尾瀬地方は、ふつうは三平峠――沼山峠――燧ケ岳――景鶴山――ススガ峰――至仏山――鳩待峠――アヤメ平――富士見峠――三平峠を結ぶ内側の面積約九六〇〇ヘクタールの区域をいい、ここに自生する植物はシダ類、種子植物合せて約六八〇種が知られている。同面積の他地域にくらべて植物の種類は必ずしも豊富であるとはいえないが、この地域が単に風景上からでなく、植物学上貴重な存在として天然記念物に指定されているのは次のような理由によるからである。
- 高層湿原、池沼、高山帯などの植物相が渾然として特有な景観を示している。
- 高層湿原の規模が大きく、ブナ林、針葉樹林にかこまれてよく保存され、その形成過程を観察することができる。
- 北方系の植物が多く、また北周極要素の隔離分布を示している。
- 気候が日本海型であり、深い積雪に適応した裏日本系の植物が多く見られる。
次に尾瀬の植物について、湿原、池沼、高山にわけて一般向きなものを解説してみよう。
○Ⅰ 湿原
尾瀬ヶ原の大部分と尾瀬沼の周囲に発達しているが、これが形成されたのは一万年くらい前であろうといわれている。ここには湿原特有の植物が見られる。
ミズバショウ(サトイモ科)。春の花の代表で、五月下旬から六月に満開し、尾瀬はこれで有名になった。しかし本州中部から北海道にはよく見られる植物である。はじめ白色の美しい仏炎苞があらわれ、これが花と間違われるが、花は小形でその中にある棒状の花軸に集まっている。花が終ると、長さ一メートルくらいの葉がでてくるが、これがバショウの葉に似ていることからミズバショウ(水芭蕉)というのである。
ニッコウキスゲ(ユリ科)。湿原の夏の花の代表で、ユリの花に似た黄橙色の花が七月に咲きそろう頃は湿原が黄橙色に染まったように美しい。これも尾瀬でハイカーの間に有名になったが、ここの特産ではない。この花は一日花で、朝ひらいた花は夕方にはしぼんでしまう性質があり、こういうことは一般の人はあまり知らない。花が食べられるので、一時ウドンなどに入れて食べさせたことがあるが今はどうなっているか知らない。
コバギボウシ(ユリ科)。タチギボウシの一種ともいわれ、これも一日花である。やはりユリに似た小さい淡紫色の花を穂状につけ群生するので、遠くから見ると、ニッコウキスゲの黄橙色とともに、原を黄橙色と紫色に染め分ける。
ニッコウキスゲもコバギボウシも高さ一メートル以上になりよく目につくが、高さ二〇~三〇センチメートルの低い草で花が小さいのでちょっと気がつかないが、よく見るとすてがたい美しいものもある。例えばキンコウカの黄色花と、イワショウブの白花がそれで、ともにユリ科に属し、やはり七月に開花する。
湿原の主体はミズゴケ類であるが、その中にはえる小形の植物で花の美しいものである。
ヒメシャクナゲ(ツツジ科)。高さ五~六センチメートルの小低木で、葉はシャクナゲを小さくしたようで、花は淡紅色の壺形でかわいらしい。デパートの園芸部で鉢物で売られているが、実際はえている場所で見ないとその生態はわからない。
タテヤマリンドウ(リンドウ科)。ハルリンドウの高山型である。リンドウに似ているが小形の空色の花が太陽の光をうけて開き、曇るととじる性質がある。
ナガバノモウセンゴケ(モウセンゴケ科)。葉のまるいモウセンゴケもたくさんあるが、所々に葉の細長いへら形をしたナガバノモウセンゴケがはえている。本州ではここが唯一の自生地で十分に保護してやりたい植物である。またナガバノモウセンゴケのある付近には、これとモウセンゴケとの間にできた自然雑種サジバノモウセンゴケが見られる。
ホロムイソウ(ホロムイソウ科)。単子葉植物のうち原始的なもので、花が小さく緑色で一般の人は見向きもしない植物であるが、亜寒帯要素の一つで、隔離分布のよい例である。はじめ北海道の幌向湿原で発見されたのでこの名がある。
ツルコケモモ(ツツジ科)。ミズゴケの中をはう小低木で、茎は細くてかたい針金状で、小さい葉が互生し、七月頃、茎の先きに小さい淡紅色の合弁花がつく。花弁が四枚でそりかえるのが特徴である。果実は食べられる。
ヤナギトラノオ(サクラソウ科)。高さ三〇センチメートルくらいの多年草で、葉はヤナギの葉に似ており、その葉腋に黄色の小花を穂状につけるものである。
湿原の中には、木はあまりないが、流れに沿った所にはオノエヤナギの大木が見られることもある。またやや乾いたところにはナナカマドやハイイヌツゲなども見られるが、とくに注意に値するものはヤチヤナギである。葉がヤナギに似ていて谷地にはえるのでこの名がついているが、ヤマモモ科の小低木で、雌雄異株の、ヤマモモに似た植物である。
○Ⅱ 池沼
尾瀬沼は最も大きいが、尾瀬ケ原には大小いろいろの池沼が発達している。この水中に、ジュンサイ、ヒツジグサ、ミツガシワ、オゼコウホネ、ホザキノフサモ、フトヒルムシロ、エゾヒルムシロ、ヒロハノエビモ、ホソバタマミクリなどがはえている。このうち人目につくものは、ミツガシワ、スイレン、オゼコウホネであろう。
ミツガシワ(リンドウ科)。地下をはう太い根茎から長い柄の葉をだし、葉は三個の小葉からなり、夏、水上に三〇センチメートルくらいの花茎をだし、小形白色の合弁花を穂状につけるものである。
ヒツジグサ(スイレン科)。馬蹄形の葉が水面に浮び、夏、白色の小花を水面にひらく。萼片、花弁が多数あって、午後開花し夜とじ、これが三日間つづくという。尾瀬ケ原の池沼には多いが尾瀬沼には少ない。
オゼコウホネ(スイレン科)。北海道から本州北部に分布するネムロコウホネに似ているが、柱頭盤が紅色になる変種で、尾瀬の特産植物の一つである。尾瀬ケ原の池沼には見られるが尾瀬沼には見られないのが興味である。
○Ⅲ 高山帯
西の至仏山、北の燧岳がその代表である。至仏山にはかなりの高山植物がある。タカネナデシコ、コバノツメクサ、ハクサンイチゲ、イワハタザオ、キンロバイ、タカネイバラ、ハクサンフウロ*、ガンコウラン*、キバナノコマノツメ、シラネニンジン、ミヤマウイキョウ、コメバツガザクラ*、コケモモ*、ミネズオウ、アオノツガザクラ、ユキワリソウ、ヨツバシオガマ、タカネシオガマ、エゾウサギギク、シロウマアサツキ、チシマアマナなどが主なものである。これらは本州中部の高山地帯にはふつうに見られるものであるが、燧岳には*印以外の植物が全く見られないのは面白い現象である。
至仏山には特色のある植物が二、三ある。
オゼソウ(ユリ科)は一九〇〇~二〇〇〇メートル付近に多い多年草であるが、新属としてはじめて記載された珍種で、北海道北見山脈の一部にも見い出されている。カトウハコベ(ナデシコ科)はここと谷川岳、早池峰山、北海道のアポイ山と夕張岳などに転々と分布し、いずれも蛇紋岩地に生ずるものとして注目される。また、ジョウシュウアズマギク、ホソバヒナウスユキソウ(キク科)も至仏山ではじめ発見され、後に谷川岳に産することがわかった植物で、それぞれミヤマアズマギクとヒナウスユキソウから分化した変種とみられている。
燧岳は、植物は貧弱であるが、至仏山に見られない種類がある。例えば、ミヤマキンバイ、コマクサ、アラシグサ、イワウメ、イワヒゲ、ツガザクラ、トウヤクリンドウなどである。このように近くにありながら、至仏山と燧岳の植物相がちがうことは、前者は地質が古く蛇紋岩とその変成岩からなること、後者は新しい火山であることなどによるものらしい。
尾瀬に裏日本系の植物があることは前に述べたが、その主なものはキヌガサソウ、オオバツツジ、チョウジギク、フキユキノシタ、オニシオガマ、エソユズリハ、ヒメモチ、ハイイヌガヤなどであるが、とくに注意すべきものは、景鶴山の中腹や燧岳の西麓にあるトガクシショウマであろう。はじめ信州戸隠山で採集されたのでこの名があるが、メギ科の多年草で五~六月、淡紫色の花がひらき、大形の萼片六枚と小形の花弁六枚からなる変った花である。新潟県の一部、山形県から秋田県の深山に分布する日本特産の珍種である。
尾瀬には特産の植物が二、三ある。オゼコウホネは前にも述べたが、他にオゼヌマアザミ、オゼヌマタイゲキ、オゼキンポウゲなどがある。
オゼヌマアザミ(キク科)は八~九月に開花するアザミで、タチアザミに似ているが葉の基部が茎を抱き、縁が狭い裂片にわかれているもの。
オゼヌマタイゲキ(トウダイグサ科)はハクサンタイゲキに近縁であるが、茎に毛があり葉が細いのでその変種とされている。
オゼキンポウゲ(キンポウゲ科)はオオウマノアシガタに似ているが、長い匐枝をひくものである。
終りにお願いしたいのは、植物を踏みあらしたり、花をちぎったり、木の枝を折るようなことは絶対にしないでほしいということである。年間、数十万人の人が行くという所である。
自分が少しぐらい採ってもよかろうという行為がやがて自然を破壊するもとになる。自然を保護することは誰のためでもない。われわれ国民のためである。
(ハイカー・一九六六年六月号)
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