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第一章 ユリノキという木

三、シナユリノキのこと

シナユリノキ発見の記録

もう一つのユリノキ、シナユリノキの物語を、ここではプラントハンターの時代にさかのぼってはじめることとしよう。

米国産のユリノキがヨーロッパに伝えられたのは今から三〇〇年以上も前の一六六三年、これが最も古い導入の記録で、それ以来、ユリノキは世界各地の公園や庭園樹として広く植栽され、知られるようになった。

ユリノキは長い間、地球上で、この北米産の一種のみと思われていた。

ところが、その二〇〇年余り後の一八七三年、イギリスの植物採集家シェーラ(生没年不詳)は、中国の江西省盧山地区九江で偶然にも自生のユリノキの葉を採集する。母国に持ち帰られたこのシェーラの標本は不完全なものであったが、後に、これが米国産ユリノキと全く異なるシナユリノキ発見の第一号として記録されることとなる。シナユリノキが植物学の舞台で初めて注目を集める快挙であった。

シェーラの発見が刺激となって、つづく五年後の一八七八年、同地において、チャールズ・マリーズ(一八五〇~一九〇二)によってもこの中国産種は採集され、さらに、その七年後の一八八五年、A・ヘンリー(一八五七~一九三〇)が湖北省で採集することになる。

オーガスチン・ヘンリーは中国のプラントハンター物語の口火を切った重要人物である。税関吏、医師として一八八一年に渡中した彼は、清政府に薬草の調査と採集を依頼されて、長江ぞいの奥地に潜入する。彼の名を高めたのは、一八八五年湖北省の宣昌の谷間で発見したコウシンバラ( Rosa chinensis )と、一八八八年四川省で発見したダビディア( Davidia involucrata )であったが、シナユリノキもこの前後に、彼の手によって収集されたのである。

ヘンリーは、この中国産種を「広がった小枝をもつ低木」と記録し、「湖北省バスカン山の標高一八〇〇メートルの高地で、一・八メートルの小木をみる」さらに「同省チエンシィン地区で、九メートルの中木から花の咲いた標本を採集」と報告する。

しかし、これらの標本は、まだ形態を判断する上で不完全であったため、この中国種は、分布上の新発見として認められながらも、米国種と同じもの、あるいは、その一変種として考えられた。

ちなみに、一八八六年、ヘムスレー(生没年不詳)によって、この種は Liriodendron tulipifera var. chinense Hemsleyとユリノキの変種扱いの学名を与えられ発表される。

シナユリノキを独立種とする機会を与えたのは、一八九九年にヘンリーのもとに派遣されたアーネスト・ウイルソン(一八七六~一九三〇)であった。

ウイルソンは当時二三歳で、キュー植物園で植物学を学び渡米、ボストン市に近いアーノルド植物園で東方の植物採集学を学んだ後、ただちに中国奥地の採集を開始する。そして一九〇〇年には、湖北省西部で、花と果実の付いたシナユリノキの完全な標本を採集するのである。

ウイルソンがこの旅で採集した植物は、種子九七六種、標本一六一〇種、さらに数多くの生植物であったという。これらの植物はただちに英国のヴィーチ商会、および米国のアーノルド植物園に送られ、解明されるが、シナユリノキの標本は、その中にあって翌年の一九〇一年、チャールズ・サージェント(一八四一~一九二七)が着目することになる。

リリオデンドロン・キネンセ

サージェントはアーノルド植物園の初代園長で、ウイルソンとはすでに師弟の間柄で、前述のとおり、ウイルソンの中国行のよきアドバイザーでもあった。サージェントはウイルソンから送られてきた標品の中からシナユリノキを手にした時、心のときめきを静止できず、放心の状態で研究室を歩き回ったと伝えられる。彼はその二年後の一九〇三年、『 Trees and Shrubs 』誌にシナユリノキをL. chinense Sargent と新種として命名し、発表する。

このように、シナユリノキの新種発表が、ウイルソンを中国に派遣した英国の植物界によらず、はからずもユリノキの古里である米国の学者の手によって成されたことは、運命の皮肉といえよう。

サージェントはこの記載の中で「ウイルソン氏が採集した完全な標本は、花の大きさに関し、米国種の半分以下の大きさしかなく、花弁は細く、長細い球果をもち、内側の果実の心皮の形も米国種とは明らかに異なっている」と要約している。

サージェントは、とくに花と果実に注目して、詳細を以下のように記録する。

花は全開すると直径五~六センチメートル。がく片と花弁は長楕円~倒卵形で、先端に向かって細くなり、狭い基部の下につく。花弁はがく片より少し幅が広いだけであり、幅一・五センチメートル以上になるのはまれである。球果は細長く、九~一〇センチメートルの長さで、幅は二・五センチメートル。受粉した内側の心皮は幅広く、先端はまるく、外側の列のものは幅狭く、鋭先形である。

これがシナユリノキの命名者、サージェントが発表した原記載の内容である。

以上、シナユリノキの発見の経緯をたどってみたが、この様子からも英米が競い合いつつ、当時中国の植物に対していかに夢中になっていたかがうかがえる。

ところで、生きたシナユリノキの個体がイギリスにもたらされたのは一九〇一年のことであった。ユリノキの渡欧が一六六三年であったから、実にその二三八年後の伝来ということになる。

生きて運ばれてきたシナユリノキの数本のうちの二本は、一九〇八年にロンドンのキュー植物園に植栽され、初代シナユリノキとして保存栽培されている。最近のキューの目録解説書によると、この中の一本は樹高約一五メートルに達し、毎年五月中旬によく開花する、という。また、当時導入した中で、最もよく生長している個体は、サセックス市のウェイクハーストプレスに植栽されたもので、樹高二六・五メートルに達している。ちなみに、シナユリノキの繁殖は、三月ごろユリノキの台木につぎ木すると容易に得られると報告されている。

ユリノキとシナユリノキとの形態的な区別点は、こうして先進諸国に確保されたいくつかの母樹からの標本によって次第に明らかにされることになる。

その後に発表された検索表によると、両種の主要区分は、次のようになる。

シナユリノキはユリノキと同じような耐寒性をもつ。生長は速いが、前者はユリノキほど大樹になることはない。葉はよく似ているが、裂片はユリノキが一ないし二の対側裂片になるのに対し、シナユリノキは常に一対の側裂片であり、その切れこみは深く、さらに主脈はより長い。また、葉裏は倍率の高いレンズでみると、小さなイボ(乳頭突起)でおおわれ、肉眼でみてもユリノキと比べ、白い。花被片の長さはユリノキの約半分で、外面は緑色で黄色を含まない。また羽状の堅果の先は、シナユリノキでは鈍で、ユリノキは尖る。

シナユリノキの存在は、わが国では、一般によく知られていない。筆者の知る範囲では、日本で花の見られる大きな木は、東京大学小石川植物園と埼玉県越ケ谷市にあるアリタキアーボレータムに植えられた二本である。いずれも一五メートルほどに立派に育っていて、日本での生育は米国産と同じくらいに良好であることを思わせる。

シナユリノキの天然分布

ところで長い間、世界におくれをとっていた中国の植物研究は、現在花盛りの時代をむかえ、分類研究の黄金期のように思える。

中国科学院およびその傘下の各省の植物研究所や大学の研究機関を単位とするフィールドワークは、中国全省におよんで次々と実施され、中国の学会誌に掲載されるその成果は、ふたたび世界の植物学者の注目を浴びている。

かつて、欧米のプラントハンターによって、中国の珍奇な植物は世界に知られるようになったが、その穴うめを中国では、今、自らの手できちんと整理しはじめており、その中から有用資源としての植物の見直しと絶滅に瀕する植物を区分けし、その利用と保護に本腰を入れはじめているのである。

ところで、十余年にも及ぶユリノキの調査探索の途中、筆者の脳裏にいつも浮かんでは消え、消えては浮かんでいたテーマは、本種、シナユリノキの自生状況についてであった。シナユリノキは中国のどんな所に生えていて、その生活形や分布形はどうなっているのだろうか。

こうした思いで、中国文献をたどりはじめた矢先、筆者は偶然にも親しい写真家を介し、ある人物と知り合うことになる。奇遇であった。

アジアの絶滅に瀕している種を次代のために残そうと東方植物文化研究所をつくり、目下、日中の友好活動に専心している荻巣樹徳氏がその人で、彼は、「六年前の一九八三年春、四川省の外事弁および関係部門の同意を得て同省の東南部、金佛山自然保護区とその周辺の調査に参加を許された際に、シナユリノキを見た」――というのである。

氏はその当時、四川大学に外国人としては初めての留学が認められ、四川省の辺境の地や峨眉山を中心としたフィールドワークを重ねていた。金佛山は、幻の植物、銀杉( Cathaya argyrophylla )の生息地の一つとして知られる。ちなみに、この銀杉は、スギ科とマツ科の中間に所属する珍しい形態をもった遺存植物で、中国の一級の保護植物に指定されている。氏のはなしによれば、シナユリノキは、この銀杉などの生育地にさほど遠くない所に自生していたというのである。

私の思いは広がり、さっそく、荻巣氏に、より詳しい現地での生育状態と自生写真が手に入らないだろうかと持ちかけた。氏は心よく私の願いをうけてくれ、友人で『四川植被』の編者の一人でもある中国科学院成都生物研究所の印開蒲氏に手紙を出してくれた。

その願いはすぐにかなえられた。二ヵ月後、印氏から二枚のカラースライドと共に、次のような内容の手紙がとどいたのである。

私はあなたの委託を受けて、川東へ野生のシナユリノキの写真をとりに行きました。もともとは江津県の四面山に行くつもりでしたが、その後、そこの生態環境は人の手がはいって、もう野生のシナユリノキは見られないということを聞きました。それで、コースをかえることに決め、四川省東南部の武隆県へ撮影に行きました。私たちは山のなかで何日か探して、とうとう武隆県西南部の貴州省に近い地点で野生のシナユリノキを見つけました。お手紙のご要求に従って、野生のシナユリノキの生態環境と現況について、以下の通り報告します。

野生のシナユリノキが生長している場所は、四川省の武隆県白馬山で、だいたい東経一〇七度三五分、北緯二九度一三分の地点です。白馬山は四川盆地の東南の辺縁、大婁山系の支脈、鶏篭山の西北翼に位置します。全体の地形はカルスト地形の中高山地形をなしています。母岩は二畳紀とシルル紀の石灰岩、土壌は上述の岩からできている山地黄壌と山地黄棕壌です。

『四川植被』の中で区分された区画によると、このあたりは川東盆地と川西南山地の常緑闊葉樹林帯ですが、川東盆地は湿性常緑闊歩葉樹林帯にかたよっていて、盆地東部の辺緑南部の中高山植被地帯の七曜山北部植被小区に属しています。

ここでは、海抜一四〇〇メートル以下は農耕地か、あるいは人工更新のタイワンアカマツ、コウヨウザン( Pinus massoniana, Cunninghamia lanceolata )の林です。海抜一六五〇メートル以下の日当りのよくない斜面と渓谷には、クリカシ属のCastanopsis eyrei やタブノキ属のMachilus ichangensis などの林がところどころぽつんぽつんとまとまって分布しています。海抜一六五〇~一八〇〇メートルには、おもにブナ科、クスノキ科、ツバキ科( Fagaceae, Lauraceae, Theaceae )などが分布する、常緑と落葉の混交林です。主要な樹種として、カシの一種、マテバシイ属ビィリディス、クスノキの一種、テンダイウヤク、シキミの一種、シナサッサフラス、ハマビワ属プンゲンス、シナヒョウヒョウグリ、ブナ属ロンギペティオラータ、ミズキ属メラノトリカ、ナナカマドの一種( Cyclobalanopsis sp., Lithocarpus viridis, Cinnamomum sp., Lindera strychnifolia, Illicium sp., Sassafras tzumu, Litsea pungens, Castanea henryi, Fagus longipetiolata, Cornus melanotricha, Sorbus sp. )など。灌木層の主なものとして、ウスゲネジキ、スノキ属ラエツム、シナルンディナリア属( Lyonia ovalifolia, Vaccinium laetum, Sinarundinaria sp. )などです。

野生のユリノキは、このような森林の中でほそぼそと生長しています。原生林は大々的に伐採され、そのあとにはタイワンアカマツとコウヨウザン、シナスギ( Pinus massoniana, Cunninghamia lanceolata, Cryptomeria fortunei )が植えられ、野生ユリノキの生存に大きな影響を与えています。現在、残っている個体数はわずかです。

私はまた、荻巣氏にシナユリノキの天然分布地図の作成を依頼した。さらに氏からは、その際に用いた六冊の文献の翻訳もいただいた。

以下、これら中国文献にあらわれたシナユリノキの概要である。

シナユリノキは、中国名を鵝掌楸という。また、馬褂木、馬挂木、遮陽樹とも記される。一般に、分類的には鵝掌楸を、造林や利用面の名称としては馬褂木が用いられる。馬褂木の由来は、葉が清代の馬褂(中国式の上着)に似ていることから、その名が付いたもので、日本でユリノキをハンテンボク(絆纏木)と称したことと類似する。また、地方によっては、名鴨脚樹とも四角楓とも呼ばれる。

野生のシナユリノキは現在、限られた地区にのみ点在しており、その面積も年々縮小されている。中国では、本種を国の二級保護樹種に指定している。しかし、シナユリノキの生育地の標高は、比較的低い所であるので、徹底保護がむずかしく、これまでかなりの自生域が耕作地化され、地上から消え去ったと考えられる。したがって、現存する天然更新地の緊急保護が急務である。

さて、その分布域だが、その後の調査と収集された標本などにもとづくと、主に長江(揚子江)以南の浙江、安徽省南部、および大別山区の海抜五〇〇~一四〇〇メートル、江西省盧山の一三〇〇メートル域、湖南西北部、湖北西部の一〇〇〇~一四〇〇メートル域、陝西南部、四川、貴州の海抜一〇〇〇メートル以下、雲南の海抜一七〇〇メートル以下、ベトナム北部などとなる。こうした地の残された天然林中に稀に生育する。植生としては、つねに常緑または落葉広葉樹と混生林をつくるか、小規模な純林をつくっている。

いっぽうで、新たな地での発見もあって、分布域も広がっている。ごく最近(一九八九年)、四川省の峨眉山麓、また、広西チワン族自治区の花坪、九万大山などでも発見され、標本が採集されたと伝え聞く。今後の調査次第では、まだまだ新分布が書き加えられる可能性も高い。

生育地の環境条件としては、比較的温暖で湿潤な気候、年平均一二~一八度、最低気温マイナス一六度、年降水量一〇〇〇ミリメートル以上で、相対湿度八〇パーセント以上を好むとされる。また、生育は比較的速く、福建省武夷山のものが三六年生で樹高二〇・五メートル、直径四〇・六センチメートル、江西省盧山のものが一一年生で樹高一五メートル、直径一〇~一九センチメートルを記録した、と報じられている。

樹齢一〇〇〇年の最大樹発見

「湖南省桑植県天平山南麓に高さ、四二メートル、幹径一・二メートル、推定樹齢一〇〇〇年に達するシナユリノキが残存する。………また、湖北省の建始、咸豊の両県にも、高さ三〇メートル、幹径一メートル以上、樹齢数百年の古木がある。………それらの樹冠はまるくこんもりと繁り、幹はまっすぐで、高くそびえて壮観である」

この衝撃的な情報を伝えてきたのは、一九八八年、中国科学院発行の『植物誌』三月号に載った揚志成の小論文であった。

揚志成は、中国林科院亜熱帯林業研究所に所属する林業系の植物学者で、「馬褂木及其造林」と題するその論文には、これまで未知だった利用や繁殖に関する中国側の最新の事情が報じられている。

天平山は、湖北省および湖南省の省境にあって、今世紀最大の発見として名高い生きた化石植物、メタセコイアの生地、湖北省利川県摩刀渓に近い。わずか約一〇〇キロの近距離にある。

実は一九八七年、筆者は、このメタセコイア( Metasequoia glyptostroboides )の生地を訪れている。その化石上の発見命名者として知られる三木茂博士(一九〇一~一九七四)の夫人、民子さんを連れ立った東方植物文化研究所企画の一行に加わっての旅であった。

中国は、まだ解放されていない所が多く、奥地のほとんどの地は未開放あるいは準開放地となっていて、外国人の入域は不可能となっている。その理由は様々に考えられているが、原則としては、中国側の動植物資源を含めた調査研究が終っていない地域、また、少数民族の生活する地域は開放されていないと考えるのが妥当のようである。

このとき訪れたこの地区一帯も、未開放地で旅行許可が認められない。しかし、民子夫人の熱意を中国側に伝えた荻巣氏の努力が実った。日本人として初めての特別許可であった。

私は、この旅で、ひそかにシナユリノキとの出逢いを期待していた。しかし、特別許可とはいえ、やはり目的地以外の行動は認められなかった。あげくのはて、訪れた一帯は、見事に耕作されていた。メタセコイアの巨木が、田畑や家屋の裏庭などに亭々とそびえていたが、付近に天然林らしい林相はなかった。

私は、この旅の翌年に前述の揚志成の論文に接することになるが、シナユリノキの古木が、そのとき訪れた地の隣りあわせにあるなどとは想像もつかなかった。

シナユリノキの自生域に近づくことは、現状況ではとても困難なことである。

であれば、せめてこの最大樹の写真だけでも入手したいものとばかりに、現在、日中合同の薬用植物調査で、湖北省の神農架にたびたび入っている岐阜薬科大学の水野瑞夫博士に助けを求めた。その地が管轄下にある武漢植物研究所に写真撮影を依頼していただいたのである。しかし今もって、現地から音信はとどいていない。

はなしは横道にそれた。以下に、揚志成の論文にみられた興味ある情報を列記する。

  1. 結実=シナユリノキは種子を多産する種類であるが、雌しべと雄しべの成熟期が異なるため、わずかな種子しか結実しない。またこの事情は樹齢や林相によっても異なる。壮成木では単木の場合の発芽率は非常に悪く、○~五・六パーセント。しかし、林地では二〇~三四・八パーセントになる。それが、樹齢を重ねると充実した種子をもつ比率は年を追って高くなり、三〇〇年生の母樹ではひんぱんに結実する。
  2. 生長度=シナユリノキの生長の速度は、幼樹は比較的遅いが、二〇年生ほどになると急速になる。樹高一四メートル、幹径二四センチメートルの二二年生の天然の伐採木を調べた結果、その年輪は○~五年では六ミリメートルだったものが、一五年後には幅が広がってきて、二二年になると一年幅が二・六センチメートルであった。この速度は、三〇年以降にはさらに速くなり、その勢いは一〇〇年経っても衰えることはない。
  3. 生育地=気候的に適応範囲は広く、春に十分な雨があること、年雨量が均一であることが理想である。土壌としては、適度の湿度があり、排水の良好な山地の黄壌あるいは黄棕壌で、砂丙岩や花崗岩などを好む。土壌のPH値は六・五~七を正常とし、七・七でも生長する。育林的には窒素肥料が重要で、窒素不足は生長を遅くする。このことから、シナユリノキは亜熱帯地区の山地や丘陵でも植栽が可能である。
  4. 植林=中国では現在、全国で約一・三万ヘクタールのシナユリノキの人工林がある。このうち湖北省で約半分を占める。この木材は淡紅色の散孔材で、質は細かく均一である。家具や細工物にむくが、早生木なので、現在中国で不足しているパルプ、ベニヤ材として有望である。
ユリノキとシナユリノキの関連

さて、中国側としては、アメリカ産のユリノキは「わがシナユリノキの他に地球上に残存する一種で、それはアメリカ産の鵝掌楸」と位置づけすることになる。

鵝掌楸とアメリカ産の鵝掌楸、その二種の系統と関連を中国の学者は、どのように理論づけるのだろうか。

その興味あるテーマに答える研究発表が、中国の分類記載文献として有名な『植物分類学報』に報じられている。

モクレン科の分類を専門とする劉玉壺教授(中国科学院華南植物研究所)が、同誌一九八四年二二巻二号に発表した「鵝掌楸属分類系統の初歩的研究」の一説がそれに当たる。その内容の概略を紹介すると――

鵝掌楸(シナユリノキ)はかなり原始的な形質をそなえている。葉のふちにはきまって一対の側裂があり、花被片の裏には黄色の脈線がある。また、雄しべは花被の上に突き出ていて、花粉粒の外壁には浅い網状の紋様がある。これらの特徴は、いずれもきわめて原始的形質であり、かなり固定した特徴である。これは、長い間、鵝掌楸はその発源地の自然環境にとどまっていたためと考えられる。これに比べると、アメリカの鵝掌楸は、かなり進化した特徴をもっている。それは中国産からの変化形であると、類推できる。

つまり劉教授は、アメリカの鵝掌楸は、かつて白亜紀の時代に、原産地中国からの一部が、長時間、長距離にわたる遷移を経て、分布域を広げ、新しい環境に適応していく過程でおこった形態変化である――というのである。

したがって、アメリカの鵝掌楸は、中国の西南山岳地に源を発し、後にアメリカに遷移し、長い間の地理的な隔離を経て形成されたもの――と結論する。

劉教授は、その理由、つまり鵝掌楸の変化および進化の特徴として、次の四点に着目する。

葉が一対の側裂から二対の側裂へ変化していること。花被片の基部が黄色の脈紋から幅広いオレンジ帯へと変化したこと。雄しべ群が花被の上に突き出た状態から、花托が縮み、雄しべ群が花被の内側にかくれた状態へ変化したこと。花粉粒外壁の紋様が浅い網状から幅広い約二倍の高さの雕紋へ変化したこと。

以上、専門用語がやや多いが、いずれも外部形態に関することなので、論旨をたどることはそうむずかしくない。

いずれにしても、中国産を起源とした劉教授の指摘は、植物系統学的に両種の関連にふれたきわめて大胆な発表であり、今後、この記載をめぐる米中の論争が楽しみといえる。

このテーマに興味を持つ読者は、一三ページの、植物化石学者村井貞允博士による「化石のなかのユリノキ」を読みかえしていただきたい。わが国で採掘された数種のユリノキ化石のデータが、現存二種の系統を解明する重要な証拠標品として、注目を浴びる日が到来するかも知れないからである。

(毛藤 圀彦)

コンテンツ一覧▼ 目次をクリックすると、各記事をご覧いただけます

第一章 ユリノキという木

一、化石のなかの「ユリノキ」 村井貞允
  • ユリノキ属の出現
  • わが国におけるユリノキ化石発見の歴史
  • 琵琶湖よりも大きかった古雫石湖
  • ユリノキ化石の仲間たち
  • ユリノキの繁茂した古環境
  • ユリノキの仲間のうち、興味ある種類
二、北米産ユリノキのこと 四手井綱英
  • 東部森林の代表者ユリノキ
  • 外国樹種の導入
  • 導入の失敗と成功例
  • ユリノキへの期待
三、シナユリノキのこと 毛藤圀彦
  • シナユリノキ発見の記録
  • リリオデンドロン・キネンセ
  • シナユリノキの天然分布
  • 樹齢一〇〇〇年の最大樹発見
  • ユリノキとシナユリノキの関連
四、ユリノキの名前
  • 呼び名いろいろ
  • ハンテンボク
  • イエローポプラ
  • チューリップツリー
  • カヌーウッド
  • サドルツリー
  • カナリーウッド
  • バスウッド
  • ホワイトウッド
  • ユリノキの学名
  • リリオデンドロン・ツリピフェラ

第二章 ユリノキのふしぎな形態

一、花
  • 原始の花
  • 緑色の花冠
  • 古代花の形質
二、葉
  • 葉先のない珍しい葉形
  • 難解な葉の表現
  • 発見した小さな突起物
三、生長
  • どのくらい大きくなるのか
  • 生長迅速
  • 容姿端整
四、寿命
  • 樹高六〇・四メートルの巨木
  • 枝と幹と樹皮
五、ユリノキの薬効と成分 指田豊
  • 北米インディアンの薬木
  • 抗癌作用のあるユリノキ成分
  • 辺材が示す抗菌物質と香りの成分
六、花蜜
  • 一花に小匙一杯ほどの
  • 蜂を呼ぶ
  • 蜜の品がら

第三章 アパラチア山麓のユリノキ

一、チューリップの木の花かご
二、幻のユリノキを訪ねて
  • 手当たりしだいの伐採
  • 神々の樹との出会い
三、天然林に生きる
  • 天然更新できない理由
  • 世紀末をむかえたユリノキ
四、ユリノキ天然林の植物相
  • 山岳天然林
  • 低地天然林
  • 丘陵地天然林
  • 河床地天然林
  • ユリノキの食害
五、伐りつくした材
  • 「光沢の白材」と呼ばれて...
  • 木材としての価値
  • 材の堅さと強度

第四章 ユリノキ・ニッポン物語

一、日本渡来考
  • 伊藤圭介説と田中芳男説
  • 不発芽に終った第一号
二、長岡苗木について
  • 初代の並木たち
  • 公園設計の父・長岡安平
  • 御苑ユリノキを母樹として
三、小泉苗木について
  • ユリノキ二世のルーツ
  • 啄木と同期の小泉多三郎
  • 造園業のパイオニア藤村「豊香園」
四、横山苗木について
  • 造林の先駆者・横山八郎
  • 小泉苗木を継いだ横山苗木
五、ロウソクノキの林
  • 紺野ツマさんの林
  • 半世紀後のみごとな林分
六、新宿御苑のシンボル
  • 御苑の来し方
  • 寄せ植えした三本
七、上野・銀座のユリノキ
  • 牧野富太郎の設計
  • この木なんの木
  • 銀座のユリノキ
八、受難のユリノキ二題
  • 三菱爆破事件の顛末
  • 「宮沢賢治の母校並木」の顛末
  • 植栽用途と生育状況の把握

第五章 都市と田園のユリノキ

一、植えたい人へのメッセージ
  • 「田園の幸福」の花ことば
  • 植栽上の七つのポイント
  • 北限および南限と適地
  • 防火樹としての効果と萌芽力
  • 枝折れ
  • 冬の小苗管理法
  • アメリカシロヒトリ
二、ユリノキの優れた園芸品種
  • 樹形変わりと葉の変化
  • 新品種への期待
  • 現在の園芸品種
三、世界の国のユリノキ事情
  • 九カ国の生態学者に聞く

第六章 ユリノキ実験考

一、移植
  • 成木移植はむずかしい
二、三年生株と幼苗の移植実験
三、実生苗
  • ユリノキ苗木の量産法
  • 種子のカーペット
  • 樹下採苗
  • 四〇パーセントに近い硬実歩合
  • 五〇〇メートルも飛ぶ翼果
  • 一樹から採れる種子数

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