二、長岡苗木について
○初代の並木たち
日本の最も古い並木は、日本書紀や万葉集によってすでに存在していたことが知られているから、その植栽は奈良・平安時代に遡るとされている。用いられた樹種はタチバナ・クワ・クスノキなどで、道路の位置を知らせ、境界を示し、道行く人々への道しるべとするなどが主な目的であって、いわば道標のようなものであった。
そのなかで、今のような姿をととのえた並木道が奈良の都につくられたのは七三四年のことで、東大寺の僧・普照の聖武天皇への奏状によったものである。樹種は明らかでないが、当時の様子から察してクスノキではなかったか、といわれている。
この並木道が、公費によって造成されたものとしては日本最古の記録とされている。
七九四年、桓武天皇が平安京に都を移したとき、街路樹としてカワヤナギやエンジュを用い、地方の主な幹線道路には果樹類の樹木を植えたという。また、鎌倉時代には、主としてヤマザクラが用いられた。
マツやスギが街路樹として選ばれるのは、かなり後代になる。それまでヤナギが主体だった街道筋の並木に、織田信長がマツを植えさせたのは一五七五年のことであった。
一六〇四年、徳川幕府は全国の街道の大改修を行い、マツ並木の全面的な造成に努めた。それと同時に、神社仏閣の境内にはスギとマツを植えること、社寺へ通じる参道と、これにつづく街道には、スギ並木の植栽を図ることも、幕府は積極的に勧奨した。
いまに残る日光東照宮の老杉の並木街道は、寛永年間に造成された樹齢三五〇年余りのものであり、岩手県の中尊寺参道の並木は、伊達綱村とそれ以降の時代に植えられたスギで、樹齢二四〇年から二六〇年余りとされている。このほか、宮崎県高原町の狭野神社の並木をはじめ、参道のスギ並木や境内の老松老杉は全国に数え切れないほど多い。
東京の並木の最も古い記録は、三代将軍徳川家光の寛永年間に書かれたものだ。
浅草の駒形堂は これかとよ 並木の花は数咲いて……連理の枝か 相生の松かと
うたがわれ 吉野の峰の春とても これにはいかでまさるべきこれは浅草の浅草寺山門から駒形堂のあいだに植えられた並木を描写した『吾妻鏡』のなかの一文である。連理の枝とは、一本の木の枝が他の木の枝と一つになって結び合うことをいうが、この並木はマツであって、相手の木は「吉野の峰の春とても」とあることから、サクラだったと考えられている。
一方、舶来木といわれた外国樹が、わが国で初めて用いられたのは明治六年(一八七三年)だった。
大久保利通が内務省長官の当時、オーストリアの首都ウィーンで開かれた世界博覧会に送った派遣団の一員であった津田仙が、ニガキ科のシンジュ( Ailanthus altissima Swingle 漢名=樗、日本別称名=ニワウルシ)を持ち帰って、内務省裏門の外側を通る道路沿いに並べて植えた。今はその姿はないし、その数も明らかでない。ただ「市内最初の並木」と刻んだ石標が史跡として残っているのみである。
なお、津田仙とともにウィーンへ同行した山田芳男は、ユリノキの種子をわが国に持ち帰って播き付けているが、期待を裏切って一本も発芽しなかった。もしも山田がユリノキの実生苗の育成に成功していたなら、どこか官庁に近い場所に植えられて、津田のシンジュと同様に東京市の最初の並木になったものと思われる。
○公園設計の父・長岡安平
ところで本題に入るが、ユリノキが東京の並木樹として植えられたのは、それより約三〇年後の明治四〇年(一九〇七年)が最初であって、それは長岡安平という人物が手塩にかけて育成したものだった。
長岡安平は、佐賀県大村藩の藩士の子として天保一三年(一八四二年)七月五日に生まれた。生来から一徹な気性だった反面、草花や昆虫を愛して、やさしく慈しむ心の深い性質であった。
長ずるにつれて造園に興味をもち、明治三年、大村藩の重臣だった楠本正隆が内務官として江戸に出仕したとき、そのあとを慕って二九歳の長岡も上京した。江戸での長岡は、諸藩が江戸に残した邸宅の庭園をくまなく巡り歩くことを日課としたという。
また、楠本が官命で、藩政時代にお預けになっていた長崎のキリスト教徒の調査のため、山陰・山陽・紀伊・大和・名古屋などに出張した際にも懇願して同行し、翌年に楠本が新潟県令に就任すると、これにも従って新潟におもむき、数多い雪国の庭園に直接触れて研鑚を重ねた。
そして明治八年、楠本が東京府知事に栄転したことから、長岡も再び東京に戻り、楠本の声がかりで府の土木掛の職を奉じて、主に公共空地の緑化と公園設計の任に当たった。
楠本府知事から命じられた最初の仕事は、皇居のお濠端の植樹であった。長岡は緑化樹としてヤナギを選び、枝挿しによって多量の苗木を生育して、明治一一年の四月に植栽を終えた。これが都内の並木のうちで現存する最古のものとなった。
その後は、都内にあるほとんどの公園の設計と造成に携わったが、在職中だけでなく、定年で退職したのちも、彼の力量を見込んで依頼してくる各地の公園や庭園の設計などを受け入れ、全国的な活動を続けた。
大正一四年(一九二五年)一二月二〇日、八四歳の長岡は東京芝白金の三光町の自宅で逝去したが、その生涯の業績は、記録に残るものだけでも、公園の造築四一件、邸宅の造庭五七件、その他の庭園二五件と輝かしいもので、「公園の父」とも「造庭の名匠」とも呼ぶにふさわしいものであった。
しかし、実はこれだけでは長岡の業績の反面を知るに過ぎない。というのは、彼は日本の街路樹のための実質的な基礎づくりを行っているのである。
○御苑ユリノキを母樹として
話は遡るが、明治三三年、市の公園課員に任用された長岡安平は、東京市の緑化推進には、緑化用苗木の生産を市の直営によるべきだとして、「道路樹苗育成場設置計画書」に育苗計画を添えて、その予算化を市に迫った。
育苗計画の内容は、市の区内を通じる三級以上の改正道路に三万六〇〇〇本の道路樹を植栽する。これを実現するためには、予備苗木一万四〇〇〇本を加えた五万本の準備が必要となる。しかも、五万本の標準規格の苗木(樹高三・六メートル、幹の胸高直径五・七センチメートルを基準とした苗木)を得るには、少なくとも一〇万本を育成するに足る苗圃を設置しなければならない、というものであった。
長岡のこの計画は、陽の目を見ないまま五年を経過したが、明治三八年九月、日露両国の講和を契機として軍事予算が減少し、平和産業が指向されるに及んで、はじめて予算として認められた。しかし、用地買収費はゼロ、生産費は五分の一に削減という惨めなものだった。
長岡は、多摩にある市の墓所の予定地と、伝染病患者を強制収容する避病院(場所不詳)裏の広場とに目をつけ、人件費を節約する必要もあって、自ら率先して開墾の鍬を打ち込んだ。
開墾地の苗圃には、市の道路樹選定委員会が選んだアオギリ・イヌエンジュ・トチノキ・サクラ・ミズキ・アカメガシワ・イチョウ・トウカエデ・スズカケノキ・エンジュ・シダレヤナギに加えて、ミツデカエデ・ハクウンボク・ゴンズイ・ポプラ・ケヤキ・センダン・ユリノキなどの実生が開始された。このうち、ユリノキの種子と、スズカケノキの挿木用の小枝とは、宮内庁から払い下げた新宿御苑のものを用いた。
大正二年になって、長岡の苗圃で生産されたイチョウが馬場先門から市役所前まで、スズカケノキとユリノキが芝区桜田本郷町付近に並木樹として植えられた。長岡はこのときの感激を隠すことなく、躰いっぱいに喜びをあらわした。それまで彼のやることなすことを白い目で見ていた者たちですら、七二歳の長岡がまるで子供のように欣喜雀躍する姿に圧倒されて、だれ一人として批判的な態度を示すものがなく、はじめて人々は心から賛辞を呈したのである。
そのころには、荒れ放題になっていた羽根沢、大久保、野方の市の所有地が、長岡の指揮のもとで苗圃に姿を変えて、二万八〇〇〇本もの苗木がすこやかに育っており、道路樹として定植される日を待っていた。
大正一四年には、さらに雑司ヶ谷、大蔵、三河島の市有地も苗圃に加わり、長岡がひらいた面積は実に五・四ヘクタールに及んで、常に四万本の幼苗と五万本の稚苗を育成できるまでになった。
こうして市営苗圃から次々と生産される苗木は、だれ言うとなく「長岡苗木」と呼ぶようになった。東京都の街路樹の歴史は、この長岡苗木を措いては語ることはできない。
毛藤勤治 著 / 四手井綱英・村井貞允・指田 豊・毛藤圀彦 寄稿
四六判 / 並製 / 304頁(カラー24頁) / 定価1,885円(本体1,714+税)/
ISBN4-900358-23-1
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