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アマチュアの世界

趣味とは何といったらよいのか、私は、本職以外にもつ楽しみであると思う。物を集めること、書画陶磁を観賞すること、音曲を解することなど、最も普通に趣味といわれるものであるが、人をあっといわせようとして奇抜なことを計画するのは悪趣味である。熱心の強弱、経費のかけ方によって趣味の深浅がでてくる。ニュアンスはちがうが、「道楽」や「好み」も一種の趣味といえるだろう。「いい御趣味で」といわれるとほめられた気になるが、「いい御道楽で」といわれると「馬鹿にするな」という気持になる。

趣味にはかなりの財力と暇がかかる。したがって金も暇もない私にはこれと自慢できるような趣味はない。そこで、若いときからの趣味に近いもの、あるいは余技というようなものを書いてみることにする。

自慢にはならないが、総じて私は、好き嫌いがはげしくないのである。スポーツにしても、娯楽にしても、飲食にしてもそうで、体質的なのか、環境によるものなのかはっきりしないが、徹底できないのだ。何でも一応はかじっている。しかし何一つ物になったものはない。まことに悲しむべき性格である。

まずスポーツからはじめよう。剣道、庭球、スキー、登山、野球、卓球などはやったが、走ったりはねたりする陸上競技や、水泳は全然だめである。

剣道は小学校三年頃からやらされた。筋は悪くなかったとみえ、六年のとき、県主催の小学校撃剣大会にでて個人優勝をした。後にも先にも、これが公開のはれがましい賞をもらった唯一のもので、記念すべき事件である。中学に入ってからやや上達し、卒業時には初段になった。もっとも免状をもらった覚えはないので公認であったかどうかわからない。高等学校ではそれ以上技が進まなかったのでいつとはなしにやめてしまった。

テニスは中学二年頃から庭球部に入った。もちろん軟式で、三年から選手になり、県内の対校試合にでるようになった。卒業時には副将をつとめるまでになったが、遂に大将にはなれなかったことは今でも残念である。高等学校では硬式だったので、多少球が打てる程度でやめてしまった。大学を卒業してから毎日曜日近所のコートで楽しみにやったが、戦後は全くやめてしまった。

スキーは小学校からやった。郷里が雪国だからこれは自然である。中学校では、冬期体操の時間にスキーを教えられたほどだから、放課後はスキーばかりやったといってよい。何しろ寄宿舎の窓からスキーがはけるのだから。しかしやった時間にくらべてあまり上達はしなかった。高等学校ではスキー部の友人と親しくなり、関山、赤倉、日光などに行った。その頃(大正末年)は今とちがって交通が不便で、奥日光の白根に登るのに、馬返からスキーをかついで中禅寺、戦場ケ原を歩かなければならなかった。ほとんど人にあうこともなく、南間旅館ぐらいしか営業していなかった。今からくらべると隔世の感がある。おいづる岩の下で小さな雪崩をおこし、一〇〇メートル流されたがかすり傷一つ負わなかったことなどが記憶に残っている。スキーは大学時代、卒業後もよくつづいたが、戦後は全くやめたが、ここらでカムバックしたいと考えている。

登山は、テニスやスキーにくらべると晩学の方である。登山の興味は高等学校からで、同級生に山狂が数人いて、暇さえあれば山の話をきかされた。ちょうど、槙有恒さんがアイガー東壁の初登頂をやって帰朝した頃で、山岳部の催した講演会でアイガーの初登攀の話をきいてから、仲間うちに槙さんの口調を真似ることがはやった想い出がある。ところが不思議なことに、インドア登山術の仲間にはいりながら、山らしい山に登った記憶が全くないことである。しかしこれが遠因になって、後年に山登りするようになったのではないかと思っている。

大学は理学部植物学科を志し、三年になって専攻科目として分類学を選んだ。分類学という分科は、実験室の研究とともに野外における観察や採集が重要である。そのために山に登る機会が多くなった。登山が専門ではないから足のおそいことは誰にもひけをとらない。

戦前に登った山は、大雪山、鳥海山、栗駒山、燧岳、日光白根山、女貌山、谷川岳、燕岳、槍ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、御岳、新高山(台湾)など。戦後は、利尻岳、夕張岳、大雪山、月山、飯豊山、蔵王山、至仏山、越後駒ヶ岳、中岳、八海山、苗場山、妙高山、火打岳、焼山、草津白根、白馬岳、立山、八ヶ岳、木曽駒ヶ岳、宮浦岳(屋久島)などである。最高峰は新高山(三九九七メートル)、同じ山に登った記録では苗場山の八回である。最近は重い荷物を背負うことはできなくなったので、登山電車、バス、ケーブルの発達は実にありがたい。立山などは居ながらにして二〇〇〇メートルまで登ってしまう。そのためシーズン中は猫も杓子もでかけてすごい混雑であるが、それでも不健康な遊びにくらべたらどのくらいよいかわからない。登山ケーブルや電車などを通すことは風景を害すると反対する人もいるが私は賛成である。富士山など早くやって貰いたいものだ。(といっても、建設にきびしい条件をつけ、被害を最小限にし、もとの自然に早く回復するようにすることである。追記)。そうしたら私は七十、八十になっても山に登ることができるわけだ。

次は娯楽。碁、将棋、マージャン、玉つき、どれもかじった程度で、お話にならない。ただ、妙な「好み」がある。新聞の碁、将棋の解説を読むことである。実力がない者にも容易に理解できるような感じをもたせる解説あるいは観戦記は、とくに現役を退いた高段者(例えば将棋の金子八段)のものなど読む者をわくわくさせるのである。一種の名文である。私はこれを解説文学と仮称している。

読書。専門外の雑書を読むことである。片道四〇分の通勤電車の中で読むのだからむずかしいものはいけない。別に系統だてて読むわけではないが、好みはあるらしい。旅行記や探検記などが好きで、一時はアジア辺境のものを集めたこともある。小説、随筆も読むほうである。やはり年のせいで、戦前派の小説はこくがありうまいと思う。近頃読んだものでは「氾檻」が学界の内情の一面をえぐった点で共感がもてた。戦後派では三島由紀夫の「金閣寺」。不条理をえがいた傑作と思う。最も新人では大江健三郎をとる。この頃、作家の日記というものがよくでるが、はじめから発表する目的で書いた日記というのはどうかと思うし、あれで高い原稿料をとるのはずうずうしい。

写真。カメラをいじることは中学時代のベス単にはじまり、ダコール一六〇ミリの手札型、ベスト半截のドイツ製(名は忘れた)、6×6版マミヤシックス、アサヒペンタックスまで細々とつづいた。さっぱり上達しない。戦後国産のカラーフィルムができてから、カラー党になった。露出さえ適正ならあとは現像所に送りつければそれでOK、失敗作はひっこめて出来の良いものだけ人に見せてニヤリとする。外国品は高価なので国産品ばかり使っているが、月一本ていどの消費量では大きな顔はできない。こんな浅い経験で批判するのはおこがましいが、カラーフィルム色調やニュアンスには限界がありそうである。

絵。専門の植物学では絵が必要である。一時写実的な油絵を習ったことがあるが、あるとき、絵をかく口の悪い女史に「ああ絵具がもったいない」といわれてギャフン。以来絵具箱はどこかにしまったままである。

謡曲。はじめて二十年に近い。職分についたわけではないから、全く我流である。しかし、ラジオやテレビできくと、それほど見当違いでもないらしい。たまに能を見るが、囃子のよさがわかってきた。太鼓でも稽古してみたいと思う。

趣味はあくまでアマチュアの世界である。決して人に誇るべきものではない、自分でひそかに楽しむべきものだ、と思う。

(青淵・一九五九年二月)

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