二、幻のユリノキを訪ねて
○手当たりしだいの伐採
アパラチア山脈( Appalachian Mts. )は、北アメリカ大陸の東部を、北東から南西にかけて縦走する約二〇〇〇キロメートルに及ぶ老年期山地である。
地質学的には古生代の地層で、はじめは古い時代の厚い地向斜堆積物におおわれていたが、石炭紀から二畳紀にかけて起こった造山運動によって、長大な台地のような山並みをもつアパラチア山脈が誕生した。したがって最高峰といわれるノースカロライナ州のミッチェル山( Mitchell Mt. )でさえ、標高は二〇三七メートルである。
南部の広い台地は、南のほうからカンパーランド台地とアレゲーニー台地とに分けられるが、これを一つにして単にアパラチア台地と呼ぶこともある。
とくにアレゲーニー台地は、アメリカ最大のペンシルベニア炭田で有名だ。この台地に源を発するテネシー川の上流地域は、去る一九三三年にルーズベルト大統領がTVA(テネシー渓谷開発公社)を開設して、電力発電・土地保全・治水・植林・農工業などの振興を総合的に計ったことで世界の注目を浴びた場所である。
さらに北の、山脈の中央部にあるバレー・アンド・リッチ台地は無煙炭を産し、その北西部に拓かれた油田は、今世紀のはじめにはアメリカ産油量の五〇パーセントを占め、現在では斜陽化しているが、いまだに膨大な埋蔵量を残している。
そして、北上してブルーリッジ台地、さらにピーモント台地と呼ばれる準平原地帯を経て、遠くカナダと国境を接するオンタリオ・エリー・ヒューロン湖の近くでアパラチア山脈は終っている。
この山脈こそ、かつては分布面積が五二〇万ヘクタールに及んでいたユリノキの母なる山々であり、古里なのである。ユリノキはこの山並みの広大なふところに抱かれて、数多くの樹木たちとともに計り知れないほどの世代を繰り返してきた。
しかもユリノキはいつでも、林の上層の樹冠部まで伸びて空高く突き出し、遠くからもそれと見分けられる地位を占めてきた。とくに天然林のなかのユリノキは陽光の照射が少ないため、たとえ樹幹が細くても側枝はきれいにそろっており、むしろ樹木の密度が増すほど、まっすぐな幹を形作って、他の多くの樹木に見られるように、森林の中間層で変に曲がりくねったり圧しひしがれたりすることはなかった。
大森林のなかではさまざまな樹木と混生して、まるでたくさんの使用人にかしずかれる家長のように、その中央にユリノキが存在していることが多い。他の木にまさって常に美しさを誇示し、とくに枝下がひときわ高く、見上げるとまっすぐな樹幹は尽きることがないほど天に伸びているので、この木を用材としたとき、節のない立派な板材がとれることを生きた姿で示していた。
ユリノキの分布地は、ニューイングランドといわれる北東部の諸州(メーン・バーモント・ニューハンプシャー・マサチューセッツ・ロードアイランド・コネチカット)の西から、ミシガン湖の南端を南下してルイジアナ州に至り、東に向かってフロリダ州の中央部を結ぶ範囲の、アメリカ東部地帯である。そのほかには、カナダのオンタリオ州の南部にも分布していて、開拓がすすむにつれて、いずれも重要な樹木に違いなかった。
この広い地域のなかで、分布密度が最も濃くて所々に巨木が点々と散在しているのは、ミシシッピー川の支流、オハイオ川の下流の流域に発達している山ぞいであり、このほかに、ノースカロライナ・テネシー・ケンタッキー・バージニア・ウエストバージニアの各州が含まれる。
このような分布地域のいたるところで、めぼしいユリノキは手当たりしだいに伐採されつづけてきた。天然林から伐り出された丸太は、谷川で筏に組まれ、渓流に出ると大筏に組み直されて川を下り、平野部の製材所に運ばれた。盛んに乱伐されていた当時の大筏の六割までの丸太はユリノキだった。ほかはクルミ類やシラカシ類などであった。
すなわち、ケンタッキー州を例にとると、ユリノキは、全州産出材最高量の地位を連続して一四年間も保持した。記録によると、ケンタッキー産のユリノキ材全製材量は、もちろん板材としてだが、一九二〇年当時で、年間一八〇〇万立方メートルとも、また二〇〇〇万立方メートルともいわれるほど膨大なものだった。
このような乱伐の歳月がつづいて、ユリノキの広い古里は滅亡に近い痛手をうけてしまった。
寄稿者の一人である毛藤圀彦は、ユリノキの古里の地に、今日では、ほとんど消滅してしまった幻の原生巨木を求めて、アパラチア山脈とその山麓一帯を踏査し、車を駆って三九〇〇キロメートル余りの旅を終えて帰ったが、そのときの印象を『アサヒグラフ』誌上で次のように報告した。
○神々の樹との出会い
ワシントンを発って一〇日、すでに三〇〇〇キロ近くを走っていたから、肉体の疲労もあったが、暗いのめりこむような気持ちになったのは、別な理由である。私はまだ、満足できるユリノキの原生林に一度も出会っていないのだ。
人も馬も通さぬあの黒い森、インディアンも恐れて立ち入らなかったという奥深い原始の樹海は、これまで影さえなかった。明るく整えられた再生林は多く見たけれども、それは往時の破壊の跡であった。苛立ちというより、むしろ怒りに近い感情に私はとらわれていた。
アメリカ大陸開拓史が、そのまますさまじい森林破壊の歴史であったことを、いま私たちは知っている。一九世紀の初め、東部海岸から西部へと向かった白人開拓者が最初に突き当たったのはアパラチア山脈だった。開拓の名を借りた乱伐がおこなわれ、この地帯のめぼしい木は片端から倒されて、とくに有用樹であるユリノキは相次いで姿を消していった。
住居の丸太小屋とするために伐られ、追われて森へ逃げこんだインディアンたちをさらに追うために伐られ、欝蒼たる森への恐怖感からも伐られていった。間拓者たちはアパラチア山脈のふもと一帯を覆っていたユリノキ原生林を根こそぎにし、さらに山を越えて中部へ、そして西部へと進んだのだった。
翌日、ジョイス・キルマーの森に足を踏み入れた時、私の思いは満たされた。
このユリノキ原生林は、ナンターラ国立公園のほぼ中央部に位置している。ケンタッキーとの州境にあるグレート・スモーキー・マウンテンのちょうど南面にあたり、ゆるやかに起伏する湿潤な肥沃地帯であった。森から出るひとすじの清流は深い渓谷をつくって山なみを切り、西へ流れてテネシー川にそそぐ。巨大な自然倒木の橋を渡って森に入ると、一〇分ほどで「ポプラー・ケープ」の小さな立て札があり、幾本かのユリノキの大木が見えた。そこを右に曲がると、巨木のユリノキが何本も連なって目に入った。
私はここで、目通り直径一メートルを超えるユリノキだけで五〇本まで数えたが、それらの中では、樹高約五〇メートル余、胸高直径一八五センチメートルが最大樹であった。
そこここに木漏れ陽がふりそそぎ、灰褐色の樹幹にあたって揺れている。森の内部は意外と明るく、視野もきいた。見上げると幾重にもかさなった黄葉のかなたに青空と太陽の気配がある。
それらのユリノキは、根元からその太さをほとんど変えることなく、幹を三〇メートルから四〇メートルまで直立させ、その堂々とした姿は、これまでに私が見たどんなユリノキよりも立派だった。
現在、ユリノキがよく昔のままの状態で天然林に混生する場所を見たいなら、ノースカロライナ州の州都であるアッシュビルから南へ約一六〇キロメートルの小さい町、ロビンスビルまで行き、その町から一五キロメートルほど隔てた、ここ、「ジョイス・キルマーの森」を訪れるのがよいだろう。
また、同じように保存されている場所は、ケンタッキーダービーの開催地として知られるルイスビルの大自然公園地内の一部にあって、ここでもユリノキの天然林を見ることができる。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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