八、受難のユリノキ二題
○三菱爆破事件の顛末
川崎市川崎区浅田の永井清さんは、さほどの用がなくても、いつも好きなカメラを肩にかけて、足の向くまま東京都内のあちこちをさまよいながら、気の向くままにシャッターを切るのを唯一の楽しみとしていた。
昭和四九年八月三一日正午少し前、ちょうど丸の内のビル街の近くを歩いていた永井さんが、突如、思わず飛び上るような大きい爆発音に仰天して一瞬立ち止まった。突発事件発生と直感した永井さんは、次の瞬間には、爆発音がした方向に夢中で突っ走っていた。
二、三分間も走ったろうか、そのとき無気味にサイレンを鳴らして高層建築の谷間に入って行く救急車を見た。
永井さんはその後を追った。走り着いた爆発の現場は、三菱重機ビルの玄関前だった。
そこには、プンと鼻を衝く異様な臭気をもった硝煙がただよい、舗装道の一面に散乱する大小無数の硝子の破片の中で、すでにこと切れた死体、伏し倒れてうめき苦しむ重傷の人びと、軽傷だった人たちも血にまみれた両手で顔を覆い、その場にかがみ込んで全身を震わせていて、さながら地獄絵のような惨状を呈していた。
先着の救急車はすでに救護活動を開始していたし、後続して現場にかけつける数台の救急車のサイレンの音がだんだんに大きくなってきた。
永井さんは、咄嗟に「今の私にできるのは記録だけだ!」と、自分に言い聞かせ、携えたカメラのシャッターを切りまくった。
このときの写真は、直ちに朝日新聞紙上に登載され、昭和犯罪史に残る貴重な資料となった。
この爆弾事件で吹き飛ばされた多数の死傷者と部厚い多数の窓硝子のほかに、微塵になって吹き飛んだものに丸の内通りの並木として植えられていた数本のユリノキがあった。
有楽町一丁目から丸の内三丁目を経て二丁目までの約一六〇〇メートルの区間、ここは日本最大のビジネス街で、東京駅寄りに新有楽、新国際、新東京、古河総合、三菱重工、丸の内の各ビル及び東京駅中央口真前から出る道路を越えて新内ビルまでの間の道路に七八本、またこの向かい側の東京海上ビルから広い道路を越したところに連らなる三菱商事、三菱重機、千代田、明治、富士、国際の各ビルまでの間に六三本、他にただ二本だけのポプラを加えた一四三本が、いずれもよく手入れが行きとどいていてスックと伸び、整然と並んだユリノキの並木通りを造り出していた。
このユリノキ・アベニューは、通常日は有楽町方面からの一方通行となって、東京駅中央囗側からの乗り入れを禁止し、とくに正午から午後一時までは、ランチョン・プロムナード( Luncheon promenade )と呼んで歩行者天国となっていた。
正午を少し過ぎると、各ビルから色とりどりのオフィス・スーツをまとったOLたちが、バレーボールやバドミントンなどに興ずる賑やかな並木通りに変わってしまう。
この日、もしビル前のフラワーポットのわきに置かれた二個の時限爆弾の爆発が、ものの三〇分遅れたとしたら、粉々に破れて飛び散ったユリノキの生きた葉の数にも劣らぬ犠牲者を出し、想像もつかぬような大悲惨事となっていたに違いない。
爆発時、不運にも通り合わせた通行人の内、死者七名、重傷者一六五名、軽傷者二一一名が犠牲となり、物的損害も、当時の金額で四億二〇〇〇万円に上った大事件であったからである。
突如として起こったこの事件は「東アジア反日武装戦線〝狼〟」と名乗る大道寺将司等四人の若者たちの犯行であった。
永井さんは、このあと、当時の惨状を偲びながら、
「偶然に撮ったものですが、事件を起した犯人も私と同じ世代の者たちです。戦争の経験のない若者が、戦場のような事件を起したことを、非常に悲しく思います。今後は悲しいものでなく、楽しい写真を撮り続けたいと思います」と述べている。○「宮沢賢治の母校並木」の顛末
盛岡市上田にある岩手大学農学部附属植物園には、樹齢八〇年を超す国内産や外国産の樹木が多く、学術的に貴重な教材樹木地として高く評価されている。
市民は「上田の森」と呼んで親しんでおり、とくに梨木町から植物園入口の旧正門までの、盛土によって造られた堤防状の通路の両側に立つ一六本のユリノキの並木は、樹齢六〇年を超え、約二五メートルと高く、その大きさでも美しさでも盛岡市随一のもので、「宮沢賢治の母校並木」と愛称され、名所の一つとなっていた。
昭和五六年八月二三日、折しも日本島を襲った台風一五号は、東北地方南部をかすめ、宮城県南部より上陸して、速度を増し、岩手県の内陸部を北上して、津軽海峡から進路を東にかえて太平洋上に去った。 時速七五キロメートル、最大瞬間風速三三メートルの一五号台風の目が盛岡市の真上に達したのは午前九時半ごろだった。そして一一時少し過ぎには通り魔のように去って行ったが、この間に降った雨は八八ミリメートル。その降雨の状態は断続的で、三〇メートルを超す強風に煽られ、今まで毎年のように夏から秋にかけてやってきた台風や、その年の春を告げる春一番の南から吹きつける強風などとは、明らかに異なったものであった。
すなわち、風向が西に卓越したこと、風速が大きく、かつ集中豪雨の様相を呈しながら、断続的に長時間に及び、強風圧が倍加されたことなどであろう。
このため、盛岡市内の植えて間もない街路樹、すでに空洞が発達していた庭の老木、さては老朽したため、つっかい棒で支えていた物置小屋などはひとたまりもなく倒され、甚大な被害をうけた。
しかし、岩大植物園はもともと樹木群を構成することによって風に対する耐性の大きさを誇っていただけあって、たまたま主幹に腐朽が進んでいたアメリカトネリコ、ポプラなど数本の風倒木が出たに過ぎなかった。だがこのなかにユリノキ並木の中の一本のユリノキが含まれていた。しかも、このユリノキが、二階建ての人家の北面に接触し、屋根の一部とその下の外壁用の腰板を剥ぎ落とした。二階の部屋には家族の者がいなかったので事なきを得たのは不幸中の幸いであった。
植物園内の樹木のすべてが国有財産なので、大学では直に台風の被害調査書を作成して文部省に報告した。
この報告に対する文部省の通達はきびしく、「今後において倒木により人身事故または建築物の毀損をおこすおそれのある立木は、この際処分せよ」というものだったという。
翌月には、大学全学部にわたって周辺の広い道路沿いの一五メートル以上の立木と、小道をはさんで人家のある場所の針葉樹を除く一〇〇本を超す大樹は、ほとんどの枝葉が伐り取られ、幹には地上から約五メートルの所で鋸を入れた。また校舎に近い大樹も、主幹の三分の二くらいの位置で伐られ、大小の全ての枝が完全に伐り落とされて、あたかも生木の棒を立てたような姿になり、まるでゴーストタウンさながらの様相に一変した。
中でも危く人身事故だけは避け得たものの、上田の森のシンボル、ユリノキ並木のユリノキは、旧正門ぎわの一本を残し、全てが根ぎわから伐り倒され、市内の業者に払い下げられた。その業者はその全部をチップ工場に売却した。
こうして、一五号台風が一過して一カ月も経たないで、一本のユリノキが、人家をかすって倒れたことが契機となって、仲間の一四本のユリノキは、まだ日陰が欲しい時期なのに、根元の直径の最大値一三三センチメートル、最小でも七二センチメートルの伐り口に、六十数本の年輪を哀れ九月の陽光に哂らした。
農学部戸沢俊治助教授は「旧正門通りの並木について」(昭和五七年二月岩手大学農学部付属演習林業務資料・第四〇号)の中でつぎのように述べている。
ユリノキ並木はこの数十年間、地域のシンボルとして、学生、市民にとって大きな精神的なよりどころとなり、また、大気浄化、防風、防火の機能を果し、更に春の新緑、夏の緑陰、秋の黄葉、冬の巨木の安らぎなど、四季折々の生活に大きなうるおいをもたらし、大学はもとより、近隣住民にとっても保健林的、屋敷林的機能をあわせ果してきた並木であった。(中略)樹木の側から見たユリノキの風倒誘因としては、①立木の位置が盛土法面の法頭で、風圧を最も強く受けやすい場所であること。②立木の根元まで道路が舗装された結果、根系の発達が道路法面に限定されていること。道路西側の並木は西側法斜面に根系が伸長し、そして東側の立木は東側法斜面にのみ伸長するよう余儀なくされていること。③並木の樹齢が壮齢に達し、根系の生長に比較して幹枝の生長が著しく、やや樹高高で、風圧を受けやすかったことなどが挙げられる。なお、道路の西側に立っているものは、根系が西に伸長発達していることによって、西風圧に対して引張りの働きをなして倒伏を免れることができたものと考えられ、反面、東側に成立しているものは、根張りが風圧と反対の東側斜面への発達のため、抵抗力が小さかったと見ることができる。東側に成立している倒伏ユリノキは、西側に防風障壁となる樹木がなかったため、直接に西側と同様の風圧を受けることとなり、倒伏するに至ったものと判断される。
それにしても、高伐実施後一〇年余りを経過しており、樹体のバランスから考えて高伐を施す時期にきていたとはいえ、一五号台風による倒伏被害を免れたものに対しては、高伐や整枝の処理を行うことなどによって、保存の方途を見出すことができなかったものかと残念に思われる。
上田の森の並木を構成していたユリノキたちは、道の両側に向かい合って助け合いながら、異常な風向で強烈な風圧を与えた自然の試練に打ち勝って残った。ただ、道の西側にあって防風障害壁となってくれる仲間を持たなかったため、倒伏せざるを得なかった東側の一本のユリノキを除いては……。
なのに、一蓮託生の言葉の通り、ことごとくが樹齢六〇余年で、大型クレーン車のロープで幹をしぼりあげられながら、アッという間に地ぎわからチェーンソウ(機械鋸)で伐られ、やがてチップ工場に運ばれて全身をこなごなに砕かれた。
どうして、一〇年前にやったと同じような高伐施業を行って、何十年に一回しかない異常なこんどの台風に耐え抜いたユリノキたちの生命を守ってやれなかっただろうか。どんな理由はあったにせよ、「宮沢賢治、母校のユリノキ並木」として長く保存して欲しかった。哀れ受難のユリノキだけにはして欲しくなかった。
だが、せめてもの救いは、旧正門を入ってのすぐ左側の一本だけが、仲間の受難の歴史のあかしの木として残されたことであった。
○植栽用途と生育状況の把握
ユリノキは日本に渡来してまだ一〇〇年余りの新しい木であるので、在来の木と違って植栽データが意外にとぼしい。いま、おおづかみでもよいから、ユリノキの所在状況を全国的な視野で調べておけば、何十年か経過したあと、日本列島のユリノキの植栽の推移を史的に眺めるのに役立つだろうと考えた。そんな思いで、全国の都市から約六八市を、無作為に抽出して、各市役所の緑化関係の担当者に植栽状況調べをお願いした。この結果、回答を寄せていただいたのは二四四件で、七三カ所のユリノキの植栽状況が判明した。詳細ははぶくが、次は植栽場所と用途別の集計である。
【植栽場所】
公園その他の憩いの場所 ……… 四〇% 大学など学校の校庭 ……… 二五% 街路樹(並木を含む) ……… 一七% 【用途】
街路樹として ……… 五二% 並木として ……… 三二% 校庭樹として ……… 一三% 公園樹として ……… 三% 場所と用途との順位の逆転は、一件ごとの植栽本数の多少によるもので、街路樹一件の本数は一二一・四本、並木は七七・八本、校庭樹は二三・二本、公園樹にいたっては二・九本と最も少ないためである。
【樹齢による区分】
街路樹と並木は一般に樹齢が若くて、四〇年を超したものは一件しかなく、他はすべて二〇年以内であった。しかも、五~一〇年生のものが三七・五パーセントを占めていて、ユリノキが街路樹として登場した歴史の浅いことを示している。ただし、東京・大阪・京都などは例外で、件数と本数こそ少ないが、街路樹としては早くから用いられていた。
これに反して、公園樹と校庭樹の場合は二〇年生以上が七〇パーセントを占め、そのうち、植栽して五〇年を超すもの二一パーセント、四〇年代のもの二四パーセントと、大半が壮齢木である。
【樹齢と生育との関係】
平均樹高では、並木が八・〇メートルで、街路樹の六・一メートルを超えてはいるが、公園や校庭に植えられたユリノキの一五・六メートルの半ばにも達していない。とくに街路樹は、毎年強度に剪定されることが多く、現在のような剪定が繰り返されるかぎり、この平均値に今後も大きい変化はないと思われる。
幹の太さでは、並木と街路樹の平均直径は二五センチメートルで、樹高にくらべてズングリ形であるのに対して、公園樹や校庭樹は樹高とのバランスがほぼ良好な四〇センチメートルの太さで、ユリノキ本来の姿に近い生育をとげていると見てよい。
ところで、ユリノキの原産地の中心部であるアパラチア山脈と同緯度内に、わが国の、北は東北地方から南は山口・高松にいたる範囲が重なるが、この地域では、北に行くにつれて次第に樹高と直径が大きくなる傾向を示している。この範囲よりはみ出した地域、北の北海道や、南の四国南部および九州南部地方のユリノキになると、並木でも樹高が六・〇メートル、幹の太さが二〇センチメートル、公園樹や校庭樹でも樹高が九・四メートル、幹の太さが三二・八センチメートルとなって、小型化していることが分かる。
また、このときに調べた限りでは、日本海側よりも太平洋沿岸部のほうが、ユリノキの生育に関してはまさっている傾向があらわれていた。
なお、海辺の砂丘近くに植えて生育不良のまま経過している新潟県の例や、寒風と豪雪のために育たなかった石川県の例、日向灘に面した土地で台風の惨憺たる被害をうけた宮崎県の例、植栽した二五本のユリノキがすべて原因不明で枯死した広島県の例など、各地のさまざまな事例が寄せられている。
植栽した全木が枯死というような例は、そこが桑園の跡地のモンパ病菌に侵された土壌であったのか、あるいは蟻類やベッコウタケによる被害なのか、または過度の乾燥といった土地のためか、原因を究明してみたい思いである。
なお、この調査の概要は全国ユリノキ・ウオッチングに示した通りである。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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