パプア・ニューギニがどこにあるかは地図でさがしてください。今年(1975年)独立したばかりの国です。所変れば品変ると言いますが、日本で持っている常識では考えられないことをいろいろ体験しますので、それを書いてみました。
〇交通
道路がちっとも発達していません。全国の都市はその周囲にわずかな自動車道があるだけで、都市間をつなぐ道はないのです。そのくせ町の中では自動車ばかり顔をきかせていて、バイクや自転車は全然お目にかかれません。タクシーは大変少なく、しかもすべて無線車です。ホテルや空港に専用電話があって呼び出すのですが、30分たっても現れないことも再三です。12時から1時までは昼飯のためか全く目につかなくなってしまいます。自動車はほとんど日本製でした。
鉄道は1cmもなく、道路もこの有様ですから飛行機が交通機関として最も普通なものです。飛行機といってもフレンドシップやDC3の使える飛行場は数えるほどしかなく、5人から10人乗りのセスナやパイパーしか使えないエアーストリップという滑走路だけの発着場が数百ヵ所にあります。これらはいずれも山間のへき地で、都会から歩いていけば5日も10日もかかる所をわずか15分か30分で飛んで行ってしまいます。このエアーストリップたるやまるで滑り台のような急斜面になっていて、着陸の時は下から上に向って登りながら滑走距離を縮め、離陸の時は滑り台のテッペンから勢をつけて空中に飛び出すのです。
滑走路の端は断崖絶壁で、その向うは谷をへだてて屏風のような山腹がそびえ立ち、小型機はその谷間をぬって山より低く飛ぶのです。パイロットはこういう所ばかり飛んでいるので全くなれたもので、実際乗ってみてもそんなに危い感じはせず、離着陸は大型機よりはるかにスムーズでした。飛行機に乗るというのは日本ではちょっとしたゼイタクですが、ここではタクシーなみです。何しろ歩けば2~3日かかるところをわずか15分約4,000円で行ってしまうので、山の住民達がみんな利用します。ジャガイモや野菜をかかえたハダシのおばさん連が町の市場へ飛んで行ってひとかせぎしてまた飛び帰って来るのです。
〇食べ物
町のホテルは全くの濠州式で、ヤタラと肉が多くて量が多く、しかもローカルカラーのある料理が出ないのでつまらないものです。
町にある現地人の市場をみると1番多いのはヤシとバナナです。バナナと云ってもそのまま食べられるのは少なく、火を通さねば食べられない料理バナナで、これは主食の1つです。最も目につくのはビンロウの実で、コショウの茎と一緒に売っています。これは熱帯の住民の嗜好品で、おそろしく渋いビンロウの実とヒリヒリするコショウの茎を噛りながら石灰の白い粉をチョイチョイなめていると口の中はだ液でいっぱいになり、おそろしく腹がへってきます。一方、ビンロウの実と石灰が反応して唇や舌はまっ赤になり、人食人種のようになります。この風習は外来者である欧米人にはきらわれており、私に食べ方を教えてくれたホテルのボーイも「マネージャーに知られたらあんた達は追い出されるヨ」と警告してくれました。
この他目に付くのはタロ芋とヤム芋で、前者は里芋の親玉、後者はトロロ芋のお化けと思えば間違いありません。果物ではパパイヤとパイナップルが多くてうまく、マンゴーは10月ではまだ早すぎました。しかし総じて熱帯のくせにうまい果物はありません。葉菜類はキャベツや小松菜がわずかにある他は、キュウリやカボチャの蔓、日本では雑草としてかえりみられないイヌビユやアオゲイトウがたくさん出ていました。ポートモレスビーの日本人はアオゲイトウの仲間を「ホウレンソウ」と呼んでおひたしにしており、味はちょっとクセがありますがよく似ていました。
山へ入ってみると人々はタロとヤムのほかタコノキとサツマイモをよく食べていました。タコノキというのはリュウゼツランのような葉をもつ大木で、大人の頭ほどあるパイナップルのような固い果実をつけます。現地人はこれをバラバラにして中にある胚乳を食べるのですが、大変味がよく栄養も多い食べ物です。サツマイモは山の中のいたるところに栽培されていました。栽培といっても急斜面に植えっ放しで雑草は茂り放題、畠というより草原と言った方がよいです。
これらの主食に共通なことは、いずれも大きな塊であって米や麦のように粒からできていないということです。彼らの調理法は地面に穴をほって食物を入れ、その上に赤熱した石をほうり込み、上をバナナの葉でおおって蒸し焼きにするという方法です。従って炊事に鍋釜を必要としません。米や麦ですと炊いたり粉にしたりする道具が必要となりますので、彼等の調理法は最も原始的やり方の1つと云えるでしょう。
〇人々
肌は黒く、頭髪はひどくちぢれています。女性はウエストが大きく、脚が大根型なところは日本人によく似ています。ただしバストは偉大です。それとマツ毛が長いのが目立ちます。山で行き合う現地人をみると、ほとんど何も持っていません。植物のセンイで編んだ大きな網袋を額から背にかけ、中に食物のイモ類を入れているくらいです。袋の中には赤ん坊が入っていたり仔ブタが入っていたりします。ブタは貴重な財産で、お嫁さんをもらう時には3頭を女性側にさし出さねばなりません。オーナードライバーの日本人の間では「人にケガさせてもブタだけはひくな」と言われているくらい大切なものなのです。
このブタを殺してごちそうするお祭りというのがある部落で行われていました。なんでも2年前に山向うの村でそのお祭りがあって招待されたので、今度は招び返すのだそうです。山向うといっても2日歩く距離です。パプア・ニューギニアは人口密度が小さく、小型機で1時間飛んでも人跡が全くないという所も少なくないので、隣村が2日先でもちっとも不思議はありません。むこうの村人は部落総出でこちらの村へやって来て御攝待にあずかるわけですが、途中の1泊のために立派な小屋を建てます。2日間の1泊ですから野宿で一向さしつかえないのに、小屋を2日も3日もかけて造るのです。男たちはみんな刃渡り60センチもあるブッシュナイフと称する大ダンビラか金太郎の持つような斧を持っています。これで森の木を切りたおして柱と棟を作ります。熱帯の森林の木はみんな真直でヒョロ長く、建築材に不自由することはありません。その骨組の上にタコノキの葉を厚くかぶせれば立派な小屋ができます。何でこんなめんどうなことをするのかはサッパリわかりませんでした。
人々は大変気前がよく、持っている食物を惜しげもなくくれます。こちらが「欲しい」と言わなくてもサツマイモを一抱えもくれるのです。それもワザワザ遠い村から自分用に運んで来たものをです。われわれはこんな気前の良い人たちは見たことはなく、食料を買わなくても済むと大いに気を良くしたのですが、後になって読んだ本に大変なことが書いてあるのをみつけました。彼らがものをやったりもらったりするのは一見交換条件なしのように見えるけれど、これは風習として必ずお返しをしなければならないのだそうです。だからたとえこちらが「くれ」と言わないでむこうからさし出されたものでも、相手はそれに対するお返しを、すぐにではなくても、期待しているというのです。もしある程度待ってもお返しがなければ、相手はこちらのことを大変悪い奴と思うのです。そんなこととは知らないからわれわれはもらいっ放しで引上げてしまいました。今頃あの山の向うの村人は失礼な日本人共のウワサをしていることでしょう。
気質は概しておとなしく、控え目で正直です。テントを2日も空けておいても何も盗まれません。ホテルやタクシーでもチップを要求したり料金を吹っかけたりしません。その代り金をかせぐということにあまり関心がないものですから、人夫をやといたくても中々集まらず、働く日を約束しても平気でスッポかすので苦労しました。
〇言葉
山の中でも英語が通じます。むこうから「グッドモーニング」と呼びかけ、握手を求めて来ます。ただし夕方になっても「グッドモーニング」です。ニューギニアには19世紀からキリスト教の伝道師が奥深く入り込んで布教と共に教育や医療活動を行っています。奥地にある飛行場のいくつかは伝道のために開発したもので、専用の飛行機を持つ伝道団もあるくらいです。山奥で英語が通じるのはこれらの伝道活動のおかげです。
パプア・ニューギニアの公用語は3つあり、英語、ピジン英語、モツ語です。人口が少なく、村々が離れているので、村が違うと言葉が通じません。ですから人々は他の村の人とは3つの共通語を使いわけて話をし、自分等同志ではその村の言葉をしゃべるのです。共通語のうち、モツ語は首都のポートモレスビー附近の村の言葉で、これが交易と共に拡がったものです。ピジン英語というのは、英語の単語を基にしてスペルも文法もニューギニア流にした大変面白い言葉です。英語のできの悪い生徒が、試験の答案をローマ字式に書いたような感じです。例えば「私の妻」というのを「ミシス・ビロング・ミー」と言います。ビロングという単語は英語本来の意味を離れ、OFと全く同じ意味に使われます。英語と同じような単語も使いながら意味が異なるので、欧米人でも思わぬ失敗をやるらしく、われわれ英語の下手な者からみるととても愉快でした。
次の文章などはすぐわかるでしょう。(ビールの広告です)
MI LAIK WANPELA MOA
PELAだけ説明しますが、1個、2個の「個」に当る単語です。読み方はローマ字式でよいのです。
〇古戦場
ニューギニアの名は昭和一ケタ族より年上の者なら大東亜戦争と共に忘れられない地名でしょう。日本軍が進出した最も南の端であり、米濠軍の圧倒的な物量によって悲劇的な敗退を繰返した所です。ガダルカナル島、ブーゲンビル島、ラバウル、ラエ、マダンなどの地名は当時の新聞をにぎわしたものでした。今もジャングルの中で敵見方の飛行機の残骸を見ることがあり、日本軍兵士の骨が拾われることなく土と化している所です。
大きな町には米英濠軍戦死者の立派な墓地があり、広々とした芝生と美しい花に埋もれています。そこに立つと戦争の良し悪しや勝敗にかかわらず、われわれは民族の遺産を否応なく背負って生き続けねばならないのだということを強く感じるのでした。
こういう墓地を歩いていたら、2通りの墓石があることに気づきました。1つは氏名・生没年月日の入ったもの、もう1つは氏名も生没年もなく、ただ「英印軍の一兵士ここに眠る」とあるだけのものです。後者はおそらく英印軍の兵士の中で、インド人やネパール人のもので、欧米人の墓石は前者のスタイルなのでしょう。インド人やネパール人だって、正規に登録された兵士ですので、氏名や生没年月日がわからないはずはありません。納得できないものを感じました。
[未発表]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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