。Nさんが押された拍子に買物の包を落としてしまい、遠くに押しやられてあきらめていたら、拾った男がわざわざ持ってきてくれました。
どうも騒ぎ方が尋常でなく、われわれが寺の高縁に上って騒ぎを避けようとしても、それでも押されるのです。これは逃げだした方がよいと判断し、2人をうながしてインドラチョークの方へ歩き出しました。すると群衆はあきらかにわれわれを目標にしていることがわかってきました。
連中は若い男4-5人を先頭にしてずっとわれわれの後についてきて、後ろで「ワーッ」と声があがると、先頭の男が後ろからつきとばされたふりをして女性2人に飛びつくのです。僕がたしなめると、その男たちは後ろの群衆を自分たちが抑えているのだというゼスチャーを見せますが、すぐまた押されたふりをして2人に抱きつくのです。そして「ここはあぶないから、俺の家に入れ」とすすめます。こんな男の家に逃げ込んだら何をされるかわかりません。といって駆け出したり腕づくで抑えようとすればかえって刺激することになるので、つとめて平静に歩きながら、何とか広い通りに出ようと、インドラチョークからニューロードへ向いました。
インドラチョークの広い通りへ出ても群衆は減るどころかますます増え、子供まで混じってはやしたてます。後ろの男たちは図にのって前の行為を繰り返します。インドラチョークにはラトナさんという日本語のできる人の店があり、この人は日本大使館の仕事を手伝っているので顔見知りでしたから、その店へ逃げ込もうというのが目当てでした。でもそこらの店はほとんど閉まっていて、ラトナさんの店も開いているかどうかわかりません。警官もあたりにいるはずなのに、騒ぎを鎮めにきてくれません。そもそも騒ぎの発端であるハヌマンドカの真前が警察本部なのに、そこで起こった騒ぎに1人も出てこないのですから、この先も期待できません。
ラトナさんの小さい店が開いていて、店先に顔が見えたときには本当にホッとしました。われわれが店に入ると群衆はたちまち店を取り囲み、中へ入ろうとする者もいます。ラトナさんは店の戸を閉めてしまいました。それでも連中は一向に散りません。扉をドンドンたたく者もいます。ラトナさんはとうとう警官を呼んできました。その警官が「われわれのオフィスへ来てちょっと待ってください。そうすれば連中は静まって解散するから」というのですが、大体この男が警官なのかどうか、制服を着てないので見当がつきません。へたな所へ連れていかれて男女別々だなどと分けられたりしたらどうにもなりませんので、ラトナさんに一緒に来てもらうことにして、やっと店を出ました。
群衆はかなり散っていましたが、まだたくさん残っており、ほとんどの連中は酒に酔っています。そういう男のそばを彼女らが通りぬけようとすると、立派な身なりをした紳士でも、よろけたふりをしてわざとぶつかるのです。警官詰所はインドラチョークとニューロードの角の、もとのバザール跡の一角にありました。今は取り払って工事中で、真っ暗な空き地の隅にポツンと小さな小屋がありました。そこにしばらくいてから、僕だけ車をとりに行きました。こういう時でもラトナさんがいてくれないと、女性だけ置いて行くのはちょっと怖くてできません。やっとのことで車に乗り、引き上げることができました。
今度の経験は大変危険なものでした。僕は今までカトマンズは大変安全だと思っていました。夜遅くでも現地の女性が町を歩いているし、われわれも何も用心する必要を感じなかったし、実際に夜のお寺見物に女性を連れて行ったことも少なくありません。そしてこれまで1度も不愉快な思いをしたことはありませんでした。今度の事件でカトマンズも安心してもいられないこと、とくに酒の入った人たちの程度の悪さ、さらにそれが群衆になったときの怖さを思い知らされました。
あまり不愉快だったので、翌日手紙を書き、警察本部へ持って行きました。「昨夜お前のオフィスの前でコレコレのことがあった。警察本部の前でこんなことが起るのをなぜ黙視しているのか。」というわけです。署長の言うには「大変お気の毒である。ああいう事件はインドラジャトラの夜にだけ限って毎年起る。だからわれわれも昨夜は泊りこんで見張っていたのだ。あなた方がやられた少し前に、ネパール女性2人がアタックされ、彼女らはこの本部に逃げ込んだが群衆が追って来た。そこでわれわれは連中を叩き出し、2人の男をつかまえた。その後群衆が騷いでいるという報告があったが、次第にインドラチョークの方へ去ったというので収まったものと思っていた。インドラジャトラの祭はある種族(名称を言ったのだが僕には聞き取れなかった)の祭なのだが、彼らは大変程度が悪く、酒を飲んであちこちで騒ぎをおこす。だから警戒のために町中に警官を散らばらせるものだから、どうしても特定の場所の見張りは弱くなる。昨夜はスイス女性3人が同じ所でアタックされた。」というわけで、年に1度しかない「bad occasion」に出会ったのが、われわれの不運というような口ぶりでした。
勤め先でこの話をしたら「そんなことあるものか。年に1度しか起こらないなんていうのはポリスの逃げ口上にすぎない。われわれだって夜遅く家族を町に出すことは、危なくてできないんだ」ということでした。カトマンズの夜というのはわれわれ外来者の見かけよりも物騒なものらしいです。僕にとってもネパールの認識をあらためさせた一夜でした。[1994年頃協力隊で滞在した藤川さんの話では、娯楽の種類が増えたせいか、こういう騒ぎは聞いたことがないそうです。]
〇カリンチョークの旅(2)
Cさん達が帰ってから、もう1度カリンチョークへ行くことになりました。本来の予定では、西ネパールに大旅行をすることになっていたのです。それによると、まずデリーへ出て、インド領をネパールの西の国境沿いに北上し、適当な所からネパールへ入るというもので、これが極西ネパールへ行くには最も便利な方法であり、所によってはこういうやり方でしか行けない所があるのだそうです。
ネパール人とインド人は国境の通過が自由ですが、外国人はそうはいきません。外人がインド・ネパール国境を通過できる地点は限定されており、そこ以外は特にインド側の取締りがやかましくて駄目なのです。西部国指定はそういう外人出入国地点(recognised point)はありません。1963年に僕の前任のIさんが行ったときには、うまい具合に西部国境からインド側へ出てしまったのですが、あとからラクノウまで来たとき、国境侵犯の容疑で警察につかまったそうです。そんな遠くまでわざわざ捕まえに来るのですから、インドの警察も見上げたものです。ネパール側から行って帰ればよいのですが、このためには飛行機で1番西の飛行場のあるネパールガンジに飛び、そこはインド平野の端ですから、ここから北上しなければなりません。
「9月では雨期で道がズタズタだし、低いところを歩いても面白くないよ。」と言います。要するに、条件の悪いところを歩くのはごめんだというのです。西ネパールの北寄りは雨が少ないので、そこだけを歩きたいわけです。西ネパールのカリガンダキ河中流のジュムラに飛行場がありますが、雨期には使えません。だから最初の計画は、雨期前に飛行機でジュムラへ飛び、雨期中は雨のない西ネパール内陸部を歩き、雨期あけにジュムラへ出て飛行機で帰るという理想的なものでした。残念ながらその計画が出たのは雨期寸前で、予算が無いと言っているうちに雨になり、「雨期が終わってからにしよう。」ということで、代りにチリメへ行ったのです。「俺は西からは入れないよ」と言ってあるのに、またその話を持ち出すので、「駄目にきまってるから、もう少しこっち寄りにしてくれ」と言ったら、今度はポカラからムクチナートに行くことになりました。9月ではポカラ以西の小飛行場はまだ使えないそうです。サテ出かけようという段になったら、「ムクチナート附近でカンバ族同士の喧嘩が始まったので、危ないから取りやめだ」というのです。
カンバ族はチベットの一種族の名で、チベット人の中でも荒っぽいので有名ですが、中国軍のチベット侵入で流民となってネパールに入った連中の一部が、徒党を組んでカリガンダキ上流を荒らしているのです。後日譚によると、この頃アメリカの秘密援助でチベット反攻を目論んでいたそうですが、結局は治安の悪化に困ったネパール政府の派遣した軍隊に殲滅されてしまいました。こっちはともかく喧嘩には無関係なんだから、と言っても、「彼らは武器を持っていてヤバイんだし、強盗もやるので巻き添えにされるおそれがあるから駄目」「そんならポカラからアンナプルナの南側を歩けば、喧嘩は山の北側なんだからよかろう」「イヤ彼らは馬に乗って1日に何里も走るから、山のこっち側でも安全ではない。(地図をみれば、いくら走ったところで、こっち側まで喧嘩のトバッチリが来るとは思えませんが…)。第一、外務省がお前の旅行許可を出さないだろう」というわけで、西ネパール行きは縮小に縮小を重ねたあげく、中止になってしまいました。その代りどこかへ行こうというので、カトマンズの近くで1番行きやすいカリンチョークに行くことになったのです。これも僕はカリンチョークを越えて向う側のロルワリン谷に入り、チベット国境に沿って峠を越えて東のナムチェバザールへ出ることを提案したのですが、蓋をあけたらいつのまにかカリンチョークだけになっていました。
今回の同行はチャンドラギリに同行したシュレスタと、ケミストのアディカリです。アディカリは1年半ほど前に英国留学から帰ったPh.Dで、植物成分の研究材料を採るというのです。
1970年9月20日 9時、ジープが迎えにきて、役所に行って荷物と人夫を積み、アディカリの家に寄って、11時ころ出発。ドリケールに来たら一休みするというので降りました。人夫どもはランチを食べに行き、われわれ3人は見晴台へ。途中で特大のキウリを1本買いました。見晴台へ坐ってシュレスタがキウリの苦味をとる方法を教えてくれました。
キウリの基部(苦い方)を少し切り、切った面をこすり合わせて泡立たせると、苦味が消えるそうです。ついでに、自分の次の子供が男か女かを知る方法も教えてくれました。先の切れ目の下にもう1つ切れ目を作り、キウリの胴体をトンとたたいて上の2つをスッ飛ばし、切れ目が両方上をむくか両方下をむくかすれば男、上向きと下向きなら女だそうです。シュレスタの次の子供(まだ無い)は女の子の予定となりました。下駄の表裏で天気を占うのと似ています。
ネパール人には名前が2つあるそうです。1つは日常使う名前、も1つは霊界 (spiritual)の名前で、後者は他人どころか本人さえ知らず、占星術をやる坊さんが管理しているそうです。霊界の名前は結婚をはじめいろいろな通過儀礼とか、旅行や病気の吉凶や日付を決めるような運命に関わるときに、占星術師が使うのだそうです。
もう12時過ぎだったので、キウリと僕のオニギリを分けて食べようとしたら要らないというので、僕だけ食べました。ここでも日本とネパールの常識の違いが出るもので、僕は12時だから腹がへって昼飯を食べたいのだけれど、彼等は10時ころ「ランチ」を食べてから出てきているので、今頃飯を食う必要はなく、僕が食べるからキウリをつきあっただけだと思ったのですが、実は大違いだったことがずっと後になってわかりました。
とにかくオニギリが1つ残ったので、そばで見ている子供にやろうかと思ったのですが、またリュックサックにしまいました。このオニギリがあとで重要な役割を果たすことになります。それから茶店でコップ入りのヨーグルト(ダヒ)を食べました。この店のダヒは名物だそうで、汚いけれどうまかったです。汚いのはゴミがついているからで、表面の一皮をはがしてから食べます。
バラビセに着いたのは3時頃でした。シュレスタは「これから歩きだしてもすぐにテントを張らねばならない。ここならホテルに泊れるがどうか?」と尋ねます。こういう言い方をするときは「ここへ泊りたい」と言ってるのと同じだし、たしかにこれから歩きだしても1時間もたたぬうちにキャンプとなることは確かです。ホテルなんてなかったはずと見回したら、先日Cさん達ときたときパンチャヤット事務所だったところでした。つい5日まえに開業したのです。宿帳をみたら泊り客第1号は日本人でした。ホテルといってもただの部屋で、そこにわれわれの寝具をひろげるだけです。毛布もあるようだけれど、どうせ蚤だらけでしょう。人夫たちは物置小屋にもぐりこみました。
9月21日 昨日は夕方から雨。人夫たちは雨漏りでひどかったそうです。今日はただ登るだけ。途中のダーラ(水場)で飯をたいて、夕方最後の部落のターデ(この前はターレときこえた)に着き、農家の庭にテントを張りました。庭にテントを張るのは床が平らでよいけれど、雨のときは軒から落ちる水のしぶきでビショ濡れになるのです。それと、見物人が多くてかないません。でもネパール人サーブは、畑の中より居心地がよいらしいです。夕方夕立が降りましたがすぐ止みました。庭先に夜香木(Cestrum nocturum)の大木があり、花が一杯咲いているのに、ちっともにおいません。「6時半頃になるとよくにおう」とシュレスタがいうのを、本気にもしないでいたら、6時半になったら本当に素晴らしくにおい出しました。花は日中から咲き放しですが、芳香は夕暮の一定の時刻になってから発散するのです。香りはモクセイに似ています。
この部落はCさん達と先日泊った所で、見物の男の子に「お前いくつだ」ときいたら「この前も同じこと聞いたじゃないか」とやられました。僕がしゃべれるネパール語はそのくらいなのです。
9月22日 曇りで小雨が降ったり止んだりで、蛭があい変わらずいっぱいです。この道は僕以外は初めてなので、僕が道案内みたいなものです。尾根上のカルカ小屋まで行かないと、人数が多いので泊り場がありませんので、少々とばしました。今回のシェルパはギャルツェンという若い男です。アンナプルナ女子隊について行ったそうで、日本語がわかるというのでどの程度かと思ったら、「ハラがへった」という言葉以外は知りませんでした。途中に水場がないので、出る前に飯にしてしまったものだから、午後になると人夫は遅れはじめました。雨はさしたることはないけれど、カルカが見えるはずの所に来ても霧で先が見えないので、みんな消耗した顔をしています。少し待ったら霧がうすれ、はるかむこうにカルカ小屋が見えましたので、飴を2個ずつ配給して急がせ、4時頃着きました。
小屋は無人でビショビショで、牛の糞でベタベタなので、サーブ3人はテントを張りました。ここは先日C嬢N嬢と泊って大水に会ったところですので、今度は草地を避け、尾根の高みの風当たりのよい所にしました。その代り地面は凸凹で少し傾斜がついています。人夫のいるカルカ小屋から 100mも離れていて、「猛獣(といっても熊か豹)が出るといけない」と、テントのそばで人夫が遅くまで焚火をしていてくれました。
9月23日 朝ギャルツェンが「帰る」と言い出しました。昨夜「この旅行は何日かかりますか?」とたずねるから、1週間と答えたのです。今朝になったら「カルマが3日間だというので来た。9月25日にカトマンズを出発する大きいエクスペディションに雇われたいので、帰してくれ」と言うのです。カルマというのはギャルツェンを紹介した男で、これには少々いきさつがあります。
ネパールに住み着いている日本人の医師で岩村さんという人がいます。ネパールの孤児を養子にして育てている人で、BCGを贈る切手運動でも知られています。この人がネパールの医療水準の向上には公衆衛生が大事であるとの認識に到達し、その仕事をするかたわら、民間薬や民間療法を発見開発するネパール人を養成する仕事もしています。その養成されている人間の1人がカルマで、この人はカリンポンのライ族です。
岩村さんはこの男を僕にあずけて、薬用植物の採集や利用法の聞き出しの実地訓練をしてもらいたかったのです。僕が旅行に出るときについてきて、シェルパとして働きながらやり方を習うという手筈でした。会ってみると英語がうまくまじめそうな男ですが、インテリくさくてシェルパの仕事には向きそうにありません。カルマはジャンプーの兄貴と一緒に以前アメリカのエクスペディションに長く雇われていたというので、ジャンプーにどう思うかきいてもらいました。兄貴のいうところでは「よい男(信用できるということ)だが、ハードワークには向かないだろう」とのことで、僕の見立てと同じです。Cさんたちとフルチョウキに行ったとき、ためしに彼を使ったのですが、案の定一張羅を着て現れ、リュックを背負わせたら心外そうな顔をしていました。今度の旅では「あんたはシェルパの仕事には向いてないようだから、もう1人連れて来てくれ。その賃金はこっちが払うから。」と言ってありました。中々シェルパが見つからないらしく、出発3日前になって連れてきたのは、前に使ったことのあるウスノロのハクパでした。まあいいやと思っていたら、ハクパの方がオリてしまい、出発前日の夕方になってギャルツェンを連れてきたのです。
ハクパはなんでオリたのか知らないけれど、ただ逃げるのは悪いというので、ギャルツェンに口をかけたようです。カルマが「私の食糧費はサーブが払ってくれますか」というから「お前がシェルパの仕事がキツそうなので、もう1人雇ったので、あんたは全部自分でまかなってくれ」と返事したら、非常に心外という表情をしていました。とにかく明朝来ると言って帰りました。ところが当日の朝になってやって来て「食糧が調達できなかったので、同行できない」と言います。1週間分の食糧を一晩で調達できないなんてあり得ないことなので、これは行く気がないのだと判断して帰ってもらい、ギャルツェンだけを連れてきたのです。ギャルツェンに口をかけるとき、「ほんの2-3日だから」とか何とかいって引っ張ったのでしょう。ギャルツェンが帰りたいという裏も、エクスペディションに雇われたいということもあるにはあるが、今度の仕事が思っていたより楽ではないかららしいのです。ゴタゴタいっても始まらないので、給料を払って帰らせました。ネパールサーブだったら給料は払わないでしょう。ギャルツェンは大急ぎで(シュレスタの形容ではウサギのように)とんで帰って行きました。「あと1日行けば大きな峠に出て、そこまでついて来てくれれば標本を持たせるので、帰りの賃金も払うから」と言ったのですが、どうしても今帰ると頑張ったのです。この辺のところがどうも腑に落ちません。
このごろはトレッキングばやりですから気前のよいお客が多く、「シェルパ」の仕事もただくっついて歩いて、夜は歌ったり踊ったりして見せれば、大喜びでチップをはずんでもらえます。うちのサーバントのジャンブーに言わせると、シェルパには2通りあり、ソロクーンブ出身のシェルパ族こそ本当のシェルパで、正直で骨惜しみしないそうです。それ以外の「シェルパ」は、単に商売として旅行のガイドをするだけで、根性がなってないと言います。ギャルツエンは後者だったので、われわれのような仕事はアテが外れたのでしょう。とにかくもうやる気がなかったのです。
さてまたチリメのときと同じく、自分で荷物をかつがねばならないかと思っていたら、シュレスタが人夫をみつけてくれました。この時期には山へメダケを伐りにはいる村人がいて、昨夜も10人ほどが近くの小屋に泊っていたのです。1人雇うつもりだったら「2人でなければいやだ」というので2人雇いました。僕には植物園から来たコックをつけてくれました。何だかんだで出発は11時頃でした。この日も小雨が降ったり霧が出たり、ぐずついた天気です。カリンチョークは何時来ても晴れません。途中で方形枠を調べたりしながら4時過ぎに目的地のジャンダン・カルカに着きました。人夫たちは先行しているので、もう泊る用意ができているのかと思ったら、誰もいません。「行き過ぎて引き返して来るんだろう」と1時間ほど待ちましたが、やってきません。シュレスタたちの判断では、「われわれはここに泊るといってあったのだが、連中はあまりに早くついたので、先に行ったのだろう。われわれはカリンチョークへ向かうつもりだったが、今朝雇った人夫がフェディの方へ行けばすぐ村があると言っていたので、そっちへ行ったにちがいない」というわけで、そっちの道で足跡を調べるとたくさんありました。(これは街道筋なので当然で、カリンチョークへ向かう足跡もたくさんあったはず)それではというので、われわれについていた3人の高級人夫のうち2人を、呼びにやらせました。残ったわれわれ4人(サーブ3人と人夫1人)は何もすることがありません。いつも一切合切人夫の世話になるので、こういう時はポカンと待つだけです。とくにネパールサーブたちは、最低限の非常用品も身につけていないので、こうなると裸同然です。
ここのカルカ小屋はわりと乾いていましたが、長さ10mほどの小屋の一面は積み石の壁、割り板の屋根が差し掛けてあるだけで、反対側は何もありません。われわれより早く、近くの村の40-50才の男と12-13才の男の子が小屋に入っていました。一族がずっと上の方で放牧をしていて、明日は村へ引き上げる途中ここへ1泊するので、この2人は先発隊です。シャクナゲのたき木を山ほどとって来てあったので、一緒に焚火をしながら、われわれがもっとくべようとすると、男の子が「プクチャ」といいます。「プクチャ」とは、「もういい」とか「十分」という意味で、たとえば御馳走で腹一杯になって「もう結構です」というとき「プクチャ」とやればよいのです。今の場合はそんなのではなく、「そんなに燃やすな」というわけなのです。そのうちにこの小僧(呼び方が変わったのに注意)は、薪を10本ばかり残して、あとの山を自分の荷物の方に寄せて、使わせないようにしてしまいました。
僕は「人夫たちが見つからないといけないから、薪を採らせたらどうだ、食べ物だってここから帰途の方向へ30-40分下れば人のいるカルカがあるから、そこで買って来させたらどうだ?」とすすめるのですが、シュレスタは「大丈夫見つかるよ」と何もしません。へたをすると大分つらいことになるワイと思ったけれど、むこうが落ち着いているし、そばには家財道具を持った親子連れがいるから、イザというときにはこれにタカレばよいと思い、それ以上は言いませんでした。もう暗くなって7時半頃、探しに行った人夫2人が戻って来ました。「途中に新聞紙が落ちていたから間違いない。しかしフェディまで行ってもつかまらなかったから、連中はもっと遠くへ行ってしまったのに違いない」というわけで、われわれ6人はテントも寝具も食料も無いということになりました。
そういうことになっても、シュレスタとアディカリは何をするでもなく、落ち着いたものです。3人の人夫もサーブがなんとも言わないせいか、ただ坐ってるだけ。せめて薪を採ったり、隣の2人から何かもらったりすればよいのにと思うけれど、ネパールサーブが何もしないので、こっちも黙って見ていました。9時過ぎになったら、さすがに腹がへってきたらしく、シュレスタが隣の2人に何か言っています。不思議なのは、シュレスタがオヤジとおぼしき男に何か言うと、男がそれを小僧に取り次ぎ、小僧が何か言うのを、男がシュレスタに取り次ぐのです。子供になんでそんな通訳をする必要があるのかと思い、よく聞いてみたら、この2人は親子ではなく、しかも小僧の方がエライのだそうです。
彼らの道具はすべて小僧の家族の持ち物で、男は郎党に過ぎないものだから自分の意志ではそれらを扱えず、一々小僧にオウカガイをたてているのです。シュレスタが食料を売ってもらえないかとか、薪をゆずってくれないかとか、毛布を貸してくれないかとかいうのを、男が小僧に取り次いだ返事はすべて Noでした。2人連れはわれわれの見ている前でゆうゆうと食事をし、持ち物一切をわれわれと反対側の壁際に押しやり、その前で寝具にくるまって寝てしまいました。男は小僧の言うことに全く従順で、困っている隣人に何の親切もほどこしてやろうとしない子供をたしなめることもしません。一方シュレスタたちもこういう仕打ちを受けても、われわれ日本人のように「あいつは不親切だ」とか「人が困っているのに何とかしてくれたってよいだろう」とかいう言葉をまったく吐きません。大変不可思議な現象でした。
さてわれわれはいよいよピンチになったわけですが、ネパール連中はあいかわらずただ坐っているだけで、何もしません。僕のシェルバのジャンブーがいれば、少なくとも薪を採りに外へでて行くでしょうし、言いつければ真夜中でも隣のカルカへ食料を買いに行くでしょう。一晩くらいこのままで居たって命に別条はないけれど、なんとも理解しがたいことです。去年のゴサインクンデでの観察で、「ネパール人は誰かがそばで死にかけていても、自分が長い目でみて絶対安全でない限り助けることはしないだろう」と書きましたが、今回は絶対安全でも助けてくれないのです。
しかたがないから、非常用に持っている氷砂糖でもなめるか…とサブリュックを探ったら、デュリケルで食べ残したオニギリが1つ出てきました。もう3日もたってるので、黴でも生えてるかと思ったら、まだ変質していませんでした。これを6人で分けたのですが、それまでの空気からみて、てっきりサーブだけが食べるだろうと思ったら、シュレスタたちは3人の人夫にも等分に分けました。食べたとたんにコックに持たせた中リュックにミカンとリンゴがあるのを思い出し、明朝用に少し残してまたみんなで分けました。不思議なことにそれだけで腹のすいたのが収まってしまい、朝まで空腹を感じませんでした。
その次は寝るのかと思ったら、あいかわらず坐りこんで、もう5-6本になってしまった薪をチビチビ燃やしています。「眠らないのか?」とたずねたら「どうやって寝るんだ?」という返事です。あきれ返って「横になればいいのさ」と、もうこんな連中とつきあっていてはたまらんので、1人で寝る仕度にかかりました。標本用の新聞紙をシャツやズボンの下に重ね、小屋の隅にあったネズの枝を引きずってきてベッドにし、床に敷いてあったメダケのむしろを立てて風よけにし、雨ガッパを頭からかぶって横になりました。9月中旬の3,000mですから、かなり冷えます。真夜中になったら寒くなったので、中リュックを空けて、足を突っ込んで寝ました。このとき発見したことは、風上に背をむけるより、腹を向けて寝る方が寒くないということです。たき火の方に背を向けて寝ました。ネパール人達は一晩中火のそばに坐っていたようです。ずいぶん辛抱強い連中です。
9月24日 明るくなるとすぐ人夫を追ってフェディに向かいました。腹がへってるだろうとミカンを出したら「それは食後にしよう」ということで、飴1つなめただけで出発です。フェディへの道は鬱蒼としたヒマラヤモミやシャクナゲの森の中のグチャグチャの道を急降下です。村かと思ったらカルカ小屋が1軒あるだけでした。ここで買ったゆで卵を食べ終わったらアディカリが「サアさっきのミカンを食べよう」と言いました。朝僕が出した時はやはり腹が減っていたのでしょうが、そういう時刻にものを食べる習慣がないので、断ったとみえます。
小屋の人にきいたら、われわれの人夫は通ってないことがわかりました。昨夕われわれの派遣した人夫がここまで来たはずなのに、こういう情報は仕入れていないのです。それとも途中でサボッテここまで来なかったのかも知れません。それにしては時間がかかりすぎました。われわれははるばる反対側に下りて来てしまったわけです。がっかりしていたら、上の方で「オーイ」と声がして、人夫たちが追いかけてきました。彼らは昨夜はルクタンにいたそうです。ルクタンはジャンダンカルカから1時間足らずカリンチョーク寄りのところなのに、昨夜サーブが来ないのを探しもしないのですから、不人情もいいところです。とにかくここでキャンプとし、ネパールサーブ2人はコンコンと眠りました。こっちは昨夜眠ったので、それほどくたびれてはおらず、そこらをウロウロしていました。こういう事故は人夫頭の責任になるはずですが、シュレスタたちがどんなお説教をし、どんな処分をしたのかわかりません。
木の枝でカラスが「アゥアゥ」と鳴くと、人夫が「アゥンダイナアゥンダイナ」やり返しています。ネパール語で「アゥ」は「来い」ということなので、「行かねえ行かねえ」と答えているのです。ネパール人の中に1人で入って暮らしているので、このくらいの冗談はわかるようになりました。しかし「アゥ」というのは目下に対する用法で、人夫に言ってもよいですが、ネパールサーブには失礼になります。ネパール語はていねい語があって、相手によって使い分けないと、軽蔑されたり腹をたてられたりします。ここのカラスは「カァ」と鳴くより「アゥ」と鳴くやつが多いです。いつか僕の家の屋根の上で「キャンキャン」と犬の鳴声がするので、見たらカラスでした。
9月25日 人夫はルクタンへ先行させ、われわれは森林調査をやりながら行きました。うっそうとしたシャクナゲとモミの森なので、調べるには良いかといったらそうではなく、どこへ言っても伐採の跡があり、これぞというところは1つもありません。ルクタンは尾根上の見晴らしのよいカルカで、ガウリシャンカルが正面によく見えます。雨は少なくなったものの雲が多く、遠望がきくのは朝夕のほんの数分でした。
9月26日 シャクナゲ(Rhododendron arboreum var. campbelliae)林と高山草原を調べるために、尾根を北にたどってモガルチェコダンダへ往復しました。ここの森林限界は地形性のもので、面白くありません。この尾根は北へ行くとチベットへ出る間道の1つです。ツバメオモトの果実が裂開することを発見しました。果実は見たところ日本のと同じ形ですが、指で押すとパラリと3つに割れて種子が出てきます。日本のは液果ですが、こちらのは水分が少なく、サクサクしています。自然状態で割れているのは見ませんでしたが、明らかに日本のものとは異なります。
夜、アディカリがウイスキーのポケット瓶を出してきました。このウイスキーは2年前に彼がロンドンで買ったものです。ところが彼の家はブラーマンで飲酒は厳禁なものだから、彼は瓶を自分の鞄に入れたまま、出すことができないでいたのです。人里離れた山の中でアディカリは2年前のウイスキーを安心して飲むことができました。「ワイフに知られたらコロサレてしまう」とニヤニヤしていました。
9月27日 これまで何度もカリンチョークに来ましたが、本当のカリンチョークへ登ったのはこれが初めてです。ルクタンから南へカリンチョークまでは植物も面白く、景色もよく、八ヶ岳のような感じです。もっと早くここへ来るのだったと思いました。1日で歩くには少し遠いし、もったいないですが、水が不便です。途中にきたない池が1つあるので、ここに泊ればよいでしょう。ただし池の水は牛や山羊の小便がいっぱいです。われわれはこの水で茶をわかしてのみました。尾根の西側は断崖、東側は緩やかな斜面でシャクナゲ林が上まで来ています。東側の枝尾根の上は立派なモミ林で真っ黒になっているのが見えますが、これも中に入ると切株だらけでしょう。
カリンチョークに近づくにつれて、西側はいよいよ切り立っていて見事な眺めです。カリンチョークの頂上はこういう岩尾根の天辺に乗っかった大石の上で、そこへ取りつくために鉄の立派な階段がとりつけてあります。この山は信仰の地として有名なので、信者が造って持ち上げたものでしょう。小さな祠があってその裏には、鉄製の三叉の矛が山のように積み上げられていました。この矛は他の山や寺院にも積まれています。ジャンブーの話では、この矛は家々にあるお守りで、年に一度しかるべき所へ納めて新造するのだそうです。祠のそばには石だたみがあり、例によって犠牲の山羊のを殺した血の跡が生々しく残っています。もう1つ小さな石のくぼみにある水は、年中涸れない水なのだそうです。とてもそうとは思えない、わずかな汚い水でした。
頂上を過ぎたら急にゆるい草原となり、放牧の牛があちこちに見えてきました。1時間も下ったら、草原にカルカ小屋が点々とし、水が流れていました。小屋はどれも人が入っていて満員で、われわれは流れのそばの広場にキャンプしました。夕方から雨、風の吹き抜ける所で寒かったです。
9月28日 今日は1日雨、しかもかなりひどく降りました。ここから西に下れば1日半でバラビセへ出られるのに、シュレスタたちは反対側のチャリコットへ行くと言います。旅行証明対策でしょう。朝は曇っていたけれど、出発して1時間もたたないうちにザアザア降りになりました。森林は大変こわれているけれど、植物は面白いです。特にツリフネソウ類が花ざかりでしたが、形が複雑なのでスケッチするのが厄介でした。実の形も種により異なるような気がします。Arisaema echinatumの根を原先生に頼まれていましたが、もうみんな葉が腐っていてわからないので、手当り次第にいくつか掘りました。森林帯を抜けた頃雨も小止みになり、あとは畑の中をチャリコットへ下ります。センブリ類が昨日も今日も一杯で、これとヤマハハコ類が放牧地の秋の主な景観です。チャリコットのバザールよりずっと上にある学校に入りました。4時45分に着いて、しかもパンチャット事務所が目の前にあるのに、シュレスタは旅行証明をもらいに行こうとしません。そのうちに5時になって、事務所は閉まってしまいました。
9月29日 今日は水曜日だけれど、誰だか外国の偉い人が死んだというので、役所は休みです。こういうニュースはアッという間にネパール中に伝わるらしいです。
ネパールは休日の多い国ですが、この種の休日はちょっと変わっています。外国の元首が死ぬと休みになるのです。この日はたしかナセルが死んだ日です。国内の人でも閣僚クラス、立法、司法の高官の死亡の場合でも同じです。ですからそれに相当する人が危篤になると、役所の中は何やらソワソワして来て、「死んだ」というニュースが入るとたちまちみんな退庁してしまいます。占星術の長老が死んだ日もそんな風に休みになりました。この他に、国賓が到着したり出発したりする日は、高級官僚は飛行場へ、上級官僚は練兵場へ歓送迎に出かけるので、役所は事実上休みになってしまいます。
シュレスタはこの町よりさらに東にあるなんとかいう町までちょっと往復するといいます。片道1時間半ほどかかるけれど、何のために行くのかわけがわかりません。「あそこは古い町だし、立派なお寺があるから…」なんて言ってますが、どうやら旅行の距離をふやすための工作らしいです。僕は留守番をして標本を片づけていました。そのうち学校の生徒がゾロゾロ集まってきました。役所は休みでも学校はあるらしいです。校長さんという若い男が来て、「職員室へどうぞ」と言うからそっちへ行ってみました。職員室というのは、2つの教室に挟まれた4畳半ほどの室で、ここだけは鍵がかかっています。教室の方は8畳くらい。校長さんはカトマンズの学校を出ていますが、英語はほとんど駄目なので、ネパール語でたどたどしくお相手をしました。バザールからわざわざお茶とバナナを買ってきて御馳走してくれました。12時近くになってシュレスタが帰って来たのですが、旅行証明の工作をして来たわけではなく、校長に相談しています。校長がパンチャヤットの役人を知っているからというので、彼についてバザールに下りて行き、こっちは帰途にかかりました。休日とあってチャリコットのバザールへ遊びに行く連中が三々五々やって来ます。1人で歩いていたら若い3人連れが突然取り囲み、「どこへ行くんだ、何しているんだ」と詰め寄ってきました。中国人と間違えているのです。「俺はサルカルコ・マンチェだぞ」と言ったら、疑わしそうな顔をしながらも、離れてゆきました。「サルカルコ・マンチェ」とは政府の役人という意味です。僕は上から下まで真っ黒なベトコンスタイルのうえ、長い枝切り鋏をかついでいて、それを小銃と間違われ、腰に下げた根掘りのサックをピストルのホルスターと勘違いされて、怪しまれることがときどきあるのです。
天気がよかったのですが、3時頃から夕立が降りだし、そうしたらトタンに小さな流れに赤土色の水が各所であふれ出し、われわれの直ぐ後に来た連中は道を通れなくなってしまいました。われわれはわずかにはやかったので、洪水地帯を抜けていました。洪水と言っても平な川原に水が溢れるのではなく、急斜面の段々畑が一面に瀑布のようになるのです。遠くからみると、普段は何でもない斜面に赤い滝がいくつもかかり、すさまじい光景です。急斜面に段々畑ばかりですから浸食され易く、雨期には毎年どこかで大規模な地滑りが起って被害が出ます。昼過ぎに出たので、大して歩かぬうちに暗くなり、近くの学校に泊りました。
途中でカワゴロモの仲間を数ヶ所見つけました。ここはナムチェバザールへ行くエベレスト街道なのですが、今まであまり気づかれなかったようです。もっともカワゴロモの生える場所は年々変わります。カトマンズの北のブダニルカンタでは、雨の多い今年はブダニルカンタで見ることができましたが、雨の少なかった去年は、ずっと上流のフェディガオンの貯水池まで行かないとありませんでした。途中でロルワリンへ行くドイツ隊(女1人男3人)に出会いました。これがギャルツェンの言った隊らしいですが、彼はいませんでした。
9月30日 バラビセへの最後の峠のロルカネはカリンチョークの尾根の続きです。村の人は「あのジャパニは知ってる」と言ったそうです。そういえば僕はここには3回来たわけです。下り一方ですが、とにかく距離があるので、バラビセへ着いたのは暗くなってからでした。小雨が降ったりやんだりでいやな天気です。僕が1番先に着いたので、茶店で待っていたら、シュレスタが来て「この間泊ったホテルはどうも感じがよくない、人夫も同じ室に泊めてもっとサービス(宿賃のこと)してくれるか交渉する」と出掛けて行きましたが、不調に終わりました。もう8時過ぎですが、これからテントを張る所を探すのですから大変です。またもや学校ということになり、行ってみたら入り口には全部鍵がかかっていました。先生を呼びにやったら、鍵を持ったままカトマンズへ行ってるそうで、校舎の中へ入れません。校庭へテントを張りましたが、人夫用のテント(これはグランドシートのみ)を軒下に張っているから、「雨が降ったらコトだぞ」と言おうと思ったけれど、降るかどうかわからないし、こっちに関係ないから黙っていました。ほんとは飯を作ってもらうのだから、大いに関係があったのです。そしたら張り終わった頃から本降りになり、軒下に張ったグランドシートは屋根から落ちる水でグショグショになり、床は両側の雨垂れの飛沫でこれまた水浸しになってしまいました。早く別な場所に移せばよいのに、シュレスタたちは改造主義的なことをしているのでラチがあきません。40分もモタモタしたあげく、やっと引越しとなりましたが、その時には地面はもう水たまりだらけで、適当な所はなくなっていました。このモタモタのおかげで食事の時間が大変遅れてしまいました。というのは、軒下のグランドシートの下で火を造って料理にかかっていたのが、引っ越し騒ぎで中断されたからです。食事ができたのは12時過ぎでした。
10月1日 昨夜はたびたびの雨で人夫のテントは水浸しで、寝るどころではなかったそうです。シュレスタが「役所のジープを呼ぶか、それともバスで帰るか」ときくから「ジープを呼んだって少なくも半日待たされるから、バスで帰ろう」と昨夜話しておきました。彼によると「このくらい人数なら、バスを借り切れる」のだそうです。定期バスを借り切るというのはおかしな話ですが、ネパールのお役人ならそのくらいのことはできるのでしょう。
さて朝発ちのバスは昨夜から数台止まっているので、既に話がついてるのかと思ったらそうではないらしく、運ちゃんを呼んでは話し合っています。そのうち「大きいバスと小さいのとどっちがよいか」というから、「このくらいの人数なら小さいバスでたくさんだ」、「俺もそう思う」というわけで、小さいバスに乗り込みました。貸切だからすぐに出るのかと思ったら、何時までたっても動きません。そのうち普通の連中が続々と乗り込んで来て、満員になってしまいました。1時間待ったら運ちゃんがやって来てやっと動き出しましたが、人が待っていれば乗せるし、部落があればこっちを待たせて茶を飲むし、定期のバスとちっとも変わりがありません。どうやら団体乗車で運賃をまけさせただけらしいです。
バラビセを8時に出たから、直行すればカトマンズに昼前に着けると思っていたのですが、ドラルガートあたりでもう11時半になってしまいました。ダサイン(年1度のヒンドゥー教の大祭)をカトマンズへ過ごしに行く人々が、大荷物を持って乗り込んで来るし、道路は山羊の大群(ダサインの生贄にする)を連れてカトマンズを目指す人たちで一杯で、中々進めません。ドリケルへ上がる途中でエンジンの音がおかしいので、メーターを見たら、温度計が100度を越えていました。ネパールの自動車ではメーター類は死んでるのが常識ですが、このバスは珍しく温度計だけ動いていました。運ちゃんの話では「ファンベルトが切れた」ということで、水が出ているところへ来ると、冷却水を入れ換えてエンジンに水をぶっかけ、また20分も走ると100度を越えるので同じことを繰り返し、なんとかドリケルまで上がり切りました。ここですれ違った相棒のバスからファンベルトをもらって取り替え、あとは快調にカトマンズへ入りましたが、もう午後2時を過ぎていました。
[後日譚 2001年に「日ネ共同植物研究40周年記念シンポジウム」というのがカトマンズで開催された。1960年に東大の原寛先生がヒマラヤ植物調査を始めてからずっと続いた調査研究を記念するもので、私は第1回の生き残りとして昔話しをしました。終わって質疑の時間になったらシュレスタが手を挙げ、「お前はあのとき、俺たちにrice ballを食わせたろう。ネパールにもrice ballはある。しかしそれは死者の魂に供えるもので、生きている人間が食うものではない。だから最初の日に、あんたがにぎり飯を勧めたとき断ったのだ。けれどあの時は、それを食べなければ死ぬかも知れない場合だったので、死んだつもりで食べたのだ」と発言した。私はそんなことは初耳だった。30年前のことをとっさに思い出すほど、彼にとって強烈な印象だったのである。彼らにすれば、私が調査に出るときいつもにぎり飯を食べているのが、とても異様に見えていたのだということを初めて知ったのである。だから第1日ににぎり飯を勧められたとき、いい気持ちはしなかったに違いない。異文化の交流ということは、口でいうほど容易ではないというよい例だろう。]
〇チュリアの旅
昨年4月にモカンプールへ行って以来、所長はことあるごとに「もう一度モカンプールへ行け」と言っていましたが、「そんなところは冬でいい、高いところを先にしなければチャンスを失う」と賛成しないでいました。どういうわけか、所長はモカンプールにご執心なのです。もう雨期が終わったから、なんとか仕事になるだろうと、やっと出掛けることにしました。
昨年はジープをつけてくれなかったので、どうでもよいところまでテクテク歩かされましたが、今度は「ジープがないと能率が悪くてやりきれない」と、車で行くことを同意させました。その代り人夫は運転手を除いて1人しかついてきません。インド国境に近いヒタウラの農場で2人拾うのだそうです。しかしジープに乗ってみたらもう1人、中国の手品師みたいな人相のおじさんがついて来ていました。これは運チャンの親類で、われわれが山へ入っている間の話相手に連れてきたのだそうです。このおじさんはたいへん世話好きで、料理なんかも手伝ってくれ、重宝しました。そのかわりのべつ大麻煙草をプカプカふかし、帰りがけにはヒタウラでトウモロコシを麻袋に1杯とインコを1羽買いました。このインコはよく慣れていて、「ボラオ!」 (しゃべれという意味)と言うとセリフをペラペラしゃべります。今回も事件続出でした。同行はサキャです。
1970年11月11日 前日サキャが「明日は自動車レースがあるので、早立ちしないとインド公路が通れなくなる。」というので、6時半に出ることにしました。自動車レースというのは第2回アジアハイウエイラリーというやつで、テヘランからダッカまで走り、その途中でカトマンズへ寄り道するのです。そういうわけで6時半に待っていたら音沙汰なく、9時頃やっと現れました。「運転手が来なかった」というのですが、本当のことはわかりません。サキャはヒゲをそっていなかったから…。
レースはインド国境のラクソールを10時に出るので、道路はまだ閉鎖されていませんでした。途中でお茶を飲んだりしながらダマン(公路のいちばん高いところで、ヒマラヤの展望台がある)まで来ると、ポリスにストップを食いました。12時でした。ここには計時点があって、日本製の電池時計が備えられ、ボーイスカウト(といってもいい年のおじさん)が控えています。赤十字の車も来ていました。空には王室専用の双発機やセスナが飛んでいます。
12時20分頃、先頭の車がやって来ました。どういうつもりか計時点の手前で止まってしまい、悠々と休んでいます。周りの見物の方が気にして「早く行け」とせかすのですが、のんびり10分以上休んでから出発しました。イラン人の乗ったベンツです。第2着はそれから30分近く経ってから現れました。これは止まる間ももどかしく計時点にかけこみ、大急ぎで駆け戻って出発。それから後に来る車も、一刻も早くという型と、ゆっくり休んで展望台へ上って望遠鏡をのぞいてゆく型とあります。日本チームも3位あたりで通りました。トヨタのマークです。
NHKのカメラマンがやって来て、撮影していました。この人もレース以上に忙しく、テヘラン以来ずっと追いかけており、明日はダッカへ行くんだと、30分ほどで引き上げて行きました。日本の報道関係はNHKだけです。話によると、日本から3チーム参加したけれど、1つは既に脱落、もう1台はエンジン不調で後の方だそうです。参加は60台くらいだったけれど、いまでは40台ほどになったと言っていました。それも先頭から1時間ほどの間に15台ばかり通過したにすぎません。何時まで通行止めかわからず、ポリスに尋ねると「まだだ」と言います。2時頃になったら、しびれをきらしたバスやトラックが勝手に動きだしましたので、それに混じって出発しました。
ダマンは2,400mで、ここから先はヒタウラの400mまで下り一方。それもものすごいジグザグで、ヘアピンがいくつあるか数え始めたけれど、途中で眠りこんでわからなくなり、しばらくして目を覚ましたらまだ下っている最中。これを3回繰り返したらやっと下につきました。下る途中もラリーの車がものすごい勢いでスッとんで来るので、油断ができません。曲がり角でぶつかりそこなったのもあります。
ヒタウラの町で食料を買い、5時ちかく出発。役所の栽培圃場に泊ることになりました。近道というのを行ったら、途中で川が渡れなくて町まで引き返し、あらためてインド公路をしばらく南下してから、右手のジャングルの中の細道へ入って行きました。すぐに今夏の洪水跡の河原に出て、その中を行きます。水は無いけれど、大きな石がゴロゴロしていてものすごいところです。おまけに誰も道を知りません。途中で道を知ってるという男を拾ったのですが、コイツは歩く道しか知らないものだから、とうとう道がわからなくなってしまいました。
「とにかくこの河原の下流のすぐ左手だ」というので、車なんか通ったことのないゴロタ石の上をシャニムニ下流へ向かいました。今回の車は中型ジープをトラックに仕立てたもので、頼もしいなと思っていたら、ついに大石に乗り上げ、亀の子を石に乗せたようになって動けなくなってしまいました。もう真っ暗な中で、僕の根掘りを使って1時間も石の下を掘り下げ、やっと足が地について動くことができました。「ここがそうだ」というところを見たら、川岸が1mも高くなっており、これもみんなでヘッドライト頼りに石だの木の枝だのを使って掘り崩してどうにか上陸、8時近くやっと農場にたどりつきました。ジャングルの真中で、折よく上がった満月に照らされ、なかなか風情のあるところです。虎もときどき出るという話でした。
11月12日 この農場はベラドンナとインド蛇木とハッカを栽培しており、サラソウジュのジャングルの中にたいへん大きな面積を持っているということです。昨夜のサキャの話では、「この農場で人夫を2人雇うけれど、明日の出勤時間の10時にならないと出てこない」ということでした。ネパールの役所は冬は10時はじまりなのです。「それなら10時までに近くで一調査しよう」という手筈になっていました。
明るくなった頃サキャが起きだしたので、こっちも身仕度して待っていたのですが、彼氏の方はいつまでたってもパジャマのままです。「朝メシは何にする?」ときくから「どうせ10時に食えばよいのだから米にしよう」と返事をしておきました。僕のつもりは、今はお茶くらいにして早く朝の調査に出かけたかったのです。サキャの方はそんなつもりはサラサラなく、10時までノンビリしているつもりのようでした。「どっか仕事にいい森はないのかね」とカマをかけても「サアネ」という具合で、ちっとも乗ってきません。そのうちに9時になってメシ、10時に人夫が来たので出掛けることになりました。
今日はちゃんとした道を戻るのかと思ったらとんでもない話で、サラソウジュの林の中の、わずかに下草の少なくなっている踏跡をたどって行くのです。昨夜こっちから来たら、絶対たどりつけなかったでしょう。ジープは動きだしたばかりでエンジンが冷えて調子が悪く、流れの真中でエンストして、どうしてもかからなくなりました。サキャや僕まで裸足になって、1時間もかかってやっと押し出しましたが、それだけでは足らず、坂の上まで押し上げておいてバックで転がり落としたら、やっとエンジンがかかりました。こんなときここの人々はテコを使おうとせず、押したり引いたりするばかりです。「テコを使ったら」と言っても、大学出のサキャでさえ理解してくれません。
やっとインド公路に出て南下、チュリア山脈(これは低い丘陵)を横切って、飛行場のあるシムラに出ました。ここから東へ向かうはずなのに、「ガソリンを補給する」とそのまま南下、30分ほどで国境のビルガンジまで来たら、ポリスに止められてしまいました。昨日の自動車レースが戻って来るから動くなというのです。100m先のガソリンスタンドへ行くのさえいかんというのを、無理にそこまで行ってガソリンを詰めたのですが、引き返すことはもちろんダメ。ここで2時間足止めを食いました。さっきのシムラでも、すこし手前のヒタウラでもガソリンスタンドはあったのに、なんでこんなに南に下がってきたのかよくわかりません。
ここへ着いたのは13時前でしたが、先頭車が通ったのは14時過ぎ、順位は昨日と同じです。ガソリンスタンドでは給油に寄ってくれるだろうと、コカコラやクラッカーを用意して、手ぐすねひいて待っているのですが、車の方はもう少しで国境のチェックポストに着くというのでみんな素通りです。「金を払うからコカコラを飲ませろ」と言っても、初めのうちは「これはラリー用だから」と売ってくれなかったのですが、しまいにはただで飲ませてくれました。それでもたまには給油に寄る車があります。そうすると注文もきかずにコカコラの栓を抜いて窓から突っ込み、クラッカーを皿に山盛りにして差し出します。ネパールでこんなにサービスのよい店は初めて見ました。
3時頃になってもまだ半分も通過していないのですが、ポリスの方はもうどうでもよくなって、そろそろトラックやバスが勝手に動きだしたので、こっちもやっと出発することができました。これから仕事をする時間はないので、一気に昨年泊ったニジガルまで行くことになりました。去年1日かかって歩いた道を1時間足らずでフッとばし、バケヤ河につきました。ニジガルは河のむこうで東西横断公路から北に入ったところに離れてあり、河原を越えて行くほかに道はないと言われて、昨日と同じように河原をメチャメチャにドライブ(この時期は河に水が無いからどこでも走れる)、見覚えのある木を目当てに対岸に上がったら、そこがニジガルでした。明日の仕事に都合がよいように、もうひとつ先の山麓の部落、バグデオに行こうと道を尋ねたら、少し南に戻るとそっちへ行く道があるといわれました。道といっても、ジャングルの中に牛車が通る道がついているだけで、どこまで行っても北へ入る道はなく、とうとう元の東西道路に出てしまいました。ということは、川のこちら(東)側にニジガルへ行く道があったわけで、さっきも今度もデタラメを言ってからかわれたらしいのです。
運チャンがいや気がさしたらしく、「先行きがわからないからガソリンが保つかどうか…」と言い出し、サキャも同調してここらで泊ろうということになりました。実はニジガルから来る途中、これから行く手の部落サダクトールを知ってるという男を3人乗せたのです。この連中はニジガルへ帰るところだったのを、サキャが役人の威光で強引に道案内にしてしまったのです。彼らとしては東西道路をトラックかなんかに便乗してはるばるやって来て、やっと家のすぐそばまで来たのに、元のところへ連れもどされてオシマイというのでブツブツ言っています。そのうちにここよりサダクトールの方がよさそうだということになり、もうトップリ日が暮れてしまってからまた出発となりました。ここは道路工事用の新しい開拓部落で、ゴタゴタしていてサキャのお気に召さなかったようです。サダクトールは旧道の十字路にある部落で、ここの茶屋の軒下に泊りました。サラソウジュの林を焼き払ってナタネの畑にしたところです。サラソウジュの枝ごしに照る月もオツなものです。もう乾期が始まっていますから、葉はあまりついていません。
11月13日 畑の中を迷いながら、山麓のバグデオという部落まで行き、そこから山へ入って少し仕事をしました。昨年4月の時は、暑くて距離がものすごく長く感じましたが、今度は季節がよいせいか、ちょっとした丘くらいにしか感じません。3時ころ山を下りてきたらサキャが「これからパトライア(東西道路とインド公路の交叉点)まで行って泊ろう。そうすれば途中で明日の調査によさそうな所を選んでおける。」というから、そうすることにしました。ところが30分もしないうちに「今日はここに泊ろう、だいたい今夜パトライアに泊って明日引き返すなんて無駄じゃないか。」と言い出しました。自動車で1時間足らずを引き返すのに無駄もクソもないので、要するに彼は今運チャンが休んでいる農家が気に入ったのです。パトライアにはロシア人の寄宿舎以外には良さそうな場所はないのです。「気が変わった」とアッサリ言えばいいのに、大義名分を考え出すのはネパール人のクセで、自分のせいにはしたくないのです。
泊まったところは農家の2階のベランダですが、おかしなことに他の部屋と全然独立しており、入り口も別です。建物の入り口を入ると1m×6mほどの室があり、そこを梯子で上がると2階も全く同じ、どこへもつながっていません。明らかに人の住む所でないけれど、といって家畜も入れてないし、床や壁はきれいに手入れがしてあります。いずれにせよ悪いところではありません。しかし道の向う側は水牛小屋で、オシッコの池ができており、飯を食っているとそこから蝿がワンサと飛んでくるのはちょっと困りました。
ここの主人は気前よく、魚はただでくれるし、ワイフはちゃんと「ナマステ」と挨拶するし、感じがよいです。農家の女性が外人に挨拶するなんて、今まで一度もありませんでした。そのうえこの部落には図書館がありました。棚に一並びのネパール語の本(教科書と小説だそうです)、英語の本もそれくらいあり、カレッジの教科書が多かったけれど、オックスフォードの新科学辞典だのライフの自然図鑑だのあるので感心しました。新聞も2日遅れで取っているそうです。若い先生が2人もいました。
泊った家のおやじの話だと、ここらではニジガルが古い村でここバグデオは新しい。おやじさんは4年前に西の方から移ってきたといいます。それなら新参者みたいですが、村の真中に立派な(といってもよそ並の)家ができています。元いたところを食い詰めてきたのかというとそうではなく、そっちの家や畑は貸しに出してあるといいます。話がほんととすると、向うではもう自分の田畑を拡げる余地がないので、新開地へ来たということになります。ずいぶん裕福な移民です。
ニジガルみたいにゴタゴタと家が連なり、村の中央を流れるどぶ川が飲料兼洗濯場兼ごみすて場(上流からこういう用途に並んでいる)なんていうのではなく、山の麓に広々と水田が広がり、家がその間に点々とし、湧水が豊富で、夕方川へちょっと出かければオカズの魚がいくらも取れるという所で、いかにも健康地です。
11月14日 仕事をやりながらヒタウラに戻り、食料を仕入れ、モカンプールへ行く道に入りました。もう使われていない自動車道で、田圃の中をものすごい凸凹道が続きます。山へ登りにかかったところで、大きな雨裂が道を横切っていてそれより先に行けず、手前の部落に泊ることになりました。ガイリガオン・チトリボットという長い名です。ガイリ村字チトリボットという意味でしょう。今日も昨夜と同様に、農家の2階のベランダに寝ました。昨日のは外側に囲いがあったけれど今日のは吹き抜けで、3等寝台のようです。
11月15日 吹き抜けなので明け方寒かったです。ここは海抜わずか100mですが、夕方は23℃くらい、明け方は20℃くらいになるようです。日が暮れると下着1枚では寒いです。寝袋へ入るとちょうどよいのですが、真夜中にはかえって暑くなって寝苦しく、いやな夢をみたりします。明け方は冷えて目がさめます。夜は8時ころには寝てしまうので、眠りすぎて目が覚めるのかも知れません。
今日はモカンプール城の先のヒメツバキの林を調べに行くのですが、どのくらい歩けばよいのかわかりません。どんどん歩いて行ったら、1時間で昨年来たおぼえのある所に出、そこから2時間で目的地につきました。帰りは村にもどったのが4時ちょっと前で、またここに泊まりました。今はイネの収穫期で、庭で脱穀をしています。地面を湿らせてから掌できれいにならし、乾かすとカチカチに固まります。稲束を力いっぱい地面にたたきつけると、籾がポロポロとれます。これを何回か繰り返すときれいに脱穀ができるのです。籾がとれやすい稲なので、日本のような脱穀機はいりません。夜サソリをつかまえました。
11月16日 今日みたいに待ちに待った日は初めてです。ネパールやインドで「待ち」に慣れた僕でも、待ちくたびれるというのが心理現象だけではなく、肉体的にも本当にくたびれることがわかりました。
朝8時、サキャは旅行証明をもらうためにコックにポーター1人をつけて川向うの部落へ派遣しました。このあたりはネパールで1番よい米がとれるというところで、川すじにはきれいな稲田が広がっています。去年泊ったトリスリという部落が向う側にあり、そこにパンチャヤットがあるのです。30分で行けるというので、1時間少々あれば帰るものと思っていたら、3時間近くたって手ぶらで帰ってきました。
最初に訪ねたパンチャヤットは留守で、すぐ帰るからというので待っていたら、なんと1日行程のヒタウラへ行ってるのだそうです。そこでもう1人のパンチャヤットのところへ行ったら、「コック風情に証明書を出せるか、どうしてもというならちゃんとした手紙を持ってこい。」と言われたのだそうです。威張っていやがらせをしているのです。僕もサキャが自分で行けばよいのにと思っていましたが、習慣を知らないのにこういうことに口出ししても、あまり良い結果にはならないので黙っていました。ネパール人同士の交渉ごとに日本の流儀を持ち出しても、彼らが迷惑するだけで、こっちに関係無いことは(本当は関係あるのだけれど)黙っていることにしていました。ネパールではコックというのはサーバントの中では1番高級な役割で、いわば副官です。ですから彼がコックを派遣したのは、決して相手をおろそかにするつもりではなかったはずです。
どうするかと見ていると、彼は手紙を書いてまた同じ2人を出しました。こっちはやることがないので、近くの林に行ってみるのですが、花はないし実もないので、面白くありません。去年このあたりで、裸子植物のかわりもののグネツム(Gnetum)を採ったので、探したがみつかりませんでした。
泊った家の男の子がすこし英語をしゃべり、何かと僕の後を追いかけます。林の中までついてきて、あげくのはて「俺をカトマンズまでつれてってくれ」といいます。昨夜おやじの話によると、この子は先月大金(といっても数十ルピー)を持ち出して家出をし、ヒタウラまで行ったけれど、そこで金をまき上げられてしまい、行くも戻るもできず、物乞いして歩いているところを近所の人に見つけられて、連れ戻されたのだそうです。12歳でなかなかハシッコそうな子供です。あきれたことにこの子は去年お嫁さんをもらっています。「嫁さんはどこにいるんだ」ときくと「山のむこうの村にいる」のだそうです。小さいうちに親が結婚の取り決めをする風習なのです。嫁さんの方はまだ7つか8つですから、年頃になるまで親許に置いておくのでしょう。大人どもに冷やかされて恥ずかしそうにしているところをみると、もう一通りのことは心得ているのでしょう。
また2時間以上経って、2人が証明書をもらって帰ってきました。それからメシ。とにかくコックがいなかったのだから。1時過ぎになってやっと出発となり、荷物を車に積み込んで、始動させようとしたら「クラッチが故障」だそうです。コネクティング・ロッドが折れたのです。今朝動かしたときはちゃんと動いたのだから、たった今折れたというのです。車の下にもぐりこんでみると、なる程折れていました。これが折れるとペダルを踏んでもクラッチが動かないから、ギヤチェンジができません。はずしてみると、鉛筆よりすこし太い鉄棒の4分の3はすでにずっと以前からひびが入っていて、今折れたのは残り4分の1でした。2-3日まえの、河原を走っているときに折れたりしたら、どうにもならなかったでしょう。直そうにもスペアパーツはもちろんなく、あり合わせの材料では帯に短し襷に長しで、運ちゃんが困っているので、僕のカラビナを出してやりました。何かに使えると思って、いつもリュックサックのベルトにナス環を2-3つぶら下げているのです。これを2つ使って他の材料をつなぎ、なんとか修理ができました。これで1時間浪費。
いよいよ出発しようとしたとき、どこからともなく10才くらいの男の子が現れ、僕にむかって「ヒタウラまでどのくらいか?」とたずねます(もちろんネパール語)。歩いてどのくらいかかるかを聞いてるのだと思って「半日くらいだろ」と答えると、ポケットから25パイサをだして「これで乗せてくれ」と言います。彼は車にのせてもらう代金をたずねたので、その返事が「半分(半日)」だったものだから、1ルピーの半分の50パイサと思い、そのまた半額の25パイサにまけてくれと言っているのです。まわりの大人が「ヒタウラへ何しに行く?」「ビルガンジに自分の家があって帰るところだ」大人共「ウソ言え、家出してビルガンジへ行くんだろう、そんな奴は乗せない」とサッサと出発してしまいました。小さなボロ包み1つに金はさっきの25パイサの他は5パイサが3-4枚。いかにも家出らしい格好です。こういう子供でもちゃんとトリックを考えるところが面白いです。宛名と自分の住所を逆のところに書いて、切手を貼らずに投函すると、目的のところへタダで届くという話を思い出しました。
順調に進んで半分ほど来たら、さっき修理したところが外れてしまい、今度はどうしてもだめということになってしまいました。仕方がないから、ギアを入れたまま皆で後押し、これはずいぶん重くて辛いです。エンジンがかかると急いで飛び乗って、セカンドギアだけでヒタウラの町まで出ました。もう5時近くです。それから運チャンがスペアパーツを探し歩くのを、皆でポカンと待つこと2時間、7時頃になってどうしても手に入らないからだめ。それではどこかへ泊ろうということになりました。ホテルと名のつくものはいくらもあるけれど、サキャはそういうところはうるさくて嫌だといいます。とうとう空屋をみつけて泊ることになりました。空家といっても立派な2階建てのビルで、その一室を借りたのです。ここへ引っ越そうと、さっきの手でジープの後押しをするのだけれど、バッテリーが弱っていてなかなかエンジンがかからず、やっとかかったとおもうと、少しの負荷でたちまちエンストです。少し動いては皆で後押しを5回も繰り返し、やっとその家までたどりついたときには、ヘッドライトもつかないほどの弱りようでした。これから飯を食って寝るまでにまだいろいろゴタゴタがありましたが、もはやマイナートラブルなのでやめます。
11月17日 朝4時前から「ガタコンガタコン」という音が始まり、眠りを破られました。それも1つではなく、3つも4つもきこえます。それが足踏み杵の音だとわかるまでには少し時間がかかりました。道の向うに掘っ建て小屋の長屋があり、10軒ばかりつながっている中の7-8軒がチウラ(圧し米)を作る家だったのです。見に行ったら面白い見物でした。チウラを作るのは初めて見ました。籾を一晩水につけてふやかし、それを火にかけた壷にいれて煎り、すぐに杵でつくのです。旦那が杵を踏み、ワイフが臼のそばに坐って、右手で臼の中の籾をかきまぜながら、左手で壷の中の籾を煎っています。臼は土間と同じ高さに埋めた石に窪みをつけたものです。
一度につく籾の量は両手で一すくいほどで、つく回数は約220回、10秒で16回ほどの早さでつきます。こうすると米の部分がつぶれ、籾殻とチウラと糠が分離したものがまぜこぜになったものができます。これをあとで日に干してから篩い分けてチウラをとるのです。チウラは水でふやかした米を熱してから急冷するので、α米に近いもので、便利な携帯食料です。そのままでも何とか食べられますし、ヨーグルトやダルスープに浸して食べることもあります。ちょっと煎って砂糖をまぶしたら、アラレのようになりました。
今度の目的であるニジガルとモカンプールが済んだので、もう帰るのかと思ったら、サキャはヒタウラのずっと西のナラヤニガートへ行くと言います。サキャはおかしな癖があって、目的地以外の所へ必ず出かけ、自分はそっちの方をむしろ本番みたいに考えています。この前のチリメのときも、番外にランタンへ行ったのです。僕にとっては、たくさん歩ける方が好都合です。ジープはまだ直らないので、バスで行きました。バスの停留所へ行って「いつ来る?」とたずねても、誰もはっきり知りません。11時頃と言う者、10時と言う者、12時と言う人もいます。とにかく10時過ぎから待っていたら、11時頃やってきて、12時過ぎに出発しました。
東北地方の田舎道のような感じで、右手(北側)の丘のスロープにサラソウジュの林が続き、左手は一面アキザキナタネの花盛り、そのむこうにシワリクの丘陵が平行に続きます。2時間半ほど乗ったら、サキャが何もない林の中で「ここだ」と言って下りました。ここのバスはどこでも止まります。こんな所でどうするつもりかと思ったら、林の陰にバンガローが1棟ありました。営林署のレストハウスだそうです。ポリスの格好をした男が2人と、下働きみたいなのが2人、それにその家族。ここはチトワン国立公園の北の縁にあたる保護林で、彼等はその番人なのです。一室へ荷物を置き、すぐそばの河原で、サラソウジュ林ができる前に氾濫地に発達する雑木林を調べました。
アカシア(Acacia)やダルベルギア(Dalbergia)の林を一区画調べたらもう薄暗くなり、ときどき近くでガサガサ足音がします。虎もいるし大蛇もいるそうです。暗くなりかけたら、あちこちでジャッカルの遠吠えがきこえました。1963年の冬に東ネパールの低地を延々と歩いたとき、夕方になるとこの遠吠えと、暗がりで目だけがギラギラ光るのが気味悪かったことを思い出しました。
11月18日 朝早く、2人のポリスは小銃を手に見回りに出掛けました。この2人はポリスではなく森林官で、最近になって銃を持つようになったのだそうです。「そんなに動物が危ないのか」とたずねたら、「いやそうじゃなくて、こわいのは人間なんだ」そうです。密猟、盗伐、密輸などいろいろあります。
サキャは今日はナラヤニガートへ行くといいます。僕としてはもう少しこのあたりを調べたいのですが、サキャが「ナラヤニへ行けばもっとよい森がある」というので、出掛けることにしました。彼がナラヤニへ行きたがったわけは、例によって旅行証明をとるためだけだったことがあとでわかりました。彼の話では、旅費の積算根拠は、地方へ赴任する官吏の旅費規定がそのままわれわれの旅行にも適用されるのだそうです。旅費には日当と距離手当てがありますが、距離は1日最低4コス(5km)は歩かねばならないことになっています。逆にいえば、1日5km歩けばよいということです。これはずいぶん短いようですが、われわれのような研究旅行では、滞在することもあり、人夫賃も多くかかりますので、実際より日数をふやして金を多くとります。そうするとどうしても距離をたくさん歩いたことにしなければならなくなるのです。しかし歩いて行こうとバスで行こうと、カバーした距離そのものが問題になるというのは面白いです。
ナラヤニガートはナラヤニ川の左岸にあります。この川は上流がカリガンダキ、マルシャンディ、ブリガンダキ、トリスリガンダキの各川に分かれ、ネパールの3分の1の面積にひろがる大河です。ヒタウラからナラヤニへ達するには、ラプチ川に沿って西へ行きます。ここらはこの夏大洪水に見舞われ、援助事業の1つである島田さんの農場も水没してしまいました。
バスで行く途中も、小さな流れまでほとんど橋が流失しており、川床を水につかりながら走ります。今見るとどこからそんな水量が出て来るのか、不思議なほどです。[1971年頃から、この道はトリブーバン公路に代わってビルガンジとカトマンズを結ぶ主要幹線自動車道路になりました](見渡す限りアキザキナタネの花ばかりでした。1ヵ所だけサラソウジュの林が残っており、チトワン自然保護区の北の端だそうです。
ナラヤニガートへ着いたら(12時頃)、サキャは早くも帰りのバスの時間を気にしています。帰りの最終は15時で、それでヒタウラへ戻ろうというのです。せっかくここまで来たのだからゆっくり調査をして、2日といわぬまでも1泊くらいはするつもりかと思ったら、来て帰ればよいとしか考えていないらしいので、ちょっとガッカリしました。今朝のところでもう少し調べようと僕が言ったとき、「ナラヤニに行けばもっとよい森林がある」と言ったのは、単に出発させる口実にすぎなかったのです。見回したところ「よい森林」などは見当たらず、河岸のアカシア林など全くありません。僕ははじめからここに泊ってやろうと思っていたので、ひそかに最終バスに乗り遅れる算段を考えました。
まず、レストランへ入って食事です。ふつうならサキャは飯を炊きにかかるのですが、食堂に入ったのは時間節約のためでしょう。それからお義理みたいに「そこらの森を調べようか?」というから「もちろん!」というわけで、河岸を北へ歩きだしました。ここらは川幅が数100mあり、イルカもいそうな感じです。イルカというのは川イルカのことで、楊子江やガンジス河にいる淡水生のイルカです。それがナラヤニ川にもいるという情報があって、東大の調査隊が来たことがあるのです。
1時間も歩いたら両岸が狭まり、サラソウジュ林に入りました。その森の入り口にものすごくモダンなビルが建っていました。自家発電で電灯がつき、50mごとに立哨所が造ってあります。王様の別荘だそうです。
森林はなかなか立派ですが、例によって放牧で下草がなかったり、切り株が多かったり、なかなかよいところが見つからず、中へ中へと入ってやっといくつかの方形区を調べました。
帰路になったらサキャは駆け出さんばかりの歩きようです。よほどバスに乗りたかったのでしょう。しかし町についたのは4時近く、最終バスはもう出たあとでした。彼氏はあきらめきれず、町中を歩いてヒタウラに行く車を探しましたが見つからず、いかにも残念そうにここに泊ることに決めました。僕がヒタウラに泊りたくなかった1つの理由は、泊った家にトイレが無いからです。カトマンズのように□字形に家ができている所では、そのどこかにトイレがあります。郊外の家は道路に面してビルがあり、後側に庭があり、そのむこうにトイレの小屋があります。もっともこれらは都会の家のことで、農家にはそんなものはありません。ヒタウラの泊った家では後ろ側が空き地になっていて、その中央にトタンで囲ったトイレがあるのですが、錠がかかっているのです。鍵は家主が持っていて、用があるたびにそいつから借りねばなりません。そんな面倒なのはイヤだから、外へやりに出ても、ヒタウラのような家並みが続く大きい街で、しかも暗くなってからたどりついたような所では土地カンが無く、あらかじめ適当な場所の見当をつけることができません。だから調子が狂ってしまって、昨日は腹の具合がとてもおかしかったのです。ナラヤニなら小さな町並みを一歩出れば、広々とした河原です。星がとてもきれいでした。
バスの終点のすぐ前、昼飯を食べたレストランの2階がホテルでした。言い忘れましたが、ここの食事はそんなに悪くありません。メシに野菜のカレー煮と肉のカレー煮です。肉の方はあまりうまくなかったけれど、野菜の方はイケます。それと漬物もうまかったです。ただいずれもかなり辛いです。
階段を上がった所が廊下兼広間で、安い泊り客はここに寝ます。その奥の、道路に面した側に個室があり、ツインベッドの部屋に入りました。農家の部屋よりは綺麗です。ベッドの蒲団はうすぎたないけれど、ノミはいませんでした。暗くなってから2時間ほど電灯もつきます。ベランダに出たら、泊り客がここで小便をするらしく臭気紛々で、鼻の鋭いサキャは早速窓を閉めてしまいました。部屋の中へ2人の人夫も入れ、炊事をして食べました。明朝のバスは4時、5時、7時とあり、サキャは僕に遠慮してか7時のに乗ろうというのですが、僕は1番バスで帰ることにしました。7時に乗ったらヒタウラには昼過ぎとなり、どうせまたいろいろ事件があるでしょうから、明日中にカトマンズへ帰れる可能性は大変少なくなるからです。
11月19日 3時15分頃、ホテルの前に止まっているバスがエンジンをかけ、同時に客集めのためにクラクションを派手に鳴らすので目がさめてしまいました。このクラクションは汽車の汽笛のようなカン高い音をたてます。1番バスにしたからよかったけれど、7時までこれを聞かされたら、たまったものではなかったでしょう。ホテルの住人は、毎朝これを聞かされても平気なのでしょうか。乗り込んでみたら70人乗りのバスにすでに30人ほど坐っていて、後ろの方しか空席がありません。運転手のすぐ後ろの席(ここが1番乗り心地がよい)はシートがひっくり返してあり、それを直して坐ろうとしたら、「指定席」だそうです。そんな制度はないはずなのですが、見ていたら最後に若い女性連れの役人が坐りました。4時まで10分おきくらいにピーピーやり、走りだしてからもクラクションを鳴らし放しで、要所要所に止まってゆきます。大きな家や役所などは一々丁寧に起して拾ってゆくので、小さな町を出るのに30分ほどかかりました。日があたるまでは大変寒く、ネットシャツにカッターシャツだけですからガタガタふるえました。来るとき、アンナプルナとヒマルチュリがとても近く見えたので、日の出のきれいなところが見えるかと期待していたのですが、霧が深くてだめでした。はじめは2人掛けだった座席も町を出るころには3人掛けとなり、ヒタウラに近づくにつれてギュウ詰めになり、しかも大荷物を持った乗客がふえ、しまいには手を上げても素通りでした。荷物も野菜、トウモロコシ、山羊(もちろん生きてる)、魚などです。
ヒタウラには10時過ぎにつき、それから朝飯を炊きました。サキャは家主に鍵を借りて、なつかしいトイレに行きました。留守番の運ちゃん達は僕にサソリを1匹つかまえておいてくれました。このサソリは小さくて、さされても死なないけれど、とても痛いそうです。関節でつながった体が床の上をチョロチョロ動く様は、ミニアチュアの汽車のようです。とんだりはねたりはしません。
サキャは低地植物の苗をカトマンズの植物園に持って行くと言います。「そんなことしてもゴダワリでは育ちっこないから無駄だ」と言っても、こういうことは旅に出た調査官の義務とされているようです。だから植物園で育とうが死のうが関係ないのです。育てられない方が悪いのだから…。ですからこれまであちこちから集められた苗木はほとんど育たず、残っていれば偶然の結果にすぎません。ひどい奴はヒマラヤオニクの果穂を移植したりしています。しかし彼は誰にも頼んだ様子はなく、電話をかけたわけでもないので、帰る途中で掘るのかと思ったら、ヒタウラの町を出はずれたところに男が1人立っており、彼の欲しい苗木は全部揃えてありました。この辺があなどりがたいところです。苗木は古くて腐りかけたバナナの葉柄の基部で包んであり、よい工夫だと思いました。
ジープの方はクラッチの修理ができてるというので、すぐ走るかと思ったらバッテリーは充電してなく、スタートするのにみんなで一押しも二押しもしなければなりませんでした。バッテリーなんかは走り出してしまえば弱くても不自由はなく、スタートのためにだけ金をかけて充電することはないというのでしょう。
ヒタウラからダマンへの登りは、来るときもそうでしたが、全く気が遠くなるほど曲がりくねって長たらしく、インドはなんでこんな馬鹿らしい道を造ったのか不思議です。ほかにもっと楽なコースがとれるだろうにと思うのです。サキャの説では「コースが長ければ、カトマンズにいるインドの援助団の予算が沢山とれるし、人員も多く必要になるから、インド人にはありがたいはずだ」というのです。日本に限らず、ODAというものはそんなところかも知れません。
途中でまたクラッチが動かなくなりましたが、これは単なるネジのゆるみでした。ダマンの農場で一休み。除虫菊の干花をたくさん積み込みました。このすこし先のチスタンにもう1つの農場があります。丘の頂上の事務所にサキャが登って行くので、余計な暇潰しに行くものだと思っていたら、これは仕事の一部でした。
先日シュレスタと一緒に行ったチャンドラギリの旅で、シュレスタは旅行証明を十分とれなかったのです。これがないと決算書類を提出できません。シュレスタはサキャに、これをなんとかする工作を頼んだのです。サキャはチスタンの農場に1年住んだことがあり、この附近のパンチャヤットを知っているので、この附近を歩いたことにして書類を造らせようというわけです。パンチャヤットの事務所はトラックの休憩所の百貨店のおやじでした。工作はうまくいったようです。
これで用件は全部片づき、カトマンズへ向いました。エンジンの音がおかしいのできくと、「さっきからプラグが1つ不調だ」とのことです。それでも止めて修理するのは面倒らしく、そのまま最後の峠を登りきり、タンコットのチェックポストで止まったついでにプラグを取り替え、午後10時前にやっとカトマンズに帰りました。
今度歩いたのはサラソウジュ(Shorea)の林ばかりでした。外見からはかなり変化があるように思っていましたが、調べてみるとサラソウジュが圧倒的で、地形で少しづつ他の種が変わる程度です。ワタノキ(Bombax)などは目立つけれど、あまりに点々としていて調査にはひっかかってきません。氾濫原に最初に出来る林はアカシア(Acacia)林でダルベルギア(Dalbergia)が入るときと、ダルベルギアばかりになるときとあります。アカシアの次に来るのはもうひとつ別な葉の大きなアカシアでした。ここのところをもうすこし調べたかったのですが、サキャの甘言にのせられてナラヤニガートへ行ってしまったので、オジャンになってしまいました。
今度みたいに待ち時間の多かった旅はありません。この文章のほとんどはその時書いたのです。サキャの方は小説を1冊読み切ったようです。
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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