1984年の秋、11月3日から約三週間にわたって、ニューヨーク植物園の大温室で菊花展が催され、大温室の約半分のスペースが十一体の菊人形、千輪咲き、懸崖作り、盆栽作り、一本、二本、三本、七本仕立ての日本菊で占められた。
東京・ニューヨークの姉妹都市関係の公式行事として行われたもので、アメリカ、カナダの各地から、のべ5万人以上もの観客が訪れ、この素晴らしい展示に感嘆し、日本の菊のイメージを一変させた。
展示された菊人形は、「桃太郎」「かぐや姫」「連獅子」「藤娘」や「滝の白糸の水芸」「富士山を背景にした将軍」などであった。「将軍」と「藤娘」は各一体ずつ、マンハッタンの中心部にある日本航空のティケット・オフィスと、ブルーミングデールス・デパートにも飾られた。
○海外で初めての菊人形展
この菊花展は、日本国外に菊人形師が赴き、現地で育てた日本菊を使って人形を作ったという点で、日本の園芸文化史上にひとつの意義を加えたものとして注目される。
「ニューヨーク・タイムズ」紙は、ニュース欄と園芸欄で二回にわたり、写真を入れて大きく取り上げた。主要園芸誌である「ホーティカルチャー・マガジン」と「ガーデン」は、それぞれ数編の記事や論文を掲載した。米国のテレビ局は全国ネットでニュースを流し、教育テレビで菊花展を取り上げた。ニューヨーク地区の日本や中国の現地放送もこれを報じ、フジテレビは日本へもテープを流している。ニューヨーク植物園の未曾有のPR(宣伝)になった。
この菊花展のプロデューサーには、私と足立五佐雄氏(現在、国土建設学院教授)の二人が当たった。当時ニューヨーク植物園・副主任園芸官だった足立氏は、この催しでは植物園の菊園芸師の格で、菊人形に見合った菊を育てる専門家として事に当たった。私たちが直面した難題のひとつは、日本から米国へ出向くことのできる菊人形師を見つけることであった。
菊人形という園芸文化は、江戸の下町文化として発生し、ほぼ日本全国に広まったものだが、近時残念ながら日本でも熱が下がり気味で、菊人形師も減ってしまった。一説では、 日本全国で26人足らずだという。この熟練を要する職業は、10月から11月という短期間の季節的な仕事で、他の期間は別の仕事で生活を支えなければならない。また、厳しい徒弟制度でみがき上げられて一人前になる世界だから、現代の若者には人気がない。そこで、現在の菊人形師は、65歳から80歳と大変高齢になっている。
○難題を克服して成功を収める
こんな状態だから、住所探しから始めて、やっと探し当てた人から次々に断られた。
ほとんど断念しようとしたとき、幸いにも横浜の乃菊社の方々が同情して協力を約してくれた。
無形文化財とも至宝ともいわれる、高橋兼安(当時82歳)、大矢義男(当時67歳)の両氏が、アーティストであり、この道のベテランである門井健氏をリーダーとしてニューヨークへ飛んでくれることになった。
菊人形の胴体は、胴殻という特殊な構造に根のついた菊を植え込んで作る。胴殻や頭、手足、小道具などは日本で作られた。背景も乃村工芸社で製作し、これらの空輸は日本航空の好意で無料で行われた。
菊人形師一行は、足立氏ともども植物園の寄宿舎に寝泊まりして、ニューヨークでの人形完成と展示期間中の保守に当たった。植物園周辺は、生活するには殺風景で、おいしいものを食べる所もない。ニューヨークの日米婦人会や日本国総領事館員の夫人たちには、連日、炊き出しの奉仕をしていただいた。
この計画には多額の資金が必要であった。
財政難のニューヨーク市の文化交流関係予算からの助成は殆んど期待できず、菊花展総経費の10万ドルのうち6万ドルをニューヨーク植物園が用意し、4万ドルを日本に期待した。私は、菊人形展の国際特別行事としての意義を説いて回り、ニューヨーク日本国総領事館、同日本クラブ、東京都知事などの賛同を得、以前の私の上司であった茅誠司元東大学長と当時の梅棹忠夫国立民族学博物館長の多大のご助力によって、日本万国博覧会記念協会基金部から4万ドルの助成を得ることができた。
○四回にわたる「菊花展」の総仕上げ
菊人形展は、姉妹都市行事のひとつとしてそれまでに四年間続けてきた菊花展のクライマックスであった。菊花展は、1980年の秋、日本国際交流基金の援助で派遣された前記の足立五佐雄氏により、純日本式の仕立て方による珍しい品種や古典菊の栽培展示が成功したことに始まっている。
日本の菊を米国に紹介する試みは、国連大学学長として7年間日本に住んだ当時のニューヨーク植物園長J・M・ヘスター(Hester)と私とで発案した。日本のデリケートな園芸植物を米国で栽培するためには、気候風土、施設、園芸学のスピリットなどの日米の違いを熟知している人がいなくてはならないと思い、日本大学卒業後ニューヨーク植物園園芸学校に学んだ足立氏に白羽の矢を立て、説得してニューヨークへ呼んだことが、そもそも成功の鍵であった。
1982年には、日本万国博覧会記念協会の助成で、第一回の大型菊花展を開いたが、このとき千輪咲きを「こんなことをしなくとも、五百本の菊を束ねれば……」と評した園芸家がいたほど、日米の園芸観には隔たりがあった。米国人ガーデナーを指導しながら、立派な日本菊を育成すること、すなわち足立氏の適切な指導と忍耐力、これが菊人形展開催のための第一歩だったのである。
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