六、花蜜
○一花に小匙一杯ほどの
花は、あらゆる植物が自種を存続し、さらにその増殖を図るための、まことに静的な生殖器官である。どの植物でも、それぞれが異なった独自の彩りと姿とをそなえて、他と違った匂いの花を開く。そして、虫媒花の場合には、さらに花蜜という客膳を奥の間に供えて、受粉媒介者である昆虫類を誘いこむ。
かつては、田や畑には、咲く花に埋まりながら数多くの昆虫たちが蜜を求めて群がり飛んでいたものだ。田の面をピンク一色に塗りつぶしていたレンゲソウ。畑いっぱいに黄色の花を厚く敷きつめたようなナタネ。そのあとには、可憐に咲く夏ソバや秋ソバの白く小さい花……………。
こうした田園の風景は、いまでは遠い彼方に去ってしまった。
このような時代の変化が養蜂家たちに与えた影響は大きく、戦前にくらべて採蜜量は約半分に激減しているという。それでも、少しでも多くの蜜を集めようと、九州から北海道まで花を追って長い旅をくりかえしている養蜂家も少なくない。
私の地元である岩手の養蜂家の間でも、いまでは数カ所に転飼する場所を持つことが普通とされていて、蜜場を持たないかぎり食っていけないとこぼしている。一カ所にじっとしていては、蜜蜂たちが越年するのに必要なだけの集蜜量さえ危ぶまれる状態だという。
そこで養蜂家たちは山の木の蜜を探しもとめて、奥山へ奥山へと入って行く。だが、ここもクリの花が咲く六月の中ごろまでで、そのあとは、東北の山野にわずかに残っているシナノキ(マダ、あるいはマンダと言われている)の蜜や、思い出したように年を置いて流蜜の多いハリギリ(ウコギ科に属し、センノキとも呼ぶ)くらいである。しかし、これらでは当てにするほどの採蜜量を得られない。秋口になって咲くヤマハギの蜜も、昔の萩山の殆どが人工草地に変わってしまった現在では、微々たるものである。
なお、クリの蜜は、褐色で濁りが多いうえに結晶しやすく、独特の臭気をもっているから、他の花蜜と混合すると、商品としての蜂蜜の品質を落としてしまう。それでも、養蜂家たちが売り物にならないクリの蜜を集めるのは、蜜蜂が冬を越すのに必要な食餌にするためである。しかし、これも少し与えすぎると、下痢をおこすので、多くの養蜂家は糖蜜を補給している。
さて、一つの花は、どれくらいの蜜を分泌するものであろうか。
もと農林水産省畜産試験場の室長であった中野茂氏は、多くの花について、その開花中の産蜜量を調査し、多蜜な植物としてエゴノキをあげている。
エゴノキは、英名スノーベル( Snow bell )と呼ばれ、その名のとおり、純白で玉のような小さい花がいくつも集まって、あたかもシャンデリアのように垂れさがって咲く。まことに可憐で美しい花木なので、庭にぜひ一本は植えてほしい低木である。
このエゴノキの花の分泌する蜜量は多く、一花で〇・九五ミリグラムになる。これに次ぐ花木といえば、たとえばサクランボ、つまり桜桃ともいわれるセイヨウミザクラで、約半分の〇・四七ミリグラム、ウワミズザクラが〇・三八ミリグラムとつづく。そして、東海以西や四国・九州で生け垣に用いられており、橙色の小さな実をつけるカナメモチは○・○九ミリグラムという少ない蜜量である。
しかし、一花の蜜量は、必ずしも蜜源としての価値を決めるものではない。むしろ着花数との相乗値で評価されなければならない。 中野氏は、蜜源樹として最近脚光を浴びている、一般にビービーツリーと呼ばれているチョウセンゴシュユ( Evodia daniellii Hemsley )の花蜜について、一花の蜜量が雄花で〇・一一ミリグラム、雌花で〇・二五ミリグラムと測定した。
数字が示すごとく、この木は一花の開花期間中の全蜜量がごくわずかではあるけれども、一木につける花数が非常に多く、満開時には、自分の花で自分の葉を覆いつくすほどなので、にわかに蜜源樹としてAクラスに位置づけされたのである。
ここで、ユリノキの登板となる。
これも中野氏の調査結果だが、ユリノキの一つの花の分泌期間である四日間に、最高二二六・五ミリグラム、最低三五・五ミリグラムを測定している。そして、「花の中をのぞいたところ、花底にある蜜槽からあふれた小さく丸い蜜のかたまりが、ポツポツと列をつくって並び、花弁の根元に付着しているのを観察した」と述べている。
さらに氏は、「研究室で調査したもののうちでは、ユリノキは蜜の分泌量が最高の花であった」とも付記されていた。
アメリカの昆虫学者ローベル( J.H.Lovel )はまた、次のように記している。
風のない日、ユリノキの花をのぞくと、花弁の根元附近にたくさんの蜜が、まるで水玉が付着しているように並んでいる。やがて、そよぐ風に花軸が少しでも揺れうごくと、その水玉はお互いに接し合って、こんどは花弁の内壁にペンキでも塗ったようになる。
この蜜のついた花弁の小部屋は、ちょうど西欧の名画が人々を惹きよせるように、多くの蜂たちを呼びよせる。
ユリノキの開花期は、その年の天候によって五日くらいの範囲で変化するが、気温が平年より高く、乾燥の日が長く続いて開花がおくれたときは、開花が早いときにくらべて、蜜の出かたが非常に多量である。
春の日があたたかく、晴天が続いて開花が五日もおくれたような年では、ユリノキの花は一輪で、いつわりなく小さいスプーン一杯ほどの蜜を出す。……どのような蜜源樹でも、こんなに多くの蜜を出す木はない。
また、いつもの年より蕾が早く出はじめたり、あるいは開花時にしばしば小雨があったりしても、蜜の量にはあまり変わりがない。
とくにユリノキの大木が多いところでは、花に蜜がたまりすぎ、吹く風で揺れたはずみに蜜が外にこぼれ落ちて、下のほうの葉に油でも塗ったように付着しているのをよく見かける。
ユリノキの多い森林に持ち込んだ巣箱の数が不足して、十分に集蜜し尽くせなかった、という養蜂家の報告を、私は二〇〇例ちかくも受けている。しかし、不幸なことに、現在ではこのような例は、普通にはまったく採集できないような山奥まで入りこんで行き、ユリノキの多い森林を探しあてた場合だけになってしまった………………。
小匙一杯の蜜量という表現はややオーバーだとしても、下の方から咲きはじめて頂上の花が咲き終るのに、二〇日以上と長い開花期間を要することを知れば、なおのこと、わが国の養蜂家にとって、魅力の木の一語につきるものではないだろうか。
○蜂を呼ぶ
ユリノキが二〇年生ほどになると、一本の産蜜量は三・九キログラムに達し、その半分に近い一・七キログラムを蜜蜂によって集めることができるという。北カロライナ地方では、蜜源として他の追従をゆるさない樹種だと、ユリノキを高く評価している。
しかし、この地方だけではない。ペンシルベニア州からフロリダ州の北部地域にいたる東部海岸寄りの各州や、テネシー州あたりでも、いずれもユリノキの産蜜性に対する評点はすこぶる高く、それぞれ表現は異なるが多蜜樹としての称賛を惜しまない。
これらの地方では、蜜蜂はユリノキの花蜜を集めすぎる危険さえある、と言われている。例えば、ある地方の蜜蜂を総がかりで集めても、その全部を採りつくせない量であるという。だから、この地方の人々は、まとまったユリノキの混成林を所有するときは、きまって養蜂をとりいれて、森林収入を高めるのが常識だとされている。
ユリノキは一花の蜜の分泌量が多いので、成木が三〇~四〇本あれば、約三万~三万五〇〇〇匹で構成される一つの蜂群によって、平均で五〇~六五キログラムの蜂蜜を人間に供給し、さらに蜂たちが冬を越すのに十分なだけの集蜜ができる。だから、働き蜂たちはすこやかに冬を越して、また翌春には、巣箱からいっせいに花に向かって飛び立っていくのである。
アメリカの養蜂家たちは、飼っている蜂群を健康な状態で越冬させるための大切な食物として、ユリノキの蜜を保存する。商品としてユリノキの蜜が高く売れることは知っていても、他の花蜜では蜂がよく下痢をおこすのに、この蜜ではそれがなく、冬を越すあいだの最良の食料と確信しているからである。要するに、養蜂家としての経験を通じて、ユリノキの花蜜を多く集める蜂群だけが、強い一群として生き残り得ることをよく知っているからであろう。
蜜蜂たちが好んで集まるユリノキの花の中には、まるで小さい水滴のようになって溜っている花蜜を見ることができる。一匹の蜜蜂は、一つの花で自分の蜜嚢を満たすのに十分すぎるほどだ。
分泌の盛んな時期には、濃い琥珀色の蜜液が、いい薫りを放って花弁のあいだから花托に流れだすことは珍しくないし、葉にこぼれ落ちた蜜は、いつしか集まって滴になり、地上に落下してゆく。
なお、ユリノキの蜜は、樹齢が高くなるにつれて、ほんの少しだけ色の濃さを増すが、開花後期の蜜は、前期にくらべてわずかに色が淡くなる。
豊富に蜜を出すことを知ってか、蜜蜂たちは好んでユリノキに分封するし、花が終ったあとでも、元気のよい蜜蜂の仲間たちが勝手に集まって、集団で巣を営む。
このような現象は、他の蜜源樹にはあまり見られないものだ。
○蜜の品がら
料理の研究家としてひろく知られている東畑朝子さんは、
「痩せたいと願って蜜を愛用する、いわゆる蜂蜜信者が年ごとに増加しています。もともと蜂蜜の主成分は、サトウキビやサトウダイコンと同じ果糖とブドウ糖ですが、ただ違うのは消化吸収がよいことです。だから、いままでの砂糖の摂取量をそのままにしておいて、蜂蜜を愛好することになれば、かえって太るのが請け合いです」
と、世のご婦人がたに注意をうながしている。
つまり、蜂蜜の愛用は、まず砂糖を減らすという前提があって、はじめて「やせたい願望がかなえられる」ことになる。
そればかりではない。蜂蜜には白砂糖にない発育と成長とをうながすアセチールコリン、肌を美しくするビタミンB8のほか、ビタミンC1・B1・B2などをふくみ、さらにカルシウムは砂糖の実に三五倍、同じく鉄分では四倍と多い。そのうえ色々な有用酵素もふくまれていて、食品としての優秀性を高めている。
以上は、蜂蜜という食品の一般的な性質として、知っておいていい事がらであろう。
採ったばかりのユリノキの蜜は、やわらかな芳香をもつ明るい琥珀色である。この琥珀色は、壮齢木の蜜のほうが若木のものにくらべるとわずかに濃い。
蜜を一年以上も置くと透明度がやや失われて、ちょうど糖蜜のように粘りを増すが、固まったり、沈澱したり、不透明になったりしないし、最初の芳香を失うこともない。
ゴルツ( Goltz )は、蜜としての色合いの悪いものから順に評点をふやして一〇点満点で格付けをしている。そのうちから、私たちになじみが深い蜜をひろい出してみると、ニセアカシアは三点、オレンジとシナノキが四点、ソバとハゼやヌルデ、そしてユリノキの蜜には最良の一〇点を与えている。
また、囗にふくんだときの感触、つまり舌ざわりを「ザラザラする度合い」で表して、舌ざわりが悪いものほど多い点数を与えているが、スイートクローバとワタが八点で最も高く、オレンジが四点、シナノキが三点とつづき、ソバを二点に評価している。これらのなかにあって、ユリノキの蜜は○点、つまりザラザラ度は零点で、蜜をなめてみたときの触感が最もよいとしている。
花蜜を好んで、食生活に多く用いているアメリカ国民の味覚は、ゴルツの評価をいちばん的確に裏書きするものと思われるので、ここに数例をあげてみよう。
メリーランドおよびコネチカット州の人々は「ユリノキの蜜は、他のものにくらべて味と匂いにまったく癖がなく、人気上々の蜜」だと言うし、テネシーの州民からは「やわらかで甘い思い出を残す蜜」とのほめことばがあり、中部のアラバマ地方では「なめらかで舌ざわりのよい優良な花蜜」と、品質の良さを認めている。
さらに南部のバージニア州の人々は、さまざまな植物の開花期がユリノキの開花と重なるが、その時期の林野にユリノキの混生する度合いが多いほど、良質の蜜が豊富に採集できることを知っている。この地方には、ブラックロカスト( Black locust )、ツペルス( Tupels )、メスケート( Mesquit )、モナルダ( Monarda )などと、採蜜した植物名をレッテルに表示して花蜜を売っている。これらの蜜のなかには、多かれ少なかれユリノキの蜜が混じっていて、増量と品質の向上とに重要な役割を果たしていることは、この地の養蜂家の一致した見解である。
蜂蜜は、甘さが強いから良質だと考えるのは、実は素人の舌といえるだろう。ほんとうは甘さと品質とは別のものなのである。
たとえば、甘さでは最も定評のあるクローバの蜜にくらべると、ユリノキの蜜は、糖類含有量ではわずかに劣るが、水分の量は等しい。つまり糖分と水分以外に含まれているのものの内容が問題になってくる。蜜の品質の良い悪いは、甘さより、むしろ糖分以外の固形分量などの含有量のほうが重要ともいえる。甘さだけで蜜の品質を問うことはできない。
なお、ゴルツは、ユリノキの蜜の成分について「水分はスイートクローバの蜜とほぼ同量だが、糖分は約八パーセントも低い。しかし、その他の成分量はユリノキが二倍を越す」と、第四表(▼)のようなデータを示している。
区分 水分 糖類 その他の成分量 含有率 指数 含有率 指数 含有率 指数 ユリノキ 17.6% 98 60.5% 88 21.9% 215 スイートクローバ 17.9% 100 68.6% 100 10.2% 100 (ユリノキ資料・岩手大学農学部滝沢演習林)
▲ 第四表 蜜の品がら-1
さて実験である。私は、昭和五三年六月、盛岡市の共立蜂の子研究所・菅原清三所長の協力を得て、岩手大学農学部滝沢演習林地内に群生するユリノキの近くに蜂を飛ばして各種の試験を試みたが、そのとき採集したユリノキの花蜜の分析を岩手県衛生研究所に依頼した。
そして、ユリノキの蜜の単独分析だけでは比較値が得られないので、岩手県養蜂組合・小野保一組合長を通じて、同年に採取されたミカンとトチノキの純粋な花蜜の提供をうけ、同時に分析を依頼した。その結果は第五表(▼)のとおりであった。
項目 ユリノキ ミカン トチノキ 水分 (%) 19.99 21.23 21.94 直接還元糖 (%) 72.85 72.54 70.23 みかけのブドウ糖 (%) 30.67 34.33 32.91 みかけの蔗糖 (%) 1.94 1.05 1.98 灰分 (%) 0.09 0.09 0.09 酸度 (ml) 1.88 2.45 2.42 澱粉・デキストリン 陰性 陰性 陰性 (昭和53年12月25日)
▲ 第五表 蜜の品がら-2
東北地方で採集したユリノキの花蜜の分析値は、おそらくわが国では最初のものと思われるし、学術的にも貴重なデータだと信じている。
ところで、アメリカのペンシルベニア州には、ユリノキも多いし、養蜂も盛んな地域なのだが、意外に蜂蜜市場に出回るユリノキの蜜が少ない。
その理由は、この地の人々のあいだでは、ユリノキの蜜は自家用に消費されるほか、親類や知人に贈り物として使われることが多いからだという。ユリノキの蜜は、吸収しやすいかたちで栄養分をととのえており、これを飲む子供たちは背たけの伸びがよいと言われているし、女性が常用すると肌がなめらかになって美しさを増すことなどから、昔から人々に珍重されてきた。
それだけではなく、ユリノキから蜜を採集する養蜂家たちは、大都市の婦人会や地区の消費組合などと、永年契約や予約受注といったかたちで直取引をする量が多いからである。
話はかわって、昭和五四年の早春のことだが、岩手県養蜂組合の総会を控えて開かれた役員会の席上で、ユリノキの蜜ということを隠して、役員の方たちになめてもらった。
軽やかで癖のない味、さっぱりした舌ざわり、やわらかな芳香、透明度の失せない琥珀色、糖分結晶粒の浮遊と沈澱物質がまったく見当たらないことなど……、すべての点で、ミカン・ナタネ・クローバ・アカシア・シナノキなどの花蜜にまさっているとの評価をいただいた。
そのような感想を聞いたのちに、乞われるままにユリノキの名を明かしたところ、役員の方々から「同質のものがたくさん採れるなら、これこそ養蜂家にとっては《黄金の花》である」との称賛のことばをいただいた。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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