まわりまわって ユリノキが、日本列島に渡来した。
それから百余年、
みえない多くの先輩たちの手によって、
発芽し、大きく育ったユリノキたちがいる。
頑張れ、ニッポンユリノキ。
一、日本渡来考
○伊藤圭介説と田中芳男説
日本で最初のユリノキは、だれの手によって、いつごろ導入されたのであろうか……………。この興味ある問いに答えるため、ひろく記録をあさったが、結局、田中芳男と伊藤圭介の二氏と、新宿農学所とが浮かんできた。
田中芳男(一八三八~一九一五)は長野県に生まれ、伊藤圭介に物産学を学んだのち、徳川幕府と明治新政府につかえたが、その間に『有用植物図説』を世に出したほか、ビワの品種改良を手がけ、タナカビワの有名種を作出した人である。晩年には貴族院議員に選ばれているが、殖産功労者として日本経済の発展につくした功績はまことに大きい。
明治六年(一八七三年)、オーストリアの首都ウィーンで開催された万国博覧会に、氏はたまたま派遣団員のひとりとして渡欧したのだが、帰朝に際してユリノキの種子を持ち帰り、新宿農学所において発芽培養に努めたという記録が残っている。これによると、日本最初のユリノキは、原産地アメリカからヨーロッパを経て、地球を東回りして入ってきたことになる。
いっぽう他の記録には、田中芳男の師である伊藤圭介翁の名が記されている。導入の年は同じ明治六年となっているが、氏が自宅においてユリノキの苗木づくりに成功したという記録である。それに至るまでの経緯を資料のなかにたどってみよう。
伊藤圭介(一八〇三~一九〇一)は、わが国で最初の理学博士の栄誉を与えられた学者として知られるが、尾張の国、いまの愛知県名古屋に生をうけ、はじめ医学を修めて開業するかたわら、本草学を水谷豊文に学んだ。
これより先、氏とシーボルト( Philipp Franz von Siebold )との出会いがあった。文政六年(一八二三年)に長崎のオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開いて医学と博物学を教えながら日本植物を研究したシーボルトから、氏は、ツンベルグが著した『日本植物誌』をはじめとする数々の著書を贈られた。
これらの著書が機縁となって、伊藤圭介は、日本植物界に洋学を土台にした最初の植物研究者として登場することになる。リンネのラテン語による学名を付記した本邦最初の著書『泰西本草疎』や、『日本産物誌』『小石川植物園誌』などを世に出し、東大教授の要職について、わが国の本草学の草分けとして最高の地位を占めた植物学者である。
さて、明治新政府は文部省の設立にあたって、欧米から学者を招き、わが国の教育制度の確立をはかることになった。そして明治六年、アメリカからモレー( David Murray )博士が夫人同伴で来日し、学監として東京都本郷の加賀屋敷に居をかまえた。
明治の初期に、日本学制の基礎を築いたといわれる田中不二麻呂をたすけ、わが国の教育界に多大の功績のあったこの米人学者は、まもなく伊藤圭介の業績を伝え聞いて、自国産のユリノキの種子を氏に贈った。
珍しい樹種を手にした伊藤圭介は、大喜びでこれを東京市本郷区真砂町四一(現在の東京都文京区本郷四―二二―一五)の自宅に播いて育苗にあたり、苗木づくりに成功した。
こうして氏の邸内に育った何本かの苗木が、のちに新宿農学所へ植え替えられることになる。これが、わが国土にユリノキが根を張った最初である、との文献が残されている。
○不発芽に終った第一号
以上の二つの記述によると、田中説と伊藤説はともに、いずれも新宿農学所にかかわりがあることでは一致する。
しかし、新宿農学所では明治五年ごろから、海外よりさまざまな樹木の種子の導入をはじめており、もし、そのきわめて初期に、導入した樹種のなかにユリノキが含まれていたとするなら、最初の日本渡来の地は、新宿農学所のある新宿御苑となる。だが、これを確かめうる資料は見当たらない。
ところが、たまたま奥山春季著『最新園芸辞典』の第六巻第三編に、「明治六年ごろ、米国より伝わりし種子を播きしもの伊藤圭介翁邸にあり、また小石川植物園にも大樹あり、こは東京学士会院雑誌に記載するところなり」の一文を見つけた。
やがて、その関係部分のコピーが、桜木係長を経由して私の手元にとどいた。それは、明治三二年六月一日の東京学士会院雑誌・第二一編の六(三〇一~三〇二ページ)に載せられた記事で、初めに「第二一二回例会の際、聴衆に示されるものなり」と注記した、つぎのような内容であった。
雑録 『百合樹』 東京学士会院会員 田中芳男記
………(略)………其始めて我邦に伝はりしは明治八、九年の頃にして、即ち当時米国より伝はりし種子を播きしもの、後、生長して今日に至りしなり。今茲に持参せしは伊藤圭介翁の邸に在るものにして………(略)………
ここでは、導入が明治八、九年とされている。
そして、同号の彙報(三〇五ページ)には、明治三二年六月一一日の例会の講演に参集した一二二名の人たちの前で、伊藤邸から採取してきた枝を携えて、田中芳男が「百合樹の実物に解説を附して聴衆に示し」、二〇分間にわたって詳細にユリノキの性状を述べたことが記載されている。
学士会院雑誌の記事をひととおり読み終えて、ふと私は疑問にとらわれた。田中芳男はこの講演で、なぜ伊藤邸からサンプルを採取してきたのだろうか、どうして氏は、かつて自らがウィーンから持ち帰って育苗したユリノキを用いなかったのか……、と。
そこで、当日の氏の講演の草稿である『百合樹』の記述を再び読み返してみた。
此樹は土厚朴(ホオノキ)の如く葉出て後に六弁の花を開くも、其形小さくして数少く、且つ其色淡黄なるを以て更に人目に触るることなく、漸く実の熟して落つるに及び、初めて之を知るに過ぎず。而して其実を下種するも発生することなきは、未だ之を精研せざれば其の如何なる理に基くやを知らず。
凡そ植物の葉は末の尖れるを常とす。然るに此葉は末尖らずして却て陥凹せるは奇と謂ふべく、世界中に稀なる現象なり。
ユリノキの葉の説明は、その特徴をうまくとらえていて絶妙だが、そのことはさておいて、私か目をとめたのは「その実を下種するも発生することなき……………」という箇所であった。
この一節は、田中芳男がウィーンから持ち帰ったユリノキの種子が、いずれも発芽しなかったことを暗に述べているのではないだろうか。去る明治六年、氏が帰朝して新宿農学所で播いた種子は、おそらく不発芽に終ったのであろう。日本に根をおろした最初のユリノキは、氏の手によるものではないように、私には思われる。
あとは伊藤圭介翁の邸内か、新宿農学所のどちらかを、わが国最初のユリノキ定植の地として同定できればよいのだが、すでに明治は遠く、新宿農学所の育苗の事実とその年月を示す資料が見当たらない。
ひとまず、ここでは伊藤圭介翁の手で育成されたものが、日本の第一号のユリノキとしておきたいように思う。そうだとすれば、ユリノキの原産地のアメリカから、明治初期に教育学者モレー博士の手によって渡来した一粒の種子は、その教育精神とともに、いまもわが国に生き続けていることになる。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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