1967年春、東京大学ヒマラヤ植物調査隊は2ヶ月にわたってブータン国内を旅行し、植物学的調査を行った。この文は本来の学術調査活動についてはさておき、途上における知見を将来この地域に入る人々のために書きとめたものであるが、現在では事情は全く異なると思われるので記録としてお読みいただきたい。
〇入国手続、旅行許可など
ブータンの外交はインドが握っており、ブータン入国のためにはインド政府発行の国内移動許可証(Inner Line Permit)を得る必要がある。これを得る前提としてブータン政府の招請状(Invitation Letter)を入手しなければならない。従って先ずブータン政府に働きかけて招請状を得、これを片手にインド政府と交渉するという順序になる。カルカッタにはブータン政府貿易局(Trade Commissioner, Government of Bhutan)という出先機関があるが、ここはブータン政府の指示なしには動かないから、あまり頼りにするわけには行かない。
さて国内通行許可証(Inner Line Permit)を入手してしまえばブータン入国は簡単で、(Border Check Post)でそれを提示し、書類にサインをすればよい。ブータン国内においてはあまりやかましい旅行制限はなさそうである。ただしチベット国境付近にあまり近づく場合は周到な注意が必要と思う。要は国境付近で外国人が活動することによって、中印関係に影響を与えることにブータン政府が非常に用心しているのである。
リエゾンオフィサーは政府が世話をしてくれる。これはネパールのそれと異なり、労力の手配や食糧調達などをきわめて効果的に行ってくれ、本人もそれを任務としてよく働くので大変ありがたい存在である。山地旅行の許可証はリエゾン・オフィサーが所持している。後出のフンツォリン(Phuntsholing) −チンプウ(Thimphu)には数ヶ所に検問所があり証明書を要求されるので、人間及び積荷についての通行許可(Road Permit)を出発地の役所から得ておかねばならない。
〇入出国の経路
ブータンの入り口はフンツォリンである。これはアッサムのクーチ・ビハール(Cooch Bihar)の北方にあたる。カルカッタからここに達するには「Jam Air」 という貨客混載の飛行機でハシマラ(Hashimara)に行き、そこから車をやとって約40分北上する。
ハシマラはインド空軍の大基地で、全天候用の立派な飛行場があり、附近一体は軍事施設と茶畑ばかりなので行動は慎重にすべきである。ハシマラへもっと安上りに行くには汽車でシリグリ回りで行く手もある。
フンツォリンから首府のチンプウまではジープで丸1日かかる。ブータンでは宿泊設備は政府のゲストハウス以外はフンツォリンにドゥルク・ホテル (Druk Hotel)というのが1軒あるだけである。従って手早く手を打たないとゲストハウスに入れず、泊まりに困るようなことになる。
〇国内の輸送、通信、シェルパなど
ジープの通れる道路は前記フンツォリン−チンプウの他チンプウ−パロ、 チンプウ−オンディフォドン(Wangdu Phodrang)(の少し手前まで)である。この他 トンサ・チュ(Tongsa Chu)下流などにも「jeepable road」ができているそうである。注意すべきことは、ブータンにおいては自動車は全て政府管理下にあるので、これを使うには一々当局の斡旋を受けねばならない。特にチンプウには 交通局(Transportation Office)がなく、車は全部パロの指令で動くので、電話で依頼しなければならない。しかも2-3日前に申し込まないと確実にはとれないというのが原則である。便法としては車の溜り場や通りがかりの車をつかまえて短時間雇うことはできる。フンツォリン−チンプウのフンツォリン寄り一帯は急峻で雨季には多量の雨が降り、土砂崩れなどで不通になることがあるそうだ。
それ以外の道路は「mule road」であるが山奥に至るまでよく整備されており、橋もすべてかけてあって徒渉しなければならないような所はなかった(乾期での話)。
ブータン(Bhutan)は人口が少ないため、人夫を多く集めることがむつかしく、駄馬が輸送の主体となり、高地ではヤクが使われる。駅伝制のような制度があり、たとえばプナカ(Punakha)の馬はガサ(Gasa)までしか行かず、ガサの馬はリンシー(Lingshi)で交替、リンシーのヤクはチンプウまで来るという具合に、縄張りが決まっている。人夫にしても馬子にしてもスレていないので金銭上のトラブルや荷物の大小などによるトラブルはなかった。
ブータンの言葉はチベット語に近く、チベット語を知っていれば何とか通じるという。ネパール語、シェルパ語、ヒンディー語などは通じないので、シェルパにはチベット語の心得のある者が望ましい。なおブータンにはシェルパなる職業はないから、ダージリンで雇うのがよいだろう。シェルパもブータン入国には手続がいるがこれは現場で片付くことで大したことではない。
通信は城のあるところには郵便局(post office)があり、ここから手紙が出せる。東京-チンプウの航空郵便は約2週間でつく。外国行航空小包はブータン国内から出せない。電話はチンプウ、パロ、フォンツォリン間で可能である。電話は自動車道路沿いの地点間で通話できる。
〇物資の調達
山地に入ると商店は全くない。茶屋さえもない。チンプウにおいてはたいていの物は入手できるが、かなり高価である。フォンツォリンでできるだけ買って持ち込むのがよい。城ではリエゾン・オフィサーを通じて米、粉、バタ、砂糖などを入手できたこともある。それ以外の所は鶏と卵はだいたい手に入ったが、それさえ2-3日入手できないこともあった。ジャガイモの方がさらに困難である。部落があっても戸数が少ないので多人数の隊だと入手不能になるおそれがある。一方チンプウでは薪の入手がむずかしく、バザール(bazar)に行って買い付けても、それをポーター(porter)が2km運ぶのに半日かかるのが常だった。川には魚影が豊富であるが、魚は王家の所有で釣漁には許可(license)を必要とする。また住民は魚を食べないようだ。
〇気候
チンプウは南北に長い盆地で乾燥しており、マツが主要な樹木である。パロ、プナカ、オンディフォドンも同様な状態である。われわれが滞在した季節には、正午頃から強い南風が夕方まで吹くのが常であり、砂埃のためにのどをいためることがある。5月下旬には午後時々夕立があった。4月初旬で午前6時の気温はー2℃である。早朝は0℃以下に下るにかかわらず、外気はそれほど冷く感じない。霜も地表では見られない。日中は日光が強いので暖い。4-5月の2,000-3,000m附近では毎日少しづつ雨が降った。しかし4,000m以上ではよく晴れ、たまに降水がある程度でそれ以外は遠望のきく天気だった。風は前記の盆地の中以外では全く気にならないくらい弱かった。
〇地図、コースについて
1956年に米国でブータンの地図が出版されたが、これは戦前の印度測量局の地図を引き写した程度のもので、全く頼りにならない。特にガサ−リンシー地域はデタラメである。一方Wordが『Geographical Journal』で発表しているルートマップは、信頼するに足るものである。もちろん細かい点では文句をつければたくさんあるが。
現地においてコースを聞き出し、泊地の予定を立てることはきわめて困難であった。その理由の1つはわれわれが植物調査を目的としており、なるべくゆっくり歩くというモットーが、現地人の理解を超えていたためである。われわれのペースはむこうの人の3分の1か4分の1というところであり、登山隊のキャラバンとくらべても2分の1くらいのスローテンポなのである。
他の理由はわれわれの歩くコースを知っている知識人がほとんどいないこと、前記のごとく地図が頼りにならないため、距離を考慮して日程を配分することが不可能であったことによる。従って当日の泊地の選定はリーダーが人夫や馬子にきいて決めるより他になかった。通常のキャラバンならわれわれの日程の2分の1の日程で楽であり、場所によっては3分の1で済むであろう。われわれのコースに従って気のついたことを記す。
〇チンプウ−トンサ
チンプウより南下してシムトカ・ゾン(Simtoka Dzong)で支流に入りドチュラ(Dotu La)を超えてミシナ(Mishina)まで自動車道が通じている(約5時間)。この道路は近い内にオンディフォドンまで達する予定で、その城下の橋の測量が始まっている。道路の終点で駄馬をやとってオンディフォドンまで運ぶ。オンディフォドン一帯から後出のプナカにかけてはチンプウ同様の乾燥地帯である。
〇観察されたピーク
プナカから1日目のボトカ(Bhotoka)において北方にピークが望まれた。このピークは3日後のタムジ(Tamj)では見られなかった。タムジで北方に見えたのはガサの裏山と思われる、タシ・ハ(Tashi Ha)の部落から支流の奥北北東に特異なピークが見られた。これはラヤ(Laya)より東方に望まれた岩峰壁の一部であろう。
ラヤの次のキャンプ地はカンチェン・タカ(Kancheng Takha)より発する氷河の末端堆石の麓であった。ここからカンチェン・タカの全望がのぞまれた。シンケ・ラ(Singke La)は天候が悪く視界はなかった。次の日のJari Laは快晴で、360度の展望に恵まれた。北東のカンチェンタン・タカから北回りに南西 リンシー山群までの間に3つのやや低いピークがある。これは前日の泊地チャワ・ガサール(Chawa Gassar)からも望まれ、またリンシーから南下してヤレ・ラ(Yale La)へ行く道すじからも望まれた。
リンシー山群は一見して3つのピークから成り、左のピークは最も手前で大きい。これは実は2つのピークの重なり合ったものである。右側のピークは小さく低い。中央のピークが1番遠く、1番高いように思われる。この山群以外にはこの方向に目ぼしい山はなく、最も遠いピークがチョモラリではないかと思われるがよくわからない。峠の南方には目立った山はない。
ヤレ・ラから天気の具合で遠望は得られなかった。ゴク・ラ(Goku La)周囲のながめが広いが何分高度が低いために、目ぼしいピークはみな隠れてしまっていた。
〇集落
プナカ、チンプウ、パロなどの盆地には散在した集落がある。盆地以外では条件によってかなりの部落があった。オンディフォドンからトンサの間では、サムテンガン(Samtemgang)附近、ラツォ(Ratso)-リダ(Ridah)、ルクビ(Lukubi)-チェンデビ(Chendebi)、タシリン(Tashiling)、トンサ(Tongsa)などは大きな部落である。
ブナカ-リンシーではタムジ、ガサ、ラヤが主要な部落で、後はほとんどない。特にガサ-ラヤの間はタシ・ハの部落以外は人家を見なかった。タシ・ハも5月中旬にはすでに高地へ移動していて無人であった。
ラヤ-チェベチャ(Chabecha)も人家は全くないが、夏季には放牧のテントが散見されるものと思う。チェベチャ-リンシーには見かけはそうでもないがかなりの人家がある模様である。
リンシー・ゾン(Linghi Dzong)は城とはいいながらほとんど無人でわれわれの補給に応じられるほどのものではなく、周囲の民家に頼らねばならぬ。リンシー・ゾンから尾根1つ回ったところにブータン軍の国境守備隊のキャンプがある。
リンシーからヤレ・ラを越えてショドゥ(Shodu)に至る間も放牧地で定住民家はないが、ヤクテントはかなりみられる。ショドゥは森林限界より少し低い川岸で、部落の跡があるが人は住んでいない。ショドゥ-ドタナン(Dotanang)で人家に出会ったのはバルション(Barshong)のみであり、ここも小さなゾン(Dzong)の跡に人が住んでいるだけだった。地図に出ているようなレストハウス(Rest House)や部落はなかった。バルショからドナタンの間は川沿いで、何度となく左右に渡るが、橋は全部備っている。ただしわれわれの通ったのは5月下旬だから増水期にはどうなることかわからない。
〇通貨、賃金
インドルピーがそのまま通用し、奥地においても紙幣が自由に使えた。賃金は後払い。
[未発表]
元・国立科学博物館 金井弘夫 著
菊判 / 上製 / 904頁/ 定価15,715円(本体14,286+税)/ ISBN978-4-900358-62-1
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