酒は一合も飲めないのに、酒のことを書けといわれても当惑する。だが、浅草の「新政」にはしばしば厄介になるので、鈴木さんのためにといわれると断りきれない。
私の郷里は秋田の湯沢で、「両関」や「爛漫」の産地である。「太平山」は聞いていたが、「新政」は戦後はじめて知った。かれこれ十五年も前か、佐竹宗家の当主義栄さんに浅草の新政につれていかれたのが新政を飲んだ最初であるから、お話しにならない。
酒は飲めないが酒の味はわかるといばっている私だが、何とうまい酒だろうと感歎した。そのうまさは、さっぱりしてはいるが何かしみいるものがあり、単純ではあるが繊細なものがある。適当な酔い心地はつづくが決してあとをひかない。どういうふうに表現したらよいかわからない。ともかくすばらしい酒だというのが第一飲象であった。戦後いかがわしい食物や飲物でなまっていた口腹が清浄されたという感じであった。
お国自慢の「ショッツル鍋」や「切りたんぽ」もその時はじめて食べたがうまかった。秋田生まれでそれまでショッツルや切りたんぽを食べたことがないなんておかしいと思う人もあろう。しかし、ショッツルや切りたんぽは秋田市周辺が中心で、県南ではあまり食べなかったのではないか(間違いならあやまるが)。少なくとも私の子供の頃は家では食べたことがないのである。
しかし、「トンブリ」「ハタハタ」「ハタハタずし」「鉈漬ガッコ」には郷愁をかきたてられ、ちょいちょい客を案内してはPRした。その頃は店も狭かったが、色白の髭の濃い主人も若い衆も客あしらいがさっぱりしていていかにも酒をたしなむという雰囲気がよかった。
その後、主人も現在の鈴木さんに変り、店も広くなり、囲炉裏ができた。徳利やぐいのみが益子焼になり、つまみにも「ホヤ」や活きのよい白魚などがでるようになった。気の合った友人と囲炉裏をかこむと山小屋にでもいるような気分になった。いつだったか、親しい植物好きな大臣級のSさんと研究仲間を案内し、興にまかせて主人公の差しだす色紙に書きなぐったことがあったが、そのあとで行ったら、その色紙が麗々しく掲げてあったのに冷汗をかいたこともある。
主人の鈴木さんは大学出を表にださない腰の低い人で、私など一年に一度か二度ぐらいしか行かないのに、よくしてくれるのでかえってきまりが悪いようである。奥さんはすらりとした近代美人でバレーなどさぞお似合いかと思うが、この御夫婦と新政の酒で店が繁盛しているのではあるまいか。新政の店はその後新宿方面にもできたそうだが、私はまだ行ったことがない。私が浅草の新政しか行かないのは、勤め先が上野にあるせいでもある。がもう一つは、昔四十年以上も前、大正の終り頃、悪友に誘われてときどき浅草に遊んだ思い出があるせいかも知れない。
その頃、私は目白の学習院高等科に在学し、寮に入っていた。日曜には新宿の武蔵野館に活動写真を見に行くぐらいの楽しみしかなかった。Aという友人がいて、寮の端から端まで往復する間にサントリーの角瓶を半分はあけるという酒豪だった。そのため始終ピーピーしていたが、ある時何と思ったか私を浅草につれだした。もう記憶がうすれたが、まず田原町の角あたりのカフェーにはいる。アブサンとかジンのような強い酒を飲む。そこに当時の浅草オペラの人気歌手に似た女給がいて、これがAのお気に入りだったらしい。それから金竜館だったか、オペラ座だったかに入り、浅草オペラを見る。田谷力三、二村定一、木村時子、相良愛子などの全盛時代だ。舞台と客席が渾然一体になる躍動ぶりは見事というほかはなかった。腹がへると「すし清」にはいったりした。私はまじめ学生で、酒も飲めなかったし金もなかったのでこんな経験はAによって与えられたといってもよい。大学に進むと東京と京都にわかれてしまい、卒業してAも東京に就職したが、結婚してしまうと昔のように二人で飲みに行くことはなくなった。戦後まもなくAは病死してしまったが、彼に「新政」を飲ませてやれなかったのはいかにも残念である。
国立科学博物館の研究室五階から眺めると、スモッグのない日は浅草一帯、松屋デパート、新世界、国際劇場、本願寺など手にとるように見える。昔の浅草がビルの多い今の浅草の底に埋もれたように、私の青春もすでに四十年の過去にうすれてしまった、などといささかセンチメンタルになったところで、与えられた紙数がつきた。
(新政2号・一九六六年)
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