七、上野・銀座のユリノキ
○牧野富太郎の設計
人いきれする上野駅の構内を、案内板に導かれながら上野公園口の改札口に近づくにつれ、雑踏のざわめきが次第に薄らいでくる。駅を出て公園に入ると、両側からすっぽりと木々の葉が覆いかぶさった緑陰の道となる。ふと立ち止まれば、さすが大都市ならではの騒音が、うなり声に似た遠いひびきとなって地底のほうから聞こえてくる。
やがて道が開けたところに差しかかると、右に見えるのが国立科学博物館である。見上げるほど大きい鉄の大扉の奥に、広々とした芝生を包むようにして、コの字型に中央には本館と法隆寺館、左手に表慶館、右手に東洋館が連なり、どっしりと静かに構えている。
数多くの洋風の窓が整然と並ぶ本館に向かって進むと、白亜の大建築が眼前に高く大きく広がり、左右の建物も次第にせり出してくるような感じをうける。中央玄関前に設けられた池の左手に、背景の本館とよく調和を保って一本の巨木が孤立してそびえ、石造りの本館の壁面をいっそう引き立てている。
正面玄関のこの木は、まぎれもなくユリノキで、樹高三二メートル余り、幹の周りは四メートルを超しているから直径で一三〇センチメートルと大きく、ピラミッド形に枝を張って四方へ繁り、まことに堂々たる容姿である。
このユリノキを植栽した経緯を知りたくて、私は同館の施設課のドアをたたいた。心よく会ってくれた長田係長の話は次のようなものであった。
本館の建設は昭和六年に始まり昭和一三年一一月に完成していますが、中央玄関前のユリノキは牧野富太郎先生が選んだものです。完成時に宮内省からユリノキやヤナギなどの苗木を荷車に積んで運んだことを思い出します。
玄関前のユリノキは、そのとき高さが四メートル、幹の根元のほうの太さは七センチメートルほどあったと思います。ユリノキを植えたところは牧野先生が図面で指示された位置で、いまの場所は、そのときの位置そのままです。残った苗木は、すべて建物の裏手に植え付けました。
博物館の人たちは、初めのうちは生長のすばらしく速いのに驚くだけで、花の咲かない木だとばかり思っていましたが、開花に気がついてからは、その奥ゆかしさと美しさに魅せられ、館の人々の人気の的となりました。昭和二五年ごろからは無数に花を咲かせるようになりましたが、満開時には上の窓から眺めるのが最もすばらしいことを知って、二階や三階の窓越しに皆で花見をしたものです。
こんなことで、いまや玄関前のユリノキは国立科学博物館のシンボルの木となり、〝ユリノキの殿堂〟と呼ばれるのにふさわしい巨大木となりました。この木があることを館員はだれでも誇りにしています。なお、夏には大きい木かげを作りますから、来館者の憩いの場所としてベンチを置いております……………。
長田係長の話の最後に出てきた〝ユリノキの殿堂〟ということばから、私は文筆家の辰木久門の一文を思い起こした。
上野の森の博物館正面玄関前のユリノキは、冥想にふける巷の孤独者だ。この孤独者は地上の醜悪を否定するかのようにそそり立ち、花だと気づかぬ無数の頭上の花が、下の雑踏とは無関係な幽玄をともなう趣きに満ち、ひっそりと頭上高く咲く花に、静かな冥想の別の世界への憧れを感じさせる。この大樹あるが故に、いつか人々はこの博物館を「ユリノキの殿堂」と呼ぶにいたった。
○この木なんの木
このあと館内を一巡するのに三時間余りを要し、時間の都合で不本意ながら素通りした蔵品については他日を期して、建物の外に出た。玄関から踏み出して夏の午後の暑さに包まれたとき、足が棒のようになっていることに気づいた。惹かれるように傍らの緑陰の下のベンチに腰をおろした。
頭上の大きい葉がわずかに風にゆらいでいた。このとき、私はその小枝の根元に、手でちぎったような紙片を発見した。
それは荷札より少し大きめの厚い紙で、上縁にあけられた二つの穴に細いビニールの紐を通して枝に吊したものだった。しかも、紙の両面には、サインペンらしい文字で「ユリノキ(モクレン科)」と横書きされていた。
だれかが持ち合わせの紙で造ったラベルであった。いつの日か博物館を訪れた心ある人が、しばしこの緑陰に憩いながら、思い立って書き残していったものであることは明らかである。
急ごしらえの一枚のラベルを、葉で見え隠れする枝にひっそりと吊り下げて立ち去った人の奥ゆかしさに、私は感動した。
それから年月のたった今は、すでに用をなさなくなってしまったと思うが、その年にここを訪れた多くの人たちへ、一枚の手造りのラベルが正しい樹名を印象づけたことは確かだろう。
今までに見たことのない樹木の偉容や花の美しさに触れて、心を惹かれた人々は「この木は、なんの木」「この花は、なんという花」と、きまって囗にする。この問いに応えて、その木や花の正しい名を示すことが、その木を植えた人、その花を咲かせた人の、一つの務めと考えてほしいものだと、私は思っている。
○銀座のユリノキ
明治五年(一八七三年)に東京市は、現在の中央区銀座通りの建物を耐火性の洋風建築に改め、この通りに沿って樹木を並べて植えることにした。
建築物の建設は計画通りに進んだが、通りに植える木は、建物の高さとのバランスをとるために少なくとも四メートル以上のものが予定されており、いざとなると、このような洋風の木を揃えることが当時ではできなかった。結局は、めでたい木としてマツ、江戸っ子の気質によく合うものとしてサクラの二種に落ちついた。
木に竹をついだような景観だとの批判も少なくなかったが、当時の爆発的に起こった西洋かぶれの風潮に乗って、ハイカラを装う市民たちとともに、地方から上京する新しがりやも加わって、急ごしらえの洋服を着飾った銀座通いの人々で賑わいを増した。
両側に並べ敷きたる煉瓦石 辻に風情は松に花 いそいで馬車は通るぞえ
あれ ドンが鳴る どんな日も お店にお客が絶えやせぬこんな端唄も生まれた。唄の文句のなかの花はもちろんサクラであるが、ドンとは正午を告げる大砲の轟音である。
ところで、明治後期から大正にかけて生まれた役所勤めの人々にとって、「半ドン」という言葉は懐かしいものの一つだったと思う。毎土曜日の正午にドンが鳴れば、あとは仕事はやめとなっていたから、ほとんどの人は、半ドンとは土曜日のことと思い込んでいたようであった。
しかし実は、オランダ語で日曜日のことをドンターク( zondag )といい、このドンと、半休日の半とを一緒にして作りあげたのが「半ドン」という言葉だったのである。
話を銀座に戻そう。やがて、マツとサクラを混植した並木は、欧風の壁の文化を模した建物や、道路に敷きつめた煉瓦石が造りだす情景とは不釣り合いだという声が出てきたし、さらに植え桝のなかでマツもサクラもいじけづいて生育が悪く、街の並木としての風情をかもし出してくれなかった。
商店街の店主たちが悩んでいたとき、政界のトップクラスの一人から「ヤナギは客を招く木だから、この際、植え替えしては」との助言を得た。その人の名は不明だが、これがきっかけとなって市に改植運動を開始し、ヤナギに植え替えられたのは明治一〇年であったという。
それから歳月が流れて、大正から昭和へと時代が移るにつれて、全国的に商店街の洋風化が進んだが、銀座は通りを延ばし、その道幅を広げながら次第に街なみを整えていき、繁華街として日本の首位の座を譲らなかった。また、並木についても、さまざまな樹種によって風景に変化を与え、独特な雰囲気をもつ街づくりをしようとの気運が高まって、新橋に近い通りからアオギリ・トウカエデ・ニセアカシアなどによる新しい並木づくりが始まって、銀座の様相は一変した。
このようにして、ようやく植栽された木々が年を追って成長し、並木としての装いを整えていったが、ここに不幸が待っていた。
昭和一六年、日本は太平洋戦争に突入して、やがて銀座通りも戦火にさらされる。とくに、戦後の極端な食糧と物資不足のどん底へ陥った時代には、どうにか生き残っていた銀座の並木樹さえも燃料泥棒にねらわれて、見るかげもないほど惨めなものになった。
それでも銀座の復興に立ち上がった商店街の人々は、焼けた店舗を新築し、改築を進め、同時に並木樹としては、かつてのヤナギを選んで植えていった。
こうして新興なった銀座は、再び「銀座の柳」の歌とともに全国を風靡した。
しかしこの間に、銀座五丁目と六丁目との境の通りと、おしゃれ横丁として有名な御幸通りに店を持つ人たちは、別組織の「パリ会」をつくった。とくに、御幸通りは、横文字の屋号を看板にかかげたパリモードの店が並び、人々は一丁パリとか三丁パリなどと呼ぶくらいだったから、この一画の街づくりには柳では不十分だとして、会員の店主たちが選んだのがユリノキであった。
三メートル以上のユリノキの苗木探しにまず苦労したが、それでも諦めずに三年をかけて計画を達成し、他の通りとは異なった特長のある流行の街にしようと、ユリノキの生育に努めた。そして、昭和四三年の春には、「御幸通りのユリノキの街路樹は、この通りの人々が組織しているパリ会の自尊心と個性を一身に受けて誇っていて、歩くだけでも楽しい」と新聞が報道するまでになった。
私は、去る五九年の夏に、銀座のユリノキを見ようと思い立ち、朝日テレビに勤めている長男を案内人として、胸をふくらませて出かけていった。
しかし、くまなく銀座をめぐり歩いたけれども、ほかの街路樹にはさまれて、痛々しいほどかぼそく弱った数本のユリノキを数えたに過ぎなかった。
日本経済の高度成長の波に乗り、銀座はいつも先頭を切って進み、街なみの店舗は次第に高層化の傾向をたどって、通りの谷間はいよいよ深まってゆく。ガス公害にも病害虫にも強いユリノキだが、その本来の性質が陽樹であることから、日光の投射が次第に減少する環境の変化には、さすがに耐え得なかったのである。
「田園の幸福」という花言葉をもつユリノキは、所詮、高層ビルの谷間のような環境に対してまでは、幸福感を添えながら安住することができなかったのであろう。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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