〇チャッシガレ!
われわれはあまりシェルパの言葉を憶えなかった。たいていの登山隊の連中は、終り頃にはシェルパの言葉で何とか用を足せるようになるらしいし、民俗学の調査などではそれを話せなかったら仕事にならない。しかしわれわれの相手は植物で、それのつきあいに忙しいものだから、別に憶えようという気も起らない。第一彼らの英語の理解力は僕なんかと同程度だから、英語をしゃべったって日本語をしゃべったって同じこと、たいていは日本語で用が済んでしまう。従って彼らの言葉を知るチャンスも少ない。覚えているのはよほど印象の強かった言葉だけだ。
「アカジャンジャン」というのはカラスウリのことで、こんなのは発音が面白くて調子がよいから一遍で憶える。「チャ」というのは紅茶のことで日本語と同じ、のどがかわくので茶屋があると必らずよって飲む。ラムロは良い、すばらしいという意味。シェルパや人夫が仕事をうまくやってくれた時これを言うと、Thank youと言うより喜ぶ。クン・バト・ホウというのは、道はどっちだという意味。一番先に行先の地名を言ってからこれを言えばよい。ときどき一人で取り残されるので、行きずりの人に道を尋ねる必要があるので憶えた。バトは道という意味なのだが、BatではなくBatoと発音しないと通じない。
「チャッシガレ」というのは、はじめ何のことかわからなかった。シェルパたちがふざけ半分みたいに使っていて、どこでもかまわず乱発する。われわれが真似すると笑う。サーダーが金をごまかして、シェルパたちの紅茶やタバコが不足していたので、チャとシガレットをよこせというのを遠まわしにわれわれに言ってるのかとも考えた。しかしそれはサーダーの責任であると理解してもらっても、まだチャッシガレはおさまらない。
ある晩、たき火の番をしながらシェルパのカンチャに聞いてみた。チャッシガレというのは一種のかけ声で、本来は危機に直面したとき叫ぶ言葉なんだそうだ。日本語なら「助けぶね!」というところか。彼らが使うのをわれわれが変なところでまねしたのが発端で、今では合言葉みたいになってしまったのだ。われわれの間ではその意味は悪い、貧弱な、だらしのない、危ないというような意味に使われた。「こんなチャッシガレな標本は捨てちまえ」とか「今日の道はチャッシガレだった」とか「うちのサーダーはチャッシガレな奴で弱ったもんだ」などなど。
キチンポーターの中に兄弟のポーターがいた。兄貴がたぶん17くらい、弟と1つ違いくらいらしい。ヘロックへ着く前の日、その弟の方が歩けなくなってしまった。数日前から足のリンパ腺が腫れて、苦しんでいたのが悪化したらしい。足がとても腫れているので、どこかに傷があってそれが原因らしいと調べてみたが何ともない。聞いてみると3年前にとげをふみ抜いたことがあるという。しかし3年も前の傷がいまごろ痛み出すなんて聞いたこともないし、傷口も全然ない。彼らははだしで歩くので、足の裏は靴底のようだ。とりあえず兄貴を迎えに戻らせ、2人は次の日の朝へロックにいるわれわれに追ついた。黒沢さんが抗生物質と解熱剤をたくさんやったので、痛みは引いたらしい。御本人は、前の日にチベット僧におまじないをしてもらったので、それが効いたと信じているのだそうだ。このおまじないについては別に書こう。原因がさっぱりわからないのでしばらく様子をみることにした。どうも腫れ方からみて、3年前の傷が内部で悪化しているらしい。
それから1週間、僕は村田さんと冨樫さんと共に、谷をつめてワルンチュンゴラに行っていた。その兄貴も同行した。本隊はその間にデオラリバンジャンを超えてヤンホデンに先行した。われわれがヘロックに帰ってみると、弟は川岸の岩かげに残された荷物の番をして一人で待っていた。あい変らず調子が良くないらしく、竹を尖らせて足の裏を突っついている。とても荷物を背負っては歩けませんという。仕方がないので何も持たせずについてこさせることにした。
ヘロックの次の泊りは、部落の裏を真直ぐはい上って耕作限界を超え、カシの森林のはずれにある吹きさらしの草尾根で、雨がシトシト降って陰うつな天気だった。明方寒くて目が覚めた。だいぶ明るい、4時ごろだろう。どこかで鳥が鳴いている。鳥の声を聞くのは珍らしい。テントから出てみると霧があたりを包み、他のテントがかすんでみえる。鳥の声は森の方から来るようでもあり、シェルパ達のいるテントの方から聞こえるようでもある。非常に特徴のある鳴声なのでよく聞くと、何と「チャッシガレ、…… チャッシガレ、……」と鳴いているではないか。カンチャの奴デタラメを教えたな。鳥の鳴声を「助けぶね」とはよくも言ったものだ。だが日本でもコジュケイの鳴声は「チョットコイ」だし、ホトトギスは「テッペンカケタカ」だ。鳥の声を人語にたとえるのは、日本もここも同じやり方だな、録音にとって日本の鳥学者に聞かせてやろうかなどと思っていた。しかしどうも声の出所が近くにあるらしいのに、移動もせず、とぎれもしないで規則的に続いている。こんな大きな声の鳥がそばで鳴いたらシェルパたちが起き出してとっつかまえにかかるに違いないのにその気配もない。どうやら人間の声に違いない。そうするとあのボウヤが、傷が痛くてたまらないので叫んでいるのだろうか?見に行ってやろうかと思ったが、悪ければ誰かが呼びにくるにちがいない。こられてもやる薬はフィニッシュだ、そう思ってまた寝袋に入った。疲れているので、チャッシガレを聞きつつすぐ眠ってしまった。本当に鳥の声のように美しく、人が苦しんで叫ぶ声とは思えなかった。
夜が明けて、シェルパのテントに行って見た。テムジンが「Sir, Look !」と言う。見るとボウヤの足の裏に大穴があいている。足を包んだ新聞紙は血膿でドロドロだ。テムジンは竹を鋭く削って、あの靴底みたいな足の裏に穴をあけてしまったのだ。吹き出した膿汁のすさまじさは、テムジンの服の袖までベットリとついていることで想像される。坊やは3年前の古傷を後生大事に足の裏にかかえたままで、30kgの荷物を背負うポーターの仕事をしていたのだ。これで坊やの苦痛も峠を越したわけだ。ラムロ!
ギューギュー足を圧して傷口から残った膿を押し出し、赤チンを流しこみ、包帯をして、シェルパの運動靴を貸してもらって歩くことにした。薬は本隊が持って行ってる上、ワルンチュン行きでほとんどのシェルパや隊員が負傷したので、外用薬はフィニッシュしている。それから後どんな手当をしたか覚えてないが、ホウタイの交換もしなかった。4-5日したら坊やはもうはだしで包帯もせず、荷を背負って歩いていた。
〇おまじない、ハチ
僕は不運にも、2度もハチに刺されてしまった。ハチといってもスズメバチで、日本でアシナガバチにやられた経験しかない僕にとっては大事件だった。
1回目はワルンチュンゴラからの帰路、朝歩き出して間もない頃、花を取ろうとして道ばたのシダの葉を何の気なしに掴んだとたん、ものすごい激痛におそわれた。本当のところ何に刺されたのかは、相手を見ていないのでわからないのだが、痛さからみても、その次にスズメバチに刺された時の経過が同じことからみても、前夜巣に帰りそこなって葉の裏にとまっていたスズメバチを掴んでしまったものらしい。左の中指の第2関節のところに小さな赤い点ができていた。激痛は一時だけで去ったがピリピリ痛んで手に力が入らず、その日はいつも真っ先にやる木登りもしないで意気消沈していた。指は赤い点のところからしだいに腫れ上って来て、夕方になったら掌は握っても指先がつかないくらいになった。
翌日になるとヒジが曲げにくくなり、昼頃には手はグローブのようになって指は全然曲げられず、肘も直角以上には曲がらなくなった。張り切った皮膚は赤ん坊のそれのようにつやつやして血色がいい。シェルパやウパさんが、あまりのひどさに心配しはじめた。「蛇に噛まれたんじゃないか」なんて言ってる。毒蛇に噛まれたのなら、いまごろ生きてるわけはない。スズメバチの毒も相当なもので、午後には気分が重く、頭が痛くなってきた。今夜あたりが峠らしい。頭痛止めにソボリンをのみ、キンカンを塗っておいた。ウパさんが、「人夫の中にmagic treatを知ってるのがいるからやらせてみろ」という。別に効くとは思わないが、面白半分頼んだ。そのポーターは若い坊主頭で、少々イカレてるんじゃないかという感じの、陽気な男だった。首にヨード不足の甲状腺腫をぶら下げている。僕の腕をみて、「今はまだオマジナイの時ではない、今日の夕方がよい」という。つまりもっと悪化してこれから先は快方に向うという寸前、従って苦痛も頂上にある時にやるのが1番効き目があるということになる。ゴモットモ。
夕方うす暗くなった頃、彼はとりかかった。たき火の灰とロキシー(焼酎)を用意する。腕を出させ、何やら低くブツブツ言いながら、自分のネパール帽に地面の灰をまぶしては腕に軽くたたきつける。フッと吹いて灰を吹き飛ばす。しばらく間をおいて又やる。腕全体にまんべんなく灰をまぶしてから、ロキシーを塗りつける。これでおしまい。
翌朝僕の腕が快方に向ったことは言うまでもない。術を施すには時期を選ぶ必要があるということは何となく承知していたが。それがどういう意味を持つかを初めて悟った。
その次のスズメバチはもっと大騒ぎだった。冨樫さん、村田さん、僕、シェルパ3人、昼飯を食って歩き出したとたんに田圃の中にイトトンボがたくさんいるのを見つけた。アメンボもいる。両方共かねて頼まれているものだ。アメンボは森センセイの御所望である。しばらくねばって何匹かせしめた。
田圃のふちに学校(と云っても20人もつめ込んだら一杯になる)が建っているが、誰もいない。道をへだてて大きな木(多分トネリコの仲間)が生えている。その幹の途中にヤドリギがついていて、今までに見たことのない葉をしている。木登りはもっぱら僕の分担だ。幹に足をかけて登りかけたトタン。みんなが騒ぎ出した。耳のそばでブーンという羽音がする。「ハチだ!」一目散に逃げ出した。僕は通りすがりの2-3匹が襲ったものと思っていたので、いい加減走って学校の前庭に立って、ハチがどこから来るか見定めようとした。他の連中もハチの撃退に大ワラワだ。どうも2匹や3匹ではないらしく、周囲は羽音だらけ、前後左右から飛んで来る。シェルパたちはいち早く学校の中に逃げこんで、早く入れと叫んでいる。服にしがみつくスズメバチをたたきつぶしながら逃げこんだ。中に入ると小さな窓と入口から侵入して来るハチを、壁を背にしてたたき落としている。ガラス窓や戸はないから閉め出すことはできない。外から暗い室内に入ったハチは一瞬とまどってウロつくのでねらいやすい。服にとまっても刺すまでには奴は足場を固めねばならないので少し間があるから、見つけしだいたたきつぶす。みんな自分自身の防戦に夢中だ。右腕にズキンとくる。服の上から刺したのだ。体をエビのようにまげて針を立てているのをブッ潰す。頭へも止ったらしい。どこだかわからないからメチャクチャに自分の頭をブンなぐる。手応えがあってホッとする。頭がこの間の手みたいに腫れたらどうなるだろう。今度は左腕に激痛。たたきつぶしたがすでに手遅れである。
10分あまりもハチと戦争していただろうか。やっと襲撃が間遠くなった。床には死骸が累々と散らばっている。ハチがやって来る反対側の入口から出てさっきの木を眺めたら、梢はるか上の方に一抱えもありそうなスズメバチの巣があった。僕が木に登りかけてゆすったものだから、ハチの方はスワ非常事態と襲撃したに違いない。われわれの被害は僕が左右の腕に1発づつ、シェルパのダキャが首筋に1発、それだけだった。僕は黒シャツ黒ズボンで黒一色なのが、ハチには悪いんだそうだ。
ハチの襲来は下火になったが、われわれの荷物は木の下に放り出したままだ。木のあたりではまだハチが渦をまいている。シェルパは怖がって出ようとしない。僕も2発もやられてファイトが出ない。村田さんと冨樫さんが取りに行った。ただ行ったのではハチにやられるに決まっている。採集用のビニール袋を頭からかぶる。50×100cmもあるので肩口を無理に通せば体ごとスポリと入ってしまう。ただし息ができない。珍妙な格好で2人で3-4回往復してやっと荷物を収容した。写真をとればケッ作うたがいなしのシーンなのだが、カメラも放り出してしまったので撮れなかった。
2日目に僕の両腕がバットのように膨れあがったのは前と同じである。今度も適当な時期にかのポーターにmagic treatをお願いした。今回は前と違ってハチミツとチャン(シコクビエで作ったドブロク)がいるんだそうだ。見物の村人からわけてもらう。おまじないをとなえながら腕を丹念にさすり、ハチミツとチャンを混ぜ合わせて塗りつけた。ハチミツのベタベタにチャンのシコクビエがブツブツくっついて気持ちの悪いことおびただしい。折角頼んでやってもらった手前、洗い落とすわけにもいかない。とうとう夜中まで両腕まくりのまま過ごした。
時宜を得たmagic treatのおかげで、翌日から快方に向ったことも前回と同じである。首をさされたダキャはどうなることかと思っていたが、いくぶん腫れた程度で平生とほとんど変りなかった。体質の違いというか抵抗力の旺盛なことというか、とにかくわれわれとはだいぶ違う体をしているらしい。
それから後はちょっとした繁みに近づく時も、まずハチの巣はないかと用心するようになった。事実その用心のおかげで、繁みの中にある巣を見つけて事なきを得たことも2-3度あった。
夜テントを張っていると山のあちこちで火が動くのが見られる。旅をする人が夜の方が涼しいので、火をつけて歩いている場合もあるが、一ヶ所をウロウロしていていつまでも移動しない火もある。われわれはこれをオトイレと呼んだ。寝床から出てオトイレに立ったのだろうという想定である。夜9時ころまではオトイレはあちらにもちらにもずいぶんたくさん見える。昼間見たのでは家なんかありそうもないところまでオトイレに出てるものもある。望遠鏡でみると、タイマツのような火をもった人が、木の間を行ったり来たりしている。彼らのタイマツは、簡単なものはメダケを編んだ敷物の古くなったものを5-6本抜き取って束にして火をつけている。少し凝ったのは竹を一輪挿しのように切って石油を入れ、ボロで栓をしてそれに火をつける。
ある晩、川辺でキャンプをしていると、近くの対岸で捜し物のようにオトイレのタイマツが動いていた。30分もそうやったあげく、除々に近づいてきた。シェルパに尋ねたらハチの巣を採っていたのだという。見せてもらうと、スズメバチの巣をこわして幼虫を採ってきたのだった。ハチは夜は全然戦闘力がないので、さしものスズメバチも簡単に巣をこわされてしまう。その親をもらってビニールの袋に入れ、黒沢さんに預けておいたら、何時の間にか袋を食い破って逃げてしまった。
この地方ではたいていの家でミツバチを飼っている。長さ1m、直径40cmくらいの丸太を2つに割り、中をくりぬいて小さな出入口をあけ、元通りに組合せて軒下に吊るしておく。家の壁に蜂用の空間を作ってそこに営巣させ、外側はハチの出入り口、内側に蜜の採取口を作ってある家もある。初めはもちろん、分房したのを持ってくるのだろう。気候がよいので年中何かの花が咲いているから、蜜源に不足はない。1年中花が咲いているとハチはサボッて蜜を集めなくなると聞いたことがあるが、ヒマラヤのミツバチはその農民と同じように勤勉らしい。テライの平原では、大木の枝の付け根に、襞状の巨大な巣があるのを見た。
バザールでは蜜だらけの幼虫を巣ごと売っている。農家でも頼むと取り出してくれる。連中は巣の壁ごと食べてしまう。ちょっとしたオセンベイのような感じだ。ハチミツから作ったロキシー(焼酎)が1番上等なんだそうだ。
〇録音
小型の録音機を持って行ったけれど、忙しくてほとんど全く録音する機会がなかった。旅も半ばを過ぎた頃、ケボンという村に来た。日が暮れたら近所の農家から太鼓の音が聞こえてきたので、録音を思い立った。他の人たちはテンデに標本の始末に忙しいのに、のんびりと録音をするなんていうのは気がひけるが、そこは雑用係の便利なところで、寄附金の反対給附としてやらなければならない展覧会のためのもの、と言えば大義名分は立つ。真っ暗な小さな農家に首を突っ込むと、14-5歳の男の子が太鼓をいじっていた。この辺の太鼓は、ボンゴのような形で中央が膨れて両端が細まり、しかも両端の直径は同じでない。これを紐で首に横にかけ、両手で打ちならす。皮の中央はタールのようなものが厚く塗ってあり、中央部と周辺部では音色が違う。右と左の音ももちろん違う。
鳴らしてみろと言っても、こちらの意図が理解できないのでなかなか始めない。ようやく2つ3つ打ち鳴らしたのを録音して聞かせてやったら、がぜん熱心に歌い出した。2拍子の数え歌のようなものだった。太鼓の音色の違いは先に言った通りだが、手首と指先でたくみに打ちわける。声はかん高いアルト、これはあとで聞いてみたら男でも女でも同じような声を出す。頭のテッペンから突き抜けるようだ。一節は割と短かいが、いつまでも先があるらしく、中々終らない。その内に男の子は息がはずんできて気の毒なほどになった。そのころには狭い部屋の中はシェルパやポーターで一杯になっていた。もうよいと止めさせると、今度はポーターの中から2人が立って彼らライ族の歌を披露した。これは4拍子でやはり短かい歌詞が少しずつ変って次々に歌われる。それがすむとチベット人のポーターがチベットの歌を歌った。手を拍ち足をふみ鳴らす勇ましいものだが、あいにく土間なので砂煙がもうもうと立ち上る。その次はリエゾン・オフィサーのウパ氏が、彼の愛唱おくあたわざるラブソングを歌う、次に村のボスが歌うのをうまい女性をつれて来て聞かせてくれた。そのボス氏の言うには、もっと聞かせたい歌があるが、今夜は歌い手がいない、明日呼んで来るから是非聞いてくれという。どうせついででからと明日を約して、その晩は引きあげた。
次の日の夕方、うす暮くなる頃に村の人々は続々と集まって来た。自分の歌った声をすぐ聞かせてくれるというニュースは、たちまち広がったらしい。僕はいやでも今夜の中心人物だ。まず昨日の男の子が一曲歌った。今度のは3拍子だ。
この夜の歌は3拍子が多かった。次に女と男が交互に歌う。前の歌を受けて次の歌が出、それを受けてまた次が歌われる形式らしいが、いつまでたっても終らない。よくも憶えていることだ。口から出まかせでないことは、数人が一度に歌うことからわかる。その内にウパさんがちょっとこいというので暗い方へ行ってみると、10人ばかり一列横隊になって行きつ戻りつしている。彼らはリンブー族という連中で、今やってるのは最も古来から伝わる歌だそうだ。非常に単調で、ゆるやかに高低をつけて声をふるわせる、それと共に前後に歩く。聞いていると幽霊が出てきそうだ。そいつをテープにとって元の所へ帰ると、群衆はもうすっかり興奮してしまって太鼓を打ち鳴らして大合唱、4-5人は中央にとび出して踊りはじめた。急速にステップを踏んで手を頭上にかざして酔ったように踊る。ジプシーの踊りがこんなではなかろうか。そのうちにテープが無くなってしまった。ウパ氏は、みんながエキサイトしているからここで止めては気の毒だというので、テントに戻って詰め替えて来る。しかしその間に興奮はやや収まっていた。
今度は村の詩人という人が出てきて、彼が国王に捧げた歌を歌うという。彼はカトマンズの王宮で王様の御前でこの歌をうたう光栄に浴したのだ。ウパさんが翻訳してくれた。王様が5人委員会(パンチャヤット)の制度を初めて民主化したことを讃えていた。その次に彼は、われわれ植物調査隊に捧げる歌というのを即興で作詞作曲して歌ったのには驚かされた。彼は学校の先生なんだそうだが、こういうところでこういう才能を持った人がいるとは考えなかったのは、ネパール文化に対するこちらの認識不足というべきだろう。日本でもこれだけの芸当をやれる人がいる村がいくつあるだろうか。
これを最後に、役人の音頭で万歳三唱、日本とネパールの友好のために、神々のために、アブラカタブラではないが何でもそれに近い言葉で万歳をやって解散となった。夕方7時頃から12時まで、僕は田んぼのふちに坐り通しで録音を撮らされ、体がすっかり冷えてしまったけれど、中々面白い一夜だった。あとで民俗学の人たちの話を聞くと、こういうときには一同にチャンをおごらねばならないのだそうだが、そういう気配りをするほど世馴れていなくて、失礼してしまった。
〇ハリー
はじめてカトマンズに着いた日、町を見物に出たら12-3才の男の子がついて来て、こっちが聞きもしないのに説明をはじめた。観光地によくいる street boy だ。カルカッタでもわれわれが歩くと、こういう連中がどこからか出て来てつきまとう。ニューマーケットの奴なんかシツコいこと無類である。この日もホテルを出たら一人くっついて来たが、われわれが相手にしないと見て離れて行った。その次に来たのがこの子である。ただこの子は割と身なりがよく、態度も控え目だった。われわれが知らん顔していてもずっとついて来た。町の中心まで行って引き返す段になったらその子が僕にささやいた。「僕は勉強したいのだけれど本を買うお金がありません。本を買ってもらえませんか?」この種の子供が金を要求して手を出すことには慣れていたが、本を欲しいというのは初めてだった。それでついて行く気になった。本屋に入ると辞書を買うという。ところがその店には目ざす本がない。もう1軒寄ってネパール-英語辞典を買った。7ルピーである。16ルピーのヤツを買うと言ったのだが、お前の年でそんな大きなのを買うことはないと言って7ルピーのにさせたのだ。いかにもうれしそうな顔をしているのだが、こっちはまだ半信半疑だ。どうも良家の子供ではなくて、こういうことを商売にしている子らしい。「7ルピーの本をやったのだから代りに7日間案内してくれ」と言ったらイエスと言って人ごみの中に消えた。カトマンズの近郊を採集するのに、手伝いがいたらなと思っていたところだったのだ。
翌朝約束の時間になっても彼は来なかった。ヤッパリそうかと思った。午後も翌々日の午前も来なかった。しかし昼食にホテルへ帰ってみると彼は入口に立っていた。昨日も来たんだが会えなかったと言う。ホントカネ?とにかく午後は自転車を借りてくることを頼んだ。
午後は彼と2人でタンコットへ行く自動車道を採集した。この道はカトマンズとインドを結ぶ唯一の自動車道で、ちゃんと舗装されている。上り下りの多いのが玉にキズだ。自転車はインド製で、日本のより車輪が一まわり大きく、サドルにかけたままで足が地面にやっとつくかつかないかという代物で、ずい分消耗させられた。彼は僕の荷物を持って、所々説明したり、採集を手伝ったり、植物の名を聞かせたりしてくれた。名前はハリー、父親はデリーのネパール大使館にいるんだそうだ。住所を書けと言ったらちゃんと書いた。同じ年頃の子と話したあげく、あれは級友だという。学校があるのに昼間こんなことができるのかと聞くと、学校は3部授業で彼は夜の部なんだそうだ。割りとおとなしくて気がつく方で、好感が持てた。自転車の借代はいくらだと聞いたら半日1.5ルピーだという。この値段は、後で僕自身が自転車屋で借りたのと同じだった。
それから数日間、僕はハリーを連れてあちこちに採集に出かけた。岡の上のスワヤンブ・ナートも北東のゴカルナ・フォレストやスンデリジャールも彼の案内で行った。最後に行ったのは南郊のチョバール・ゴルジュだ。途中の道は石だたみなのだが、どういうわけかスレート状の石が縦に埋め込んであるのでガタガタと乗りにくい道だった。ゴルジュというから大峡谷で森林がうっそうと茂ってるのかと思ったら、岡の間の狭いところ(だからゴルジュに違いない)を少しばかりの水が流れていて、木が申し訳程度に生えていた。しかしそこから北の方、カトマンズの盆地をへだてて氷雪の山の眺めはよかった。
帰途ハリーは家庭の事情を話し出した。明日は学校へ授業料を納める日なのだが、近頃デリーの父親からちっとも送金が無く、この前の授業料もまだ払ってないのだそうだ。やっぱりオイデナサッタ、やはり今までのすべては作戦であったかと少々鼻白んだ思いがした。この分では最初の本代7ルピーだけでは済みそうにない。どうせあの本も売ってしまったに違いない。まあ割りとよくやってくれたからいくらか渡そう。昨日ホテルの主人に、こういう子供を使ったらいくらくらいやるものか聞いたら、1日半ルピーで十分ということだった。
ハリーは帰途2度もその話をしたが僕は聞き流した。ホテルへついて別れる段になると、彼はまたあわれっぽくその話をくり返す。相場は知っているがお前はよく働いたからこの前の本代は別として10ルピーやると切り出したら、25ルピーないと授業料は払えないときた。お前の授業料まで面倒はみないよと言ったら、ではその10ルピーをICでくれともちかける。ネパールではインドの金(IC)とネパールの金(NC)の両方が流通しており、両方ともルピーというがNCは50円、ICは75円だ。子供のくせにコスッカライと思うだろうが、あとから経験したところでは、インド人でもネパール人でもチベット人でもこの習性は同じことで、商売上手というべきなのだろう。面倒くさくなって10ルピーをICでやってしまった。せっかくいい子だと思っていたのに、すっかり幻滅の幕切れだった。
2度目にカトマンズに行った時にはハリーに出会わなかった。よそのホテルの前にたむろしているのを車の中から見たことがある。もう1度、文房具屋に入ってる時にハリーがアメリカ人をつれて入ってくるのに出会った。また辞典を買わすのだろう。ガッカリしたのは町で別の子からやはり「本を買ってくれないか」ともちかけられたことだ。あれはハリーの専売ではなかったのだ。
〇食物
茶 山を歩くと暑くてたまらない。第1日目から茶屋があると茶を飲んだ。紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れたヤツだ。缶詰の空缶の底に釘で穴をあけたものに葉をたっぷり入れ、湯を通す。コップに出て来たお茶を、また葉を通して別のコップに入れる。こうやって2-3度通して濃く出た茶を必要数のコップに等分し、湯を入れてうすめ、コンデンスミルクと砂糖を入れる。コップはそう幾つもないから、客が多いと前の奴が済むまで待たされる。水ガメから水をこぼして手でゴシゴシ洗ってゆすいでくれる。ふきんはマッ黒け、着物のスソで拭く時もある。カルカッタでもこの程度だけれど、環境がきたないゆえかとても飲む気にならなかった。それにカルカッタならもっと高級な店がいくらもあるし、ホテルに帰ればただで飲める。山の中では他に代りはないし、とにかくのどが乾くので飲まずにはいられない。気候がさわやかなせいもあって不潔感はなかった。というよりそんな感覚より飲みたいという気持ちが先だったのだろう。
レモンスカッシュ ピンポン玉のようなレモン(カガッティという。これはライムのことである)を、水の中にしぼって砂糖を入る。なにしろ生水なので1度しかやってみなかった。自分で作る方がマシだ。
サツマイモ 親指ぐらいの太さのをふかして売っていた。驚いたことにはちっともスジがなくてうまかった。
ナンキンマメ カラごと煎って売っている。どういうわけかいつも半生でたいていシイナばかりだった。半生のピーナッツはちょっと青くさいが甘い。
コプラ 熟したヤシの実の内殻を割ると、その内壁に5mmくらいの厚さに白いコリコリしたものがついている。それがコプラである。未熟な時にはこれは液体で、冷して飲むとうまい。風味のある味で大変うまかった。店では内殻を割った球形のコプラを売っている。
カルダモン カルカッタで通関業者の事務所に行ったら、彼氏は仁丹くらいの黒い種子をかじっていた。もらって食べたら仁丹のようなさわやかな味と芳香があった。全体はカンナの実のような形である。これがカルダモンで、低山地の至る所でスパイスとして栽培されている。種子はこのようにチューインガムのように用いられる。仁丹はインド人は大好きで、ニセ物が作られているそうだ。
パーン 街路や建物の廊下の隅などに真紅な血のりのようなものがたくさんついている。インドばかりではなく東南アジアの人々が好んで口にするパーンを吐き出したものである。
ビンロウの実と何やら赤いペースト状のものをコショウの類の葉で包んだものをクシャクシャ噛むものである。好みによって石灰をつけることもある。噛んでいるうちにコショウの辛さと、何とも言えない芳香と甘みが口の中一杯にひろがってくる。ビンロウはカツオ節のように歯ごたえがある。その内に唾液がどんどん出てくる。食欲増進の作用があることは間違いない。唾液がたくさん出るのでつばをはくとこれが真紅で、最初に書いたように道路を染めることになる。口の中も気味の悪いほど紅くなる。最後にはキレイに溶けてしまって食べカスが全然残らないのも面白い。
これを売る店は至るところに見られ、水や氷につけたコショウの葉と、ビンロウその他の薬味を並べている。とにかく不潔な代物だし、エタイの知れない食物なので自分では手を出さなかったが、ある日相手のインド人がしきりにすすめるので試食してみた。あんなスゴイ味のものはとても食えないという人もいるが、僕は気に入った。あの不潔さ(生水とエタイの知れない男が素手で作るから)さえなければ進んで買ったかもしれない。暑くてグッタリしている時に食べるとスカッとして腹がへってくるからユカイだ。文明人ぶって、パーンを噛むのは野蛮時代の悪習で止めるべきだなんて説教する人が多いが、そんな奴は食わずぎらいにちがいない。日本で高級レストランでオードブルなんかで出したらきっとモテルだろう。もちろん赤いツバキをところかまわず吐くのは困りものだが。
お菓子 ウパディヤさんが来た時、彼はネパール帽の中にお菓子を入れて来た。豆(だか麦だかはっきり覚えていない)の粉をミルクと砂糖で煮固めたのだそうだ。キンツバみたいなオコシみたいなモロコシみたいなものだ。食べてみると甘くバタくさくポソポソと口の中でとける。ネパールの菓子の中では高級品で、これはその中でも良い品を選んだのだそうだ。そういわれると何やら高級な風味があるような気もする。僕はうまいと思ったのでその後お菓子屋があるとのぞいてみた。しかしわずか2回しか手に入らなかった。
ダヒ(ヨーグルト) 農家の前を通ったらウパさんが出てきて、ヨーグルトをのまないかという。OK。さっそく500ccくらいのカップに一杯持って来たのを見て驚いた。これぞ本物のsoured milkで混り物なしだ。日本のヨーグルトはカルピスをゼラチンで固めたと思えばよい。カップにいっぱい入ってるのに逆さにしてもこぼれない。食べてみてまた驚いた。ものすごくスッパくておかしなにおいがして食べられない。砂糖を入れてヤットのことで平らげると、もう一杯いかがと来た。もうゴメンである。ウパさんは2杯砂糖なしで食べた。彼氏によると食べ過ぎて胃が重い時は、これをカップ一杯食べるとスッとするそうだ。逆療法みたいだ。カトマンズでは早朝、ヨーグルトを浅い蓋なしの素焼きの深皿に入れ、何枚も積み重ねて天秤棒でかついで売り歩いていた。作る家によって風味が異なり、それぞれ贔屓があるという。
チュルピ(乾燥チーズ) 外形はキャラメルのようでカチカチに固く、歯が立たない。しばらくしゃぶっていると唾液がしみて噛めるようになる。味なんか無い。高地のヤクテントに入ってみたら、ヤクの乳を固めたチーズをサイコロ状に切り、紐を通してぶら下げて乾燥していた。
チウラ(押し米) 米を一粒ずつ平たくつぶして干したもの。そのまま食べるとわりとうまい。作るところを見たことがあるが、籾を一晩水に浸し、そのまま煎って熱いうちに杵でつぶす。これを乾かして籾殻を吹き飛ばすと、押し麦のようなチウラとなる。一種の保存食。
エゴマ シソの仲間の熟した果穂を手でにぎって振ると、種子がたくさんとれる。これを噛むとよい香りがする。チウラにこれを混ぜて食べるとうまい。日本でもエゴマ、シソ、ヒキオコシなどでやってみると面白いだろう。
ウイキョウ 野生のセリ科、たとえばシシウドの仲間の熟した果実をそのままかじると、強いセロリのような味がする。ビラトナガルのレストランで食事をして勘定をすると、レシートと一緒にウイキョウの種子を一つかみ小皿に持って来る。これをつまんで噛むとほのかな芳香が口中にひろがって、サッパリとした気持ちになる。肉類の臭いを消すためだろう。日本でも、インド料理のレストランでやっている。
魚 魚はちっとも食卓にのぼらない。カルカッタのホテルでは金曜日が精進日で、けものの肉の代りに魚が出た。切身のフライかバタ炒めだった。しかし市場にはものすごい大きな魚を売っているそうだ。だから食べる人もかなりいるらしい。だいたい内陸部が大きいところだから、淡水魚がたくさんいるはずだ。
カルカッタで夜散歩をしていたら、小さな店で妙なものを売っている。よく見るとアリの蛹だ。親の赤アリも一緒で、ザルを吊下げた中に入れてある。ちっとも逃げない。アリ塚を壊して採ってくるらしい。釣り道具を売っていたから、釣りの餌であることがわかった。いろんな植物の根や実も売っている。きざんでまき餌にすると、香りで魚がよってくるんだと、店の老人が手まねで教えてくれた。日本ではこの種のまき餌はないと思うので面白かった。
カトマンズは3方が川に囲まれているくせに魚がちっともいないんだそうだ。道端で泥だらけのダボハゼみたいなのを、糸で数珠つなぎにして売っていた。後はシタビラメの子供みたいなのもの干物。そのダボハゼを買って行く人もある。
カトマンズを発つ日、空港行のバスがなかなかこないので、ホテルの玄関でボンヤリ見ていたら、道ばたの塀の上に子供が何人も並んで釣りをしていた。釣り場は道ばたのドブ。ドブといっても東京の道ばたで見るU字溝で、ほとんど蓋がしてあり、水も少ししかなくて流れてもいず、亜硫酸ガスでも出てきそうなまっ黒なドブ泥がたまっている。「カトマンズにU字溝なんて」と思うかもしれないが、当時は空港から市内へ通じるメインストリートがディリバザールを通っており、ホテルはそれに面していたのである。
短い木の枝に糸をつけて、先の針に何やらくっつけてドブの蓋のすき間から下すと、間もなく魚が釣れてくる。1mおきくらいに並んで釣っても結構よくかかる。その魚が例のダボハゼだった。泥だらけなわけだ。それにしてもよくあんな所に魚が住めるものだ。それを買って食う方もよっぽどのゲテモノ食いにちがいない。タンパク質の補給のためとはいいながら、あんなものまで食わねばならないかと気の毒になった。
春になると市内のあちこちで、田圃の鋤き起こしが始まる。冬の間はただの広場で、山羊や牛が歩いているのだが、そこを鋤かえすと例のダボハゼが出てくる。冬の間、土の中で冬眠していたらしい。
平原のサニチャレからビラトナガルまでの間、バザールがあれば必ず魚を売っていた。ナマズ、コイ、ドジョウ、ウナギ(みんな…みたいなの…がつく)から、大きいのは1m近くもあるサバのような青光りのする、食べたらすぐにジンマシンが出そうなのまで、とても多くの種類をみた。どうやって捕るのか見たことはない。しかし子供が4つ手網とビンド(わらで編んで泥をぬったもの)を持っているのを見たことはある。
ランガリでわれわれはある大地主の庭にテントを張らしてもらった。主人は「うちの庭では植物をとったり殺生したり、肉類を持ち込んだりしてはならない」と条件をつけた。非常な信心家で、精進に反するものは一切だめなんだそうだ。ベジタリアンだろう。卵もいかんという。われわれはシェルパと相談して、その夜はビーフカレーとゆで卵を食べた。
翌朝塀の外を大きなまっ青な「マグロ」をぶら下げた人が通ったので、写真をとろうと呼びとめた。シェルパが気をきかせて魚を塀ごしに受け取ってくれたら、主人が血相変えて飛び出して来て、魚を早く外へ出せとまくしたてるので、あっけにとられて写真を撮り損った。魚も肉類の内だった。カルカッタとはちょっとカテゴリーが違うのだ。
山へ入ってから一度、魚を投網でとっているのをみた。魚はヤマメのようなものだった。日本でやるようにヤマメを串ざしにして火で干したものはあちこちで売っていた。小ブナの干物みたいなものもあった。ヤマメの干物を買ってテンプラにしたら、結構うまかった。その残りを日本へ持ち帰って魚学者にみせたら、非常に珍しい種類だと喜ばれた。干物でも処理にムラがあって、臭みが強くて食えないものもある。ネパールの研究者にくっついて旅をしていたとき、魚の干物を買った。どうするかと思ったら、カレーの中に煮込んでしまった。それも頭も背骨も丸ごとである。骨がボソボソして食いにくいし、味もいただけない。でも彼はウマイウマイと食べていた。
枝豆・ソバ カトマンズの裏町で、枝豆を莢ごと茹でて売っている店がいくつもあった。田のあぜには日本と同様に大豆が植えてある。カトマンズに住んでいた神原さんの話では、ネパールでは枝豆は下層階級の食物なんだそうだ。だからネパール人を招待して酒のさかなに枝豆を出すと、変な顔をするという。こんな下級な食物を出して失礼な、ということらしい。
ソバの畠もあるが、これも下級な食品とのことで、ネパール人の食卓では見かけなかった。シェルパからそば粉をもらって、蕎麦がきにしてみたが、砂が多くて食えなかった。
砂といえば、ネパールの米には石が多く混ざっている。さすがに黒い石はないが、米と同じ白色の石英砂は少なくない。飯を食べていて、ときどきガリッとやる。ところが同じ飯を食べているネパール人はこれをやらない。どうも食べ方が違うらしい。われわれは「よく噛んで」と、ていねいにすりつぶす。彼らは「寸止め」の要領で、上と下の歯をわずかに間をあけて、飯粒をほぐす程度にしているのではなかろうか。
着物 ネパールの人がふだん着ている着物は、男は股引き(昔人力車の車夫がはいていた)のような白ズボンにワイシャツの裾を外に出し、その上に背広の上衣をつけることもある。女の人はアッパッパのようなワンピースに帯。
町を歩くと服地屋はたくさんあるが、出来上った服をぶら下げた店は見たことがない。みんな注文して作るのだそうだ。田舎のバザールで、店先に坐ってできるのを待っている人をよく見た。女の服なんか特に簡単なので、アッという間にできてしまうらしい。どんな山奥でもバザールがあればミシンは見かけた。
神原さんによると、ネパール人は他人の着た服は着ない。従って古着屋という商売は成立たない。ネパール人の女中なんかに、親切のつもりで自分の着物をやることは禁物だそうだ。
〇こわいもの
ヒル 1960年のシッキム行の際、1番こわかったのはヒルだった。猛獣毒蛇にはさっぱりお目にかからなかった。 今度も1番の大敵はヒルだったが、涼しい季節だったので山の中では被害はなかった。
最初にカトマンズに入ったのは9月の中旬で、早速南郊のゴダワリへ採集に出かけた。草を引き抜いては歩いているうちに、手がチクチクするので見たら、何と手指のマタにヒルが食いついていた。相当用心してはいたがどうも見かけないので安心しかけていた所なのだ。あらためてよく見回すとそこら中ヒルだらけ。僕と原先生は2度目だからよいけれど、初めての黒沢さんはびっくりして、ヤミクモに歩き出した。立ち止まらなければたかられないと思ったらしい。しかしいくら先に歩いたってヒルは無くならない。クタビレたわりに効果はなかったようだ。
蚊 ビラトナガルは海抜200m。ガンジス平原の端っこだ。ここはヒマラヤの山々から流れ出た水が急に平地へ出るので流路が拡がり、至る所に水たまりを作る。200mと言ったって地平線が見えるし、気候は熱帯だ。したがってマラリヤをはじめモロモロの熱帯病の巣である。
われわれ3人はこのビラトナガルで、寝具なしで2晩を過すはめになった。その事情は別に書いたから略す。そのうち一晩は蚊帳もなかった。3人そろって病気にならなかったのが奇跡である。予備知識があれば決してこんな危ない真似はしなかったろう。夜通し蚊だの蛾だのその他エタイの知れない虫がワンワンたかって眠るどころではなかった。
それから1週間後、黒沢さんが高熱を出した。体がガタガタふるえ、全身の力が抜けてしまうのだそうだ。どうなることかと思ったが、幸い1週間ばかりで熱が下り、歩けるようになった。その代わり食欲が無くなって、その後1カ月は缶ジュースだけで食いつないだ。再発はしなかった。
今にして思えばビラトナガルでデング熱的なものに感染したと容易に考えられるが、当時はビラトの夜の危険について無知だったから、得体の知れない病気といささか先行に不安を抱いたほどだった。
帰路もイラムから1週間、テライのジャングルを通って平原を横切り、ビラトへ帰ってきたが、テントを持っていたし冬になっていたので蚊の危険もなかった。
ジャッカル 平原を歩いていてガウリガンジャに泊った日。夕方うす暗くなったら、あちこちで犬の遠吠えのようなうす気味の悪い獣の声がしはじめた。人に聞いたらジャッカルだという。狼か山犬のようなものだろう。襲われるから出歩くなと言われた。宿舎のすぐ前の暗やみに、緑色に光る2つの目が見える。声といい目の光といい、不気味な獣だった。真暗になる頃には声も目も消えてしまい、あたりは元の静けさにかえった。
コングレス ネパールは数年前に王様がクーデターで時の幕府政体を倒し、王政復古をやってのけた。ネパールの人々はこれを日本の明治維新と対比している。追放された人たちはインドに逃げ込み、あるいは辺境地区で徒党を組んで反政府活動を行っている。これをコングレスという。役所や役人を襲ったり、部落や通行人から掠奪したりする。政府側も武装したパトロールを常時出してそれを抑えている。コングレスと称して匪賊行ためをはたらく連中も多いらしい。政府の方もコングレスのせいにしてしまえば言い訳がつくから、そういう治安を乱す行為はみんなコングレスに責任を負わせてしまうようだ。
サニチャレからランガリにかけてはネパールの東の端で、インド国境に近いこともあってこのコングレスの横行する地域だそうだ。リエゾン・オフィサーのウパさんは、自分は中央政府の役人だから、コングレスに見つかったら命はない。何しろ役人の首一ついくらと懸賞がついているんだから。と心配していた。
荷物をつけた牛車が遅れ、村田さんと冨樫さんはそれと一緒に歩いているうちに日が暮れてしまった。部落があるのでそこで泊ろうと入ってみると人が全然いない。シェルパが言うには、ついこの間コングレスに襲われて住民が逃げてしまったのだそうだ。住民がいないのにどうしてそれがわかるか不思議だけれど、その晩のシェルパたちの警戒は厳重で、牛車は円陣を作らせ、シェルパは自分らのテントに寝ないでサーブのテントのそばに眠ったという。
[未発表]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
〔花の美術館〕カテゴリリンク