弔辞
原先生、あまりに突然逝かれておしまいになり、わたしたちは呆然としております。
先生は、3年ほど前から筋肉の衰弱が次第に進行するご病気にかかられました。この病気は原因もわからず、治療の方法もない難病中の難病で、医者も的確な対策をたてることができないものでした。先生は、不自由なお体をおして研究室に通われ、編集会に出席され、出版物の校正にはげまれ、研究者との交流につとめられるなど、以前と変わりのない活発な研究活動を続けておられました。しかしながら病魔はお体の思いの他の部分にはいりこみ、一瞬の心不全が回復不能の打撃を与える結果となったのです。わたくしどもはもとより、先生もこういう自体は予想しておられませんでしたので、まだやりたいことを山ほど残し、研究論文も書きかけのままで、まるで若者が、戦場で敵弾に倒れるような最後でした。
先生はお若いころから植物学に関心をもたれ、高等学校時代にすでに学習院の植物目録を発表されました。この目録は東京地域では最も古い信頼できる自然記録の一つです。大学時代には無人の日高山脈を踏破し、北海道南部日高植物仮目録を発表されました。この目録は詳細な分類学的検討を経た学名の扱いによって、現在でもこれを越える水準の植物目録は現れておりません。同様な趣向の軽井沢植物目録、これらの蓄積の上にたつ日本種子植物集覧は、学名を扱うものが常に座右に置く名著であります。先生はまた染色体の研究を我国ではじめて分類学に導入され、細胞分類学の先駆者として誰もが認める実績をもっておられます。
昭和35年以降、先生は8回にわたってヒマラヤ地域の植物調査を行われました。この調査はむずかしい現地政府交渉と、熱帯から五千メートルの高山にわたる4ヶ月の徒歩旅行をともなう大変困難な旅でした。われわれが先生のあとを引き継いで初めて知ったことは、先生のようにふだんとちっとも変わらない表情で調査行を終始することは、到底できなかったということです。先生の果断な行動と的確な判断、そして極度な自己規制があって、20年間の間一度の事故もなく調査を行うことができたのだということを、最近になってわれわれはやっと気がついたのです。この、ヒマラヤ調査の収穫は多くの研究者の共同研究により「東部ヒマラヤ植物誌」に結実し、これが引き金となって大英博物館の「ネパール植物集覧」を先生が編集されることになりました。
お体が不自由になられてからも、先生の探究心は衰えず、再三にわたり中国、ブータンを調査され、また永年にわたる天皇陛下の植物研究のお相手として「那須の植物誌」の仕上げに全力を集中しておられました。突然のお迎えで先生は「まだ早いよ」とつぶやいておられることでしょう。
このお庭の植物は先生が世界各地から集められ、ご研究をなさっていたものばかりで先生が旅立たれるにはふさわしい所です。先生が研究に使われるルーペもお供につけてありますので、道々思う存分ご研究をなさってください。いつの日かわたくしたちもまたご一緒して、先生のお話をうかがう日を楽しみにしておリます。それまでほんのひと時の間ですが、お別れせねばならないことが限りなく悲しく存じます。先生さようなら。
昭和61年9月26日
門下生代表 金井弘夫
はじめてのヒマラヤ
1960年3月10日の深夜、インド航空で羽田を飛び立ったのが、私たちのはじめてのヒマラヤ行きだった。先発として原先生、津山先生、私の3人だった。行く先はインドのカルカッタだが、はじめての海外調査の行く先としては、今から考えるともっとも厄介なところだった。原先生も津山先生も海外生活は何度も経験済みではあったが、世界最悪のカルカッタ税関での苦闘は想像のほかだったろう。ヒマラヤ登山の経験者にいろいろ様子を教えてもらっていたが、彼等は荷物を封印してネパールまで輸送すればよいのに対して、われわれはインドへ荷物を輸入するということが、致命的な違いだとわかったのは後のことである。調査に同行するサーニ研究所の支援もなく、経験豊富な登山隊でも1週間はかかるという通関事務に、われわれは実に40日を費したのである。今になって当時のメモを見ても、なんでこんなに手間がかかったのかちっともわからない。1番大きな違いは、インドと日本では時間の速さが違うということだろう。
軍事的理由で辺境地域シッキムへ外人を入れたがらないインド政府と交渉するため、原先生は通関を2人にまかせてデリーに飛んだ。どうにか許可の目鼻をつけてカルカッタに戻ってみても、輸入手続きはまだ済まない。原先生は冨樫さん、和田さんと共に、何も持たずにシッキムの入りロダージリンへ飛び、早速調査にかかった。通関がすんで津山、村田、金井がダージリンについたのは4月29日だった。これで一安心と思った矢先、シッキムの入域許可が出ないという連絡が入った。5月1日には出発なのである。原先生は1人ダージリンに残った。ここから電話でラクノウの研究所を通じて、インド政府と交渉しようというのである。インドの電話はなかなか通じないし、東部と西部では時刻がちがう。おまけにホテルには電話は1台しかない。先生は電話のそばにベッドを置き、交渉を続けた。こうして5月9日に、シッキムへあと一歩というところで原先生に出合ったときには先生は入域許可を手にしていた。そのかわり、途中から引き揚げるつもりだったインド人2人が同行することになり、テントが足りなくなってしまった。
ヒマラヤの旅はいつも思いがけない事件続きだった。その次におこったのは政府の監督官が2人現れて、「俺の方が本物だ」と論争を始めたのである。下手をすると調査隊の動きがとれない事能になりかねない。この時も先生の機転の一言で2人の話合いがつき、事なく落着した。
ヤレヤレと思う間もなく今度は人夫が騒ぎ出した。「荷物がみんな重すぎる」というわけで、勝手に軽い荷物だけを持って出発してしまい、後には背負い手のない重い荷物が残される。こういうことはシェルパ頭のサーダーが指図すべきことなのだが、このときのサーダーはその器ではなかった。彼の無能ぶりはこれだけでなく山の中で食糧不足が3度もおこり、食事ぬきで歩かねばならないシェルパもいるという騒ぎだった。管理が悪くて盗まれてしまうのである。騒ぎのたびに原先生が何とかとり静めた。
それでもとにかく1番奥のジョングリまで来たら今度は同行のインド人が騒ぎだした。冨樫・村田さんの行動範囲が禁止地域を侵しており、スパイ活動の疑いがあるというのである。そんな地域の指定はされていなかったのだが、このときは仕方なく案内したシェルパ人を解雇して事をおさめた。インド入の騒ぎはもう一度あった。医師の和田さんが疲労困憊してテントから出られなかったのを、診療の義務を怠ったという抗議だった。このときも原先生が中にたって和解につとめていた。5月はもう雨期にはいっており、毎日うっとうしい雨続きで、私は不覚にも風邪をひき、高熱のため山中で皆を1週間も足止めにする事能もあった。その次の騒ぎはちょっと変わったもので、シェルパの1人がよその娘に夜這いをかけてつかまったという事件である。隊長となるとこういうくだらない事件にもいちいちつきあわねばならない。最後の大事件は冨樫さんがホルマリンを飲んでしまったというもので、要するに酒類が不足で、彼は標本用アルコールを常用していたのが、容器の形が同じホルマリンを間違えたのである。津山先生の名前が一度も出てこないが、もともと自由奔放な津山先生は、同年代の気軽さもあってか、なかなか原先生の言うことをきかない。というよりは皆の気持ちを引き立てるために、わざと事をかまえていたような気がする。そばで聞いている方は気が気でないが、先生はそういうところを察していたらしく、適当につきあったり出し抜いたりしていた。
ダージリンを出てから戻るまでの30日あまりの間に、これだけの書くに足る事件があった。小さいゴタゴタは数限りない。帰りの通関もまたひどい苦労だった。おまけに最後には金が足りなくなって、装備を売り払う羽目になった。しかし原先生が深刻な顔をしたことは一度もなかったし、当事者を責めたこともなかった。だからわれわれも、大変なことになったという意識はあまりなく、しごく楽しい調査だった。その次に東ネパールに出掛けたときにも、これに匹敵するくらいいろいろな事件に出合った。われわれがこういうことを事件と思わなくなったのは、3回目のブータンからである。けれども一度自分が隊長として調査に出かけたときに、そのときまでにはヒマラヤの調査にはすっかり慣れていたけれど、態度を少しも変えずに終始しておられた原先生の心の内がどんなものだったかということが、少しはわかった気がした。あの真似は、したくてもできない。
[原寛博士追悼の記:53-54, 163-165]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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