〇Herbarium の体制
Herbarium とういうものは1つの組織体として運営される必要がある、ということを、もっと真剣に考えねばならないと思った。Herbariumは現在、研究者によって運営されている。標本数10万点以上になれば、配架作業だけでも既に手に余る。その上データベース作りとなると、同等の作業量をその上に背負いこむことになる。「コストパフォーマンス」という発言をきいたように思うが「コスト」は金をつぎこめば済むものではない。いくら金があり余っていても、目的の条件に合う標本を取り出し、データベース作りに必要な調べや加工を行い、入力作業は別として、戻ってきた標本を再び元の位置に返すという作業 (これが1番厄介) は、研究者の負担となる。研究者が研究レベルを維持しながら、そういうことに更に時間を割けるほど、ヒマではあるまい。
組織体としては3つの職種がいる。事務職、技術職、研究職である。職務分担は次のようなものだろう。
事務職: 物品、金銭の出入管理。書類の管理と送受。日常事務、人事事務。設備、施設の維持管理。 技術職: 標本製作、マウント。予備同定。配架。標本の出入とそれに伴う選別と加工。標本採集。文献、資料の出入と管理、記録。機器の操作と運用。指導、教育。 研究職: 標本、文献、資料等にもとづく研究。同定。配架作業補助。外部研究者、研究機関との対応、指導、教育。標本採集。 補助員: アルバイト、ボランティア。三職種とも。 大規模な展示およびそれに伴う教育についてはここでは触れないが、それを担当する別個な職種が必要なことは言うまでもない。
Herbariumが他の標本室と最も異なる点は、ある決まった分類序列を維持せねばならないということである。したがって新たな標本ケースを設置すると、詰まった部分をそこへ分配すればよいのではなく、ドミノ倒し式に順送りに標本を移して行かねばならない。これは一度やれば済むことではなく、標本の増加につれて常に起こる。また一度取り出した標本は元の位置に戻さねばならず、これだけでも日常の作業量は大きい。このことは他の標本を扱う人なら「俺だって同じだ」というだろうし、分類学研究者でさえ、理解していない人がいるような気がする。標本資料を「整理しておく」ということは、放っておけば増大してしまうエントロピーを小さく抑え続けることであり、エネルギーを常に必要とする。一度整理すればあとは何もしないで済むと思われがちだが、「保存しておく」ことだけもエネルギーがかかるのである。必要となるエネルギー量は、標本量とたぶん幾何級数の関係にあるだろう。
技術員と研究員の知識としての違いは大してない。研究員は研究の義務があり、技術員はそれがない代わりに標本資料の整理管理維持の義務を負う。技術員の方が、分類群についての浅くてもより広範な知識を必要とする。Herbariumとしては研究員はいなくてもなんとかなるが、技術員がいないと運営できないということになる。「技術員は研究してはいけないのか」という質問が出るだろうが、技術員の専念義務はHerbariumの管理維持で、研究は義務ではないとだけ言っておこう。学芸員は折衷的な言葉でなんとなく両方を兼任させてしまい、しかも展示とそれに伴う教育まで背負いこませてしまうが、これは研究員が両方を兼務するのと同じである。私が言いたいのは、Herbariumにおける標本資料の整理維持という作業を、これだけたくさんの大きな Herbariumができた今、1つの独立した職種と認識するのがよいということにある。「どこそこの研究所で、自分の持って行ったデータを助手がすぐにデータベースにしてくれたので、たいへん便利だった」という発言があったが、これはそういうことをやる職種の人がいたということで、日本なら迷惑がられるか自分でやる他はなかったろう。出来上がったデータベースの便利さに感心するのはよいが、「すぐに出来上がった」というシステムの方に注目してほしい。
「この人べらしの時代にタワゴトを…」と言われることは承知している。実際、技術職は真先に定削の対象となってしまった。研究者をふやすため、技術職のポストも含めて副手や助手もみんな平等に研究者になってしまった。博物館では技術職は事務系の職種であるため、科博でも薄片作りや剥製作りの特殊技能者が、単なる展示課職員として吸い上げられてしまった。今更そういう技術職を要求しても、「では研究職の枠を削って作る」と言われれば、どこもOKしまい。事務職はそんな必要を感じないから、知らん顔である。それほど技術職はクライのである。給与体系に技能一点張りでは上へ行けない壁があるのと、研究職が技術職を下に見ることも原因である。唯一残っているのが司書である。Herbariumの配架法は、図書のそれと似ているのだが、司書のように誰でもその存在価値を認めてはくれないので、どうしても「そっちで勝手にやれ」と言われてしまう。同様な悩みはHerbariumに限らず、標本を扱う分野なら共通だが、その他に埋蔵文化財調査の発掘品の管理維持などの領域にもある筈だ。Herbarium問題研究会の話題にならないだろうか?
〇大学と博物館の違い
以上述べた業務分担は希望ではあるが、期待はできない。従ってデータベース作りをやるならば、研究者の従来の職務に上乗せして行う覚悟が必要である。そうなると博物館と大学では、受け止め方がちがってくるだろう。
大学研究者の業績評価において、周囲に分類学とくにHerbarium workを理解、サポートしてくれる研究者がいるとは思われない。短兵急に目に見える新規な業績をあげないと、多勢に無勢でたたかれることは目にみえているし、学生も面白がらないからついてくれない。大学の役割は研究者の育成にあるが、Herbariumの面倒をみてくれるような研究者よりも、Herbariumがあれば利用して研究業績を上げるような研究者にならざるを得ない。学会の発表でも大学の分類学研究者は少なくないが、蓄積されたHerbarium標本を使った仕事や、Herbariumの蓄積に貢献するような仕事が少ないことも、その悩みの現れだろう。標本というブツを背負いこんだ分野の宿命である。データベース作りのような息の長い仕事は、四面楚歌の大学の分類学研究者には向かない。データベースを作るテクニックの開発のような場面転換的な仕事や、分子生物学的系統解析のようなカレントトピックになり得る仕事はウケるだろうが、それを使って延々とデータを積み上げる作業は、周囲の「科学の最先端ゆき」のバスに乗っている連中からは、「いつ迄たっても同じことをしている」と非難されるだろう。いつ迄も同じことをするのが、自然誌の仕事の本領だと思うのだが…。彼らは「リストやデータベースを作った」だけでは評価しない。「そういうものからどれだけ新しい結果を引き出したか」ということを忙しく要求する。したがってリストやデータベースはできてもできなくても問題にされないだろう。Herbariumに限らず、標本資料収蔵施設が、大学の制度として存在しないことも大きな理由である。
博物館では事情がちがう。博物館の主体は蓄積された標本や資料だから、そのリストやデータベースを作り続けることは評価され得る業績であり、周囲の理解も得やすい。データベースを作れば当然他機関の資料との相互利用を意図することになるし、そうならないと一方でデータベースを作った意義が薄れる。
だから大学研究者のやりにくい、大学の標本、資料のデータベース作りを、博物館がやるということを考えたらどうだろうか。博物館が大学の標本を直接扱うのもよいし、協同作業・相互利用をうたって経費を大学標本資料の分まで確保し、作業者を派遣するなり標本を送ってもらうなりすればよい。大学が「イラナイ」というなら標本をもらってしまえばよいが、表立ってそこまで言う大学はないだろう。異分野の人でも「まだ利用価値はある」と、何となく考えている筈である。大学研究者の標本が博物館に寄贈されることはよくあるが、これは大学に属するものでなくその人個人のもので、しかも大学に残すことに信をおけないからである。博物館でさえ信をおけない人は、外国の標本室へ引き取ってもらってしまう。
〇どうやるか
データベース化の際最も厄介なのは、特定の目的の標本資料を選出して加工し、データベース化を終わったらそれを元へ戻すという作業である。後発の博物館では、標本を作りながらデータベースを作ることができるので、こういう苦労は少ない。しかし既に多量の標本を蓄積した大Herbarium(とくに大学の)では、なにかトピックのある標本、たとえばタイプ標本とか歴史的標本とか、を選ばないと、短期に成果をあげることができない。しかしそれをしようとすると、前述の大変面倒な作業をしなければならないことになる。これはほとんど殺人的な作業であり、標本の配列を乱すおそれが大きい。博物館と大学の連携作業では、その心配がもっと大きい。小出しにできないから、1回の作業量が大きくなり、人手がないから戻った標本の復帰作業はすぐにはできないだろう。
そういう面倒な作業はやめて、端から、あるいは特定のfamilyから順次無差別に取り出してデータベース化をやるのがよいと思う。こういうやり方では、最後まで終わらないと使いでのあるまとまったデータベースとならない。だから大学の仕事としてやれるとはほとんど思えない。そこに博物館が手を出す余地があると思う。自然誌の資料に「なにが重要か」という決まった評価基準があるわけではない。タイプ標本というのはある面からみた重要度であって、他の面からみればタンポポが最も重要なこともあれば、何々地域に重点を置きたいこともある。危惧種のリストが欲しいこともあれば、貴金属鉱床調査でヤブムラサキがにわかに脚光を浴びたこともある。「重要さ」は時と場合でいろいろある。その上、選択抽出してデータベースを作ったのち、別な評価基準で選択抽出するときには、「これは既に入力済みかどうか」という判定を一々やらねばならない。これは事前に考えているよりはるかに面倒で、結局そんなことを考えないで入力し、あとでダブッたデータを削ればよいということになる。つまり入力と削除それに標本の抽出と返納に、二重三重の手間がかかるのである。だから手数がかかりすぎ、標本配列を乱す選択抽出方式より、順次無差別方式の方をすすめるのである。金井(1995)に書いた、標本番号を片端からつけるという作業も、このときやれるので両得である。
「大学は何もしないで博物館が負担するのは損だ」と言わない方がよい。大きなデータベースができれば利用価値が高く、博物館の方に利益の大きい成果となる。大学はそれを利用して、新しい観点から短期的成果をあげて周囲を納得させると共に、学生の関心をHerbariumの仕事に引きつける努力をしてほしい。若い研究者を育てるのは大学の基本的役割であり、それが育たなければ博物館は研究者や技術者が調達できず、教育委員会のローテーションの場になってしまうおそれが大きい。大学は分類研究者などの不足を補うため、博物館その他外部の研究者を取り込む制度を作った。こういう交流は歓迎すべきことではあるが、反面、大学側が「分類の研究や育成は外部にまかせた」として、大学Herbarium や植物園の運営維持教育にふさわしい人員の配置や育成を省みなくなる心配が出てきたと思う。外部に依頼したのと同じ職務内容の仕事に、大学のポストを使う必要などサラサラなく、もっと「本質的な」人事を行う方に賛成が集まるからである。それに、大学が技術職を定削のターゲットにした考え方は、今でも生きているだろう。金井1994の記事は、連携大学院の実現で前記の危惧があるので、大学自体の役割を分類以外の人に念を押したかったからである。Herbariumを持っているということでは事情は同じでも、Herbariumの外部環境は博物館と大学では大いに異なる。その違いを理解した連携行動が必要である。そうしないと博物館と大学の分類研究者が、互いに足を引っ張りあうことになるだろう。
〇データベースを作ったあと
標本資料データベースを作る作業や手順については、すでに多くの先駆者の経験や成果が公表されている。またそれを相互利用する方法についても、実際に行っている人も少なくない。後発の人々は彼らの経験を伝授してもらって、比較的楽にとりかかることができるだろう。しかしとりかかるためには、コンピュータやデータ処理についてのいくばくかの経験が必要である。ハードとソフトを備えれば、今日にもデータベースができると思い込む人がときにいるが、自分のデータを持たないとなんにもならない。それが結構大変だということを知るには、先行している人のところで手ほどきしてもらうのが早道だろう。データベースが一応出来上がり、リストを作り、リアルタイム検索などさまざまな利用手段を展開したあと問題になるのは、そのメンテナンスである。データベースはいろんな形で検索してリストを作ることができるので、エラーのチェックはやり易いし、データベースを訂正することは簡単にできる。しかしながらその結果を元の標本にまで及ぼすことは大変な作業であり、そう簡単にはできるものではない。1件のデータ訂正が行われるたびに、一々元の標本を取り出してラベルを訂正することは煩雑なので、「ある程度ためてからやろう」と後回しにする。そうするとデータベースのどこを訂正したかが後ではわからないので、標本の訂正はできなくなる。逆に、標本上で行われた訂正を直ちにデータベースに反映させることも、同様にむずかしい。そうすると時間がたつにつれて、データベースの記述と標本・資料の記述に差が出来、それが大きくなってゆく。たまたまそういう違いが発見されても、データベースと標本・資料のどっちを信用すればよいのか判断できないし、そういう違いを誰が何時作ったのかを追求する手段がない。標本・資料のようなブツの場合はまだよい。刊行物に基づくデータベースの場合には、データベースの訂正と手持ちの刊行物の記事の訂正を同時に行うということが例えやれたとしても、よそにある刊行物では訂正されないので矛盾がいつか生じてくる。たとえば過去に作られた分布図の一部の点が後日訂正されていても、その後に作る人はそれに気付かず、新しい分布図に誤った点を引用してしまうことはしばしばみかける。
もう1つの問題は、データベースを交換分与していれば、あちこちで同じデータベースに対していろんな訂正が行われるので、しまいにはもはや同じデータベースとは言えなくなるだろう。現在の情勢はスタートしてから日が浅く、まだ同一人がデータベースを作り、コントロールしているので目が行き届くし、かなり職人芸的管理が可能である。しかし世代がかわり、いろんな起源のデータベースが入りまじる時代になれば、何かマニュアル的な共通のやり方がないと、データベースの信頼性にかげりが生ずるのではないかと思う。
あまり頭のいい対策は思いつかないが、データベースの訂正では、入力時のエラーでない限り、オリジナルレコードはそのまま残し、それをコピーしたレコードを追加挿入して、追加レコード上で訂正を行い、更新日時と更新者名を付加するというのはどうだろうか。それと、そういう訂正した事実を、一々印刷公表しておいたらよいだろう。こうは言っても、自分でもやれるとは思いにくいのだが…。
こうしてみると、作ってしまったデータベースを管理維持し、標本・資料との関連を保つためには、少なからぬエネルギーを要することがわかる。その仕事は研究者の手に余る。だから専業としての技術員の必要性を、ここでも認識せねばなるまい。
〇画像データベース
画像データ作成技術の進歩はすばらしい。私も文献目録を作っている関係で、それを文献や標本の画像データと連結する試みを1990年頃からテストしてきた。要するにスキャナなりカメラなりの映像素子の密度がどれくらい細かくなるかが最初の問題だったのである。最近ではカラースライドを写真なみの精度でとりこめるスキャナが利用できるようになったが、まだ問題があった。写真フィルムや紙焼きでないといけないとか、連続作業ができないとか、購入するには高価すぎるし処理時間が長いとか、まだ「これならやれる」という段階ではなかった。それに標本室で使うとなると、平面的なもののほか立体(立ったままのものという意味)も入力できないと面白くない。私はハイビジョンカメラに期待していた。
今回提示されたものは画素密度はハイビジョンをはるかに超えるもので、画像データとしては言うことはない。これで画像データベースの構築をはかるのは、大学Herbariumの仕事としてふさわしいだろう。しかし、いくつかの疑問点があった。
1つは読み込み時間がどのくらいかかるということで、作業速度の問題のほか、照明で標本の弱い部分が入力中に変形(可逆的だが)しないだろうかということである。もう1つは、この画像と、今後参入してくるいろいろな画像との互換性は問題ないのだろうかということである。
また、保存媒体としてのRAMはどんななものかということと、その普及の将来性も問題だろう。画像入力は順不同なので、ROMでは量がふえればパソコンレベルでは扱いが厄介になるだろう。これに関連して、画像の整理やアクセスのための文字情報は、どうしても必要になる。これについては質問が出ていた。
要するに画像データベースは現在発展途上であり、方向性を探る段階といえよう。パイオニアの探究はぜひいろいろな方向でやってもらい、コレという見込みをつけてほしいものだ。私はスキャナより電子カメラの発達に期待している。
ぜひともやってもらいたいのは、これ迄蓄積されたネガ (とくに白黒ネガ) の画像データベース化である。われわれも先輩達も、研究途上にたくさんの写真を撮影した、とくに標本や文献の写真には貴重なものが多いし、無意識に撮影した景色や人物も、時代がたてば記録として思わぬ価値が出てくる可能性がある。しかしそのネガはほんの一部が使われただけで、その後は持ち主自身でもどこに何が記録されているかわからないままであり、その人の手を離れたら、単なるゴミにすぎない。「では保存価値のあるものから…」といわないで、これも片端から入力するのがよい。というのはそんな価値判断をするためにはネガを引き伸ばして読まねばならないので、誰もやれない。入力するだけなら半自動的にできるだろうから、画像になってから取捨を判断する方がずっと能率的である。おそらく取捨をする必要はあるまい。何が撮影されているかを判読して整理のための文字情報を付加するだけだろう。こういう作業を延々とやるためにも、それに専念できる技術職が必要だと思う。これも標本整理と同様、植物分類学の専門知識が必要なのである。
[日本植物分類学会Newsletter(83):11-15(1996)]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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