竹中さんは兄貴のような人でした。私が東大の理学部植物学科に入ったのは大正十四年四月でしたが、一級上の中期に竹中さんがいました。その当時、植物学教室は小石川植物園にありましたが、素朴な建物は木造平屋で、この頃のようなコンクリートの閉鎖的なのとちがい、たいへん開放的で家庭的な雰囲気に満ちていました。はじめは勝手がわからず小さくなっていましたが、牧野先生や本田先生の野外指導などで先輩達と話すようになると、教室の自由な空気になじみ、まことに楽しい学生生活を過したものです。
中期生のなかでも竹中さんと浜田(後の田辺)さんは山登りや写真のベテランで高山植物についてずい分教えをうけたものです。中期の夏休みに、往復十日ばかりの小笠原採集旅行がありました。この旅行は、中井先生の指導で一年おきに催される必修課目でしたが、前期のとき何かの事情で参加しなかった竹中さんが加わって寝食を共にしました。キャビネ型の暗箱と大きな木製の三脚をかついでたくさんの優秀な写真をとりまくり、そのうち十数枚を焼増してもらったのが今でもアルバムに保存しています。
竹中さんは専門が細胞学で、卒業後大学院で研究をつづけましたが、分類学や生態学にも通じ、三好先生、中井先生、中野先生、本田先生などについて天然記念物の調査によくでかけました。白馬連山植物生態調査(昭和五年)はその成果の一つです。
京城帝国大学に赴任してからはあまり接触機会がありませんでしたが、戦後、遺伝学研究所の設立に尽力され、その幹部スタッフになってからまた旧交を温めるようになりました。サクラの研究をやるようになって、お前も加われと、大井さんとともに研究所にお邪魔することになりました。研究に参加したものの何の役にも立たず、岐阜県下にある天然記念物指定のサクラの品種を探訪した二泊の旅行が最後のものになったのは残念でなりません。
竹中さんが病気で入院されたとき、すぐ見舞にと思いながらぐずぐずしていると危篤の知らせ、そしてすぐ亡くなられたと、全くあっというまのできごとでした。元気にまかせて入院を延ばしているのが手おくれになったのではないかと思い、しかしまた竹中さんらしい思い切りのよい最期だったとも思い、お葬式にはやむを得ない所用で参列できず、まことに申訳ないことと、今でも折にふれて想い出します。竹中さんと同期の田辺さんはその前年にアフリカ調査中に病を得てナイロビで客死、やはり同期の森さん、堀さん、辻さんたちはもっと早く世をさっていることを思えばいくらか慰められるというものでしょう。
竹中さんは、陽気で闊達、思うことは歯に衣をきせず話す方で、私とは反対な性格であり、それが大きな魅力でした。酒が入ると一層賑やかになって、口角泡をとばすようになり、ときにはあけっぴろげの猥談になることもありました。いつの年でしたか、福岡での日本植物学界大会があったとき、偶然宿屋が一緒になり、何かのきっかけで話が下に落ち、とどまるところを知らぬ状態になったことも覚えております。
余技の囲碁はアマ三段の腕前で、機会があるとつかまりました。三目おいても四目おいても勝負にならず、しまいには打とうといわなくなったことも思い出の一つです。
竹中さんの前なら気兼なくものがいえ、あとにしこりが残らないという人柄でした。だいぶ後になって私のほうが一年早く生まれていることがわかりましたが、学問でも人生経験でも兄貴分であったとなつかしい思いでいっぱいです。
(岳花酒仙――竹中要博士追悼集・一九六九年)
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