一九八三年十二月五日
於 山梨県長坂
聞き手 川村カウ
(牧野植物同好会幹事)○牧野植物同好会のこと
- 最初に牧野植物同好会のことからお話に入らせていただきますけれども、同好会の私たちにとっては、佐竹先生、それから亡くなられた久内清孝先生には、ほんとうに初めからお世話になり、ご指導いただいたという感じです。いま軌道に乗ってきて、やっと同好会らしくなったのは、やはり先生方のおかげだと私は思っております。
- よく面倒をみたのは、何といっても、久内先生ですよ。
- でも先生は、一年一回の室内会には、必ず出てお話をしてくださった、続けてやってくださったのですもの。
- それだけは、やりたかったし、続けようと思っていましたけれどね。
- 牧野先生の晩年に、もう悪くなって起きられなくなったころ、お宅まで佐竹先生はお見舞いに行ってらっしゃいますね。その折に牧野先生が、佐竹先生とか久内先生とかに「同好会を手伝ってやってくれ」と言われたのを覚えておられますか。
- うん、
- 同好会は、まだ牧野先生がお元気だったときに第一回目をやることになって、先生はとても喜んでくださった。その日、分類の先生方が牧野先生のお宅へ集まって、しばらくお話なんかして、それから総出で、清瀬の森へ採集に出て行きましたね。そして、その帰途にもう一度、牧野先生のお宅へ立ち寄って、今日はこんなものを採りましたよって、お見せしてお話をうかがったりしたのですけれど、それがとても楽しみだったわけ……。
その後、同好会を私たちが幹事としてやることになりましてね。そのころ牧野先生は、おからだが少し悪くなっておられたのですが、色々と私たちに言われたことを私は記録にとってあるんです。その中に、佐竹先生、久内先生、津山尚先生など、先生がたの名前を挙げられて「同好会はこの先生がたにお手伝いしてもらいなさい。みていただきなさい」とおっしゃった――それを記録に書いてあるんですよ。会の最初から今日まで、ずっと続けて佐竹先生に面倒をみていただいたこと、私はとっても有難く思っていますの。○牧野先生との出会い
- 一度うかがいたいと思っていたのは、佐竹先生は、いつごろから植物がお好きだったのですか。
- よく聞かれるんですけれどね、私は子供のときは、特に中学校までは植物が好きとか、嫌いとかいうことはなかったんです。だいたい植物の分類をやる人は、中学校、高等学校のころから植物が好きで興味をもって、それで植物をやりたい、やったという人が多いですよ。でも私はそうじゃないんです。(笑い)
私の伯父が蔵前の昔の高等工業という学校の先生だったことから、工科へ進んでエンジニアになるつもりだったのですよ。学習院の高等科に入ったんだけれど、その高等科での物理の授業がどうも苦手で、とうとう一年、このごろで言えば留年、つまり落第しちゃって、卒業まで三年のところを四年かかったんですよ。(笑い)それで物理がきらいになって、じゃあ植物にでも行こうかな、って。(笑い)
その当時、学習院では服部広太郎先生が、植物学の講義と実験を教えていまして、この方は「生物学御研究所」の御用係として陛下のお相手もなさった先生なんです。動物学の飯塚啓先生という方もおられたけれど、私は何となく植物の服部先生のほうが好きだったんですね。そのころからですよ、植物に親しむというか、植物と関係が深くなって、大学では植物学科へ入ったというわけです。- それでは先生は、東大に進まれてから牧野先生との出会いがあったのですね。
- 私は大正十四年の入学で、当時の大学は三年制でしたから、東大では一年生は前期、二年生は中期、三年生は後期といったんですが、前期の学生は、植物分類学と、形態学と遺伝学、そういう講義と実習とがあった。講義は教授がされて、実習は助手の人が担当されていましてね、私が入ったときの植物の講義は早田文蔵先生から受けました。実習のほうは本田正次先生で、いまもお達者ですが、そのころまだ若くて助手だった先生が分類学の実習をしてくださったわけです。そして、野外実習が牧野富太郎先生でした。
- そのころ牧野先生は、お幾つくらいのときでしょうか。
- 先生は1862年生まれですから、63歳のころでしょうね。野外実習は、だいたい月に一度くらいあって、一日がかりで平塚のほうへ行ったりして、そういう採集会で牧野先生に教わったものです。
- そのとき、採ったものを見せて聞くのですか、それとも歩きながら説明されるのですか、牧野先生の教え方は……。
- 植物学科に入ったばかりの学生で、しかも植物に詳しいものはあまりいないわけですが、先生は自分から学生を引っ張っていって、あれは何だ、これは何だ、というような教え方はされなかったですよ。それよりも先生ご自身が植物が好きなものですから、自分の気に入った植物があると、その場へ座りこんでしまって色々と話される。それを傍らで私たち学生が聞いて、ということが多かったと思います。植物を調べる態度っていうのかなあ、それを野外実習で先生から最初に学んだと思うんですよ。
- 佐竹先生と一緒に、大正十四年入学の方は何人くらいですか。
- 私が入ったときの学生は、たった八人ですよ。植物学科の学生の定員が八人……。
- まあ、八人ですか。でも理想的ですね。そして、牧野先生の野外実習は三年までありましたの。
- そう、後期の三年まで。ただ、前期の野外実習は必修科目ですが、中期、後期になると参加する義務はないわけで、行きたい人は行き、行きたくない人は行かなくてもいい。私はだいたい三年間行きましたよ。
- それでは牧野先生の野外実習は、必修の前期生は全員参加で、そのほかに中期、後期の先輩が何人か入るわけですね。
- そう、十人前後になりますね。それから年に一度、夏休みの初めに、日光方面に泊りがけで行く実習がありましたよ。その旅行の晩にご飯をいただいてから、牧野先生が色々と話してくださったのを覚えています。
- いちばん印象に残っているのは……。
- 先生は高知県、佐川の出身でしょう。四国の土佐の方言を時々まぜて話をされて、私たちを笑わせましてね。「そうであるろう」なんて言って、それは面白かったですよ。
- その同窓の八人には、どういう方がおられたのですか。
- 私のクラスでは、まず薬師寺英次郎君というのがいて……。
- あ、存じあげております。
- それから村上進君。彼はいまも東海大学で講師をやっているはずですよ。それに新潟にいる田沢康夫君。彼は新潟大学に理学部ができたとき、教授になって行き、定年後はそのまま住みついています。もう一人、御江久夫君というのは、中国の上海にある自然科学の研究所にいましたが、終戦で帰ってからは山口大学の教授になった。もう、とうに定年ですけれどね……。この五人が健在ですよ。そして、田中伊助君とか関野武夫君とか、割に早く亡くなってしまったのが三人になります。
○ホシクサの思い出
- 私は昭和三年に大学を卒業したのだけれども、ちょうどそのころは極端に不景気な時代で、中学校の先生というような就職先も全くない。そこでしかたなく大学院へ入って勉強を続ける人が多かったのですが、そのとき私は偶然にも、副手ということになったんです。
これはね、助手とは違うんです。助手というのは今でいう公務員なので、ちゃんと給料が出ますけれど、副手というのは給料なしなんです。その代わり大学院の授業料が免除されて、自由に勉強ができる、いわば身分だけくれるわけですね。ところが、その副手の中に二人だけ、有給副手というのが認められていて、その一人に私がなっちゃった。なぜ有給副手に選ばれたのか分からないんですけれどね。(笑い)- それは、やはり先生がご熱心で、勉強したいという意欲がお有りだったから、そこを買われたのでしょうね。
- ただね、有給といっても、ちゃんとした給料ではなく、手当なんです。それが十五円でしてね。(笑い)
- でも、その当時の十五円でしたら、そう悪いほうではなかったのでしょう。
- ところが何年たっても手当が上がらなかった。昭和三年から、私が科学博物館へ行くまでの十一年間、ずっと十五円。(笑い)いつごろだったかな、私の下宿代が二十円だったことを覚えているんですが……。
- 当然、足りませんわね。(笑い)
- だから家から仕送りしてもらったり、今でいうアルバイトをしたりして。女学校の先生もやりましたよ。
- そのときは先生、喜んで行ったんでしょう。(笑い)
- そりゃあ、そうです。(笑い)今でもありますよ、拓殖大学の近くの私立の学校……。それから、東京高等師範学校、東京文理科大学には、アルバイトじゃなくて講師として行きましたし、東京農業大学でも昭和九年から博物館へ行くまで講師をやったんです。
- どんな学科を教えておられたのですか。
- 植物分類学。あのころの文理科大学などには、分類の先生がいなかったのでね。
- ところで先生がホシクサ科をやられるようになったのは、どんな動機からなのでしょうか。
- あれはね、中井猛之進先生が以前に少しやっておられたものなんです。あるとき中井先生から「君は顕微鏡が好きだから、ホシクサ科をやってみろ」と勧められたのが始まりなのですよ。
顕微鏡の仕事を教わったのは早田先生からで、この先生は、分類学に顕微鏡を利用された日本で最初の方でしてね。針葉樹の葉の解剖をされたり、シダの地下茎の維管束の性質を調べて新しい分類をされたりしておられた先生ですが、惜しいことに昭和九年に亡くなられたのです。それで、中井先生に、よろしくご指導をとお願いしたところ、「それでは、おれが昔に少しやったホシクサを、ひとつ徹底的にやれ」ということで始めたわけです。私の卒業論文「イラクサ群植物の葉の灰像の分類学的価値について」とは、全くちがうのですけれど…。- イラクサ科のヤブオマの研究もありましたね。
- そう。それも中井先生の指導でやって、それで学位をもらったわけですよ。そして、その後がホシクサ科。
- めんどうくさいものばかりですね。(笑い)でも取り組んでおられるうちに、ホシクサもなかなかいいな、と思われたわけでしょう。
- いいなと思ってますよ。今でも……。
- ホシクサというと、私思い出すんですけれど、牧野植物同好会の室内会のときに、先生が大きい模型を持ってきてホシクサの説明をしてくださったことがありますね。先生が模型まで作って、みんなにわかりやすく話していただいて――忘れられませんね。
- あれはいつだったかな、そんなことがありましたね。
- その模型を私がもらって、大事にしまってあるんです。あれは先生ご自身が作られたものなのですか。
- 自分で作ったんですよ。あれは立体的な模型でしたけれど、以前に天皇陛下に御進講しましたときは、絵も一枚じゃなく、まず総苞をはがしたところ、次に苞をはがして中の構造がわかるようにと一枚ずつ絵に描いて、それを順に陛下にお見せしてホシクサをご説明したんですよ。 そのあとかなあ、立体的な模型を作って同好会で話したのは……。
- あのとき、模型で説明していただいたから、よくわかったんで、私なんかホシクサ科っていうと難しくて身ぶるいがするほどでしたから、とても有難かったのです。
○牧野先生の疎開
- 牧野先生のご自宅に、学生時代に行かれたことは――。
- 学生時代にはありませんね。むしろ卒業してから、特に、戦前では先生が体を悪くされたころとか、また、戦後に少しずつ快復されてきたころとかに、何度もうかがいましたよ。それで時折、先生からお便りをいただくようになったわけです。
- それじゃあ、戦争末期に牧野先生が疎開されたことはご存知ですね。
- ええ、もちろん知っています、手紙をもらいましたからね。ここにその手紙があるんだけれど、山梨県北巨摩郡穂坂村字宮久保というところで、横森保義氏方、牧野富太郎となっている――。実はね、この穂坂村というのは、今は韮崎市になっていますが、ここ(山梨県長坂町)から車でなら三十分ほどの距離なんですよ。それで、牧野先生がそこに疎開されていたころ、どのように過ごしておられたか、ということを聞きたくて、以前に一度、この横森さんという方を電話帳で探したことがあるんです。ところが大変なんだ、宮久保には横森という姓が五十軒くらいあったので、それであきらめました。(笑い)今おそらく息子さんの代でしょうから探しようがない……。
- 先生、その疎開先に牧野先生を連れていったのは、私なんです。
- そうなんですか。でも、どういうわけで穂坂村へ……。
- それはね、この穂坂村は篠遠喜人さんの奥様のお知りあいの村なんです。篠遠さんが、牧野先生と、もう一人、藤井健二郎さんという生態学者の方を呼んでくださったんです。東京が爆撃されて危なくなって……。
- ああ、そう。篠遠さんの関係で穂坂村に来たんですか……。
- その穂坂村からのお便りの日付は、いつになっていますか。
- 昭和二十年五月二十八日ですね。
- それじゃ、疎開されて間もなくのお便りですね。それから二か月余りで終戦……。
- 読んでみましょうか。
『拝啓、その后お変わりない事とお慶び申上げます。さて私、今回肩書のところへ疎開しましたから、不取敢右、御知らせ申上げます。韮崎駅より一里十丁許の山の上の一農村です。時局下、切に御自愛かつ御要心の程を祈り上げます』- なぜ疎開することになったかというと、直接のきっかけは東京の空襲です。牧野先生が入ってらした防空壕の横に、大きな赤松があったんですけれど、そこに焼い弾が落ちて、先生はボーンと天井まで持ち上げられちゃったんです。それで疎開される気持ちになられたのですよ。
そして、先生を東京から、お嬢さんの鶴代さんと、その長女の澄子さん、それに私とで山梨までお連れしたんですが、その途中に空襲でもあって大切な先生を死なすようなことがあったら大変と、ハラハラしながら汽車に乗ったことを覚えています。ようやく駅に着くと、先に行ってた笠原基知治先生が大学生二人を連れて、リヤカーを用意して迎えてくれたので、やっと一息ついたんですよ。
そのリヤカーに先生を乗せて毛布でくるんだのですけれど、おとなしく座って、どこに連れて行くんだと言いたそうにして……、そのときの先生の寂しげな顔つきが、今でも目に浮びます……。- 穂坂村のお住まいは、どんな様子だったのですか。
- 戦争の終わりのころですから都会から移って行く人が多くて、田舎でも空いた家がなく、やっと見つけて先生をお連れしたところは、天井が高く広々とした蔵だったんです。ところが、外側から見ると何でもないけれども、中に入ると梁も柱も真っ黒なの……火事で焼けたらしくて、私びっくりしました、気味わるくて……。
畳があるわけではないし、床にゴザを敷きましてね。窓も、蔵の鉄格子のはまった窓でしたが、まず最初に、その下に本を入れて持っていった木箱を空けて置き、その上に白い紙を敷いて、とりあえず先生の勉強部屋を作ったの。そしてその机の上に、顕微鏡と、読みたいという本を五、六冊ほど積んで、机の前に座布団を置いてあげたら、先生は何だか不安そうな表情でしたけれども、その机の前に座ってくださったんですよ。
でもね、住まいのことはまだいいの。食べる物が何もないんです。それで、すぐ食べられる野草を探しに行ったわけ。アカザは一本も見つからなくて、それでも食べられそうな草で、おみおつけを作りました。栄養になる食べ物を、せめて先生だけにでも食べさせたいと思って、着物を持って行って農家の人と卵に取り換えたんですけれど、着物一枚で、卵が三つでしたよ、あの当時は。
そして一週間ほど、先生たちとご一緒してから、私は東京へ引き返したんです。○牧野先生は真のナチュラリスト
- 牧野先生のことで、強く先生の記憶に残っているようなことを、思いつくままにお話しいただけませんか。
- とにかく敬服したのは、どんな植物でも、まだ土中のもの、小さい芽生えのもの、大きく生長したものはもちろんですが、何を採って持って行っても、ズバリと名をあてられる。これはもう、その後、いろんな先生に会っていますけれど、牧野先生ほど、種子や芽生えの段階から生長するまでの過程の一つ一つを、すべて覚えている人はいないんじゃないか――そう思います。とても他の先生にはない観察力を持っておられたことは、確かですね。
それから「一日一里四方」ということば、先生から聞いたことはありませんか。- 知りませんが。
- 植物の採集は、一日に一里四方まで、それ以上は見てもだめだ、っていうこと。じっくりと腰をすえて、隅から隅まで全部観察しようといった態度でしょうか。牧野先生はたくさん標本を採る。ずっと後になって、マス・コレクション、マスで採集しなければいけない、などと言われ出しましたが、先生はそれを最初から実行されてきています。だから、一里四方に座わりこんで、好きなものは全部を採集して調べる。一個体や二個体を見つけて、新種だなんて言っちゃダメなんだということですね。
- そのとおりでしょうね。
- 私は自分で植物分類学をやるようになってから、牧野先生の大きさがわかってきましたよ。先生は経験から入ってきて、深くなって、そして大成した人だと思います。フィールドの植物学者としては第一人者であり、真のナチュラリストなんだと思いますね。
- 本当に私もそう思います。きょうは楽しいお話をお聞かせ下さって、どうもありがとうございました。
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