1969-1970
私は1969年2月(つまり安田城攻防戦の直後)から2年間、ネパール政府の植物調査のお手伝いをするため、首都カトマンズに滞在しました。勤務先は国立薬草局(バナスパティ・ビバーグ)で、カトマンズの南端のバグマチ川に面して研究所と標本室があり、カトマンズ盆地の南端のゴダワリに植物園がありました。以下に記すのは、そのときどきの仕事や生活の様子について大学へ書き送った手紙を、帰国してからワープロにまとめたものです。小学校1-2年生の男の子2人連れでしたので、そういう面でもいろいろな出来事がありました。ですから内容は大きく分けて、調査旅行の話と、カトマンズでの生活そのものの話の2通りです。本誌では前者の方を主体に選んだものをお目にかけます。後者の話もなかなか面白いのですが、後回しにしておきます。
私はそれまでに、原寛先生のお手伝いで、ヒマラヤ調査は3回経験していました。これはもちろん、日本人主体の調査旅行です。ところがネパール人の中に1人混じって、彼らの流儀で調査旅行をやると、それまでの経験は全く役に立たないことを知りました。その違和感が私の手記を見ていただきたい理由です。みなさんが普通にご覧になる海外植物観察旅行記やヒマラヤトレッキング記録のように、場所と植物名が順調に並んでいる楽しいものではありません。とにかく、「こんな暮らしをした植物研究者がいた」ということを、知っていただければ幸いです。
〇カトマンズ(1)
1969年2月10日 いま、住む家を探しています。赴任前の約束では「住居は勤め先の役所で世話する」ことになっていましたが、先方が提供するというのはカトマンズ盆地の南の端にあるゴダワリ植物園の官舎でした。町からタクシーでガタガタの道を1時間近くかかります。「住んでもよいけれど、通勤用に役所の車を使わせろ」と言ったら、それは駄目だそうです。ゴダワリには店は1軒もありませんから、買物には一々カトマンズまで出てこなければなりません。むこうは「提供するのにイヤというなら、自分で見つけろ」というのです。僕の契約は公文で行われているので、日本大使館の人に立ち合ってもらって、なんとか市中に家を提供させようとしたのですが、大使館の男は僕と向うのやりとりを黙って聞いているだけで、一言も口添えをしてくれませんでした。大使館はこんなことに手をわずらわすことはないということなのでしょう。これでは勝ち目はないので、「それでは自分で市中の家を探すから、手伝ってくれ」と持ち掛けたら、朝会のとき屋上からあちこち見回して「あそこの家はどうだ、こっちの家はよさそうだ」と斡旋してくれます。今の時期は室内より外の方が日差しが強く風もなく暖かいので、朝の職員会を屋上でやるのです。出鱈目に指名しているのかと思ったけれど、言われた家へ行ってみると、ちゃんと空き部屋があるのです。しかしどれもネパール風の室で、住み心地は良さそうにありません。
そこでまた日本大使館へ行って、ネパール人の職員に「家をどうやって探すか、教えてくれ」と言ったら、2-3日して40代のオジサンがヤマハのオートバイでやってきました。ヤマハは流行の最先端です。この周旋屋の尻にのせてもらって、物件を見に行きます。始めのうちは単身なので、管理の手間が無くてよかろうと貸間を探しました。先日見たのは旧市街の煉瓦の曲がりくねったビル(縦に曲がっている!)の3階、10畳くらいの一室。水道、電気、トイレ、バス、キチンいずれも無し。部屋代は月7,000円。飯はどうするのかときいたら、自分で作れというので借りる気が無くなりました。部屋を借りるというのは、トイレや飯の習慣がちがうから、なかなかむつかしいようです。それに実際に建物の内部を見ると、用心がよいとはとても思えません。それで1軒借りる方針に転換しました。半年すれば家族が来るのだし、設営に結構手間暇がかかるので、今から準備しても遅くはないようです。外人向けの貸家はたくさんあるらしく、これまでに3軒見ました。最後に見たのは、町の南はずれのバグマチ川に近いタパタリの丘の上の平屋で、ゴミゴミしてないのが気に入りました。役所からも近いのでここになりそうです。
カルマツェレに出会いました。1963年に東ネパールへ行ったとき、ローカルサーダーをしていたシェルパです。町をリキシャに乗って走っていたら、向うが見つけて声をかけて来ました。その時はなんとなく話して分かれたのですが、家を持つとサーバントが必要になることに気がつきました。カルマツェレは当時「ガサツだが信用できる男だ」というので、旅行の後半、あちこちに預けた標本を回収するため、大金を持たせて1人別行動をさせたことがあります。
そういう男の兄弟なら安心できるのではないかと考えているうちに、また町で出会いました。その時は彼の泊り場まで連れて行かれ、手作りのモモ(ギョウザ)を御馳走になりました。カトマンズに住む日本人は、タマンやネワールといった地元の種族をサーバントにしていますが、「トラブルのないサーバントをみつけるのはとてもむつかしい」と誰もが言います。僕はシェルバなら多少馴染みがあるので、サーバントにはシェルパを雇おうかと前から考えていましたが、カトマンズではシェルパのコネがありません。そこへカルマツェレが現れたのは、天佑というところです。
話をもちかけると「俺の弟がよい」と言います。弟といっても彼らの縁戚関係はわれわれの理解を越える複雑さなので「弟といっても血縁続きでなければいやだ」と注文をつけたら「ほんとに血の続いた弟だ」ということで、紹介してもらうことになりました。今はナムチェにいるけれど、近く出てくるそうです。
3月3日 家を決めました。高台、閑静、平屋、4室、台所、納戸、車庫、雇人室(別棟)つき、家賃800ルピー(28,800円)。屋上からヒマラヤがよく見えるはずですが、北側に大邸宅の残骸がそびえていて、西北の方がちょっと見えるだけです。北側に家があれば風よけによいはずですが、ここは冬でも風はたいして吹かないので、その必要はありません。どういうわけか家主は前庭に車庫を作るのは嫌いで、南側のベランダの窓に密着させて車庫を作りました。おかげで大分光が遮られ、暗くなると文句を言ったら、「そんなら電灯をつければいい」という返事です。こちらでは太陽の光を大事にしません。窓は小さく、壁は厚く、熱が室内に入らないように造ってあります。熱帯のインドの影響でしょう。
家を借りるのに敷金や礼金はいりません。家賃を何ヶ月分か前払いし、その金で家主は借主の注文通りに造作変えをします。僕の場合は壁の塗りかえ(これは住人が変われば必ずやる。そうでないと前住者のにおいが残ってやりきれないからでしょう)、電熱温水器の取りつけ、車庫と使用人棟の新築、カーテンレールの取りつけ、各室の電灯を明るいのに付け替え(ネパールの家の天井灯はどういうわけかうす暗く、それだけでは本は読めない)、花壇の縁取り煉瓦の埋め込みと栽培土の盛り込み…とまあこんなところです。これを5ヶ月分の前払いでやってくれます。普通は3-4ヶ月分で済むが、僕のは注文が多いから5ヶ月だそうです。これを3月中旬までに終り、入居となりますが、家具は全然ありませんので、ベッドから机から全部自分で買わねばなりません。カーテンもそうです。とくにベッドとカーテンはまず必要です。トイレは洋式ですが便座は木の厚板をくりぬいたもので、その穴が直径わずか12-3cmしかありません。「もっと穴を大きくしろ」と注文をつけたら「俺達はこれで十分やってる」「これじゃあうまく落とせない」「そんなことあるまい。お前たちはそんなに下手なのか?」と珍妙な押し問答の結果、このまま様子を見ることにしました。
周旋屋への謝礼は何も払いませんでした。請求がこなかったのです。貰うべき金だったら、ネパール商人が請求しないはずはありません。[この家を引き払って他に移るとき、周旋屋の家(事務所はなくなっていて、探すのがたいへんだった)まで一応挨拶に行ったのですが、むこうが言うには「引っ越しはお前の勝手だ。俺は一銭ももらってないのだから関係ない。」というわけです。こちらも「お前が請求しなかったじゃないか。」と帰ってきました。(1993年頃になると、周旋屋に1ヵ月分の礼金を払うことになっていたそうです。)]
使用人はシェルパの夫婦(カルマツェレの弟)を交渉中ですが、月400ルピー(14,400円)と持ちかけられており、こちらは 250ルピーなら出すと切り出したところです。ネパール人の家の使用人はどのくらいかと役所で尋ねたところ、衣食住は主人持ちで、安いのは月10ルピー(350円。100ルピーにあらず!)、普通は30-40ルピーだそうで、衣食の費用を考えに入れても50-60ルピーでたくさん、2人で 400ルピーなんてとんでもない、ということになります。 200ルピー出せば、高級なコックが雇えますし、われわれクラスの官吏は月給300ルピーです。向うとこっちの言うことが違いすぎるので、明日来ると引き上げてゆきましたが、今日は来ません。あきらめられるとちょっと困るから、町を流してつかまえてみようと思います。どこに住んでるかは知っていますが、訪ねて行けば足元をみられるから。
ついでに土地の値段を紹介します。最高級地(王宮の前)が75ft平方で、4万ルピーだそうです。1坪にすると9,200円。コロネーションホテル[今はない。ラニポカリの南側を東へ、空港を経てバドガオンへ向かう元の街道沿いのディリバザールにあった]あたりですと2万-3万ルピー、カトマンズの南のバグマチ川を越えたコプンドールあたりでは1.5万-6千ルピー。土地を買っても取得税はかからないが、市民税の不動産税をかなりとられるそうです。薬草局の前局長パンデ氏は王宮の上手の一等地に4階建ての大きなビルを2つも建てて住んでいます。
この前カルマツェレというシェルパに再会し、いま交渉中のサーバントを紹介してもらったのですが、先日ヒマラヤ協会(登山隊のシェルパの紹介所で、シンハダルバル近くのラムシャーパスにあった)に行ったらラクパ・ヌルブに出会いました。1963年に村田源さんのシェルパをした男です。今はホテルに勤めているというから、安く泊まれるかと思って場所をきいたら、The Campというヒッピーホテルでした。行ってみたら旧市街ダルバルスクエアに面したネパール建築で、ホテルの外までヒッピーがウヨウヨしてるので、入るのはやめました。全くヒッピーは多く、裸足でネパールプリントの布を巻いただけのや、チベット靴にトルコ帽だとか、ほんとに頭を剃ってラマ僧の服を着たのや、思い思いの恰好で町を歩いています。
もう一人、旧知のシェルパに出会いました。1960年にシッキムへ行ったとき、名前は忘れましたが、冨樫誠さんのシェルパをした男です。路地裏の小さな化粧品店の店番でもしていたようで、僕がその店の狭い戸口の前を通ったのを店の奥で一瞬みつけて、飛び出してきたのです。もう10年近くたっているのに、彼らの顔を見知る能力は大したものです。カルマツェレは1963年ですから、それより昔の話です。
日本人もずいぶんいます。日本工営という会社が電源開発の工事をしているので、それだけでも20人ほどになります。ここへ来て知ったことは、発展途上国の技術援助を主な生業としている人がいることです。今同じホテルに泊っている人は、日本紙の製紙技術を伝えにきているのですが、これまでにタイに2年、ビルマに2年いたそうです。竹細工の指導に来ている人は、ネパールは2回目で、ビルマ、ベトナムに数年ずつおり、ベトナムワイフを呼び寄せて、在留邦人を多勢招待して披露したりしています。おかげでネパールワイフの方はフラレテしまって、目下ベトナムワイフの棚卸しをしているそうです。もちろん日本にはちゃんと奥さんと娘がいる人です。邦人は彼女のことをMrs.~と呼ばずにMadam~と呼びます。こんなところへ来ても、なかなか気骨が折れることです。[あとの話ですが、彼は日本から娘を呼び寄せ、マダムと一緒にしばらく暮らしていました。娘が日本に帰ってから先のことは知りません。]
先日泊ったドイツ人は、フィリッピンに3年いた、仕事はall round、これからアフガニスタンとイスラエルへ寄って帰国し、1年経ったらアフリカのなんとかいう国へ行く、これまでに20ヶ国ほど回ったと言っていました。今日泊まった日本人夫婦はメキシコ五輪以来南米、ヨーロッパ、中東と回って、そろそろ帰国しようと思ってるそうです。五輪関係の仕事みたいな口振りですが、べつに公用ではなく、よくわかりません。
年度末のこともあっていろいろな調査団が来ます。今日来たのが医療調査団、僕の派遣元だからつき合わないわけにはゆきません。その前が万国博覧会招致の派遣員、その前は札幌五輪の宣伝、その前が援助効果調査団という具合で、大使館は大わらわです。
家はなんとか手に入りましたが、自動車はむつかしいです。新車の輸入は代金を全額前払いせねばならぬので、設営に金がかかるここ数ヶ月間はだめです。免許を持っているから役所の車を使わせろと言ったら、公用車(これは白ナンバーなので、赤ナンバーの一般車とすぐ区別がつく)は登録されたドライバーだけが運転できるので、官吏といえども免許を持ってるだけでは駄目なのだそうです。登録運転手といえども公用で使用中の証明書がなければ駄目、という具合で、公用車の利用はなかなか厳しいです。ただしこれはタテマエらしく、休日に公用車でデートしたり、結婚式の送迎に公用車どころか護衛兵まで使っているを見ました。
2日前に事故を見ました。街の大通りで中型のワゴン車が横転しており、衝突かと思ったら、前車軸が折れて車輪が1つフッ飛んでしまったため、前のめりに転がってしまったのです。ここらの車は動かなくなるまで手入れをしないので、油断ができません。バスだったようで、血がいっぱい流れていました。今日も全く同じに、右前輪が折れて坐り込んだタクシーを見ました。ここの車は直し方に癖があるようで、自転車でも後車軸をたたいてチェーンを張るところを見ていると、チェーンのある側だけをたたくものだから、後車輪が右向き気味になり、走っていると右へ寄りがちです。僕の自転車は中国製ですが、左寄りにはならず、やはり右へ寄ります。役所への通勤や市内を歩くのに自転車を買いました。自転車屋はコムラチという一角にかたまっています。売っているのはインド製と中国製です。同じ26インチでも、インド製品はばかに重く、そのうえ足が地面にとどきません。中国製はすこしヤワだけれど、軽くてわれわれ日本人の体にちょうどよいです。
土曜は休みなので、パタンへ行ったら、広場に水牛の首が置いてあり、遠くから引きずって来た血の跡が地面についていました。人だかりがしていたので見ていたら、ダンスが始まりました。赤い着物に赤い面をかぶった1人と、犬のように牙をむいてヤクの毛をかぶった悪魔のような1人が、明らかに性行為を表現する所作を延々とやります。とにかく同じ所作を東西南北に向ってやるのですから、見ている方でくたびれてしまいます。見物の大半は子供です。やっと退場してもまだ見物は散りません。今度は猪の面をつけた1人が出て来て、烈しい動作で踊りました。踊り手はそばの建物から出てきますが、踊っているときはもちろん、場外で歩くときも出を待っているときも、体を絶えずブルブルふるわせて、おこりがついたようなみかけです。神がかり状態なのでしょう。それが済んでもまだ続きがあるらしく、誰も立ち去らないのですが、とにかく10時から12時すぎまでかかっており、腹ペコになったので引き上げました。
いま、食事時間は7時モーニング・ティー、8時朝食、12時ランチ、15時半オヤツ、17時半イブニング・ティー、20時夕食です。オヤツは役所で出る、おやつというより軽食で、2食制のネパール人の間食です。はじめのうちはオヤツが余分のように思えたのですが、しばらくしたら3時頃になると腹がへるようになってしまいました。このオヤツはネパールの食べ物がいろいろ出てきて面白いです。パンに肉や卵焼きが挟まったサンドイッチ、これはつまらない。チャパテ(ふくらし粉なしのホットケーキ)1枚とカリフラワー(これは立派なのを市場でたくさん売ってる)のカレー煮、チウラ(圧米)とカレー、これはちょっと面白かった。今日はサモサ(揚げ餃子)とクッキーとラスバリ(牛乳のカゼインを豆腐のように丸く固めて砂糖水をいっぱいしみこませたもの。銀箔が張ってあるときもある)、それとレモンティー。ミルクティーはどこでもあるが、レモンティーはこの役所だけです。パンの皮なんかはそこらに撒き散らしてしまいますが、カラスが待っていて、端から持っていってしまいます。感心なことに、皿に乗っているあいだはとりません。ホテルのイブニング・ティーにもサンドイッチがつくので、晩飯時にはちっとも腹が減りません。午後はなんだか食べ通しのようで、このままでは太ってしまいそうです。ネパールの習慣通り昼飯抜きにしてみようかと思いますが、このホテル代は昼飯つきなので、食べないともったいないです。家を持ったら試みてみましょう。俺は2食なんだから給料が安くてもよいだろうとシェルパに言ってみます。子供が来て学校に行くようになると、こちら風にやらねばならなくなりますから。
このホテルは新年に開業したばかりなので、予約客はほとんどなく、マネージャーのお兄さん(オーナーの息子)が空港に待ち伏せしていて、予約をとらないで来てウロウロしてる旅行者を引っ張ってきます。“Nepal's most up-to-date tourist hotel, ten minutes(これはウソ、20分はかかる)walk from the centre of town”なんてカードに書いてありますが、電話もなく、車もなく、台所もまだちゃんとしておらず、スベアで料理をしています。味は悪くないが、肉はレバー以外は硬くてだめです。僕の室にはバスルームはなく、共用のを使っています。インド人が泊ると、朝シャワーを使うのでビショビショになるし、夜は12時過ぎまで起きていて、あたりかまわずベアラー(ボーイのこと)を大声で呼ぶし、かないません。インド隊員がいなければ大変静かでよいです。といっても、バスルームのある室に泊った客が温水器を使うと、共用のバスに湯が来るようになっているので、そっちの室に誰かが泊ってくれないとシャワーが使えません。幸いここ2-3日はオニイサンがよいカモをつれてきてくれるので、毎日お湯が出ます。それとカモが泊ると食い物がグンと良くなります。その代り、バーナー1つで料理を作るから、人数がふえると追いつかなくなり、われわれ常連にはスープだけ出て次のディッシュはカモの方が片づくまでおあずけということもあります。カモがいなくなると、昨日まで2皿出たのが1皿となり、パンケーキはふくらし粉を使っていたのがペチャンコになり、オカズがつかないでフライドライスだけになるという具合に、たいへんわびしくなります。
この時期でも蝿がかなりいます。毎日ガラス窓にとまっているのを(だいたい5-7匹)ビニール袋に採集しておくと、ボーイが中身だけ捨ててくれます。全部とっても、翌日になるとまた5-6匹います。どこから来るのかわかりませんが、これまでに50匹くらいとりました。おそろしく怠慢な蝿で、手を近づけても逃げないので、指でつまめます。勢いよく手で追うと、逃げそこなって潰してしまうので、丁寧に追い立てねばなりません。この間は、飛んでる蝿を鉛筆でたたいたら、本当に命中してしまいました。この手で3匹落しました。マヨネーズの瓶のふちに止まったのを追ったら、あわてて中へ転げ落ちてしまいました。棄てるのはもったいないから、蝿だけつまみ出して食べています。うちのオクサンが来たら、きっと家中にBHCをぶちまけて、みんな中毒して死んでしまうかも知れません。
モモの花やシダレヤナギはもう終りました。生け垣は黄色いジャスミンが咲き、エニシダかレンギョウのようです。夜も月はじめほどには冷えなくなりました。山の方ではそろそろシャクナゲが咲き出したところもあるようです。
Sさんがヒマラヤの絵のついた切手をご希望とのことですが、特定の銘柄の切手を買うのは、われわれ勤め人には楽なことではありません。中央郵便局のカウンターはいつも混雑しています。ネパールの人は行列を作らず、我がちに窓口に殺到して金をつかんだ手を局員の目の前に突き出してどなります。電報局でも、外人が10人も行列しているのに、ネパール人は平気で先頭へ割り込むのです。
頭へきて「後ろへつけ!」とどなったら、不思議そうな顔をしていました。その一方僕の前にいた外人は「お前のいうことは全く正しい」なんて荘重な顔でうなずくのですが、たしなめるセリフは吐きません。局員のほうも順番などはかまわず、1番近い手と大声の持ち主の注文を優先します。僕のようにおとなしく、前の奴が済んだらなどと思っていると、たちまち横から割り込まれて、いつまでたっても目的を達しません。
幸運にも局員が僕の手の金をつかんだとしても、「切手をいくらくれ」という買い方はできても、「いくらの切手をいくつくれ」という言い方は理解されません。だいいちこれをネパール語でやらねばならないのです。ネパール人にすれば必要な金額さえそろえばよいのに、切手1枚ずつの額面なんか指定する奴の気が知れないのです。「切手を1.5ルピーくれ」と言うと、1+0.5 、1.5一枚、0.75二枚、0.25六枚、1+0.10×5、0.75+0.10×7+0.05という具合に、その時の手元のストックの都合でいろんな組合せでくれます。局員は各人専用の切手ケースを持っており、その中から売るのです。ですから手元に1.5ルピー切手しかない局員にむかって「1ルピー切手と50パイサ切手をくれ」といえば「チャイナ(ない)」という返事が返ってきます。「1.5ルピー切手ならありますよ」とは絶対に言ってはくれません。だからフクザツなことは言わずに、向うの選択にまかせた方が、早く郵便を出すという本来の目的を達するのです。ましてや「エベレストの1ルピーを5枚とマカルーの5ルピーを7枚」なんて言っても、理解してもらえないで、隣の男に先を越されてしまいます。だいたい切手の図柄をどうこういうなんて、郵便を何だと思ってるんだというような顔をされるのです。おまけに蚤を2回も拾いました。窓口の局員の手元の切手がなくなると、どんなに人だかりがしていようとサッサと窓を閉めてしまいます。フィラテリック・オフィスが別室にあり、ここは外人専用ですが、いつも開店休業で、人夫が昼寝をしているだけです。運よく係員がいれば、これはかなり丁寧に応対してくれますが、そんなチャンスはめったにありません。今後もしご希望の切手が貼られた手紙が行ったら、よほど運がよかったか、奮励努力したかだと思ってください。
いまさしせまった問題は、家へ入居することです。まだ家具も食器も食糧も買っていないので、ここしばらくは金も時間もとられそうです。サーバントはカルマツェレの末弟に決めました。細君はあと2ヶ月でパンクですが、それを差引いてもダンナより大きく、おとなしそうな人です。1歳の男の子がついていますが、娘が1人ナムチェの親許にいるそうです。
3月7日 スンダリジャールへ生態調査に行きました。僕がこの役所へコロンボプラン専門家として来た理由は、植物分類学の調査研究の援助が目的だったはずですが、来てみたら連中は「種類の調査は東ネパールは東大が済ませ、西ネパールはわれわれが済ませた。これからは生態調査で、中部ネパールの南北縦断調査をやる予定だからそのつもりで…」というのです。種類の調査が済んだというほど標本も資料もないのに、一応歩いたのだからすべての植物を採集できたと思っているようです。だいたい僕は生態調査など真面目にしたことはありません。山崎敬先生がやるのを一緒について行って見ただけです。だからといって「俺は専門違いだから、そんな調査はやらない」などとは言えません。こういうところでは自分がやれるかどうかよりも、相手がやりたいことを援助しなければなりません。
とにかく手始めに、20日ほど前に盆地南端のゴダワリに出掛けました。まだ下生えは冬枯れですし、放牧のため荒れています。林冠は飼料や燃料の採集のために枝を切られて不自然な形で、被度などは調べようもありません。とにかく最小面積(どのくらいの面積をとれば生態調査に適当かということ)を調べようと、枠のサイズをいろいろにとって木本の種数だけを数えたら、 100-200㎡であるらしいことがわかりました。ついでに草本の種数を調べたらまとまりが悪く、400㎡でもまだ増加率が下がりません。もう少し状況の良いところを探してみたかったのですが、とにかく連中のノンビリさ加減を知らなかったものだから、その日はそれだけでおしまいになってしまいました。「今度行くときにはポールがあるとよい」と言ったら作ってくれたのですが、鉄条網の杭みたいな太さで使い物になりません。そいつを細く削らせたり、巻尺の長いのを用意させたりしてる間に2週間たってしまいました。今日のスンダリジャル行きの経過は次のとおりで、ここの仕事のペースを理解する参考になるでしょう。
- 車でピックアップ。(異例の早出)
- 道路終点。これから採集しながら登る。
- スンダリジャールの水源ダム着。これから食事および標本のプレス。食事はパンに卵焼きをはさんだもの。女性所員の1人がウインナ・コーヒーを作ってくれました。コーヒーはインド製です。プレスは人夫がやるのでサーブは食べながら指図をするだけ。ちゃんと炊事道具や食器を入れた箱とコックがついて来てる。
- これから生態調査にかかる。
- 1ヶ所を終り、別なところへ移ろうとしたら、「食事ができてる」というのでダムまで戻る。次のところはダムのそばだったので、食事が済んでからでも十分やれると思った。
- 食事終り。これから調査にかかると、終わる前に暗くなり、帰路が危険になるということになり、荷物をまとめて下りにかかる。途中では採集せずに下る。
- スンダリジャールの麓に着いたけれど、16時に迎えに来ているはずの車がおらず、17:30までぼんやり待たされる。
こんな具合で、日本なら3ヶ所は調べられたのに、たった1ヶ所しかできません。べつにさぼっているわけではなく、彼らはネパールで最初の生態調査という歴史的事業に参加しているので、大変熱心なのです。1番困るのは食事時間の習慣が異なることで、いつどのくらい食べるのかまだよくわかりません。連中はどうやら2食なのです。このまえ山へ出かけたときには、2時頃まで食べずに歩き廻られて、こっちは腹ペコでフラフラになりました。今日はダムについた途端に食事が出たので、これは早昼だなと腹一杯食べました。ですから2時過ぎても腹はすきませんでした。ところが連中はほんの一口食べただけで、1時過ぎには次の食事をするつもりだったようです。僕は腹が減らないものだから、「指導」に熱中していましたが、彼らは次の飯が気になって仕方がなかったのです。ダムへ下りたときには、とっくに用意できていた食事は冷えていました。彼らにとって冷えた飯などというものは、食えたものではないのです。
彼らの採集ぶりをはじめて見ました。プラダン、グルン、タパの3人の女性職員は全然手を出しません。ペチャクチャしゃべりながら指さすと、ビスタがそれを採集しています。採ったものはプラダン女史(これは子持ちのおばさん)が持つ袋に入れるか、そばにいる小使いにわたしてその場で野冊にはさみます。野冊の紙は新聞紙ではなく、吸湿紙そのもので、つまり底抜けです。彼等4人の今日一日の採集品は15本(15種類にあらず)くらい。僕は45種類60-70本というところです。冬ですから少ないのかもしれませんが、のんびりしたものです。
帰路が暗くなると危険というのも解せません。今は結婚式のシーズンで、あちこちで楽隊を先頭にした嫁取りの行列に出会います。この行列を何時にするかは、占い師が決めます。昼間に限らず夕方のことも明け方のことも真夜中のこともあります。スンダリジャールあたりでも、帰りがけの薄暗い時刻にも出会いました。だから暗いと危ないなんていうことは考えられません。
きょうは結婚式に呼ばれました。金文字の招待状をもらったのですが、辞書に出ていない単語ばかりでちっともわかりません。「御」の字に相当する敬語や慶語が一々頭についているらしく、僕の持っている会話用辞典には1つも出ていないのです。訳してもらったら「息子のだれそれが結婚するのでお出でください」というもので、相手の名前は書かない習慣だそうです。5時に食事、7時に行列とありました。役所の人はみんな招待されているので、一緒に連れてってくれと頼んだら、5時に拾ってやるからホテルで待っていろということでした。それでは遅刻になりそうですが、お客の方がそのつもりなのですから、招待主は文句は言えないでしょう。結局5時半頃拾ってもらってお婿さんの家に行ったら、われわれの他はお客は誰も来ておらず、静かなものです。庭先には地鎮祭のように、竹を四方に立てて注連縄を回した壇ができています。壇は煉瓦を約1m四方に並べたもので、ここで火をたいて色々な供物を投げ入れた跡だそうです。竹の基部にはヒマラヤザクラの枝が添えてあり、バナナの葉で巻いてあります。バナナの葉で巻くことは必ずしなければならないけれど、桜の枝は他の植物でもよいのだそうです。注連縄の幣にあたるものにはインドボダイジュとマフア(Madhuca)の葉が使ってありましたが、インドボダイジュ(ピパール)は必要だが、他の葉は何でもよいそうです。この家はブラーマンですが、種族や階級によって作法が違うとのことです。
さて一室で待つこと1時間。その間招待主も来なければ婿さんも挨拶に来ず、客(といっても同じ役所の連中)だけで何となく話をしているだけでした。やけに静かなので、僕は婿さんが嫁さんを呼んでくるのを待っているのかと思っていました。そのうちに男客5-6人と共に呼ばれたので行ってみると、別室に料理が用意されていました。立食式で鍋から皿に各自でとります。炒め飯、肉や野菜のカレー煮、ダルスープ、これだけで、ホテルの昼食程度です。出かけるときホテルのマネージャーに、どのくらいディッシュが出るかとたずねたら、1ダースは出ると言われてきたのでいささかゲンメツでした。味は辛くなくてよかったです。それが済むとフルーツにヨーグルトをかけたデザートでこれはうまいです。コップの水(茶は出ない)。あとはベテル、チョウジ、カルダモン、カシュー、コプラ、干ブドウ等が混ざった鉢から各自適当につまんで終り。パーンもありました。このパーンにはベテル(ビンロウ)が入っていませんでした。女客はわれわれより先に食事が済んでいました。
それから待つことさらに1時間。もうまっ暗になり、女客は引き上げてしまいました。退屈になって門の外へ出て星をながめていたら、急に庭がにぎやかになり、婿さんが金ピカの盛装でレイをかけて現れたところでした。壷を小脇にかかえた人が、祭壇を小走りに回ってから、門外のジープに乗り込みました。婿さんのおやじは軍医で、このジープは陸軍の車で、護衛兵がついています。行列は軍楽隊を先に立て、車はその後からのろのろついて行きます。
結婚式は2日がかりで、第1日は婿さんが相手の家に行って泊り、翌日駕籠や自動車に嫁さんをのせて連れ帰ります。今日はその第1日で、いくら待っても嫁さんの顔は見られないわけで、がっかりしました。役所の人と帰る車(これも公用車)の中で、嫁さんの家に行くかときかれましたが、この分ではもっと待たされるばかりで大して期待できないし、あのノロノロ行列につきあうのはかなわないので、遠慮しました。僕はこういうことに好奇心がわかず、あきらめが早いのでダメです。
新婚のSh氏の話では、嫁さんを連れに行くのは本人でなくてもよいけれど、嫁さんが途中で逃げ出すといけないから、婿さんが行って首に鎖をつけて引っ張ってくるのだそうです。鎖といっても実際は紐を使うそうです。嫁さんを連れに行くのは暗くなってからで、この時刻は坊さんに決めてもらいます。今日の場合は8時でした。要するに、婿さんが時間待ちをしてる間、待たされていたわけです。
[2001年追記:結婚式で新郎側に招待されたときには手ぶらでよいけれど、新婦側の招待の際には金やプレゼントを持って行く習慣だそうです。1度新婦側によばれたことがあり、何やら持って行きましたが、入口にプレゼントの集積所みたいなものがあり、そこへポンと置いて終わりでした。記帳などはしません。]
今日は大安吉日らしく、ホテルに帰って一休みしていたら、楽隊を先頭に行列がやってきて、隣の家に入りました。ハリケンランプを肩にした男をところどころに配し、きれいに飾った自動車に乗ってきました。迎える側では庭に椅子をたくさん並べ、客が座るとお茶と何かを振舞っているようです。ホテルの門前まで出ると、田圃をへだてて様子がよく見えるので、双眼鏡を持って見ていました。この一団が着席した頃、別な一隊がやって来ましたが、これは道の途中で止まって、中の接待の様子を伺っています。この方は人数も少なく、みすぼらしいのですが、あとで聞いたらこっちの方が婿さんのいる本隊で、さきの一団はメッセンジャー役だそうです。メッセンジャーの方は接待がひとわたり済むと解散で、てんでに帰って行き、その後へ本隊が乗り込みました。今夜は婿さんはこの家へ泊るので(部屋が同じかどうかは聞きませんでした)、見ていてもつまらないから、引き上げました。寒かったです。明日は首に綱をつけているところが、見られるでしょう。今日僕が招待されたところも、退屈なのを我慢してついて行けば、嫁さんのところまで行けたのに、先日のパタンの踊りといい、僕はいつももう少しのところでしびれをきらしてしまうから、肝心のところを見損なってしまいます。
カトマンズは冬が終わって明日から夏に入ります。春は無いらしいです。2月15日に郊外のパシュパチナートという寺でお祭があり、これが冬の終りです。この寺はヒンドゥー教の聖地の1つでわれわれ異教徒は中へ入れません。仏教徒はよいそうですが、証明できないのでだめです。ネパールばかりでなく、インド中から人が集まるので、ホテルはどこも一杯らしいです。見物に行ったら大麻を売っていました。麻の雌花序ばかりを固めて、苧がらで包み、納豆のつとのような形と大きさのものが 100ルピーでした。バラしたものもありました。
この頃は毎日晴ですが、一日中もやがかかっていて、なんとなくサッパリしません。ナシ(ネバール語でナスパテ)の花が咲いています。午後からすこし風が出ますが、ブータンのチンプーやプナカで経験したような強い熱風ではありません。今朝は北西の風が強いなと思ったら、シャワーがあってのち晴れました。室内で最低約13℃です。
サーバントの交渉をしていたシェルパが今日やって来て、どうやら働くことをOKした模様です。彼のワイフに会っていませんので、こっちはまだOKしていません。2人に対して給料を払うのだから、顔を見てからでないといやだから、連れて来いと言っています。今月の10-13日は採集旅行に行き、14日に引越しという段取りで、少々キツイです。まだ家具もベッドも食器も買っていません。
3月28日 カトマンズはいま1番暑い季節です。3-5月が夏だそうで、雨が降らないのかと思ったらときどき夕立のものすごいのが来ます。昨日は寒冷前線(だろうと思います)が通って、20分ほどのうちに鶏卵大の雹が15cmも積り、風でトタン屋根がとばされて大変だったそうです。僕はちょうど盆地の北のシェオプリという山へ行っていましたが、そこではちょっと夕立にあっただけでした。カトマンズ盆地は、王宮をはさんで北半と南半で天気が異なることが多いです。
勤めは至極のんびりしたもので、10-5時ですが、12-1時は家に食事に帰ります。もっともこれはわれわれ外人だけで、ネパール人は昼飯は食べません。その代り役所で3-4時の間に軽食がでます。1皿ですが、なかなかバラエティに富んで面白いですが、トウガラシの味が強くてたまりません。僕は昼とオヤツと両方とって5時に帰ると、今度はイブニング・ティーが出るので、夜は少々もたれ気味です。
勤めの中身ものんびりしており、われわれのピッチで1日分を1週間くらいかけてやる感じです。会議は日曜(ここは土曜日が全休で日曜日は出勤、金曜日は半ドンではありません)と水曜日の朝30分ほどありますが、幹部がなにやらごそごそ言ってるのをみんなが聞いていて、ときどき質問に答える程度です。これ以外に会議はありませんが、集まって話していることが大変多いです。井戸端会議でダベッテるらしいのですが、ネパール語を少しかじった程度では、代名詞と笑声以外は意味がとれません。
とにかく仕事をする時間はたっぷりありそうですが、椅子に腰掛けている時間が非常に少ないのは、何故だかわかりません。それと鍵がやたらと好きで、今僕は家と役所と合わせて16個の鍵をいつもポケットに入れていないと用が足りません。5時になると建物の鍵を閉める係がやってくるので、定時退庁です。僕の部屋だけは鍵を持たせてもらい、鍵閉め係はお役御免にしましたが、建物の鍵係は別人なので、締め出されることに変りはありません。朝も他の部屋は係が鍵を開け、掃除係がきれいにするのですが、僕の室は僕しか鍵を持ってないし、僕が行く頃は掃除係のおつとめが終わっているので、いつまでたってもきれいになりません。
ここの物品係の部屋は、棚いっぱいに事務用品はもとより、大工道具、鍋釜、皿、コップ、ナイフ、フォークなどの食器類、扇風機、ふいご、天秤棒、もっこと、何でもそろっていて、サインひとつで手渡してくれます。鉛筆、消しゴムから虫ピン1本にいたるまであり、大学でもこのくらい常備しておいてくれたらよいのにと思います。カメラやフィルムのような高級品は所長室の金庫にしまってあり、所長が手ずから出してくれます。しかし鍵を持っている人がいないと、誰も開けられません。今日も顕微鏡写真のバックに黒い紙がほしくなり、暗室へ行ったら、担当者がいなくてドアがあかず、代用品で間に合わせました。その次にカメラのアダプターを借りに所長室へ行ったら、これまた不在。オヤツの時間につかまえて(この時はまず全員顔が揃う)、出してくれと頼んだら、「出すのはよいが、俺はこれから出かけるからしまえないよ」というわけで、オジャンになりました。明日は土曜日で休みだから、せっかく採った花がしおれてしまいます。「明後日まで預けておく」とは言わないのです。
こんな調子で、大学の皆さんには申し訳ないような勤めぶりですが、その代償に2回盗難にあいました。ひとつはカルカッタ経由の引越し荷物が、外見は全く完全なのに、中身が散々やられていて、私物ばかり10万円の損害です。カルカッタはこの種の事件では名高いところですが、保税倉庫で計画的にやられたもののようです。荷物が着く前にパッキングリストを役所の人に見せたら、「オーナメント ornament」と書いたところを指して、「これは何か」と尋ねます。日本語の方をみたら「飾りもの」とありました。要するに人形とか写真立てとかなのです。うちの奥さんが、辞書と首っ引きで英訳したのでしょう。「『ornament』というのは貴金属や宝石類と思われるから、必ずヤラレルぞ」と警告されたのですが、役所に提出した書類とドロボーとがどうして結びつくのかわからず、まさかと思っていました。荷物が着いてみたら、外観は無事でカルカッタ税関のシールも完全なのでホッとしたのも束の間、開梱しかけたら1㎥の木枠の中に分包した段ボール箱やトランク11個のうちの6個に穴があけられており、中身が引きずり出されていました。無事だったのは石油ストーブをはじめ、暑いところでは役にたたないものや、図体が大きくて引き出せない物だけです。盗られた主な物は電気釜(サイズではこれが最大)、電気剃刀、トースター(いずれも 220V用にわざわざ買ったもの)、医薬品、醤油、登山道具といったもの。山地旅行用のジュラルミントランクなんか、鍵がかかってないのに側面に大穴があけられていました。あちらさんの常識では、錠前がついているのに鍵をかけてないなんて考えられないのでしょう。保険はかけてありましたが、カトマンズには保険会社はありませんので、どうやって手続きするのか、これからゆるゆると調べなければなりません。保険金をもらうには、事故を発見したら直ちに保険会社に連絡し、社員の立ち合いを求めなければなりません。だから保険会社の人が来てくれるまでは、荷物を開きかけのまま片づけられません。調査用の道具もみんなパアになりましたので、また日本から送ってもらわねばなりません。さし当りの調査に必要な物品は、ここで探すことになります。
もう1つの盗難は、自転車につけていた小袋を、ちょっと目を離したすきにやられてしまったのです。中身は昨日はじめて泊まりがけで調査に出た、シェオプリという山の野帳です。コテージインダストリーという国営工場に行って、家で使う家具を注文しに5分ほど離れていた間のできごとです。がっかりして食欲がありません。役所へ行ってその話をしたても、「そうですか、もう一度出かけなければなりませんね」という程度で、あまり同情してくれません。もう一度行けば同じものが作れるから、金をとられたのとちがって回復可能だと考えるのでしょう。そもそもここでは、用心しないで盗られる方が悪いという感覚みたいです。
家を借りました。4Kというところですが、団地サイズと違い、1室平均9畳あります。しかしこちらの家具はよろず大形にできているので、あまり広く感じません。家賃29,000円。生活が定常化するまで何だかんだと金を湯水のように使わせられ、この2ヶ月間に1,500ドル近く使いました。節約はしてないけれど、無駄使いはせず、酒も煙草もやらず、レストランも映画館にも行かずでこの有様です。家を持つのは大変なことだと思いました。
ここでは家を持てば使用人が必要ですから、生まれて初めてサーバントを雇うことになり、シェルパの夫婦者(コブ 1.5つき)を使うことになりました。通常は1戸をかまえるとコック、小間使い、門番、庭師、掃除人などが必要なそうなのですが、これを全部2人にさせようというわけです。亭主がコック、ワイフが掃除です。ただいま料理の味をこっちの好みにさせようと苦労しています。元来知らないことを教えるのですから、つまるところ塩の±しか指図できません。奴の方も濃くすると文句がでるが、淡味ならばこっちが適当に塩を加えて食べるのであまり文句が出ないということがわかったものだから、今のところ老人食のような味に落着きそうです。月給300ルピー(1ルピー=36円)で、ネパール人にいわせると大変な高給だそうです。ネパールの若い中級官吏が400ルピー、その使用人なら100ルピーだったら高い方だそうです。この額は使用人にワイフがいようといまいと同じです。僕は亭主に200出して、ワイフも掃除をするから100という勘定でしたが、そんな配慮は無用なのだそうです。
4月1日 いまこれだけ(23本)鍵を持っています。1:ガレージ、2:P.0.Box、3:トランク、4:自転車、5-8:役所の部屋、9-12:予備、13-16:家のドア、17-20:家の戸棚、21-23:家のドアだが13-16で開けられる。このうち1-8、13-20の16コを常時携帯しています。
シェルパの料理は最初はやたらに塩気が多くて閉口しました。こっちも味つけの手加減を知らないから、いっそのこと塩を入れないでもらって、食卓でこっちが味をつけるようにしていました。しかしいつまでもこうでは困るので少しずつ調整をしています。どうやら極端な味のものは作らなくなったけれど、もう一歩という味加減と水の量がピタリときません。
先日中共製うどんを買ってきたのですが、僕がせっかく醤油でほどよい味にしたのに、テーブルに出てきたら汁は捨ててあり、麺だけになっていました。「うどんはスープをたっぷり入れるんだ」と言ったら、その次に炒めうどんにした時には、スープ皿に汁がたっぷり入って、炒めうどんが泳いでいました。彼等は汁気はあまりとらぬようです。飯も水加減はよいらしいけれど、蒸らさないですぐ盛るから、何となく弾力がなく、シンの残りのようなものがあります。電気釜はカルカッタでやられてしまったので、「はじめチョロチョロ中パッパ…」というのを英語で説明しなければなりません。味にしても「だし」だの「こく」だのという単語を説明するのはお手あげです。モモ(ギョウザとシュウマイのあいの子)はとてもうまい味に作るのですが、「こういう味で他のもやれ」と言ってもだめです。
彼のワイフの方は部屋の掃除をしています。男の子がハイハイでついてまわっています。たいていは庭か屋上にほったらかしてありますが、部屋へ入ってきたときは要注意です。赤ん坊のズボンの足の部分があるけれど、胴体の部分はありません。つまりオシリの前後はまる出しです。ということは彼の排出物は着衣に接触することなく外界へ放出されるということです。外にいるときはこれで何の不便もありません。ナムチェでなら(カトマンズでも)、固形排出物は犬か豚が直ちに処理してくれます。したがってオシメというものは必要ないのです。ですから赤ん坊にトイレの時間をしつけるということもありません。けれどもわれわれの部屋には絨緞というものが敷いてあるので、これをやられると困るのです。この小僧はハイハイが早くて、アッという間に進入してきます。僕が見ている時でさえ、何度がやらかしていましから、ふだんの日にはもっとやっているのでしょう。もちろん細君がその都度きれいに片づけますが、ウチの奥さんがきたら、どういうことになるかみものです。
4月1日 役所では標本室の連中がわからない標本を持って同定を頼みにくるようになりました。種については彼らの方がよく知っているのですが、不明の場合にどのグループのものかの見当をつけるのは、僕の方が上手なのです。でもときどきむづかしい仲間を持ち込まれて往生します。プラダン女史とタパ女史が1番よく現れますが、やり方が対照的でおもしろいです。
タパ女史は1度に5-6枚ですが、プラダン女史は両手にいっぱい抱えて来ます。そのかわりちょっと見てめんどくさそうなのは「わからん」というと「いいワいいワ」とさっさと引っ込めます。調べに少々時間がかかると、その間大あくびの連発です。30秒に1回くらい。それも手を口に当てたりせず、真っ正面で大きな口をあけて「アーア」とやります。こんなところはいくらなんでも大和撫子の方がまだ奥ゆかしいと思います。もっとも、結婚して子供ができるとこのくらいになるのでしょうか。タパ女史(こちらは未婚)の方は1分半に1回程度やりますが、こちらは口に手をあてて、ちょっと遠慮がちにやります。ビスタは男ですからあくびはしません。もっとまじめです。そのかわりやたらに首を振るくせがあり、話に熱が入るほど激しくなります。「種数面積曲線ではカーブが対数関数だから、半対数方眼で表すと直線になる」なんていうと、首の振りどおしですが、数学は弱いとみえてわからなかったようです。シュレスタは首は振らないけれど、かなり吃る癖があり、あらたまってなにか言とうとするとなかなか言葉が出てこないので、気の毒になります。
4月5日 家主のガードナーをパートタイムで借りて、庭の手入れをすることにしました。1日2ルピーです。ちゃんと雇えば月100ルピーくらいだそうです。ここの庭にはもともと花壇はなかったのですが、見ていると煉瓦で囲って中の土を起すだけで、肥料などは入れてないようです。もっとも肥料を入れるなら、こっちが買ってやらねばなりません。種子や苗は当方持ちですが、今のところ何も手持ちがないので、彼が自分の畠からダリヤ、アマリリス、デージーといろいろ植え込んでいます。この代金はいずれ請求されるのでしょう。門の脇に蔓バラの1mほどのを植えたのをみたら、蕾をいっぱいつけたものでした。枝を詰めるでもなくそのままなので、今日で4日目ですが、チリチリになって焼海苔のようです。親の代からのガードナーなのだそうですが、こんな程度です。
先日山で春咲きのサクラとナツボウズの子供みたいなのを採ったので、挿木をするために砂床を作らせようとしました。「ここをこれこれのサイズに囲って、土をどけて、粗い川砂を入れろ」とシェルパの通訳で命じました。翌日できたのを見たら、囲いは石で立派なものでしたが、中は腐葉土が入っていました。「こんなのでなくただの砂だ」と言ったら、次には堆肥になっていました。門の前にコンクリート工事に使った砂が少しあったので、「こういうのを川から持ってこい」と言いました。それでようやく砂が入ったけれど、おそろしく微細な砂で水はけが悪くて使えません。このあたりはどこも粘土質で、田圃の土をこねて焼けば煉瓦になります。「この砂を半分出して、もっと粗いのを入れろ」と言って、やっとなんとかなりそうなものができました。しかしこの間5日もかかったので、挿木の材料の方はビニール袋の中でくたびれてしまい、無事には育たないでしょう。彼は毎日、日暮時に水をやります。もともと水はけの悪い土だから、翌朝まで水が溜った状態になっています。
ここには花屋や種子屋はなく、苗屋がいくつかあり、そこから花や鉢物を仕入れます。良いものを入手したければ、市外の農事試験場へ行くのだそうです。朝、神様にそなえる花はそこらによく咲いているジャスミンです。平皿に花と赤や黄の粉と水と米と、その他何やら少しずつのせて、みんなどこかへ行きます。水壷を持って行くのは別なところで、もっと早い時間です。朝早く町へ行けば、そういう風景が面白いし、市場もいろいろな物が出ていることはわかっていますが、まだ一度も行っておりません。こういうことは旅行者である方が好奇心が旺盛でよいのかもしれません。
4月5日 今日は南のはずれのフルチョウキに行きました。当初からすぐ出掛けるつもりでしたが、役所の車を出せというと、来週にでも行くからと言われ、あてにしているとうやむやになり、催促するとまた来週という具合です。これまでに出掛けた所も、来週行くと言ってから2-3週間は遅れるのが常でした。フルチョウキは盆地の最高峰で、車が無いとむつかしいので、仕方なく待っていたのですが、車の使用が混んでいて週日は借りることができそうもありません。「自分で運転するから、休日に使わしてくれ」と切り出して見たが駄目でした。「役所の車は休日に使ってはならん」というきついお触れが最近あらためて出たのだそうです。以前から一応そういうタテマエでしたが、何とか理屈をつけてみんな使っており、僕が来た頃はこの役所の連中は休日も気軽に使っていました。それが近頃は駄目になったそうです。
町のジープを雇えないことはないけれど、運動かたがた自転車で行くことにしました。チャパテのジャムサンドを4枚持って、9時過ぎに出掛けました。カトマンズ盆地は何段もの段丘があり、バクマチ川の面(1,280m)を0とすると僕の家のあるタパタリの丘、カトマンズ市街、パタンなど(1,300m)はⅠ、バラガオン(1,400m)はⅡ、ゴダワリ(1,500m)はⅢということになります。道はパタンから先は砂利道でものすごいほこり、段丘の端では車を押さないと上がれません。自動車で1時間弱だから自転車で1時間半とみていたのですが、実際はゴダワリまで2時間近くかかり、日照りでノビました。ゴダワリから先の山へかかると、頂上へ行く自動車道は思いのほかの急坂で、途中であきらめました。花はまだきわめて少なく、スミレが3種類あったくらいです。キブシはもう終わっていました。あきらめたのはよいが、山道の下りはもっと大変でした。自転車であんなにこわかったのは初めてです。両手でブレーキをかけても十分止まらず、止まるとつんのめってしまいそうになるのです。リュックサックを盗難でなくして、布袋をぶらさげて行ったら、袋を落としてカメラを傷めてしまい、自転車もブレーキ金具がふっとんでしまいました。中共製は軽くてよいのですが、ヤワでした。
やっと麓のゴダワリへついて茶屋で一杯やってる間に、だれかがタイヤのバルブをゆるめてしまい、5分も走ってた空気が抜けてしまいました。ここらは自転車屋に行かないとポンプがないし、その自転車屋は近いところでも1時間先のパタンまで行かないとありませんから絶望的です。いたずら慣れしているようで、乗ったときには全く気づきませんでした。30分ばかり折角の下り道をゴロゴロ押しながら歩き、大きな部落に入ったので軒並みにポンプがあるかと尋ねて、やっと空気を入れることができました。こういう変ないたずらをやられるので、こっちもだんだんコスッカラクなります。これからはちょっとでも車から目をはなした後は、バルブを確かめねばなりません。
それにつけてもこの自転車を買ったばかりのとき、スワヤンブ・ナートの裏へ行ったときのことを思い出します。そのときは丘の上まで引きずって上り、その先も道が悪そうなので農家にあずけました。ネパール語でおやじさんに「これあずかっといてくれ」と頼んだら簡単に引き受けてくれました。2時間ほどして戻ってきたら、子供が納屋にしまってあるのを出して来てくれました。その子に25パイサ(1ルピーの1/4)握らしたら、遠くで見ていた親が戻ってきた子供に「どうした?」と尋ねています。子供が手の中を見せると、こっちに軽く手をあげて「どうも」という身振りをしました。その態度が非常に好感が持て、教養を感じました。1ルピーもやったら「多すぎる」とたしなめられたことでしょう。農家と見たのは僕のヒガ目で、実際にはハイクラスの家族なのかも知れません。
帰路は風が吹きはじめ、体中カラカラになりました。ここでは水道の水を飲めないのでつらいです。町まで行ってビールを買い、家へ帰ってシャワーをあびてから水で冷やして飲もうとしたのですが、断水でした。シャワーはあきらめ、ビールの方は手拭を巻いて汲みおきの鍋の水をかけ、それを何度も振り回して蒸発させて冷やしたらhotでない程度の温度になりました。
懸案の損害保険の方は、インド大使館にLloydの代理人がいることを、日本大使館の人が教えてくれました。行ってみたら、大使館員の1人がそれでした。国家公務員が保険会社の代理人をやるというのは、日本ではちょっと考えにくいことです。一緒について来て、ただ見ただけで立ち会い検査は終了。3日ほどして証明書を取りに行き、手数料と出張費を払って書類を手に入れました。これを日本の保険会社に郵送、後日保険料を受け取ることができました。
〇フルチョウキ
やっとのことでカトマンズ盆地の最高峰フルチョウキの頂上(2,700m)まで行ってきました。結論から言うとまだ全然時期が早くて何もないです。頂上は Quercus semecarpifolia(ウバメガシに似ている)に囲まれていますが、石灰質の岩がゴロゴロしており、眺望はよいけれど、靄でカトマンズの町は見えませんでした。4月13日がこちらの元日で、大晦日と続けて休日です。2日連休に家に居ても仕方がないから、ゴダワリ植物園のゲストハウスに泊めてもらってフルチョウキに登ろうと計画したのですが、実に複雑怪奇な経過をたどったあげく、4月11日1日だけになってしまいました。
1969年4月9日 所長に「11日午後、車でゲストハウスに送ってもらいたいこと、11-13日はそこに泊まりたいから手配して欲しいこと、14日昼頃迎えの車を出して欲しいこと」を申し込む。返事は「11日は今年最後の日だから(ネパール暦でのはなし)車の使用が多くて無理。明日10日幹部がゴダワリ植物園へ行くから、その時同乗して行ったらどうか。14日の迎えは出す。」ということなので、OKと返事しました。こっちは休みを潰して行くのだから、ウイークデイの10・11日に行くつもりはさらになく、明日になったら「急用で大使館と連絡せねばならないから、10日の植物園視察には行くが、泊らないで帰る」と言うつもりでいました。役所の車がだめなら、12日朝ジープを雇って林道の終点まで行き、頂上へ行って夕方までにふもとのゲストハウスへ着けばよいやという考えでした。10日にはゲストハウスの様子を見ておこうというつもりです。所長に「ゲストハウスはランプが必要か?」とたずねたら「あそこは自家発電だから大丈夫」という答でした。
4月10日午前 マルラとシュレスタが来て、15日(火曜)から1週間の予定で低地のシムラまで旅行するから同行しないかと言うので、もちろん行くことにしました。月曜にゴダワリから戻って火曜に行くのか?と尋ねるので、そんなことは平気だよと返事したら「お前は若いネ」と言ってくれました。別に皮肉ではなさそうです。傑作なのは、もう帰路の飛行機の切符まで買ってあるのに、誰が行くのかが決まっていないのです。2人がその場で相談していました。1人は新人で、そのトレーニングのためにもう1人、シュレスタとビスタのどちらかが行くことになるのです。マルラに「お前行けよ」と言われてシュレスタはぶつぶつと行きたくない様子です。新婚だから無理ないでしょう。彼は少々蒲柳の質で、蕁麻疹などが出る男です。結局誰になるかは今日は保留になりました。
シュレスタが言うには、12日にインド大使館主催のフラワーショウがあり、薬草局も出品することになっていて、自分がその担当である。今日午後植物園に行って材料を選び、12日の朝会場へ送るよう指示する。自分のプランはシダの葉を屏風のように並べた前にArisaema nepenthoidesを2つ3つ立てる。地は砂と石を敷き、小さな紅い花(サクラソウ)を散らすというものだが、意見はどうだというのです。彼らは左右対称というデザインを「美」として尊重します。こんなのに下手に意見を言うとヤブヘビになるから、"excellent!"とかなんとか言っておきました。さらに言うには、Arisaemaが生えているかどうかわからないので、できれば今日山へ行って見つけておいて、当日人夫が採るようにしたい。山へ行けば遅くなるから、今夜はゲストハウスに泊るつもりだというのです。「Arisaemaがあるかどうかは、現在フルチョウキの植物目録を研究所で印刷中なので、その原稿を見ればよいのに」と言うと、「あれは植物園の人夫が採ってきたものを並べただけなので、自分らはどこに生えているかも知らない」という返事でした。彼らの「調査」とはそういうものなのです。何時に出掛けるのか聞いたら、午後2時ということでした。
4月10日午後 シュレスタが一緒に行って泊るというので、その気がなかったのが、折角彼が行くというのだから、少し日数が多くなるけれど同行しようという気持ちになりました。急いで銀行から金をおろし、採集用の新聞紙を日本人の家からもらい、山用の服装をして役所に行きました。2時になっても車の出る気配はなく、3時過ぎにシュレスタがやって来て「おやつを食べよう」と言います。見ると背広に短靴という普段の恰好でした。車で行く途中に家へ寄って着替えるのかなと思っていました。おやつが終わったらそのまま所長や上級幹部と車に乗り込み、植物園に直行。着いたら4時過ぎでした。これから山へ入るわけはないので、泊って明日登るものと思いました。所長が「ゲストハウスへ案内しよう」と僕だけ車に乗せて行きました。しかし行った先はゲストハウスとは違う二階建ての空き家で、彼は「ゲストハウスには電気がないからこっちにしてくれ」と言います。番人はいるけれど「そいつに食事を頼んでもよいか」ときくと「頼んだってよいけれど、奴が作れるかどうかわからない」という返事です。でも何とかするからというので、そこへ荷物を置いてまた植物園へ戻りました。
植物園では彼らは長いことあちこち行きつ戻りつしながら議論していましたが、こっちに説明してくれないのでちっともわかりません。あとで聞いたら、ガーデンパーティー用の広場を作る位置を選んでいたのだそうです。僕だって意見の1つや2つは言えたのに、聞かれないからだまって時間をつぶしていただけでした。彼らは普段はネパール語でしゃべっていて、僕も多少はわかるのですが、聞かれたくないときにはネワール語に切り換えます。ネパール語はヒンディー語系の言葉で、全土を征服した現王朝のグルカ族の言葉ですが、ネワール語はカトマンズの本来の住民のネワール族の言葉です。この2つの言葉は言語体系が全く違い、ネパール人の間でも通用しません。
それが済むと正門の噴水のまわりに坐って、とりとめのないおしゃべり。これはお茶とゆで卵の用意ができるのを待っていたことが後でわかりました。それから僕の飯をどうするかを話していたらしく、炊事道具は持って来たか、食器や野菜はあるのかなどと尋ねられました。こっちはゲストハウスへ泊るのだから、当然コックがいて万端やってくれるつもりで、何も用意していません。そのうちにシュレスタが「金井さん、明後日の朝、花とシダを送ってくれるか?」と聞くから「いいですよ」と返事をしました。そしたら「Have a good time」とか言って、一同車に乗って帰って行ってしまいました。シュレスタも!後に残ったのは僕と植物園主任のラジバンダリで、彼はゴダワリの官舎に住んでいるので、僕の世話をすることになったようです。
結局ゲストハウスには電気もなく、コックもいないのだということです。このゲストハウスは僕が赴任したとき、住居として先方が提供することにしていたもので、「園専用の水力発電所があるし、体だけ持って行けば何もいらない」と所長は言っていました。カトマンズへ通うにはあまりに遠いのと、車の提供がないので断った代物です。このゴダワリには茶屋のほかには店はなく、手に入るのは鶏と卵とジャガイモとタマネギくらいで、あとは全部カトマンズに行かねばならないことがわかりました。こんな住居を平気で勧めるのですから、気が知れません。寝袋を持って来たからよいけれど、ゲストハウスだから毛布くらいは、というつもりで来たらひどい目にあうところでした。ラジバンダリの家は若い奥さんと4歳の男の子がいて、食事はまあまあでした。彼は公用車のソ連製ジープを持っているので、「明日林道の終点まで送ってくれないか」ともちかけたら、「あそこまで行くとガソリンを食ってしまうからだめ」と断られました。ガソリンはカトマンズまで行って入れるそうです。この辺は豹がいるから、夜は出歩くなと言われました。
4月11日 朝、ラジバンダリが迎えに来て飯(チャパテと野菜の煮たのとペースト状のピックルス)。この朝飯もネパールの習慣としては早すぎる時刻なので、特別サービスなのかも知れません。それから植物園の人夫を2人連れて登りにかかりました。踏み跡伝いに尾根を真っ直ぐに登り、何も採るものがないまま林道の終点に達しました。以前ここにあった採鉱キャンプはなくなっていました。鉄とマンガンがあるにはあるが、採算にのらないので掘らないそうです。そうすると林道もそのうち駄目になるでしょう。麓にマーブルインダストリというのがありますが、ただの採石場で、砂利を作るだけです。林道終点の先に池というより泥沼があります。この辺は石灰岩のドリネ地形のようで、ところどころに岩穴がありますが、小さいし奥も浅いようです。しかしこの辺は違った植物があって、よく調べたら面白いでしょう。ヒマラヤシャクナゲのキャンベリエ変種(Rhododendron arboreum var. campbelliae)も上部に出てきます。Rh. arboreumは葉裏が銀白色で紅い花、var. campbelliaeはそれより高い所に生え、葉裏に赤茶色の毛があり白花(ピンクも多い)。Arisaema costatumもここのものが標本にありました。もう1つの標本は西ネパール・ムスタン付近の open place の産で、どんな所かたずねてみたら「たしか松林だった」そうです。ほんとですかネ。
頂上でラジバンダリ夫人のランチを食べて、2時に下山にかかりました。この頃から人夫が道草を食いはじめ、ちっともついて来なくなりました。連中は役所から何か言いつかっているらしく、シャクナゲの花ばかり集めたり、着生ランを採ったり、こっちの荷物を置きっぱなしでかけ回っているので、自分で全部かついで先に行きました。僕は採鉱キャンプ跡の南側の露岩地が見たかったので、道から外れてしばらくガリーの中を下りました。このガリーは採鉱キャンプ時代のトイレだったようで、おかしな臭いが残っていましたが、年数が経っているのであまりバッチく感じませんでした。その間に人夫は追い越して行き、後ろ姿は見えたけれど、こっちは昨日からのこともあってムカついているので、わざとゆっくり下りて行きました。うす暗くなる頃麓に下りたら、人夫が青くなって引返してくるところでした。ラジバンダリの家の近くに来たら、彼がジープで出掛けるところなので、「どこへ行くんだ」ときいたら「お前を探しに行くんだ」という返事でした。見たらジープには村人が10人ばかり乗り込んでおり、夜中の捜索のためにペトロマックス(ハリケンランプ)も用意していました。彼らは僕が道に迷ったと思ったらしいです。こういう時はさすがに惜しいガソリンも意に介せず、村人を集めて出掛ける気になってくれたので、昨日来のウップンが少々晴れた気持ちでした。数年前にイギリス人のアドバイザーが道を間違え、反対側へ行ってしまったことがあるそうです。豹ばかりでなく熊もいるぞと脅かされました。
ラジバンダリは明日は正月休みのため、ここを引き払うというので、「俺はあと3日いるけれど、メシは誰に頼んだらよいか?」とたずねたら、しばらく考えたあげく「明日われわれといっしょに引き上げた方がよい」という返事でした。どうもゴダワリでは1人ではメシにありつけないようです。強いて残ると本当に干乾しになりそうだし、山の方も続けて登るよりは季節を変えて来る方がよさそうだし、月曜に迎えの車は頼んであるけれどアテにはならないし、火曜からシムラに旅行に出るのに前日遅く帰ったのでは準備が忙しいし……などで、明日引き上げることにしました。
4月12日 今日は土曜で、公用車は動かせない日なのですが、フラワーショウの材料を運ぶという大義名分があればよいのです。朝、前の湿地でちょっと採集してからラジバンダリ宅で朝食をとり、宿舎の小屋に帰る途中、靴の中がベタベタするので脱いでみたら血だらけでした。朝の湿地で蛭にやられたのです。まだ時節が早いと油断していました。
10時に家へ帰りつき、片づけて昼寝をしようとしたのですが、隣家で大勢が鐘やハルモニア(左手で空気を送って右手で演奏する卓上オルガン)つきで歌をうたっているのでやかましくて眠れません。この歌は御詠歌みたいなもので、月に何度か、婦人が主体になって短くても半日、長ければ1日中歌っています。町の中のお寺へ夜行くと、男たちがやっています。今日のは夜中の12時まで続きました。同じ文句を繰り返すところがあるのですが、何度聞いても「おいしいチャーハン…」と聞こえます。仕方がないからフラワーショウに行きました。ショウを見に行ったのではなく、日本大使館の人に出会うためでした。サンショを探してくれと頼まれていたので、昨日芽を摘んできたのです。匂いはかなりキツイです。届けてやれば「今晩いかがですか」とくるかなと思ったのですが、エビタイは成功しませんでした。
こういう次第で、3泊4日の予定が4泊5日となり、結局は繰り上がって2泊3日になってしまい、ネパールの大晦日と元日はネパール人なみに休まされてしまいました。日本とちがって休日に働くことが大変むつかしいです。ついでに書くと、12日から出かけるはずだったシムラ行きは結局延びて、17日からでした。
[後日譚 フルチョウキは今では頂上にレーダーサイトが建設され、軍が常駐していて、自動車でそこまで行けますが、おかげで周囲は荒れてしまいました。
ラジバンダリ氏は後年、その研究業績に対して国王から勲章を授与されました。彼の専門は組織培養で、ジャガイモの不定胚を組織分化させてイモを作る技術を開発したのです。不定胚を組織分化させることは、当時たいへんむつかしい技法でした。これによって病原体を含まない種薯を作ることができるようになり、農務省に技術移転した結果、ネパールの農業生産に多大な貢献をしたというのが授章の理由です。彼に「すばらしい仕事なのだから、ちゃんとした研究誌に発表したらよいのに」と言いましたら、その返事がふるっていました。「ウチの研究所は金欠だから、実験装置がまともに動かない。たとえばサーモスタット1つとっても故障続きで、温度管理がどうなっていたのか記録できない。実験はうまく行ったのだけれど、その記録がとれないので発表できないのだ。もしかしたら、機械がいい加減だったから成功したのかも知れない」というわけです。技術移転するからには再現性があるわけですから、もう一度記録し直せばよさそうなのに、「面倒くさい」そうです。]
〇カトマンズ(2)
1969年5月10日 断水は常習的になりました。シェルパの小屋の屋上タンクは地上3mで、ここには入りますが、僕の家のは4m、水圧は3.5mくらいなので、あと一息でだめなのです。シェルパが運んでくれるけれど、気をつけないとときどき妙なことが起こります。たとえば風呂をわかすときです。温水器は家中で1番高い所にある水道具なので、うっかりすると空焚きしてしまいます。そこである種の手続きで水が来ていることを確かめてから湯を作ります。温水器はインド製で、流しながらは使えず、溜めた水だけを加熱できます。一度湯を使ってしまうと2時間近くかからないと次の湯ができません。だからなるべく高温にしておいて、水でうめて使うのです。あまり高温にすると沸騰して事故を起こすので、80度に設定してあります。サーモスタットはイギリス製なので、信用しています。バスタブに湯と水を等量ずつ出しておいて、しばらくして見にいったら、水の口からも湯が出ていました。屋上タンクの水が無くなっていて、温水器から冷水の方へ逆流していたのです。こうなるとうめることができないから、風呂に入ることができず、泣き寝入りでした。
今日は休日で、昼食にうどんを食べようと持ってきてくれた人がおり、モリにするつもりで茹でたまではよいが、冷やそうとしたら台所の水は出ません。バスルームの方が蛇口が低いので、そっちへ持って行ってジャージャーしばらく流していて気がついたら、熱湯でした。昨夜作った湯が逆流しているのです。万策尽きて鍋を抱えてシェルパの家のトイレへ駆け込み(この家はトイレに蛇口があるだけ。これが1番低いところにある)、そこでやっと冷やすことができました。
5月29日 自動車を物色しています。ヨーロッパから若者が陸路で来て、帰りの旅費を作るために売りにだす車がよくあるのです。町で「For Sale」と札をつけた車をよく見かけます。
インド人のアドバイザーが「フォルクスワーゲンが売りに出ている」というので、連れて行ってもらいました。ヒッピーよりすこしマシなドイツ人で、キャンプ道具と合わせて600$だそうです。むこうのニュアンスではキャンプ道具 150、車 450くらいのつもりのようです。インド隊員は車はすでに持っており、キャンプ道具が目当てなのです。僕が行きがけに「500$くらいなら出してもよい」と言ったものだから、道具 100、車 500の配分になってしまいました。500$は相場ですし、車の調子は良いので悪い買物ではありません。僕の給料がまだ届く前なので、いったん家に帰り、財布を確認してからということにして、明後日午後に会うことにしました。明日は大使館で紅白歌合戦の映画会があり、ビールがただで飲めるからそっちの方が大事で、明後日にしたのです。
懐は500$出せそうなので用意して、明後日会ってどうだと言ったら、車の方はそれでよいが、道具の方は150$にすると言い出しました。100$は前々日確認したことなのですが、昨日のうちにもっと出すという奴が出てきたのでしょう。インド隊員が「約束が違うから取りやめだ」と帰ってきてしまったので、こっちも仕方なしに帰りました。僕の方は合意してるのだからインド隊員だけおりればよさそうですが、インド隊員としては抱き合せで安く買えると思ったのに、自分の分だけ値上がりしたものだから、腹癒せに僕まで巻き添えにしたのです。「650$なんかで買う奴はいないから、今に泣きついてくるさ」とうそぶいていたけれど、しばらくして奴のホテルの前を通ったら、車はあったけれどFor Saleの札は取ってあったから、売れたのでしょう。大使館のビールに誘惑されて1日のばして、惜しいことをしました。
昨日またFor Saleのフォルクスワーゲンがいたので、いくら欲しいと尋ねたら700$でした。これはちょっと高すぎます。マイクロバスやキャンピングカーは1,000$以上です。
先月はじめ頃から断水がときどき起るようになりました。在留者にきくと、冬から春先にかけて水道の末端ではよくあるのだそうです。カトマンズの水源は北の方ですから、それを知らずに、1番南の端のしかも高台の家を選んでしまったのは失敗でした。そうと知っていたら家賃をまけさせる材料になったのに。夜中には来るけれど、日中から夕方にかけて、水圧が下がってしまうのです。どの家でも屋上にタンクを備え、そこから全部の蛇口に配管してあります。シェルパの家の屋根にもついています。ところが奴の家のタンクはこちらより低いので、水圧が低くても水が入ります。しかし僕の家までは上がってくれません。そうなると配管の構造上、僕の家だけ全面断水となります。シャワーも使えないし食事の仕度もできません。水道はちゃんと出るようにすると契約書に書いてあるので家主に文句を言ったら、「シェルパの家のは鉄管が細いから上がるが、お前の家のは太いから上がらないのだ。細いホースをシェルパの家の蛇口につないで、お前の屋上タンクに水を入れてやる」と言います。毛管現象じゃないからそんなことしても駄目だというのに、大真面目でホースをつないだが、奇跡は起りませんでした。「このホースはいくつもつないであるので水が漏れてだめ」なんだそうです。ニュートン力学を図解して説明したのですが、理解しませんでした。これで砲兵大佐なんだから、よく弾丸が飛ぶものです。結局シェルパがバケツで屋上タンクに水を運んでくれ、何とかなりました。入居のとき一応念をおして、大丈夫といわれたし、すぐそばのずっと高い建物(大邸宅の残骸で4階建)に人がたくさん住んでいるので安心していましたが、ちょっと困りました。ネパールの人は水道が出ないということをそんなに苦にしません。元来彼らの台所は最上階にあり、朝そこまで水を運ぶのは女の当たり前の仕事なのです。なにしろ家賃を5ヶ月分前払いしてしまっていますので、当分逃げ出せません。5ヶ月たてば雨期の最中ですから、水はいくらも出ているでしょう。
6月21日 H先生一行が引き上げた翌日の6月10日から雨期に入りました。それまでは空に靄がかかったような状態で、雷雲ばかり出ていましたが、急に空気が透明になって、まわりの山がよく見えるようになったと思ったら、次の日から雲が点々と現れ、雨がショボショボ降り出しました。今日は朝から梅雨のような降り方です。でもおかげで水不足は解消です。
H先生たちの標本を乾かすのに、東京で作ってきた電気乾燥機を1日中回しています。役所では定時出勤定時退庁なので10時-5時までしか使えず、能率が悪いからです。この乾燥機は2kWあり、風呂の湯沸かしも2kWあります。家の電気の容量は3kWなのですが、両方同時に使ってしかも家中の電灯を全部つけてもヒューズがとびません。ヒューズボックスに触ると熱くなっているので開けてみたら、ヒューズの代りに銅線がつけてありました。入居前にヒューズボックスを見たら、コード用の撚り線がつけてあったので、家主に注意しました。家主は電気屋を呼んで直したのですが、まさか電気屋が銅線を入れるとは思いませんでした。一見したところメッキしてあって白光りしていたので、ヒューズと思っていました。これならいくら電気を使ってもヒューズはとびません。ここの家は煉瓦造りだから漏電火災の心配はなく、他の家でも同様でしょうから、いまに変圧器が焼けて附近一帯が停電するでしょう。その修理は電力会社の担当だから、消費者の懐は痛まないのです。大きい電力を使うと、家の中が何やら焦げくさくなります。配線は煉瓦の壁の表面を這っていますので、どれかの線が過熱しているかと思って触ってみましたが、そういうことはありません。ところが線の繋ぎ目は軽く捻ってあるだけなので、ここの接触が悪くて熱を持つのです。町の電気器具屋へ行ってコネクターを買い、ネジ止めしたらやっと直りました。でもこうすると別な継目がまた焦げくさくなり、とうとう家中の継目をみんなつなぎ直したら、焦げくさいのはやっとおさまりました。これでおしまいかと思ったら、1月ほどしたある日、バリバリと大音響がするのでとんで行ったら、電気の取り入れ口につけてある大型のメインスイッチから火花がとんでいました。スイッチの接触がもともと悪く、そこへ大電力を流し続けたのでとうとうパンクしたのです。とりあえずメインスイッチを取りはずしそれを電気屋に持って行って同じものを買ってきました。機能が同じでも製品が違うと、壁にあけてある取りつけネジ穴に合わないから困るのです。
木造ではないからこういうことがあっても火災の心配はないですが、穴が合わないとコンクリートや煉瓦の壁にあらためてジャンピングをせねばなりません。この両刃スイッチを壁に取りつけて結線するのですが、200Vが生きているままなので、ちょっとコワかったです。前にインド製の電気湯沸かしを買ってきたらすぐおかしくなり、感電したことがありますが、とても痛かったです。とにかく無事に工事を終り、家の中の電気は正常になりました。この次は外の変圧器が焦げる番です。停電に備えて蝋燭を買いました。直径6cm、長さ20m、1本150円という代物。1本つけると本が楽に読めます。
電気ではもっと傑作なことがありました。家中の電気器具を全く使わないでも、電気のメーターが動くのです。これは電気代に影響するので、血眼で探しました。ヒューズの例でわかるように、電気屋は頼りにならないのです。ここではコンセントの穴は消費電力が小さいものでは2個、大型のコンセントでは穴が3個あります。3個の場合1個はアース用ですが、電気器具にアース線のついているものはなく、コンセントの方もアースされていません。家の場合、奇跡的にアースされた線があり、それがまた奇跡的に電源の線に誤配線されていたために、電流が地面に直接流れていたのです。散々探しまわっておかしな接続箇所をみつけ、線を切ったら、メーターはようやく止まりました。日本からドライバーセットと小さなテスターを持って行ったのが役立ちました。
この他に工作道具をいろいろ持って行きましたが、みんな役に立ちました。ここは210Vですので、日本の電気製品を使うには皆さん万能変圧器を買って使っていますが、ウチでは100V用の器具を直列につないで使うという細工をしましたので、たいていの用は足りました。どうしても単独で使うときには、固定電圧用の小さな変圧器を使いました。
その次は風呂です。バスタブはコンクリート製で外人用ですから、容量はタップリです。温水器は80度にしてありますから、それを全部入れて水でうめれば、1人入るにはちょうどよい温度になります。…と思っていたら、そうではありませんでした。浴槽がコンクリートですから温まらず、体に接触する浴槽の面は冷えたままなので、気持ちが悪いのです。折角入れた湯も、すぐ冷えてしまいます。家族が来れば総勢4人ですから、少なくとも子供の入る時と大人の入る時で湯を入れ換える必要があります。ところがWater heaterは1回使ってしまうと、次の湯ができるのに2時間はかかりますので、そんな悠長なことはできません。結局、投げ込み湯わかし器を使えば、浴槽の中の湯と浴槽自体を同時に温められるという結論になりました。投げ込み湯わかし器は電気屋で売っていますが、すくなくともインド製はすぐ漏電するので、コワくて使えません。220Vで感電すると、ビリビリではなく、体が吹き飛ばされるようなバシッとしたすごいショックがあります。ほかの会社の製品にしても、加熱効率はおそろしく低いです。そこで手製することにしました。要するに電熱器を水の中に放り込めばよいのです。
2kWのニクロム線をつないで水中に入れ、通電したらちゃんと働くことがわかりました。でもそのままではフニャフニャで扱いにくいので、30cmほどの木枠を作り、釘を打ってニクロム線を張りわたしました。オフィスに転がっていたランの吊り枠の材料を拾ってきて使いました。これで扱いやすくなりましたが、水に浮いてしまいます。煉瓦を1つ紐で結わえつけたら、おとなしく沈んでくれました。水中ですから麻紐でも焦げる心配はありません。次に電源の開閉ですが、スイッチはつけず、プラグでコンセントへ抜き差しするようにしました。スイッチだと片切りなので、使用してないときに感電するおそれがあるからです。ただしここのコンセントの受け金はおそろしくヤワで接触が悪いので、通電中は紐でしばっておくことにしました。これらの仕掛けはきわめて有効で、わが家では風呂についてはまったく不自由を感じませんでした。在留邦人中で唯一の装備です。包装用の発泡シートを浮き蓋のように使ったら、一層有効でした。加熱通電の最中に湯船に手を入れてみても、感電しません。電気はニクロム線の方が走りやすいので、わざわざ水の中から人の体まで寄り道しようとは思わないようです。1番コワイのは電源の開閉のときですので、これは私とワイフ以外はしないことにしました。子供はもちろん、シェルパも電気については理解しているとは思えませんので…。
自動車もやっと手に入れました。フォルクスワーゲン1,500のワゴン1965年型です。ロンドンで中古車を買って乗って来たそうですが、エンジンはまだ強いです。カブト虫では家族4人で遠出するには不便だなと思っていましたので、手頃な大きさでした。この前買い損なったのが幸運でした。575$。売主と銀行へ行ったり外務省へ行ったり税関へ行ったり3-4日かかってこっちのものになり、それから登録にまた2-3日かかりました。ナンバープレートは自分で造るのだそうです。車検証をもらうのを忘れていて、ホテルへ置き手紙をしておいたら、ベトナムからコピーを送ってきました。この男はスコットランド籍のドイツ人で、信仰論をハイスクールで教えているそうです。バンコックにいる彼女と結婚し、ハネムーンに日本へ行くそうです。修理代だと50ルピーくれました。
ヨーロッパから車で来る青年はとても多く、カトマンズの中古車はそういう連中から供給されています。フォルクスワーゲンが圧倒的に多いです。日本も中国や朝鮮と正常なつきあいがあれば、国産車でやってくる日本の青年が多いに違いなく、互いに知り合えるようになるし、国産品の宣伝にも絶好のチャンスなのにと残念に思います。
買った車はあちこち応急手当てがしてあるので、ちゃんと直してもらおうと、カトマンズで唯一のVWの指定工場に持っていきました。700ルピーの見積りです。役所でその話をしたら、「とんでもなく高いから、他の工場で聞いてみろ」となり、勤務時間なのに「今直ぐ取返しに行くのがよい」と言われました。早速別な工場へ持ち込んだら200ルピーだそうです。純正部品などは指定工場にだって無く、ポンコツ車から抜き取るか、代用品をあてがうか、なんとか機能するようにひねくるかしかないのです。だから下手に修理に出すよりは、自分でできるものはやってしまうのが安全なのです。さしあたり応急修理で動くところはそのままとし、不具合なところは自分で修理することにしました。この車は空冷なので、冷却水の心配はいりませんが、少々過熱気味で、すこし長く走るとイグニションキーを抜いてもエンジンが回っています。こんなのはべつに支障はないのでそのままにしておきます。エンジンを止めたければ、ブレーキを踏んだままクラッチを合わせればよいのです。
〇チュリア・マハバラトの旅
2月に着任して以来はじめての長期の旅に行って来ました。長期といっても10日間ですがなかなか大変な旅で、いささかアゴを出しかけました。しかしインド平原のテライからカトマンズまで、歩いて入った数少ない日本人の1人になりました。自動車や飛行機が入るようになってからは、初めてかも知れません。特にこんなコースは珍しいでしょう。
1969年4月17日 カトマンズからシムラまで飛行機で行きました。シムラはインドとネパールをつなぐ唯一のハイウエイ(トリブーバン・ハイウエイ)の始点、ビルガンジのそばの海抜200m、ここから歩くわけです[この当時は唯一でしたが、1970年代になってカトマンズ−ポカラをつないでラプチ河沿いにヒタウラに出る道路が建設され、現在ではこちらが本道となっています]。
今は乾期の終りで,冬の間中は雲1つない晴天続きだったのが崩れやすくなり、前日までの好天がこの日は雨模様で雲が低くたれこめ、飛行機の出発が30分ほど遅れました。低いところへ行くからと薄着をしていたら寒くてたまりませんでした。出るゾというので乗りはじめたら、乗客が半分も乗らないうちにプロペラが廻りだし、無事に飛び上がったけれど高度は僕の高度計で2,000m(この飛行機は与圧式でない)、カトマンズの周囲の山は2,500−2,700mあるし、視界も悪く、ベルトを締めてないと天井にたたきつけられるほどゆれるし、光線の具合で翼にシワがよったり伸びたりしているように見えるし(本当にそうだったかもしれません)、オンボロのDC3なので大変気味が悪かったです。30分足らずでシムラの草原の飛行場につきました。同行のネパールサーブのビスタの友人が森林官をやっているので、そこで昼食にしようと行ったら、ハイウェイに面した冒険ダン吉の家みたいな高床式の事務所にいました。彼の官舎で待つこと1時間半、2人は坐っておしゃべりをしているだけです。
実はこの間にボーイがジャガイモを茹でてカレー煮にし、ゆで卵を作っていたのですが、こっちは何も知らないからただボンヤリ坐っているだけでした。外へ出ようにも、ここへ着いた直後から雨まじりの猛烈な突風がやってきて1時間以上も続いたので出ることができず、近くの農家の屋根が飛ばされ、家の人が草干し用の木枠にシートをかけてその下にもぐりこもうとするがシートがどうしても固定できず、今度は板切れを重しにのせて押さえようとするがそれも吹きとばされ、とうとう4人かたまってシートをかぶってうずくまり、嵐のやむのを待っている…という一部始終を窓から見ていました。乾期の終りには、こういう突風と雷雨がときどきあるそうです。
その頃になってやっと待望のオカズができあがり、カトマンズで買ったパンを食べることができました。このパンを買ったいきさつも妙なもので、ビスタが「飛行機が遅れているからコーヒーをのもう」と空港のレストランに入ったとき、ついでのように2斤つながった食パンを買ったのです。このパンはホテル・アンナプルナ製で、カトマンズで1番うまいパンだそうです。飛行機が遅れなかったら昼メシはどんなものを食わされたかわかりません。飛行機の出発がもう少し遅れたらあの突風に遭ったのですから、これまたどうなったかわかりません。とにかく昼メシが終わったら午後4時。ビスタはこれからバザールで食料の買い出しをするというので、僕1人で先に行くことにしました。人夫や僕のシェルパはとっくにキャンプ地へ先行していたのです。
インド・ネパールハイウェイを40分ばかり北へ歩くと大きな看板があり、ここから東へ向かって東西公路が一直線に建設中です。この路はアジア・ハイウェイの一部で、この辺はソ連の援助で、あたりには立派な職員アパートが並んでいます。ここから先はどっちに行くのか聞いていなかったので、30分ほど待ったけれど誰もこず、次の部落で待てばよいと勝手に北へ歩き出したのが間違いのもと、いくら行っても家一軒なく、そのうちに日が暮れかけてきました。両側はどこまでも続くサラソウジュのジャングルで、こんなところで迷子になるのはありがたくないなと思いはじめたとき、はるかかなたに掘っ建て小屋が見えました。
うす暗くなった頃やっとそこへ着いてみたら、運転手相手のうすぎたない茶屋でした。ちょうどそこへ後ろからやってきたトラックの運転手が、ビスタが戻れと言っているという伝言を持ってきました。茶を飲み終わって南へ出発しようとしていたビルガンジ行きのトラックに乗せてもらい、さっきの分岐点まで引き返しました。僕が道端にいたからよかったけれど、森の中で採集でもしていたら本当に迷子になるところでした。ウロおぼえのネパール語が早速役にたちました。トラックの運チャンに金を渡そうとしたら、受け取りませんでした。たいへん珍しいことです。
キャンプは道路建設基地を出はずれたジャングルの中にありました。道路人夫たちの小屋がけが並んでおり、連中は野生のアスパラガスをたくさん採っていました。
4月18日 東西公路は全くの一直線にジャングルを切り開いていて、はるか彼方に曲がり角が見えるのですが、そこへ着いたのは午後遅くなってからでした。ジャングルといっても乾期の終わりですから葉がついておらず、日蔭が全くない路を1日中テクテク歩いたわけです。水も全く無し。昼は人夫が先行して河原で食事を作って待っていました。河原といっても水は流れておらず、砂を掘り下げて滲み出る水をためたところから汲んでくるのです。蛙が泳いでいました。
道の両側はサラソウジュ(Shorea robusta)の林で、サラソウジュ 7、テルミナリア(Terminalia)2、サルスベリ(Lagerstremia)1といった割合です。葉はまだ出ていません。
その他の高木はユーゲニア(Eugenia)、フィクス(Ficus)、アカメガシワ(Mallotus)、アエグレ(Aegle)、ネムノキ(Albizia)、ディレニア(Dillenia)、ボンバックス(Bombax)などです。林床はたいへん荒れています。放牧で牛や山羊が歩き回るためと, 住民が材木を伐るためですが, 野火も入っています。それでもShoreaの若木がかなり見られます。草は目立たず, クレロデンドロン(Clerodendron)、フィランサス(Phyllanthus)、ブリデリア(Brideria)、トレマ(Trema)、キディア(Kydia)、カルリカルパ(Callicarpa)、デスモジウム(Desmodium)などが乱雑に生えていました。
夕方になってやって道路をはずれ、バケヤ河の河原を北上、1時間ばかり奥の部落を目指しました。工事の連中が「部落は河の左手だ」というから左側(右岸)を行けども行けども何もなく、そのうちに誰かが対岸に家が見えるというので、行ってみたらそこが目指すニジガルでした。もう夜8時近く、真っ暗でした。小学校(といっても土間の掘建て小屋)に入りましたが、虫がいそうだというのでその中にテントを張ってくれました。
この部落には犬が多く、それぞれ縄張があって、そこへ他の犬が入るとものすごく吠え立てて追い出します。われわれの炊事場は雌の老犬の縄張ですが、これがゼンソク持ちで、おかしな咳をしょっちゅうやっているくせに、いざ喧嘩となると咳は止まってしまっていせいよく吠え立てます。部落の中央を流れる小川が飲料、食器洗い、洗濯、ごみ捨てを兼ねており、飲料水の汲み場を最上流にして、それぞれ場所が決まっているのだそうです。翌朝みたら水は白く濁っていました。この流れは5kmほど上流が水源で、氷河とは関係なく、よほど鉱物質が多いようです。
4月19日 夜が明けてみたら大きな部落でした。家の壁はソダを組んで作り、外面は泥できれいに塗ってあります。いわゆるハンギング・ウォール型で、ネパールやインドの、煉瓦や石で積み上げた壁とは異なります。壁の表面には動物や幾何学模様を浮き出させた家もありました。女性は全員膝から下に入れ墨をしています。つまり女性の着物はショートスカート型で、脛を見せることを恥とするカトマンズ盆地の住人とは種族が違うのです。9時出発。
1時間ほど歩くといよいよヒマラヤの第一線、チュリア丘陵の登りにかかります。麓のバグデオの部落から15分も上がったら、珍しく小川がありました。といっても山はだからしみ出して100mほど流れて消えてしまうのですが、こんなところにも魚がいました。そこへ来たら人夫たちは荷を下ろして火の用意をはじめるのです。これから先は水がないことはわかっているけれど、さっき朝食をとって1時間半もしてないのにまたメシではかなわんと思っていたら、ビスタが追いついて来てメシはとりやめとなりました。実は人夫にとってはこれが朝食で、彼らは1日2食だから出がけには何も食べてないことが、ネパールで暮らすにつれてわかってきました。さっきの朝食は実は3食食べないと動けない僕のためにわざわざ用意してくれたもので、実をいうとビスタも1日2食があたりまえなのです。こちらの常識のままに外国で行動することが、たいへん非常識な行動になるということを、あとになるほど感じました。
この山は600mほどで全山サラソウジュ林、水は以後1滴も無し。のどがカサカサなのにビスタはキャンデーをくれます。こんなの食べたら口の中がベタベタになってかなわないけれど、くれるものはもらう主義なので食べました。僕の持っている食品は酢昆布1箱と柿の種1つまみ(それも食べ残しで粉々になったもの)だけで、あとはあちらまかせなのです。酢昆布を1枚食べてみたら、はじめのうちはよかったけれど膨潤してきたら逆に水分を吸収してしまい、口の中は脱水状態になってしまいました。やっとのことで頂上についたらそこに部落がありました。このあたりでは地層が北下がりなので、山の南側は急斜面で岩ゴツで、暑いせいか疎林ばかり、北側はややゆるくて耕地や部落があります。とりあえず農家で水をもらいました。どこかのたまり水を汲んできたものですが、生水はだめなんて言ってる余裕はありません。ただ困るのは水の入っている壷に口をつけることはタブーなのです。このことは衛生上なかなか意味があると思います。連中の飲み方は、顔を45度くらい空に向け、下顎をつき出し、水壷を高くさしあげて口中へ水を流しこみながら、口をふさぐことなく水を飲み下すのですが、僕には2つの点でむずかしいです。1つは口の中へ水が落ちず、顔や服にかかってしまうし、入ったとしても適量の調節ができないから、たちまちあふれてしまいます。もう1つは、口をふさがないで水を飲み下せないので、彼らのように連続的に注入と嚥下をやるわけにゆきません。ビニルチューブをつっこんで吸い上げるのならよいかと思ったら、これもいけないそうで、結局皿のような食器に注いでもらって飲みました。
ここで昼食となったのですが、昼食には実に4時間を要しました。この日に限らず、昼食にはいつも3-4時間かかります。炊事1.5-2時間、食事30分、人夫の食事30分、片づけと荷作り1時間といったところです。見ているとこの区分の一つ一つはそんなにかかってはいないのですが、どういうわけか全体としてはこんなになってしまうのです。とにかく出発は午後4時。
北斜面を滑り下るようにして河原に出ました。これからは川沿いで、1時間あまりの間に10回の渡渉です。川幅約20m、深さ膝上10cm、所によっては股まで。乾期なので流れがゆるいからよいけれど、川床はコケでぬるぬるしていてかないません。靴をぬいだりはいたりが面倒くさいので裸足のまま歩きましたが、河原の小石が痛くて長続きしません。半ズボンとゴム草履があったらなと思いました。
暗くなってちょうどよいキャンプ地があるのに、ビスタは泊まろうとせず、まだ先に行くというのです。すぐ上の段丘面に人家がありそうで、泊るにはよい条件なのに、彼ははるか彼方に火がみえるからそこまで行くというのです。もう真っ暗で、あいにくと新月なので星明かりを頼りにまた渡渉を3回やって火の所へ行ってみたら、たき火の残り火だけで誰もおらず、ともかくそこへ泊ることになりました。流れの真ん中の砂地ですから居心地は良いのですが、先日のような夕立で増水したらひとたまりもありません。しかし彼らが平気なので、口を出さないことにしました。
ここまでくると、川水を飲むことなどは何でもありません。ヒューマン・オリジンのNがたっぷり入っていることは間違いないのですが。川というのは文字通り「カワヤ」で、カトマンズのバクマチ川でも、近くの人たちがトイレに使うのですから…。クレオソートは持っていましたが、ビスタが使わないからこっちもわざと使いませんでした。腹の具合は何ともなかったです。川の水を飲むときには、ガラスのコップに汲んで明かりにすかしてみます。水が濁っておらず、ごみもなく、温度が低いということが飲めるか否かの判定基準です。不合格の場合にはこれを捨て、川の別な箇所の水を汲んで同様に判定し、OKなら飲みます。ビスタは錠剤のソーダ水を持っています。Made in Japanですが名も知らない会社で、おそろしくまずいです。サッカリンで甘味をつけ、ストロベリーだのメロンだのと色をつけ、重曹の味がコッテリするのですが、カトマンズではよく売れ、これが入ってからはビンづめジュースの売れ行きが落ちたそうです。その錠剤を殺菌のためか、水を飲むとき入れてくれます。一度などは湯の中に入れてくれました。オカンをつけたサイダーを飲んだのは初めてです。
4月20日 川はチュリアの褶曲山脈を横切っているので、河岸の地層が45度くらい傾き、山稜がそれに応じた形をしているのがよくわかります。この川は奥が10kmほどしかありませんが、高差10mくらいの河岸段丘が少なくとも2段あります。これをインド平原の方へ延長してみても対応する地形は無さそうです。ヒマラヤの隆起の激しさを示すものでしょう。
今日は渡渉は5回くらいですみました。森林はあいかわらずサラソウジュで、林床に火が入っているのでカサカサです。1ヶ所だけちょっとした谷間が焼けておらず、小川も流れていて、パンダヌス(Pandanus)、ラシア(Lasia)、アルピニア(Alpinia)、プラギオギリア(Plagiogyria)、キアテア(Cyathea)、アンギオプテリス(Angiopteris)などが生えており、大きすぎて種類の見当もつかない常緑樹がうっそうと茂っている場所もありました。ここは本流ではなく、段丘上の小地域で、こんなところが点々とあるのではないかと思います。
やがて谷がひらけて部落が点在、ここから西の支流に入るところで昼食となりました。ビスタは植物園へ持って行くと、さっきの常緑樹林からヘゴやリュウビンタイの株を10本ばかり人夫にかつがせてきました。僕は12時に着いたけれど、彼はこのために1時半に到着(根まで掘らせるので)。それから川で水浴びです。川といってもよどんで泥の多い所ですが、彼は気持ちよさそうにつかっています。人夫たちもその間に着物の洗濯、とにかく30分もすれば乾いてしまうから簡単です。僕のシェルパはリュックサックを洗濯しましたが、これも出かけるまでにはちゃんと乾いていました。
飯が終わるとビスタはゴロリと横になって昼寝。そばで人夫が標本作りです。おし葉作りは人夫の役目なので、形を整えるなどということはしません。グランドシートの上に飯粒が落ちているのを人夫に掃除させるのですが、鼻先3 cmほどのところで箒を使っても、彼は微動だにしません。飯粒だって指先ではじきとばしてしまえば済むのに、わざわざ人夫を呼んで肘枕をした腕の下まで掃除させるのです。後からわかってきたことなのですが、落ちた飯粒に彼が手を触れないのは、食事とけがれというものすごく深遠な文化的背景があるらしいのです。これについては他の機会に書くことがあるでしょう。
それにしてもネパールサーブはずいぶんよいお身分です。家庭でもこうなのでしょうか。歩くときだって、僕は大きなリュックサックに一通りの物を入れて背負っているのに、彼は小さな書類入れ1つです。この中に入っている物は鏡(ひげそりのときこれと石鹸を人夫に持たせる)、キャンデー、サイダー錠、旅行証明書、金です。この国では本来人夫がやるべきおし葉作りを私がやるのですから、人夫が見ればビスタは日本人のコレクターを雇ったなと思うことでしょう。どう見てもこっちの方が偉そうにはみえません。
3時過ぎ出発。このあたりはサラソウジュ林を最近焼き払って畠にしたところです。支流をつめて行くとグネツム(Gnetum)などが出て来て面白くなってきたけれど、暗くなるし、先行きが不明なので早々にとばしました。谷のどんづまりを200mほど急登したら峠で、むこうは緩い斜面の広々とした開拓地でした。最初の部落で泊るというので荷物を下ろしたけれど、一向に泊る気配はなく、そのうちに日が暮れてうす暗くなてから,もう1コス先のバザールを目指すことになりました。コスは距離の単位で1時間弱ですが、こちらの人の感覚で,相対的に近いところは1コスになってしまうので,アテにはなりません。僕とビスタは急いで歩いて7時ころ着きましたが、人夫が着いたのは8時頃、晩飯にありついたのはなんと午後11時半でした。
ビスタが大きい部落に泊まろうとする理由は、旅行証明(マイレージ・サーティフィケート)をもらうためなのです。彼ら公務員の出張費は日当と距離手当てから成り立っており、人夫の給料も同じです。人夫は役所の下級職員がやります。出張費用は日数と距離に応じた概算額をもらってきますが、それだけの距離を歩いたという証明を各地の役所でとらねばなりません。旅行証明にサインできるのは各部落にあるパンチャヤットという5人の顔役会議のメンバーだけなのです。ビスタは今日は最初の部落に泊りたかったけれど、そこにパンチャヤットがいなかったので、コースとしては遠回りになるのにこのバザールまでやってきたのです。
4月21日 部落にめずらしく井戸があったので、深さをはかったら約10mありました。ここはサラソウジュの林を焼き払って畑にしたところで、ヒタウラからトラックが入っています。きのう担がせていた生植物が見当たりません。おそらくここからトラックを使って、ヒタウラの栽培圃場に送らせたのでしょう。ゆるい斜面を北に下ると広々として田圃ですが、暑くてたまりません。それがすむと一昨日のような岩山の登りで、ここもサラソウジュです。真っ先に上っていったら中腹で大きな道にぶつかり、それを右にたどって行って尾根の上に出ました。僕以外の人達は道を横切ってまっすぐ上がってしまったので、僕だけ1人になってしまいました。この時の暑さは殺人的で、何か叫び出したくなるようでした。雨傘をさして日除けにするのですが、肩に担ぐとわずかにある空気の流がさえぎられて一層暑く、垂直に持つと傘の面が二次の熱源となってその焦点に頭を置くことになってこれまたやり切れません。傘の布は黒くなくてもよいのだから、この次には銀メッキでもしたものを持ってこようと思いました。尾根にでると例によって北面に農家があったので水をもらいました。ずいぶんにごっていましたが、無いよりましです。こういうときには片言でもネパール語を習っておいてよかったと思います。そのうちに他の連中もやってきて、ここで昼食になりました。村の水場は北にすこし下った薮の中の地面を掘り下げ、点々としたたる水を受けるのです。だから村中の水壷がたくさん並べられ、子供達がおしゃべりをしながら番をしていました。
この直ぐ先の山の頂上にモカンプール城の城跡があり、1814年のネ・英戦争の古戦場です。ブータンのゾンのようなものかと思ったら、空濠をめぐらした五稜郭のような小さなとりででした。夕方ものすごい突風と豪雨と雷があり、テントを支えるのに一苦労しました。テントのポールに落雷するかと心配しました。乾期と雨期の境目では、気象が不安定になるみたいです。
4月22日 ビスタは食欲が無いといって、炭酸水を飲んでいます。これはカトマンズの薬屋で売っている粉末です。彼はよく働き、寝るのはいつも僕よりあとで、12時前後です。僕と張り合うつもりで頑張っているのなら気の毒なので、僕はわざと早目にテントに引き上げるのですが、彼はそういうつもりではないらしく、毎晩遅くまで標本の紙を取り替えています。彼らのやり方は、吸湿紙の間に標本を直接はさみ、翌日は別な吸湿紙にはさみかえます。しかもこれは人夫の仕事で、茎を指でつまんで移しており, 全体の形が崩れないような配慮はしません。だから標本は次第にクシャクシャになり、落ちやすい花や果実はみんなとれていまい、最後まで茎にしがみついていられた部分だけが標本になります。「取り替えています」と言っても、人夫に取り替えさせて自分は口で指図しているのです。湿った紙は、昼間なら地面にしばらく広げ、夜なら焚火に海苔をあぶる程度にサッとかざして使います。空気が乾いているので放っておいても乾くから、これくらいの処理で十分なのです。僕の方は日本式なので新聞紙が不足し、毎日標本を積み替えて風を通すだけ、従って中々乾きません。不思議なのはこんなやり方でも、カビが生えたり腐ったりすることが非常に少ないことです。17日に採ったものをこうやって25日まで半乾きのまま持ち歩き、日射で包みの中はずいぶん高温になりましたが、葉が離れたり黒変したりした程度で、腐ったものは少ないです。彼らはわれわれのように標本をパリパリになるまでは乾かしません。すこしシナシナする程度をよしとします。これは標本の貼り方と関係があります。彼らは標本の一面に膠を塗り、直接台紙に貼りつけるという英国方式なので, あまりピンと乾いていると貼りにくいのです。ですから僕の標本はあとでマウンターから「硬すぎる」と文句をいわれました。
このあたりまでは子供くらいの大きさのラングール猿がたくさんいます。顔が黒くて頭は白く、身長と同長の尾をもち、10頭ほどの群をなして樹上を跳び歩きます。ときどき落としものをするので、糞生菌の研究に頼まれた材料を手に入れようと試みるのですが、50m以内に近づくと落とす物も落とさないで逃げてしまうし、遠くから落としたの見届けて薮をかきわけて行っても見つけることができず、あきらめました。
今日は僕が昨日たどった大きな道に沿って歩きました。この道は数年前にネパール軍がヒタウラからカトマンズまで建設したものだそうですが、その維持のための手入れをしないのでズタズタになり、今ではジープも通れません。ひどいところは地滑りでそっくり無くなっています。工事中に事故死したインド人技師の記念碑がありました。
モカンプール城のあたりから, サラソウジュ(Shorea)に代わってヒメツバキ(Schima wallichii)の林になりました。500mを越えた高度です。ヒメツバキはカトマンズ盆地の低いところ、1,000mあたりまで見られます。夕方になってたどりついた部落で、ビスタと人夫は坐りこんで延々30分も議論したあげく、暗くなってからまた前進です。人夫はここで泊ろうというのですが、ビスタはここにはパンチャヤットがないのでもっと先に行こうというのです。すこし進んでみたけれど、パンチャヤットがないのは同じことなので、道の真中にテントを張りました。晩飯は午後10時。
われわれの食事は次のようなものです。
- ①:チャパテ(ふくらし粉ぬきのホットケーキ)
- ②:ゆで卵
- ③:ジャガイモとタマネギのカレー煮
- ④:ダルスープ(挽き割りレンズ豆の粥)
- ⑤:白い飯
- ⑥:水
- ⑦:漬け物
朝は①, ②, ③, ⑥、昼と夜は③, ④, ⑤, ⑥, ⑦。これはある特定の日の食事ではなく、全日程を通じて全く同じです。変化があったのは、鶏を買ったとき(3回)、魚を買ったとき(2回)で、いずれも③に煮込んでしまいます。魚を買ったときは串にさした干物なので、焼けばうまそうなのに、頭も骨も一緒に煮込んでしまいます。できあがった料理は背骨や頭骨がゴロゴロしていてちっともうまくありませんが,あちらの人にはおいしいようです。あとで焼いてみたことがありましたが、臭くてだめでした。ネパールではタンパク質の焦げる臭いはタブーのようです。これは臭いを嫌うのと、火の神聖をけがさないためと両方の意味があります。肉も決して直火であぶることはしません。ですからカバーブというものは食べたことがありませんでした。ダルは米飯を食べるときにつきもので、これ無しで飯を食うことは考えられないそうです。ところがこのダルスープは、僕にいわせると味もソッケもなく、しかも塩を入れても味の素を加えてもちっとも味が変らない、バッファー(緩衝液)のような代物で、家でコック(僕でもこういう国へくると、コックを雇えるのです)がこれを作ったときには、もうあきらめて何も味つけを試みないことにしているほどです。ところがネパール人には、このソッケないところの微妙な味がコタエられないのだそうです。ゆで卵は殻のまま出せばよいのに、ごていねいにも殻をむいたうえ、ククリ(ネパール刀)で4つに切って出しますから、手垢がいっぱいついています。切るといっても俎板は使わず、ククリの刃を手前に向けて柄を地面に足でおさえ、卵でも芋でも手でこの刃に押しつけて、向う側へ切れたものを、落とさないように掌でつかむのです。手垢はきたない部類には入らず、スプーンなどに汚れがついていると、指先でぬぐいとって出します。お茶に蝿が飛び込んでいても平気でそのまま出し、「蝿が入ってるぞ」というと、指でつまみ出して残りをそのまま持ってきます。
彼らは手鼻をかむときには右手を使い、その指は服になすりつけ、同じ指で食品を扱います。トイレは左手を使います。この右と左の使い分けは彼らの「不浄」の観念の基本なので、こちらも注意せねばなりません。飯の量が多いのは驚くほどで、直径30cmのステンレスの盆の3分の2ほどに山盛りにしてきます。箱根の神山と芦の湖の盆景といったところで、芦の湖には③, ④, ⑥がそれぞれカップに入ってのっています。③, ④のカップは小さいけれど、⑥はビールの小ジョッキほどあります。⑦は飯につきもので、日本のカレーに福神漬やラッキョウがついてくるのは、これに由来しています。ビスタはダルを飯にかけて③とまぜ、僕の倍くらいのスピードで平らげてお代りをします。僕の方は山を4分の3崩すのがせい一杯です。お茶は食事のときには出ません。キャンプについてしばらくすると茶が出ます。ビスタは1杯しか飲まないけれど、僕は飯が遅いので腹を保たすために2杯のみます。小ジョッキの2杯ですから、腹がダブダブになり、飯の量が減る原因となるのですが、こうしないと飯までに腹がへってがまんできません。空腹に耐えて待っても、食事の味はそれに値しません。おかげで「金井さんはお茶が好きだ」ということになり、いつも2杯のまされることになりました。シェルパが「サーブは家ではティーカップ一2杯しか飲まないのに」と首をかしげていました。うまくないものを、しかも全く同じものを毎回食わされるのですから、食べないと動けなくなるからという外に食べる理由はありません。こんな献立では栄養がとれないから量をたくさんとるのでしょう。大学食堂のA定食(いちばん安い)を毎回食べるようなものです。A定食だって毎日中身は違うのだからそれ以下です。
ネパール側としてはトウガラシを入れないようにしたり、スパイスを控え目にしたりして、僕のために気をつかってくれているのですが、なんとも味気ない食事です。それでも毎日なんとか食べていたので、ビスタが「ネパールの食事を平気で食べる外人ははじめてだ」と感心してくれました。後になって考えたら、ネパール人は2食主義ですから、1日3度食事を出してくれたこと自体が、僕に対する大サービスだったのです。前におられたI先生はこの食事が口に合わず、旅へ出るとずいぶん痩せたそうです。もっともI夫人の料理はたいへんうまいせいでもあります。僕なんかはふだんから鍛えられているから……。これも内助の功の1つでしょう。
4月23日 この日はじめて、カトマンズ盆地から流れ出るバグマチ川の中流に出ました。このあたりになると森林はなくなり、耕地ばかりです。こういうところでは「音入」が大変です。どこへ行っても見通しがきくので、誰かが見ているような気がします。僕は朝が遅いから苦労します。テライのジャングルでも、木は多くても下生えはこの時期にはたいへん少なく、しかもほとんど焼き払われていて見通しがよく、人家がなくても牛飼いがウロウロしているので、これまた大変でした。ここらへ来ようという人、とくに女の方は対策を十分に考えてきてください。僕は朝でも夜でも状況に応じて切り替えられるので、何とかしのげます。
さてバグマチ川は、峠から見たら水がチョロチョロ流れているだけみたいでしたが、河原に立ったら19日のバケヤ河よりも広くて急流で深さもあり、こちら側ばかり歩いていたらとうとう行き詰まり、岸壁を30mばかりトラバース。いずれにせよ対岸に行かねばならないので、合流点の川幅が広まったところを股までつかって渡渉、今度は支流を遡ることになりました。人夫の食糧がなくなったので、売っているところまで行かないと泊れないそうです。薄暗い中を何回渡渉したかわかりませんが、今度は幅5mほどで深さも脛までだったので楽でした。真っ暗になってから、河原に建つ掘建小屋につきました。これが目指す店なのですが、あるのは茶ばかりでした。もう30分行けば食料を売る店があるというのです。ネパールの人の時間や距離の見積りは頼りにならないので、また1時間以上歩くのかと思ったら、本当に30分で店があり、食料も手に入ってやっと泊まることができました。午後8時30分でした。ホタルがたくさん飛んでいましたが、7時半頃が最盛で、8時になったらいなくなってしまいました。ここのホタルの光り方は ・・- ・・-(・は短く明るく、-は弱く永い。1周期約2.5秒)だなと見ていましたが、カトマンズへ来てみたら光り方が----と全く違い、別物らしいです。採集しとけばよかったと思っても後の祭でした。
4月24日 明るくなってみたらひどい荒れ谷で、屏風の隙間のような峡谷の崖錐の上の狭い広場でした。絶壁伝いの道を這い上がり、枝尾根の上に立ったら谷全体が見渡せ、やっと自分がどこにいるのかわかりました。こんな急斜面も耕地ばかりです。ビスタはまたもやパンチャヤット探しですが、目指す相手は谷をへだてた向う側なのであきらめました。あそこへ旅行証明をもらいに行ったらそれだけで1日かかり、1日かかったという証明をまたもらいに行かねばなりません。さらに上がると一昨日からたどっている旧自動車道にぶつかり、これを延延とたどって午後遅くカトマンズ盆地南縁の峠、キラウレ・バンジャンにつきました。北は広々とした緑の盆地、南は深く切れ込んだ谷をへだてて、赤茶けた耕地に地滑りをちりばめた急斜面で、対照的な光景です。
本当はここから盆地最高峰のフルチョウキに向かうはずでしたが、またもや人夫の食糧が無く、仕方なくそしてヤレヤレもう登らないで済むという気持ちで北へ下って行きました。上がってくるときに店はいくらもあったのに買わなかったのは、6人の人夫の荷物が採集品で各自30kgを超えており、これ以上重くなってはたまらんということだったのでしょう。
川の合流点にあるティカバイラブに泊りました。近くの山腹にライ病院があり、ビスタの兄貴が勤めています。彼は兄貴のところで歓待してもらいたかったようですが、「ここの河原の方が広くて気持ちがよい」と頑張って、そこにテントを張りました。夜はずいぶん冷え、2-3度目が覚めました。第1日からそうですが、今は気温が最も高い時期なのに、寝袋に入って暑かったことは一度もありません。以前9月下旬にビラトナガルで暮らしたときは、何か体にかけるだけでも汗びっしょりになったものですが…。
4月25日 今日はまっすぐにカトマンズに帰るのかと思ったら、ビスタは真面目にも昨日とりやめたフルチョウキ行きを任務通りやろうというのです。人夫を先に返して、僕とビスタと僕のシェルパとビスタつきのコックと4人で出かけました。ついでに言うと、コックというのは人夫より高級な職業で、チームでは秘書官役なのです。
近くにレレという有名なお寺があります。サラスワティ(弁才天)を祀ってあり、日本と同様学芸の守護神とされ、2月の祭日にはカトマンズから学生がわざわざ参拝に来るところです。この寺で珍しく冷たい水が樋から流れ出ていたので、たらふく飲んでから樋の上へ回ってみたら、そこには10m四方ほどの池があり、1,000匹もいるかと思う鱒が泳ぎまわっていました。これは放生池で魚は神様の所有物として誰もとらず、おそなえ物を投げるとサッと寄って来ます。僕の飲んだ水は、田圃の湧き水をこの池に引き込んだその余水でした。
ここから峠を越えて昨日の谷に逆もどりし、谷をつめて登りなおしです。水車小屋にもぐりこんで(外は暑いので)昼食。今日は水車に落ちる水をのんでビスケットを流し込むだけという簡単なもの。この水だって、上流に部落が2つ3つあるのですが平気なものです。「水は三尺流れれば清い」という言葉はここでは現実です。それどころか、田圃で牛がかきまわしてドロドロになった水を、水壷に汲んでゆく部落さえあります。まさかそのまま飲むとは思わないけれど、静置して泥を沈澱させてしまえば飲むのかもしれません。こういう浄水法もあるそうですから。とにかくここでは水は水でありさえすれば何でもよいとみえます。
ここまでくるとフルチョウキの麓の植物園に勤めるコックの縄張で、知人の家に寄ってチャン(どぶろく)を飲まされました。チャンはシコクビエのモヤシを発酵させたもろみをその場で水にといて出すので、水加減で濃くも薄くもなります。ここでは当然サービスよく、飛び切り濃厚なのを出してくれました。それからいきなり峠への急登なのでいささかへばりました。峠へついて向う側へ下れば終りかと思ったら、コックが「こっちの方が近道だ」と尾根を行くことになりました。峠より低いところへ行くのにそれより高い尾根へ上がるのは理屈に合いませんが、ここではコックしか道を知らないので仕方がありません。上がったり下ったり、道のないところをかき分けたりさせられたので、ビスタはすっかりアゴを出して動けなくなってしまいました。彼はふだんは酒を飲まないところへ、特別強いチャンを飲まされたうえの強行軍ですから、参るのは当然です。どうもコックの奴が「最後にシゴイテやれ」と、地理に明るいのを幸い引き回した感じです。やっとのことでゴダワリの植物園についたのが午後8時。レレからこんなにかかるはずはないのです。先行した人夫の手配でジープが来ており、9時過ぎに家へ帰りつきました。
今回の出費は8泊9日で1人当り70ルピー(2,520円)。これは帳面づらに出た金額を2等分したもので、本当はビスタがかなり背負い込んでいるはずです。人夫は役所の使用人なので、人件費はかかりません。僕の出張費は全額ビスタに預けてあり、そもそも役所からいくらもらったのか知りません。精算してお釣りをもらったわけではないので、赤字か黒字かもわかりません(赤字のはずはありませんが)。僕自身は途中でチャンに1ルピー(36円)使っただけでした。
[植物研究雑誌66:311-318(1991)、67:54-58(1992)を加筆修正]
〇ゴサインクンデの旅
この春以来懸案になっていた高地への旅にやっと行って来ました。はじめの話では春にランタンに行くことになっていたのですが、6月も終る頃になってもちっとも出かける気配がありません。「いつ行くんだ」ときくと「あと2-3週間したら」という返事なのでそのつもりで待っていると、1ヶ月たっても始まりません。また聞いてみると「予算があと3週間したら来るから」というのですが、その3週間が過ぎるとまた2-3週間延びます。とうとう8月もなかばになってしまいました。高地の植物調査は7-8月しか良い時期がないのに、何時来るかわからぬ予算を待ってムザムザ好機をのがしているのです。実を言うと、この国では予算は所長の一存でどうにでも使えるのに、所長が踏み切らないだけなのです。それに行先もいつの間にかランタンより手前のゴサインクンデになってしまいました。どうも雨期の最中にあんまり遠出をするのは気が進まないらしいです。こんなに延びることがわかっていたのなら、待ってる間に自分だけで小旅行をやるところなのですが、とにかく2-3週間ずつ引きのばされるので出るわけに行きません。カトマンズから外へ出て満足に調査をするには、少なくも2-3週間は必要だからです。とうとうシビレを切らして「行く先はわかってるのだから、そちらの予算がまだ来ないのなら俺だけ先に行く、予算が出たら後から追いついてくれ」と宣言しました。コロンボプラン専門家として植物調査の手伝いに来ているのに、予算がないからと年に1回しかないチャンスを見逃すわけには行きません。予算が無ければ自腹で立て替えて行けばよいと思うのですが、ネパールの人にはそういうセンスは無いようです。とにかく1人でも8月17日(注:これは1969年の話です)には出かけるからということにして準備を始めました。16日になったらスワール所長が「人夫をつけてやるからその用意に1日待たないか」というので、御好意を無にするのもと待つことにしました。これはどうやら引き止め戦術だったらしく、18日になっても人夫はやって来ず、それどころか夕方になったら所長は、「お前が先発するのなら今後いっさい面倒を見ない」という、きわめて高飛車な命令です。それも他の高級職員の面前で。コロンボプラン専門家の指揮系統はどうなっているのか知りませんが、僕はとにかくこのネパール政府薬草局で働いているのだし、所長と喧嘩したところで良いことは何もないので、予算が来るまで待つことにしました。どうもこっちの善意とネパールのセンスが行きちがったようで、面白くありません。ところが19日になったら「予算が来たから明日出かけよう」というのです。官庁の予算が出る日が当日までわからないのですから、面白い国です。本当は所長の気が変わっただけなのでしょう。とにかく8月20日にやっと出発することができました。8月の後半になると高地の花も終りに近く、ずい分採るものが少なくなります。
1969年8月20日 雨模様の中をスンダリジャールまで車で行きます。同行のネパールサーブはマルラ。ロシヤ製中型ジープにトレーラーをつけ、人夫11人と荷物をのせ、マルラが運転です。ちゃんと専属のドライバーはいるのですが、運転できるえらい人がいると、たいていはえらい方が運転します。
スンダリジャールは1,400mですが、そこから2,400mのチプダンダまで一気に登り、あとは尾根伝いに北上してゴサインクンデへ行くのです。ふつうこのコースは帰路に用いるので、往路はトリスリバザールから川沿いに北上してドゥンチェに達し、そこから東に折れてゴサインクンデに行くのです。この6月にドゥンチェまで行き、少し登りましたが、日程の都合で奥へは行きませんでした。
歩きだすと雨はひどくなり、ときどきザーザー降りになります。部落の中はまだよかったけれど、山路にかかると蛭がウヨウヨいて応接にいとまがありません。一々殺していては手間どって後続の蛭にもぐり込まれるので、指で丸めてポイと捨てるだけです。蛭は4,000mを越すといなくなりましたが、雨の方は全行程降り通しでした。雨期だから仕方ありませんが、要領よくやればズブぬれになるほどは降りません。樹々の幹はコケにおおわれてしっとりぬれ、そこに食虫植物のミミカキグサが一面に生えていました。樹上のコケの中にもプランクトンがいるのでしょうか。
夕方テントで仕事をしていたらマルラがやってきて「お前が先にでかけるというのを、所長が無理にひきとめて悪かったね」となぐさめてくれました。彼にも理由がわからないといいますが、おそらくそうではなく、ネパールにはネパール流の理由があるのでしょう。でもそれを言葉にするにはあまりに微妙すぎて、説明がつけられないのだと思います。
8月21日 道はスンコシ川とトリスリ川の分水嶺の上についています。[この山稜は、1992年7月31日にタイ航空機が墜落したところです]。われわれと同じコースをたくさんの人が北へ向かって歩いています。体中に鈴をつけ、頭にクジャクの羽根でかざった冠のようなものをかぶり、うちわ太鼓(ただし皮は2枚張ってある)を持った異様な風体の男が何人も通ります。彼らは村々の祈祷師で、8月の末にゴサインクンデで行われる祭に参加して修行をつむために行くのだそうです。その他の人々もみんなこの祭に出かけるのだと聞かされました。この尾根にはパチバンジャンとグルバンジャンという峠があって、東西の通路になっているので、こういう大きな祭の時にはとりわけ人通りが多いのです。今日はパチバンジャンを過ぎ、真っ暗になるまで歩いて民家に泊りました。畑に作物がある雨期には農村地帯ではテントを張る場所が中々ありません。それにネパールサーブはテントよりむしろ民家に泊る方が居心地がよいらしいです。家に泊っても宿泊代を払う習慣はなく、使った薪代だけを渡せばよいのだそうです。
8月22日 今日の泊まりはツェダンポカリ(3,000m)。もう耕作地帯を抜け出しました。道端の所々にむしろを敷いたり小屋掛けしたりして茶やチャンを売っています。祭に行く人目当ての商売です。今までカシ類の疎林しか見なかったのに、ここへ来たら急に立派なシャクナゲ林(主にRhododendron arboreum var. cambelliae)に変わりました。そろそろ亜高山帯です。放牧小屋に泊りました。木地師が2人で仕事をしていたのでカメラを向けたら、道具を放り出して大あわてで逃げだしました。写真にとられると寿命が縮まるというのです。仕方がないから作りかけのヒシャクだけを写しました。大きなブロックをククリで削って作り、つないだり組んだりはしません。凹んだところだけは帯鉄に刃をつけたものを木の棒でたたいて削ります。金槌は使いません。
8月23日 狭い尾根の上を1日上がったり下がったりです。所々に広い所があって放牧小屋が点在し、どこも人と牛でいっぱいです。森はシャクナゲとモミですが大変荒れており、山火事の跡もあちこちにあります。夕方ついたドバテ(3,200m)は狭い尾根に小屋が2軒ありますが、テントを張る場所がありません。小屋は人で一杯なのでどうするかと見ていたら、道の真中に張ってしまいました。他人の迷惑などという考慮はあまりしないようで、通行人も道を外れて薮の中を回って行きます。しかし牛はわが道を行くものですから、張綱を引っ掛けたりフライをけとばしたりで安眠できません。テントを張ったとき、入口のすぐ前が牛糞の捨場で、高さ50cmばかりの糞塚があったので、シェルパに「これなんとかならないか」と言ったら、いきなり両手でその糞塚を掘り崩して斜面に捨ててしまいました。牛糞を手でいじることは、この国では別に変わったことではないのでしょうが、何しろ雨でグチャグチャだし…あの手で僕の飯を作るのですから、ちょっと気になります。
8月24日 西北へ走る尾根の西斜面を捲いて行きます。岩だらけの急斜面で、3,500mにもならないのにもう森林限界が現れます。石積みの小屋もなくなり、メダケを編んだカマボコ形の小屋が所々にできていて茶を売っています。ある小屋で飲んだのは妙なもので、見たところコーヒーそっくりの色をしていますが、味も香もありません。原料を見せてもらったら、何やら草の葉を半醗酵させた真っ黒な代物でした。カトマンズへ帰ってからこれを水につけて柔らかくして拡げてみたら、何とヤマブキショウマの葉でした。こんなものが茶の代用になるとは知りませんでした。うまくはありません。
今日は泊る所がなく、大きな岩の陰に一同寝ました。ここには1人先客が居着いていました。この男は近所に生えているネズの木を切って来て、長さ120cmばかりの太めの杖に削っていました。これを通りがかりの人が買って行くのです。われわれの人夫も何人か買っていました。この杖はゴサインクンデ参詣の記念品だそうです。ネズは香がよいので神聖なものとされ、その葉は香料として神前で焚かれます。それと、この杖の長さは、籠を背負ったまま休む(いわゆる1本立てる)ときに、その支えにちょうどよいのです。杖を買うところなどは富士登山記念の金剛杖と同じだと思いました。
8月25日 とうとう森林帯をぬけ出し、岩だらけの斜面を一直線に登り、4,000mのカルカ(家畜を集めて世話したり乳を搾ったりする広場で、仮小屋があり、泊るときの目安になる)のカマボコ小屋に泊まりました。ここまで来たらヤクを飼っているのかと思ったら、全部山羊でした。この山羊を一頭買って食べました。食べるといっても生きてる山羊ですから、殺してバラすわけです。まず水を盛大にぶっかけ、身震いすると殺されることを承知したことになるのだそうです。ククリ(ネパール刀)で首を一刀両断して流れる血を鍋に集め、それから皮を剥いで内臓を出して…と人夫たちは慣れたものです。30分ほどしたら赤黒い豆腐のようなものを食わされました。さっき鍋に集めた血を煮固めたものです。マルラは「うまいうまい」と食べるのですが、こっちはさっきの首無し山羊のイメージがあまりにも新鮮だし、それと体液独特の異臭があって、うまいというわけには行きません。その晩食わされたのは肺と脳、その次の日は肝臓、3日目になってやっと肉が出てきました。つまり腐りやすい部分を先に食べ、肉はその間焚火でいぶしてあるのです。人夫達は腸をひっくり返してきれいに洗い、中にその他の臓物やサーブに出さないこま切れ肉を詰めてソーセージにし、料理に煮込んで食べていました。
カマボコ小屋はたいへん簡単な造りです。石を1mほどの高さに2列に積み、これにメダケの稈を立てて向かい合わせ、その上にメダケを割って編んだマットをかぶせるのです。このマットは村で編んでおいて、登って来るときに丸めて背負って来ます。目が粗いので1枚では雨が強いと中に水が落ちて来るので二重にかけてあります。こうすると雨がもらないばかりか、ほんの少しずらすだけで室内の明るさを調節できます。小屋の中では終日火をたいているので、油煙がついて防水の役目もします。移動するときにはマットを丸め、稈を引き抜いて束ねて行けば、次のカルカで簡単に小屋が造れるのです。構造的にはビニールハウスと同じです。
8月26日 朝、ほんの十数分青空が見え、日が射しました。このトリップで青空が出たのはこの瞬間だけです。今日は4,500mの峠、スルジャ・クンドを越えてゴサインクンドの湖畔に着きました。マルラは大変陽気な人で、昨日から道連れになったシェルパの姉妹をからかっています。この娘達も大変な馬力で、僕なんかはそろそろ高度の影響で頭が痛くなるというのに、大荷物を額から吊して歩きながらハモニカをブカブカ吹き、その合間に追い掛けっこをするという具合です。その妹からマルラはハモニカを取り上げ、手をつないだら返してやると言います。本気にして手をつないだら、今度は「今夜俺のテントに来たら返すよ」なんて言います。娘が渋っていると「タバコを1箱やるから来いよ」と追い討ちをかけます。姉貴の方が「タバコより3モルくれたら行ってもいい」なんて言って、大笑いしていました。僕の感じでは3モル(1.5ルピー)よりもタバコの方が割りが良いように思えますが、そんな細かいところまではわからないからはっきりしません。これは昨日の話で、昨夜はカマボコ小屋に泊ったので娘たちは現れませんでした。今日もマルラは歩きながら何やらからかっています。娘たちのオヤジがすぐそばに居るのですが、表情も変えません。案外心の中では「アイツはかなり上の役人だから、うまく引っかかればいい」なんて思っているのかもしれません。
痛む頭をかかえながらスルジャ・クンドの峠にたどりつきましたが、小雨が横なぐりに吹きつける原っぱで、石を積んだ小塚にタルチョ(ラマ教の祈りの旗)がはためいているだけです。マルラは塚に小石を1つのせ、「峠へ来たらこうやって無事を祈るのだ」と教えてくれました。天気が良ければ眺めの素晴らしい所でしょう。
ゴサインクドは山の上に湖が点々と散らばっています。毎年8月の満月の日に人々がここに集まってお祭りをし、湖に体を浸して身を清め、その水を小さな壷に入れて家に持ち帰ります。湖で体を清めた人は、その年の家の祭儀を司ることができ、水は聖水として用いられるそうです。信仰深い人は一つの湖ばかりでなく、すべての湖を巡って身を清めます。その祭日が今日なのです。峠からゴサインクド湖に近づくにつれて、次第に人の数がふえて、あちこちの岩頭などに群がってお詣りしていました。このあいだ道で見た祈祷師たちは頭から長い紅白のリボンをたらし、ウチワ太鼓をネズの枝で飾り、それをうち鳴らしながらはね回っています。湖畔では人々が水を汲んだり身を清めたり供物を流したりしています。その合間を縫って、長い竹棹を持った男がしきりに水をかきまわしています。水底にあるお賽銭をとりもちつきの棹で拾いあげているのです。湖の北の端に石小屋が1軒あるのですが、そのあたりにたくさんの臨時のカマボコ小屋が立ち並び、人々でごった返していました。石小屋はもう一杯で、われわれはカマボコ小屋に泊まりました。霧で遠望がきかないけれど、はるかかなたまでカマボコ小屋と人ばかりです。
石小屋の横手に祭りの中心地があります。中央に1坪ほどの壇があり、大きなリンガー(金精様)が据えてあります。壇の周囲は石だたみの広場で、まわりを見物人がギッシリと取り囲んでいます。その中からいきなり2人の祈祷師が飛び出して、太鼓をたたきながら片足だけで壇のまわりを2周3周と跳ねて廻ります。ここの高度は4,300mですから、大変な労働です。何か作法があるらしく、太鼓のたたきかたを変えたり、廻りかたを変えたりします。片足で跳ねる人はさすがに少なく、両足で跳ねる方が多いです。その合間にそばに立っているオバサン2-3人が歌のようなものを歌います。このオバサンは祈祷師の相方らしく、手にチャンを入れた木の徳利を持っています。徳利の呑口にはバタが小さく3ヶ所に盛り上げてあります。この連中が一しきり踊ったあと、今度は別な4人組が出て来て同じように踊りました。この中には17-8才の若者が1人いて、弁慶のような白布の頭巾をかぶり、背には御幣をつけた棒を負っていました。この若者は明らかに新米ですが、年配の頭がそばでいろいろ口添えしながらもこの男を立てているところをみると、修行の仕上げにでも来ているのでしょう。こうして村へ帰れば霊験あらたかな一人前の祈祷師になるのでしょう。祈祷師は祭儀ばかりでなく、病気の治療にも村々にはなくてはならぬ存在だそうです。
これが引き上げると、今度はチベット人の一団が登場してきました。これは全くやり方がちがい、一列横隊になって手を両隣りの人の腰へ廻し、歌を歌いながらゆっくり横歩きに回ります。横隊の半分は男、残る半分は女で、混じることはありません。歌も男性たちがまず一節歌うと次に女性たちが歌い、掛け合いのような形式で延々と続きます。おそろしく間延びのした歌をカン高い声をはり上げ、大合唱はずい分離れていてもよく聞こえます。一群が歌っている間、他群は足を踏み鳴らして「シッシッシッ」と掛け声をかけてはやします。ピッチの早い勇壮なはやしと間のびのした歌声がとけあって、面白い調和がとれています。この人たちはみんな一張羅の服を着、大きな耳飾りをつけ、立派なガオ(首から下げるラマ教のお守り)を下げ、美しいチベット帽をかぶっています。一くさり歌い終わると自分たちの泊り場に引き上げ、飲んだり食べたりしたあげく、また広場にやって来て歌います。祭りの主要部分は広場を中心としたこの歌舞で、何組ものチベタンや祈祷師が入れ代り立ち代り、夜を徹して歌い踊るのです。
その夜の満月は生憎の霧雨で見られませんでした。高山病の頭痛と夜通しの歌と太鼓の音で、眠るどころではありませんでした。暗い中を見に出るには、かなりの用心が必要です。とにかく至るところウンチだらけなのです。カマボコ小屋の間のせまい通路さえ、点々とやらかしてあり、臭気ふんぷんです。彼らはこういう作業をたいしてかくしだてしないでやりますが、それにしてもこんな人通りの多い所でやるには手練の早業が必要でしょう。
8月27日 朝になると壇の上にいかにも修行を積んだとみえるラマ僧が坐り、一人一人に按手の礼を与えていました。それが済むとヒンドゥー教徒がリンガーを花で飾り、灯明をあげて礼拝します。ここに集まっているのはラマ教徒とヒンドゥー教徒ですが、広場の踊りに加わるのはヒンドゥー教徒では祈祷師だけで、あとの人たちは小屋の中でヒッソリしています。これに対してラマ教徒は全員広場に繰り出して踊り、見物もほとんどチベタンばかりです。踊りの時はラマ僧は石小屋の中に居て出て来ません。ヒンドゥー教徒は低いところから来ているので、高山病で踊るどころではないのでしょう。それだけに、慣れない高度で踊り回ることのできる祈祷師は、特別な力を持っているようにみえます。
この朝で祭りは終り、一同家路につくのですが、祈祷師達は最後に壇を1周し、そのまま踊りながら南へと帰って行きます。まさか自分の村まで跳ねて行くわけではないでしょうが、霧の中に見えなくなってからでも太鼓の音はずっと続いていたから、遠くになってもまだ踊っているのでしょう。チベタン達は歌を歌いながら徒歩や馬で北に向かいます。時々ふりかえって手を振りながら「ウォーッ」と叫ぶと、残っている連中がこれに応えて歓声をあげ、なかなかにぎやかで印象的な別れです。
朝がすぎるとカマボコ小屋がバタバタと片づけられてしまいました。この小屋は貸席で、一人3ルピーとられます。祭りの時だけ近くの村人が経営しており、これからたたんで自分たちの放牧地に持って行くのです。昼頃には人々もすっかりいなくなり、100以上もあったと思われるカマボコ小屋も消えてしまい、あたりは無人の境となってしまいました。1軒に30人泊まったとすると3,000人もの人が集まっていたことになります。夜になったら湖畔に残っているのはわれわれとヒッピー3人の2パーティーだけ、16夜の月が皓々と照って太古の静けさが支配し、昨夜の騒ぎは嘘のよう。実に劇的な変わりようでした。この祭りの見所はあのダイナミックな歌と踊りと、この静と動の極端な変化に尽きます。映画にとったらすばらしいルポができるでしょう。スチールではとても駄目です。それにしてもテープレコーダーを持って行かないで惜しいことをしました。
8月27日 朝、同宿していたアメリカのヒッピーがマルラのところへ来て「金が無くなったので10ドルのトラベラーズチェックで100ルピーとりかえてくれ」と持ちかけました。幸い僕のほうへはやってこないので(つまり彼の方が金持ちに見える)、マルラがどう扱うか興味をもってながめていると、マルラ「金をどうするのかね?」「今朝で食料がなくなったから買うのだ」「金があったって売ってるところがないから駄目だよ」「この先の峠(スルジャ・クンドのこと)を越えればあるだろう」「われわれはそっちから来たのだが、これから3日間は手に入らない。実はわれわれも食料が無くなったので急いで引き返すところなのだ」「とにかく現金が無くなってしまい、トラベラーズチェックしか無いので、万一食料が見つかっても買うことができない。少しでもよいからルピーととり換えてくれないか」「われわれは政府の限られた予算で来ているので100ルピーも用立てる金はない、しかしあなたがたはお困りのようだから10ルピーさしあげる。それでよいか?」「OK」というわけで、マルラは自分のポケットから10ルピー恵んでやりました。ついでに、これから先へ行っても食料は手に入らぬから、ドゥンチェへ引き返すほうがよいとアドバイスしました。僕のシェルパはこのヒッピーに10ルピーやって、ワイシャツを手に入れました。あとでマルラが言うには「おれは100ルピー持ってなかったわけではない。レートは公定なら10ドルで 101ルピー、闇なら130ルピーなのだから、10ドル100ルピーなら非常に有利だ。けれどもし彼らが後になって“これこれのチェックが盗まれた”と届けたりすると面倒なことになるので、換えてやらなかったのだ。貸したところで返る見込みはないので、10ルピーやって始末をつけたのだ」という話です。この土地の人の人間不信と自己保全の生活信条を見せられた思いがしました。ここの人たちは人助けをする場合にも、身の安全が 100%保証されなければ動きそうにありません。道に行き倒れの人がいても、そして自分が十分な食料を持っていても、分けてやらないかもしれません。こういうところでは明日ばかりでなく、10日も1ヶ月も先のことまで考えて、身の安全を計らねばならないからです。
8月28日 マルラがヒッピーに「われわれも食料が足りない」と言ったのは、たかられるのを防ぐためかと思ったら、本当に足りないのだそうです。こういう現象は僕には理解できません。マルラも人夫たちもこのコースは何度も来ており、どこで食料が手に入り、どこで入らないかは十分承知しているはずです。それなのに1番入手の困難な頂上へ来て食料不足に陥るような準備しかしていないのです。途中の小屋でいくらも買えたし、実際買っていたのに…。それも昨日までは平常量を食べていたのに、今日になったら「足りないから1食へらす」と言うのです。ネパール人は2食主義ですから、1食へらすというのは大変なことです。僕の方は2食では動けないので、朝はチャパテを作ってもらい、昼はそれを弁当にし、夜は飯にしていました。そのチャパテの粉が足りないというので、昼弁当は無しになってしまいました。それでわれわれもなるべくはやく、食料の入るところまで引き返すことになりました。3日間は食料がないというコースを戻るより、先に1日進んでドゥンチェに出た方が、大きな街道筋ですので有利なはずなのですが、それではカトマンズに帰るのにより日数がかかるからいやなのでしょう。僕はマルラがヒッピーに言ったことは、先に行かれて食料を買い占めらては困るので、少し大げさに言ったのだと思っていました。とにかく来るときにはあんなに小屋があり、食物や茶を売っていたのだから、いくらわれわれが13人の大所帯でも、少しは補給がつくものと考えていました。ところが帰路にかかってみたら、あんなにたくさんあったカマボコ小屋は1つ残らず取り払われ、石造りの放牧小屋もみな無人になっていました。わずか1-2ヶ所に小さなグループが残っていましたが、これも明日は移動するというものばかりでした。こんなわけで帰路第1日は往路の2日半分を一気にすっとばしてしまいました。いくら下りといっても大変です。そのうえどこで泊るというあてもなく、「食料を買えた所で泊る」というのですから、調査どころではありません。泊ったターレパチルというカルカでは、1食分しか手に入りませんでした。
8月29日 午前中は昨日でくたびれたというのでゴロゴロし、昼食を食べてから出発。今日も往路の2日分を歩いて最初の部落クトゥンサンにたどりついたのは夜の8時過ぎでした。おかげで往きがけに見当をつけて帰路によく調べるつもりだった珍植物の生育地を通った時は、真っ暗で道もわからぬ始末でした。
8月30日 この部落でも1食分(昨夜の食事)しか手に入らず、今日は起き抜けから歩き出し、次の部落で昼食を手に入れました。こう書くと僕まで食うものが無くなったように思うかもしれませんが、サーブの食料は何とか確保されていて、28・29日は少し心細かったけれど、ビスケットをかじったりしてどうにか飢えずに済んでいたのです。問題は人夫の食料で、これは全く手持ちが無くなってその日暮しの有様でした。彼らの食料はコド(シコクビエ)の粉、それがないとトウモロコシの粉です。夕方着いたパチバンジャンは街道の交叉点で、10数軒の大部落だからもう安心と思ったら、ここでも1食分買えただけでした。お祭りの人達が通った後は、どこでも食料は底をついていたらしいです。
8月31日 こう食料が無くてはカトマンズへ帰って食べるより仕方がないというわけで、今日も起き抜けに出発、途中の部落で1食補給し、夕方にはカトマンズ盆地の端のスンダリジャールに着きました。こういう次第で帰途は食料に追われ放し、予定よりも2日早く帰ってしまいました。面白いのは人夫達で、連中は役所専属なので予定日数分の日当をもらっており、早く帰ると余分を返納せねばなりません。といって食料が1食分ずつしか手に入らないから先を急がないわけには行かず、村落地帯に入ったら「あまり急がないで部落1つずつ托鉢して行こう」とマルラに提案して苦笑させていました。こんなわけで、数ヶ月間待ちに待ったゴサインクンド行きも、始まったらば思わぬ食料難で龍頭蛇尾に終わってしまいました。
[日本ネパール協会会報(6):10-16(1971)を加筆修正]
〇ボダイジュのほこら
トリスリの町はずれの大きなボダイジュの洞の中にヒンドゥー教の御神体がある。よく見るとその御神体のまわりには、煉瓦で積んで屋根までついたほこらが、木の洞の内側にピッタリとくっついている。それにこのほこらはひどくこわれていて、木の洞にやっとへばりついて形を保っている。
実はこのほこらはもともとは一戸建てだったのだが、その屋根に育ったインドボダイジュが大きくなって、ほこらをとり込んでしまい、ほこらは木の圧力で変形してしまったのである。
インドボダイジュはイチジクの仲間で、これが正真正銘の菩提樹であり、優曇華である。日本でいうボダイジュはシナノキの仲間で、本当のボダイジュがないから、葉の形が似ているこの植物を代用したまでの話である。ヨーロッパのボダイジュもシナノキの仲間である。リンデンバウムをなぜボダイジュとよぶのかよく知らないが、これは翻訳しようとしてリンデンバウムの学名の Tiliaを辞書でひいてみたら、ボダイジュと書いてあったというにすぎないのだろう。優曇華は花の咲かない木である。イチジクだからふつうのみかけの花は咲くことはない。オシャカ様が悟りをひらいたときにはウドンゲの花が一斉に開いたというが、どんな花だったのだろう。インドボダイジュから想像する限り、あまりきれいな花とは思われない。オシャカ様がボダイジュの陰で悟りをひらいたということには十分なわけがある。
ボダイジュは成長が速い。すぐ大きくなってよく枝をひろげる。インドのカルカッタ(最近はコルカタ)の植物園に「世界で一番大きい木」というのがある。大きいというと誤解されるが、実は「世界で一番大きい木」という方が正確である。その広さは1本の木で直径約 100mに達する。この木はイチジクの仲間のベンガルボダイジュで、あちらではバンヤンと呼ばれる。横に広がった枝から気根というロープのようなものを垂らし、それが地面へ着くと太くなって支えになり、枝は更に横に延びてゆく。こうして1本の木で森ができたのである。
インドは暑い。1番暑い4月には、自動車の屋根で卵焼きができるといわれるほどだ。おまけにこの頃は雨が全然降らず、空気はカラカラである。タクシーに乗ると、クーラーもないのに窓を閉め切っている。吹き込む熱風で干上がってしまわないためである。こんな時日蔭へ入ると、実に救われた思いがする。日射がさえぎられたうえ、乾いた空気が汗ばんだ体から熱を奪うので、ヒヤリとして気持ちがよい。ボダイジュは日蔭を作る木として至るところに植えられ、古くからの街道筋には大木がうっそうと茂っている。熱帯では街路樹は必需品であり、われわれが考えるような情緒的な装飾品ではない。道ばたのボダイジュの木蔭は行く人の休み場となり、商人が店をひろげ、バザールとなり、村ができる。オシャカ様が瞑想にふけるのも当然ボダイジュの木蔭であり、説教をするのもここである。炎天の下で瞑想にふけったら、1時間もしないうちに日射病でひっくりかえってしまうし、いくら有難い説教をブッても、人が集まる気づかいはない。だからオシャカ様が悟りを開いたからボダイジュは神聖なのではなく、ボダイジュがあったおかげでオシャカ様は悟りをひらけたのである。
ボダイジュの実は鳥がついばみ、その種は糞とともに落される。この種は土の上でなくても木の上でも煉瓦の隙間でも芽を出して大きくなる。ボダイジュは神聖だから、家の壁にとりついて壁に割り込んでこわすようなことがあっても、人々はこれを取り除くことはしない。このほこらの屋根についたボダイジュは、こうしてほこらを取り込んでおしつぶしかけているのである。
ほこらの中央部にはヒンズー教の御神体が安置してある。これは石の円盤の中央を石柱が貫いた形である。円盤は女性を表し、石柱は男性を表す。ヒンドゥー教は非常にたくさんの神をもっているが、その本質は生産とか豊饒にあるといわれる。1番えらいシバは女神である。このあたり日本の神教と似たところがある。この御神体は性行為を象徴しているのである。
道を歩いていると、こんな立派なものではないが、いたる所に御神体を見出すことができる。それはワレメとデッパリである。ちょっとした岩の割れ目とか木の根元のひだのところなどに、赤や黄の色がついているのがそれである。このワレメは縦のものに限るので、横のワレメは見向きもされない。人々は朝夕こういうワレメを色粉をつけた指でていねいにさすってから、その指を額にあて、赤い印をつける。立派なほこらでも、中味は何かとのぞくと、地面からちょっぴりのぞいた岩のワレメだったりする。ボダイジュはこういうワレメが無数にできるのである。沖縄でガジュマルを見たことがある人は思い出してもらいたい。木や建物にとりついたボダイジュは、地面に向かって気根をたくさんのばすが、それが壁面をはい回ってあちこちで交叉したり枝分かれしたりし、そこにたくさんのワレメができる。その中の目ぼしいものが信仰の対象になるのである。水のわき出るようなワレメは最も大切にされる。
一方デッパリの方はあまり出くわさないが、多くは岩の突角で、ツルツルになっているので気がつく。こういう地面に固定されたデッパリよりも、長楕円体や卵形の石がほこらの中に並べられていることが多い。これはもちろん金精様で、みんなまっ黒なつやのある石で、中には本物ソックリに彫刻されているものもある。
ネパールを歩くと、ところどころにチョータラという休み場がある。1mほどの高さの壇を築き、一対の木が植えてある。通常はインドボダイジュとベンガルボダイジュで、雌雄を象徴しているのだそうだ。だが、高地では育たないので他の木で代用してある。FraxinusだったりCeltisだったりPopulusだったりする。壇の道に面した側は高さ70cm程の段になっているが、腰掛けにしては高すぎる。これは背負った荷物を載せるためである。彼らは額に掛けたベルトを使って、下すぼまりの籠を背負う。その下端がちょうどその高さなのだ。チョータラは篤志家の喜捨や住民の共同出資で造られ、そのことを記した石板がついていたりする。チョータラのまわりには茶店があったり物売りが品物を拡げたりしており、一種のコミュニティーセンターになっている。
〇カトマンズ(3)
1969年10月8日 この1ヵ月ほどは家族のことでキリキリ舞いです。こちらの家財に合わせて家具を造ったり棚をつけたりしなければなりません。棚1枚といえども大変なのです。壁に作り付けの棚を1枚増やそうとしたら、まず壁に穴をあけます。といっても道具がないから、このことあるを予期して日本から持ってきたコンクリート用釘でジャンピングです。その穴へ棚板をのせる桟を取りつけます。棚板は家具屋へ注文すると、ものすごく重くて硬い板で造ってくれます。1m×30cmを片手で持てません。サイズがすこし大きいからと、切ろうとしたら、鋸が減るばかりでちっとも切れません。食器棚は出来合いがないから、ディリバザールの家具屋へ行って、ちょうど並べてあるものの中から手頃なのを選び、「この様式で高さ何々、幅何々、奥行き何々、引出しはいくつ」などと指定します。それが出来上がって店に置いといたら他の買い手がつき、僕が400ルピーで造らしたものを800ルピーで買うと言ったそうです。僕には400で売ってくれましたが、今後は800になるでしょう。デザイン料をもらわねばなりません。家具を発注するときには、家までの運び賃も含む値段かどうかを決めておく必要があります。
それから学校さがし。ネパール人が行く名門校のセントザビエルという学校に行ったら、ここは1年はなくて2年の学級から。うちの子供は1年と2年生だから来年の入学にはちょうどよいのですが、入学試験をやるそうです。もちろん英語です。問題を見せてもらったら(見せてくれるのです!)、英文法と算数それも割算まで出てくるのでとても駄目。「1年のある小さな学校を紹介するから、1月の試験までその幼稚園のクラスで英語に慣れてきなさい。」というわけで、今は2人で幼稚園に行っています。と言っても今月はダサインという大祭のために2週間は休み。それに12-1月は冬休みですから、今年は正味あと1ヶ月しかありません。この入学試験というのがケッサクで、10月から1月まで希望者があれば随時やります。問題はすでにプリントしてあって、いつきても同じ問題でやります。日本なら番町小学校と麹町中学校と日比谷高校をくっつけたようなところですから、問題の内容がたちまち知れわたってしまうかというとそうでもなさそうで、親がフェアプレイに徹しているのか、とにかく不思議な話です。
まずその小さな学校へ入れてもらいました。マイクロバスで拾いにきますが、中古のワゴンタイプのトラックで座席も窓もなく、囚人護送車みたいです。9時半から1時までですので、出たと思ったらすぐ帰ってきて、ワイフの息抜きの足しにはなりません。それでも2日通い、ネパールへ来てから2週間たち、病気もせずにヤレヤレと思っていたら、その晩から2人同時に39度の熱と猛烈な下痢をはじめました。30分に1回ですから、2人合計の平均タイムは15分です。しかもその度に下着をよごしてしまうので、第一夜は30着ほどのパンツがみんな無くなってしまいました。それから3日間ほどは夜寝るひまもありませんでした。子供は子供でトイレなんか行きたくないけれど、モノが出て来るから仕方なく行くことになり、便器に腰掛けたまま眠ってしまうので、こっちは椅子を持ち込んで番をしました。はじめのうちはワイフがついているけれど、夜中をすぎるとヘバッテ立てなくなるから、今度は僕が交代です。
医者がまた頼りないことおびただしく、往診に来てもらったら、聴診器ひとつ持っただけで、チョイチョイと診て処方箋を置いて行くだけです。注射もしなければ薬もくれません。医薬分業なのです。処方箋を薬屋に持ち込み、薬を買うのです。「熱が 100°F(これの換算がまた厄介)を越えたらこれをのませなさい」という薬を、さしあたり熱が高くなかったので買わなかったのですが、夜遅くなって高熱になりはじめたので、大急ぎで町へ行って開いてる店を探し(薬屋はたくさんあるが、10時を過ぎると24時間営業の店が12軒開いてるだけ)て薬を買い、のませることになりました。そしたら1時間もしないうちに、下の子がうわ言をいったり、目の焦点が定まらなくなったり、頭がグラつくなどという強い副作用が出はじめました。あわてて真夜中にビル・ホスピタルの急患受付にかつぎこみました。この病院は町の真中にある、ネパール人医師だけでやっている国立病院です。上の子の方は熱が出なかったので、薬をのまずに済みました。幸い症状は短時間で収まり、医師も一時的な薬の副作用の症状だというのですぐ連れかえりました。
ここの薬はインド製で、たいてい強すぎます。おまけにどの薬にも「poison」と書いてあるので、少々気味が悪いです。翌日医者をつかまえて昨夜のことを話したら、「俺はちゃんと小児用に手加減したんだがな」と言っていました。「まだ軽くならない」と言うと「ではこれを」と別な処方をくれました。3日目には下痢は治ったけれど、腹痛が始まったので医者にまた言うと、また別な薬を処方してくれました。患者は全然見ないで、こっちの言うことだけで薬をくれるのです。
しかもだんだん強い薬になるので、少し心配になりました。うちの奥さんは薬剤師だから、処方をみれば中身はわかるのです。しまいには腹痛どめに麻薬系の薬まで処方していました。だいたい熱と下痢を伴う病気で、おまけに今コレラが発生しているのに、検便もしません。1週間以上絶食ですから出るものもなく、それでも下痢はおこりますから、しまいに腸の内壁がはがれたような膜状のものがどんどん出てきました。血の混じった粘液も一緒です。今から考えるとチフスだったようです。4日目に見切りをつけて、サンタババン病院につれて行きました。こちらは外人医師団がやっているキリスト教ミッションの病院です。この頃にはもう峠は越していましたが、まず検便してアメーバが無いのを確かめ、あとは投薬です。結局2週間で大体治まりましたが、どうもお腹の調子が本当でなく、ちょっと食べると翌日はピーとなるのを繰り返しています。今日で3週間目ですが、まだ二人とも安心して食べさせるわけにはゆきません。二人とも日本では腹は壊したことはないのですが。まあ、つまるところは体力勝負です。
最初にかかった医者はヤブではなく、カトマンズの小児科医として第1に名前をあげられる人で、しかも国立ビル・ホスピタルの医師でもあるのです。昨日になってから知り合いの人が、日本人の医者を連れてきてくれました。ネパールの医療に献身している岩村昇さんでした。一通りみてもらって、快方に向かっていることを確かめてもらい、一安心しました。もっともネパールでは、チフスは日本のように大騒ぎする病気ではないそうです。
11月3日 子供の病気もどうやら回復し、定常的運行に戻りました。意外と忙しいです。
- 奥さんだけ自転車でバザールへ買物にでかける(毎日ではないが)。 よその家ではダンナが自動車でついて来てくれるのにと、文句を言っています。
- 起床(子供の部屋に目覚し時計が置いてあり、子供がわれわれを起こしにくる手はずだが、ときどきかけるのを忘れる)。われわれ夫婦は寝室でmorning tea、その間に子供は丘の下までランニングをさせます。
- 朝食。
- スクールバス。
- 役所へ。
- 家へ帰って昼食。
- 役所へ。
- 退庁(ドンピシャリで皆居なくなり、戸締り係が回ってくるので、部屋の鍵は自分で持っているけれど、居残りなどできません)。
- 子供を個人授業に連れて行く。
- 連れ戻し。
- 晩食。
この通り行けばましです。何か用があると、たとえば銀行へ行くとか、小包を受け取るとか、車の調子がおかしいとかすると最低半日はとられてしまいます。午後だって家で昼飯をとってから行くと、すぐおやつ(khaajaaという)になります。これはタダだし、ときどき面白いものが出るので食べに出掛けます。たとえば中共製のえびせんべい、コウヤドウフ(実はミルクのカゼイン成分を固めたもの)の糖蜜漬け(ラスバリ)とか、カリン糖とドーナッツの合の子など。これが30分近くかかるから、午後は食べ通しみたいです。
5時に帰って子供とお茶を飲んで(たいして飲みたくないが、一家団らんのため)、5時15分に二人をのせて20分に先生の家につきます。約束は5時30分なのだけれど、先生の家の時計はインド時間らしく、いつも10分進んでいるのです。この先生の家は子供が昼間通っている幼稚園と同じです。
奥さんは子供の学校が気に入らないで、かえようといいます。たしかに学校へ行って2日したらお腹の具合が悪くなりました。どうも給食のジュースのためらしいです。動物園のように「エサをやらないでください」と手紙を書きました。英語の教え方も悪いそうです。12-1月が休みになるのも気にいりません。どうせ年があけたらセントザビエルという有名校の試験を受けるので、その準備に今の学校に来ているのですから、もう少しの我慢なのです。カトマンズでもっとも設備のよいのはアメリカンスクールですが、月謝は年750$というたいしたお値段です。第一僕はネパールへ来てアメリカの学校へやるというのは気に食わないのです。ここは年末年始の休みはないけれど、7-8月が休みです。今のところは1ヶ月75ルピー(年に換算すると90$)です。
12月21日 子供はセントザビエル校の入学試験を受けました。受験番号が200台だったので、そんなに人が来るのかと思ったら、10人も来ていませんでした。30分くらい時間をずらし、日を替えて次々と呼び出すようです。試験官は副校長のアメリカ人1人、それに小使い2人だけです。子供2人を校長室へ連れて行ったとおもったら、小使いが来て、「書くのを手伝え」と言います。行ってみたら「名前と住所という欄がネパール語なのでわからないから」ということでした。
日本人だから特別かと思ったら、たいていの子に室内まで親がついており、中には問題の答えもさっさと教えている親もいます。校長室の机の端だの、本棚の空いたところだのに陣取って、答案を書いていました。副校長は別室で高学年の編入者の口頭試問をしているし、小使は監視をしているわけではなく、ときどき用事で出て行ってしまい、試験場は親子だけのことが多いのです。それでも親があがってしまって、「少し頭を冷やして来ます」と親子で外へ出て行って、しばらく休んでまた舞い戻って問題をやるというのもあります。日本の入学試験とは大違いで、開いた口がふさがりませんでした。
この学校は1年はなく、2年からです。算数に3桁の掛算、英語は文章の意訳と単複数の変化、これがB5版の裏表に印刷してあり、15-20分でやれというのですから、ずいぶん無理な話です。もっとも、その方が差がついてよいのかもしれません。しばらくしたら副校長がやってきて親を追い出し、1人ずつ口頭試問。それ以外の子は依然として問題をやっているのですから、早く口頭試問に当たった子は損なわけですが、別に文句は出ません。正味30-40分で終り。「いずれ知らせます」というので帰って来ました。まったくあっけない試験です。これでもアメリカンスクールは別格として、カトマンズで最高級の学校で志願者が殺到するところなのです。算数は半分くらいできたけれど、英語は駄目に決まってるし、口頭試問では何を答えたやら知りません。まだ来てから3ヶ月たったばかりですから。帰りぎわに「制服は紺、靴は黒、シャツは白です」なんて副校長が言うから、脈があるわいと思っていたら、果して通知があり、2人共入れてくれました。日本人は初めて、しかも3人一緒なので、どれか1人を落とすわけに行かなかったのでしょう。もう1人も1年生の男の子です。
個人教授の先生もなかなか傑作で、わずか2ヶ月のうちに単複数、過去、現在、未来、進行形、受身……とほとんどの用法を伝授していました。それも現在がまだなのに過去形が出てきたり、haveを知らないのにhasを教えたり、今日は未来を教えて明日は受身、その次の日は過去という具合で見事に体系的でなく、子供はキリキリ舞いです。でも一応試験の答案の名前のところだけは自分で書けるようになったし、なかなか美人でまだ独身なので、毎日2度顔を合わすのがたのしみで、替えたくないのですが、奥さんの方は早く鞍替えしようとうるさいです。
もう1人の日本人の家では、家庭教師に来てもらっています。子持ちの女の人ですが、第1日から男の電話がかかってきて、授業はそっちのけで30分以上も何やら楽しそうにしゃべっているそうです。1時間半頼んでいる中の30分でしかも毎日だというので、いささか驚かされました。相手はハズではなく、当人の話では学校の仕事の打ち合わせだそうですが、それにしては楽しそうだし、第一そんな話ならわざわざ他人の電話でしなくてもよさそうです。1ヶ月ほどしたら先生の方で「電話がかかってきたらいないと言ってくれ」と言い出したそうです。僕の家にはまだ電話がついてないから、こういう心配はありません。
セントザビエル校はバグマチ川の南のパタンにあり、スクールバスで送迎してくれます。幼稚園のときと同じで、市内のところどころに指定地があり、そこで待っていれば拾ってくれるのです。第1日はピックアップ地点までワイフがついて行って、上級生に「よろしく」というつもりだったのですが、みんな知らん顔で、そういう雰囲気はないようでした。バスも幼稚園のときと同じで、窓も座席もない宅配便の小型トラックのようです。とにかく子供だけを乗せ、あとはどうなったかわかりません。午後になったら戻って来たので、なんとかなったようです。1つ違いですが、もう1人の日本人の男の子と一緒に同じクラスに入れてくれました。英語の時間以外はネパール語ばかりで、それに英語だってわからないのですから、3人一緒は心強かったでしょう。
サーバントのジャンブーが病気になりました。なんでも腹が痛くて背骨も痛いそうで、ここ1週間ほど寝ています。ちょうどビールス性肝炎がはやっているのでそれかなと思ったが、症状が違います。「病院でどんな検査をするのか」とたずねたら、夜行って血液を調べるのだそうです。その方面の知識のある人にきいたら、夜間に血液検査をするのは象皮病かマラリヤだそうです。マラリヤならこれまでに何度もおこっていなければならないし、象皮病は低地の病気でしかも潜伏期間が3-10年というものなので、ここ4ヶ月の間に出た旅行で感染したにしては早すぎます。結局栄養失調だろうということになりました。ご本人に言わせると、シェルパがカトマンズで1年暮らすのは大変困難で、大抵の者は病気になるそうです。現にパタンのチベット難民センターに住んでいる連中はほとんど病気だそうです。ここはナムチェバザールとちがって気候も悪く、食べ物も異なるので暮し難い、と言いました。ただしチベット出身のワイフの方はピンピンしており、この点僕の家と同様です。僕の奥さんは太ってきて、夏服は使用不能になりました。
クリスマスには七面鳥を買って食べようといっていたのですが、ジャンブーが休んでしまったので中止にしました。ツリーの飾りも持ってきたのですが、カルカッタで盗られてしまい(書類に「オーナメント」なんて書いたものだから)、「家には煙突がないからサンタクロースはこない」ということにしました。もう1軒の家では暖炉の煙突が2本もあるので、サンタクロースが来たようです。ここではクリスマスも正月も全く何もありません。冬至の日に米粉でオバQのような餅を作って食べるそうです。
〇ロルカニの旅
1970年3月の末にイースターで学校が1週間休みになるので、家族みんなでナムチェバザールへ行く計画で、その前に僕だけでその中間のジリへ採集に行くつもりでした。昨年は役所の様子がわからずに待ぼけを食ったので、今年はこまめに出かけたいのです。ジリまで3-4日歩くのですが、途中は全然つまらないということです。3月はじめだと少し時期が早いので、ジリまで軽飛行機で行って附近を1週間歩いて帰り、月末にナムチェバザールのそばのルクラまでまた飛行機で行って、ここも1週間というつもりでした。ナムチェまで歩くと1週間かかります。飛行機で行くといっても定期便があるわけではなく、国連やスイスミッションの連絡便に便乗するか、王室の自家用機を借りるかするのです。ルクラ便は春と冬だけで、5-9月は天候が悪くて飛びません。席料は 200ルピーほどだという話でした。旅行社へ行ってジリとナムチェの両方を予約するように言ったら迷惑そうな顔をして「そんなフライトは知らん」と言います。「スイスミッションに聞いてみろ」と言ったら、渋々電話をかけたあげく、「通常の人間は乗せないそうだから、あなたの役所から紹介状をもらって自分でやってくれ」と逃げられてしまいました。そこで役所で紹介状を書いてもらってスイスの事務所へ行ったら昼食で誰もいませんでした。夕方もう一度行ったら係のMrs.ナントカ(Mrs.になりたてらしい)が「ジリ行きは満席で下旬まで空きがない。ナムチェ行きは予定がない」と言います。「予定がないならチャーターするから行け」と言えばよかったのにと、後で誰かが智恵を授けてくれました。話によると軽飛行機はスイスと国連で1機ずつ持っているが、パイロットが1人で両方をかけ持ちしているのだそうです。国連の方もとても無理だろうと言われました。とにかくジリの方はあきらめて歩くことにし、ナムチェ行きの方を何とかしてもらおうと、もう一度旅行社に頼みました。彼等の方がいろいろ抜け道を知ってるから、ジリへ行っている20日間もあれば何とか探してくれるだろうと期待したからです。
そこでジリへ歩いて行くことになりました。チャイニーズロード(コダリ・ロード)の外人向け終点のバラビセまで自分の車で行って、そこから歩けば2-3日でジリへ行けるコースをとることにしました。ワイフがジャンブー(うちの使用人のシェルパ)を離さないので、誰かシェルパを雇わねばならなくなりました。彼に探してこいと言ったら、「この時期はとてもむつかしい」のだそうです。登山隊がやってくるので、それを待ってるシェルパはいくらも居るけれど、短期のトリップでは実入りが少ないから、誰も行きたがらないのです。それにジャンブーは同じ村の人間しか紹介しようとしません。
前々日になっても見つからないので、「少々落ちてもよいから」と言ったら、ハクパを連れてきました。ハクパは昨年ゴサインクンデへ行ったときのポーターで、いつも道端で寝てばかりいた男です。「ヤツはいつでもヒマ」なんだそうです。去年は8ルピーでしたが、今度は強気で「アメリカ人と13ルピー+食費3ルピーで契約しているが、日本人なら一括15ルピーでよい」ときました。せっかく16ルピーもらえるところなのだから、こっちも同額出すことにして確保したのですが、後でわかったことは、この時すでにアメリカ人から前渡し金をもらっており、それをキャンセルしたものだから、先方が大変怒ったそうです。ジャンブーの評価では「彼は怠け者だ」そうですが、僕の見立ては「悪い男ではないが頭は良くない」というところです。
シェルパはとにかくつかまえたけれど、人夫はまだです。バラビセで雇うつもりでしたが、ジャンブーがこの前バラビセで口をかけた人夫は、前渡し金をもらっといて翌日いなくなったことがあるので、カトマンズから人夫を連れて行く方が安全だと言われました。ハクパにまかせたら、うすぎたない兄ちゃんを2人連れてきました。知り合いかと思ったら、名前も知らないそうで、これでは翌日いなくなってもつかまえ様がありません。とにかく明朝6時に来いということにしました。ところが翌朝はものすごい土砂降りで、雨があがってハクパたちが現れたのは9時過ぎでした。
1970年3月31日 僕の車に荷物と人間をのせて出発。盆地を出てスンコシ河へ下って行く途中でパンクしました。珍しくガラスのかけらでも踏んだらしく、チューブレスタイヤに6-7センチの裂け目ができていました。予備タイヤに交換したものの、僕のタイヤは、どこも悪くないのにエアが突然スーッと抜けるくせがあり、1週間たって帰路に乗ろうとしてそうなっていたらお手あげだな、と思うとゆううつになりました。スンコシ河のほとりのドラルガートから河沿いにのぼりはじめたら、こんどはエンジンがいかれてしまい、4気筒の左側2本が死んでしまいました。これまで調子が良かったのに、妙なところで故障したものです。プラグをはずしてみたけれど、ガソリンでぬれているだけで火花はよく飛びます。フォルクスワーゲンはこのプラグをはずすのが大変やりにくいです。キャブレターがあやしいけれど、バラすのはちょっと面倒だし、やったことがないのであきらめました。仕方なくドラルガートまで坂をころがして戻り、そこから歩くことにしました。これで往復3-4日の損となり、車の修理やナムチェ行きのことを考えると、ジリ往復は不可能となりました。車だって道端にほうり出しておけばどうなるかわからないので、ポリスの派出所の前まで押して行き、帰るまで見ていてくれと頼みました。ところが誰も英語のわかる人がいません。ハクパに『「俺は薬草局から仕事に行くのだから、車を見張ってろ」と訳せ』と言っても、彼氏はオタオタして「この車見ててくれよな」なんて言うだけなので、ポリスはウンと言いません。ネパール語は上下関係で言葉づかいが異なるので、目下の言葉を使うと馬鹿にして相手にされないのです。『「この人は薬草局の役人なんだ」と言え』と催促しても、薬草局のネパール語を知らないものだから「パタンへ行く橋のたもとを入ったところに病院があるだろ、あの裏の役所なんだ」なんて言ってるものだから一向ラチがあきません。仕方がないので自分でネパール語でそろそろ話したら、通じたらしく首を縦に振ってくれました。ゴマスリに写真を撮って、カトマンズへ帰ったら伸ばして送ることにしました。
これでもう午後2時になってしまいました。とにかく歩きだしたら500mも行かないうちに人夫が悲鳴をあげ、もう1人雇ってくれなきゃいやだと言い出したのでまた一困り。通りがかった兄ちゃんをつかまえて話したら、簡単にOKとなりました。給料は9ルピー。カトマンズの人夫は10ルピーです。結局この兄ちゃんがみんなからさんざんコキ使われていました。採集に都合がよい場所では1日2日動かないことがありますが、僕がハクパだけ荷物持ちに連れて採集に出るつもりでいると、彼は9ルピーの兄ちゃんに荷物を持たせて現れます。僕が自分のサブザックを背負うとハクパは持物が無くて格好がつかないものだから、強引に僕のサブザックを持っていってしまいます。でもさすがにサーダーになった手前、ゴサインクンドの時のように、やたらに道端でグーグーやることはありませんでした。飯がポロポロだったり、味噌汁に塩を入れたりしましたが、これは仕方がありません。とにかく「いつもヒマ」なシェルパだけあって、ジャンブーのようにはゆかないのです。
ポカラへ行ったときもそうでしたが、街道筋を東西に歩くのは全くつまらないです。定期空路のあるビラトナガルやジャナクプールまで飛んで、そこから北上する方がよほど気がきいていますが、そこまでゆけば最低1ヶ月は歩かないと割が合いません。ですから今度のようにジリなりルクラなりの不定期便で行けるところまで飛ぶのが、「private trip」としては望ましいのです。ジリへ行くのはとうにあきらめていたので、途中から北上して、バラビセの東のカリンチョークという山を目指しました。2,600mの尾根の上にロルカニという部落があり、ここが1番上の集落です。人夫が彼らの炊事道具を持っておらず、これより奥へは行けないというので、仕方なくここで停留することにしました。これより上はまだ花がありませんでした。しかしこれでわかったことは、カトマンズから1日行程のところに、針葉樹から高山帯に達することのできる場所があるということです。1日行程というと大げさですが、カトマンズを早朝出てバラビセまで車で行き、ものすごくキツくてつまらない畑の中の道(これがナムチェへ行くエベレスト街道)を7時間ほど上るとロルカニにつきます。その翌日はもうカリンチョークの3,500mを超えるピークに達することができます。近いから何度も来てみたいと思います。出発の朝の夕立が高いところでは雪となって残っていました。ついでながら今年は花期が昨年より1ヶ月も遅れていました。
とにかくバラビセまで下りてきて、郵便車に便乗し、ドラルガートへ戻りました。郵便車といっても便乗すればちゃんと代金をとります。と言うより、それを商売にしているのです。預けた車は無事で、もう一度修理を試みました。どうせ直らなければカトマンズまで牽引してもらわねばならないので、思い切ってキャブレターも分解し、ノズルを掃除して組立てたけれど、やはり半身不随でオートバイのような音を出すだけでした。あきらめてもう一度預け直し、またトラックをつかまえて荷台に便乗し、その日のうちにカトマンズに戻りました。このトラックもちゃんと子供の車掌がおり、金をとります。
翌日ジープを雇ってドラルガートへ。ジープのタクシーも盆地の外へ出るには、遠距離の免許を持った車でないとだめだということを知りました。ここでもう一度プラグを交換してみたけれどやはりだめ。とうとうカトマンズまで引っ張ることになりました。帰路は上り一方なので、ボロジープはたちまち過熱して動かなくなります。二重遭難ですが運ちゃんは慣れたもので、まず石鹸の塊を取り出して金槌でつぶし、これを水で練ってボロ布に塗りつけ、燃料パイプの漏れているところに巻きつけ、エアークリーナーをはずしてキャブレターに上からたっぷりガソリンをふりかけて始動、ちゃんと動いたけれどしばらく走るとまたエンコです。今度は冷却水を入れ換える一方、布に砂をいっぱい包み、それに水をしみこませておいて燃料ポンプに巻きつけると、また動きだしました。すぐにオーバーヒートするので、水のあるところに来るたびに同じことをくり返します。日本とちがってどこにも水がたっぷり出るわけではないので、根気よく時間をかけて水を入れ換えます。普通なら2時間少々の道のりを6時間ばかりかけて戻りました。引っ張り代往復150ルピー。
引っ張られた車に乗るのがこんなにこわいとは思いませんでした。30mの補助ロープを4本に折って使うので、間隔は5-6mです。それがたるまないようにジッと見つめながら、いつでもブレーキを踏める態勢にしていると、緊張が過ぎて眠くてどうにも仕様がなくなります。ことに盆地に入ると下りばかりなので、いい気になってスッとばします。後ろにいるとカーブではふり回されるし、牛がとび出せば急ブレーキだし、生きた心地がしません。こちらの車は下り坂になるとエンジンを切り、ギアを中立にして重力だけで走るので非常にこわいです。それなのに眠くて眠くてモーローとなってしまうのです。よくも追突しなかったものです。二度とやりたくありません。授業時間に居眠りする学生は「弛んでいる」と怒られますが、命に関わるような緊張状態の中でも居眠りが出るのですから、学生の居眠りを叱るわけにゆかなくなりました(そんなに緊張しているとは思わないけれど)。
工場に持ち込んだら、タペットのボルトが折れたとかで、エンジンを外し、1週間かかりました。クラッチも擦り減っていたので交換しました。ライニングはこれを見越してカタログ販売で取り寄せてあったのが役立ちました。カタログ販売というのは、こちらに来て初めて知りました。自動車や冷蔵庫ばかりでなく、小さなネジや部品や日本食まで手に入ります。
さてその次はナムチェバザール行きですが、これは子供の学校の都合で、日を決めてありました。頼んでおいた旅行社に行くと「なかなか連絡がとれないのでもう少しかかる」と言います。なにもやってはいなかったのです。問い合わせ先は3箇所しかないのだから、1週間で片づかないはずはないのです。4日前になってわかったことは、国連とスイスの便は駄目、王室の飛行機はどことかで故障していて駄目、残るは王室のヘリコプターだけだということでした。ヘリはチャーター代がおそろしく高いのですが、いきがかり上それでもよいと言ったら、また2日たって(こっちはその間毎日2回催促に行くのです)スケジュールは空いてるが王室のOKがとれるかどうかは当日にならないと不明、帰途も同様という返事でした。これでは行けたとしても帰りが不安です。迎えに来てくれなければカトマンズまで子供連れで2週間歩かねばなりません。ヘリは1時間300$です。片道1時間なので2往復で1,200$なのですが、それを払うつもりで頼んでるのにこの返事です。もっとも実現したら一括払いはできなかったのですが。結局ナムチェ行きもとりやめざるをえなくなりました。今度はインドへ出てカシミールに行こうと思い、インド人にきいたら、カシミールはまだ寒くて駄目という話。それではデリー、アグラ(タージマハールのある所)、デラダンにしようということになり、急いでインドのビザをもらい、航空券を買いに行ったら「デリー行きはむこう10日間は満員」と言う返事。とうとうどこへも行けないことになりました。カトマンズから脱出するのがこんなにむつかしいとは思いもよりませんでした。「明日からデリーへ行くから休む」と役所へ言った手前、翌日出るのもしゃくだから、2日ほど家で仕事をしていました。春なのに憂鬱なことです。
悩みの種はもう1つあり、奥さんが家を移ると言い出しました。空港から町へ通ずるハイウェイの建設がすぐそばで始まっており、工事でつぶされた家の代りに、僕の家の周囲に軒を接して新築工事が始まっていることや、今月に入ってときどき断水がおこるようになったことや、いろいろ文句に事欠きません。
シェルパワイフとも喧嘩をしています。ハイハイをする男の子の尻が丸出しだということは前に書きましたが、うちの奥さんが「あんなフケツなのは良くないから、オシメをつけさせろ」と申し渡したら、むこうは「そんなフケツなことはできない、そんな無理を言われるならやめてナムチェへ帰ろう」と言ってるそうです。結局子供を家の中へ入れないことで妥協しそうです。ワイフ同志の喧嘩はもう1つ。シェルパワイフは掃除が受け持ちですが、うちのワイフが見ていたら、トイレの便器にたまっている水を手ですくって、床にまいて雑巾がけをしているのだそうです。バスタブも当然そうやっていたわけです。お互いカルチャーショックもいいところでしょう。
今年の役所の予定はもっぱら西ネパールをやるという話でしたが、もう変わってきており、所長は昨年のモカンプールのコースに力を入れたいと言っています。しかしM氏やSh氏は西へ行きたいと考えています。所長が計画を縮小したのは、モカンプール行きなら車で少しずつ行けば済むけれど、西ネパールだと大キャラバンを出さねばならないので費用がかかるという問題と共に、常陸宮が来るというので日本庭園の工事を無理に始めてしまったのが原因とみられます。この工事はとりかかるのをダラダラ引延していたのが、政府部内の視察に間に合わせようと、新予算をとらずに独断で始めてしまったので、いまさら西ネパールへ出る金をとるどころか、今年度の予算は庭園工事の穴埋めに使わねばならないからでしょう。予算の申請や使い方や新事業の開始は全く所長の独断でやれるらしく、他の人は全然知りません。日本庭園の方も水際の石組が終わったところで中止しそうな様子です。工事をしているところは政府のおエラ方に見せて認めてもらったので、これ以上無理しないでおき、新年度予算が来るのを待つのでしょう。こういう事業も個人プレーの感じがとても強いです。
〇カトマンズ(4)
1970年5月19日 3-4月は体調が大変おかしくなり、シャックリが1時間も止まらないことが1日に3回も起ったり、疲れているくせに明け方まで眠れなかったりしました。といっても家で寝ているほどのこともなく、毎日役所には出ていました。
4月8日に引っ越しました。今度は2階建ての前よりちょっと大きい家です。水の心配が全くなくなりましたが、その代り毎晩大きなゴキブリが飛び込んできます。家の中で発生するのではありません。ネパールではゴキブリは金持ちの家に住む虫として喜ばれます。場所は町の時計台の裏のあたりです。身体の不調は引っ越し前後のゴタゴタの影響みたいです。役所の中型ジープにトレーラーをつけたのと、僕の車で5往復しました。なかなか物持ちになったものです。水のタンクから配管まで、僕が金を払ったものはほとんど全部持ってきてしまいました。この家は日本大使館の書記官夫婦2人で住んでいたところです。その前はアメリカ人が子供10人と住んでいたそうです。だから少々の人数が来てもスペースはありますし、庭にテントも張れますので、来たい人はいつでもおいでください。ダブルベッドもあります。僕の旅行の予定に合わせてとお考えでしょうが、それは無理なのです。今春のスケジュールも既に大変狂っていて、語るも涙なのです。
昨年末の話では、「1969年は待たせてばかりで大変すまなかった。来年は予定通りやりたい。予算がとれなくても自腹を切ってでもやるから、その折りは自費で行ってもらいたい」ということで、4月に西テライ、5月にモカンプール、7-8月に西ネパールの高地を2ヶ月、という予定でした。ネパール人が立て替え払いにせよ、自費で役所の仕事をやるなどということは、口にするだけでも天変地異に類することです。4月になってみたら所長はビラトナガルへランを採りに人を出しただけです。「西テライも中部テライも似たようなものだから、行かなくてもよい」と言うのです。こっちも引っ越しがあったし体調も悪いのでそのままにして、5月下旬にモカンプールをやることだけは確約をとっておきました。モカンプールは僕は行く必要を感じてないのですが、所長のシュワールがとてもご執心で、4月にやるというのを昨年と同じ時期では仕方がないからと5月にしたのです。僕はそれが済んだら1人でナムチェ附近の人のあまり通らぬコースを歩くつもりでいました。5月17日になって「そろそろ予定を決めたらどうだ」ともちかけたら、「6月12日頃標本館を皇太子成婚記念標本館にする式があり、オエラ方が来るので改装や当日の飾りつけの準備をせねばならない。だからモカンプールはそれ以後に延ばす」と言うのです。「それならそれでよいから、モカンプール行きと西ネパール行きの予定をはっきりさせろ」ともちかけて、モカンプールはともかく西ネパール行きの日取りを決めにかかったら、7-8月は雨のためにそっちの方へは飛行機が全然飛ばないことがわかりました。西テライにある飛行場でさえその時期には使えないのだそうです。と言って、連中はインドから汽車に乗って行ってテライを歩いて北上するなどということは全く考えておらず、天気がよければ飛行機が行く西ネパールの中央にあるジュムラまでは飛びたいのです。そんなわけで、西ネパール行きは6月後半には出発しなければ駄目という結論になりました。いままで何回も行っているのに、あらためて調べないとこんなことがわからないのです。そうすると6月12日に式を済ませてからモカンプールを10日やり、それからすぐに西ネパールへ2ヶ月出ることになるわけで、「それではあんたに気の毒だ」と言うのです。彼らは行く人間が違うのでよいけれど、お前は出ずっぱりだからというわけですが、いつも無神経なことをいうくせに、今度は馬鹿に思いやりがあっておかしいです。「こっちはそれで一向かまわない。そう決まったのなら来週から1人でちょっと採集に出かけてくるから」と言うと「飾りつけを手伝ってくれないのか?」と心配します。「そんなのは10日もあれば十分できるから、間に合うように帰って来る。とにかく今が採集に最適な時期で、俺は来年はいないはずだから、今出掛けないと話にならない。無理して駆け足で行って来る」と宣言しました。話の相手はマルラです。ところが彼氏、「せっかく飾りつけの準備に前をあけたのに、お前が出かけてしまっては仕方がない。そんならモカンプールを前に持ってくる」と言い出しました。つまりモカンプールを式の後にしたのは、式の準備、とくに飾りつけに僕の智恵を借りたいというのが本心だったのです。こう書くとウヌボレているようですが、先日あった博覧会に僕が作った展示が好評だったらしく、連中は今度のディスプレイでも2匹目のドジョウをねらっているようなのです。
博覧会の展示というのは「これまでわれわれがいかに広汎な調査を行ったかを示したい」というので、ネパールの大地図に調査ルートを電光表示する案をアドバイスしたのです。彼等が全部具体化するはずだったのですが、まず発注した電光表示用のトランス(一抱えもある)ができてきたら、豆電球をたくさんつないで光らせるためなのに、出力不足で全く役にたちません。豆電球の数を決めずに発注したのですから、当然の結果です。それにベースになる地図が、いつまでたってもできないのです。このままではロクなものはできそうもないので、とうとう手を出してしまいました。ベニヤ板に紙を貼り、地図を拡大描写して下図とし、色紙で県を貼り分け、コースにドリルで穴をあけて豆電球を埋め込み、トランスが使えないので塩水抵抗器を作って直列につなぐ電球の数を調節しながら配線し、観客用スイッチをとりつけ、地名を清書して貼り込みという作業をほとんど1人でやってしまいました。僕は日曜大工のセットを持って来たので、こういうときには便利です。けれども色紙も豆球もこちら持ちになってしまいました。紙貼り用の糊だって、売っているわけではないので、日本紙の指導に来ている人から分けてもらいました。高島屋でヒマラヤ植物展をやったとき、クロウトのテクニックを見ていた経験が、こんなところで役立ちました。この展示は観客がボタンを押すとランプが点滅するのが好評だったようですが、そのかわり僕はほとんどつききりで故障の修理をする羽目になりました。トランスが役立たずのために豆電球を直列につないだものだから、どれかが切れるとコースの全体が光らなくなるのです。それがまたよく切れ、どの球が切れたかを調べるのに往生しました。彼らの頭にはもう一度あんなものを作ってもらいたいという気があるのでしょう。別にかまわないけれど、この前だって1週間くらいで作ったのだから、手伝うのは10日もあれば本当に十分なのです。しかしむこうのペースからいうと、「あと25日しかないのに、いてくれないと困る」ということらしいです。
とにかくその場ではモカンプール行きを今月中にやるということになり、シュワール所長に話して確定することにしてマルラが出て行きました。午後になったらマルラが来て「所長が12日までは出かけないで飾りつけの準備をしてくれと言っている。モカンプールはその後にし、西ネパールはそれが済んでから検討することにしたいので、済まぬがそうしてもらいたい」ということになりました。所長と直接話さなかったからよかったけれど、面とむかったらば昨年のゴサインクンド行きの時と同じ場面になったことでしょう。こういうわけで6月12日まではカトマンズにいなければならなくなってしまいました。モカンプールはその後にするといっても、6月後半では雨期に入ってしまうので、モカンプールのような低地ではとてもまともな採集や調査はできないでしょう。だから僕は5月を強調したのです。ましてその後の西ネパール行きは不可能となり、雨期明けの6月まで延びるでしょう。この場合でも、一気に9月まで延期するとは思えず、半月、1ヶ月となしくずしに遅らすものと思います。だからちょうど昨年と同様に、良い時期をダラダラと待たされて、シーズンが終わった頃チョロチョロとお茶を濁すことになりそうです。いずれにしても雨期の最中にヒマを見つけて、どこか高いところへでかけたいと考えています。良い標本をたくさん入れることが標本室にとって最も良いことなのだと散々言ってあって、むこうもその通りと調子を合わせるのですが、いざとなると目先のことが先になってしまいます。今度の飾りつけでも、「こういう研究所では予算をとるのが大変なんだ、だから今度のように高官がたくさん来るときに、われわれの活動を印象づけておけば金をとりやすくなる」という論法です。「カトマンズの樹木のリスト」、「ネパールの有用植物」、「タンニン植物」、「メコノプシスの種類と分布」などなどのテーマを並べて準備をしています。準備といっても一々標本をひっくりかえしてラベルを書き写すだけなので、ちっとも変わり映えがしません。肝心の標本は何時までたってもふえないからです。「ヒマラヤのトリカブト属の種類と分布」なんていうテーマもありますが、とても仕事になるだけの標本はここにはありません。しかし「こういう方向に仕事を進めている、というところを見せることが必要なのだ」そうです。
とにかく、9月頃までの予定を今知ることは不可能であることはおわかりでしょう。たとえ今わかっていても、それが実行される確率はほとんどありません。ですから来る人はそちらの都合のよい日程で来てください。その時僕がいればメッケモノだし、いなければ自分でなんとかしてください。
カリンチョークにはその後2回行きましたが、2回とも頂上へは行けませんでした。1回目はバラビセで人夫を雇うつもりでいたら、中共のダム工事の支払日なので日中は誰もつかまらず、昼前から夕方まで待たされてやっとつかまえたけれど、自分の村を通らないといやだというので遠回りして歩かされました。尾根で2泊しましたが、2晩ともものすごい雹と雷雨にたたかれました。雹の重みでテントがつぶれそうになり、小止みのとき出てみたら30cmも積もっていました。テントの雹を払い落としてヤレヤレと思ったらまた大降りとなり、また30cm積りました。尾根上は雹が融けず、一日中真っ白、シャクナゲは穴だらけで標本になりません。2日目の夜は雹はなかったけれど物凄い雷がまわり中で鳴り響き、水はけがよいからと丘のてっぺんにテントを張ってしまったので、今にも落雷しそうで生きた心地もしませんでした。あんなひどい風雨にあったのは初めてです。2回目は3月に通ったコースを逆にたどり、尾根通しに山頂に出るつもりだったのに、道は予期に反して山腹を捲いて行ってしまって、とうとう上には行けませんでした。思いのほかとりつきにくい山です。
4月の終りにはナガルジュン(バラジューの裏)へ5日ばかり通い、生態調査をしました。よせばよいのに種・面積曲線を調べたら、600m2になってもカーブが平らにならず、そんなに大きな調査区画をとっても調べられないのでやめてしまいました。10×10をいくつもとって調べました。1日に5つか6つしか調べられません。雨がときどき降るようになったので、蛭がうようよ出はじめました。ナガルジュンの頂上はたいへん眺めがよく、冬に行ったら素晴らしいでしょう。
奥さんは順調に太り続けています。僕が毎日見ていてもわかるのですから、他人が見たら驚くことでしょう。毎週1回赤十字の奉仕で包帯巻きに出ています。こういう仕事は本当は大使夫人クラスのやることなのです。あと1日は英国のオバアチャンに日本語を教える代りに英語を習っています(したがってお代はただ)。先日は子供の学校から折紙を教えてくれとたのまれ、その日がくるのを楽しみにしています。今度の家には電話があるので、他の日にはどこかの奥さんとお喋りをしています。電話の前に椅子を置きました。
子供は学校でいいカモにされているらしく、毎日鉛筆だのクレヨンだのをとられてきます。子供でもネパール人であることにかわりはなく、タダで手に入るとなると、本人のいない間に鞄をあけてクレヨンを持って行くことまでするそうです。先生にクレームの手紙を書きました。こういう手紙は担任宛てではなく、校長に直接出すようにと、入学のとき注意がありました。結果はクラスで校長がみんなにお説教をし、ようやく下火になったようです。勉強の方はあまり苦にならないようです(どうせ分からないからと、先生が放っておくらしい)が、宿題がとても多いです。詩の暗唱が結構多く、これは意味がわからなくてもできるので、成績が良いようです。
このところずっと乾いていて、ザラザラして暑かったですが、昨日夕立が降り、急に涼しくなりました。
〇チリメ、ランタンの旅
チリメとランタンへ行って1ヶ月ぶりで帰ってきました。初めての旅らしい旅でしたが、例によって波瀾万丈、ほとんど毎日なにかしらゴタゴタが起って、こんなことなら俺達だけでやったエクスペディションの方がよほど平穏無事だと言いたいくらいです。とにかくおかしな具合にくたびれました。
1970年6月22日 朝9時、役所のジープがピックアップにやってきました。これは予定通り。僕も一緒に役所へ行こうと思ったが、運ちゃんが「荷物を積んだらすぐ来ます」というので、ジャンブーとツォンバをのせて出しました。ツォンバは今度の旅のためにやとった僕のシェルパです。ジャンブー(僕の家のサーバントをやってるシェルパ)は役所の人夫に顔なじみなので紹介のため。ところが11時すぎても戻ってこない。この日は日本大使公邸でアンナプルナ女子隊のための昼食会(婦人のみ)があるので、12時になったら島田夫人がワイフを拾いに車でやってきました。それに乗せてもらって役所へ行ってみたら、ジープも人夫もいない。「11時半頃出ました」と門番がいうので、あわててタクシーで家に帰ったらこっちにも来ていない。ドアはワイフが鍵をかけてしまったし、弁当はジャンプーが持って行ってしまったしで、飯も食えず家の中にも入れず、雨模様の空なのに軒下でぼんやり待つこと1時間、13時すぎにジャンブーが1人で帰ってきて、「He(ネパール・サーブのこと)is very bad」とプリプリしています。たしかに11時半に荷物と人夫を積んで役所を出たのだけれど、まずバザールで買物、それからサキャ(今度一緒に行く調査官)の家へ行って何やらやって、出かかったら友人がやってきて茶店へ入っているんだそうだ。ジャンブーは待ちきれずに、1人でタクシーで帰って来たというのです。おかげで僕は家の中に入れ、飯にもありつけました。
14時すぎに一同やっと現れ、サキャのいうには「これからトリスリに行けば17時頃着くから、ひと歩きできますね」。乾期だって4時間近くかかるのに、雨がしょぼしょぼ降ってる道を、ジープとトレーラーに人と荷物を満載して行けるはずはないのです。サキャは日程の見積りや地図の読み方はいつもこの調子で、とんでもない予定を平気でたてる人でした。
ジープの終点のバインセ(トリスリの北の河原)についたのは午後7時、その場で泊ることになりました。[現在はここから3日先のドゥンチェまで自動車道路が出来ていて、カトマンズから1日で行けてしまいます]。サキャが「ロープと新聞紙(おしば用)が多すぎるので、ジープで送り返そう」というのですが、こんなものはいくらあってもよいからとおさえました。途中で新聞紙がなくなったら、補給のしようがないからです。
6月23日 役所の人夫は10人(この中に臨時雇も2-3人いるようです)だが、あと2人ばかり見つけないと重すぎるといいます。昨夜「荷物が多すぎる」と言ったのはこのことでしょう。旅行の金は僕の出張費をふくめて全部サキャにまかせてあるので「どうぞご自由に」と先に行きました。今日はラムチェあたりまで行けると思っていたら、11時頃ツォンバが追いついて「戻ってくれ」と言います。どこまで戻るのかと思ったら、1時間ほど後戻りしたマネガオンでサキャが待っていました。ここはバインセから2-3時間のところにすぎません。「バインセで人夫を見つられないので、連中は遅れている。ここで待とう。」と昼食をとっていると、2時ころやってきました。まだ人夫がみつからないというので、このマネガオンで探すことになり、結局ここへ泊ることになりました。
6月24日 新しく雇った2人をみたら、昨日昼食をとっているのをそばで見ていた男です。これならさっさと荷物を分けて、もっと先へ行けたのにと思うのですが、ネパール調ではこうなるのでしょう。
さてトリスリ川沿いの道は地滑りの名所で、中でもここからラムチェまでの間はとくにひどいところです。といっても小規模なのが点々とあって、昨年来たときと大差はありません。1ヶ所だけ絶壁の上を横這いせねばならないところができていて、ちょっと怖かったです。本日はターレ泊り。部落の手前の流れのそばの大岩壁の下です。
ツォンバという男はジャンブーの兄貴が使ったことがあって、「よく働く」ということでしたし、途中で出会った日本人トレッカーも知っていて同じことを言っていました。これらの場合、彼はキチンポーターだったようで、サーブの手助けをするシェルパははじめてです。残念ながら頭はよく働きません。腰をおろしていると「茶はいかがです。」とさかんにすすめます。1杯のむとまたつぎ足し、テルモスの紅茶がなくなるまでやめません。おかげでランチのときにはお茶なしになっても一向平気で、翌日もまた朝から「サーブ ティー?」をくり返します。おかげでずいぶんお茶抜きのランチを食わされることになりました。シェルパの間では、お茶を1杯でやめるのは互いに失礼なのですが、補給できないのに後のことを考えてくれないのは困りものです。
6月25日 ターレの部落はバイパス道ができていて、以前のようにきたない部落の中を通らないで済むようになっていました。今はコド(シコクビエ)の移植期で、裏庭に作った苗代からとってきて、トウモロコシの間に1本ずつ植えています。トウモロコシが終わって引き抜けば、あとにコドの畑が出現するわけです。ドゥンチェ泊り。
6月26日 ドゥンチェから急降下して支流をわたり、また同じくらい上がります。それからまたシャブルベンシまで急な下りです。サキャは下りが苦手で、まめができたというから、石鹸を塗れと貸してやったのですが、それっきり返ってきませんでした。ネパール語には「貸す」「借りる」という言葉はなく、「ヤル」と「トル」しかないそうです。だからかどうか、借りたものは返さねばならないという観念はないようです。注意を喚起するために、手を洗うから石鹸をよこせというと、彼本来の所有物の石鹸をよこします。こっちはネパール人ではないから、使ったらすぐ返してしまうので、僕の石鹸はついに戻りませんでした。靴擦れ対策に石鹸を塗るのは、僕の考案かも知れません。山蛭よけにも、ズボンや靴下に石鹸をこすりつけておくと、きわめて有効です。マネガオンで雇った人夫はドゥンチェから先はいやだというので、今朝また雇い直し。
シャブルベンシは合流点の小さなチベット人部落。広場へテントを張るとみんな見物にたかってきました。ほとんど例外なく眼を赤くしているので、サキャが目薬を1滴ずつたらしてやりました。驚いたことに10日たってここへ戻ったときには、この1滴のおかげでほとんどみんな直っていました。そのかわり、腹が痛いだの咳がでるだのおできがあるだの、彼の薬をせしめようとやってきました。さすがは薬草局だけあって、大きな救急箱に医薬品をぎっしりつめており、仮病でなければ気前よくただでやっています。
6月27日 トリスリ川の本流を西へわたるのですが、その橋のこわいこと。川幅20mばかりですが、チベットから流れて来るので水量が多くて荒れ狂っている上に、ブータン式の橋(猿橋型)がわたしてあります。中央部は角材4本を並べただけで手摺りはなく、フラフラとしなうので空身でも気持ちが悪いです。人夫の中には荷物を他人に持ってもらう者もいました。これからふつうなら支流沿いにチリメに行けるのですが、橋が流失しているとのことで、すぐに急斜面を900mほど登ります。途中で昼食をとってからまた登り、3時頃峠についてまた急降下、夕方タンジェットにつきました。遠くから見ると畑の中に妙な短冊形の部分があり、近づいてみたら滑走路でした。500mばかりで、ピラタスポーターという小型機が乾期にだけ来られるのです。ここではドイツの平和部隊の夫婦が診療所を造っているところでした。奥さんが看護婦で正式隊員、旦那はその家族としてついてきているのだそうです。
6月28日 チリメの部落は、ポルーニンという人のレポートでは「言語に絶するきたない部落」と書いてありますが、来てみたら全くその通りで、つけ加える言葉は何もありません。われわれはそれを見越して1つ手前のタンジェットに泊まったのですが、チリメに泊ったポルーニンはみじめな思いをしたことでしょう。
ここからまた川を渡って延々と登り、パラガオンで昼。この部落の少し上にタトパニ(温泉)が湧いているそうです。サキャはタトパニにはあまり興味がなく、近くの流れで身を清めていました。ネパールサーブはわれわれ日本人とちがって荷物を背負うことはありません。といっても小さなリュッサックを背負っていますが、その中身はタオルと石鹸と100万分の1地図とポルーニンの報告書の別刷と標本につける紙札です。彼等は修辞学というものを大切にするらしく、ポルーニンの文章を読みながら調子よく書かれたところがあると、感に耐えないように2度3度と朗読してくれます。
人夫が自分等の飯をたいている間に僕は先発してしまったのですが、2時間もしたらツォンバが追いかけて来て、「道が違うから戻れ」と言います。僕はチリメ川の本流沿いの道を行ったのですが、支流に入るのだといいます。しかたがないので戻ったら、30分もしないうちに向うからサキャがやってきて、「お前はずっと先に行ってつかまりそうもないから、みんなこっちに来た」ということでした。変な支流に入るよりは本流の方が安心できると進んで行ったら、谷がだんだん狭くなり、遂にオンボロの橋で向うに渡らねばならなくなりました。流れの幅5mほどですが、上流の氷河の水を全部集めているのでものすごい水量。橋は柴木を敷いただけなので、踏み抜きかねない弱さで、良い気持ちではありません。これを渡ったら急に道があやしくなり、人夫は「道が悪い」とぶつぶつ言い出しました。河原の草地に早目に泊りました。
6月29日 朝飯を食ってもサキャがノンビリしているし、人夫も洗濯なんかしているので「どうしたんだ」と尋ねると、「人夫の食料が先行き心細いので、昨日の部落に買いに出した」という返事。そんなこと昨日通ったときに済ませればよいのにと思っても仕方がありません。そのうちに買物に行った人夫が戻ってきてもまだ動かない。「この先の道は案内人がいないとだめだというので、いま頼みに行ってる」のだそうです。道をきくなら、昨夕すぐ上流で煙が上がっていたので、そいつをつかまえればよさそうなのに、今朝になってパラガオンに頼みに行っているのです。上流にいた連中は今朝下りてこないところをみるともっと先へ行ったわけで、それなら道は大丈夫なわけなのですが. …。とにかく昼近くなって案内兼ポーターの、人のよさそうなおじさんが現れました。彼の話では、川沿いに行けるがおそらく橋が壊れているので、別な道をとる方がよいというのです。
そこでものすごい急斜面をウンウン言いながら、2時間あまりかけて這い登ることになりました。本来道なんかないところですが、このあたりはどこも放牧で、家畜の踏み跡が至る所についています。こうして枝尾根を回りこんでカシの暗い森林の中をビショビショ歩き、暗くなった頃ヤトンバルにつきました。ここは森の中のちょっとした平地で、道の分かれ目なので地名がついているというようなところです。陰鬱な所でしたが、川音がしないのでよく眠れました。
6月30日 朝から雨の中をモミの林を抜けてシャクナゲのブッシュのあたりまで上がりました。ツォンバはシェルパがはじめてのせいか、こっちの言うことをちっともきいてくれません。「俺のすぐ後からついてこい、先に行くな」と何度言ってもだめなので、サキャに通訳してもらっても、必要なときそばにいたことはほんどないのです。そのくせお茶のサービスだけは並外れで、あいかわらず昼飯時には「tea finish」となります。
この日の泊り場はカルカ(塩くれ場)で、至る所牛糞だらけ、それが雨でコネ回されて、まるでウンチの海です。その中へテントを張るのですから、どうも感心しません。カルカのアンペラ小屋の中に空間があるので「あそこに寝た方がよさそうだが…」と言ったら、そこは子牛が寝る所だそうです。
カルカの小屋はどこも同じです。そこで黄金の海に漂うテントに入ったわけですが、不思議とにおいがしません。ここに限らずカルカの小屋でもその辺でもくさくないし、空き家になっていてもカビくさくないのは面白いです。こっちの鼻がなれてしまったというばかりではないようです。
7月1日 昨日泊るときはちょっと早かったのですが、案内人が「次のカルカまで半日かかる」というので泊ってしまったのです。今日歩いてみたら、2時間ちょっとしかかかりませんでした。ここらのカルカは案内人の親類ばかりなので、どこへ行っても彼は歓待してもらえるものだから、1軒ずつ寄って行く方が都合がよいのでしょう。
さてここが目的地のムルカルカだというのですが、僕に言わせると地図のムルカルカとは明らかに別なところです。サキャは「ここに居る連中はここをムルカルカとよぶ、故にここが地図上のムルカルカである」と理路整然と思いこんでいます。地図のムルカルカはチリメ川の本流の奥の氷河の末端に近いところで、当然大きなU字谷やモレーンがある広々として谷間であるはずなのに、ここはどう見てもケチな枝尾根の途中のスロープに過ぎません。サキャは地図が全然読めないのです。途中でもときどき100万分の1の地図を拡げてコースを案じ、「ここは道が書いてないから行けるはずがない」なんて言います。100万分の1の地図に出てる道なんていうのは、大街道だけなのに…。「別なムルカルカがあるはずだから、尋ねてみろ」と言っても「ここの名がムルカルカである。地図にはムルカルカは1つしか載っていない。故にここがムルカルカである」という三段論法を固執してどうにもなりません。彼がもう1つムルカルカがあることを知ったのは、明日は引き上げるという日の午後、尾根のむこう側へ言ってみたら、まだ奥へ行く道があることを発見し、そこではじめて案内人に尋ねなおして、あと1日行程先にもムルカルカがあると言われてからです。放牧地は時期によって移動し、仮の集落ができていることもあり、同じ部落の名前がいくつもついていることがあります。
7月2日-6日 サキャのムルカルカで採集したり、調査をしたりしていました。毎日雨、と言っても朝は霧、昼頃から降り出し、夕方ちょっと晴れて雲が切れるがすぐまた霧、夜半に雨といった具合で、とてもうっとうしいです。「この時期は天気が悪いから、予定の3週間では調査は終わらないよ」と予告して出かけてきたのですが、ここらは植生が貧弱なうえ、歩きまわれる場所が少ないので仕事になりません。乾燥機は役所のと僕のと2台持って行ったのですが、サキャがネパール流のやり方に固執して僕の方のを使おうとしません。そうすると人夫の方もこっちの道具を邪魔扱いして、ほとんど使わなくなってしまいました。僕の乾燥機は連中にははじめてなので、僕が一々指図しなければどう扱うのかわからないのです。でも採集量や活動時間が少ないので、それで間に合っていました。3日目には今まで出来た標本と植物園用の生植物を、4人の人夫に持たせて帰しました。
サキャはチリメに入るのははじめから気が向かないらしく、こっちは道が悪いから、やめてランタンに行こうと、途中から言い出していました。チリメの谷はチベットとの国境が錯綜していて、お役人のサキャはあまり深入りしたくなかったのかも知れません。僕の方はチリメが予定どおり終われば、別に寄り道するにはおよばないと思っていたのですが、6日になったら「Well, we are ready to go to Langtang」と言います。このweの中には僕は含まれてないわけで、「行くか行かぬかはお前の気持ち次第」というわけ、ちゃんと食料は確保してあるのだそうです。これでも「行かない」というほど馬鹿ではないので、ランタンに行くことになりました。ランタンは彼が以前行ったことがあり、とてもきれいだというのです。6日の夕方はじめて霧が晴れて、東の方にランタン峰とリルン峰、その右にゴサインクンドの山々、左にチベットの山並がきれいに見えました。この旅で山が見渡せたのは、この瞬間だけでした。
7月7日 サキャの見積りでは、ムルカルカからタンジェットまで半日あればよいというのです。たしかにタンジェットはここから目の下に見えていますが、登って来たときのことを考えれば、半日などという計算にはどうしてもならないはずです。彼の土地カンは相変わらずで、谷をへだてた向かい側の村へ川を渡らずに行こうと苦心したり、面白い人です。この谷もあまり深い谷底にあって流れが見えないものだから、こっちとむこうが一続きに見えるらしいのです。
さて下りにかかっても、彼の歩き方はタンジェットへ半日で行こうというつもりはどうもないらしく、途中のカルカに坐り込んでチベットワイフの足に薬を塗ったり、ミルクをしぼらせたり、木彫の水盤を買ったり、のんびりしたものです。この水盤というのは、木(たぶんシャクナゲ)の大きなブロックをククリで削ってくりぬいた洗面器みたいなもので、彼は生け花に使うのだそうです。カルカでの用途は番犬の餌入れでした。ところが持ち歩いているうちに、日に照らされて3日目には割れてしまいました。それでも大事にカトマンズまで持って帰りました。この日の泊りはヤトンバルで、夕方雨がひどく降り出し、人夫は傘の下で炊事をしていました。彼らは雨傘をさした下のわずかな地面で、小さな火をたよりに食事を作ってしまうのです。
7月8日 旅行の目的の1つに植生調査があります。僕はこういうことは専門ではありませんが、派遣されて来てみたら、先方では、フロラ調査よりむしろ植生調査の方を主な事業として計画していました。ここでは「専門ちがいだからやらない」なんて言ってはいられないのです。この辺の森林は貧弱でロクなところはないけれど、いくつか調べることにしました。ツォンバを手伝わせている間に人夫たちは先に行ってしまい、彼はなんだかすごく腹をたてていて、口もききません。サキャに「ツォンバはどうかしたのかね」とたずねたら、「人夫たちは先に行って10時頃飯をたいているのに、彼はそれにありつけない、今朝はまだ何も食べていないから腹ペコなのだ」だからプリプリ怒っているのです。しかたがないから2人のランチと僕の非常食を3人で分けて食べました。調査が済んで開放してやったら、彼はものすごい勢いでとんで行ってしまいました。サーブの付き添いなど、メシにくらべればどうでもよかったのでしょう。彼らのメシはコド(シコクビエ)の黄色い粉を熱湯で糊状にしたのを金盥に山盛り(1人分)にして食べるのですから、さっきの食事ではとても足りたとは思えません。食べる量が多いから出る量もそれに応じて多く、しかも同色同形(ニオイは違う)なので、腹の中を素通りして来たみたいです。
パラガオンの案内人の家で一同坐り込み、お茶をのむやらチャンや卵が出るやら、のんびりしたものです。この案内人はメメという40代のおやじで、なかなか金持らしいです。親切な男なのでみんなに好かれ、ランタンまでいっしょに来てくれということになりました。オカミサンが行ってはだめだとさかんに引き止めるのを「今夜いっしょに寝たいからだろう」なんてひやかし、とうとう同行することにさせてしまいました。
午後からめずらしく吹き降りの雨となり、その中をタンジェットまで下りました。メメなんていう名はどうもあやしげな名ですが、意味をきいたら年輩の男の愛称をメメというのです。そのメメのところへ夜8時頃雨の中を使いがやってきて、「オカミサンが急病だから帰れ」というのです。旦那を呼び返すほどの重病にかかるとは思えぬほどさっきは元気だったし、といって今夜どうしてもいっしょに寝たいというので、わざわざ使いの者に金を払って夜中によこしたとも思えません。とにかくメメは雨の中を帰って行きました。
7月9日 朝サキャはチリメの村へ旅行証明をもらいに行きました。旅行証明(マイレイジ・サーティフィケート)というのは前にも書きましたが、計画通り出張したことの証明で、途中の村のパンチャヤットからもらわなければならないのです。今度のコースではドゥンチェとチリメで証明書を作らねばならないようです。パンチャヤットというのは、村の顔役会議みたいなもので、行政の末端組織です。行きがけに通ったチリメの部落はあんまりきたなかったから、帰途は部落の外側の道を通って来たのです。彼は30分ほどのチリメへ引き返して行ったのですが、2時間ばかりしたら帰って来て、「あそこのパンチャヤットはだめだ、みんな酔っぱらっていてまともな話ができない」。それでもちっとも気にならない様子で「ドゥンチェで頼めばいいさ」なんて言っています。そんならわざわざ引き返して行かなくてもよさそうに思います。われわれの泊った家はポリスのチェックポストのそばですが、ポリスには旅行証明を作る権限はないそうです。そうこうしているうちにじいさんが1人現れ、「俺はパンチャヤットだから証明書を書いてやる」と言い出しました。パンチャヤットといってもいろいろランクがあって、このじいさんのはチリメのパンチャヤットより格が下がるらしいです。サキャがこの男を相手に証明書を作ったところをみると、タンジェットのパンチャヤットでもかまわないらしく、それならなんでチリメまで時間をつぶしに行ったのかわけがわかりません。
今日はシャブルベンシで不足した石油や食料を買い入れて、もっと先まで行こうとサキャは言っていたのですが、この証明書さわぎで出発は11時近くなりました。峠の手前の部落へつくと、日蔭に坐り込んで大休止。まわりの村人がみんな目を赤くしているのをみて、目薬を1滴ずつたらしてやり、それが済んでからチャンを買いにやり…という調子で、たちまち1時間近くたちました。「これから上がりだからランチを食べてから行こう」といっても「峠の上の景色のよいところで食べるんだ」といってききません。果して上りにかかったら、チャンの酔いも手伝って彼はへたばってしまい、上るのに僕の倍ちかくかかりました。「上る前にはなにか腹に入れといたほうがいいんだよ」と言うと「いや俺は上りは苦手なんだ。それに今日はばかに暑いし」と強情です。こんなわけで、シャブルベンシについたのは午後4時近く、結局ここで泊ることになりました。
部落の真中に石だたみの広場があり、そこへテントを張ったら、村中の人達、というより女共が見物にやってきました。僕がおし葉を片づけながら、ネパール語がちょっとしやべれるところを披露すると、なんのかんのとしゃべりかけてきます。はじめのうちは「これなんていう名だ?」という程度だったのですが、むこうが「これ何に使うんだ?」と尋ねるのに一々まじめにつきあっていたら、だんだんエスカレートし、未整理の植物をかきまわして1つ1つ詮索を始めました。めんどくさくなって「みんな食べるんだ」と言ったら、目の前に突き出して「じゃ食べてみな」「イヤこいつは乾かさないとうまくないんだ」。
しまいに受け答えがいやになって知らん顔をしていると、今度は僕がいらない葉や枝を放り出すとき、この次にはどっちの方へ投げるか当てっこをはじめました。つまり投げた方にいる女に気があるのだということらしいです。ひとつ投げる度にワイワイはやしたて、投げられた女と当てた女が大喜びするのです。とにかくチベットの女は陽気なのはよいけれど、しつこくて強引でへきえきします。ここのチャンはお燗がついていてうまいけれどとても強く、飲みすぎてフラフラになりました。
7月10日 荷作りしているうちに乾燥機のジュラルミン板が数枚なくなっているのに気付きました。じつは昨日の朝、見当たらないことはわかっていましたが、ぼくの乾燥機はムルカルカで使わなかったので、荷物の下積みになっているのだろうと思っていました。今朝みんなの荷物を調べてみるとどこにもありません。タンジェットで盗まれたようです。タンジェットの子供たちは油断がならず、ちょっと目をはなした隙になんでも持っていってしまうのです。サキャは靴を盗まれたけれど、これはすぐ気がつくから、家をしらみつぶしに探して取り返したそうです。
ツォンバを呼んで「こういうわけだから、タンジェットまで行って探してきてくれ」と言ったら、どういうわけか半日もかからないで行けるところなのに「いやだ」と言います。「何故か」ときくと「あそこは部族が違うし、1人じゃこわい」なんてぬかします。サキャが手紙を書いて人夫を1人つれていけと言ってもいやなのだそうです。頭にきて「タンジェトでみつからなければムルカルカまで行ってみつけてこい。それがいやならここで解雇する」ときめつけました。あきれたことにそれでもいやだというので、行きがかり上彼をクビにすることになってしまいました。クビにするといっても代りの人間はいないし、この旅は初めから人手不足で、人夫はすでに1人30kg以上担いでいます。ツォンバは僕つきのシェルパで、歩いている間に必要な採集用新聞紙、ロープ、途中で仮圧しした標本、まだ紙にはさむ前の生植物(僕は50×100cmのプラスチックの袋に、1日に最低2杯、多いときは5杯採ります)、雨具、食物、魔法瓶とかを持たせていますから、その代りがないと仕事に差し支えます。しかしここで弱みをみせるわけにはゆかないので、自分で担ぐことにしました。結局これから後はずっと自分で自分のシェルパをやることになってしまいました。自分で背負うなら重さをはじめから手加減したのですが、シェルパに背負わすのだから重いことはかまわないでよかったのが、そのままこっちの背中にかかってくることになり、調査や採集が思うようにゆかなくなりました。ツォンバはカトマンズに帰ったときジャンブーには、「足を竹の切株で踏み抜いてけがをした」といったそうです。
ツォンバにこれまでの給料を払って、いざ出掛けようというとき、サキャが「ちょっと待て。ツォンバはクビにされて腹をたてている。この部落に預けたわれわれの標本に乱暴するかもしれない」と村長に話しに行きました。それがすんでいよいよ本当に出発となったとき、1人の人夫が「足が痛くて歩けない。今日は休ませてくれ」と言いだしました。朝からのツォンバの騒ぎで出発が遅れ、もう10時になっているのに、この男は今まで何も言わなかったのですから、今度はサキャが怒る番です。この人夫はあっさりクビになってしまいました。ツォンバは僕がやとったので、クビといってもこれまでの給料は払ったのですが、サキャのはネパール式で、これまでの給料も全然払わないのです。クビにしたのはよいけれど、ここでは代りの人夫はみつかりません。
仕方がないからそいつの荷物を残りの人夫みんなで分配し、重量超過のまま出発しました。次の部落で見つけようというのです。本流を1時間ほど遡ると小さな部落があり、ランタンへ行く道はここから本道をはなれて東の山腹を真っ直ぐ登ってゆきます。掛け小屋の中で数人のチベット娘がきれいな腰帯や布を織っていて、年輩のおばさんが先生格であれこれ指導していました。人夫たちは「代りの人夫をさがして来ます」と言って散ってゆきましたが、30分ほどして男を1人連れてきました。見るとさっきクビにした男です。クビにされたものの、給料ももらえないのでついて来たものとみえます。サキャに詫びを入れてクビは元通りになりました。人夫はどうにか片づきましたが、僕のシェルパまでは手がまわりません。重さは20kgもないのでしょうが、とにかく背負い馴れないので、段々登りはとてもきついです。おまけに4mほどの高枝鋏もかついでいるのです。人夫が「重いですか?」なんてニヤニヤ笑うから、「お前のと同じくらいだよ」と返事をしておきました。サキャも「大変だろう、人夫に持たせようか?」と気をつかってくれますが、道中どうしても必要な物ばかりなので、別行動の人夫に預けるわけにゆきません。いくら大変でもサキャは「持ってやろう」とは言わないのです。もっとも帰途になったら、昼弁当だけは持ってくれましたが、これは重さからいえば問題になりません。それどころか、昼飯まではサキャのそばにいないと食べそこなう心配がありました。こっちはサキャと共用の魔法瓶をかついでいるので、サキャのシェルパになったようなものです。
ものすごい暑さの中を延々と登り続けて、夕方カンジンの部落につき、ゴンパに泊りました。ゴンパの中はノミやシラミが多くて煙くてかなわないのですが、急斜面で外にはテントを張る場所がないのです。それにサキャはテントより家の中の方を好むようです。ラマの弟が病気だから薬をくれと言います。飯を食っても下から出てこないのだそうです。サキャの持っている緩下剤でもやるかということになり、彼が見にいったのですが、「ちょっと来てごらん」というので行ってみたら…、顔はすこしやつれているが、20代のがっしりした体つきです。ところがおなかがペシャンコで背中にくっついているのです。これでは食べたものが通り抜けられるはずはありません。この病気はカトマンズでもときどきあるそうで、栄養物を摂って何年もかからないと治らないと、サキャの話でした。下剤では仕方がないので、お茶をにごすためにビタミン剤をやり、ドゥンチェの施療所へ連れて行けと言ってやりました。この施療所というのは、看護夫が1人いて、薬をくれたり注射をしたりするところです。あとできいたらこの施療所は大変評判が悪く、「あそこへ行ったら助からない」とうわさされていたそうです。われわれが寝た部屋には籾を入れた大きな竹篭が放り出してあり、そこからめずらしいことにカビくさいにおいがただよっていました。サキャはにおいに敏感で、「俺はこういうにおいをかぐと鼻汁が出てかなわないんだ」とグズグズやっていました。
7月11日 今日は南面する山腹を捲いて行くのでわりと楽な道です。シャブルベンシから分かれるランタン谷の斜面に出ると、林が少なく、乾いています。シェルパガオンが最後の部落で、これから先はランタンまで人家はありません。昼食をとって出発しようとしているのに、人夫の1人が遅れていて、仲間は飯を食べずに待たされています。2時近くになってそいつがやっとたどりつき、それからメシとなったので、午後の出発は大幅に遅れました。これで夕方はやくランタンにつける見込みがなくなりました。
シェルパガオンを出てしばらく行くと、いままで見なかったリリウム・ネパレンセ(Lilium nepalense)だとかノボカリス(Novocallis)といった植物が急に目につくようになりました。谷のむこうにシャプルーの部落が見えます。[現在ランタンに入るには、ドゥンチェまで自動車で入り、シャプルーから北斜面をランタン谷に下り、ランタンの冬部落の下で谷を渡ってこちら側の道と合流します。]ここらは南向きですが急傾斜で岩盤の露出が多く、村から離れて放牧に不適当なので、食われないで残るのでしょう。エリスリナ(Erythrina)も1本生えていましたが、こんなのは植えたものとしか思えません。これはヒンドゥー教の聖木ですから。
道はゆるく下ってとうとうランタン谷の底に達し、それから川沿いに上りはじめました。川といってもこのあたりはたぶん古い氷河の末端堆石で、尾瀬の八丁の滝を幅をそのままにして水量を10倍にし、長さを20倍にしたような感じで、上流を見ても、見えるのはゴウゴウと轟く水の壁ばかりです。あたりはウバメガシに似たQuercus semecarpifoltaとシャクナゲ(Rhododendron arboreum)の森で、おまけに昼の出発が遅れたためにもう薄暗くなってきました。森林限界近いところに、ウバメガシに似た木が生えているのです。人夫もサキャもノロノロしているので、いつの間にか先頭になり、とにかくこんなところははやく通り抜けるにかぎるとどんどん歩いて行きました。
後ろで何か叫ぶ声がしたようなので(滝の音でよく聞こえない)、何事かと引き返してみると、サキャと人夫達が困った顔をしています。「もう遅いのに、こんな場所では泊る場所もない。さっき熊の足跡があったので人夫たちは怖がっている。どうしよう。」というのです。サキャも人夫もこの道は来たことがあるくせに、コースの予測がつかないようです。「この滝を登り切ればU字谷に出るはずだから、広い場所があるにちがいない。とにかく先へ行くしかないんだから。」と、話をしていてもはじまらないので、さっさと先に歩きだしてしまいました。熊がいるというので、1人で先頭を切るのはちょっと気持ちが悪かったけれど、おじけたところは見せられないのでヤセガマンです。この上りは意外に長くて、心配になりはじめた頃、やっと森が切れて平らなところへ出ました。もう午後7時で、真っ暗なうえに雨がショボショボ降り出していました。手頃な岩陰に入ろうとしても、そこらはもうちゃんとチベット人が占領しており、仕方なく大木の下にテントを張りました。人夫がみんな到着したのは8時過ぎ、今朝遅かった1人は9時近くにつき、晩飯は11時過ぎでした。
7月12日 夜が明けてみたら、昨日までのV字谷と異なり、広々としたU字谷に入っていました。朝は何とか遠見がきいたけれどすぐ曇り、ショボショボ降り出したうえ、午後になったら少し風も出てきました。雨期だから仕方がないのですが、高山帯の雨期は思ったほどひどいものではありません。ただ雨が上から降るうちはよいのですが、少しでも風が出ると眼鏡が曇ってしまい、霧雨であればあるほど、ぬぐってもすぐ曇るので始末が悪いです。石鹸をつけた指でレンズを拭ったら、しばらくの間曇るのを防げました。粘土のような砂の段丘に大きな石がゴロゴロしている中を道は上ったり下ったり単調に続きます。これが側堆石なのでしょう。水はけが悪くて至るところ水びたし、そこに黄色や白のサクラソウが一面に咲いています。時期のせいか、紅いサクラソウは見えません。カラー写真にしたらすばらしいお花畑になり、朝日の植物百科に出したら「きれいなところですね」とうらやましがられましたが、実際に歩いていると美感などとても受けません(写真にはニオイと温度が入らないから)。
ランタンの冬部落を通り過ぎました。今はみんな高いところの夏部落か、もっと高いところへ放牧に上っていて、ここは無人です。石囲いの畑にはソバが一面に作られていました。ここらはヤクの放牧をするので、石垣で囲って動物の侵入から作物を守るのです。日本とは逆ですが、ネパールではどこもこうです。
ランタンの夏部落は、もう全くの高山帯で、木もほとんどありません。目的地のキャンジンまであと1時間と聞かされたのですが、どうも信用できなかったので、ここで泊ることにしました。翌日実際に歩いたら、3時間近くかかりました。ネパール人の距離感はどうもあてになりません。彼らが歩けば1時間で行くかも知れませんが、どういうつもりで返事をしているのかはかりかねるからです。ここでの1つの理由は、遠いというと「ではここに泊ろう」ということになり、何かと迷惑させられるからでしょう。その逆にムルカルカでは、案内人が泊りたい一心か、近い距離を遠いように言いました。
氷河堆石上の平らな広場なので、どこでもテントを張れそうにみえますが、水はけが悪いので、雨期には安住の地はありません。一軒の新築早々の家に人夫ともども入れてもらいました。老人の隠居部屋だそうです。民家に泊っても部屋代は不要で、薪だの食料だのを買う金だけを払えばよいのだということです。囲炉裏でボンボン火をたいたら床を焼き抜いてしまい、翌朝は平たい石を当ててごま化して出てきてしまいました。ネパールの家は1階が家畜小屋で、2階が住居なので、2階で火をたけるように、土や石を厚く敷いてあるのですが、新築早々でそういう用意がよくできていなかったらしいです。
7月13日 今日も霧雨の中を、グシャグシャの湿地をわたったり、荒れ狂う流れをあぶなかしい橋で越えたり、家のような転石の陰で雨宿りしたりしながらキャンジンに着きました。ここはリルン氷河の末端でゴンパがあり、国営のチーズ工場があります。工場の作業小屋に入れてもらいました。工場長のネパール人はスイスで修行してきた人で、子供はカトマンズの学校にあずけて、もう3年以上もここで奥さんと2人でヨーロッパ風の優雅な生活を楽しんでいるようです。外国で修行してきたネパール人は、カトマンズの役所でえらい地位につき、デスクワークに明け暮れるのが常道なのに、この人の行き方は大いに変わっています。
茶色の大きな豚が1頭飼われていました。ネパールの豚は黒毛でたてがみがあるのがほとんどで、白い豚は稀にしか見ません。茶色のは初めてです。おとなしいのでなでてやったら、サキャは気にしていたようでした。彼らにとって豚は不浄な動物で、体はおろかそれが入っていた檻にも触ってはならないのです。もっとも、ネパールにはいろんな種族がおり、豚をよろこんで食べる人たちもいます。
ここのチーズは5,000mのガンジャラを越えてカトマンズに運ばれます。チーズはまだ熟成しておらず、食べることはできませんでしたが、バタはいくらでも手に入りました。ただ困ったことに、われわれは砂糖も塩も切らしてしまい、食べ物に味をつけることができませんでした。日本のバタなら塩味がついているのが常識ですが、ここのは純粋なものだから、全く味がないのです。とにかく食べ物がすべて甘くもからくもないので、どんなものでも食べられるつもりの僕も、さすがに閉口しました。シャブルベンシへ帰りつくまでの5日間というもの、腎臓病と糖尿病に一緒にかかったような食事でした。
7月14-15日 キャンジン。毎日朝のうちはちょっと晴れるかと思うとすぐ霧雨で、うっとうしい限りです。ここは以前に日本隊が雪崩で遭難したランタンリルン峰の真下です。日本隊が引き上げた後には、魚の干物がたくさん残されていたそうです。また最近になって氷河の中からジュラルミン製の梯子がみつかったということです。午前午後と1回ずつあちこちへ出て調査をしました。サキャは針葉樹林を調べたかったのですが、高度が高すぎてありません。ランタン部落のあたりならあるそうです。高度の影響で頭が重く、スッキリしません。
工場の直ぐ北側に大きな丘があるので登ってみたら、それがリルン氷河の末端堆石でした。ほんの一瞬しか見えなかったけれど、リルン峰は美しいピラミッドです。ランタンは山も谷も美しいところです。カトマンズから交通の便がよくなれば、ハイカーがたくさん訪れるところでしょう。尾瀬のように女の方に好まれると思います。それと、自殺の名所になるかも知れません。
7月16日 キャンジンを発って下りにかかりました。サキャはモミの林を調べたくて、ランタンの夏部落で場所をきき、わざわざ谷を渡って行ってみましたが、モミの木は部落の建築用材にみんな伐採されてしまい、若木がちょろちょろ立っているだけでした。これで諦めるかと思ったら、今度は冬部落の対岸にあるツガの林を調べようというのです。こっちはもうどうでもよくなって「あんなところ行く道が無いじゃないか」と言ってたのですが、彼は村人にいろいろ尋ねて向うへ渡る道を聞き出し、午後遅くなってとうとうその道をみつけてしまいました。雨もたくさん降っていることだし、明日調べることにして、近くの石小屋にもぐりこんで泊りました。
小屋といっても冬まで放置されているので、中はヤクの糞だらけです。それを木の枝で片隅に押し固め、あとにグランドシートをひろげて、人夫もみんな一緒に寝ました。前にも書きましたが、不思議と糞のにおいがせず、少々カビくさい程度なのです。人夫の食料が無くなって、われわれの米を分けて食べました。
7月17日 気乗りがしなくても、どうせやるならさっさと片づけようと、真っ先に道を下って川岸に出たら、角材を3本わたしただけのずいぶん古い橋です。折れたら命は無いなと思ったけれど、乗ってみたら意外と丈夫でした。でもランタン谷の激流は気持ちのよいものではありません。対岸からみたツガの林は立派なものでしたが、イザ入ってみると、ものすごい大木が100mおきくらいに立っていて手のつけようもありません。おまけに雨が激しく降り出してしまい、いいかげんにしてあきらめざるを得なくなりました。これでとにかくやることは終り、あとは一路帰途につくばかりです。今夜はシェルパガオン泊りでした。サキャは「明日は早いうちに人夫2人をシャブルベンシに送って、預けた荷物をまとめて人夫を雇い、もっと先まで行くんだ」と張り切っていました。
7月18日 サキャが早く進みたがる理由はよくわからないけれど、悪いことではないので、こちらも歩度を早めてどんどん下りました。途中で同じ方向へ行く牛の群に挟まれてしまいました。ふつうなら何でもないのですが、僕の前の牛は腹をくだしていて、尻のまわりはキントンをぬりたくったようです。そいつが尻尾を振ると、キントンの塊が容赦なくとんできます。逃げようにも狭い切り通し道で前後を牛にはさまれているのですからどうにもなりません。やっと本道に出て、顔を洗って一休みしていたら、サキャが追いついて来たので、彼も急いでいるのだと思い、入れ換わりに出発しました。
シャブルベンシへ着いたのは12時過ぎです。先行した人夫がゴンパの軒下で昼寝をしています。「人夫は見つかったかい?」と聞くと「だめ」だそうです。サキャがすぐ来るからどうにかするだろうと待っていたのですが、すぐ後ろにいたはずの彼はなかなか現れません。1時間半もしてからやってきたので「どうした」とたずねると「さっきの水場で体を洗って洗濯をして乾かしてきた。いい気分でしたよ」と言うのです。あきれてものも言えません。要するに今日はここ泊まりなのです。人夫もみんな川へ行って体を洗い、きたないのは僕1人だけになってしまいました。僕はどうも体をきれいにするのは嫌いで、水浴びだの洗濯だのはしたことがなく、1ヶ月くらいは下着も換えない方です。それでもインキンタムシにもならず、1ヶ月後に体を拭いても、出る垢は1週間目とそんなに変わりはありません。その代り、ネットシャツはアカすり代りで、洗っても灰色のままです。人夫をどうするかと思っていたら、よぼよぼのじいさんがひょっこり現れ、これを雇うことに決まりました。この人は運ぶ荷物があればどこへでも行く、流れ者の人夫です。
村長の家へ行ってみたら娘が腰帯を織っていました。幅3cm長さ2mほどに縦糸を揃え、渋を塗ったハガキ大の厚紙の四隅に穴をあけて糸を1本ずつ通してあります。横糸を1本通すたびにこのハガキの向きを変えると、縦糸の上下の組合せが変わるので、きれいな模様ができるのです。日本の九重織りというのが、これと同じやり方だと思います。この娘はひとしきり帯を織ると、石油缶を背負って川へ水汲みに行き、それからたき木を集めてから、明日織る帯の縦糸を揃えてと、よく働く子でした。背負った石油缶の水を子供が欲しがると、器用に腰を振って、背中の缶の角から適量の水を子供の手のひらにこぼしてやります。
塩と砂糖が手に入ったので、久し振りに味のついた食事をとることができました。
7月19日 昨日のじいさんはドコ(背負い篭)を持っておらず、出発間際にそれを探して一騒ぎありました。今日はドゥンチェまでですが、サキャはそこで旅行証明を作ってもらわねばならず、「明日は休日だから、今日は役場は早仕舞いだろう、3時頃までには着かないと…」と言うのです。そこで今日も先頭切って、一生懸命歩くことになりました。ドゥンチェが初めて見える休み場に立つと、目の下の深い谷を下りて、また同じくらい上らねばならないと思ってガッカリさせられます。なにしろすぐそこに見えるドゥンチェへ行くのに、下り1時間上り1時間半はかかるのです。そでもせっせと歩いて、3時前にはドゥンチェにつきました。ところがサキャはなかなか現れません。4時近くになってやって来て開口一番「今日はばかに急ぎますねー、ホームシックですか?」ネパールには半ドンという制度はなく、休日の前日でも役所は5時まで開いているのです。たとえ夜になっても、役人の家は部落の中ですから、訪ねてうまく話せば、証明書など簡単に書いてくれるでしょう。サキャの朝の言を真にうけて、くたびれもうけでした。
7月20日 昨日雇ったじいさん人夫は、「荷物が重いからいやだ」と言います。そこでまた人夫探しとなりました。ドゥンチェは大きな部落なのに、見つけるのに1時間以上かかりました。やっと出発となったとき、1人の人夫がよろけて、背負った荷物をほうり出してしまいました。この荷物は出来上がった標本で、役所の人夫はこれが1番大事だということを知っています。そもそも人夫が荷物を放り出すなどということは、恥さらしなことです。人夫頭は息杖を振り上げて「この野郎」とばかり、落とした人夫に殴りかからんばかりの勢いです。サキャはこの人夫をアッサリとクビにしてしまいました。
これまでにずいぶんいろいろな事件がありましたが、その原因のほとんどはこのビル・バハドルという男のせいなのです。ランタンへの行きがけにシェルパガオンで昼飯に遅れ、その夜遅くまでも歩かされるもとになったのも、その前の日のシャブルベンシの出発間際に「足が痛い」と言ってクビになったのもこの男です。その前の日にタンジェットで僕が「乾燥機のジュラルミン板がないぞ」と言ったとき、「前から無かったです」と返事したのはビル・バハドルでした。だから僕はジュラ板の行方不明については、彼がなにか知っていると思っていました。シャブルベンシで「足が痛い」と言ってゴネたのは、クビになったツォンバに対する同情からではなかろうかと、カンぐっていたのです。シェルパガオンで遅れてからは、彼には炊事道具のようなすぐ必要な物ではなく、標本だの衣類だの、緊急性のない荷物を割り当てるようになっていました。この男はうちの役所の人夫ではなく、誰かの親類なので、今までなんとかかばってもらっていたようです。
さっき不足した人夫をやっとのことで補ったばかりなのに、また1人見つけるのはとても無理なので、人夫たちはなんとかビル・バハドルに荷物を背負わせて出発させてしまおうとするのですが、その度にサキャがとんできて「イカン!お前はクビだ!」どなります。人夫たちは大弱りで、部落へ探しにゆきました。クビになったビル・バハドルは、「勝手にしやがれ」とばかり地面に大の字になってフテ寝をしています。2時間ほどしてやっと人夫の代りがやってきたのをみると、14-5才の坊やです。驚いたことに母親がついてきて、1番軽そうな荷物のそばへ座り込み「ウチの子はこれでないとだめだ」と頑張ります。人夫の荷物というのは中身や重さによって担ぐ男の格付けがあり、その荷物は人夫頭のものなのです。ネパールには珍しいママゴンに頑張られて、人夫たちは苦笑いしながら荷物を組み換えてその子の分を造ってやりました。この子供は唖だそうで、だから母親が代弁しているのだということです。ビル・バハドルの方は村に同郷のポリスがいて、「ここでは気まづいだろう」と引き取ることになりました。フテ寝をしているのをたたき起こしてみると、腰が抜けたようにフラフラして立ち上がることができません。それに水をぶっかけ、どなりつけて2人がかりでかかえて行きました。今日はターレ泊り。
7月21日 今日は珍しく事件がなく、ラムチェまで行き、学校の2階に泊りました。2階はわりときれいな板の間で、今夜は居心地がよいわいと思っていたら、10分ばかりしたら脛がむずむずしてきました。見ると板の隙間からピカピカつやのある大きな立派な蚤が、ぞろぞろ這い出して足にとりついたところです。始めのうちは体が冷えているせいか鈍重ですが、こちらの体温で温まると元気よくピンピン跳ねだします。これは大変と、たった1本のBHCのスプレーを盛大にぶちまけ、その夜はおかげで蚤にやられないで済みました。しかしこのおかげで翌日ひどい目にあうことになりました。
昨日クビになったビル・バハドルは、結局みんなの尻にくっついて来て一緒に泊っており、飯たきや水汲みを手伝っています。サキャに「お前はクビにしたのだから、俺の目につくところに出てくるな」と言われて、隅の方で小さくなって飯を食っていました。
人夫が1人、足の水虫が悪化して高熱をだしています。裸足で歩く人夫に水虫ができるというのは不思議ですが、この男に限らず、足指の股に水虫を持っている人夫は少なくありません。明日治らないと、また1人探さねばなりません。
7月22日 水虫の男の熱は下がらず、荷物を背負うことができません。新しく人夫をさがすよりは、ビル・バハドルにやらせればよいのですが、サキャはクビにした手前ウンとは言えません。人夫頭に「まあ適当にやれや」と言い残して、サーブ2人は先に出掛けました。ラムチェからはるかかなたにトリスリの発電所が望めます。今日一日歩けばあとはジープで帰るだけです。
ところが今日のコースは行きがけに地滑りのため、崖へずりをやったところを通らねばなりません。サキャはこれを大変危険視していて、人夫たちにはずっと上手の遠回りの道を行くよう指示していました。彼自身もそっちへ行きたかったらしいけれど、僕が元の道を下ってしまったので、仕方なくついてきたようです。僕の考えでは、行きがけの崩壊はずっと大きくなっていて、もう崖へずりはできないだろう。そうすれば近くに迂回路ができるはずだから、前よりはるかに楽になっているだろうと判断していました。現場へきたら果してその通りで、何事もなく通過できました。
ここで下からマンゴーを背負ってきた男に出会い、久し振りで果物を味わいました。といっても、小さくて青くてものすごく酸っぱくてヤニ臭い代物ですが、それでもうまいと思いました。山を下りきって、行き掛けにジープを下りたバインセの茶屋で、お茶を2杯飲んだらサキャが追いつき、5杯のんだら人夫がやってきました。ビル・バハドルはあいかわらずビリッケツだそうです。
バインセではジープがつかまらないので、トリスリまで更に2時間歩きました。これだけの人数と荷物を一度に運ぶには、車をつかまえるより役所に電話して迎えにきてもらう方が安上がりだというわけで、サキャはカトマンズへ電話をかけました。その返事は「インド公路が雨でこわれて輸送がストップしており、必要量のガソリンが買えるかどうかわからない。明日トライしてみる。」というものでした。カトマンズとインドをむすぶトリブーバン・ハイウエイは、外界からのあらゆる物資の輸送路ですが、雨期になると崖崩れのため1度か2度は必ず切れてしまうのです。そうするとカトマンズ市内の日用品は、一斉に店頭から消えてしまいます。カトマンズとトリスリ間の道路もあちこちで切れているようで、トリスリバザールには今日は車はきていません。いずれにせよ今日はここで泊りというので、町はずれの林野局のゲストハウスに入れてもらいました。ここは洋風のレンガ造りで、ベッドも蚊帳も備えつけてある立派な建物です。
ヤレヤレと部屋へ落ち着いて荷物をひろげ、整理を始めたら、どこからともなくゴキブリの大群がゾロゾロあらわれはじめました。あわてて殺虫剤のスプレーをぶっかけるのですが、ゴキブリはBHCにはとても強く、ノミのようには簡単に参ってくれません。ビショヌレになるくらいかけると、やっと1匹ひっくりかえりますが、まだ死なないのです。それにいくら殺しても、後から後から際限なく現れるので、とうとうスプレーが無くなってしまいました。後は彼らのなすがままです。ネパール人はゴキブリは金持ち虫だといって嫌わないそうですが、僕のような無神経な日本人にも気分のよいものではありません。リュックサックの中にもシャツの間にも勝手にもぐりこんでしまいます。夜になって寝てからも、あたりをカサカサ歩き回り、ときどき顔の上を歩いたりしていました。10畳敷ほどの部屋ですから、1畳に200匹いたとすれば全部で2,000匹ということになりますが、僕の感じではもっと多かったと思います。チャバネゴキブリみたいでした。
この夜珍しく地震がありました。ガタガタ揺れるのではなく、石が落ちたようにドカンと1発だけです。そのとたんにあたりの家々から女どものものすごい悲鳴があがりました。ここでは地震や日食のような天変地異の際には、女子供はそれが早く退散するように、できる限りの悲鳴をあげるのだそうです。そのせいか、地震はすぐにやんでしまいました。
7月23日 今日は朝寝坊でした。昨夜サキャが「明日はネパール式に飯をつくるがよいか?」とききますので、賛成しておきました。ネパール式というのは1日2食で、朝飯はぬき、ランチと称するものを10時頃食べます。ネパール人の常食は米ですが、冷や飯は食べません。必ず炊き立ての温かい飯でなければならないのです。この旅行中僕は朝チャパテ、昼チャパテ、夜米飯というようにしてもらいました。ネパール式にやると、朝はお茶1杯で歩きだすので体に力が入らず、しかも10時頃せっかく調査に熱が入りはじめたところで座り込んで飯をたきはじめるので、能率の悪いことおびただしいのです。旅の間サキャはこの非ネパール方式を、僕のために忠実に実行してくれましたが、彼は明らかに食欲不振で、体調を崩したようです。ですから今日のネパール式ランチを食べ終わると「アーア、やっとメシらしいメシを食べた」といとも満足そうでした。僕の方は10時まで待っていられないので、朝のうちにトリスリバザールまで行って、茶屋で揚げパンをかじってお茶を飲んできました。
道がちゃんと通じていないので、車はあまりやってきません。それでもたまに、車体中まっ赤に泥をはねあげたジープが通ります。サキャは車の音がするたびに「役所の車かな」と見に行きます。昨日電話をかけたのが4時過ぎですので、カトマンズでは何の動きもないはずで、今朝10時に役所が始まってから所長が小切手を切り、それから銀行に行って現金化してガソリンを補給し、食料を買ってから出発ですから、いくら早くても12時、こちらにつくのは3時前ということはありえないのですが、彼氏は朝から待っているのです。2時前になったら「ちょっと電話をかけてくる」と出かけてゆきました。こちらはまだゴキブリがウロウロしている部屋で昼寝です。3時過ぎにサキャが中型ジープをつれて帰ってきました。カトマンズに電話をかけたら、車は出せないとわかったそうです。カトマンズまで歩けば2日かかります。このジープは今朝到着して、午後カトマンズへ戻る予定で客をとり、客が荷作りに家へ帰っているあいだに、サキャが交渉してこっちへ雇い替えてしまったのだそうです。車に残っていた客2人だけが、一緒に行くことになりました。
運転席に運転手と僕とサキャと客1人と運転助手の5人が坐り、後には客1人と11人の人夫(つまり合計17人!)とその荷物を全部つめ込みました。来るときは同じくらいの大きさのジープにトレーラーをつけていたのですから、採集品でそれよりも多くなった荷物と、これも多くなった人数を1台に詰め込むのですから、奥に入った人間は身動きもできません。それでもとにかく乗せてしまったのは不思議です。人と荷物で鈴なり状態ですが、さすがにジープ(ソ連製)でちゃんと動きます。道はだいぶ悪かったけれど、無事に山を登り、てっぺんのカカニの丘の手前のチェックポストへ来たら6時過ぎでした。これから下れば午後8時にはカトマンズへ着けると思っていたら、チェックポストの遮断器は下りたままで、通してくれません。サキャが出ていって役人風をちらつかせても駄目です。暗くて道が危険だからかと思ったらそうではなく、本来夜6時以降は道路を走ってはいけないのだそうです。仕方なくここで1泊となりました。
そばの民家へ一同入り込むと、慣れたもので気前よくゴザなどをみんなに出してくれます。近くに森林局の出張所があるので、そこで世話してもらおうかとサキャが言うので行ってみたら、出迎えたのはベロベロに酔っぱらった男でした。「サアサアどうぞお入りください」とすすめるのだけれど、サキャと顔を見合わせて、これは敬遠した方がよいということになり、さっきの家に引き返しました。トリスリの蒸し暑さにくらべてしのぎよく、ゴキブリも出ず、よく眠れました。
7月24日 今日はカトマンズに帰れると、一同張り切って出発、カカニの丘を越えてしばらく下ったら、道が無くなっていました。10mほどの長さにわたって、道幅のほとんどが崖崩れで落ちてしまっているのです。どうしたものかと思案していると、運転手が「道を作ればよい」と言い出しました。こっちは人夫を11人もかかえているのだから、人手に不足はありません。そこらの石や泥をかき集めて、2時間もしたら車の幅ギリギリの石積が出来上りました。人間はおろして荷物はそのままで、運転手は思い切りよく一気に渡りましたが、車輪の下で石がザラザラ崩れるのが見えるので、見物の方がよほどハラハラしました。
これで終りかと思ったらまた一難。カトマンズの入り口のバラジューの裏山から、大石を混じえた粘土質の崩壊が道一杯に広がっています。運転手はさっきの成功に気をよくして、一気に突破しようと突っ込んだのですが、これは意外に手強く、ヌルヌルの粘土で車が横辷りをはじめ、あと5cmで転落ということになってしまいました。道の反対側でもトリスリ行きのバスやトラックが立ち往生しています。運転手同士が話合って、道路整備人夫を呼ぼうということになりました。そういう役目の男が近くにいるのだそうです。そんなら呼ばれなくたって出てきそうなものですが、とにかくシャベルだの金棒だのを持った男が3人現れました。その金棒で道路の真中に転がっている物置小屋くらいの大石を割ろうというのですから、なんとも悠長なことです。ところがバスの運転手のパンジャビ(インドのパンジャブ地方出身者。髭面にターバンですぐわかる。機械に強い)は、自分の車に近い方の石をどけろと、金棒をとりあげて勝手に作業をはじめます。ネパール人はこういうことをされても、インド人には何も言えないようです。少なくともドライバーという職業は、乗客や一般人よりもエライのです。ですから普通の人間が運転手に声をかけるときには「ドライバー・サーブ」と敬称をつけます。
とにかくあちこちで勝手気侭に道路整備が始まりました。われわれも人夫が多いのをよいことに、シャベルをとりあげて粘土の中から車を掘り出し(つまり道路人夫は働かなくてよいから大喜び)、やっとのことでこの難所を通り抜けました。カカニからカトマンズまでふつうなら2時間ちょっとですが、今日は6時間近く掛かりました。これから先は言うほどのこともなく、事件続きの旅がやっと終りました。
〇チャンドラギリの旅
今度は5日間の短い旅をしました。カトマンズの南のダクチンカリから南下してチサパニ・ガリに至り、引き返してチャンドラギリを横切ってタンコットに出てきました。この旅は研究員はだれも今頃やるつもりはなかったのですが、シュワール所長が強いてやれやれというのでやることになったのです。
シュワール所長は昨年4月に行ったモカンプール行きをもう一度やることを強くのぞんでおり、調査旅行の話がでるたびにモカンプールに行けと言い出します。高い所は年に1度しか行けるチャンスがなく、雨期中に行くしかないのに、それを後回しにしてもモカンプールへ行けと再三言い出し、研究員たちを困らせていました。
シュワール所長は上級植物調査官という肩書きですが、これは所長の呼び名であって、彼は本来薬学士です。しかしこの研究所の行事は全く彼の一存で決定されるので、彼が執念深くヤレヤレという以上、つきあわないわけにはいかないのです。先回のチリメ行きを決めるときにも、「それより先にモカンプールへ行け」と言い出し、それを押し戻すのに大変苦労しました。
雨期の最中に低地へでかけて行って森林調査をやろうとしても、コースは洪水でやられているし、森の中は下生えがビッシリ生えていて毒蛇や蛭がウヨウヨしているし、川は増水して渡れないし、雨はザーザー降るしで、仕事にならないこと請け合いです。せめて10月以後がよいというのですが、シュワールは現場を知らないから、機会あるごとにモカンプールを持ち出すのです。今度も収穫はあまり期待できないけれど、あまり何度も彼のいうことをつぶすと、意地になって無理を言い出すおそれがあるので、既に一応調査の済んでいるモカンプールよりは、チャンドラギリへ行くことになりました。チャンドラギリはカトマンズの南西を区切る2,500mほどの山脈です。ムクチナートに行く話が前からあったのですが、それはダサイン前の9月中旬に3週間をかければ行けるということになりました。このムクチナート行きは、結局つぶれてしまいました。これとは別に、僕には日本からCさん達が来て、短い旅行をすることになっていましたが、それまでにはまだ1週間あるので、早いとこ済ませることにしたのです。同行はシュレスタで、ここの幹部候補生です。彼の細君は職場結婚したカワイコチャンですが、この頃姿をみせません。そろそろ1年半になるので、さてはオメデタかと思ったらそうではなく、トリブーバン大学の大学院に行ってるのだそうです。ここでは役所に在籍のまま大学へ行け、給料は半額になるけれどもらえるうえ、地位は保証されています。シュレスタは名門の出ですが見るからに蒲柳の質で、おまけにかなりドモリでちょっと足を引きずる癖があります。なんでも小さい頃大病にかかり、そのせいでこうなったということです。
出発1970年8月31日は「父の日」でした。この日は休日ではないけれど、子供は父に御馳走する日で、とくに嫁にでた女性は実家に帰って、父親にお菓子をつくって食べさせるのだそうです。「だからワイフは朝忙しくて俺の面倒を見られないから、午後から出掛けることにしたい」というので同意しました。ダクチンカリはカトマンズからバグマチ川の西側を南下し、チョバール峡谷(カトマンズの水はすべてこの狭い谷間を通って出て行く)の先で、舗装道路がそこまで通じており、車で1時間あれば十分なのです。用意を調えて午後1時に研究所へ行ったら、シュレスタはまだ普通の服装のままです。ジープに人夫と荷物を積んで、彼の家まで行き、それから彼は仕度をするのです。
彼の家は旧市街の古い煉瓦造りの家で、その中の一室が彼夫婦のスイートルームです。ネパールは大家族制なので、その家は彼一族が住んでいますが、同じ家族といっても部屋にはちゃんと鍵がかけてありました。居間兼寝室兼勉強部屋兼応接間兼… 要するにこの一室だけが彼夫婦のものなのです。部屋の隅に万年床(ダブル)があり、お客が来るとこの上に坐らせます。万年床といっても日本とはちがってそれが当たり前、ちゃんと手入れはされています。それから彼女がおやじさんのために今朝作ったお菓子を出してくれました。蜜のたっぷりしみこんだ揚玉みたいなもの(ラズバリ)です。彼女は大学に行ってしまっているので、お菓子以外の風味はありません。その間にシュレスタの仕度ができて、やっと出発となりました。僕のシェルパはジャンブーの兄貴のアンツェリンです。彼はこの夏まで西ネパールのジュムラに1年近くいて、アメリカの調査隊の仕事をしていました。どんな調査をしたのか聞いたら、何とかいう大学の総合学術調査で、学生が入れ代り立ち代りやって来て「調査」をするのだけれど、「彼らは何も知らないから、そこらの物を手当りしだいかき集めただけ」だそうです。
ダクチンカリは有名なお寺のあるところで、その参道は王様の寄進で作られており、谷底の寺まで、丘の上から延々と階段がつけられています。今夏の豪雨で、寺の周囲は崖崩れでひどい荒れようです。この寺はまた水牛の首斬りで有名で、毎週2回、それを見るための観光バスが出ます。カリという神様は非常に荒々しいのです。見ている間にも子山羊が一頭神前に連れられて行ったと思ったら、アッという間に首無しになって引きずられてきました。頭部は神に供え、首部は坊さんがもらい(ということは、首から上は坊さんのもの)胴体は山羊の持主が持ち帰ります。
この日は寺の宿坊に泊り、僕だけは「蚤がいては気の毒だ」と外へテントを張ってくれました。実のところサーブ用のスペースが宿坊には1人分しか無かったためらしいです。シュレスタはアセモ止めの粉を首筋にパタパタ振り掛け、何やら栄養剤ドリンクのようなものを服み、「あれはワイフが用意してくれた、これもワイフが作ってくれた」と、新婚早々でもないのにおアツイところをみせます。彼は聖人君子なので、大真面目に話しているのですが…。
1970年9月1日 チャンドラギリの南側に回りこんで、森林のあるところを探すはずだったのが、いつの間にか一山先にあるチサパニを目指すことになりました。準平原が浸食されたような地形で川筋が複雑に入り組んでおり、南へ行くはずなのに道は北に向かい、部落と畑ばかりのところです。森林などは爪の垢ほどもありません。1日グルグル歩き回って、尾根の突端の部落に泊りました。ここはカトマンズからチサパニへ通じるロープウェイの中継所です。その中継所へだけは、モーターを動かすために電気が引いてありますが、部落には一灯もついていません。このロープウェイは貨物用で、国営の公社が運行しており、先日のようにインド公路が駄目になると、唯一の物資の通路になるものです。しかしこの日3時間以上もその下を歩いたけれど、ロープウェイが動いたのはわずか100mほど、翌日はこの下を1日歩いたけれど、ちっとも動かないという有様でした。昼も夜も雨が降り、採るものもあまり無く、退屈な旅です。
9月2日 今日は眼下の渓谷まで下り、それを渡ってまた上がります。この山はヒマラヤの前衛第二線をなすマハバラト山脈です。これの南にはあとは低いチュリア山脈があるだけで、インド平原へつながります。この道は昔(といっても十数年前まで)はインドからカトマンズへ入る1番大きな街道でした。インド公路ができるまでは、ビルガンジ~ヒタウラ~チサパニ~タンコット~カトマンズと歩くのが常道で、その頃カトマンズを走っていた自動車は、解体してこの道を担ぎ上げたものだし、スンダリジャルの発電所の設備もここを担いで通ったのです。かつぎ切れないでオッポリ出した導水パイプが(もう100年近い昔のこと)、今でも途中に置き放しになっているということです。
谷底からチサパニへと登りにかかったら、このコースに沿って自動車道路ができていたことがわかりました。この自動車道は旧街道沿いにチャンドラギリを越え、カトマンズに達しているのですが、手入れをしてないので地滑りに寸断され、使いものになりません。昨年のモカンプール行きのときにも、別な自動車道路があったことを知りました。つまりトリブーバン公路(現在インド公路といっているもの)のほかに、インドとつながる自動車道を少なくとも2本造ったのに、放置して使い物にならなくしているのです。もったいない話です[1973年にはさらにもう1本、マルシャンディ河沿いのができて、トリブーバン公路は衰頽しています]。
シュレスタは峠を越えて向う側のチサパニ・ガリまで行こうといいます。例によって旅行証明書をもらうためです。山の北側でも森がないのに、南側へ下りては仕事にならないのですが、証明書をもらわねばならないので、仕方がないと思っていました。しかし峠の部落できいたら、チサパニ・ガリには監獄と兵舎があるだけでパンチャヤットはないといわれ、シュレスタはようやくあきらめました。
峠の部落についてさっそく森林調査にかかりました。遠くからみて樹木の茂っていそうな所をねらって行くのですが、「森」に入るとどこも伐られた跡だらけでした。それに雨がザーザー降り出し、下草が多いので蛭がやたらといます。何とかよさそうな所をみつけて仕事をしようとしても、雨でノートが濡れてしまって、ボールペンはもちろん鉛筆でも書けないのです。結局いい加減にやるより仕方がなくなってしまいました。やはり雨期にこういう仕事をやるのは無理が多いです。樹種の見分けもつきません。見上げると雨粒が目に飛び込みますし、眼鏡は曇って使えません。
部落へもどって空家に泊りました。シュレスタは聖人君子の見かけより呑ん兵衛で、自家製の焼酎(ロキシー)を持ってきていて毎晩やります。家ではロキシーは奥さんがついでくれるはずですから、これも愛妻家を象徴しているのかも知れません。家庭でのロキシーの注ぎ方は、細長い鶴首の水差しから糸のように酒を流し出し、しかも水差しを目よりも高く差し上げてコップに注ぐのが優雅とされています。
9月3日 カトマンズへと戻りにかかり、川まで下って朝食。シュレスタはサキャ(チリメ・ランタンへ同行した)よりもネパール式にやらないと気がすまないようで、朝食(僕のいう)はとにかくチャパテを作って僕につき合いますが、10時過ぎになるとやはりメシを食わねばいられなくなるようで、「そろそろ昼メシにしようか?」といいます。この「昼メシ」が彼の本当の朝食になることは明らかなので、人夫と一緒に飯をたいて時間をつぶすのもやむを得ないと思うようになりました。何しろ文化の違いなのですから、良いも悪いもないのです。
われわれ日本人でしたら朝飯(7時)、昼飯(0時)、おやつ(3時)、晩飯(7時)というパタンですが、彼等は二食主義なので朝飯(10時)、おやつ(2時)、晩飯(8時)という配分になります。ところが役所は9時(冬は10時)に始まりますから、10時に朝飯というわけにゆかず、出勤前に軽くなにか食べてきます。これでは夕方まで保ちませんから、おやつはかなり重いものとなり、ちょっとした軽食です。ですからこの「おやつ」はわれわれのいう「tea」ではなく、「tiffin」(ネパール語でkhaajaa)と呼んでいます。カトマンズにいるときは、僕は昼食をとりに家に帰ります。1時に役所に出ると、2時から3時頃tiffinに呼ばれます。これはサンドイッチだったりカレーライスだったりします。だから僕は1日4食たべていることになるのです。
こういうわけで10時に飯のために坐り込むのですが、もともと今度の旅はあまり仕事になりませんので、大した障害にはなりません。せっかくアンツェリンを連れてきても、あまり使いようがありません。彼はジャンブーの兄貴でカルマツェレの弟ですが、同様に良い男です。それに英語がとても達者で、シュレスタが「俺達より英語がうまい」と言っていました。
この日も採るものは特になく、チャンドラギリの南麓の部落に泊りました。途中昼寝によさそうな松林があっただけです。ミシマサイコ(Bupleurum falcatum)が目につきました。ダサインの生贄の山羊の大群を連れて、カトマンズへ売りに行く人たちと前後して歩きました。水牛も続々と連れられて行きます。水牛の子などは歩くのが遅いのか、籠に入れてかついで行く人もいました。
ダサインはヒンドゥー教の年最大の祭です。ドルガ・プジャとも言います。ドルガという女神が悪魔と10日間の戦いの後退治したことを記念するもので、役所も10日間休みになります。この期間は他所へ出ている者もすべて帰郷して祭に参加するので、交通機関やホテルは超満員になります。ヒンドゥー教は犠牲を要求する宗教で、水牛、山羊、鶏などが供えられます。王宮でも毎日水牛の首切りが行われるので、招待された外交官はゲンナリすると言っていました。自動車を持っていると、鶏か山羊かの首を切って車体に振りかけないと、運転手が承知しないそうです。たまたまそのとき飛行場に行ったら、飛行機にも同じことをやっていました。
泊った部落で1箇所だけよい林があるのを見つけました。水源林です。明日はあそこを調べればよいとシュレスタに話したら、「明日はイノコズチの日だよ」とニヤニヤしています。面白い日にぶつかりました。
「イノコズチの日」というのは、女性だけの祭日です。この日は女性は朝から何も食べず、泉や池や川へ行って身を清めます。特に体の内界と外界のつながる箇所を念入りに掃除します。その際のブラシとして用いられるのがイノコズチの枝なのです。バザールではこの日が近づくと、イノコズチの枝がたくさん売られています。カトマンズあたりでは着物を着たまま水に入り、パシュパチナートなどでは観光客が見物するほどですが、田舎ではもっと徹底していて、着物など不浄なものはつけないそうです。以前、島田さんが農業調査に出て、たまたまこの日にぶつかったら、男は外出してはいかんと言われたそうです。
こんな日とは知らないで、水源林に朝行くことにしてしまったのです。場所といい時といい申し分ありません。シュレスタに「明日は男は外出してはいけないんじゃないか?」とたずねたら「そんなことないだろ」という返事なので、とにかく出掛けることにしました。ネパール暦は陽暦と陰暦の折衷みたいなもので、陽暦の感覚からすると行事が毎年同じ日にならず、何日が祭日なのか見当がつきません。役所でも出勤してみたら「今日は祭日です」といわれることがときどきあります。
翌日の絶食に備えて前夜は御馳走を食べ、とくにナッツの類を各種食べます。泊った家の女の子も、アーモンドとクルミを割っていました。
9月4日 朝、一同特に急ぐでもなく(ポーカーフェイス?)、例によってチャパテを食べて8時過ぎに出ました。水源には立派なダーラ(水口)が4本もあり、リンガー(ヒンズー教の御神体で男根を象徴したもの)が3本立っていました。きれいな水が勢いよく流れ出し、樹木はよく茂って薄暗く、身を清めるには絶好の環境ですが、誰もいません。2時間ばかり林の中でゆっくり仕事をしたけれど、1人も来ませんでした。人夫たちも期待していたことは明らかで、林から出てきたとき、畑仕事をしていた老婆に「もう済んじまったのかい?」と尋ねていました。男は外出禁止ということもなさそうで、いくらも歩いていました。女どもはよほどうまく立ち回っているのでしょう。
一同気抜けしながらチャンドラギリを上がり、峠で人夫を先に行かせて役所のジープを呼びにやり(予定より1日早かったので)、われわれは森林調査(ここはシャクナゲ林)をいくつかやって夕方下りました。タンコットから登ると、ものすごく急なところです。
迎えに来たジープに乗ってカトマンズの町へ入ったところで、むこうから着飾った女性の一団が来るのに出会いました。オバサン連が歌をうたい、若い子が3人踊りながら来るのです。これは例のお清めの帰り道で、カトマンズでは不徹底なやり方で清めるから、時刻にはかまわないのでしょう。朝行くときもやはり踊りながら行くのに昨年出会いました。その若い子3人がいきなりジープの前に立ちふさがって踊り出しました。よけようとハンドルを切ると、わざとそっちへ回りこむのです。踊っている方もテレくさいらしく、逃げ出そうとすると、オバサン連がもっとヤレヤレとけしかけ、大声を張り上げて歌うので逃げられません。役所の車はナンバープレートが白で、一般車の赤とはすぐ区別がつくのですが、今日は無礼講のようで、乗ってる方もニヤニヤしながら見物です。しばらくジープを立ち往生させたあげく、やっと開放してくれました。
イノコズチの日は去年はたしか9月10日でした。来年のがわかったら知らせます。
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
〔花の美術館〕カテゴリリンク