辞書に出ている意味はともかく、われわれとシェルパの間では、壊れる、無い、無くなる、終る、死ぬと行った意味で使われた。旅行中どんなものがフィニッシュしたか記しておく
[1963年東ネパール調査の話で明治屋『嗜好(424)』を加筆修正]
〇失せ物が出た話
インドへ行ったら持物に気をつけろといわれた。着いた日の晩、町を散歩したら、津山先生が早速万年筆をやられてしまった。僕はしばらく何ともなかったので安心していたが、慣れてきてはじめて市電にのったトタンに、ボールペンを抜かれてしまった。シャクにさわるからその次からキャップだけポケットにさして歩いたが、二度と抜かれなかった。戸棚でもトランクでも弁当箱でも電話でもカギをかけることはもう話した。その後の観察によると、車できて店などに入る場合、彼らはたとえ鍵を持っていなくても、錠がこわれていても、鍵をかける真似だけはする。ホテルのテーブルの上なんかに何かを置き放しにしておいても、すぐにはなくならない。ボーイが掃除にくるたびに少しずつ机のすみの方に移動させて行って、ついに床に落ちると拾ってポケットに入れるのだそうだ。ホントカネと言いたくなるが、行ってみると本当みたいに思えてくる。初めてカルカッタについて、長くインドに住んでいる邦人の車で見物していて、ちょっと窓を開けたまま外に出たら、たちまち席に置いたカメラがなくなった。その人が近くに立っている男に心当たりがないかときくと知らんという。見つけて来たら金をやると言ったら、どこからかカメラが出てきた。これは本当に経験した話。
朝早くカルカッタのホテルを出て飛行機でデリーに向った。原先生と黒沢さんと僕の3人。航空会社での待合所に入って少ししたら、原先生がカメラがないことに気がついた。室を出るとき肩にかけてきたのだから、ホテルの玄関かタクシーの中に置き忘れたにちがいない。後者の方が可能性が高い。モハヤ絶望である。万一ホテルに忘れているのなら、われわれのホテルは小さいし、ボーイも割とコスカラクないから、あるいはとってあるかも知れないと電話をかけてみる。いつも夜、門のそばの小屋に坐って番をしている老人が出て来た。今朝もその男がタクシーを呼んで来て、送り出してくれたのだ。カメラは室にも玄関にもないという。タクシーに忘れたとなるととても出て来る見込みはない。あきらめてデリーに発った。
10日間デリー、カトマンズと回ってまたカルカッタに帰ってホテルに戻ったら、驚くなかれカメラが見つかっていた。かの門番がタクシーのナンバーを控えていて、それを頼りにタクシー組合の会長を通じて探してもらったのだそうだ。指名で手配されてはタクシーの運チャンもネコババすることができず、カメラをさし出したわけだ。インド滞在中の大事件は、第1回のときは全学連の安保闘争、第2回のときはこのカメラ再発見だった。それにしてもあの門番の老人は、ただボンヤリ坐っているだけかと思ったのだが、タクシーのナンバーを控えるような芸の細かいことをやるとは知らなかった。あらためて見直した次第である。
〇通関書類、フィニッシュ
ネパールへ送る荷物はカルカッタ税関で封印され、インド・ネパール国境で両国の税関吏が封印を確認した上でネパールに輸入を許される。それに必要な書類は同じものを3部作り、1部を本人が持ち、2部はカルカッタ税関から国境のインド税関に送られる。
国境の町ジョグバニへ着くと、何はさておき税関に行ってみた。インド税関のデューバイ氏は鬼瓦のような顔の大男、荷物は航空貨物できているが、書類はまだきてないという。われわれの持っているべき書類は、カルカッタの通関業者に預けたきりで、手元にはない。われわれ先発の3人は是非とも急いで荷物を手に入れる必要があった。日本にいてはとても想像がつかない理由からである。ジョグバニとそれに隣接したビラトナガルは、ネパール第1の工業都市であるのにホテルがない。インド式ホテルはあるにはあるけれど、あんな所に泊まれやしないよとインド人に言われた。それで県知事のゲストハウスに入れてもらったのだが、鉄筋コンクリート2階建、水洗便所完備のゲストハウスにふとんも蚊帳もなく、室内にはベッドの木枠があるだけだった。インド人もネパール人も、旅行には自分の寝具(beddingという)を持って歩くのが常識であるらしい。ネパール最大の工業都市だから、われわれの泊れるくらいのホテルはあるだろうと思ったし、ましてや寝具のことなんか考えもしなかったわれわれは、とんだ常識はずれだったようだ。こういうわけで荷物に入っている寝袋やテントがどうしても必要になってきた。しかし書類がこなくてはどうにもならず、とうとう2晩をマラリヤ蚊のブンブンうなる中で蚊帳なしで床にゴロ寝というみじめなことになってしまった。夜の9時か10時までなら、天上扇が回っているので、暑さも虫もなんとか凌げる。ところがそれ以降は全市が停電してしまうので、どうにもならない。日本でなら、カルカッタに電話をかけて、通関業者なり税関なりに言えば、すぐに送ってもらえると考えるが、実際にそうしたのだが、電話がつながらないのである。
ゲストハウスのマネージャーは知事の甥の若造だった。昼間「寝具はすぐに届ける」と請け合ったのに、夜遅くになっても何もこない。街へ出て店を探したが、日本だって寝具を貸す店などそう簡単には見つからない。彼が街角で友達と談笑しているのを見つけた。大分呑んでいる。「どうなってるんだ? 」と尋ねたら「こんな夜更けではどうにもならない。明日必ず届ける」とケロッとしてのたまう。そのつもりで1晩は我慢したが、次の夜も同じだった。
デューバイ氏は親切な人だった。いつまでたっても書類がこないのでわれわれの窮状を訴えると、彼は日曜日を割いてジープで3時間ばかり離れたプルネアの町の上司のところに行って、特別の許可をもらってくれた。これも「アンタが車を調達してくれるなら」という条件つきだった。別項で書くけれど、これは難事だったのである。僕はそんなことは知らない。とにかくあの若造に頼むのはやめにして、知事に直接かけあって、彼が使っているジープを提供してくれと申し入れたところ、簡単にOKとなったのである。こうしてわれわれの苦行も2晩で終りをつげ、次の晩からは庭にテントを張って、昨日とは天地の差の寝心地を楽しんだ。寝床がなければ室の中も外も変わりはないのだから、折角入れてもらったゲストハウスも全然ありがたみがなかった。
インドでは書留でも無くなることがよくあるんだそうだ。
〇リエゾン・オフィサー、フィニッシュ
リエゾン・オフィサーというのは政府派遣の連絡官で、登山隊には必らずつけられる。通訳の仕事もするし、風俗習慣の違いから思わぬトラブルが起こるのを未然に防ぐ役目もする。政府のお目付け役も兼ねることは言うまでもない。御本人にとっては外人ばかりのパーティーの中で何ヶ月も生活し、普段ではとても考えられない困苦欠乏に耐えねばならないのだから決して楽ではなさそうだ。その代り、公務から離れてエキストラの給与と支給品が手に入る。
われわれは最初ダージリンからネパールに入るつもりで、ウパディヤ氏(これがリエゾンオフィサーの名)とはダージリンのホテルで落ち合う手筈にしてあった。なぜならば、ダージリンからのコースがわれわれの目的地への最短距離であり、ネパール国境まで自動車で行けるという好条件を具えているからだった。それに、このコースは外国人がネパールへ入る通路として、インドとネパールから指定されたものの1つなのである。ところがインド政府はこれを許可してくれない。大使館を通じて聞かされた理由は、「ダージリンからのコースよりも他のコースの方が、ネパール国境に達する道が良いから」というものだった。これはデタラメである。それに、別なコースをとると、ネパールに入ってから目的地まで、ずっと日数がかかる。こんなわけのわからぬ理由を言う方も言う方だが、それを受け売りする日本の外交官もちょっといただけない。インド政府は国境紛争でずいぶん頭にきているらしい。
というわけでわれわれはダージリンをあきらめて、ものすごく遠回りなビラトナガルから出発しなければならなくなった。荷物も、インドで受け取ってダージリンまで陸送する予定だったのを、急遽チャーター機でネパール領のビラトナガルに送ることになったのだ。シェルパたちもウパディヤ氏もすでにダージリンに向って出発した後だ。急いでそこのホテルに連絡して、彼らが現れたらビラトナガルにくるよう伝えてもらうことにした。
さてビラトナガルにきてみたら、シェルパたちは揃っているがウパディヤ氏は来ていない。何かの都合で遅れてるのだろうと思ったが、1週間滞在しても現れない。とうとう待ち切れずに出発してしまった。
出発してから5日くらいたって、彼はダンクタでヒョッコリ現れた。聞いてみると、ダージリンの指定されたホテルに行ってそこの主人にたずねたけれど、何も教えてくれず、10日以上も待ったあげくあきらめて、カトマンズに帰ったらわれわれの手紙がきていて、すぐかけつけたのだそうだ。ダージリンのホテルの主人は前から知っている人で、われわれはそこにコースが変ったから誰かきたら教えるように連絡しておいたのだ。これも手紙が届かなかったのかも知れない。
〇ミソとストーブ、フィニッシュ
ある日、シェルパがストーブが1つ足りないと言い出した。ストーブとはいわゆるラジウスのことである。さらにミソの缶も無いことがわかった。連中はこういうことには商売柄敏感で、品物の数なんかは案外よく憶えている。ましてストーブは誰もが欲しくてたまらない物だから、数が揃わなければたちまち気がつく。シェルパたちは人夫を集めて問いただしはじめた。誰も返事をしない。ウパディヤ氏が騒ぎを聞いてやってきた。彼の考えではどうも人夫の誰かが失敬したらしく、シェルパたちも同じ意見だという。彼は人夫を集めて何やら演説をはじめた。彼らの神にかけて、同邦のほこりにかけて、ネパールの名誉にかけて、心当たりの者は申し出るよう訴えたのだそうだ。誰も何とも言わない。それならポリスを呼んできて調べてもらうぞとつけ足しておいて引き上げてきた。こういうことを放っておくと、フィニッシュ事件が頻発するおそれがある。
あとでウパディヤ氏が話したところによると、人夫の1人がやってきて、「今日、途中で滑って転んだので、その時ころがり出たかもしれない。これから行って探してくる」と言うので、「見つけたらサーブ(われわれのこと)に頼んでチップを出してもらうから」と行かせたそうだ。夕方その男はストーブとミソを持って現われ、チップを獲得した。落したのを見つけてきたとはもちろん誰も思わない。彼の妹の家が近所にあるので、そこに隠しておいたのだろうというのが一致した推測だった。ウパディヤ氏は、われわれが「王者の寛容」を示したのだから、彼はそれにふさわしくザンゲをすることを期待したらしい。
翌日になってもその人夫が何も言ってこないので、ウパディヤ氏は怒りだした。彼は30分も歩いた部落からポリスを呼んできて、真相調査にかかった。われわれ日本人の考え方からすると、ポリスを呼んでくるということは人間関係の破綻した時の最後の手段で、そういう手段をとった後は、お互いに雇傭関係を続けることがむつかしくなると思うのだが、彼らの常識ではそうではないらしい。必要とあればポリスを使ってでも糾明するぞという構えを見せることによって、その男は真相を吐くだろうし、今後二度とそういうことを企まなくなる、そのうえ他の人夫たちもこれはあまりウカツなことはできないと感じるだろうというのだ。なぜならば、もし公務員、それも中央政府直属の、であるウパディヤ氏が文書でもって告発すれば、ポリスは彼を捕らえて、自供がなくても6ヶ月はクサイ飯を食わせることができるし、文書でなくて口頭でポリスに伝えただけでも、ポリスが必要と認めれば2-3ヶ月はブチ込むことができるのだそうだ。
そういうわけで、その男もとうとう自分がかくしたことを自供し、謝ったので事件は片付いた。われわれが「王者の寛容」を示してポリスに事件を不問に附するように頼み、その男には今後も人夫として雇ってやると約束したことは言うまでもない。実を言うと人夫を新しく雇うのは中々面倒だったからだ。面白いのは他の人夫の反応で、連中はまわりに立って成り行きを見守っていたのだが、事が終わったらもうそのことに何の関心もないようだったし、それから後もその男を特別な目で見るような気配は全くなかった。その男も次の日から全然変わりなく振舞い、なんら悪びれるところがなかった。僕はあれは別に悪いことではなかったのではないかと錯覚したくらいだった。
〇スペース、フィニッシュ
山の中の郵便局に寄った。郵便局というと聞こえはよいがただの農家、そう教えられなければわからない。誰もいないからしばらく待つと、はるか下の畠からおかみさんが帰ってきた。切手は弁当箱ほどの木箱に大きな鍵をかけて、寝床の中にしまってあった。日本行の航空便は1ルピー20パイサ(1ルピーは100パイサ)。そんな大きな切手はないという。手の内を見せてもらったら10パイサと5パイサが3・4枚、あとは1パイサと2パイサばかり。これでは貼りきれないと言ってたら、ウパディヤ氏になぜ裏側を使わないんだと言われた。ネパールでは切手は封筒の裏面にシール代わりに貼られているのがよくある。そこで宛名以外の空いている所に裏表ベタ一面に切手を貼ったら足りるかと思って、切手のシートの上に封筒をのせてみたりしたが、それでもスペース不足。とうとう手紙は出せなかった。
〇チニ、フィニッシュ
チニとは砂糖のこと。街道筋にはたくさん茶屋があって、ミルクとチニをタップリ入れた紅茶がのめる。ときどきコショウの入ってるのもある。チベットに近い所ではミルクとチニの代りにバタと塩が入るそうだ。ビラトナガルの町では砂糖は特別許可がないと買えないというので驚いた。知事に聞きに行ったら本当だった。砂糖はみんなインドからくるので浪費を防ぐためだそうだ。そのくせどこでも砂糖入りの茶が飲める。日本の主食統制令みたいなものだろう。
われわれ7人の隊員に対して1日500gのチニを用意して行った。チニの用途は3度の食事の時の飲物くらいなものである。ところがコックからチニが少ないと苦情が出た。ジャパニーズ・チニは甘味が少なくてインディアン・チニよりずっとたくさん使わねばならないそうだ。砂糖に甘いのと甘くないのとがあるというのは変な話だが、要するに日本のは精製度が高いので、不純物が多い(と言っても多少灰色がかった程度)インディアン・チニより味が淡白になっているのだ。以前カトマンズでソ連の砂糖が売られた時も、甘味が少なくて値段が高いのであまり売れなかったという。その上連中の作る紅茶は随分甘ったるいもので、彼らの味覚を満足させるだけチニを入れたら足りなくなるのは確かだ。もっともあちらへ行くとエネルギーの消耗が激しいので、われわれもコックの作る甘い紅茶でちょうどよかったのだから、チニ不足は彼らばかりの責任でもない。しかし隊を半分に分けて別行動をした時に、500gのチニを1日と少しで使われてしまって驚いた。サーダーが能無しだったから、横流しされたのかも知れない。チニを買いたくてもなかなか売ってる家がない。ついに氷砂糖をとかしてシェルパと分け合ったりしたものだった。ヒマラヤの旅には日本の砂糖よりインディアン・チニの方が向いているらしい。
〇サーダー、フィニッシュ
われわれのサーダーはトプゲイという男だった。サーダーというのはシェルパ頭のことで、シェルパや人夫の指揮をとり、隊の運営に必要なあらゆることをとりしきる。エクスペディションが成功するかどうかは、良いサーダーを得るか否かにかかっていると言われるくらいだ。ネパールに遠征する隊は、カトマンズにあるヒマラヤ協会(Himalayan Society)からシェルパを雇うことを義務づけられる。トプゲイももちろんそこから、若いがきわめて優秀で英語もよくできるというふれこみでサーダーに紹介されたのである。
ビラトナガルで彼に出会ってみると、29歳という年にしてはやけにジジムサイ小男だった。顔つきとの能力は別物と思っていると、その内に彼はシェルパを代表していろいろな要求を持ち出して来た。いずれも金を出させようとする下心で、彼らのシェルパ組合の規定にない要求が多かった。それにうまいはずの英語もこっちの言うことは3分の2以上わからないし向うのいうことは半分くらいしか意味がつかめない。要求が通らなければシェルパたちは帰ると言っていると脅かすので、いろいろ議論したあげく金をやって納めた。さて歩き出してみると、彼はコースの知識が全然ないことが第1日からわかった。半日行程のところを1日かかると言ってみたり、途中で買えばよいのに全行程の食料を出発前に買おうとしたりおまけに人夫の指揮が全くできない。われわれは、登山隊のようにベースキャンプへ直行するために歩くのではなく、歩きながら採集するのが目的だ。毎日の採集量は莫大なもので、時によると人夫を新しく雇わねばならぬ時もある。しかも荷物の仕分けが済むのは夜遅くか翌朝になる。サーダーは人夫の数と荷物の量をにらみ合せて不公平が起らぬように手配する必要がある。ウパディヤ氏が言うところでは、彼はそれをやらないで、ただ口ぎたなくドナリつけて背負わせてしまおうとしているという。なだめたりすかしたり、適当にサーブに酒手をはずませたりして人夫をコントロールする方法を知らない。だから人夫になめられる。俺の荷物は重いぞなんて言われると、彼は調べても見ないでわれわれに「あなた方があんまり採集するから、ごらんなさい、あの人夫の荷物は100kgもあります」なんて口から出まかせを言う。そのそばを明らかに20kgそこそこの荷物しか持たない人夫が通っていく。彼らの規定量は平均30kgだ。初めはこういう不手際を、彼がはじめてサーダーをやるためだろうと好意的に考えていたわれわれも、次第にこれはひどい奴をつかまされたワイと思い始めた。と言ってクビにしてしまうとシェルパが手不足になるので困る。
その内にシェルパから苦情が出てきた。シェルパの食費はこちら持ちで、われわれはそれをまとめて何日毎かにサーダーに渡していた。ところがシェルパの方は米も茶も野菜も不十分だし、砂糖だのバタ、卵、ミルクなんかは全然支給されていないのだそうだ。彼らははじめ、われわれが金を十分出していないと思ったらしい。トプゲイは食料不足の理由をそう説明したものと見える。そこでわれわれがトプゲイに渡した金額を教えてやると、シェルパたちはビックリした。われわれもはじめて事のしだいを知ったのである。トプゲイは預かった金の多くを着服していたのだ。食物のうらみは恐ろしい。トプゲイは全部のシェルパからつるし上げられる羽目になった。彼氏なかなか頑強で自分の非を認めなかったけれど、証拠は歴然、誰も彼を助ける者はなかった。こうしてはからずもケネディー大統領暗殺の日に、彼も実質的にサーダーの地位を失った。
こうなってはいくらシェルパが手不足でも、有害無益なトプゲイにはお引き取り願うより他はない。幸い彼の家に2日行程というところにきていたので、サーダーの給料を払ってフィニッシュしてもらった。それから後は今まではトラブルをただ傍観していたシェルパたちは、がぜん積極的に働き出し、ほとんど毎日なんらかの形で起っていたゴタゴタはピタリと影をひそめてしまった。
このときフィニッシュしたのはトプゲイだけでなくて、女シェルパのミンマラモも一緒だった。われわれのメンバーには女性が1人いたので、男のシェルパではやりにくかろうと特に女シェルパ(シェルピニという)にきてもらった。それがミンマラモである。
ところが旅行がはじまってみると、ミンマラモはシェルパとしての心得も体力もないことがわかった。おかげで黒沢幸子さんは、シェルピニに背負わせるつもりでいた荷物を自分で背負ったり、原隊長やそのシェルパに頼まねばならなくなった。強いてシェルピニに背負わせようとすると、サーダーのトプゲイがとんできて、「レディに重荷を背負わせるなら俺が持つ」と持って行ってしまう。トプゲイは隊と一緒に歩かないから、道中に必要な荷物を持たせるわけに行かない。持たせたとしても、どうせ自分は背負わないで人夫に押し付けるのだから、どこにまぎれ込むかわからない。いやにフェミニストな男だなと思った。
その内に夜、トプゲイとミンマラモが1つのテントに寝ていることに気がついた。シェルパの女性は勇敢で、人夫の中にはじめから終りまでついて歩いた女ポーターがいるのだが、このオネエチャンは夜は10人位の男のシェルパや人夫のいるテントで平気で雑魚寝している。男と一緒になってロキシー(焼酎)を飲み、酔っぱらって喧嘩となると彼女が1番強くて、男どもをブッとばす。だがトプゲイとミンマラモは小さなテントに2人水入らずである。彼女を紹介する時トプゲイは、「シェルピニのミンマラモです」と言っただけで、「私のワイフです」とは決して言わなかった。それに彼女が持ってきた紹介状にも、紹介者の従兄の妻君と書いてあるだけだった(実はこの従兄なる者がトプゲイだったのだが)。そんなわけだから僕なんかは、2人は旅先で意気投合したのだと思っていたのだが、それが誤解であることはシェルパやウパディヤ氏の話ですぐわかった。この2人はレッキとした夫婦なのだ。それもトプゲイの方が尻に敷かれている模様である。ミンマラモはシェルパとして当然彼女自身がせねばならぬちょっとした仕事、たとえばテントの紐を張るとか、サーブの荷物を袋につめるとか、でも「トプゲイ!」とどなる。するとトプゲイがとんできて、サーダーの仕事はそっちのけでやってやる。彼女は立って見ている。フェミニストもいいところだ。
こんな具合だから、トプゲイがつるし上げられたとき、彼女もそれに一役買っているだろうと見られた。彼女の方が主役だという説もあったくらいだ。似たもの夫婦と言うけれど、こうも役立たずのカップルも稀だろう。
シェルピニがフィニッシュして1番得をしたのは黒沢さんである。原隊長のシェルパのノルブが2人分働いたのだが、何事にもよく気づくノルブの世話は、彼女にヒマラヤの旅でのシェルパのありがたさをぞんぶんに味わせた。
〇ポーター、フィニッシュ
われわれが旅行を始めたころは10月の下旬で、10日連休という、年間最大のダサインというヒンドゥー教の祭の季節だった。この時期には人々はみんな自分の故郷に帰って祭を祝う習慣なので、人夫になり手がない。やむを得ず割高の賃金を出してかり集める結果となった。はじめに賃金を高くしてしまったので、その割合が最後までついてまわり、それに伴ってシェルパの給料も規定よりよほど高く払わねばならず、われわれの予算の大部分は賃金に食われてしまった。こうして集めた人夫も、人集めをしにくいわれわれの足元につけ込んで、何や彼やと文句を言っては余分の金をせしめようとする。サーダーが不出来でちっとも人夫をコントロールできないものだから、大てい毎日何かゴタゴタが起った。おまけに悪いことに11月になっても季節外れの冷雨に見舞われた。この辺では秋から春にかけては、雨はほとんど降らないとされているのに。
文化の日の翌日、この日は東ネパールではじめてカワゴケソウという苔のような珍らしい種子植物を発見したので、一同大いに機嫌を良くしていた。午後になって雨がかなり降り出した。日が短くて、5時半頃には暗くなってしまうので、先行のメンバーは2時か3時には止ってキャンプを張ることになっている。われわれはカワゴケソウの所で写真をとったりして人夫たちよりはるか後にとり残されていた。3時頃小さな部落にさしかかると、人夫のほとんどが雨宿りしている。サーダーもいる。彼が言うには「人夫達は、次の部落まで2時間もかかり、道が悪いのでこの雨では今日中につけないからここで泊まりたいと言っている。どうしましょう」。他の隊員はと聞くと、先に行ったという。隊員が先に行っていて荷物が残ったのでは今夜のキャンプはどうすると聞くと、「アイドントノウ、人夫が行かないというのにどうして行かせることができますか?」とケロッと言う。「お前はサーダーだぞ、お前が人夫を指揮するのだ、俺達は先に行ってみんなで待っているから」と言い捨ててサッサと通り過ぎた。僕の判断としては、この附近は耕作地帯だから、次の部落まで2時間もあるとは思えない。人夫は雨を幸い坐り込んでゴネて、チップでもせしめたいにちがいない。案の定、次の部落までは40分しかかからず、道も悪くなんかなかった。
田圃のふちの、草屋根で三方吹きぬけという稲置場で一同待ったが人夫はこない。しっかりしたポーターがいて、テントだけは到着しているのだが、寝袋など個人装備は何もない。とうとうシェルパ達が前の部落まで戻って、寝袋を背負ってきてくれた。高度はまだそんなに高くないけれど、11月ともなればさすがに冷え込む。僕のテントだけが来なかったので、厚着をしたくても着物が来てない。僕はその掘立小屋の2階、と言っても床は木の枝が並べてあるだけで四方吹抜け、にシェルパと一緒に寝てみたが、四方ばかりか床の下からも風が通る。夜中に5回も小便に目がさめた。隣ではシェルパ達が鮨詰め状態で気持よさそうに眠っている。やはりわれわれとは体の作りがだいぶ違うことを思い知らされた。
〇道路とジープ、フィニッシュ
われわれの目的地はネパールの東端にあり、従ってインドのダージリンから入ってまたそこへ戻るのが1番楽なコースなのだが、インド政府がこのコースを許可しない。やむを得ずビラトナガルから歩きはじめて、山を回ってイラムに出てくるコースをとることになった。イラムはネパールで1番東にある県庁所在地で、ここからダージリンまでは2日しかかからない。しかしわれわれはイラムからビラトナガルへ戻らねばならない。それには山を下りて猛獣の横行するというテライのジャングル(「ジャングル」はこのあたりの森林の現地名)を抜けて、インド平原の端を西行してビラトナガルに達するコースと、イラムから尾根伝いに西行してダンクタに達し、それから南に下ってビラトナガルへ至るコースと2つある。カトマンズに滞在中、イラムとビラトナガルの間のコースの状況を聞きだそうとしたが誰も教えてくれる人がない。歩くとどちらのコースでも6日くらいかかるということはわかった。しかし自動車が使えるかどうかとなると誰も知らない。大体、ネパール人がイラムに行く時には、カトマンズから南下してインドに出て、汽車でダージリンへ行き、そこから又ネパール領に入ってイラムに達するのが常道である。ネパール人とインド人は、お互の国に出入りするのにビザを必要とせず、国境通過に制限がないのでこういうことができる。外国人であるわれわれは、ネパール側は文句はないらしけれど、インドがものすごくやかましいので、とてもこんな器用なことはできない。どうしてもネパール領内を通って行かねばならない。地図をみると「motorable road」がビラトナガルから東へ、イラムの南のサニチャレまで達している。そこまで車で行ければ、イラムまでは徒歩で2日くらいだろう。「地図に車の通れる道が書いてあるが…」と持ちかけてみたら、「それは良い季節の時だけで、今はダメ」という返事だった。6月から9月までは雨期で、道路の状態が悪く、雨期が明けても修理が出来るのは冬になってからだという。けれども冬になればイラムまで「jeepable」になるという話をきき出せたのは収穫だった。イラムへ先に入るか後まわしにするかと迷っていたわれわれは、ここに至って、まず山を回ってから12月頃になってイラムに着き、そこからジープでビラトナガルに帰るという予定を決めたのである。
12月のはじめ、われわれはイラムにたどり着いた。われわれは町に着くまで、そこからジープに乗れることを疑わなかった。誰に聞いてもそれを否定する人はいなかった。町の人に「ビラトナガルまで何日かかる?」と聞くと、「3日間」という返事なので一層安心した。ところがわれわれはジープに乗れなかった。県知事のところにジープは1台あるけれど、それの通れる道はないのである。かつての日、このジープが登ってきた時には道が作られていたにちがいない。しかしその後、道路は荒れるにまかされ、ジープは山の上に島流しになってしまったのだ。イラムから下る途中、われわれはその立派な道路の痕跡を所々に見ることができた。先のビラトナガルまで3日間というのは、ダージリン経由の日数だった。ビラトナガルへ行くのに、ダージリンを回らないで行くとは何たる物好きぞ、と言わんばかりにその人は僕をみつめたものだった。知事の話では、ここから2日南へ下ると平野の端のサニチャレに出る。そこからなら自動車が行くだろうということだった。地図の「motorable road」の終点のことである。
われわれは3日かかってサニチャレに着いた。「自動車は?」「とんでもない。あと2日歩いたガウリガンジャの町なら多分見つかるでしょう。」イラムの知事は自分の縄張りであるここのことすらわかっていなかったのだ。
見わたす限り稲田ばかりが続く平野を、西へ西へと歩いた。太陽は地平線から上り、われわれの顔を真正面から焼きながら地平線に沈んだ。大きいのや小さいのや、いくつもの川を渡らされた。みんな徒渉である。幅が200m以上もありそうな川でも、深さはせいぜい膝までである。川底は微粒の砂で、ゆるい流れなのにそれがどんどん流されて行く。自動車がこられないのは、こういう川を渡れないためなのだ。川と川の間の道は何ともなっていない。
サニチャレから2日の後、ガウリガンジャに着いた。前もってビラトナガルの有力者に、車をよこしてくれと電報を打ってあったので、今度こそはと思っていたのに、待っていたのは1通の手紙だった。もう1日歩いてランガリまで来てくれれば、ジープを用意できると書いてあった。ランガリとビラトナガルの間は歩いても1日の距離である。これではニンジンにつられて歩いている馬みたいなものだ。下手をするとビラトナガルまでニンジンにありつけないかも知れない。
あとで話すが、ここへ来るまでに、ブルカーフィニッシュという事件があって、村田さんと冨樫さんが遅れてしまったので、僕は残って待つこととし、あとの3人は一足先にランガリに向った。
次の日の昼頃、われわれがランガリにつくと、先着の3人は入れ違いにジープでビラトナガルに出発したところだった。そしてその日の夕方、待望のジープがわれわれを迎えにやって来た。運転手は、今日はもう遅いので、明朝6時に来ると云って彼の泊り場に引上げて行った。遅いと言ったって午後6時で、自動車が夜道を走れないわけはない。何故明日にしたのかわからないけれど、われわれも標本の整理に忙がしかったので明日の方が好都合だった。
次の朝、6時になっても車は来なかった。1時間や2時間待つことはこの辺では別にとり立てて気にする事件ではない。今すぐ来ると言っといて1日待たすことだって一再ならずあったことだ。だが僕のビザはあと5日で切れてしまうので、1日も早くカトマンズで延長の手続きをしなければならない。8時半になっても来ないので、シェルパに見にやらした。エンジンンフィニッシュで修理しているが、もうすぐ直るという報告だった。また1時間待ってから僕が見に行った。点火プラグをみんなとりはずしてテストしている。もう3時間あまりやっているはずなににまだ第一段階も済んでないのだ。見ていると次に気密試験をやってこれもOK。プラグを一つ一つ外しては腕力でエンジンを廻し、ピストンの吸い込みが強いかを調べるのだ。それではと組立てて見たがまだ動かない。今度はディストリビューターを分解しはじめた。とてもすぐに直る見込みはなさそうだと見当がついた。とうとうわれわれ3人はジープに見放されたのだ。こうして3人の隊員はイラムからビラトナガルまで8日間を、今度こそはジープにありつけるぞと思いながら歩かされてしまった。おそらくこのコースを歩いた日本人はまだいないだろう。ネパール人でも少ないかもしれない。
〇ブルカー、フィニッシュ
話しは戻って、サニチャレへ着いたとき、ここから先は平地で牛車をやとった方が割安だというので、人夫は全員解雇してしまった。彼らは山地の住人なので、炎暑の平原を歩くのは好まない。牛車(ブルカー)はインド牛を2頭並べて首筋に横木を渡し、竹製の大八車みたいなものを引くようになっている。インド牛の代りに水牛に引かせるものもある。水牛の方が力が強いのだそうだ。われわれが雇ったブルカーの中にも、水牛が何頭かいた。さて全部の荷物を牛車に載せようとしたらコックが反対した。「ブルカーはあまり早くないので、それが到着してから晩飯の用意をするのでは間に合わない」というのだ。おかげでコック付きの人夫だけは、今まで通り荷物を背負わせて行くことになった。彼らはキチンポーターといって、コックの手下でありシェルバ見習いなのだ。われわれはコックの言うことがよくわからなかった。いくらなんでも人間なみの速度で歩くものと思っていた。
夕方シブガンジャに着いた時には、ブルカーはずっと後になっていた。川原の草原に坐り込んで来るのを待った。テントも寝袋もブルカーに積んであるからだ。コックのぢいさんは予言が当たったので得意らしい。彼のおかげで食事にはありつけた。
暗くなってブルカーについていた人夫が1人連絡に来た。今日はとても着けないそうだ。わけをきくと、水牛の奴が歩くのがひどく遅いので他のブルカーがそのペースになってしまうのと、川を渡るのがやっかいだという。特に水牛は川を怖れて渡らないという。第1と第2の理由はわかる。とくに川渡りは足場が不安定なので、牛は足をとられてすぐ水の中にへたり込む。しかし第3の理由はわからない。水牛が水をこわがるなんて聞いたことがない。狂犬病にでもかかっているのかな?
とにかく荷物がこないので、われわれは近所のお寺に泊めてもらうことになった。ネパールには村々に5人委員会(パンチャヤット)という組織があって、選挙された村の顔役5人が集まっていろいろな問題を処理するようになっている。われわれのトラブルもこの人達が面倒をみてくれて、ベッドやふとんの世話までしてくれた。
翌朝になってもブルカーは現れない。待っていると遅くなるのでわれわれは先に出発した。先に行ってしまうとブルカーは追いつけなくなって、又々寝床フィニッシュになるので、解雇した人夫が一緒に歩いていたのをまた雇い直し、寝袋を背負ってこさせることにした。最初は人夫よりは大分効率よく荷物を運べると思っていたのだが、ブルカーはなかなか厄介な代物だとわかった。速度は人が歩くのと同じくらいなのだが、川に来ると前に書いたようにモタモタする。水牛にいたっては水が好きなものだから、深みに入って坐り込んでしまい、いくらたっても動こうとしない。人夫の報告の、水牛が川を怖がって渡らない、というのは反対で、川が好きで陸へ上ってこないのだった。歩くときは1番遅い牛にペースを合せて歩く。昼頃になると牛に昼飯をやるといって草原に放してしまう。牛飼いは1時間ばかり昼寝をしてから、どこか遠くへテンデンバラバラになった牛をおもむろに集めて動き出す。茶屋にくると今度は牛飼いの方が昼飯にかかる。夜は夜で、牛をちゃんとつないでおけばいいのに、朝になると牛がどこかに行ってしまっていたりする。フィニッシュした牛を探し歩いて1時間、どうしても見つからないとわかって別な牛車を雇いに行き、それが来るまでに2時間、荷を積み換えるのに1時間という具合に、たちまち半日たってしまう。おかげでわれわれの隊は、先を急いでビラトナガルに向う3人と、遅れた牛車に積んだ荷物の世話をやきながら、ノロノロ進む3人との2隊に分れてしまった。
夜、牛や馬を解放してしまうのはどこでも同じだった。後日ブータンへいったとき、ここでは輸送は専ら馬を使うのだが、夜になると完全に解放してしまう。馬は夜中に勝手に歩き回り、明るくなった時にはどこにいるのか分からない。それを彼らはちゃんと探し出して集めてくるのだ。たいていは近くにいるけれど、時には見当たらないこともある。そもそもどっちの方向に行ったかも分からないのに、探し出すのだ、馬の首には大きな鈴がつけてあるので、われわれの耳にはとても感じられないようなかすかな音でもわかるらしい。それも、個体識別までできて、自分の馬か他人の馬か聞き分ける。ときには通りがかりの人に尋ねていることもある。尋ねるといっても、自分の馬の特徴や鈴の音を、他人が分かるように表現しているに違いない。それでも見つからず、半日も探していたこともある。
〇標本、フィニッシュ
植物採集だから当然毎日たくさんの標本ができる。それを毎晩遅くまでかかって乾燥する。時には午前1時2時になることもある。出来上がった標本を背負って歩いても仕方がないので、途中から人夫を雇ってダンクタまで何回か後送した。出発のとき、原先生がダンクタの知事と交渉して、われわれが受け取りに行くまで近所の家に預かってもらう手配をしてあったのだ。この人夫の賃金は出発の時先払いとなるので、途中で荷物をおっぽり出されてもチェックのしようがない。だから信用のおける人夫を雇うより他に方法がない。ウパディヤ氏に何とかうまいやり方を考えてくれと頼んだ。彼はまずポリスを呼んできて、信用のおける人夫を何人か紹介してもらう。人数がそろうと、ポリス立会いのもとで全部の人夫の住所氏名を書き取り、指紋をとる。同じものを2部作って1つはポリスが持ち、1つはこちらにおく。途中で逃げたらこれを頼りに追求するぞというゼスチュアである。それからウパディヤ氏が荷物の重要性と任務の重大さについて訓辞をたれる。この荷物は王様に献上するんだというと効目があるそうだ。これで人事はつくしたわけだ。あとは彼らが途中でフィニッシュしないことを祈るばかり。
最後の難関は賃金の支払いだ。彼らは算術を知らない。ダンクタまで往路5日帰路3日、1日往路5ルピー帰路3ルピーだから合計225ルピー、人数が5人だから総計1,125ピーを親分に渡しても全然受けつけない。それなら1人に225ルピーずつ渡せばよいかというとそれでもダメ。1人ずつ呼出して、今日の分5ルピー、明日の分5ルピー、明後日の分5ルピー…、という具合に1日ずつ数えながら渡す。おかげでこっちは小銭が足りなくなるし、時間はとられるし閉口だ。彼らはそうやって手にした金を自分で何度も何度も数え直し、他の人に数えてもらい、それでもまだ不得要領な顔をしながらふところにしまうのだった。
ビラトナガルにつく前に、1番しっかりしたシェルパのカルマツェレをダンクタに送り、別送した標本を集めてくるように頼んだ。彼は命令通り、ダンクタの標本を集めてビラトナガルに持って来た。われわれは標本を日本に送るべく整理をはじめた。
2-3日する中に、どうも標本の量が少ないようだと村田さんが言い出した。そこで、箱を日付順に並べてみると、1番奥のへロックから後送した標本がそっくり無いことがわかった。全量の4分の1くらいに当り、1番大事な標本がたくさんあるところだ。ストーブやジープがフィニッシュしてもわれわれは何とも思わないが、苦心して集めた標本が無くなったので一同愕然としたのは言うもおろかである。
われわれはこのことを知事と警察に届け、事件として調査するよう依頼した。ネパールの主な地点には、米国が後進国援助の1つとして贈った無電の設備がある。ビラトナガルからこの無電を使ってタプレジュンのポリスに命令を出し、タプレジュンから歩いて3日のヘロックまで調査に行ってもらい、人夫の頭を調べて報告してもらう。もしそこにあれば、こちらから人夫を送って受け取りに行くという手はずだ。簡単にこういうけれど、タプレジュンから無電で返事が来るのが早くて10日くらい、それから人夫を送ってヘロックまで11日、帰りは荷物があるから15日、どうみても、うまく行ったところで1ヶ月以上かかる。別な考え方として、ダンクタで回収しそこなったのかも知れないということもある。そこでダンクタにも調査を依頼した。無電というとひどくスピーディにきこえるが、たいていは空中状態が悪いとか言ってつながらない。事実、われわれはダンクタでもタプレジュンでもイラムでも、無電で連絡をとろうとしたが、いつも空中状態不良ということでだめだった。ウパディヤ氏に云わせると、技師がチップをもらいたくて意地悪をしているのだろうということだ。われわれはチップを出さなかったので、空中状態はちっとも良くならなかった。しかし今度はわれわれでなくポリスが命令するのだから、空中状態は良いにちがいない。事実ポリスのボスは必要な連絡は済んで、あとは報告を待つのみだと言っていた。
荷物をとって来たカルマツェレは責任を感じたのか、自分でヘロックまで調べに行くと言い出した。荷物の所在がわかれば、どうせカルマツェレに行ってもらわねばならぬ。しかし今の段階でヘロックまで行ったって仕様がないので、ダンクタまで行って後の連絡を待つようにと言って出発させた。
3日ばかり何のニュースもなく過ぎた。4日目の夕方、カルマ ツェレが現れた。荷物があったというのだ。ダンクタでわれわれの標本は何軒かの家に分散して保管されていた。知事がそうさせたらしい。彼はもう一度それらの家を回って調べたら、一軒の家の奥に行方不明の標本が置いてあったのだそうだ。家の主人がチップの割り増しでももらえるかと思って、われわれ日本人が来るまで隠しておくつもりだったのだろうということだ。カルマツェレは大いそぎで人夫を雇ってダランまで運び、そこからトラックにのせて来たのだが、途中でトラックがフィニッシュしたのだそうだ。もう暗くなったので荷物はそのままにして、ひとまず報告に来たというわけだ。
翌朝彼はまだ暗いうちに出かけて行った。トラックがフィニッシュしている所まで車で2時間程あるので、われわれは10時頃には荷が着くと期待していた。ところが12時過ぎてもやって来ない。そのうちに情報が入った。荷物は牛車に積まれてやって来つつあるそうだ。これでは今日中に来るかどうかわからなくなった。カルマツェレは道ばたで空のトラックを止めてのせてもらう予定だったのだが、トラックがつかまらなかったとみえる。ビラトナガルでならトラックが雇えるので、迎えに行くことにした。町のトラックの溜まり場へ行ってみたら、カルマツェレが荷物をバスに積んで到着したところだった。彼は運転手とものすごい剣幕で議論している。日本だったらとっくにつかみ合いになっている形相だ。バス代が高い安いの取り引きの最中なんだそうだ。トラックがつかまらないので牛車を雇ったけれど、そのブルカーも途中でフィニッシュとなり、とうとう客の乗っているこのバスをお客ごとチャーターして反対の方向に動かさせたのだという。バスと言っても中型のランドローバーで、定期路線のバスではなく、トラックの運チャンが小遣い稼ぎに客を乗せているだけなので、金さえ払えば日本では考えられないような芸当ができるのだ。乗客の文句などは物の数ではない。アチラではお客より運転手の方エライのだから、運チャンが決めたことに逆らえるはずがない。こうしてわれわれは、全部の標本を回収することができたのである。
それから3日ほどして僕が警察の前を通りかかると、ポリスが一通の手紙をくれた。署長からわれわれ宛のもので、「ダンクタからの連絡によると、かねて調査を求められていた荷物は、プフ・センボシをリーダーとする人夫たちによって彼地を出発した」と書かれていた。プフ・センボシはヘロックから標本を後送した時の人夫頭で、今頃ダンクタにいるはずはない。大体この連絡は無電か電話で行われたに違いないのに、今頃になって届くとはわけがわからない。無電より人間の足の方が早かったことになる。
〇道路、もうひとつのフィニッシュ
面白い橋を見た。橋だけがそびえているのだ。橋の見本ではなくて、かつては川か池かをまたいで道路をつないでいたのだろう。今はただ田圃の中に、橋の構造見本みたいにそびえ立っています。これを渡ろうと思ったら、危険をおかして橋脚をよじ上り、向う側でまた同じように飛び下りねばならない。高さは2m以上ある。
ここはガンジス平野の北の端だから一面の平地である。道路技師は地図の上に計画路線を真直ぐに引いて、現地へ来てみたら川だか池だかがあったので、そこへ橋をかけたものらしい。モンスーンの影響で、6月から9月にかけては雨が多く、川があふれてこの辺一帯は水びたしになるので、道床を高くかさ上げして造ったのだ。何年前に造られたのか知らないが、われわれがここを通った時には、道床はすっかり洗い流されて周囲の田圃と同じ高さになり、橋はどこも傷つかず、ペンキもはげていないのに用をなさなくなっていた。乾季なので川の水もなく、池があった所は、人が橋のわきを通るので、そっちの方が地面が低くなってしまって、水は横すべりしてそこに池をつくり、橋の下の池は乾上ってしまっている所もあった。
こういう橋の見本が1kmほどの間に4つも並んでいて、その1番端の橋のたもとには、橋がこわれた時のための補修材料が積み上げられているのを見た時には、思わず吹き出してしまった。
ネパールは山国なので、どこへ行くにも人の足に頼らなければならない。東西に長く延びている国なので、縦貫道路の建設は産業上からも軍事上からも最も必要なことだと思う。しかし首都のカトマンズでさえ、インドから自動車で行けるようになったのはほんのこの数年のこと。ネパール各地へ人や荷物を運ぶ最もよい方法は、最寄りの国境から一度インドに出て、汽車で行って、また目的地に最も近い国境を通ってネパールに入って歩くというやり方なのだ。ネパール人はインドからの独立性をさかんに主張するけれど、せっかく造った道路の維持も満足にできないようでは、それにはまだかなり時間を要すると感じた。
〇シェルパ、フィニッシュ
ビナトナガルに帰り着く2-3日前、われわれの隊は2手に分れてしまった。1日も早くビラトナガルに着いていろいろな手続きをしようという3人と、標本や装備を積んだ牛車が遅れてしまったので、それの面倒をみながら行く3人とである。僕は後の方の3人の中だった。
その朝、われわれ3人が出発する時には、まだ牛車は到着していなかった。この調子では今夜も牛車は追いつきそうもないので、シェルパと人夫が残って、牛車が着いたら寝道具だけ持ってわれわれを追いかけることにして出発した。
その日の夕方、他の隊員のシェルパはやって来たのに、僕のシェルパのテムジンは現れなかった。僕の寝袋を背負った人夫も一緒にフィニッシュした。他の連中に聞くと、テムジンとその人夫は誰よりも先に出発したのだそうだ。どうやら慌て者のテムジンは、分れ道を間違えて、とんでもない方向に行ってしまったらしい。1日歩いても追いつけないで、今頃やっと道をとり違えたことを知ってマゴマゴしているところだろうと、シャクにさわるやらおかしいやらだった。
翌朝、どこからともなく情報が入った。北の方20kmあまりの村に日本人が4人現れて、隊員が行方不明だと騒いでいるのだそうだ。日本人がそっちに行ったはずはないから、テムジンたちに違いない。そんなに遠くに行ってしまっては手のつけようがない。一望千里の平野といってもどこでも歩けるわけではないし、われわれの居場所をつきとめることもむずかしいだろう。いや案外こういうところでは噂が早くひろがるから、すぐ知れるかもしれない。だいたい、20kmものかなたの出来事が、どうして伝わるのだろう。とにかく当分は一緒になれそうもない。放っとくより手はなかった。
その日の夜、われわれはまっ暗になってから茶屋が5-6軒かたまっているところに泊った。部落でもなく、旅行者が入りこんで勝手に泊るような小屋掛けがいくつもある所だった。10時頃になってシェルパたちがガヤガヤ言っているので、テントから顔を出すとテムジンと人夫が来ていた。どうやってわれわれの居場所を知ったのかわからないが、人夫がはだしの足を大分傷つけているところをみると、相当無理をして来たらしい。
〇トラック、フィニッシュ
どうにか採集旅行も終り、行方不明だった標本も見つかって、われわれは日本へ送る荷物を作りにかかった。日本から荷を送る時、帰路にも使えるようにと組立式の木ワクを作ってあった。この辺はたき木が不足なので、木片はすぐ目をつけられる。現にはじめの頃、われわれが荷物をバラしていたら、どこかのオバさんがその材木を売ってくれとかけあいに来たくらいだ。それで木ワクは町の有力者の倉庫に保管してもらうことにした。
さて木ワクに荷をつめ込んでみると、われわれの荷物の量は来る時より増えていることがわかった。新らしく木ワクを作らねばならない。シェルパに材木と釘を買って来させた。サラソウジュかなんかの板でおそろしく硬くて重い。釘を打つとたいてい曲ってしまうか板が割れてしまう。鋸でもたやすくはひけない。シェルパはこういう仕事は下手で、鋸で真直ぐに切れたためしはなく、釘もほとんど曲げてしまう。不経済なのでこっちがやる。木枠はボルトで組み立てるようになっており、分解した木枠を倉庫に保管してあった。ところがバラすときにあまり注意していなかったため、ボルトやナットがかなりなくなっていた。「これと同じものを買ってこい」と、シェルパに見本を持たせてやった。ところがそれを使う段になって驚いた。同じピッチなのにボルトとナットが合うものもあれば合わないものもある。今度は自分で金物屋まで行き、ボルトとナットを一々組み合わせて、はまるセットにして買い直した。はまるセットをバラして、他の組み合わせにしようとすると、はまらないものがあるのだ。とにかく21個の荷物が出来上った。
これからが難物の通関だ。手続きは、パッキングリストをネパール税関に持って行って輸入の時のリストと比較して税金を払う。中身の検査もあるだろう。それが済むとケースにネパールの封印をしてインドの税関に持って行く。インド側も同じようにリストを調べて、よければパスする。こう書くと簡単だが、なかなか一通りや二通りでは行かない。ネパール税関のジャー氏もインド税関のデュバイ氏も非常に親切だった。しかし書類を持って行ったらいなくて、すぐ帰るというので待つと、半日待たされたあげく、今日は来ないことがわかってみたり、お役人のくせにネパール側が書類をまちがえてインド税関に突返されたり、やっと正式書類を作ってかけつけると、今日は役所は休みだったり。ネパールは土曜が全休(金、日曜は全日やる)、インドは土曜半休で日曜全休なので、下手をすると2日つぶれてしまう。そのうえインドとネパールの祭日がゴチャゴチャあって、何かというと休みになるのでやりきれない。それでもどうやら税金を計算するところまでこぎつけた。何やらていねいに説明してくれるけれどよくわからない。とにかく金額はとおそるおそる尋ねると、何とたった11ルピーだった。これはネパールで壊れたりなくしたり、あげたりした非消耗品に対する税金で、消耗品に対しては輸入の時に全額支払ってある。われわれはずい分非消耗品をシェルパにやったり壊れて捨ててきたりしたが、入国の時は手で持って来たカメラが壊れて、帰りの荷物にほうりこんだのがあって、差し引きは輸入した金額より輸出する金額の方が多いことになっていた。税関の役人はどう計算したのか知らないが、われわれが予期していたよりははるかに安い税金しか要求しなかった。さてその次は封印だ。
われわれの荷物は1個が平均100kgあり、重いのは200kgを超える。宿舎の庭からトラックに積み込んでネパールとインドの税関に寄って駅まで行くのに、一々積み下ろしをしていたら、人夫代はまだよいとしても、時間がかかってやりきれない。何とかトラックの上で封印してくれないかと頼んだら簡単にOKした。封印というと、スチールベルトをかけて結び目を官封するものと思っていたし、インドの封印はそうなっている。だからトラックの上で下積みになっている荷物に、こういう風な封印をするのは不可能だ。だが驚いたことに、ネパールの封印は木枠の1本に細い針金をまきつけて、ねじり目に封蝋をたらして封印するだけだった。これならどんな大荷物がどんなにゴタゴタ積んであっても簡単だ。その代り封印の用をなさない。こっちにはありがたいがあちらは何のつもりでやっているのか聞きたくなる。それと同時に、こんな封印でインドの税関が通してくれるかどうかいささか心配になってきた。おそるおそるインド税関に行くと、荷物も見ないでパスしてくれたので一安心。あとは列車に載せればよい。駅へ持って行ったのは夜の7時過ぎだった。若い駅員が事務をとっていたので聞いてみる。今日はもう便がない。明日の10時に来いという。書類だけ受付けたらどうかというと、明日10時で十分間に合うし、俺は今片づけなければならぬ仕事がたくさんあるからと逃げる。貨物ホームに荷を置いて、シェルパに番をさせて引上げた。
翌朝10時。昨日の若造に会って、荷物の一部が大きいので汽車に入るかどうかわからない、見に来てくれと頼む。オフィスから貨物のプラットホームまでは100mもないのに行きたがらない。とにかく重量を計るから持ってこいという。計量器は事務所のそばにしかない。持ってきてから大き過ぎるなんて言われるとアホらしいから見にこいと、強いて連れ出したが、たまたま室の前に持って来てあった1個を見ただけで、大丈夫だから持ってこいと遂に見にこない。シェルパたちが一つづつ運ぶ。1番大きいのは人夫を雇って最後に運ぶ。計量していた若造は、17-8個運んだら、量が多すぎて汽車に積めないと言い出した。われわれは旅客列車の荷物車に入れて運ぼうとしているのだが、入りきらないというのだ。ソレまたインド流がはじまった。あっちの車は広軌だし、十分積み込める量だということは目測で見当はつけてある。それなのに彼は、俺はベテランなんだから一目見ればわかるといい張る。それにサイズが大きすぎるのがあるとつけ加える。そんな制限は昨夜聞いた時に何も言わなかった。サイズや重量に制限があるといけないので昨日念を押したら、どんなものでもよいとはっきり言ったのだ。それに目の前の17-8個の荷は、彼の言う制限サイズスレスレのはあっても大きすぎるのはなさそうだ。メジャーを持ってきて計れと言っても、俺の目は正確だ、一目見ればわかるんだから計る必要なんかないと頑張る。その内に1番大きい荷物が運ばれてきた。彼氏は今度は重量制限を持ち出す。200kg以上はダメなんだそうだ。こっちもこのケースの重量は実のところ知らない。150kg以上あるらしいが正しくは計りがなくてわからない。それが心配なので昨日制限のことを聞き、ないというので持ち込んだのだ。またもや一目見ればわかるというのを、汽車でだめだって、ほかの方法で運ぶ時に重さを知っておきたいからと、やっと計量器にのせてみたら230kg。彼氏ザマア見ろと言わんばかりの顔で、意気揚々と引きあげて行った。会社が儲け損なったのに。
今日汽車で送り出して明日はわれわれも引きあげだと思っていたのに、思わぬストップを食って困惑した。鉄道便として送るにはこの他に貨物列車で送る方法がある。聞くところによると、貨物列車で送ったら1ヶ月以上かかるうえに無事につくかどうか定かでない。旅客列車で送っても1週間かかって無事につけば上出来だそうだ。登山隊もこれにはみんな苦労しており、自分の乗った車のすぐ後に荷物を積んだ貨車を連結させて、途中でバラバラにならないように見張って行くのが常道だ。われわれはビザの関係で汽車で行くわけには行かない。インドの鉄道はゲージがさまざまで、線が変るたびに荷を積み替える(そのために荷物の大きさや重さに制限がある)し、ガンジス川を渡るには船に積み替える。見張りがいなくてはどこでなくなるかわからない。汽車で送るのはどうも気が進まなくなった。そうすると運送会社に頼んでトラックで送ってもらうより手がない。いやもう一つ、飛行機で送る方法があるが、これは運賃がべらぼうにかかる。くる時には時間がなくなって飛行機をチャーターして運んだが、3,000インドルピー(25,000円)かかった上、ネパールの飛行許可が下りなくて大騒ぎをさせられた。
運送会社に頼むことにしたが、どの会社がよいかわからない。税関の附近にいくつかそういう会社が店を出している。うっかり頼むと、金をとられて荷物が届かないなんてことになりかねない。インド税関のデュバイ氏に相談してみた。彼氏は鉄道で送れという。鉄道は国営だから、万一荷物がなくなっても責任をとってくれる。しかし運送会社では責任を回避するだろうからというのがその理由だ。責任をとるといったって、お役所の責任のとり方は日本だって定評がある。ましてやインドの国鉄なんかの責任が、どんな工合にとられるか想像もできない。だいたい荷物が行方不明になる可能性はどっちも同じくらいか、トラック便の方が積み下しの回数が少ないから、むしろ少ないだろう。行方不明になってからの始末はどっちも同じだ。第一、責任なんかとってもらったって、標本がなくなったのでははじまらない。個人会社の方が相手にしやすいかも知れない。デュバイ氏の事務所を出て、近くのそういう会社をのぞいて見たが、どこも昼休みで空だった。
ビラトナガルの有力者のゴルチャ氏に相談しようと引きあげた。ネパールエアラインの事務所(われわれはそこの一室を借りていた)のジョシー氏にそのことを話す。彼氏の知人にトラックを持っているのがいるから聞いてみるという。ゴルチャ氏のところへ行こうと思ってると言うといやな顔をした。ゴルチャ氏はネパール国籍だがインドのマルワリ族で、ビラトナガルがネパールの大工業都市である所以のジュート工場の持ち主である。それが生粋のネパール人であるジョシー氏には気に食わないらしい。ジョシー氏の知人に使を出したが外出中で、夕方帰るとのことだった。こっちはゴルチャ氏に行くつもりだったが、ジョシー氏の顔をつぶしてはと待つことにする。夕方になっても何の音沙汰もない。夜になってジョシー氏にきくと、知人が帰り次第連絡するように言ってあるんだそうだ。夜遅いのであきらめる。荷物はプラットホームの事務室前に積みあげられたまま。見張りのためにシェルパを解放することもできない。
翌朝になってもジョシー氏はユウユウとしているので、催促して様子を見にやらせる。トラックはあるが運転手が行きたがらないのでダメだそうだ。もう他には心当りはないのでお気の毒だという。こっちはそれでは済まされない。ゴルチャ氏のところへ行ってみたら、カトマンズへ行って留守。それではと、原先生が帰る時に残してあったアドレスを頼りに、ジョグバニの英軍キャンプの輸送担当ライ氏のところに行く。会ってみたら税関でたびたび顔を合わせていた人だった。その相棒のスッバ氏が会社を紹介してくれるというので一安心。East India Transport Co.というのに同行してくれた。所長は留守で若い男が出てきて、今日夕方のトラックで発送すると請け合った。スッバ氏と相談して、途中でなくなる心配を防ぐために、運賃は着払いとして契約する。16時にこいというのでやっと肩の荷を下した思いで引きあげる。今日はクリスマスイブ。明日はカトマンズへ引きあげだ。
16時、オフィスへ行く。所長とさっきの若いのがいる。トラックはいない。聞いてみると、「Today, truck not arrived」という返事。運送会社のくせに約束した時間にトラックが用意できないなんておかしな話だ。どこかへ行って戻るのが遅れているものと思って待つ。暗くなってもトラックはこない。2人とも英語はこっち以下(なのか話せないふりをしてるのか)でよく事情がわからない。とにかくこっちは明日引きあげられるか否かの瀬戸ぎわだ。明日の飛行機に3人の席をとってある。たった1台のトラックが調達できないなんてことは考えられない。トラックが来るまで待つと事務所に坐り込む。向うはtruck not comeのー点張り。しまいに張り合うのをやめてオフィスの電灯を消し、寝室に入ってしまった。いくら待ってもトラックは来そうにないのであきらめ、シオシオと引上げた。もう真っ暗である。その晩ほどみじめなクリスマスイブはなかったろう。冨樫さんと村田さんだけ明日帰り、僕は始末がつくまで残ることにした。
英軍御用会社でもこんなことでは頼りにならぬ。照会してくれたスッバ氏にもう一度ハッパをかけてもらおうと、翌朝彼氏を訪ねた。今日はクリスマスで休日なんだがと、まだベッドに入っていたスッバ氏はそれでもアッサリと起き出して、会社に行ってくれた。とにかくトラックは来ないのである。彼らの方ではもう常識になっていて、くわしいことの説明は省略してしまうので、僕に対してはやはりTruck not come、今日は来るだろうとしか言ってくれない。察するところはこうである。ここの事務所からカルカッタまでは直通でなく、ガンジス川のコッチ側と向う側でトラックが行ったり来たりしている。ジョグバニ行きの荷物がむこうからこない限り、トラックはここまでやってこない。だからここの事務所の男にも、トラックがいつ来るかはわからないのだ。しかし彼の言うには We can expect it every moment なのである。アタリマエダ。電話をかけてトラックをこちらに回せといってるそうだが、これはアテにならない。事務所には電話はなく、郵便局の電話を使うのだが、それほど親切気があるとも思えない。その辺のトラックを雇えばよいと思うがこれはシロウトの浅はかさ。インド領のジョグバニにはトラックはない。ビラトナガルでならいくらも雇えるが、ネパールの車はインドへ入れない。ジョシー氏が頼んでくれたのは、インドとネパールのナンバープレートを持つ車で、インドとネパールの免許証をもつ運転手なのだ。
とにかく連中に悪気があるのではないことはわかった。はじめはトラックを駅まで回して荷物を積む手はずになっていたが、いつまでもシェルパに見張りさせているわけにも行かないし、契約したのだから事務所に入れとけば彼らの責任で預かるというので、こっちへ持ってくることにした。人夫を頼むのがまた一苦労なのでスッバ氏にやってもらう。
人夫頭と彼氏は20分ほどやりあっていた。途中で彼が言うには「人夫は20ルピーを一歩も引かないという、私は10ルピーと言っているのだがどうしよう。」僕は少し高くても良いからとにかく運ばせてくれと言ったら、またひとしきりやったあげく15ルピーで折り合った。あとできくと最初人夫は30ルピーと出し、彼は5ルピーと言った。それから人夫が25ルピー、こちらが10ルピー、人夫20ルピー、こちら14ルピー、人夫が20ルピーと頑張るので15ルピーにしたら、ようやく同意したんだそうだ。たとえ言葉がわかってもこっちはそんな根気はない。きっと25ルピーくらいになったろう。第一、30ルピーと言ったのに対し5ルピーと返す心臓はこっちにはない。とにかく荷物は会社に店先に運ばれた。
さてトラックだが相変わらずやってこない。僕のビザは30日で切れる。いくら遅くても28日にはカトマンズへ行かねばならぬ。29日には飛行機の便はないから、そうすると、27日中にトラックがこなければ、ネパールエアラインに頼んでカルカッタまで空輸してもらうしかない。そうなると手持ちの金では足りないが、ジョシー氏に頼んでカルカッタで払うことにしてもらおう。ついにこの日もトラックはやってこなかった。全く暗いクリスマスだった。
翌27日、いよいよ背水の陣、朝から会社へおしかける。向い側の会社の前にトラックが置いてある。あれかと聞くとそうだという。しかしそれならよその会社につけなくてもよさそうなのに。その内にあの車は故障だということになった。今日もフラレタかと思っていたら、10時、トラックがやって来た。会社の名前が書いてあるから間違いない。あとはわれわれの荷物を積んでくれることと、故障を起さないで出発してくれることを祈るばかり。幸運にもわれわれの荷物を積み、エンジンをかけて動き出した。税関の前もノーストップで視界から消え去った。何ともハヤ、疫病神を追払ったようなよい気持ち。花火をポンポン打ち上げて万歳三唱でもしたくなるような気持ちだった。こうなると荷物が無事にカルカッタに着こうが着くまいが、とにかく運んで行ってくれただけでありがたいという気持ちだ。早速カルカッタに電報「ニモツトラックデオクッタヨロシク」。それから税関に行って挨拶。もうジョグバニに来る用はない。ずい分通ったものだ。さっきまでイライラしてなが眺めていたほこりだらけの町も、今になると何だかもう少し見ていたい気もする。
翌朝、飛行機に空席があれば乗せてやるというので飛行場で待つ。空席はあった。離陸。ビラトナガルの町もジョグバニの町も、見下すひまもなく後に飛び去ってしまった。
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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