三、小泉苗木について
○ユリノキ二世のルーツ
盛岡市内に六〇年を超した同樹齢と思われるユリノキがあちこちに散在して残っている。
植栽時は、おそらく大正七~九年ころと推定され、特定の学校と、当時の市内金融界の大立物の庭園や有名な素封家の別邸などに限っていた。
たとえば、岩手大学(旧盛岡高等農林学校)のキャンパス内に二四本、ほかはいずれも単木として、岩手県女子師範学校(県工業指導所を経て現在は県盛岡地区合同庁舎)、南部藩主別邸(現在は市中央公民館)、葛西荘(昭和三九年岩手放送用地に転用)、南昌荘、武田家庭園、一ノ倉家庭園、交娯園(現在は第一勧業銀行用地)、太田家庭園(現在は二宮綾子宅)、小野慶邸庭園などの庭園と、大学以外の学校では桜木・山岸の両小学校の校庭などのユリノキがそれである。
これらの同樹齢のユリノキ苗木が、どんな経緯でいつ誰の手で植えられたのか、今住んでいる方がたからの聞きとりでは、かいもく不明だったし、だいいち、以上のような特定の場所に限られていたことも杳としてつかめなかった。こうなっては、ルーツ探しをはじめる以外に知るすべはない。
で、まず手はじめに最も多く植栽されている岩手大学に焦点をしぼった。
当時の盛岡高等農林学校を昭和四年に卒業した同期生が組織する「昭和四年会」が作った二冊目の文集『続・はんてん木』(昭和四九年二月発行)は、盛岡市に居住する同期生が中心になって編集に当たったが、編集員の一人に私も加わった。そんないきさつで、同書に投稿した母校の教授で先輩の岩田久敬先生が「なつかしのユリノキ」を登載されていることに思い当たった。
母校のハンテンボクとハナキササゲの並木は大正九年(一九二〇年)、われわれが二年生になりたての四月の初め、農場実習の時間に、学校の事業として、日本が正式に国際連盟に加入して世界平和に参加したことを記念して植えさせられたものである。
さらにこれより後だが、獣医学科の人達が同学附属家畜病院あたりに、同種の苗木を記念植樹した。
その後、私は母校の教授となって昭和一九年の春まで盛岡で暮らしたが、この並木が好きで、なるべくあの道を通るようにして大きくなるのを待ち遠しく思っていた。(中略)先年母校を訪れたが、今ではハンテンボクのトンネルをつくり、せまくて暗いほど繁ってみごとな風景になっていた。あの通りは今は正門通りとして使われていないようだから、あの並木は邪魔にならず、永久に保存されるものと信じて心安らかである。
この記述によってほぼ外貌をつかむことができたが、家畜病院あたりにも植えられたとあったので、さっそく家畜病院長の獣医学科教授村上大蔵先生を訪れ、関係資料の検索をお願いした。
やがて、先生が探し出して下さった資料は、大正一一年四月一日の『家畜病院日誌』のなかの一ページで、しかも日誌の欄外につぎのように毛筆で認められているものであった。
昨年六月、小西教授欧州ヨリ歸リ、頻リニ街路樹ノ必要選揀ヲ説ク。本年四月病院前面ノ溝ニ沿ツテはんてん木ヲ植樹シ、十年ノ後、樹蔭緑深キ処ニ臨床講義ヲ開カントス。入ロノ銀杏亦同時ニ植栽ス。
このあとは、キャンパス内のユリノキ苗木の出所をつきとめければならない。当時の状況としては、他地域、とくに海外などから苗木を取り寄せたものとは考えられない。きっと林学科の誰かの手で実生苗が育成されたものであろうと推量し、林学科戸沢俊治助教授に、その調査をお願いした。その結果、大正の初期に林学科が、東京の貿易商を通じ、海外とくにアメリカから各種の種子を導入したが、導入種の詳細が判らない。ただ当時、林学科造林学講座を担当していた小泉多三郎教授が林学実習場の苗畑管理に当たっていたから、その身辺を洗えば、ユリノキ苗木の育成者が判明できるかも知れない――という貴重な助言をいただいた。
そのあと、同期生の文集『はんてん木』の編集にあたった佐々木学友とたまたま盛岡市のユリノキの話に触れたとき、小泉先生の生涯を綴った『心の松風――――小泉多三郎の面影――――』という刊行本があるから、ルーツ探しに役立つにちがいないとの話をうけた。
○啄木と同期の小泉多三郎
これによると、小泉多三郎先生は明治一六年(一八八三年)小原弥三郎三男として和賀郡に出生。明治三一年、岩手県立盛岡中学校に入学したが、同級生に石川啄木がいた。中学校から盛岡高等農林学校林学科に進み、三八年一二月、盛岡市の素封家三田家の当主俊次郎妻てるの妹小泉やまに入夫婚姻、三田家との縁故関係を結んだこともあって盛岡市加賀野の三田邸離れ座敷が新婚の家となった。
しかし、翌年、林学科第一回得業生として卒業して間もない九月、樺太民政署に招ぜられ、単身で北の海を渡って国境測量に従事、翌年二月には東京大林区署所管の高萩に転職したが、その明朗活達で誠実な性格、学究的な態度と明晰な頭脳が、時の第二代目盛岡高等農林学校佐藤義長校長の目にとまるところとなって、明治四一年六月、助教授として迎えられ、以来、三田俊次郎当主の懇望により、大正七年一二月岩手林業株式会社創設と同時に、教授の職を辞して技師長になるまでの一〇年間、母校で研究と教育に専念した。
話を前にもどし、小泉先生が新婚時代をすごした三田家別邸は、昭和八年岩手保養院の設置にともなって姿を消したが、同院の広場中央に一本の巨大なユリノキが残されている。
同院を経営する三田俊定氏(岩手医科大学学長)を訪れたのは、吹雪の日の昼下がりだった。
ユリノキの話を持ち出したところ、「現場に行って話しましょう」と、車を出してくれた。そして雪の深い院内の広場に一本だけ裸木として吹雪に耐えて立つユリノキのもとに、同院の白石順吉院長と川村吉五郎事務長の案内で足を運んだ。
「小泉夫妻がここに住んでいたのは私か中学校の二、三年生のころでした。土曜や日曜には、学校友達とつれだってよく遊びにきたもんです。奥さんはいつもおいしいものを作ってもてなしてくれたので、その楽しみもあって、よくこの庭で遊んだものです。ところがおやつのあとなど、きまって小泉先生は、われわれをつれて庭の木を一本、一本くわしく説明して回るんで、遊びにはやる子供心にはこまった先生だなぁと思いました。ある日、まさしくここです。大きい栗の木の前に、私の背丈くらいの大きさで、植えたばかりの苗木の前に足をとめて、これは私が研究のために種子をとり寄せて育てたアメリカ産の珍しい木ですと、このあと長々と説明されたことを覚えています」
そのように三田学長はユリノキの思い出を話され、さらに白石院長に向かって、
「後ろにあったというクリの木はどうなりましたか」
この問いに、白石院長に代わって川村事務長が、
「老木で幹に大きい空洞がでて、倒れると危ないので、二、三年前に伐りました。その丸太はあそこに積んであります。」
と、指差した病棟のひさしの下には、二メートルくらいに伐り揃えたクリの大丸太が積まれていた。
これで、小泉先生がユリノキ苗木の育ての親であることのあかしがつかめた。
ユリノキ苗木が小泉先生の手によって林学実習場の苗畑で育成されたことを、三田学長が自ら生き証人となられ、「動かぬあかし」をたててくれた。しかし、盛岡市内に散在する同齢樹は、果たして小泉先生の育成苗木、つまり小泉苗木なのかどうかについてのあかしがさらに必要である。
大正の初期、盛岡市内で三指に数えられた造園業者は、八幡町の「庭徳」と呼ばれた内田徳太郎、加賀野の山崎金次郎、そして大工町の藤村治太郎であった。
内田徳太郎は、庭祖といわれた東京の人長岡安平の設計にもとづいて岩手公園と旧南部邸の造園を担当した技量にすぐれた人だったが、昭和四年死去(行年七七歳)し、一生を通じて盛岡高等農林学校の造園の仕事をひきうけたことはなかった。徳太郎の三男寿治が後を継ぎ、まもなく盛岡高等農林学校の園丁となって「庭徳」は店を閉じた。また、山崎金次郎は昭和一五年死去(行年五九歳)し、その子勝次郎が襲名して二代目を継いで現在にいたっているが、父の金次郎も「庭徳」と同様、大正時代に盛岡高等農林学校とのかかわり合いはなかった。ただ、あとのことになるが、二代目の現当主金次郎は、とくにユリノキを愛し、昭和三五年ごろから埼玉県より苗木をとり寄せ、市内の各所の庭に植えている。
○啄木と同期の小泉多三郎造園業のパイオニア藤村「豊香園」
最後は藤村治太郎だが、昭和二五年死去(行年七三歳)した。その子益治郎は、「豊香園」主として後を継ぎ、長男典哉がその長男孝史とともに、現在も造園業を続けている。
益治郎の父治太郎は明治一一年に生まれ、大正七年ごろは四〇歳を越したばかりの働き盛りで、わが子益治郎が小学校を終えるのを待って造園技術を仕込んだ。後年「息子も技量の上では親勝りの筍」だと自負するほどに磨きをかけた。
話は少しそれるが、治太郎は気骨があって正義感が強かった。昭和七年、盛岡市内にある天然記念物で、有名な石割桜のある盛岡地方裁所が全焼した大火が起こったとき、子供の益治郎より早く、いちはやく石割桜に駆けつけ、火のおさまるまで、襲いかかる火の粉を払って、親子二人で桜を守り抜いた。その後、数年たって樹勢に衰えが見られた。岩手大学の工藤勝四郎教授や、ほかの専門家の手当てによって回復したのを契機に、昭和一二年の秋から治太郎は益治郎をともなって、せっかくの石割桜の枝一本といえども雪のために折れるようなことがあってはならないと、冬囲いの奉仕を開始した。そのあと現在まで、一年として欠かさず冬囲い・雪つりの奉仕が続き、過去の親子二代の奉仕は、今は親子孫三代の奉仕に変わり、市民の尊敬の的となっている。
一日、私のユリノキのルーツ探しに最後の期待をかけて藤村益治郎豊香園主宅を訪問した。
心よく迎えてくれたガッチリした体格の園主は、まことに気さくで、任侠的な気質がただよう印象をうけた。園主は八〇歳を越しているというのに、まだ現役で、かくしゃくとして高齢の感じがない。
父の治太郎は、小泉先生からよく目をかけていただいていあんすた。なにかあるといっつも学校やお宅に呼び出しをうけていあんすた。それは、私か一七歳のときだったから、そう、大正七年になりあんすかな。その日は朝から天気でがんすたが、親父は「開運橋に近い小泉先生のお宅から家まで苗を運ぶからついて来い」と、朝めし前なのに急にいい出すてナッス……。それで……すかたなくついで行きあんすた。
小泉先生から渡された三年生ほどの苗木は、背丈ぐらいで、二束でがんすた。一つを肩に、一つは小脇にかかえて、いざ帰るべいとすたときに、先生の奥様が呼びとめあんすて「これはお彼岸のだんごで、焼きがけです」と、私の腹かけのドンブリに新聞紙にくるんでおす込んでくれあんすた。父親は「これはユリノキとハナキササゲといい、この辺にはまだない珍しい木の苗木だ、陽に長く当てると弱るから……」とサッサと足早にさきに立つんですな。三〇分近くかかる道のりなんで、汗がダッツダッツとこぼれるす。腹ペッコッペになってくるす。焼きたてのだんごで腹がホッカホッカとあつくなるす。ドンブリからはプングプングとだんごのかまり(におい)がすあんすてナッス。うんだども手を離すわけにはいかない……。家で分けて食べたあのときの彼岸だんごの味は今でも忘れながんす。
このあと二日がかりで、うつの若い者をつれて植え終えたようでがんすたが、帰ってきた親父が「立派な家の庭ばかりだったんでひんどく疲れた」といっていたことをおぼえていあんす。
この藤村園主の以上の思い出は、ユリノキの育ての親であって、これを市内の有名人の方がたに配布したのは、まさしく小泉先生その人であったことのあかしである。
きっと市内の財界人やトップクラスの知識人の集会の際に苗木配分の提言をなされたのに違いない。かくして盛岡市内に散在する六〇年を超すユリノキの同齢木の植栽経過を知ることができた。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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