飯豊山の名をはじめて知ったのは、もう五十年もの昔、私が東大の植物学科にはいったときです。その当時、植物学教室は小石川植物園内にあって、古い木造の平屋でした。昼食時には園内を散歩したり、雨の日は教室で先輩の話をきいたりしたものですが、中期(当時は一年、二年、三年といわず、前期、中期、後期といった)の学生に浜田和雄さんがいて、山の話、高山植物の話をして同級の竹中要さんとともにわれわれ前期学生を煙にまくことしばしばでした。私はそれまで高等学校時代に二、三の高山に登ったことはあったが、山のことはまったく知らなかったので、浜田さんは山登りのため第一高等学校を裏表六年かかって卒業したという伝説の持主であったことは知りませんでした。その浜田さんから飯豊山のすばらしさ、山が深く大きいこと、植物の種類が白馬岳や八ヶ岳のように多くはないが、同じ種類の個体数が多く、群落が大きいことなどを熱心にきかされたことが記憶に残っています。
浜田さんは、後に田辺姓になり、生態学を専攻し、卒業後は松江高等学校教授になりましたが、武田久吉先生の高弟ともいうべき存在で、写真もうまく、武田先生と共著で高山植物写真集を出版したことで有名です。戦後は早稲田大学に移りましたが、アフリカの植物調査に出張中、ナイロビで病死されたことは惜しいかぎりです。 浜田さんについてこのように書くのは、飯豊山ばかりでなく、山の話、植物の話をきかされたのが、後に私が植物分類学をやるようになった一因とも思うからです。私は大学を卒業してから採集旅行にでかけることが多かったにもかかわらず、ついに飯豊山に登る機会がなく、戦争になってしまいました。
戦後、世の中がやや落着いて、どうやら登山旅行できるようになったある年、どういう機縁か忘れてしまいましたが、新潟県栃尾の稲田豊八さんを知りました。稲田さんは本業が本屋さんですが、野鳥にくわしく、植物も好きという、地方の博物学者で、守門岳で登山会をやるが植物の指導にきてくれという招きをうけてでかけたのですが、その会に新潟県の山岳会の人達もきており、そこで会長の藤島玄さんに紹介されました。背の高い、色黒の、口髭をたくわえた藤島さんはいかにも山男らしい風貌で、近寄りがたい感じがないではなかったが、話しているうちに真の山男と思うようになりました。話が飯豊山のことになると、毎年一度は登っている山だからいつでも案内するといってくれました。ここで寄り道になりますが、稲田さんのことにふれておきたいことがあります。上京すると必ず上野の科学博物館に訪ねてくれるつきあいになりましたが、先年秋田県の田沢湖畔、駒ヶ岳の麓で植樹祭が行われたときのことです。陛下がおいでになる記念にその沿道にサクラの苗木を数千本寄贈したいと、主催者に申出て許可になった。大病後の身体に鞭うってこの大事業を私費を投じて成しとげた。ところが、主催者から一片の礼状はきたが植樹祭の招待状がこない。なんとか出席したいがどうしたものか、という手紙が私宛にきたのです。そんな馬鹿なことがあるものかと腹がたち、ある有力者をわずらわしてしかるべきところにきいてもらいましたが、招待状は出すところには出してしまったのでもうどうにもならないということがわかり、地方役人のすることはこんなものかと、憤慨、落胆するばかりでした。ところが、まったく予期しないことに、私のところに招待状が舞い込みました。私はあまり興味もないし、これで稲田さんの心が慰められるならと考え、招待状を稲田さんに廻しました。稲田さんは喜んで出席し、満足したと思いますが、まもなく病気が重くなり、ついに不帰の客となり、くわしいことはきけずにしまいました。
さて、飯豊山のことにもどります。藤島さんに栃尾で会った翌年の夏と思いますが、彼が会長をしている日本山岳会新潟支部が飯豊山に集中登山の計画があり、人手はいくらでもあるから身一つで来ないかという誘いがあり、またとない機会とばかり、参加することになりました。飯豊山の名を知ってから約二十年たって望みがかなったわけです。
昭和二十三年八月十四日東京発、その夜は新潟市の藤島さんのお宅にとめていただき、翌十五日、磐越西線で徳沢駅下車、弥平四郎の村に一泊しました。十六日は三国岳に登り山頂の神社に参拝して記念撮影、御西岳をまわって、夜は文平ノ池の側に焚火をたいて暖をとりながら仮眠しました。テントも何もない、真の野宿です。私ははじめてでびっくりしました。そんなこととは知らないので、大した防寒具ももたず、えらいことになったと思いましたが仕方がありません。山岳会の連中は至極当然のような顔付で、私を気の毒がる様子もないのです。今から考えるとずい分荒っぽいやり方ですが、素足に草鞋ばきの藤島さんの指導方針がわかるような気がしました。幸いその夜は雨が降らなかったので眠ることができました。十七日は尾根をゆっくり北にたどり、石転沢の原頭から急斜面を一気に長者ヶ原の村に下り一泊、十八日はトラックで玉川口に出て坂町経由で新津へ、そこで一行とわかれました。
この登山で、藤島さんとすっかり親しくなり、その後も彼の案内で越後三山、頸城三山などに登ることができました。今でも忘れがたい思い出です。そのかわり(というのもおかしいが)私も多少は新潟山岳会員のお役に立ったのではないかと思っています。それまでは山はただ登るだけのものだったのが、山の植物を知ることになってさらに登山の意義が深まるという考えが藤島さんを通して会員に浸透するようになったときいたからです。この飯豊山特集号も、私が適任ではないけれども藤島さん、平田さんが加わるときいて書く気になったわけです。
■飯豊山の植物の特徴
飯豊山は大きな山塊で、北アルプスなどでは味わえないおおらかさを感じます。尾根すじは広広として、豊富な植物におおわれています。ここの植物についての最初の報告は、石川光春氏の『飯豊山の植物』(博物の友 六巻、一九〇六)でしょう。その後断片的なものはありますが、それらを今見ることができませんので、ここでは結城嘉美氏の『山形県植物誌』(一九七二)、奥山春季氏の『日本植物ハンドブック』(一九七四)などを参照して、飯豊山の植物、とくに高山植物の種類と分布関係を瞥見することにしましょう。
まずはじめに注目すべきことは、本州中部の高山にくらべると、垂直分布がはっきりしていない、つまり低山帯と亜高山帯が明確でないことです。この山の北と南では多少違いますが、低山帯はブナを主体に、ミズナラ、アズキナシ、ナナカマド、マルバマンサク、ヒメヤシャブシ、ハウチワカエデ、テツカエデ、ウワミズザクラ、ミズキ、コシアブラ、オオバクロモジ、ツノハシバミなどの落葉広葉樹が1,000メートルぐらいまで生え、その下にはエゾアジサイ、エゾユズリハ、ヒメアオキ、ノリウツギなどが見られます。その上部にコメツガ、キタゴヨウ、イチイなどの針葉樹、1,400~1,600メートルあたりにダケカンバがあらわれ、オガラバナ、ミネカエデ、ミネザクラ、ハクサンシャクナゲ、タカネナナカマド、マルバシモツケ、アカミノイヌツゲが混生し、1,800メートルあたりでハイマツが現れ高山帯になってしまいます。コメツガ、シラビソ、トウヒなどの森林帯がないので、いつのまにか高山帯に登ったという感じです。これは飯豊山にかぎらず、東北から北陸の高山に共通する現象で、おそらく日本海側の多量の積雪と季節風の影響によるものと考えられています。
飯豊山の高山植物は約一七〇種くらいでしょうか。中部の高山にくらべると種類は少ないですが、個体数ははるかに多いのが特徴です。主なものをあげると、ウサギギク、タカネヨモギ、イワインチン、ミヤマコウゾリナ、タカネニガナ、ミヤマウスユキソウ、ヒメシャジン、ハクサンシャジン、チシマギキョウ、イワギキョウ、タカネマツムシソウ、リンネソウ、ハクサンオオバコ、ムシトリスミレ、ミヤマシオガマ、ヨツバシオガマ、ヒメクワガタ、タテヤマウツボ、オヤマリンドウ、ミヤマリンドウ、イイデリンドウ、トウヤクリンドウ、イワイチョウ、ハクサンコザクラ、コメバツガザクラ、イワヒゲ、ミネズオウ、アオノツガザクラ、ツガザクラ、ミヤマホツツジ、コケモモ、クロマメノキ、イワウメ、イワカガミ、シラネニンジン、ハクサンボウフウ、キバナノコマノツメ、ウスバスミレ、イワオトギリ、ガンコウラン、イワオウギ、オヤマノエンドウ、ハクサンフウロ、ミヤマダイコンソウ、ミヤマキンバイ、コガネイチゴ、ノウゴウイチゴ、チングルマ、アラシグサ、ヒメウメバチソウ、ミヤマタネツケバナ、ハクサンイチゲ、ミツバオウレン、シナノキンバイ、ミヤマキンポウゲ、タカネナデシコ、タカネツメクサ、イブキトラノオ、ムカゴトラノオ、オンタデ、ハクサンチドリ、タカネトンボ、キソチドリ、ネバリノギラン、クロユリ、ゼンテイカ、クルマユリ、チシマゼキショウ、イワショウブ、ヒメタケシマラン、コバイケイソウ、アオヤギソウ、タカネスズメノヒエ、タカネコウボウ、オノエガリヤス、イトキンスゲ、リシリシノブ、ヒメスギラン、タカネヒカゲノカヅラなどです。
分布上注目される植物。特産植物はイイデリンドウだけです。これははじめ、リシリリンドウと考えられましたが、後にはミヤマリンドウとして扱われ長い間疑うものがなかったのですが、原寛氏は、花が大きく、花冠副片が広くて縁が細裂すること、蕚裂片が大きくて幅広いことでミヤマリンドウの変種とする説をたて注目されました(一九四七)。ところが大井次三郎氏はリシリリンドウの変種とする考えを出しました(一九六五)。どちらがよいか迷わされますが、最近、大場秀章氏は、飯豊山でイイデリンドウの生育地をくわしく観察した結果を発表しました(一九七三)。それによると、イイデリンドウとミヤマリンドウとは、生育環境がはっきり違う。イイデリンドウはミネズオウやガンコウランなどの群落がある風衝地にかぎってはえているが、ミヤマリンドウは湿性の草原にはえていて混生することはない。外部形態的にも違い、中間的のものはない。ただ、萼裂片の側脈の出かたがイイデとミヤマは似ているがリシリリンドウは違うといっています。しかし、イイデリンドウをどちらの変種にすべきか、あるいは独立種として扱うかということにはふれていません。私は、リシリリンドウはまだ本州には見出されていないことを考え合わせて、イイデリンドウはミヤマリンドウに近縁のもので、しかも生育地と形態の異なる分類群である、しかし別種とするにはなお研究の余地がある、やはりミヤマリンドウの変種とするのがよいかと考えます。
飯豊山の植物がタイプ標本として記載されたものに、タカネマツムシソウ、ミヤマシシウド、アシボソアカバナ、コシノハナヒリノキ、タカネサギソウなどがあります。タカネマツムシソウはマツムシソウの高山型で、丈低く、花の紫色が濃く、萼の刺針が長いものです。ミヤマシシウドはシシウドの深山型で、葉の下面が粉白色になったもの、アシボソアカバナはミヤマアカバナに似ているが花柄に屈曲した毛があり、果実になると花柄が伸長して長さ20〜30mmになるものです。コシノハナヒリノキはハナヒリノキの高山型で、葉が小形で下面がいちじるしく粉白をおびるもの。タカネサギソウはハシナガヤマサギソウに近いが、花は小形で距の短い高山型といわれています。
また近くの高山まで分布しているが飯豊山にないものをあげると、イワブクロ(鳥海山が南限)、イソツツジ(吾妻山が南限)、エゾツガザクラ(月山が南限)などがあります。
本州中部にはふつうで早池峰山にもあるイワベンケイは飯豊山、吾妻山、朝日岳、月山、鳥海山にはなく、かわりにホソバノイワベンケイが分布しているのも興味あることです。
本州中部から飯豊山、朝日岳、月山にあるが、東の吾妻山、蔵王山にはないものが、ウサギギク、タカネヨモギ、ミヤマウスユキソウ、チシマゼキショウ、ハクサンボウフウ、イワオウギ、ウラジロナナカマド、ミヤマタネツケバナ、ミヤマキンポウゲ、ムカゴトラノオ、オンタデ、ゼンテイカ、クルマユリ、タカネスズメノヒエなどです。
また飯豊山と月山にはあるが、その中間の朝日岳にないものが、タカネニガナ、ミヤマシオガマ、トウヤクリンドウ、アラシグサ、キソチドリ、ヒメタケシマラン、クロユリ、コバイケイソウなどです。
登山者がエーデルワイスといって喜ぶものは日本に数種ありますが、ミヤマウスユキソウ(ヒナウスユキソウ)は秋田駒ヶ岳、焼石岳、鳥海山、月山、朝日岳、飯豊山に分布しているがその以南にはありません。本州中部の高山に見られるものは、ミネウスユキソウ(シロウマウスユキソウ)で、白馬岳、唐松岳、針ノ木岳、立山、白山、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、北岳、赤石山系、谷川岳に分布し、東北では焼石岳、早池峰山、岩手山に知られ、ウスユキソウの高山型とされています。早池峰山にはミネウスユキソウの他に特産のハヤチネウスユキソウが産することは有名で、焼石岳にはミヤマウスユキソウとミネウスユキソウが共存しています。木曽駒ヶ岳にはコマウスユキソウ(ヒメウスユキソウ)という特産種があります。ミヤマウスユキソウに似ているが茎の高さ4~7cm、頭花は2、3個、そう果はやや大きく稜がないのが特徴とされています。
以上は、飯豊山の高山植物について現在資料によってざっと整理したものです。これによって、飯豊山は東北の高山と中部の高山との要といえるかも知れません。しかし、分布の境界ということはきわめて微妙であって、ある種類がA山にはあるが近くのB山にはないといっても、現段階ではそういえるというだけで絶対にそうだとはいいきれないわけです。将来B山に見つかるかも知れない可能性はあるのです。分布を論ずる場合はつねにこのことを注意しなければいけません。 一例をあげてみましょう。津軽海峡は生物分布のブラキストン線として昔から有名ですが、植物でもこれが境界になっているものがかなりあります。針葉樹がよい例ですが、クロマツ、スギ、モミ、コメツガは本州にはあるが北海道にはありません。アスナロも同様です。しかしその変種のヒノキアスナロは本州北部から北海道に分布しています。アカエゾマツは北海道にあって本州にはないことになっていましたが、戦後に岩手県の早池峰山の北側にかなり自生していることが発見されて話題になりました。
分布は分類と関係が深いことも注意しなければなりません。A種は本州にあるが北海道にはない、反対にB種は北海道にあるが本州にはないという場合がかなり多いですが、もし、A、B種がごく近縁のもので、B種はA種と同一の種類であるという研究が認められれば、A種は本州から北海道に分布するということになるわけです。 種をわけるという仕事はそう簡単なことではないのです。昔は、形や大きさのちがい、毛の有無などに重点がおかれましたが、近年はそれに加えて、環境、染色体の核型、分布の状況などをしらべ、単なる個体の相違だけでなく、個体群として種というものを考えるようになりました。ですから、例えば本州中部に非常に変った植物が発見され、既知の種とは全くちがうのですぐ新種にするようなことは危険です。いろいろの角度からしらべてみたら中国やネパール産のものと同種だったという例もありますから慎重に扱う必要があります。種の同定が不確かなら分布もしたがって不明となるわけです。
戦後、海外調査ができるようになったので、東南アジア、インドシナ、タイ、ネパール、ヒマラヤの植物資料がだいぶ集まり、日本と同地方との関連がわかるようになってきました。今まで別種とされていたものが同種内の亜種であったり、同種とされていたものが別種であることがわかったりしました。もし将来、中国の奥地の調査ができるようになりくわしい資料が集まったら一層、分布上興味ある事実がわかるようになるでしょう。
終りに一言、本文とは関係ありませんがつけ加えておきたいことがあります。観光道路、高速道路、宅地造成、ゴルフ場建設などによって自然が破壊され、植物が変ってしまい、外国の植物が侵入してくることが多くなったことはまことに困ったことです。これが激化すると、植物分布を含め細かく論ずることは不可能になるといっても誇張ではないと思います。自然保護を徹底するために充分な方策を確立し、実行するよう当局に望むしだいです。
(分布表は除く)
(ガーデンライフ・一九七五年八月)
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