そもそもが、モノに名前をつけるということは、どういうことであろうか。 名前とは言葉であり、 そこには発語する人の感情やら思想やらがはいっていて、つまるところそのモノと人との関係が明らかに見えるものである。
野の草はいわば勝手に、人間とは無関係に、そこに生きているのである。その草に、たとえばミズバショウと命名したとする。ミズバショウという時、命名者には当然それなりの思いがある。湿地に生えるサトイモ科の多年草で、真白い清潔な仏炎苞が印象的なこの植物の葉が、バショウの葉に似ているからだ。ミズバショウとは、まことにいい名前である。この名前がついたおかげで、ミズバショウはみんなに愛される花になったといえる。
[編集部注]
ここにご紹介する一文は、2002年6月制作の『ネイチャーラベル』(アボック社)のために「花の名前」として寄稿されたものです。このたび、ご承諾をいただいて植物名通信に再録いたします(原文を2回に分け、それぞれに植物名の小見出しをつけてご紹介します)。
左:クマガイソウ
右:アツモリソウ
2種とも絶滅危惧植物に指定されているが、とくにアツモリソウは
「特定国内希少野生動植物種」(6種)のひとつである。
日本に自生するラン科の植物であるクマガイソウとアツモリソウは、「平家物語」の熊谷次郎直実と平敦盛となんの関係もない。源氏の武将熊谷はすでに勝利を掌中におさめ、武功を得ようと海辺に馬をすすめていた。そこに萌黄匂の鎧を着た若武者を見つけ、とりおさえてみると、薄化粧をした十六、 七歳ばかりの美少年だった。源氏方の兵が近づいてきたので、熊谷は泣く泣く若武者の首を落とす。その若武者こそ敦盛で、後に熊谷は世の無常を知って仏門にはいる。
かつて日本中の林や竹藪に生えていたラン科の多年草は、こうして歴史上の悲劇的な人物の名をもらい、二人の物語を生きることになる。クマガイソウとアツモリソウを見るたび、人は「平家物語」中で最も美しい物語を味わうのだ。
名前のないものに名をつけるとは、そのものを掌中にいれるということかもしれない。それは重大なことであったのだ。まだ多くのものに名前がなくて、出会った一つ一つに名をつけていった人は、なんと幸福だったことだろう。せめて私たちは、つけられたその名前ひとつひとつを大切にしたい。
〔植物名入門〕各著者(50音順)プロフィールとこれまでのエッセイ
芦田 潔(社団法人日本おもと協会理事)
プロフィール伝統園芸植物「オモト」の銘を考える
岩佐 吉純(岩佐園芸研究室主宰)
プロフィール園芸植物の命名考
荻巣 樹徳(ナチュラリスト):準備中
乙益 正隆(ナチュラリスト・植物方言研究家)
プロフィール植物方言採集秘話
金井 弘夫(国立科学博物館名誉館員)
プロフィール植物の名前を考える
管野 邦夫(仙台市野草園名誉園長)
プロフィール花の名前にご用心
北山 武征(財団法人公園緑地管理財団副理事長)
プロフィール緑・花試験うらばなし
許田 倉園(元:玉川大学教授)
プロフィール植物名に現れた台湾の固有名詞
佐竹 元吉(お茶の水女子大学 生活環境研究センター)
プロフィール生薬名の混乱
下園 文雄(元:小石川植物園)
プロフィール小石川植物園に渡来した植物たち
辻井 達一(北海道環境財団理事長)
プロフィールアイヌ語起源の植物名
豊田 武司(小笠原野生生物研究会)
プロフィール小笠原の植物
中村 恒雄(造園植物研究家)
プロフィール園芸樹木の変わりものたち
藤本 時男(編集者・翻訳家)
プロフィール「聖書の植物」名称翻訳考
三上 常夫(編集者・翻訳家)
プロフィール造園植物の名前の混乱
水野 瑞夫(岐阜薬科大学名誉教授):準備中
山本 紀久(ランドスケープアーキテクト)
プロフィール実と名が違う造園植物