三、天然林に生きる
○天然更新できない理由
ユリノキの美林のある場所としては、アパラチア山脈の南部にあるアレゲーエー山( Alleghaniea Mt. )の麓一帯に発達した渓谷地帯があげられる。この一帯は、ユリノキ分布の中心地域に含まれていて、ユリノキが群小の木々を従えてそびえ立っている。
シェンクは、このアレゲーニー山麓をつぶさに歩きまわって、ユリノキの自然更新についてわれわれの常識を破る意外な事実を発見した。すなわち、アレゲーニー山麓の天然林においては、ユリノキの自然更新は存在しないというのである。
それは、ユリノキが混交しているどこの天然林でも例外なく、実生による稚樹も、数年を経た幼齢木も、また成木すらも全く発見できなかったからだ。
樹齢が尽きて自ら倒れたユリノキの根株や、あるいは、他の倒木が寄りかかってユリノキの樹冠が樹冠層のなかに埋め込まれたり、それが朽ち落ちる時に幹や枝でもぎとられて樹冠を失ったりして栄養が停止し、やがて枯れたと思われる根株などからも、萌芽らしいものがほとんど見られない。
たまに出ているものがあっても、その萌芽は一本にとどまり、まことに元気がなく、いつ周囲の樹木に被圧されるかわからない様相を呈していたという。
だから、巨木となったユリノキは、その林内では繁殖力がゼロであり、後継木をつくることができないというのである。
この原因の主なものは、ユリノキの種子のほとんどが粃であること。また、たまたま発芽しても、他の植物に覆われると、自分の力では一人前に育ち得ないことである。巨木となる性質を秘めながら、幼芽の時期にかよわいのは、ユリノキが強度の陽性植物だからであろう。
天然林の中のユリノキは、いかに不稔度が高いといっても、毎年、数万から数十万粒の種子を地表に落としているのだから、他の樹種のように天然下種による更新があってもよさそうだが、現実には決してそうはならない。
しかし、天然林のなかに、何かの原因で、自然に疎開の状態になった場所、あるいは倒木などで、間伐がおこなわれたのと同じようになった場所では、状況は一変する。たとえば、樹冠の巨大な木が朽ち倒れるか風倒木となって部分的に疎林地ができた場所や、間伐した材を運ぶ木ぞりが頻繁に通ったと見られる跡、木樵たちの宿舎や馬小屋の跡地とその周囲などに限って、ユリノキが盛んに更新していた。
シェンクは、さらにつぎのような事実を述べている。
一八六〇年代の南北戦争において、アパラチア山脈をおおう天然林は、南軍のゲリラ隊の隠れ家としても、食糧の隠し場所としても、まことに恰好なものだった。
南軍が炊事をした焚き火の跡や、食糧庫を建てた跡地などに限って、他の陽樹のあいだに混じって点々とユリノキの幼木が発生していた。
このような場所の林相は、まだ本格的な天然林が成立していなくて、生存競争に打ち勝った他の種類の陽樹の仲間とともに、天然林独特の樹間密度の範囲内で、ほとんどが個樹として存在していた。
将来は林の貴族となるべき一本のユリノキは、幼苗期から若齢期にかけて、自分と同じ母樹から生まれた多くの兄弟姉妹を失いながら、他の多くの樹木たちとの被圧争いを勝ちぬいて天然林内の個樹となるのである。
このような天然林の成り立ちは、ひとりユリノキに限るものではなく、天然林の構成樹となる他の高木たちもほぼ同じ経過をたどるから、結果としては、お互いが個々に離れて存在することになる。それらの間につる性の植物と陰樹類がしだいに増加して、天然林が形造られてゆく……。
天然林を構成する樹木たちは、天の配剤の理法にしたがって常に調和を保ち、お互いに他の樹種との混交のかたちで更新し、すべての植物がそれぞれの天与の特性をあらわして、永遠に天然林の生命を後世に伝えつづけるのである。
○世紀末をむかえたユリノキ
現在、アメリカの天然林のユリノキは、全体的に見て幼齢木も壮齢木もほとんど見られないばかりでなく、ここかしこに繁っていた成木の小林分さえも各所で消失しつつあるという。
すべての生きとし生けるものの宿命として、その種族の繁殖能力には旺盛期と衰退期があるし、加えて自然環境に対する抵抗力の差異がある。繁殖能力の変化は一万~一〇万年以上を単位とし、永い年月を周期として浮沈を繰り返すものといわれる。これは生物進化とも大きいかかわり合いがあり、進化の方向と並行して、下降または上昇をたどることもあるという。
学問的には不明だが、生態学者のあいだでは、「ユリノキは衰退もしくは衰退期にあるらしい木」とされていることは事実だ。その理由の根拠に、まず不稔種子の混入割合が極度に高いことがあげられる。
毎年、数十万余の実をつけながら、そのほとんどが不稔粒、つまり胚乳も胚珠ももたない粃が多いという現実は、不稔性( sterilis )が原因だともされている。
ユリノキの多花性は、これらを補うためのものと考えられないこともない。となれば、ひとつひとつの花の影に自己保存への精いっぱいの努力が秘められていて、あまりにも痛々しく感じられてならない。
つぎに、衰退または衰退期にある樹木に共通する傾向として、不稔度と樹齢との関係をあげている学者もいる。
私の長年のユリノキの実生実験の結果では、一〇~一五年生くらいまでの若木には粃が多いが、以後はしだいに稔度が高まって三〇~五〇年のあいだは横ばい、その期間が過ぎると年によってバラツキが明らかになり、やがて混入する粃の増加率が徐々に大きくなってくる。
日本のユリノキの有胚種、すなわち完全粒が混入する割合はアメリカのデータより低く、最大で一一・七パーセント、最低で一・七五パーセント、平均すると五・八パーセントであった。私は、いまだに一二パーセント以上の完全粒を含んだ種子を採集した経験をもたない。
さらに、ユリノキは樹齢が増すにつれて硬実種子( Hard seed )の混入する割合が多くなり、著しい場合は四〇パーセントを超す。
発芽して間もない苗畑の稚苗を、なるべく床土を荒らさないよう、ていねいに採苗したところ、翌年にほぼ同数の稚苗を得たという事実は、これを証明して余りある。数年間そのまま放置して同じ実験をつづけたが、発芽してくる苗数はほぼ等比級数的に減じた。
この強い硬実性が、樹木の衰退期と何らかの関係があるだろう、との説をなす植物生理学者や遺伝学者がいる。
ここで再びシェンクの著述の一部を紹介しよう。
私が最初にアパラチア山脈を訪れたのは、南北戦争が終って三〇年ほどあとであった。
ある日、天然林のなかに珍しく広々とした空地を発見した。地元の案内者は、南北戦争のとき、野戦に備えて多数の兵士たちがかなり長期間に屯した所だと説明した。
そのときは何気なく通り過ぎたが、そののち約三〇年を経て再び同じ場所を訪れて、状態の変化に驚きの目をみはった。その空地には、通直な幹をそろえたユリノキが一面に林立しているではないか。再三見直したが、みごとなユリノキであった。
ところで、天然林内で二次的に生育している孤立したユリノキを観察すると、五〇~六〇年で樹高は三七メートルには達し、幹径は四六~六一センチメートルの範囲であった。例外なくまっすぐな幹を美しい姿で力強く天空に伸ばしており、常に上層木の地位を保っていた。
とくに痩せ地の森林のなかの幼いユリノキで、根に根瘤菌( Rhizobia )をつけて栄養の補給を巧みにうけていたマメ科の樹木、たとえばニセアカシア(ハリエンジュ)などを下木としている場合には、その年に出た一年枝の伸長がよく、大葉をたくさんつけて葉色の濃いものが目立っていた。
また、急な傾斜面では地滑りがよく発生して、岩石がむき出しにされてしまう。そこに、長年にわたって寒気と凍結を繰り返すあいだに、いつか霜穴といわれる凹地ができる。この霜穴に風化した土壌が集まって堆積するわけだが、このような場所に出現するユリノキをよく見かけた。
このシェンクの記述は、偶然の更新を唯一の頼りとしているユリノキに手を貸して、ユリノキを幾分でも増殖していきたいと願う北アメリカ東部の林業家にとって、貴重な資料であろうと思われる。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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