〔T=武田久吉博士 S=佐竹〕
- 先生は植物学者であられるし、私も植物学をやっているから、どうしても話は植物のことになると思います。植物といえば結局山ということがどうしても出てくるんで、日本の植物といっても分類学を中心として植物学の発展はやはり山に結びついていると思うんです。それで武田先生に、日本の植物学界と登山との結びつきからお話を伺いながら話を進めたらと思うんです。日本で登山が始まったのはいつごろになるんですか。近代登山という意味ですが……。
○トバク師が集まった塔ノ岳
- 近代登山はやっぱり日本山岳会ができてからじゃないですかね。明治三十八年(一九〇五)、その前からわれわれの仲間は研究資料を採集するために山に行きましたよ。動物のほうでも鳥をやる人とか、昆虫をやる人とか、動物学者でも獣類をやる人は山に行ったって種類も少ないのであまり登らないですね。いちばん登ったのはやっぱり昆虫をやる人でしょうね。鳥もいちばん高いところすなわち高山帯に行けばイワヒバリ、ホシガラスにライチョウの三種類だから。鳥のいるのは木立ちのあるところだから中腹ですね。ところが植物は高山帯まではえているから三〇〇〇メートル級の山に行かなければならない。
- 先生は登山が先ですか、植物が先ですか。
- 植物ですよ。ぼくは登山家じゃないんだから。きのうもある新聞の記者がきて、丹沢山塊が国定公園になったから、丹沢の自然を保存するという話があって、ぼくが丹沢の草分けだなどというから、草分けでもなんでもない、ぼくらより前に登った人があるけれども、科学的にはいったのはわれわれが最初ですよ。それは六十年前の明治三十八年九月二十三日から二十四日にかけて山にはいったのでした。一行十二人、植物を目的とする者もあるし、昆虫をとる者、地質をやる者、いろいろ日本博物同志会の若い連中、その採集会、横浜に支部がありまして、横浜支部の催しだったわけです。東京からなん人かはせ参じてね。
丹沢山塊でいちばん人がよく登るのは塔ノ岳。塔ノ岳の北裏には尊仏という大きな岩があって、その岩が信仰の対象になっていて、それに参詣するのを口実にして塔ノ岳の頂上で賭場を開帳するんですよ。近郷近在の親分が集まり、わりあい近年までやっていた。とにかく戦争前まではやっていましたよ。ものめずらしいというんでそれを見物に登るやつもいるんでね。高いところだからなにやったって警察の手が届かない。それで思いきってやるらしいんだけれども、それが恒例になっているからお目こぼしというわけですね。- いろんな親分が集まるわけですか。
- ほうぼうから集まるらしいんですよ。ところがそれに登るには、いまの小田急の渋沢から――そのころは小田急線はなかったけれど――いわゆる大倉尾根をまっすぐに登るんですが、われわれはそれじゃ平凡で面白くないから塔ノ岳から西に向って流れている玄倉川に沿って登ろうじゃないかということになったわけです。それで土曜日の晩に玄倉村に行って一晩泊って、宿屋もなにもないから農家に頼んで泊めてもらうことにして、それから翌日猟師を案内にして玄倉川沿いにさかのぽったんです。
ところが、途中までは道があったけれども……いちばんいけないことは、昆虫をとる連中が昆虫を追っかけるとせっかく登ってきた道をあと戻りすることになるので時間がえらくかかるんですね。それに植物のほうは、木の上にシダなんかくっついていると木に登ったりするでしょう。どうせ大木で登りにくいから、しりを押し上げるとかやっているからえらい時間がかかってしまい、案内もこれではだめだ、日が暮れてしまって頂上へ行けないから、鍋割というところから里に下ろうといった。とんでもない、われわれは日が暮れてもなんでも頂上にいかなければ承知できないと、ぼくが総大将になって案内を激励というか鞭撻というかして、とうとう塔ノ岳へ、最後に道のないところをかき分けて登りついたのが九月二十四日の午後五時五十五分。- いやにくわしいですね。
- 九月の末だから日が短いでしょう。夕暮れですよ。秦野の明りがチラチラ見えているんですよ。それで下りは大倉尾根の道によったわけだ。案内をいれて一行十三人ですよ。提灯がたった一つ。それが先頭に立って、ぼくがしんがりだ。中途の若い連中が落伍をするといけないから番号をかけて1、2、3とやりながらふもとに下りて……これは日曜日の夜のことなんだ。ぼくらがむかしは学校を休んで山に登るなんていうことは夢にも考えなかった。休みでなければ行かなかった。
- 今とは違いますね。
- 学校がだいじなんだから。で、土曜日の午後に出て、そして玄倉村にはほとんど夜なかについて泊って、翌朝五時ごろから起きて登ったでしょう。それでその日のうちに東京に帰る予定がおそくなっちまったんでね。とにかく松田に出なければ乗り物がないというわけで、ふもとに下りてこれから松田に行こうというんだけれども、案内は山の中はくわしいんだが、里に出るとてんでだめ。
- だいたいそのへんが採集のはじまりですか。
- いやいや、それは一九〇五年ですから、ぼくの採集はもっと前ですよ。最初は七十年前に妙義山に登ったときでね。妙義山は三つありますね。白雲山と中ノ岳と金鶏山か。その中ノ岳に登ってその一部の朝日岳、その頂上でカノコユリを発見したんですよ。その球を掘ってきて東京に持ち帰って植えたら翌年咲きましたよ。これがぼくが小学校のころ、高等三年ごろだ。いまでも捜せばあの山のどこかに一本ぐらい……その時にはたった一本見つけたんですよ。とにかくあれは最北の産地だ。四国あたりに行くとだいぶあるらしいけれど、ああいう岩のあるところにはえるらしいですね。
○すばらしかった中学時代の理科教育
- 先生はお小さいときから植物が好きだったそうですが、学問としてはじめられたのは……。
- やっぱり中学校にはいってからね。ぼくらの時代の小学校は、八年間ありますよ。尋常四年と高等四年。その間に理科の講義は一学期、一学期あったかどうかしれない。ほとんど理科なんていうことは学校では習わなかったね。
- 中学校にはいってから、先生なんかの影響があったんですか。
- その先生がたいしたえらい先生でね。築地のそのころの官立の学校といえば東京府尋常中学校というのが唯一の学校だった。
二年級で植物学の講義があるんだな。そのころの教科書というのは、国語に漢文に習字はもちろんありますが、英語と地理の教科書、あとはぜんぶ筆記ですよ。その先生がその時代に植物の時間に実験をやったんですよ。こんなことは破天荒ですよ。特別教室があるわけじゃないし、一時間のうちに三十分実験して、みんなに解剖して図をかかせ、その先生が一人一人の帳面を見てまわって、間違っているところ、わからないところを説明して、三十分たつと、こんどは講義が始まるんだ。だいたいそのときは分類学でしたが。日比谷の原っぱでいろいろの草を小使が採集してくるのですが、ぼくは甲にはいったけれど、甲乙丙丁と四つぐらい組があるんだ。それに分けてやるだけの材料がとれるんですよ、日比谷の谷で。キンポウゲとか、オドリコソウとか、そのころの帳面がどこかにあるんだが、捜せばおもしろいと思うんだけれどもね。その先生が解剖図をかいた帳面を一学期に一ぺんか二へん、みんな取り上げて違うところをみんな直してくれた。こんなに勉強した先生というのはなかったな。○登山家は無欲で困る
- なんという先生ですか。
- 帰山信順。モの感化を受けたものは小熊桿、内田清之助、その後でやっぱり植物にはいってきたものはありましたけれども、みんな熱をあげちまって、市河三喜らもそうだ。彼等が日本博物学同志会を始めたんだが、先へいって方面が違って、工学士になる者もあれば理学士になる、数学やる者もあるし、物理をやる者や国語に行く者はあっても、その当時は、昆虫だとか、植物とか、鳥だとか、そういうものに興味をもって山に行ったんですよ。だから、その連中が山に行くというのは研究のために行くんで、いまのようにわいわい遊びに行くわけじゃないんだね。だからぼくは登山家じゃない。登山家なんて思われたら非常に残念だ。登山家というのは山をゴミだらけにするだけだ。
- その点は、今でも山に登ることを一生懸命やるけれども、さっぱり植物にも動物にも関心のない人がいますね。あれはちょっと困ったものですね。
- 宝の山にはいりながら、手を空しくして帰る。実に無欲なもんだね。そして貴重な時間と労力と費用をかけて、何を見てきたかというと、このごろはリュックが大きいでしょう。重い荷物を背にして地面だけを見てきて、景色も見ないで帰ってくるんだからね。まったく驚くべき無欲さだね。
- 専門の登山家はヒマラヤに行ったりして山に登ることそのことが目的だからいいのかもしれないけれども。
- ヒマラヤに行くのは、外貨を使って命がけでいくでしょう。ぼくは日本の文化に寄与しないような登山ならやるなというんですよ。その金があるなら日本の山を掃除しろというんだよ。ああ山がきたなくなっちゃしょうがない。ネパールが日本から行くやつはみんな断ったからこれはいいことだ。ほんとうにヒマラヤまで行ってりっぱな報告を書けるパーティはめったにないね。
- 別に組織していかなくても、行ったついでにちょっととってくるだけでもずい分違うと思うんですがね。
- ぼくも行かないかといわれるんですよ。ぼくはベースキャンプまでなら行ってもいい、氷と雪の山になったら用がないからね。雪男なんていうのはいないんだし、そんなものは一種の伝説みたいなもので、人間じゃないからね。それでおかしいのは、文部省がまたそういうものにスポーツとして行くなら金を出すんだ。研究に行くというと金を出さないらしいね。文部省ともいわれるものが実に文化というものを忘れているんじゃないか。
- ちょっと話が違いますけれども、きのうM君がきて、彼、三年か四年前に南米植物地理の研究に行ったんですが、今年もまた行くんです。旅費は科学研究費(文部省)から多少出してもらう予定らしいです。五〇〇万円くらいらしいですけれども彼の計算では七〇〇万円かかる。だから二〇〇万円足りないわけです。それを何とか民間の寄付か何かで補充しなければいけないのでK会社に紹介してくれないかときたわけです。これもずいぶんおかしいと思いますがね。
- そうそう。
- 国の研究費からだして貰い、足りないところをなんとかするというならいいけれども、あるパーティは二二〇〇万円の計画ですが、政府(文部省)が出すのは一○○○万円かな。すると一二〇〇万円足りないわけです。これを寄付金で埋める。だから足りないほうが多いんですよ。
- 足りないほうが多いというのはおかしいですね。
○官尊民卑時代の交通地獄
- 話はそれましたが、先生は植物のほうがさきで、それに伴って山に登られたということですね。
- 研究の対象が山にいるからいやおうなしに登ることになります。登ればいい気持だよ。孔子さまでも、泰山に登りて天下を小にす、といったでしょう。えらい人でも山に登れば下界人とちがった気分になれる、だからせいせいする。山に行けば気が大きくなりますよ。そうすると、今の都議会みたいな、ああいう人間は山登りの連中からは出てこないな。都会のゴミのなかに生活しているからああいう都の議員みたいな醜態をさらすんだね。
- お話はよくわかりましたが、高山植物をとくにお好きになったのは、やっぱり山に登ることと直結したからですか。もともとは必ずしもそうでなかったようですね。先生のお仕事を拝見すると。
- とにかくそのころは旅行が不便だった。高尾山に行くといったって大へんですよ。切符は八王子までしか買えないんだ。八王子で降りて切符を買いなおしてつぎの駅の浅川までいかなければならないんだ。軽井沢に行くといっても切符は高崎までしか買えない。高崎で降りてまた軽井沢まで買いなおすのでしょう。
- それはどういうわけですか。
- そのころは高尾山は八王子まで甲武鉄道が経営して……。
- 経営者が違うわけですね。
- 飯田町からでた甲武鉄道は甲州と武州を結ぶという計画だけれども、武州のうちでストップしちゃって、つまりあれからトンネルを掘る金がないんですよ。八王子まではどうやらできたけれども、それからさきは官線だ。政府が金を出しているでしょう。それで小仏峠のトンネルがあいたわけですよ。また上野からは日本鉄道株式会社がやって高崎でストップして碓氷峠のトンネルがあかないので、これはまた官線でしょう。官線だから連絡の切符を売らない。いまだったら世界中の切符を東京で買えるけれども、そうじゃない。官尊民卑が盛んでした。一九〇三年に中央線が甲府まで開通したんですよ。
それでぼくは、八ヶ岳に登ったときは信越線で行って、赤岳の頂上で見ると甲斐駒がすばらしい。あそこはまた植物がありそうだから行ってみようと、ところがそのころは案内書というものがないんだ。しょうがないから測量部の人に間接に聞いてもらって台ケ原かまたは駒城の薮ノ湯から登る。それだけしかヒントがないんだ。それじゃとにかく甲府まで汽車で行ってあとはどうにかなるだろう。山中野宿のつもりで食料からなにから全部持って甲府に行った。ところが、ぼくの荷物というのは、押し葉の道具がたいへんですよ。ことに本式の吸い取り紙までもっていくんだから、それで板で押えて毛布で包んで行李に入れて、一人じゃ持てないくらい重いんです。
甲府の駅で降りて、ここから台ケ原にいくんだから馬車かなにかあるかと聞いたら、乗り合い馬車がある。どこから出るかというと二、三〇〇メートルさきから出る。どうして馬車をこの構内にもってこないんだ。汽車から降りてなぜすぐ乗れるようにしないんだと聞くと、駅員はばかなことをいうな、ここは官線の駅だ、官線の駅にガタ馬車を乗り入れるなんてとんでもない。そういう官尊民卑だったね。それから赤帽がいたから、それに頼んで荷物を馬車のところまで持っていってくれないかというと、いや私は構内だけの荷物を運ぶんで構外へは一歩も出られません。ひどいもんですね、それは。それでようやく赤帽に頼んで人力車一台つれてきてもらって、それに荷物をのせて自分が乗っかってガタ馬車の発着所へ行ったわけだ。ほんのわずかのところでえらい金をとられて行ってみたら、ガタ馬車は一人じゃ出せないという、さもなければ買いきれと。ほうぼうでそういう目にあいましたよ。八ヶ岳に行くときも一台買いきったけれども、一人の旅なんてえらい金がかかるんだよ。
そのうえ、こんどは山に行ったら、案内者とか人夫をやとわなければ登れないんですよ。地図もないし道もわからない。現に奥多摩の御岳から大岳に行くのに、御岳に行って一晩泊って翌日大岳に行くのに案内者をつれましたよ。これが一九〇四年ごろだったかね。道がわからない。地図もないから一人じゃあぶなくて歩けない。そういう不便な時代だから山に行くというのはなかなかたいへんだったですよ。
ところが信州長野の師範学校に矢沢米三郎、それから大町の小学校の校長に河野齢蔵という人がいた。あの連中がほうぼうに行って、矢沢氏は明治三十年に八ヶ岳でチョウノスケソウを発見して、これはチングルマのなかまだといってミヤマグルマという名前をつけて東京まで報告を書き送ってきました。それから河野齢蔵氏は鳥の研究かなんかで、明治三十一年に白馬岳に登ってウルップソウやマルバギシギシなんか発見して、それを東京で耳にはいると、さあ行ってみたくなるんだね。矢部吉禎という人がいましたね。あの人はぼくらよりさきに山に行った。それは明治三十何年のころか、読売新聞社が富士登山の会員を募集したんですよ、それで富士山の植物を松村先生にきて説明してくれという。先生もめんどうだから矢部君が助手だったので、矢部君、君行けと、どんな説明してきたか知らんけれども矢部君が行った。それで八ケ岳もおそらく矢部君がぼくらより一年ぐらい前の明治三十五年に行ったんじゃないかな。○富士にあるか? エンレイソウ
- 富士の話が出ましたが、このあいだ、九大教授の芳賀というエンレイソウの遺伝をやっている人が博物館にきて標本を調べていましたが、明治十二年に富士山でとったおもしろい標本が一枚出てきたそうです。
- 矢田部先生のですか?
- 採集者の名前が書いてないんでわからないんですが。
- エンレイソウ、何の種類?
- それが問題だったんです。オオバナノエンレイソウです。その標本は確かにそうですが、産地があやしい。これはおそらく採集地が違うんじゃないか。
- 違うね。何かラベルのまちがいだ。マクシモウィッチがミヤマオダマキをたしか箱根でとってる標本がありましたよ。これは間違いに違いないんだ。箱根にそんなものがはえているはずはないんだ。
- さっきのカノコユリですが、妙義山にあったようなぐあいに、オオバナノエンレイソウが富士山にあるいは昔あったかもしれない。それを先生に一度うかがってみようと思っていたところです。
- ビョーマー(Boehmer)という男が北海道でたくさん採集して、東大にありますよ。横浜にいた植木屋かな。それは標本をはりつける細い紙に赤い紙を使ってあった。そのなかまにあるかもしれないな。富士山は間違いですね。ふもとにミヤマエンレイソウはありますよ、吉田の近所に。とにかくかわいている山だからオオバナノエンレイソウなんぞ……。
- 採集者もわからないし、ただそれだけしか書いてないですよ、明治十二年と。
○華族のやった山草会
- 当時、外国であちらの学者が日本の植物と山の関係について研究したことはありますか?
- 日本にディキンズという人がいましたよ。これがずい分集めたんだね。八丈島まで行ったんだ。ところがその標本が、船が難破しちゃってみんな流しちゃったらしいんだよ。ぼくのおやじがとったのはみんなディッキンズかなにかにやっちゃったらしいね。たくさんあったらしいんですがね。
珍らしいものが八ヶ岳にあるとか白馬山にあるということで矢部君が出かけて行って、それから早田君なんか学生時分に八ヶ岳に行って遭難しかかったものですよ。それからおもに長野師範の連中が八ヶ岳へ、天幕もなんにもないところで、ふとんをしょい上げたんですよ、山の上へ。炊事道具がないから大きなむすびをこしらえて持って、それを食べて山に野宿して、そんな時代ですよ。
それと同時に華族連中のやった山草会というのがあった。これがやっぱりできるだけ珍品をとってきたいというんで、ことに城数馬という弁護士はずい分山に行きましたね。それから山岳会のできた年だったかな、牧野先生もその山草会の一人。四国の大州の藩主の加藤泰秋という子爵が北海道に農場を持っていたんですが、その見廻りに行くというので牧野富太郎先生をさそって行って利尻山に登ったり、明治三十五年には早池峰山でハコベの新種を発見した加藤さんの名を記念してカトウハコベと命名したりした。それから松平康民子爵は作州津山の藩主ですがやっぱり八ヶ岳に行きましたね。それから青木信光という、これは久留島子爵の親類だけれども、この人は白馬に行きましたね。白馬に行ったのはぼくよりも前ですよ。明治三十六年か三十七年でしょう。どうせ根をとるんだからね、押し葉じゃないから道具だけはいらない。むかしのことだからポリエチレンの袋などはなかったから、もってくるのは骨がおれたらしい。なんでも山の土をつけてくればいいというんでつけてきたらみんな枯らしちゃったね。- 土をつけてきてはいけないですね。あれははらったほうがいいらしいですね。
- 山は寒いから、地中にある菌類なんかはあんまり発育しないから害をなさないんだよ。下界にくるとそれが蔓延し、根がだめになっちまう。ぼくもそれでずい分苦心していろいろやってみたんだが、近ごろはぜんぶ土をふるってもってきて、それを特殊な砂とまぜて植える。そうしなければうまくつかない。去年大雪山から持ってきたのは二、三ついている。ぼくは採らなかったけれども、ぼくの助手が採ってきた。採集許可証をもらったけれどもなんにも採集しなかった。写真をとるのが忙しくてね。
○化け物みたいなさばく植物、ウェルウィッチア
- イギリスで研究なさったことはどういうことですか。
- むこうの大学にはいってぜんぶやり直したよ。
- 先生はウェルウィッチア(Welwitschia)もやられたんですね。
- 卒業論文はウェルウィッチアの解剖です。ウェルウィッチアの葉のアルコールづけが教室にあって、だれもいじくらないんだ。それともう一つはロンドンのチェルシーというところに古い薬用植物園があってね、そこにヘイルスという植物栽培の実にじょうずな人がいた。ロンドンのまん中でチョウノスケソウを咲かせるんだからね、あんなスモッグのひどいところで。その人がウェルウィッチアの種を二つ三つ手に入れて実生をはやしたんですよ。それを一本くれたんでそれも卒業論文の材料なんです。
- ウェルウィッチアというのはアフリカ西南部にある変った植物で、ピアソンが採集したんですね。さばく植物ですが大へんなものなんです。分類学上は、裸子植物と被子植物の間をつなぐ重要なものなのです。
- 二枚の大きな葉っぱが、背の低い太い茎の左右に一枚ずつあるんだね。これが何十年となくあとからあとから伸びて行く。一〇センチぐらいの幅になってね。そういうやつがアフリカのさばく地帯にはえているんですね。
- ずいぶん厳重に保護しているそうですね。
- 一目、一科、一属、一種といった実に不思議な……。それで雌と雄の木があってね、きれいな実がなる。
- 日本でも種をまいてはやした人があるらしいですね。京都と大阪の間にある京大農学部付属古曽部園芸場でだいぶ大きくしたそうですよ。その後枯れたらしいですが。だから温室でやればある程度できないことはないですね。
- それからもうひとつは日本のミズニラの研究だ。これについてはだいぶ面白い事柄を発見しましたよ。
- それから、割合ぼくらが知らなかったんですけれども、先生の仕事にウラボシ科の研究がありますね。ヒカゲノカズラ属はよく知られていますが……。
- ヒカゲノカズラ属は北海道にいたころやったんだ。
- ウラボシ科の研究は?
- キュウ(王立キュウ植物園)でやったんですよ。キュウの標品がたりなくてエジンバラのを借りたんですよ。発表はエジンバラでした。
○興味は山からふもとへ移って
- このごろはもっぱら山ですか。
- 山で根は掘らないで写真ばかりとっている。けさもぼくの高山植物の写真をある印刷会社が借りにきたんですよ。なにするんだといったら、銀行でマッチをくれるでしょう。そのマッチの一面に山の写真をはり、裏に高山植物をはるんだと、できあがらなければわからないが、山も植物のはえている写真を使う、大したもんだ。
- カラーで……?
- カラーですね。でもねマッチってこんな小さいでしょう。だから大したことは……。
- でも銀行でやるなら大きいやつもあるでしょう。
- 大きいのもあるけれども、お客用だから小さいものらしいです。できたらもってくるといったが。
むかしは高山植物中心だから、ふもとや中腹は用がないんだ。サーッと頂上まで行っちまうんだよ。それがおもしろいもんだね、だんだん中腹に降りてくる。中腹の森林がおもしろくなってくる。それからこんどは森林の下に村があるでしょう。その村の人と森林との交渉、たとえば富士の麓に精進という村がある。その隣の村は炭ばかり焼いている。だから青木ケ原の樹海を高いところからみると木の種類がちがっている。精進のほうじゃヒノキを切って生糸を巻くワクをこしらえているからヒノキというと目のかたきにして切ってしまう。片方はヒノキなんぞは炭にならないから落葉樹ばかり切っている。だから中にはいると森林の色がちがう。それが面白いですよ。そうすると、こんどは村の人の生活に興味がでてくる。村の人がどういう信仰をもちどういう風習があるか、だからだんだん民俗のほうに手や足が伸びてくる。- 先生は民俗的な本も書いておられるし、いろいろ写真もあるけれども、やっぱりそういうところから民俗との結びつきがでてきたわけですね。
- それとひとつは柳田国男さんにそそのかされたんですよ。君、山に行ったらあっちこっち旅行するのはいいが、たとえば雨に降られて登れないときに、宿屋でばかな顔していてもしょうがないから、なにか聞き書きでもとってくれば役に立つとか……。だから柳田さんに写真を提供したことがあるんですよ。柳田さんはりっぱな写真機を買ってきたんだけれどもめんどうがって使わないからね。弟子に借して自分は使わない。ぼくもむかしは写真なんてあんな手間がかかるものはいやだといってやらなかったね。ロンドンにいた時分はラボラトリー・ボーイに頼めばなんでも撮影してくれる。幻燈でもなんでもやってくれるしね。講義するときには幻燈を頼めばちゃんとスライドをこしらえてくれるでしょう。
○夏に溶けてくっついた乾板時代
- じゃ先生、写真をはじめられたのはあまり若い時分じゃないですね。
- 大正七年。明治時代に少しばかりいじったことはありますが、後には友人に頼んで撮影してもらったけれど、山に行ったら自分でやらなければだめだからね。はじめたのは大正七年ですよ。
- いままでずい分たくさんおとりになったでしょう。
- ずいぶんとりましたね。どのくらいとったかわからない。いいフィルムがなかったからアメリカから取り寄せてね。非常にいいフィルムだった。ところがひとつ重大な欠点がある。ゼラチンがやわらかいんですよ。それで長くしまっておくと溶けてしまうんだ。
- 現像前ですか、後ですか?
- すぐ焼けばいいけれど、二十年も三十年もしまっておくでしょう。日本の夏の気候で溶けてしまう。何枚かくっついてかたまってしまう。それで間に紙をいれておくが、こんどは紙にくっついてしまう。むかしはハイポに硬膜剤がはいってないんですよ。わざわざ作らなければいけない。硬膜剤を使うようになってからは真夏に現像したやつはいいんだが、寒い時分にはそんなものはいらないと思うでしょう。それで溶けちまってね。一度も焼きつけしない何百枚か捨ててね、いまいましいからみんなもしちゃったよ。初めのうちは乾板を使ったが、大正十二年の震災でガタガタやっているうちに、乾板の膜の間にほこりがはいってすれて傷がついてしまう。重いのと場所をとるのでそれからフィルムにしてね。
ところがむかしはいいフィルムがなかったですよ。大正時代は、せいぜいオーソクロマチックがあればいい方ですよ。とにかくぼくは写真をはじめたときに丸善へ行って自分の読める言葉の参考書を一棚ぜんぶ買ってきたよ。それでいろいろヒントを得たりなんかしてね。ところが山岳写真術というのがあるんだ。それを読むと、高山の頂上付近はヘイズが少ないからフィルターは薄いのでいい。考えてみると向うの山は高いものね。なにしろモンブランは四八一〇メートルでしょう。こっちはせいぜい三〇〇〇メートル。日本の山は雨が多いから濃いフィルターでなければだめなんですよ。オーソクロマチックに使える濃いフィルターのほうの極限まで研究してね。向うで推奨するものより一ケタ濃いやつを使って遠くの山を撮影した。
ところがいまはみんなパンクロになっちゃってフィルターも発達したし、楽になりましたよ。もとはみんな冠布をかぶってピントガラスをのぞいたわけだ。百発百中でなければやりきれないよ。三六枚うつして一枚ものになればいいなんてわけにいかんよ。ところがヨーロッパの本をみると、八ツ切りの機械をもっていけと書いてあるね。いよいよ困ったらキャビネ判だって……。- いまはぜんぶふつうのフィルム三五ミリでやっているわけですか。
- 三五ミリかセミ判だね。大事なときにはもとのやつをかつぎだすよ、ジャバラ三段のびの、レンズが交換できるやつ。富士山の写真なんか撮影したころは、四十何センチかの焦点距離の望遠レンズ。麓から周囲をグルッとまわって頂上だけを写した。この本はたちまち売り切れちゃっていまはないですね。富士さんをグルッとまわって、麓から頂上だけを望遠レンズで撮影する。そんなくだらないことをやるのが好きなんだね。
○自然を荒らすマイカー族
- こんど文化財保護委員会で、今まで指定したところを見てあるくということになったでしょう。あれはいいことだと思うんだがね。ぼくは中井君がやっているころ、中井君にいったんだ。指定しっぱなしであとは野となれ山となれではしょうがないじゃないか、指定したあと、なんとか保存の方法をもう少し考えなければいけない。それで中井君も大いに賛成しておったけれども、そのうち死んでしまったでしょう。あれは秋田駒ヶ岳、昨年は大雪山が指定された。
- 本州でも上高地付近のようにその地域を保護地域に指定して、そこではとっちゃいけない。山ひとつ指定するというのはあんまりじゃないですか。
- 少ないね。富士山なんか天然記念物の指定のしかたがおかしいんだね。登山道の左右一〇〇メートル、ただこういうぐあいに指定してある。登山道の左右が荒らされているから、そこさえ指定すればいいと思ってやった。そしたらこんどはスバル・ラインができて、指定したところをちょっと横切るだけだからいいでしょう。というわけだ。あとは県有林だから勝手次第なことをしている。道さえこしらえれば金が落ちるというわけでやったんだろうが、いけないことはマイカー族が山を荒らすんだ。バスだけならバスストップに監視人をおけばとってくるやつはすぐわかる。マイカー族は勝手なところにとまって、そっちこっちにはいっていいものをかっぱらってくる。監視をおくとなると全コースにおかなければいけない。これはできないですよ。困るね、マイカー族というのは。
○貸しきりバスで夜陰に採集
- おととし、木原君が箱根のヤマボウシ調査のときに、半日くらいですんでしまい、木原君は東京に帰るがぼくにいっしょに帰れといった。県庁の人が一晩泊って、いろんな話もしたいというので吉川君と三人で仙石に泊ったんですよ。翌日仙石から冠岳に登ろうと雪を踏んで登った。降りてきて大地獄にきたらマイカー族がいて、ハイシキミをうんとこさとってトランクにいれているんだ。ぼくがいって、きみ採集の許可をとったのか。いやとっていない。ここは許可なしにとっちゃいけないんだ。根のあるやつとないやつがあるんだ。実のついた枝はまあしょうがないからもちたまえ。根のあるやつはぼくが手伝うからそこへ植えなさいと。みんな植えさせたんですよ。
- そういう困った問題がいろいろあるわけですね。
- 困った問題ばかりだ。高山植物を下界で植える同好会がある。東京山草会、そういうところにはいれば合法的にやれるでしょうとよく聞かれるんだが、資格がないんだよ。国有林の中で採集するには採集する植物の名前を書いて営林署へ願書を出します。それで一種について三本以上とっちゃいかんとか、枝は一人が四本とか規定がある。それに中学校以上の学校の先生か……なにか資格がないと許可にならない。しろうとはだめですよ。
だから山草会の連中は巡視のこない時期をねらって、競争でとるんだ。富士山なんか東京から貸しきりのバスで、夜陰に乗じて、朝のしらむとたんに山についてとり、人が登ってこないうちにサッと引返してくる、ひどいもんだね。
それよりもっと悪いのがいる。山麓に巣をくっている植木屋なんですよ。巡視が出張する四、五日前に山に行って目ぼしいやつをとってくる。三越や伊勢丹の園芸部で買えるのはそれなんですよ。ぼくが驚いたのは、おととしだったか、どこかのそういう山草展覧会にいくと植木屋が出張している。ユウバリソウ(注、ゴマノハグサ科、ウルップソウに近い種類で夕張岳の特産)を売っているんだ。だれも買いませんよ、知らないから。水ゴケに包んであるがカラカラに乾いている。こんなもの枯れるだろうとは思ったが買ってきて植えたらついた。ついたけれども花は咲きませんがね。ユウバリソウまでとってくるんだから、少しめぼしいものはたちまちなくなっちまう、これがいちばん悪いですね。- そういうのを防ぐというか、予防をする手はないものですかね。
- そうかと思うと、戦前の話だが、北海道の大雪山の巡視が、秋になってオヤマノエンドウに実がなったのでこれをかき集めて食おうとした。オヤマノエンドウをエンドウ豆だと思ったんだな。だが、種子は小さくて食うところがありゃしない。巡視だよ、きみそれが。
(科学読売・一九六五年六月)
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