遠いむかし、森林が地球をおおっていた時代。
ユリノキは、日本にもフランスにも息づいていた。
北米と中国にのみに生き残ったこの木の物語を、
やはりあの、あおい時代からひもといてみよう。
一、化石のなかの「ユリノキ」
○ユリノキ属の出現
ユリノキ属の化石は、北米やグリーンランドの白亜紀層からは多数知られているが、それ以上古い地層からは見つかっていないところから、白亜紀に最も古い型のユリノキ属が出現したものと考えられる。
また、ヨーロッパにおいては、第三系、とくに鮮新世の地層から多く発見されている。しかし奇妙なことに、現生種が分布する北米の第三系からはまだ発見されておらず、ずっとあとの洪積層からは、アメリカの南東部諸州で多数発見されているのである。
一方、アジアにおいては、まず日本では数力所の新第三紀中新世中部、ないし上部の地層から報告されており、そのほか、朝鮮半島東岸の中新統、中央アジアのアルタイ地方の新第三系からも報告されている。
ところで、ユリノキをはじめポプラ・プラタナス・カエデなどを含めた被子植物、とくに温帯性樹木の発祥の地について、これら樹木の化石が、スピッツベルゲン・グリーンランドなどの北極に近い地方で多数発見されていることから、北極地方が発祥の地で、気候が寒くなるにつれて南方各地へ広がったと考える学者が多かった。しかし、近年、発祥の地はむしろ亜熱帯の山岳地域で、その後、気温の低下とともに、低地へ侵入して北上したという考えが有力になりつつある。
岩手県の宮古・田老・田野畑などの海岸地方には、白亜紀前期後半の宮古統とよばれる地層が点々と分布しているが、その中には、アンモナイトなどとともに多くの造礁サンゴ化石が発見され、当時の気候が亜熱帯的であったことをしめしている。
白亜紀後半から新生代古第三紀初めの始新世といった時代になると、植物界では、中緯度地方でも亜熱帯種に温帯種が混在するようになり、また、温帯性針葉樹をも混じえた山岳フローラ(植物相)が認められるなど、このころの植生には、水平的および垂直的帯状分布が、すでにある程度は形成されたと考えられている。
すなわち、白亜紀の半ばごろより後半にかけて、はげしい造山作用をともなう地殻変動が世界的に起こり、各地に高い山脈を生じるとともに、気候も次第に冷涼へ向かったもののようである。
そのために山岳地帯では、亜熱帯種から変化して温帯気候に適応できるようになった種は、山をよじ登って特異なフローラとして発展した。そして、その後さらに気候が冷涼化するにともない、山を下りて各地に広がったというもので、これが亜熱帯山岳地発祥説である。
ともかく、わが国におけるユリノキ化石に関するかぎり、第三紀中新世中期に忽然としてあちこちに現れ、やがて鮮新世に突如として姿を消した幻の化石植物である。
わが国の白亜系や古第三系からは、ユリノキ属の化石がまだ見つかっていないことからすると、中新世に大陸方面から移ってきたのかも知れない。また、これが姿を消した原因は、気候の寒冷化であろうと推定される。
現在、ユリノキ属の末裔は、アメリカのユリノキ( Liriodendron tulipifera L. )と、中国のシナユリノキ( L. chinense Sargent )の二種類だけが、太平洋を隔てて北米大陸と中国大陸に生き残っているが、今から千数百万年前のころには、本州の各地や朝鮮半島で亭々とそびえていたことなどを考えあわせて、いったいユリノキ属はどこで発生し、どのような経路をたどって移住し、どのような進化系統を経て現状に立ち至ったか、そうした数々の謎を解き明かすには、まだまだ時間がかかりそうである。
○わが国におけるユリノキ化石発見の歴史
▲ ホンシュウユリノキの化石
わが国でユリノキの化石が最初に発見されたのは、昭和九年(一九三四年)のことで、かつて東北大学理学部の地質古生物学教室教授で、筆者の師でもある故遠藤誠道博士が、岐阜県可児・土岐地方に発達する中部中新世の平牧層からであった。一方、たまたま同じ年に、当時は東北大学の学生で、同教授の下で古植物学の卒業研究を実施していた奥津春生氏(のち東北大学教養学部教授・理学博士)が、仙台に近い宮城県名取郡秋保町の上部中新世に属する白沢層から、同種のものを発見した。遠藤博士がこれらの詳細な記載をされ、ホンシュウユリノキ( L. honsyuensis Endo )と命名された。
次の三番目の発見は雫石町の南畑川でなされたもので、現在、盛岡市上田三丁目に在住の吉田利夫氏が発見者である。同氏はその標本を、当時京都大学教授であった植物学者の故小泉源一博士のもとに送付し、これを小泉博士はシナユリノキの化石とされ、その地質時代は第三紀鮮新世だろうと判定された。
ただ、この標本は、南畑川に流れていた転石の中から偶然に発見されたものだったので、それが流れ出した原地層が川の上流地方であることは当然だが、どこの地層から出たかの判断はつけかねたようで、また、そこまで追究はされなかったようである。ともかく、このことが昭和一六年(一九四一年)の植物分類地理に短報として所載されているから、実際の発見は昭和一五年か一六年であったろう。
ところで、ユリノキの葉は、現生種で見るように非常に変異が激しく、二現存種のユリノキとシナユリノキとは、葉だけでは両種の識別は困難とされている。したがって、小泉博士が南畑川産のものをシナユリノキと同定されたのも無理からぬところであるが、現在の化石ユリノキの知識からすれば、当然ホンシュウユリノキとされなければならないものだったのである。
そもそも最初に遠藤博士によってホンシュウユリノキと命名されたのは、化石葉の資料のみによるものであって、それらは現生のユリノキの葉と区別できないものなのである。
ただ、面白いことに、古植物の世界では、現生種と区別できないような化石種でも、それが第三紀層から産出した場合は異種として扱う慣習があり、そのため、岐阜県平牧層や宮城県白沢産のものに、産地の本州の名を取って、ホンシュウユリノキという新種名が付けられたというわけである。
その次は、筆者が雫石町舛沢付近から発見したもので、昭和三三年(一九五八年)にこれの報告をしているから、最初の発見は三一年か三二年ごろだったかも知れない。発見場所は、舛沢から北へ入った用の沢とよばれる小さい沢の沿岸で、左岸に崖をなして露出する凝灰質泥岩の中からである。その後、このあたりに何回も通って掘りつづけた結果、現在まで二〇個ほど採集しているが、ほぼ完全な標本はわずかに数個だけである。
その後は、昭和三六年(一九六一年)に、本邦唯一のウラン鉱山で有名な、鳥取と岡山の県境にある人形峠付近の上部中新世に属する三徳層から、北海道大学理学部教授の棚井敏雅博士と、地質調査所の尾上亨調査官とによって、同種の産出が報告されている。
しばらく間をおいて昭和四八年(一九七三年)には、秋田大学鉱山学部教授の藤岡一男博士が、下関市の幡生層とよばれる中部中新世の地層から、ホンシュウユリノキの産出を報告されている。
以上が、わが国におけるユリノキの葉の化石に関する記録だが、葉以外では、昭和三四年(一九五九年)に福島大学教授の鈴木敬治博士によって、福島市付近の天王寺層とよばれる上部中新統からユリノキ属の翼果化石が発見され、フクシマユリノキ( L. fukushimaense Suzuki )と命名された唯一の記録がある。ただし、これとホンシュウユリノキとの関係は、まったく不明である。
なお、わが国では、北海道・四国・九州からは現在までのところ発見されていない。
そのほか、近接の諸外国ということになると、朝鮮半島東岸明川地方の中新統から、葉や翼果の化石が遠藤博士や藤岡博士によって発見されており、これらはメイセンユリノキ( L. meisenense Endo )と名づけられ、別種とされている。しかし、中国の新第三系からは、これまでのところ報告されていない。
○琵琶湖よりも大きかった古雫石湖
ユリノキの化石を含んでいる地層を、筆者は舛沢層と名づけている。というのも、この地層が雫石町御所舛沢の付近で最もよく発達し、このあたりを模式地( Type locality )とする地層だからである。
舛沢層は、主に凝灰岩・凝灰質泥岩・凝灰質砂岩・軽石質凝灰岩・礫岩などから成る地層で、ことに舛沢付近では、南畑川や用の沢の河岸崖で見られるように、凝灰質泥岩と凝灰岩の薄い層が交互に重なり、独特の美しい縞状の層理を見せている。
このような細かい層理は、湖底のような穏やかな環境の下で堆積したことを示すもので、湖成層に普通に見られる特徴である。また、湖成層には著しく豊富に植物化石を含み、しかも保存状況もきわめて良好である。
さらに、淡水棲珪藻化石や、稀ではあるが、淡水棲二枚貝のヌマガイ化石が発見されることなどからも、舛沢層が湖成層であることは疑いのない事実である。そのほか、近年クサガメやシロアリなどの一〇種類ほどの昆虫の化石も見つかっている。
この舛沢層と岩相的に類似した一連の地層は、西方は雫石町橋場のやや西まで、さらに、やや南へ下がって沢内村川舟の西部まで、南方は花巻市志戸平温泉の付近まで、東方は紫波町志和稲荷・矢巾町河袋の付近まで、北方は雫石町葛根田川滝の上温泉の上流までがそれぞれ確認されており、北方と東方へもっと延びる可能性もある。
そして、この一連の地層からは、舛沢付近は言うにおよばず、沢内村川舟の西部・紫波町山王海ダム湖の湖畔・花巻市豊沢湖の湖畔などで、共通的に類似の化石植物群を産出する。
これら一連の湖成層の分布から推測して、中新世の終り近いころに存在していた湖水、すなわち化石湖の大きさは、東西二五キロメートル以上、南北四六キロメートル以上、面積にすると一〇〇〇平方キロメートル以上に達し、琵琶湖(六七四・四平方キロメートル)より遙かに大きい湖であった。
この化石湖を筆者は「古雫石湖」とよんでいる。しかし、この古雫石湖も鮮新世の時代に入ると、隆起や断層作用により分断され排水されて消滅してしまった。
しかも、ちょうど時を同じくして、秋田県田沢湖北西の宮田地方、秋田県南部の小安温泉地方、仙台市の南西方、福島市付近などにも湖水を生じて湖成層が堆積しており、それぞれの湖成層中の植物化石の研究から、雫石付近と類似した植生であったことが知られたのは、興味ある事実と言わなければならない。
○ユリノキ化石の仲間たち
ある地層から化石として発見される植物の種類は、おそらくその当時繁茂していた総種数の、せいぜい数分の一ではあるまいか。
ところで、化石を掘り出す作業は、まず第一に、頭のてっぺんまで泥まみれになる激しい重労働であるし、掘り出しても金儲けにもならないということで、発掘を試みる奇特な人はきわめて稀である。
ただ、化石との語らいを求める者だけに、彼らはほほ笑みかけてくれるのである。しかも、彼らは脆弱で、きわめて破損しやすく、割り方によっては、たとえ含まれていても日の目を見ないことも多い。人目に触れることができるのは、むしろ幸運なほうといえるであろう。
舛沢層から産する化石植物群を、筆者は「御所フローラ」とよんでおり、現在まで識別されている種数は一三〇種ほどで、これまで本邦で報告されている化石植物群のなかで最も多い種数を誇っている。
ところで御所フローラは、組成上どんな特徴をもっているのだろうか。主な特徴を次に挙げてみよう。
- 種類の大部分は冷温帯種であるが、かなりの数の暖温帯種ないし亜熱帯種、および少数の亜高山種を含んでいる。
- カバノキ科・ブナ科・カエデ科・バラ科・スギ科・マツ科・ヤナギ科・モクレン科・クスノキ科・トウダイグサ科といった順序で、各科に含まれる種類の数が多い。
- 個体数の多い種類を挙げれば、
といった順になり、ブナの仲間が大半を占め、とくにムカシブナが多い。
- ムカシブナ
- ミズメ
- イヌブナ
- イタヤカエデ
- ナガバブナ
- ヨーロッパスイショウ
- オンバラカンバ
- 暖温帯ないし亜熱帯種、またはその近似種で、いま生きている種類について、その現在の分布地を調べてみると次のようになる。
- ムカシコウヨウザン……台湾
- タイワンスギ……台湾・南中国
- ヨーロッパスイショウ……南中国
- チュウシンアベマキ……関東以南・朝鮮・中国
- ムカシアカガシ……関東以南
- ツクバネガシ……関東以南
- ムカシヤマグルマ……南部東北以南
- クスノキ……関東以南・中国中南部
- フウ……台湾・中国中南部
- ヒイラギモチ……朝鮮南部・中国中南部
- チュウシンカキ……関東以南
- 亜高山種としては、次のとおりである。
- ムカシヒメコマツ……中部以北
- トウヒ……中部以北
- ムカシサビバナナカマド……北海道を除く各地
- チュウシンウダイカンバ……中部以北
- ダケカンバ……西南日本を除く各地
- ムカシシオリザクラ……中部以北
- 本邦ではすでに絶滅したが、その種(近似種を含む)の後裔が現在も外国で生存している種類としては、
- ニオイヒバ近似種……北米
- チュウシンメタセコイア……中国南部
- セコイア……北米
- ムカシコウヨウザン……台湾
- タイワンスギ……台湾・南中国
- ヨーロッパスイショウ……南中国
- バルサムポプラ……北米
- ホンシュウユリノキ……北米
- ヤベササフラス……北米
- ヒイラギモチ……朝鮮南部・中国中南部
- キササゲ……中国
などである。すなわち、北米要素と中国・台湾要素とが入り混じっている。 以上のような事実から、当時の植生は、現在の岩手県あたりのそれよりも遙かに多彩であって、種類も多かったものと考えられる。
○ユリノキの繁茂した古環境
ユリノキの仲間、すなわち御所フローラが生育していた今から千数百万年も前の環境(古環境)を推定し、さらに古生態までも判断することは、その後の地殻変動が激烈であっただけに、なかなか容易ではない。
あえて大ざっぱな推測を試みると、まず、雫石から花巻市のあたりにかけて、大きな古雫石湖が存在し、その西側に顕著な山脈が南北に走っていたらしい。山脈の高度も相当あって、高いところでは二〇〇〇メートル前後にも達していたであろう。しかも、それのあちこちに石英安山岩や流紋岩を噴出する活火山があって、さかんに火山灰や軽石を遠くまで噴出し、それらの噴出物は古雫石湖を次第に埋没していった。
しかし、現在の箱ヶ森山・南昌山・東根山・男助山・須賀倉山といった山々は存在せず、湖の一部であったと考えられる。そして、やがて湖の南部にも石英安山岩を噴出する火山(塚瀬森など)を生じ、いっそう速やかに湖を埋積する原因となった。
一方、北上山系は遙かに以前から山地として存在し、さかんに浸蝕作用をうけていたと考えられ、一部にはかなり高い山も存在していたであろう。したがって古雫石湖を含む地帯は、両山脈の間の低地帯として存在したとみられ、この低地帯の幅は、現在の北上川低地帯よりは遙かに広かったと考えられる。
当時の気候は、日本海側では海岸線が現在のそれより数十キロメートル内部まで侵入しており、また、北のほうからの海が一戸のやや南の辺まで湾入していたとみられ、海洋性気候の影響は現在より遙かに大きく、温暖多湿な暖帯性の気候であったろう。先に述べた興味ある植物種などと考え合わせると、現在の雫石の年平均気温は九・五度であるが、おそらく当時は現在より五・五度以上は高く、一五度以上はあっただろうと推定される。
次に、化石植物群を構成する植物種から古生態を推定して、その要点を挙げてみると、
- 低地帯・山地帯・亜高山帯・高山帯といった高度による植物種の帯状分布は当然あったものと思われる。
- 低地帯や低山地帯では、暖・亜熱帯性植物と冷温帯性植物とが混在共存したと考えられ、また、高木・中木・低木・小低木といった生活型もあり、ユリノキは低地帯ないし低山地帯の高木として、相当数が繁茂していたと思われる。
- 湖畔や低湿地など、沼沢性の地域がかなりの広がりを有していたとみられ、こうしたところではスイショウ・ヤナギ・ポプラなどの仲間が栄えた。
- ムカシブナは極相林として最も広く分布し、山地帯の上部でしばしば純林をなしていたらしい。
- 気候の寒冷化とともに、冷温帯植物は次第に繁栄の方向にあったが、暖・亜熱帯性植物は次第に衰微に向かい、遺存植物群( Relic flora )的な色彩が濃くなってきた。
といったようなことになろうか。
○ユリノキの仲間のうち、興味ある種類
ユリノキと一緒に産する植物の種類のうちには、先に述べたとおり興味ある種類がかなり多数含まれるが、その中から幾つかを取り上げて簡単な説明を加えておこう。
- セコイア
現生種はセコイアメスギ( Sequoia sempervirens Endl. )とかレッドウッドとよばれ、北米合衆国の太平洋岸、オレゴン州からカリフォルニア州にわたって海抜七〇〇~一〇〇〇メートルの山地に繁茂する大木で、高さは一〇〇メートル前後、直径は三~七メートルになる。化石種は、本邦各地の古第三紀~新第三紀鮮新世の地層から産出する。
- メタセコイア
化石としては、本邦でも各地の白亜紀以降の地層から知られ、新第三紀層から産するものはチュウシンメタセコイア( Metasequoia miocenica Tanai et Onoe )と名づけられている。かつては絶滅属と考えられていたが、昭和二〇年(一九四五年)に中国揚子江上流の四川省から現生種( M.glyptostroboides Hu et Cheng )が発見され、一躍有名になった。かくて近年には、各地で植栽されたものを見るようになった。セコイアと異なって落葉性で、葉は互いに向き合って付く。
- ムカシランダイスギ( Cunninghamia protokonishii Tanai e tOnoe )
常緑の針葉樹で、葉縁に細かい鋸歯の見られるのが特徴である。本邦では中新世以降の地層から産し、関西地方では洪積層からも産する。現生のランダイスギ( C. konishii Hayata )との区別は困難である。現生種は台湾に分布している。
- ヨーロッパスイショウ( Glyptostrobus europaeus Hear )
落葉の針葉樹で水辺を好む。本邦各地の新第三系中新統や鮮新統から産出する。現生種イヌスギ( G. pensilis Koch )は中国の南東部に分布するが、それとの区別は困難である。
- ムカシブナ
葉の輪郭や大きさ、二次脈の数、葉柄などは、現生のブナ( Fagus crenata Blume )とほとんど同じであるが、葉縁に粗い鋸歯の発達する点で異なる。化石としての産出は、中新世から鮮新世に非常に多い。
- ヤベササフラス( Sassafras yabei Endo )
三裂した特徴のある葉形を示し、葉脈にも特徴があり、本邦の中新世から産する。現生のササフラス( S. albidum Nees )は北米の南東部に分布するが、葉形的にこれにやや類似する。
- ヒイラギモチ(ヒイラギモドキ Ilex cornuta Lend. Et Paxt. )
厚い革質の奴凧に似た特徴のある葉形をした常緑樹で、現生種は朝鮮南部と中国北部に分布する。化石種は、葉形からは現生種と区別できない。中新世ないし鮮新世の地層から産する。
- チュウシンフウ( Liquidambar mioformosana Tanai )
三裂した葉形は一見してカエデに類するが、まったく所属の異なるマンサク科の植物である。鋸歯の先端に蜜腺がある。化石としては中新統ないし鮮新統から産するが、雫石産のものは現生種と区別できないようである。現生種は台湾と中国南部に分布する。関東以南で庭木として植栽されているのを見ることがある。
- キササゲ( Catalpa ovata G. Don )
大形の特徴ある葉形で、薬用にされることから本邦でも各地で植栽され、一部は野生化している。化石としては、上部中新統からの産出が報告されている。現生種は、中国に分布する本種と、米国南部のアメリカキササゲ( C. catalpa Karst )との二種があるが、葉のみによる区別は困難とされ、雫石と仙台付近とから報告されているに過ぎず、いちおう中国種に同定されている。
筆者がかつて勤務していた岩手大学工学部は、農学部キャンパスに隣接しており、仕事に疲れた手を休め、緑を求めて農学部植物園や構内をさまようのは、筆者にとって最も心の休まるひとときであった。
そこでは数多くの生きている化石にお目にかかることができたし、特にそれらのうちエキゾチックな種類、例えばラクウショウ・メタセコイア・クログルミ・ユリノキ・ネグンドカエデ・キササゲ・シンジュなどは、いずれも本邦では化石として産出するので、植物化石を道楽とする筆者にとっては特に気を引かれる植物である。
そして、それらのなかでも特にユリノキが、木の大きさ、枝振りといった貫禄、本数が多いこと、木としての面白味、また、そのほとんどが並木として植えられているのでよく目につくなどの点から、開校記念樹の二本のイチョウとともに、岩大農学部のシンボル的な存在であることは万人の等しく認めるところである。
植物園を要として各所に点在する木々は、明治三五年(一九〇二年)の創設という古い歴史の重みを感じさせるに十分であり、これらの樹木が、盛岡高等農林、盛岡農林専門学校、そして岩手大学の学生に、知らず知らずの問に与えてきた感化は計り知れないものがあったと思われる。こうした立派な遺産を残してくれた多くの先輩に感謝するとともに、さらに立派なものとして次の世代へ引き継がなければなるまい。
そのユリノキが、今から千数百万年も前の第三紀中新世の終り近くのころに、盛岡近辺に亭々と繁茂していたこと、そして、明治初期にアメリカ土産として持ち帰られ、大正九年、すなわち今から六九年前に、その祖先の栄えた地に植栽されて、大学のシンボルツリーとして育っていることとを思い合わせると、まことに奇縁と申すほかはない。
(村井 貞允)
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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