Dr. Takashi Tsuyama(1910-2000)
2000年10月16目早朝、腸疾患に伴う心不全のため急逝された。津山尚博士は1910年11月9日のお生まれ。広島高等学校から1934年東京大学理学部植物学科を卒業、大学院を経て1939年助手、1941年資源科学研究所研究員、1946年日本女子大学助教授、1950年お茶の水女子大学教授、以後65才の定年退職までその職にあった。また、遅くとも1952年(それ以前は編集者の名が記されていない)から1995年の間植物研究雑誌の編集員、1975、1976年には日本植物分類学会会長として、わが国の植物分類学の発展に寄与された。
博士の研究フィールドは小笠原諸島にはじまって、ミクロネシアから東亜熱帯圏におよび、第二次大戦前は中国、南洋群島、ニューギニアと調査の範囲を拡げておられたが、敗戦によって志を絶たれた。原爆で多くの肉親を失ったことと共に痛恨事だった。しかし熱帯圏調査の意欲は失わず、1955年にはタイから単身インドシナに調査旅行を行い、しばらくの間消息不明を伝えられる熱意を見せておられた。東京大学のヒマラヤ植物調査には、第一次(1960年)のシッキム、第二次(1963)の東ネパールに参加され、東部ヒマラヤのフロラ研究に協力された。植物群としてはラン科をとくに多く扱われ、1970年代からはツバキ属を集中的に研究された。資源植物事典(1949)にも、多くの分担執筆がある。また、日本植物分類学会選定の「科の和名」は、津山博士が作られた原資料を出発点としたものである。
津山博士は私にとって師とよぶべき年齢差があるのだが、博士は「先生」と呼ばれるのを好まなかったし、私の方もなんとなく仲間的感覚でおつきあいしていた。それほど気分的には若者だった。だから以下は津山さんと呼ばせていただく。
私の津山さんについての強烈な印象は、1960年の第一次ヒマラヤ植物調査に始まる。そのときまでは大したおつきあいがあったわけではない。分類研究会という会合があって、ときどき顔を合わせてはいたが、学生の私には、議論に加われるような力はとてもなかった。たまたまほとんど初顔合わせの2人が通関の仕事を担当し、カルカッタの安ホテルで村田源氏と3人で40日を同じ部屋で過ごすことになったのだ。帰りの通関でも1ヵ月ほど同室した。それに加えてシッキムの山中では、物質のやりくりの都合で、2人は1週間ほど同じテントに寝た。だからご家族をのぞいては、私は津山さんと最も長く一緒に暮らした人間だと思っている。
津山さんは片時もじっとしていなかった。炎暑のカルカッタでの通関事務は、迷路のようなお役所や広い港のドックヤードを、書類を追ってグルグル歩きまわる退屈な作業で、ホテルに戻るとクタクタである。初体験で要領がわからないから無理もない。それなのに津山さんは少し時間ができると、市内のあちこちを見てまわったり、大学の研究室を訪ねたり、タクシーをやとって郊外の植物採集に出かけたりするのだ。インドではそういう時間が結構あった。連休にぶつかったときには、体調がわるいにもかかわらず泊まりがけの旅にでかけた。ところが帰途は切符がとれず、駅長と日印国際交流の意義にまで及ぶ大論争をやったあげく、座席を獲得した。議論好きのインド人も、津山さんの勢いにはかなわなかったのだ。マッチは不要というヘビースモーカーで、絶えず煙を吹き出していて、隊で用意した煙草はほとんど津山用となった。晩年には断煙しておられたが…。そもそもこんなに手間どったのは、通関事務の何たるかを知らない私が作った書類が役に立たなかったことに原因があるのだが、津山さんはそれについて一言も口にしなかった。
やっとのことで通関が終わり、津山さん、村田さん、私の3人でジープを駆ってダージリンまで700キロを走ることになった。前夜、邦人宅に招ばれて通関打ち上げのお祝いをしてもらったのだが、津山さんは安心したのか、大して呑まないのにダウンしてしまった。慣れない通関の仕事疲れで、体調を崩していたのだ。調査の日程からいって1日も無駄にできないので、車の後席にかかえこみ、走りだした。ところが彼は、フラフラのくせに沿道の景色に目を光らせ、少しでもかわった植物が目に入ると「止まれ!」と大声で叫ぶのだった。こちらも勉強になるものだから、はじめのうちは一々つきあっていたが、気がついてみたら半日たっても予定の1/3も消化していなかった。以後は彼が疲れて眠り込んだのを幸い、距離をかせいだ。夕方になると役人の宿泊施設であるダクバンガロウに乗り付け、チョキダル(番人)に話しをつけて泊まりこんだ。本当は前もってカルカッタで政府の観光案内所に申請して、許可証をとっておかねばならないのだが、これも津山さんの堂々たる態度と弁舌のたまものだった。ダージリンまでの4日間は、熱帯植物にくわしい津山さんのおかげで、いろいろな植物を観察することができた。
調査行は雨期が始まっていて、ほとんど毎日ショボショボと雨が降った。津山さんは相変わらず探究心旺盛で、丹念なノート付けと写真撮影のために、隊の行動予定と合わなくなることがときどきあり、隊長の原寛先生と調整の談合をやっていた。2人は1才違いの同期生で、お互いに気心の知れた間柄だったので、日本でやるのと同じ気分の議論だったのだろう。私にとってそれを傍観することは、はじめての海外調査のテンションで、自閉的になるのを和らげるよい薬だったのだということを、後になって気づいた。津山さんは、わざとそういう機会を作ってくれていたのかも知れない。
近頃は、原稿のワープロ化の一部を私が引き受けていたので、電話でお話しすることがときどきあったが、自分がやりたい課題を次々と口にされ、止まるところを知らなかった。他の方々にも、様々な抱負を語っておられたという。私も、津山さんのような戦前の世代でしか知らないいろいろなことを、是非とも文章に残すよう煽動していた。日本植物分類学会50年の歩みに書かれた「遠いあの頃の思い出」は、この線に沿った序章だったのだ。最近では、あまり顕彰されていない植物研究者の評伝を書くのだと、資料を集めておられたようだが、不発に終わってしまった。
前日まで平常の生活だったが、不調を訴えてからわずか9時間だったという。故人の固い遺志で、葬儀はごく近親者のみにより無典礼で行われた。何ものにもとらわれず、自由に生きた津山尚博士89歳の、颯爽たる退場ぶりだった。
[植物研究雑誌76(1):56-57(2001)]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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