早田先生は明治七年(1874)十二月二日、新潟県加茂町に生まれた。加茂小学校を卒業して、私立長岡学校に入学したが、なぜか中途退学して、しばらく家業の手伝いをしていた。
植物に深い興味を覚え、採集や観察に熱中し、明治二十五年(1892)には、東京植物学会に入会し、多くの質問書を学会あてに送ったりした。そのうち、どうしても植物学で身をたてる決心をし、明治二十八年(1895)出京して郁文館中学に入学した。同三十年三月卒業して、七月に第一高等学校大学予科に入学した。在学中、国内はもとより、台湾に渡って植物採集を行ったりした。同三十三年七月に卒業すると、九月に東京帝国大学理科大学動植物学科(同三十五年九月、学制の改正で植物学科)に入学をした。同三十六年(1903)七月に卒業、卒業論文は〝日本産大戟科植物考〟である。すぐに大学院に入り、翌三十七年に理科大学助手を拝命、附属植物園の助手を兼任、東京植物学会編集幹事をもつとめられた。同三十八年(1905)五月には、台湾総督府の嘱託となり(大正十三年まで)、台湾産植物を研究して多くの論文を発表した。〝台湾産菊科植物〟〝日本産大戟科並に黄楊科植物の研究〟〝台湾産松柏科植物の一新属タイワンスギ属Taiwaniaについて〟などの論文を提出して、四十年十一月に理学博士の学位をうけられた。
明治四十一年(1908)八月、理科大学講師となり、同四十三年一月に私費をもって英国に渡り、キュー植物園腊葉庫で研究、五月にベルギーのブラッセルで開催された万国植物学会議に出席し、その後、フランス、ドイツ、ロシアをまわって十月に帰国した。明治三十九年ごろから、富士山の植物帯に興味をもち、御殿場に山荘を構えて調査をつづけておられたが、四十四年に、〝富士山植物帯論〟にまとめて丸善から出版した。この調査研究から〝植物遷移説〟がうまれることになる。また、明治三十年(1897)以来つづいた台湾植物の研究が〝台湾植物図譜〟にまとまり、その第一巻が出版されたのもこの年である。以後、ほとんど毎年出版され、第十巻で完結したのは大正十年(1921)である。
大正六年(1917)五月、台湾総督府より仏領印度支那への出張を命ぜられ、植物の調査と採集とをおこなった。同八年、東京帝国大学助教授に任ぜられ、翌九年、〝台湾植物の研究〟に対し、帝国学士院から桂公爵記念賞がおくられた。十年五月に、ふたたび台湾総督府より仏領印度支那に出張を命ぜられ、翌年三月帰国した。
大正十一年(1922)五月、東京帝国大学教授に任ぜられ、松村任三教授のあとをうけて、植物学第一講座を担当し、同十三年四月には附属植物園長を兼任した。
私は大正十四年(1925)四月に、理学部植物学科に入ったが、先生の直接指導をうけるようになったのは、昭和二年(1927)四月、後期に進み、専攻に分類学を選んだときである。先生は「二つの方向がある。一つは足による研究――フロラか地理学的研究で、体力と財力がいる。もう一つは実験室にこもる研究で、根気と細心とがいる。君に適したほうを選ぶように」といわれた。体力も財力も自信がないので後者を選ぶと、〝イラクサ群植物におけるspodogramの分類学的価値について〟というテーマが与えられた。このspodogramははじめてきく用語で、のちに〝灰像〟と訳されたが、ウイン大学教授のH.Molisch博士(東北大学の招請で1922年から三年間、同大学の植物学科で講義、『採集と飼育』1981年四月号)が考案した研究法で、植物の葉の一部をルツボで焼き、灰の中にふくまれる結晶の形態と分布型とを調べて植物の類縁を求める方法である。
早田先生は1920年ごろまでは、従来どおり、分類の基準を外部形態的形質におく方法をとられたが、しだいに、内部形態と構造の形質をも重要と考えるようになり、はじめに茎(とくにシダ類)の中心柱の構造による分類を考えられた。中心柱の横断切片のほかに、のみとメスとを使って中心柱を立体的に掘りだして研究された。私が師事したころ、研究室に掘りだした中心柱のアルコール漬標本瓶がたくさん並んでいた。シダ類の中心柱に関する論文は、植物学雑誌(1919、1927、1929、1930)やFlora誌(1929)に発表された。これと平行して、〝ササ属の解剖分類学的研究〟〝日本植物に関する解剖分類学的貢献〟が植物学雑誌(1929)に発表された。
つづいて、先生は双子葉植物の根茎の中心柱に手をつけられ、私は、サクラソウ属、イチヤクソウ属、ユキノシタ属、オサバグサ属などの根茎の横断切片のプレパラート作製を命ぜられ、昭和三年(1928)と四年との暑中休暇の十日間、日光植物園に先生とともに滞在して、その仕事にかかりきった。
あたかも、昭和五年(1930)八月に、英国のケンブリッジで第四回万国植物学会が開催されることになり、準備委員会は先生に副会長の椅子を予約してきた。先生は喜んで出席を承諾し、夕食後に英語のレコードをかけて、会話や講演の練習に余念がなかった。ところが、昭和四年(1929)九月、突然に心臓発作におそわれ、渡英も研究も断念せざるをえず、ひたすら療養につとめられた。
小康を得ると、居を植物園の近くに移し、昭和五年半ばからは講義のほかは自宅に引きこもり、気分のよいときは植物分類学の著述に専念するようになった。私は、講義や著述に必要な資料をもって教室と病室とを往復したが、万年床の上に小机をおいて執筆しておられる姿はまことに鬼気せまるものがあった。
幸い、〝植物分類学〟第一巻、〝裸子植物篇〟は昭和八年(1933)六月に出版され、近年まれな名著と評価された。しかし、先生は、翌九年一月十三日、ついに六十年の生涯をとじられた。この著述が先生の命をちぢめることになった気がしてならない。
第二巻は〝被子植物篇〟、第三巻は〝羊歯植物篇〟、第四巻は〝蘚苔植物篇〟、第五巻は〝藻菌及び下等植物篇〟の予定であったが、「もし自分が中途でたおれることがあったら、あとを引受けて完成してもらいたい」と本田正次博士に依頼されたときいた。第二巻の原稿は大部分できていたので、本田博士の手で整理され、〝被子植物総論篇〟として昭和十年(1935)二月に出版された。
「先生は熱意の人、信念の人、努力の人であった。一つの問題にあたれば他を顧みることなく貫徹しなければ止まない。決意をもって事に当れば妨げるものはないと信じておられた。これは先生が法華経に帰依し修養された結果で、提唱された諸学説の底流に法華経の教理があったのではないか」と山田幸男博士はいっておられた(植物学雑誌 四十八巻 1934)。
まことに先生は、植物分類学の研究に心身を燃焼しつくした人であった。体力も費用も惜しまず、世故にとらわれることはなかった。しかも自分の信念を他に押しつけることはなかった。この研究に徹したいさぎよさは、学者はかくあるべしという手本を示された思いがする。先生亡きあと、私は先生から与えられた研究方針から遠く逸れた仕事をして、べんべんと今日にいたったが、ただ自責の念に沈むばかりである。
先生の提唱した学説に、因子分配説、動的分類系、ペトリン説、遷移説などがある。
植物体には、いろいろの因子(また要素)がある。この因子は、外部・内部の形態的なものばかりでなく、成分や生理的なものもある。因子はすべての種類に共通に存在し、その量と組合せとによって種類の特徴があらわれ、環境が変わればその特徴に差異がでてくる。これが〝因子分配説〟である。
植物の分類は、一つの因子による平面的なものでなく、多くの因子による立体的なもので常に流動的に考えなければならない。これが〝動的分類系〟である。
因子は、長く変化しないとペトリン(石素)が蓄積して、その種は絶滅し、あるものは化石となって残る。地質時代の化石がそれで、現生種にある因子とはまったく関係がない。したがって化石種から現生種が進化したとは考えられない。
進化論は、自然選択によって強力になったが、台湾や仏領印度支那などの熱帯林の観察、富士山の植物帯の研究から、自然選択よりも自然遷移を考えるべきであるとした。これが〝遷移説〟である。先生の以上の諸説について、私は理解がたりないので、評価する資格はない。木村陽二郎博士の〝早田文蔵博士の分類学説〟(植物研究雑誌 三十五巻23-29.1960)を参考されたい。
以上の小文をつづるにあたり、山田幸男・1934「故早田文蔵先生小伝」(論文、著書の目録つき)(植物学雑誌 四十八巻493-503)と、八田吉平・1960「盟友理学博士早田文蔵君追憶」(植物研究雑誌 三十五巻12-17)とを参照したことを付記する。
(採集と飼育・一九八二年六月)
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