三十年前に、日本のホシクサ属の研究をやった。その後、こんな面倒くさいグループに手をつけるひとがあまりないので、いつのまにかその属の専門家ということになってしまい、現役を退いてからもホシクサ属のことになるとお鉢がまわってくる。六十歳をすぎれば眼も悪くなれば根気もつづかなくなる。ましてや七十に手がとどくと御免を被りたいのだが、他に引き受け手がないので多少の自負心もあって承知することになる。こういうことがナントカ馬鹿の一つの原因になるのではないか。
戦後、東京大学からネパールとその周縁に、京都大学からタイに、数回植物調査隊が派遣され、その採集標本のホシクサ属が私にまわってきた。タイのものはまだきまりがつかないでいるが、ネパールのものは一応調べがつき、原寛氏のまとめたFlora of Eastern Himalaya, 2ndReport(1971)に発表した。それを見たのだろうと思うが、British Museum(Natural History), Department of Botany(大英博物館(自然史)植物学部)から同館所蔵のネパールのホシクサ属標本の調査方を原氏を通して依頼してきた、老骨を理由にしりごみしていたが、もし、J.D.Hooker, Flora British India,6;571-585(1983)所載の四十三種に引用されている標本が見られるかも知れない。またそうでなくてもタイのホシクサ属をしらべる上に役に立つかも知れぬという期待もあって引受けることになった。標本は東大資料館の原氏気付で昨冬ついたが、私が手にしたのは今年の一月下旬である。
さて、大英博物館からのホシクサ属標本は、台紙にはったものが三十二点で褐色のハトロン紙に一枚ずつはさんである。それに、やはり褐色のハトロン紙に入れた重複標本が八点である。この重複標本は戦後に採集されたもので台紙にはった残りである。一枚ずつ見ていくうちに、標本のはり方が日本でやっているのと全くちがうことに気がついた。
それは文字通りに、標本全体が(細い根も葉さきも、頭花も)べったり台紙に糊づけされていることである。標本と台紙の間にはどこにもすき間がないのである。ところどころに白く細い帯紙(紙ではない)のようなものでとめてあるが、これは見かけだけである。ともかく、がっちりと台紙にはりついているからちょっとぐらい乱暴にとりあつかってもこわれないようである。このはり方の利点を考えてみると、標本保護ではないかと思う。葉一枚とってもすぐわかるわけだ。これで虫害を防ぐ方法を考えておけば万全であろう。このはり方は大英博物館だけであろうか。イギリスの他の博物館、あるいはヨーロッパ、アメリカではどうなっているか。日本式とあまりにちがうのにとまどったのであるが、外国の事情に明るいひとは何を今さらというかもしれない。
ネパールの標本三十二点は、1800年代のもの十七点、1900年代のもの十五点から成る。1800年代のものはN.Wallichのもの五点、C.B.Clarkeのもの四点、J.D.Hooker & T.Thomsonのもの六点、F.Buchananのもの一点、採集者不明のもの一点である。いずれも日本の分類学者になじみの深い名である。しかしラベルにはこまかい産地も、採集年月日もほとんど書いてない。Wallichの五点のうち三点にそれぞれ1819-25, 1821, 1822とあるが月日はない。Clarkeの四点のうち一点に「7 Nov.1872」、一点には「3 Aug.」とあるが他にはない。Hooker & Thomsonの六点には産地があるが年月日は全くない。これらの人たちの生まれた年がわかっているのでWallichは三十四歳~三十五歳のころ、Clarkeは四十歳ごろネパールを歩き採集したものらしい。Hooker & Thomsonは同じ年の生まれで、一緒にネパールを歩いたのはやはり四十歳前後ではなかったかなど想像している。
J.D.Hookerは彼の大著Flora British India六巻でホシクサ科を、Clarkeはカヤツリグサ科を担当した。後者ははやく(といっても七十四歳)死んだが、前者は1911年九十四歳で死ぬまで仕事をしたという。今年十七回忌の故牧野富太郎先生を想わずにはいられない。
1900年代の標本は十五点ある。いずれも二十世紀後半(1949年が一点、他は1952年以降)のものである。採集者は三人組が三点ずつ二組、二人組が一点、個人採集者が七人で各一点ずつであるが一人だけ二点ある。すべて十人であるが、三人組の二組に二人が共通しているからこうなるのである。採集者の国籍は私には全くわからないが、さすがに標本のデータはそろっており、年月日はもちろんであるが、growing in mud on ditch bankとかgrowing in wet flush on open hillsideなどの生態も付記したものもある。二十世紀前半のものが一点もないのが不思議である。
台紙にはられた三十二点の標本を撮影し、写真を手札判ぐらいに引延し、紙にはってデータを標本通りに付しておく、標本を返却したあとでも大体わかるようにとの扱いである。それから花を解剖するわけだが、台紙にはられたものは使えないので、重複標本の頭花を一個とって水で煮る。沸騰して標本の空気がすっかりでて下に沈むようになればよい。それをシャーレの水の中で針を使いながら、双眼解剖顕微鏡の下で観察する。ホシクサ属の花はごく小さく、長さ2、3mmがふつうで、雄花と雌花とある。雄花では、萼が苞状に癒合し、外側が基部まで裂け、上縁は三裂(いいかえると三萼片が上縁を残して癒合している)する。花弁は三個あるが、ほとんど上部まで筒状に癒合し、雄蕊は六個あり、雌蕊は黒点に退化している。雌花では萼片三個が離生するものと、雄花のように癒合するものとあり、花弁三個は常に離生し、雄蕊はなく、雌蕊は三室子房で各室に一胚珠があり、柱頭は三岐している。種子は楕円形で長さ0.5mm内外、表面にハンマー状の微毛がある。これらの雄花、雌花が集まっている頭花をつくり、基部に総苞片がついている。ホシクサ属の種をわける性質は主として雌花、雄花の各部の形や大きさ、毛の有無などにあり、葉には重きをおかれない。
資料が少なく、全部をしらべたわけではないが、日本とネパールのものを比較すると、次のようなことがいえよう。日本に多いイヌノヒゲのグループのように総苞片が葉質で頭花から長く突出し、雌花の萼片が癒合するものはなく、クロホシクサのグループのように、総苞片が膜質で頭花より短く、雌花の萼片が離生するものがネパールに多い。日本とネパールに共通な種はただホシクサだけである。
葉の形、頭花の大きさなどゴマシオホシクサに似ているが、雄花の萼のちがうものがある。Eriocaulon virideという。J.D.HookerもW.RuhlandもE. nepalenseの異名にしているが、やはり別種と考える方がよい。E. alpestreの標本が一点ある。一万一千フィートのひどくいじけた標本である。日本産のヒロハノイヌノヒゲは今は独立種にされているが以前はこの変種にされていた。E. alpestreはかなり変異の多いものらしいので、低地産のものとヒロハノイヌノヒゲの比較をもっとしらべる必要がある。
E. brownianumは頭花は径10mmぐらいで白毛が密生しておりシラタマホシクサに似ているが、葉も花茎や強剛で茎の基部が塊茎状になるのでちがう。E. oryzetorumはオオホシクサに似ているが、花苞のさきが鋭尖で、雌花の萼片が離生したものである。
ついでに、今しらべているタイ国産のホシクサ属で変ったものを少し紹介しておく。これは京都大学の調査隊が採集したものである。ホシクサ属のものはふつうは茎がごく短く、ないといってもよいくらいであるが、まれに、水生、湿生のものに長い茎をもつものがある。日本ではタカノホシクサしかない。タイ産のE. intermediumは茎の長さ30cm以上になり、細い線状の葉が密生し、茎の先端に多数の花茎がでる。頭花は藍黒色である。これに似ているが、より貧弱で頭花の灰白色のものをE. setaceumという。頭花に白色毛が密生していることではシラタマホシクサに似ているが、葉も鞘部が赤褐色で毛があり、雌花の萼片が離生し、雄花の花弁の三個のうち、苞側にある一個が他よりいちじるしく長いものがあり、新種と思われる。
もっとも変っているのは、頭花の花茎が極端に短くなり、放射状にでる葉の中心に埋まったように見える一種である。花苞が長く花の三倍以上にのびており、雄花の萼片にも雌花の萼片にも背部にせまい翼があるもので、これも新種と考える。
ホシクサ属の花は小さいくせに形態が複雑で10~40倍の顕徴鏡でしらべないと特徴がつかめない。古い文献では、知りたいと思う性質の記載がないし、頼りになる標本がないととても同定がむずかしい。British Museumの標本を見てつくづく感じたことである。
(植物と自然・一九七三年三月)
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