吉野山はサクラの名所としてむかしから名高い。この山に自生する山ザクラは付近から移し植えたものを加えて、一目千本、中の千本、上の千本、奥の千本と、約一里半から二里にわたって咲きほこるという。
いつのころから、吉野山にこのようにたくさんのサクラが見られるようになったかはよくわからない。天正七年(一五七九)、大阪の郷士、末吉勘兵衛という人がサクラ一万本を寄進した史実があり、これがサクラの名所としての吉野山の声価を大きなものにしたと思われる。
時代をさかのぼれば、古代帝都のあった難波、志賀、奈良やその他近畿内諸地方の山にサクラの多かったことは「日本書紀」や「万葉集」などに明らかである。花といえばサクラの花をさすほど他の花にましてサクラの花が愛されたことは詩歌文学によって想像される。人びとのサクラに対する愛着は「古の奈良の都の八重桜……」の古歌にあるように、八重桜その他の多くの品種をうむようになった。
吉野山がサクラの名所として畿内ばかりでなく広く世に知られるようになったのは、鎌倉・室町時代の政変や、南朝の悲史にまつわる吉野山の姿によることが大きい。俳人支考をして「歌書よりも軍書にかなし吉野山」の名句をよませたのもむべなるかなといえよう。
ところで、山ザクラというサクラは、日本の山に自生するのでこの名がついたが、植物学的には変化の多い種類である。花が白色で本州中部以西に産するものを山ザクラ(または白山ザクラ)、花が紅色で本州中部から北海道に産するものを大山ザクラ(紅山ザクラあるいは蝦夷山ザクラ)という。
吉野山のサクラはこの山ザクラ(白山ザクラ)で、花色は白、うすいピンクもまじる。若葉の色は特徴的で、赤褐色、黄色、青色、茶色の四種があり、それぞれ赤芽、黄芽、青芽、茶芽とよぱれる。個体によって芽の色調は一定しているのがふつうで、吉野山では茶芽が一番多いという。
吉野山中には、関屋のサクラ、花月ザクラ、吉野匂、雲井のサクラ、滝ザクラ、布引ザクラなどの名木があったと記録には残っているが現存するものはないらしい。
吉野のサクラは大正十三年、国の天然記念物及び名勝として指定され保護をうけるようになったが、近年交通の発達によって観光客が多くなったために木の損傷が多いときいている。十分な保護と対策によって長く後世に伝えたいものである。
(日本の歴史 月報5・一九五九年六月)
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