解説
熱帯・亜熱帯植物が我が国へ持ち込まれたのは有史以前に遡ります。主食である米、大豆は中国で古くから栽培されていたもので、日本では縄文時代の遺跡から出土しています。『日本書紀』の最初に、麦、大豆、小豆の名がでてきます。これらは日本に移動してきた大陸や南方からの人々が携えてきたものに違いありません。
日本への文化の導入は、遣隋使・遣唐使などを通じて、中国や朝鮮半島からやってきました。美術工芸品や香料、医薬などが入ってきたのは正倉院の収蔵品からも伺えます。特に、植物を原料とした医薬や香料などが多く輸入され、同時に生きた植物ももたらされました。なかでも、衣・食・薬に関する有用植物が先に導入されました。
〇奈良時代〔〜794(延暦13)〕
【ナス】
ナスはインド原産の重要な蔬菜です。日本での最古の記録は750(天平勝寶2)『東大寺正倉院文書』に「藍園の茄子を進上した」記録があり、当時既にナスを作って、食べていたことが分かります。当然、もっと以前に導入された筈です。
【ミカン類】
『続日本紀』には、「725(神亀2)唐よりはじめて甘子(柑子〔コウジ〕)がきた。」「これを植えて実を結ばせた。」とあり、この頃にはミカン類の栽培が始まっていたことを示します。柑橘はアジアの温暖な東南アジアからヒマラヤにかけての原産とされ、熱帯・亜熱帯域のものです。なお、959(天徳3)には「日本原産の種類、橘の樹1本を紫宸殿の坤(ヒツジサル:西南)角に移植して右近の橘〔タチバナ〕」とした記録があります。花の香りが高く、綺麗な実が成る常緑の樹だからでしょうか。
〇平安時代〔794(延暦13)~1192(建久3)〕
【ワタ】
衣料原料として重要な綿は799(延暦18)に「崑崙人が三河国に漂着し、草綿の種子をつたえる。諸国に下賜して、播種させる」の記録があります。しかし、それは絶えたらしく、後年の安土桃山時代になって再び導入されてから、はじめて普及したものと思われます。綿が普及するまでは、絹を使った上流階級は別として、一般の人々は麻の着物を纏っていました。
【チャ】
茶は中国の亜熱帯地域の奥地が原産です。初めの頃は薬として、あるいは今日いう健康飲料として使われたのでしょう。815(弘仁6)「畿内ならびに近江・丹波・播磨の諸国に命じて茶を植えさせ、毎年それを朝廷に献上させる」とあります。その後、1191(建久2)「僧栄西が宗に亘り、帰日の際、茶の種子を持ち帰り、筑前国背振山に植える」の記録があります。この頃から次第に一般に広まったのでしょう。
いっぽう、観賞植物の導入は遅れ、鎌倉時代になってからやっと記録が見られるようになりました。植物を観賞するのは衣食が足りて、余裕ができた後のことだからです。
〇鎌倉時代〔1192(建久3)~1336(建武3)〕
【ウドンゲの花】
1223(貞応2)夏、薬師堂の坊の前庭に優曇花(ウドンゲ)の花が咲いたという風聞が広まり、鎌倉中の男女がそれを見に群をなした。それは芭蕉〔バショウ〕が開花したもの(吾妻鏡)とあり、当時中国原産とされるバショウが既に渡来していたことを示しています。バショウは葉が脆くて破れやすいために庭に植えるのは縁起が悪いとして「庭忌草」の名もあり、神社仏閣以外には植えられなかったのです。従って、その開花は珍しいことに違いなく、縁起の悪い「庭忌草」に一旦花が咲くと「優曇花」などと呼ばれ、縁起の良いことに転化しています。今日でもありそうでなかなか興味深いことです。
ついでですが、万葉の歌には「朝がほ」とされた秋の七草の桔梗(キキョウ)はその読みから「気狂」を連想して縁起の悪いものとされました。南天(ナンテン)が「難を転ず」として縁起の良いとするのと同じです。
〇室町時代〔1336(建武3)~1603(慶長8)〕
【京都の花木】
1489(延徳1)関白一条兼良の著と伝えられる『尺素往来』には、京都で当時植えられていた鑑賞植物名があげられています。その中には中国や朝鮮から導入されたと思われる種類もあります。花木としては、ニワザクラ・ボタン・ジンチョウゲ・アンズ・コウシンバラ・ザクロ・フヨウ・モクセイ・バショウなどが挙げられます。この中で暖地あるいは亜熱帯の種類はフヨウ・モクセイやバショウなどでしょう。これらは京都の戸外で何とか越冬可能な種類です。反対に京都で何らかの保護が必要と思われる熱帯あるいは亜熱帯系の種類は残念ながら見あたりません。(*1 ▼)
【中国の花木園芸と日本】
これより約400年前、中国の『洛陽花木記』(1082)によると、ボタンは高貴な花、花の中の王とされていました。様々な園芸品種も多く、牡丹103品種、芍薬41品種やさまざまの花木・果樹が挙げられています。その中には洛陽では戸外で越冬が困難と思われる種類、例えば素馨花〔ソケイ〕夜合花〔トキワレンゲ〕抹厲花〔マツリカ〕佛桑花〔ブッソウゲ〕紅蕉〔ヒメバショウ〕赬桐〔ヒギリ〕などが含まれます。中国では既にこの頃、これら熱帯・亜熱帯系の花木を保護し、冬を越させる技術があったことを示唆しています。
これらの花木はもちろん、当時日本への贈り物として海を渡って来たに違いありません。しかし、日本で牡丹をはじめ上記の種類がもてはやされるようになったのは、ずっと後の江戸時代になってからです。『花壇地錦抄』1695(元禄8)には牡丹484品種が挙げられています。その多様性からして、日本に渡来してから後、椿、櫻、躑躅、などと同様に盛んに品種改良が行われたことがうかがえます。
〇安土桃山時代〔1573(天正1)~1603(慶長8)〕
室町時代から安土桃山時代への時代の流れの象徴としては、1543(天文12)年に、ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝えました。日本は西洋から押し寄せる近代技術に接触することになったのです。交通手段としての船舶の旅ははるかに早く安全になり、もっと遠い国々とも交通が開けたのでした。
【伊吹山の薬園】
織田信長は1570(元亀1)伊吹山に薬園を拓かせ、西洋の薬草3000種を移植したと伝えられます。来日したポルトガル人あたりから学んだものと思われますが、この数字は相当誇張したもののようです。
〇江戸時代〔1603(慶長8)~1867(慶応3)〕初期
【熱帯・亜熱帯花木の渡来と園芸家】
1614(慶長19)島津家久が琉球産の佛桑花(ブッソウゲ)及び茉莉花(マツリカ)を徳川家康に献上しました。これは薩摩藩が、同年琉球を攻略し、大島諸島がその所管に帰した謝礼として献じた品物の中に含まれます。ブッソウゲは花が深い紅色であるのが最も貴く、花が開いたとき単弁なのもよいとされました。茉莉花(マツリカ)は香りがよいので今日でも人気があります。
間もなく、1635(寛永12)には鎖国(海外渡航、帰国の禁止)が始まりました。それに伴って外国からの植物の導入の門も極めて限られたものになりました。しかし、医薬の知識や材料の必要性はますます重要となり、漢方が主流を占めることになります。江戸時代には外来の植物に関する多くの著述が見られますが、その多くは本草家による薬草・薬木が中心で観賞植物に関するものは決して多くはありません。
やがて、時代が経つにつれて園芸家による栽培に関する書物も出てきました。例えば1681(天和1)水野元勝『花壇綱目』(初の花卉園芸書)、1695(元禄8)伊藤伊兵衛(三代目)『花壇地錦抄』(園芸植物の種類、培養法を著述)、1698(元禄11)貝原篤信(益軒)『花譜』、1710(宝永7)伊藤伊兵衛(四代目)『増補地錦抄』、1719(享保4)伊藤伊兵衛(四代目)『広益地錦抄』〔園芸書〕、1733(享保18)伊藤伊兵衛『地錦抄附録』などがあげられます。
【熱帯・亜熱帯花木の越冬技術】
東南アジア原産のアサガオのように、基本的には熱帯植物といえるものが江戸時代に鑑賞園芸品として素晴らしい発展を遂げた記録もあります。しかしアサガオは日本の冬は種子で越冬できるため、寒さについての問題はクリアできる種類です。
いっぽう、花木のように苗木のまま冬を越さねばならぬ種類は防寒や暖房の設備がなかった時代では、枯れてしまう場合が多かったのです。前述の徳川家康に贈った佛桑花(ブッソウゲ)や茉莉花(マツリカ)は間もなく枯れ、絶えてしまったと思われます。当時の知識や技術は貧弱だったのです。なお、これらの種類はその後何度も繰り返し導入が図られています。
【熱帯・亜熱帯花木が薩摩に】
1645(正保2)三段花(三丹花)〔サンダンカ〕が琉球より薩摩に渡来しました。そのほかに琉球ツツジ、棕櫚竹〔シュロチク〕、レダマなども導入されました。1659(万治2)年、薩摩藩は薩摩半島の南端、山川に龍眼山をつくり、竜眼〔リュウガン〕茘枝〔レイシ〕橄欖〔カンラン〕などを植えました。これらは元来薬木として導入されたのですが、リュウガンやレイシは今日では果物としても高く評価されています。薩摩ではこれらの亜熱帯の有用種を順化する計画を立て実行しました。今日、大隅半島の南部ではレイシの経済生産が行われています。祖先の努力の恩恵を受けているといえるでしょう。
【熱帯・亜熱帯花木が次々と渡来】
1673~1680(延寶)年中に来たものに唐桐(ヒギリ)、玉蘭花・大山蓮花〔ウケザキオオヤマレンゲ?〕、唐椿〔トウツバキ〕、エニシダがあります。続いて1681~1687(天和貞享年中)に美人蕉〔ヒメバショウ〕、柊南天〔ヒイラギナンテン〕、さらに1688~1703(元禄)年中には天竺蓮花〔モクレンの一種?〕、モクゲンジ(木欒子)など、1695(元禄8)『花壇地錦抄』には、唐桐または緋桐〔ヒギリ〕、沈丁花〔ジンチョウゲ〕、だんどく〔カンナ〕などとあり当時既に植木屋で取り扱っていたのが解ります。さらに、1710(宝永7)『増補地錦抄』には、佛手柑〔ブッシュカン〕、さんほてい〔サボテン〕、珊瑚樹茄子〔フユサンゴ?〕などが登場します。
このようにして、熱帯・亜熱帯花木は琉球から薩摩を経て、あるいは長崎、京、大阪から江戸へ伝わっていきました。
【大和本草と和漢三才圖會】
1709(宝永6)貝原益軒『大和本草』に、「南方の諸外国は風土が温暖・暑地で草木の多くの種類が繁殖している。その奇妙な花や珍しい樹などが、往々にして夏の暑い時期に日本に来るものが少なくない。ワタ、タイトウゴメ(赤米)、サツマイモ、ソテツ、カボチャ、それにさまざまな香木、そのほかにも多くある。」と述べています。
1713(正徳3)寺島良安『和漢三才圖會』は本邦最初の百科辞典で、植物には多くのページを割いています。香木類56項目、喬木類67項目、灌木類90項目、木本、草本、シダ、キノコなど、合計約1067項目に達します。
この中には、既に薩摩に入っていた竜眼・茘枝・橄欖なども含まれます。花木に類する赬桐〔ヒギリ〕、扶桑〔ブッソウゲ〕、木芙蓉〔フヨウ〕、茉莉〔マツリカ〕、芭焦〔バショウ〕、美人蕉〔ヒメバショウ〕、使君子〔シクンシ〕などは既に日本に入っていたものです。
また、熱帯・亜熱帯系の樹種として沈香・丁子・肉荳蔲・檀香・没薬・安息香など当時の香木・薬木などが登場していますが、生きた植物を見て記したとは考えられません。
この辞典の面白い例として、江戸時代の落語にも取りあげられた返魂香〔ハンゴウコウ〕があります。「返魂香」は一名霊香、返魂樹は西域のもので、木の姿は楓に似て、花葉の香りは百里の遠くに届く。その根を掘って煮詰めると漆のようになる。この豆粒程を燻らすと百里に漂い、病死して三月たたぬ者は皆生きる。生を返す神薬である、といいます。
【享保年中の渡来植物】
1716~1735(享保)年中に渡来した種類は、時計草〔トケイソウ〕、南京柘榴〔ナンキンザクロ〕、唐楓〔トウカエデ〕、甘蔗〔サトウキビ〕が記されています。そして、トケイソウ、ヒメバショウについては特に詳しく述べ、園芸家の強い興味を惹いていたことがわかります。ほかに、茶蘭〔チャラン〕、琉球躑躅〔リュウキュウツツジ〕、シュロチク、風車〔カザグルマ〕、蓮玉〔レダマ〕、それにあんじゃべる(今日のカーネーション)の名があります。
【サンダンカやブッソウゲの越冬の困難と園芸家】
サンダンカ(サンタンカ)は、沖縄の三大名花の一つに挙げられるもので、今日では鉢植えとしても切り花としても身近な代表的花木です。『地錦抄附録』1733(享保18)によると、1645(正保2)に入ったが、寒さに弱く、栽培法が不案内のため枯れて絶え、近年の享保年間(1716~1730)になって再び導入された。また、ブッソウゲ(扶桑花)も寛文年中(1661~1672)に琉球から来た由だが、冬に枯れてなくなり、1723(享保8)に再び来た、と記しています。
このように熱帯・亜熱帯性の花木は、越冬の困難さによって枯死させてしまうこともしばしばでしたが、我々の祖先は繰り返し試み、技術や設備の改良を加えて次第に定着させたのです。
1733(享保18)伊藤伊兵衛『地錦抄附録』では園芸家の考えを次のように興味深く述べています。「草木の種類は数多あって尽きるものでない。大昔あった花は今日でも変わらず花を咲かせる。人が眺めた後、またしばらくしてほかの人が眺めることになる。前の人が見てもう古い花だというものを、今の人は珍花だと感心する。今の人が時代遅れ花として見向きもしないのを、後生の人が見ると珍花というだろう。万治・寛文の頃に渡来した花が途絶えて、今日再び渡来したのを見て、珍花だというのと同じである」と、あります。古今東西、人の心の機微に触れているではありませんか!
〇江戸時代中期
【渡来植物の越冬と植物の定着】
江戸の花戸(植木屋)では寒さに弱い植物を横穴の中に入れたりして越冬させていました。1735年になると油障子を使った唐室(トウムロ)が考案され、耐寒性の弱い草木の栽培が次第に容易になっていきます。
1736(元文1)には、鑑賞植物ではないが我々が日常目に触れることの多い孟宗竹(江南竹)が琉球より鹿児島に導入され、島津藩主の磯の別邸内に植えられました。それがうまく育ったので、江戸の島津藩邸に移植し、後日全国に広がりました。
1765(明和2)島田充房・小野蘭山『花彙』は葉の裏面を黒くして、立体感を出した独創的な描法で正確に描かれています。ここに載せられた種類は当時栽培されていたものに間違いありません。亜熱帯的な花木としては(大型草本を含めて)、紅蕉〔ヒメバショウ〕、西蕃蓮〔カンナ〕、玉金〔ウコン〕、留求子花〔シクンシ〕、花柑〔ブッシュカン〕、瑞聖花〔サンダンカ〕、照殿紅〔ブッソウゲ〕、半年紅〔キョウチクトウ〕、百日紅〔ヒギリ〕、鷹爪〔レダマ〕、暗麝〔マツリカ〕などがあり、これらの種類の栽培に関しては「性質は寒さを非常に恐れる。冬には早く暖かいところに収めて、霜や雪を避ける必要があり、早目に穴蔵に貯蔵する。」などと注意を喚起しています。
その中でも、種類によって耐寒性に差があることを示しています。比較的耐寒性に富むキョウチクトウでは「性寒ヲ畏ル霜前屋下二収ムベシ或ハ樹陰二移シ植テ亦自ラ年ヲ経ベシ」、シクンシでは「本土ニ産セズ移シ来テ往々盆二上ス性寒ヲ畏テ長大ナラズ」と記し、マツリカは「尤モ寒ヲ畏ル宣シク霜渡暖處二収蔵スペシ」、ブッソウゲでは「甚ハダ寒ヲ畏ル冬時密蔵シテ早ク霜雪ヲ避クベシ」とあります。中でも、サンダンカは「近歳南土ヨリ移シ来ル然レモ甚霜雪ヲ畏レテ冬ヲ経ガタシ」と越冬については匙を投げるような書き方です。まさに栽培の経験があってこその正確な表現です。
【琉球の熱帯・亜熱帯植物への関心と渡来】
当時、琉球王国は一番近い外国でした。そして薩摩は当然そこの産物に強い興味を持っていました。1770(明和7)田村藍水による『琉球産物誌』は4年前の1766(明和3)に出された中国の徐葆光著『中山傳信録』の影響を受けた、邦人によるはじめての琉球植物誌です。そこには野生及び栽培種が載っています。熱帯・亜熱帯性の花木としては、デイコ、サンダンカ、ブッソウゲ、マツリカなどがあり、いずれも栽培種です。
1785(天明5)年、薩摩藩の薬園署編述『質問本草』には、デイゴをはじめ、ゴモジュ、テンノウメ、シクンシ、フトモモ、サガリバナなど鑑賞にも堪える種類が載せられています。これらの種類は少なくとも薩摩(奄美を含む)に入っていたといえるでしょう。
その後1800(寛政12)年、佐藤成裕『流虬百花譜(リュウキュウヒャッカフ)』によると、沖縄原産のノボタンやテンニンカなども既に江戸で栽培されていました。当時、琉球から日本に出す産品の中には珍草奇木、珍禽奇獣などがあり、野生・栽培種を含めてそれらは交易品として使われ、京大阪や江戸で栽培し、取り引きされました。
〇江戸時代後期
【園芸熱の爛熟と珍しい熱帯・亜熱帯植物の導入】
文化文政の時代(1800~1830頃)、町人芸術は爛熟の極に達し、地方文化も盛んになった時期とされます。例えば、一般町民の朝顔や桜草の園芸熱も盛んになりました。1804(文化1)江戸墨田川の東に百花園を開き、梅360余本ほか多くの花卉草木を収集して人々に見せました。ここは現在も向島百花園(名勝・史跡)として残っています。
1814(文化11)躋壽館薬品会での陳列盆中の記録に、〈地湧金蓮〉が見られます。この植物が今日の地湧金蓮、バショウ科で中国雲南産の植物Ensete lasiocarpum〔エンセテ・ラシオカルプム〕と同じとすると、この種は十数年前に初めて中国から導入され、日本で初めて花が咲いたというニュースはひっくり返され、実はもう190年位も以前に日本に入っていたことになります。前述の『地錦抄附録』の記述が思い出されます。 1823(文政6)琉球から長崎へエラン(薩摩で栄蘭と呼んだといいます)不灰木、阿咀泥・阿呾呢(琉球で当時アタテと称したという)即ち、アダンの生木が来たのですが、一名鳳梨ともされ、その果実の形が似ているためにアダンとパイナップルとの混乱もあったようです。
江戸時代の末期になると、欧米諸外国との窓もひらけてきました。英国の園芸家フォーチュンは1860(万延1)に来日して多くの花木や種子を持ち帰りました。その際、江戸染井の植木屋で、寒い冬の間弱い植物を保護するために、棚のある小屋があり、鉢植えにしたサボテンやアロエのような南米の植物を見たようです。そして「かわいらしいフクシアの種類があったが、また別の外来種も目についた。」と述べています。この南米原産のフクシアはヨーロッパでは既に鑑賞植物として有名だったのですが、暑さに弱く、日本での夏越は今日でも困難です。それが当時、ヨーロッパからインド洋あるいは太平洋を渡って遠く日本に到着し、うまく栽培されていたということは、当時の栽培技術がかなりすぐれていたものと感心させられます。
一般にフクシアの渡来・導入は大正の初め以後(1910頃)とされていますが、実はそれよりも約50年も前に江戸の植木屋の店先にあったという事実は、フォーチュンがチョット書き留めていなければ解らなかったことです。
文字や絵画などの証拠さえ残っていない多くの歴史が水面下にあり、今日我々の目に入るのはほんの氷山の一角にすぎないのです。当時、ほかに欧州でつくられていた観賞用のかなりの種類が既に日本に入っていたことも伺えます。(*2 ▼)
註:文中の〔 〕内は筆者が書き入れたものです。植物の漢字名は書物によって同名異種、異名同種の場合がしばしば見られます。外国産の植物に適当な和名を入れることは困難ですが、ここでは適当と思われる現代の和名に当てました。そのほか疑問のあるものには?をつけました。しかし、誤り、あるいは適当でないものは今後訂正するつもりです。ご指摘いただければ幸いです。
- (*1)北村四郎『北村四郎選集Ⅲ』(1987)
- (*2)ロバート・フォーチュン(三宅馨訳)『江戸と北京』(1969)昭和44(原著1863)
坂嵜 信之
(注:本文中、Web上で表示できない漢字は置き換えまたはカナ表記とさせていただきました。)
坂嵜信之 編著
尾崎 章・香月茂樹・清水秀男・橋本梧郎・花城良廣・毛藤圀彦 共著
B5判 / 上製 / 1,224頁 / 定価64,900円(本体59,000+税)/ ISBN4-900358-44-4
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