座談会録:未来の文化都市形成に視点を置く緑化について 於)岩手日報社
はじめに
最近、森や緑に対する関心が高まっているといわれている。とかく、「自然を守れ」「緑を守る」ということを聞く。しかし、この自然・緑とは何んだろうかと考えると、単にひとことで片付けられない意味をもつように思われる。
現実に、緑で代表される草木・樹木の個々を見つめると、それぞれの個性があり、またその生育条件を併せ見ると、まさに複雑であり、ことばでは表現できないものがある。
これらを包含する自然のおりなす生態系は人間もその一員であることを思うと、われわれと緑は切っても切れないかゝわりをもつことを知るのである。
身近かな緑、それは庭の一本の草から、公園に、山村に、多くの樹木があり、これらが私達の住む環境をかたちづくり、生活環境、さらには生活空間・都市計画策定に至るまで現在はもちろん未来も、緑の存在を無視してはならない。その端緒を今求めているのである。これは、今では遅過ぎると言われそうであるが。
こんなとき、昭和五九年に出版を業とするアボック社が、有識者の集りを戴き、岩手日報社において、「田園都市の緑化」を課題に座談会を開催していた。たまたまその記録を拝見する機会があった。
内容的には、未来の文化都市形成に視点を置き、主として盛岡市を中心とする緑化のさまざまなことである。
此の度、緑と水の森林基金の創設が伝えられている昨今、緑を通じての文化都市づくりえの挑戦が望まれている。それには、現在と未来をつなぐ緑えの発想の転換が必要であり、その数々を座談を通じて何げなしに指摘されているように思われた。
このようなことから、出席の諸先生からのお許しを得てこの記録を小冊子にまとめることができた。それぞれの立場でお読み戴き、新時代の緑化に対する理解を深めて戴きたいと思う。
こゝに改めて、御参加の諸先生方に感謝の意を表し、この記録を心よくご提供頂いたアボック社に御礼を申しあげる次第である。
昭和六三年四月二三日
盛岡地方振興局 林務部長
斉藤光市
目次
- はじめに
- 都市緑化に人気上昇のユリノキ
- 市街地の緑化
- 総合化された都市景観
- 花いっぱい運動を考える
- 街路樹のあり方
- 並木の景観
- 河川空間の緑化
- 人為を加えない自然景観の造成
- 都市周辺に目を向けた田園都市づくり
- 記念樹の植栽について
- 緑とのつき合い
「田園都市の緑化」出席者(順不同・敬省略)
工藤 巌(くどう・いわお)
衆議院議員
○大正一〇年一二月一八日、盛岡に生まれる。
○昭和二三年 東京大学法学部政治学科卒業・昭和二六年 岩手県立盛岡中学校教諭等を経て岩手県事務吏員・昭和三一年 岩手県農林部林政課長・昭和三三年 岩手県学校教育課長・同教育次長・同教育長を経て昭和四二年岩手県企画部長・昭和四四年盛岡市長(三期)・昭和五四年衆議員議員(四選目)
主な役職……自由民主党文教部会長、岩手県保護観察援護会長船越昭治(ふなこし・しょうじ)
岩手大学農学部長
○昭和元年一二月二七日 岩手県山田町に生まれる。
○昭和二三年 盛岡農林専門学校林科卒業・昭和二六年 京都大学農学部卒業・昭和二六年 森林資源総合対策協議会調査部・昭和二九年 岩手大学講師・助教授を経て昭和四三年教授・昭和六二年 農学部長(専門 林業政策)
主な役職……日本林学会副会長・青森営林局管理審議会長・岩手県総合計画審議会委員・岩手県農政審議会委員・岩手県森林審議会委員太田 昭(おおた・あきら)
盛岡市都市計画部長
○昭和八年三月三日 岩手県江刺市に生まれる。
○昭和三〇年 千葉大学園芸学部造園科卒業、昭和三〇年 盛岡市土木課・都市計画課・土木課を経て昭和四七年建設部都市計画課長・昭和五三年 都市開発部公園緑地課長・昭和六〇年 同部開発室長を経て昭和六三年都市計画部長東島末喜(とうじま・すえき)
(株)岩手日報社 専務取締役
○昭和三年五月一日 熊本県八代市に生まれる。
○昭和二四年 岩手県立盛岡工業専門学校卒業・昭和二四年 (株)岩手日報社入社・同東京支社編集部長・同編集局報道部長・同編集局次長兼記事審査部長を経て同開発局長・昭和四七年 同取締役・昭和四九年 同広告局長を経て昭和五七年制作担当常務取締役・昭和五八年・同編集・制作担当専務取締役・昭和五九年、専務取締役
主な役職……岩手日報アド・ブランチ(株)取締役・岩手県民生委員審議会委員・岩手県ユネスコ協会理事・岩手県経済同友会副代表幹事・盛岡市都市計画審議会委員・盛岡市観光審議会委員毛藤勤治(もうとう・きんじ)
岩手緑化研究会長
○明治四一年七月一九日 岩手県盛岡市に生まれる。
○昭和四年 盛岡高等農林学校農科卒業・昭和五年 宮城県立斎藤報恩農業館・昭和一四年 宮崎県立種蓄場・昭和一五年 同県畜産課・昭和二二年 岩手県畜産課・農蚕課・畜産課を経て昭和三八年久慈農林事務所長・昭和四〇年 定年退職・昭和四二~四七年 岩手大学工学部講師・昭和四八年~現 岩手大学農学部講師・昭和四六年 農学博士(北海道大学)・昭和五四年 岩手緑化研究会長・昭和五五年 (株)アボック社植物資料編纂所長
主な役職……岩手県農業機械協会理事・盛岡市環境保全等審議会委員・(株)アボック社役員佐藤 洸(さとう・ひろし)
岩手女子高等学校講師・カウンセラー
○昭和四年三月二七日、岩手県大泉町に生まれる。
○昭和一九年陸軍特別幹部候補生として太刀洗飛行学校入学・昭和二五年盛岡工業専門学校卒業・昭和二六年 松尾鉱山学園・昭和三〇年岩手県経済農業協同組合連合会・昭和三六年 県立高等学校・同宮古高等学校・同盛岡第四高等学校・同一戸高等学校・同花巻農業高等学校教諭を経て昭和六一年退職
主な役職……混声合唱団北声会委員長
座談会 田園都市の緑化
都市緑化に人気上昇のユリノキ
毛藤圀彦(司会進行) 都市と緑化のテーマは、最近、量から質の問題として把えられるようになりました。そんな中で、人気のあがってきている樹種の一つに「ユリノキ」があります。このユリノキが都市の中でどのように期待される樹木なのでしょうか?まず、話の糸口として、ハンテンボクとも呼ばれるこのユリノキと長い間取組んでいる岩手緑化研究会長の毛藤さんからうかがいましょう。
○ユリノキの原産地
毛藤勤治(以下 毛藤) ユリノキは北アメリカの東部地域が原産地で、その自然分布の北は、カナダ寄りの五大湖附近から、南は海水浴場で有名なマイアミのあるフロリダ州まで、北緯四三度附近から二九度にわたっております。
これをそのまま地図上で日本列島に重ねて見ますと、北は札幌市あたりから、南は屋久島と奄美大島との中間、トカラ島あたりになります。
しかし、現実には、札幌市の北海道大学附属植物園内のユリノキは、大木となって毎年花を咲かせ、それより五〇キロメートル北の美唄(びばい)市の道林業試験場のユリノキはかろうじて開花しております。南の方では熊本市や宮崎県の都城市には大木があり、このことから原産地の自生の分布がおおむね日本列島に重なっていると見てよいようです。
ただ植栽地の標高ですが、日本の場合、北で五〇〇メートル、南では六〇〇メートル以下を基準とするのがよいと思います。
太田 ユリノキの原産地であるアメリカ東部沿岸地帯と日本列島の年間平均気温と雨量が、ほぼ同じだという点で、生育条件に恵まれていると思います。
ところで盛岡のユリノキは、大正の中頃、盛岡高等農林学校林科の小泉多三郎助教授(注・・・後に盛岡市長となる。)が育成した苗木を市内に集中して植えられたもののようです。しかも盛岡市という風土によくなじみながら大木となっていて、今日、市民の生活に切っても切り離せない木になっているのは、気候によく合った樹木の好事例だと思います。
盛岡市の緑化という点からみて、ユリノキは生育もよいし、そのつくろいも美しいので、私は「土着した外来樹」として大きく評価しています。
船越 同じアメリカ大陸産のものであっても、太平洋沿岸原産の樹木の中には、現地ですばらしい生育を示していても、日本で育ててみると、その特性をよく発揮できないものが少くありません。
その点で、日本列島全体の風土は、ユリノキを受け容れる条件をそなえているものと見ています。
話が少しそれますが、欧州では昔から都市の建設や道路の開発に当って、古い木を大事にし、伐らないという通念が徹底しています。というのは一本の古い木になるのに大変長い年月を要することをよく知っているからです。
ところが日本列島は温暖多雨で、たいていの木は、伐ってもすぐ再生するので、人間の都合で、簡単にバッサリとやってしまう習性があります。
木にとって良好な生育条件をそなえている日本列島の風土、このメリットは、人間の意志によって、逆にデメリットに変えられているのは遺憾に堪えません。
樹木も人間と同じ生きものであることを認識し、自然に甘えるようなことがあってはならない。もっと厳粛な気持で樹木に対応しなければならないと感じています。
○盛岡の風土とユリノキ
毛藤圀彦 いまの話からユリノキは日本列島の風土によく適した樹種の一つであることは明らかですが、化石の分布は、日本列島から中国、アジア、ヨーロッパにまで及んでいます。しかし、現在ではアメリカ大陸と、これに近縁のシナユリノキが中国に自生しているだけです。ユリノキが今後、どこまで植栽分布を世界的に広げられるのか、興味のある問題だと思います。
○花ではバラ、樹ではユリノキ
東島 今、試みに地球儀を廻して同緯度にある都市をアメリカ大陸の大西洋から西に辿るとフィラデルフィア・シカゴ・デンバー、日本列島では盛岡、中国に渡ってピョンヤンつまり北京、なお西に進んでトルコのアンカラ、黒海南端のイスタンプール、イタリー半島のナポリ、そしてイベリア半島ではマドリッドとリスボンにつながり、どの都市も文化の花といわれるバラが咲き誇っています。
バラは、人々が丹精をこめた結果が絢爛豪華な花になるわけです。人とバラが互に力を出し合って、はじめてのあのようを美しく咲き誇るわけです。
今、述べた都市は、いわゆるローズシテーとして文化の結集ラインを形造っています。
盛岡市とその周辺もバラ作りには最適な同緯度の上に位置していて、ローズシテーの一つの都市となる条件をそなえています。
その証拠には、花巻のバラ園は今や全国的に有名になっているし、盛岡バラ会中村七三会長が、昭和四〇年に、アメリカのポートランドで開かれた第一回ワールドローズコンテストにバーナビー(Burnaby)という美しい品種を出品し、蕾と花、葉と茎及び全体容姿の三部門の審査会で、いずれもトップ。三冠王となって最高位のグランプリを獲得しました。
中村さんは「盛岡地方はバラにとっては最も適した気候をそなえ、いわゆるバラどころである」と、いっております。
盛岡市には、古いユリノキの大木が多いので、ユリノキどころでもあるに違いないので、世界のローズシテーにユリノキを上積みして、新しい世界の文化結集のラインを作り出せないか、などと考えています。
工藤 今のお話ほど世界的な立派な話でなくて恐縮ですが、(笑い)私が市長だったとき、「盛岡の花」は、自然の群落地が残っているカキツバタに、「市の木」は、わが国特有のカツラの変種といわれるシダレカツラ。これは、その増殖が盛岡の人によって、はじめて行われたこともあって、シダレカツラに決まりました。
決定の過程で、バラとユリノキをそれぞれ盛岡市の花と木にしてはとの意見が相当に強かったようです。
バラは世界のチャンピオンが出るような「バラどころ」であること、またユリノキは市民に親しまれている古い木の多い「ユリノキどころ」でもあり、また、盛岡市は新渡戸稲造のような国際人の出生地でもあることから、必ずしも日本の在来種でなければならないとしないで、こんごの国際的な視野に立って、海外の樹木を選んではどうか。これが刺激となって、盛岡から国際人が誕生するキッカケとなるだろうとの意見でした。
私は、バラとユリノキは大変に好きです。
市の花と木とは別にしまして、市民の理解と協力に支えられて、花であれば、バラ、木であればユリノキというイメージの湧くような、特徴のある街づくりが望ましいとの考えは今も強く心の中に持っています。
市街地の緑化
○ブロック塀やフェンスと植物
毛藤圀彦 都市は住宅地と商店街およびこの二者が混在した形で構成されていますが、環境の緑化は、それぞれに適応したものであるべきだと思いますが……。
佐藤 住宅地を歩きますと、木目の美しい板塀が次第に少くなり、代って猛烈に増えてきたのはブロック塀です。あれは味もソッケもない無味乾燥で、潤いのない代物です。これに加え、自動車の増加に伴って、やたらフェンスが多くなってきました。
太平洋戦争を生き抜いてきた私のような者は、戦後、進駐軍の営舎にめぐらしたフェンスの入口にきまって下げてあったオフ・リミットと書いた札を思い出して暗い気持に閉ざされます。
フェンスの色は、緑化を意識してか、それとも単なる申し訳けなのか、例外なく緑に塗装をしています。(笑い)
これらを、もっと風致化というか、少しでもソフトな感じなものにできないものだろうかと、いつも考えています。
毛藤 私等の岩手緑化研究会でも、この問題は何度もとりあげられました。
結論は、ブロック塀に緑のカーテンを、フェンスには緑の前掛けをという考え方で対応する以外、今のところ手がないではないかということでした。
結局、つる性の植物を内側に植え、頭越しに道路側いつるを伸ばして懸垂させる。あるいは下方や中間部に風穴のあるブロック塀では、つるの先をここから道路側に出してやって這い上らせる。キヅタ、ナツヅタ、アケビ、ヒヨドリジョウゴ、ヒルガオ、クレマチスなどは懸垂に向くし、風穴から這い上らせる場合は、常緑性のキヅタか落葉性のナツヅタなどが選ばれることになりましょう。
フェンスは、もともと網目が大きいので、フェンスの根元に、好みに合ったつる性の植物を植え、網目の穴を通して、縦と横につるを伸ばしてやります。あるいは内側にコバノマサキ、ツゲ、イボタのような常緑樹を、なるべく葉の小さいものを植え込みますと、網の目から道路側に小枝を出し、やがてはすっかり網目をかくしてしまって、生垣さながらの美しいバリヤーの趣きを表出します。
○苅込みに気づかいを
佐藤 生垣ですが、古いものほど厚さを増し、甚だしいものは、一メートル近くも道路側にはみ出しているのをよく見かけます。あれは交通安全のうえから放って置けない気がするんですが、市の方に「道路使用許可願」なんかを出し、市がそれを許可しているんですか。(笑い)
太田 そんなことはありません。あれは仕立てのまずさが原因です。
生垣はいつまでも厚さを約七〇センチメートル位に保たせるのが最もよい仕立て方とされています。
垣根のある家の主人が、大鋏を買い求めてきて、パチパチやる家庭が多くなったことにも原因の一つがありそうです。
生垣の表面だけを切り揃えて一丁上りとするから、日光がよく当たる表面だけが、外と向って茂り、陽の光が生垣の中に通らないため、小枝の奥の方の芽が枯れて、細長い小枝だけの空洞状態になります。これを毎年くりかえすので、段々と厚さを増して、着膨れしたような生垣になります。
だから、生垣の手入れのときには、大鋏のほかに剪定鋏のような小鋏をつかって、適当に間引きながら全体の形を整えるのが美しい生垣を作るコツです。このような注意をしないと、生垣の方向によっては片側だけが茂り、バランスが崩れて、枝の重い力に幹が傾いてきます。通りの北側や、陽が一方にだけ当たるようなところで、道路に向って傾斜している生垣をときどき見かけます。
高さについても同じ理由で、先づ最上段を切り揃えたら、その下段に新しい小枝が伸びるように、適当に間引いて置きます。
要するに生垣の管理は、余り表面だけを茂らせないことに尽きますし、遮摘の度が過ぎると風通しが悪く、庭全体の植物に虫や病気が多発する原因ともなります。
経験の深い老庭師に生垣の管理について聞いたら、「年に二回以上の手入れをすれば、何の苦もなく美しく生垣を維持できますが、年一回だと間引きの手数が加わるので、結局同じことになります」との答えでした。
○町の木、通りの花
毛藤圀彦 生垣はこの位にして、町の木、通りの花に話題を移します。
毛藤 住宅街を通って、美しいなあと思うのに、塀越しに枝を伸ばし、高く道路を被って咲く、四季おりおりの花木があります。
盛岡市の上田組町(現上田一丁目~二丁目)は、藩政時代には同心組屋敷で、ほとんど各戸にナツグミとマルメロが、戦前まで道路沿いに残っていました。
グミの実が熟すと子供は木登りして実をもいで楽しげに遊んでいたし、主婦たちはマルメロを瓶づめにしたり、ジャムにしたりしていました。また、武家屋敷だった下小路(現愛宕町)には、老木となったウメが戸毎に残って町並みをつくっていました。ウメの花盛りには、わざわざ遠回りして、花見に出かけた人が多く、通りはいつになく賑ったものでした。
だから、この事例にならって、町内会などで、この問題を取り上げて、「わが町の通りの花木」を決め、戸毎に道路に沿って植える。これなどはどうでしょうか。
そうなると、この町内の花木は何々、あそこの町内の花木な何々と、さまざまな花木が植え込まれて、市内の通りには、いつでも折ふしの花が、どこかの通りを彩っていて、花木に包まれた文化的な香りの高い都市に生れ変わるものと思います。
早春、新幹線盛岡駅に降り立った旅の人が、タクシーの人となって「レンギョウが通りの両側に長々と咲いている町なそうですが……。」と言えば、運転手は「オーケー」とその町に向ってハンドルをきる。また、晩夏に高速道路を通って市内に乗り入れた人が、たとえ訪ねる町名がわからなくても「戸毎にムクゲの花が通りいっぱいに長々と咲いている町と聞いてきたんですが……」と言えば、尋ねられたこの土地の人は「ハイわかりました」と、その道順を教えてくれる。このような情緒豊かで文化性の高い街が、花木によって造って行けるわけです。
植える苗木は、街路樹用の苗木のように三メートルを越すような大きいものでなく、一五〇センチメートル前後のもので十分です。要するに塀や生垣から、二〇乃至三〇センチメートルほど頭を出す程度の苗木を選びます。これは苗木の値段が安いこと。植える手間も少なくてすむうえ、活着も良く、支柱を一本建てただけで十分だといういろいろな利点があります。
こうして節約した費用の一部は、植え穴をできるだけ大きく堀ってやるほか、手軽るに入手できる樹の皮などを原料とする有機質を主とする肥料を十分に施し、さらに場所によっては、「客土」といってよく肥えた土を運んできて入れるなどに当てます。これによって植えた花木の苗がスクスクと伸びて、色あざやかな花をたくさん咲かせることにつながる最も大事なことです。
東島 「街の木、通りの花」の考えは、街が出来てから付け焼刃のようにやるのでなく、本来的には、街づくりの景観造成計画時に、街路樹植栽計画の時点で盛り込んで設計されるべきです。
現在まで、この大事な課題を放っぱらかしにして、全く手を触れなかったのは、おかしいことです。
おくればせでも止む得ないことですが、都市景観上必要なものにはさっそく取りかかるべきで、本来からこうあるべきだったとして行政でとりあげて欲しいものです。
太田 実は、市ではその準備を進めているところです。今のお話を十分にとり入れた形で、二〇〇以上もある町内会を通じ、市民の各位への理解と協力を求めることになると思います。
総合化された都市景観
○生きた緑の衝立
毛藤圀彦 つぎに、都市景観は単一美はもちろんですが、カンバスに向って絵筆をふるうような気持ち、全体的な構図として総合的にまとめて行くことだと思います。
佐藤 盛岡市はかつて、市の政策として諸官庁を市の中央部に集合するという方策をとったんです。当時の為政者は、今のような車時代が実現するとは思ってもいなかったようでした。その後の車の増加につれて交通が慢性的に渋滞し、その上、城下町である故に、道路が狭く、かつ曲りが多いので、一方通交の規制があっちこっちにもあり、四六時中、車の奔流にもてあそばれている状態です。
このような車の増加によって街の姿が最も甚しく変化したものに駐車場の増加があります。自家用車が狭い宅地から道路に向ってボンネットがはみ出していたり、よくこんなギリギリまでに車を軒下に入れたもんだなあと感心したりするような姿は、まずまずがまんできても、あの「月極め駐車場」の多いことに閉口してしまいます。しかも、本通りのいたるところで、腰高位のフェンスをめぐらすだけで、ズラリと車が詰っているさまは、街の風致のぶちこわしです。なんとかならんもんでしょうか。
毛藤 市の特異な都市構造から増加したもので、今になってはどうにもならないといえばそれまでですが、私は、せめても駐車場の道路沿いの一面だけでよい。是非、ここを生垣にして欲しい。それができなければ、今あるフェンスにつる性の植物をからませる。または、フェンスに沿って十五乃至は二〇センチメートルほどの巾の植え場を設けて多年草かこぼれ種で毎年花を咲かせる草花を植え込む。つまり、駐車場の道沿いに塗料の緑色でない「生きた緑の衝立」立てるという考えかたです。
佐藤 姑息ではあっても、これはすばらしい着想です。さっそく行政面でとり上げてもらいたい。指導なんて手ぬるいものでなく、ほんとうに市が美しい文化都市づくりに取り組むなら市で条令を制定し、これに伴なう施業に対しては、補助などの裏打ちでもしてやるような配慮をすれば、街並みは見違えるように潤いを増すことになると思います。
太田 お説ごもっともです。さっそく検討しましょう。これが実施されれば、新しい行政方向として高く評価されることでしょう。
工藤 慣れというか、これが当り前だと思い込んでいつの間にか、気にならなくなります。不都合だと思わなくなるわけで、お互いに注意し合わなければなりません。
ところで、ヨーロッパの都市では、日本のようにフェンスで囲んだ駐車場は、ほとんど目につきません。道路の両側に植えた並木の下が全部駐車場になっていて、その内側が車の流れる車道、外側が歩道という設計になっています。
「緑陰駐車場」を付帯した道路なわけです。車がいっせいに大移動しなければならない事態が突然に起きるような万一の場合を十分に考慮に入れた交通構造だと思います。
私は、盛岡市がこのあとにとりかかる盛南開発事業には、このような「緑道」は是非とも採り上げなければならないものと思っています。
毛藤 そういえば、ヨーロッパの小都市を通って見ても、主要道路の両側には駐車場が見当りません。あれはきっと都市条令で、駐車場は本通りの裏の通りに設けるように規制しているのではないでしょうか。しかも、表通りの窓辺は競って花を飾っています。あのような生活習慣は、一朝一夕に成るものではないにしても、見習いたいものです。
○市街地の樹種選び
太田 少し技術的な話になりますが、樹木の葉は、その種によって大小さまざまです。
一般に広い背景や広い道路の並木などは、葉の大きいものを選ぶのが造景上の原則です。葉の小さい並木は、景感に乏しいうえ、落葉の清掃に手がかかるし、建物などの隙間に舞い込んだり、雨樋などを詰らせたりしておもしろくありません。
その点、ユリノキ、トチノキ、ハナキササゲ、ホオノキなどは花が美しいことも加わって、これからの緑道や広い広場を持つ公共施設や工場などに向く一級品だといえます。とくに、その中でも明るい感じをかもし出し、黄葉もすばらしく美しく、ガス公害や病害虫にも強いユリノキには、私は特級品の折紙をつけています。
このほかにプラタナス、これは花は目立ちませんが、近代的な雰囲気を感じさせる点で棄て難いものがあります。葉が小さいカエデの仲間は葉が多いことで使い方によっては違った趣を出します。そこえゆくとイチョウ、ヒノキは落ちついた幽玄な静けさをかもし出しますので、神社仏閣の境内に植えられます。ほかにカツラ。この木は姿も良いばかりでなく、新緑の美しさは圧巻で、黄葉も棄て難い美しさがあり、この木で並木路を造ったら素敵さでは天下一品のものが出来ると思います。
盛岡市役所から県庁前を経て中央通二丁目までの並木の種類を決めるとき、市としてはユリノキを推しましたが、残念なことに苗木が揃わなかったためトチノキになってしまった。こんな裏話もありました。
○市街地の電柱と看板
毛藤圀彦 では、つぎに街を歩いて目ざわり、気ざわりになるものがあります。これらのものとの関連で、街の景観を考えて見たいと思います。
毛藤 町を歩いていて一番に気がかりなのは、やはり電柱と看板類です。市街地内の電線類は理想としては、地下埋設ということになるでしょうが、一気にやれないとしても、現在、高層建築作業に用いられている大型クレーン車、あれを駆使して、電柱を町の通りの裏に移すことを考えて欲しいと思います。交通の安全性を向上し、車輌の渋滞を解消するばかりでなく、町並みの景観を増す点で大いに役立つことになろうと思います。
あの電柱は、いずれも企業体の私有財産であって、公共的な財産、ここでは道路が占める地積とその空間、つまり公共的な財産は、私有財産である電柱とその架線の設置に常に優先するという原則に則り、市民の意志によって、この原則を貫くべきだと考えられます。
つぎに、目に触わるのは、通りや町並みの諸々の看板類です。建物の壁面と直角にいくらかでも多く張り出しさえすればと競い合っているようです。
おそらく道路法か建築法かなんかの中で制約しているものと思いますが、もっと厳しく取り締まって欲しいと思っています。色彩も形も滅茶苦茶で、海外の写真や絵画で見るような統一美がありません。これから段階に入った盛岡市盛南団地づくりなどには、この辺のことを十分に考慮してかかって欲しいものと考えています。
○窓辺の花
毛藤 なお先ほど、ヨーロッパでは窓辺を花で飾る習慣は、日本でも是非とも見習いたいと申しましたが、ヨーロッパの国々は、壁の文化が極度に発達していて、玄関と扉、各層の窓とその窓辺など、いずれも彫刻の枠を競って表現しています。極端な例では、町中の壁という壁は、宗教的な壁画で埋めつくされ、その古さの程度で旧家の誇りをそれぞれに誇示しています。このような町では、復活祭の日に、町の人びとによる自作自演の宗教劇が演ぜれるのが習わしなそうです。それはそれとして、ヨーロッパの人々は、窓と壁の造形美に、さらに潤いをもたせようと、窓辺に花を飾る習慣を作りました。現在、伝統化された窓辺の花は、どの市民にも欠かせないものになっていて、その飾り付け構造には色々な設計上の工夫がなされているようです。
日本の建築物の設計屋さんに会う都度、この点を尋ねて見ても満足な返事が貰えません。せいぜい「ベランダに鉢を出せばよい。窓框に支え金を取り付けしてフラワーボックスが落ちないように固定して置けばいい」という程度の話だけです。建築業界の人々がこの点にもっと感心をよせて研究を進め、あとでなく最初から設計図面に盛り込みするようになることが望まれます。
花いっぱい運動を考える
毛藤圀彦 都市緑化を進める一つの市民運動に「花いっぱい運動」があります。この課題についてお願いします。
○市民運動としての緑化
東島 昭和四五年、岩手県で国体が開催されたとき、全国からたくさんの人達が集まってくるので、この運動を展開して、花で飾った美しい岩手県を見せようというのが直接的な目的でありまして、大成功を収めました。
しかしこの運動の基本は、緑を愛し、これを美しく育てる。細やかな心を持った岩手の人を育てるところに真の意味があったと思います。つまり社会教育の一環として取り上げた県民総参加の大運動でした。しかしこの「花づくり運動」は、国体が終了した後も緑と花が、毎年増大して行くようでなければ、真の成功とは言えないものと理解しています。
工藤 社会教育というものは、元来非常に自主的な部面が多いもので、役所の方からものを考えて行くというよりは、むしろ地域の住民サイドで、望ましい街にするにはどうあるべきか、われわれの生活環境を良くするためには、どうすれば良いのかということを考えて、議論し合い、実際の行動に移して行く、このような過程が真の社会教育だと思います。
盛岡市では、国体開催を契機として、「緑化推進は市民の手で」をスローガンとし、盛岡市グリーンバンクを創業させました。民間企業の社長が頭取の役につき、市内の各種団体が参加しました。
そして、市民から緑に関する預託つまり醵金や苗木、客土用の土、いらなくなった立木、さらに労働奉仕などをいただき、新しい施設、子供会、町内会などの緑化推進に無償で供給するという活動が開始されました。と、同時に二〇万市民が一人一本宛を、五ヵ年間植樹することを目標とした「百万本植樹運動」を展開し、並行して、緑化まつりの開催による緑化植物の普及、結婚、新築、入学等の記念植樹を通じて、市がこれに支援を続けた結果、五年後の昭和五四年に完全に目標を達成しました。
第二弾は「ブロック塀より生垣を」とのキャッチフレーズを揚げ、五ヵ年計画の「生垣一万メートル運動」を発足させ、市はこの推進のため苗木購入の助成事業を並行したところ三ヵ年で目標を突破しました。この事業は市民の要望が多いので、五ヵ年と期間を限定しないで続行されています。
昭和五七年六月の東北新幹線の開通にあたっては、盛岡駅前広場の緑化についてグリーンバンクが中心となって設計募集を行い、風致木を主体とした緑化環境づくりに予想以上の成果をあげました。
また、道路に沿った空地、角地、小広場、歩道、河べり、建物敷地の一隅などで、皆が利用できる緑地をグリンプロットといいますが、これらの設置についても、町内会やコミュニティーの緑化活動を進める人たちのために、グリーンバンクは黒土や山の土などの原材料の提供や設計および植え方の指導なども行っています。
○緑化のさまたげ
佐藤 まことに結構づくめで、グリーンバンクの今後一層の活動を期待しますが、とかく世間には良くない者がいて、せっかく植えたものにいたずらをする者がいます。公的なものに対する悪業は絶対に許してならない。マスコミなどで大いにたたきのめしてもらいたいものです。
太田 こんなことがありました。四、五年前の春に盛岡市内を貫流する北上川の開運橋から旭橋の間の堤防の根元に沿って七〇〇メートル位の間に約八〇〇株のツツジを植え込みました。翌年の秋になって枯れたわけでもないのにところどころに歯が抜けたようになくなっているんで、よく検べて見たら、花が美しくて株の良いものを夏のうちに選んで、こっそりと根回しをして置いてから持って行くという、計画的な盗難に会ったものだとわかり、監視を強化しましたが、遂にわからずじまいに終りました。
東島 お願いですが、このような情報は、大小に限らず即刻、通報していただきたい。根絶やしするまで、そのつど、取材して出し続けることが、新聞の使命ですから……。といってもあまり多くては、やはり盛岡の恥になる。(笑い)しかし、そこを忍んでやり通すことにしなければなりません。
街路樹のあり方
○気になる坊主刈り
毛藤圀彦 街路樹は、いうなれば都市緑化の顔といってよいと思います。都市緑化と街路樹について伺います。
東島 私はいつも思うのですが、夏がまだ終らず、西陽の木陰が恋しい時期なのに、毎年のことながら、街路樹を丸坊主に切ってしまう。あれにかける公費だって馬鹿にならないものでしょう。
骸骨さながらの形に傷めつけられた街路樹たちは、冬ともなれば、雪にうずもれてさむざむと立ちつくし、まるでゴーストタウンの枯木のように容相を呈します。
春が訪れても、その新緑は生気に乏しく、ろくに花もつけず、盛夏時の緑には艶もない。もちろん紅葉もパッとしません。私は、街路樹について、現在やっている維持管理にかずかずの疑問を持っています。
太田 一平方メートルと狭い植え桝に植えられた街路樹は、制約された悪条件によく耐えて、弱い徒長枝を出しながら伸長を続けますが、まず第一に道路沿いの商家から商品を並べている店舗が木の影になって困ると苦情が出ること、台風による被害を最小限にとどめようとすること、加えて、街路樹の枝が電線に接触して生ずる事故を予防すること、このような理由で、毎年、夏の終りにあのように枝切りをやるのです。
○架線に見合った樹種を
毛藤 家庭用電燈と電話の架線の地上高は、六メートルですし、市街地内の高圧線は地上一一メートルの所を通っていることから街路樹の高さは、自らこの空間内に制限されざるを得ないのが現状でありあす。いつそのこと、通りの電柱を町裏に移すか、電線を地下に埋設すれば、問題はいっきに解決するでしょう。しかし、それはそれとして、妥協的だと叱られるかも知れませんが、小さい空間でも特性を生かして美しい町づくりに中小高木の仲間の植栽を考えています。この仲間の成木は、低いもので五メートル、高いものでも一〇メートル内外ですから、現在市街地を通っている架線の下で、立派に花を咲かせ、実を結び、美しく紅葉して、人びと目を楽しませてくれると思います。
私の庭の木は、すべて一本仕立てで、第一枝の地上高を一・七メートルにしておりますが、ニシキギ、五・六メートル。エゴノキ、四・八メートル。ビックリグミ、四・五メートル。ガマズミ、四・七メートル。ナナカマド、七・二メートル、そしてハクウンボクは六メートル位で、このままでどの木も街路樹として道路の植え桝に持って行ける大きさになっています。
ヨーロッパでは、ムクゲとサルスベリをスタンダードづくりといって、下枝を二メートル位に切り上げ、四乃至五メートル位の一本仕立とし、毎年、春に二、三芽を残して各枝を切り詰め、この残した芽から出る長い枝に沢山の美しい花をつける性質を上手に利用した緑化を進めています。こんな街並みを日本の田園都市にも欲しいなぁとつくづく感じます。
さて、小高木類を街路樹として用いる場合、少くても次の事柄は最初から覚悟してかからなければなりません。第一に、苗木仕立は、今までより少くても二、三年は多くかかるだろうこと、第二に、植え桝は今までより大きくし、客土と土壌改良資材を投入すること。第三は、可能な限り植え桝の回りは透水舗装とするとともに、植え桝に雨水が流れ込むような框組設計とすること、最後に、一本仕立てにするための整枝管理を徹底して行うこと。
これをないがしろにすると、美しい花が咲く街路樹が連なるよい街並みができあがらないことになります。
工藤 今までの街路樹に対する通念を根底から改めた新しい発想で、まことにユニークなものだと思います。
日本人はとかく結果を急ぐ悪い癖があって甚だよろしくない。プロパンガスで薬罐の湯をわかすようなことばかりする。とくにこのような仕事には、木炭をうずめ火にした五徳の上で鉄瓶お湯をたぎらす音を楽しむぐらいの余裕を持って臨んでほしいと思います。
たしかに、今までよりも苗木を仕立てるのに時間と経費が多くかかるし、植え場所の基礎工事費にも金がかかる。だとしても、美しくて立派なものを創り出すのだから、それ位のことは、初めから覚悟を決め、しっかりとした計画を立ててかからなければならないと改革はできません。
○ 高木の活用
太田 それから、今の街路樹に対する考え方は、単に道路に限らず、一般住宅の庭木にも適応できると思います。将来どの程度大きくなるのかを考えずに高木を植えるから、その管理のため毎年庭師を入れて、多額の出品をくりかえすことになります。
今の話のような仕立て方を導入すれば、経費面でも助かるし、もっと明るく美しい庭ができ上ります。
現在では、育種が進んできて、矮性の針葉樹が出つつあります。こんごの庭づくりに利用されるものと思います。
このような話に進んでくると、高木は都市緑化にそぐわなくなってくるような感じですが、決してそうではなく、高木のあの雄々しくガッチリした容姿とグリーンの量感は、市街地のそこかしこに、あたりかまわず異様な色彩をして建ち続けているマンション。その他の高層建築物の荒れたコンクリート面丸出しの肌に潤いを与え、そそり立った建築物の単調な大壁面を自然の緑で包み、景観的な調和を演出することに役立ちます。
毛藤 この場合、高層建築物の両袖は別として、高木と建物壁面との距離を可能な限り大きくとることで、これを守らないと、木が伸びるにつれて、枝が壁面に触れ、窓を塞ぐので面白くありません。また工場敷地内で、とくに倉庫などの建物では、その屋根に高木の陰が落ちるような位置を定めて植える必要があります。この場合、成育の早いユリノキ、ハナキササゲ、シナサワグルミ、クロクロミなどのように、余り枝を広げないで、ドンドンと上に向って伸びる樹種を選び、倉庫などに沿って、等間隔に列植します。
列植した高木で、大きくなって、屋根の上に、太陽の移動につれて動く日陰、つまり「動く緑陰」を投じるため、盛夏の候には、建物内の温度を緩和し、冬季期は、落葉して、太陽光線を梢の間から通して室内の保温に役立つほか、植える位置によっては、真冬に、よくやってくる北西の強風や吹雪の害から建物を守る効果も期待できます。
並木の景観
毛藤圀彦 次に話題を並木に移します。都市部内の並木は、とかく日照権問題がからむので、道路の広さが並木づくりの最大要件となります。盛岡市では都南村との境にユリノキの並木と、繋温泉に行く途中の鳳温泉の近くにシラカバの並木があるだけで、ごく稀れです。
○並木と日照権
佐藤 ユリノキの並木は、元の県立盛岡農業校が創立八〇周年を記念して、昭和三五年に植えたものです。国道四号線から学校正門までの約二〇〇メートルの通路両側に八メートルの等間隔に二五本づつ、合計五〇本が美しい並木をつくっています。真夏の暑い昼さがりなどには、他県ナンバーの自動車が道路わきいっぱいに車を寄せて駐車し、窓を全開しながら罐ジュースを飲んだり、アイスクリームをうまそうになめたり、中にはひとときの午睡を車の中でむさぼっている若者を見かけたりします。この人たちにとっては、またとない「緑陰駐車場」にちがいありません。
ところが、だんだんと道の両側に人家が多くなり、ここに住む人たちから、並木の枝が屋敷内まで伸びてきて、家や庭が日陰になって困るとの苦情が年毎に増え、中には「全部を取り払え」とねじ込んでくる人もでる仕末でした。
二、三年前のこと、住民の一人が、余りうるさく日照権を主張して苦情を持ち込んできたので、学校側も遂に一歩を譲って、邪魔になる部分の枝に限って切ってもよいだろうと申し渡しましたところ、当人はシメタとばかり、その年の夏の終りに、自分の家の前の分だけを、大きい枝まで幹の近くから、バッサバッサと切り落して終ったので、その部分だけが歯が抜けたようになりました。
毎日、ここを通る生徒たちは「なんてひどいことをしたもんだ」とささやき合っていました。
しかし、翌年の夏には、ほとんど他の樹と差がないほどに枝を伸ばして葉を繁らせ、しかも「葉の面積で勝負しよう」というのでしょうか、キリの葉にも負けないような、こんなに大きい葉をつけまして……。
生徒たちは、あの親父に伐られたユリノキは「ザマー見ろ」という顔をしていると言っていました。(笑い)
そのあと、ユリノキのいっさいの管理を学校側でやることになってからは、おもてだって苦情が出なくなりました。
学校のユリノキ並木は、生徒たちの間で、誰いうとなく「志高並木」と呼んで愛され、学校のシンボルとなっています。
○並木と街路樹は異質
毛藤 私は並木と街路樹は全く別なものとして区分しています。
並木は巾を持った線状のボリュームに富む緑の帯。街路樹は背後に商店などのショウウインドや看板などに気くばりをして極端に形を歪めた緑の点だと割り切っています。
要するに、すでに町並みがつくられてしまっている市街地での並木の造成は考えないで、むしろこれから計画される都市建設計画の中で……。
あの東京都内の神代植物園への道筋のケヤキの大並木、四ツ谷見付から迎賓館正門までのユリノキの整然とした並木、南国宮崎市郊外に延々と数キロにわたって続く異国情緒豊かなワシントンヤシの並木、あるいは、盛岡市に比較的近い仙台駅前通りのケヤキの並木など、いずれも当初計画の段階で、決めてかかったために成功したものに違いありません。
○これからの並木づくり
東島 盛岡市には、今進行中の西松園団地、近く着工されるであろう盛南団地造成の大事業があるので、この中に天下に誇るすばらしい並木路の造成を組み込んで欲しいものです。なんといっても並木は、その街の表徴なのですから……。
毛藤 並木づくりには、まず樹種選びが最も大事で、その場所の環境に応じて常緑樹と落葉樹に分け、特に落葉樹では樹高と枝張りの大小、樹の姿、萌芽時の美しさ、盛夏時の緑の濃さ、花と紅(黄)葉の色彩や実の美しさ、さらに裸木の姿などと、病害中の問題をも含めて総合的に検討されなければなりません。
次は植栽方法ですが、並木が仕上った状態を予想して離して植えると囲りの空間を十分に活用して、伸びるので、並木の形態ができるまでに年数がかかります。むしろ狭く植えると早く枝が触れ合うようになり、お互いが牽制し合って、樹高と枝張りを抑制しながら、上長生長をする形をとって成育し、小型ながらも並木らしい形を最初から整えながら大きくなっています。
ユリノキの並木づくりの植栽間隔は、地味がよくてその他の条件が揃っていると、四乃至五メートル、土質やその他の条件がいくぶん劣る所では三メートルを基準とするのがよいと考えています。
この植栽方法は、何も新しいものではありません。ヨーロッパの各国で昔から広く行われてきたものです。
太い幹が、あたかも櫛の歯のようにきれいに並んで直立して長く続いていて、まことに絵画に見るような景観をかもし出しているヨーロッパの古い並木路は、写真などで、おおかたの人々が見ていると思います。
これら樹木の伸長は、植栽間隔に正比例するという根拠によったもので、ヨーロッパでは、並木をつくるからというので、漠大な金をかけて、三メートルや五メートル近くの木を植え込みするような馬鹿げたことはしないようです。
この並木づくりの方法は、苗木の本数が多く要するというデミリットがあっても、将来、高伐といって高枝切りの作業の費用を少なくするメリットを持っています。
なお、この植栽方式によって植えられた並木の木が大きくなり、その時点で景観を変えようとすれば、間伐によってどのようにも改めることができる利点をも兼ね備えています。
また、今お話のあった「志高並木」のように、両側に住宅が建て込んできたような場合、並木の風致美を毀さないで維持して行くたまには、第一枝が地上からの高さで、三乃至四メートルになるように、下の方から出る枝を全部切り落し、その上部は入り込んだ枝のみを剪定し、上方の空間の許すかぎり、天まで伸びようと、自然に生長させるようにします。
このような形の並木では、朝と夕暮れの日光は、道のそばの人家や庭に直接投入するばかりでなく、樹冠部の木蔭は、丁度屋根の上を太陽の移動につれて動き、しかも日陰をつくる場所が、樹と相当に離れているので、乱反射によって明るい日陰になります。
このような並木づくりを進めて行けば、直接、並木に接して建つやならびの人々はもちろんのこと、その後、側に少し離れて移住する人達からは、もはや苦情は出ないだろうし、また、さらに冬の期間は裸木の間から日光が適度に投射するので、明るく暖かい居住環境のもとで暮すことになります。
河川空間の緑化
毛藤圀彦 都市緑化の基本は、河川と道路といわれておりますが、次に話題を河川敷の緑化に移したいと思います。
○河川の多い盛岡市
毛藤 市街地を貫通する河川は、その都市内で最も大きい空間を占めています。
田園都市盛岡には中央を北上川と中津川が貫流していまして、都市化が進むにつれて、今では雫石川・梁川の周辺にも市街地が形成されて、河川敷という市街地内の大空間が、大巾に増加しつつあります。盛岡市は、この大空間を緑化によっていかに風致的な情緒を盛り上げるのか、この環境の造成が、今後の大きな課題になると思います。
太田 雫石川支流の諸葛川と木賊川、中津川支流の米内川なども盛岡市の河川であって、その周辺は、いずれも次第に住宅化が進んでいます。空間として捉えるとき、盛岡市は他の都市にくらべて河川空地が多いのは確かです。そのうえ、北上川には四十四田ダム、中津川には網取ダム、そして雫石川には御所ダム、この三つのダムはすべて盛岡市にあって、一年を通じて流水量が安定し、特別なことがない限り、本流をはさむ高水敷にも変化が余りないというのは全国的にも珍らしいと思います。
この高水敷(注‥河川敷から流水部を除いた部分で、普通に河原と呼ばれている。)には、樹木の植栽や築溝といって溝を勝手に掘ったりすることは、法によって禁じられています。その理由は、増水時に流された樹木が橋脚を損傷したり、堤防を傷つけて破壊の原因となる恐れがあるからだとされています。
近年、環境緑化や自然保護への思考が強くなって、高水敷に低木や草花などを植えたいという声が、市民の間に高まっていますが、治水の上から慎重に取扱うべきであることは、今後においても変りはありません。
○河原の植生今昔
毛藤 中津川の河原には、私が小学校の頃でしたから、大正の後期ですが、色々な草花が咲いていました。特にワスレナグサが多く、盛岡市出身の画家深沢紅子さんもワスレナグサを摘んだ多感純情な女学生の一人だったと見えて、東京生れの友達に、中津川辺の花の思い出話をしたところ、その女友達が、わざわざ盛岡までやってきたまではよかったが、「なんということでしょう。一面に背丈ほどもある牧草だけではないの……」と、あきれ顔で帰京したといいます。また、幼少時代を盛岡市で過した女優であり演出家でもあり、著書も多い長岡輝子さんも、幼い頃、六月一五日のチャグチャグ馬ッコの祭りの日の早朝、当時板敷きの下の橋を馳け抜けて行くチャグチャグ馬ッコを見ての帰り、河原におりて、朝露に濡れたゲンノショウコを摘んだものだというのに、今はその影さえ見当たりません。
○高水敷緑化の提言
毛藤 岩手緑化研究会は、中津川上流に足を運んで河川附近の植物調査をやりましたが、以前に市街地貫通部の高水敷に生えていたと思われる植物が、まだまだ数多く残存していることを知りました。
しかし、建設省が高水敷全面に播いた草は、ケンタッキー三一フェスクという教靭粗鋼な牧草で、これが過去の植物たちや昆虫類を追い出したために野鳥の数が目立って少なくなりました。
太田 盛岡市は昭和五七年三月、水と緑がよく調和した街づくりを飛躍的に推進しようと城趾、中津川周辺地区の景観を形成する基本計画を策定しまして、河川地域としては夕顔瀬橋から北上川・雫石川との三川合流地点及びバイパスが通る東大橋から、同じく三合流点までの区間に対して都市景観形成モデル事業を五年から一〇年先を見通した目標を樹立して、河川敷景観形成事業を進めることになっています。
毛藤 具体的にどんな方法で進められるのか、まだその段階でないかも知れませんが、この際、全面にノシバなどを植えるというのであれば考えものだと思います。
ご承知のように、芝生地は小動物はもちろん、昆虫類も住めない環境であるという点です。例えばノシバなどを植えますと、秋の終りから春のなかばまでの長い間、赤茶けた枯葉で過ごすので見場もよくありません。それにひとたび雑草が侵入しますと、その除去に大変な手間と多くの経費を要します。
昨年、岩手緑化研究会では、「河川敷の緑化についてーとくに高水敷における植物群落の造成ーという副題をつけた小論文をまとめまして、市に提言しました。
高水敷は、市民が水流との接点を、求めて川遊びを楽しむ場所であって、そこには多くの植物が乱れ咲き、小動物が豊かに棲息して、野鳥のさえずりを聞く風致に秀れた地域が好ましいと思います。この提言では、これを呼び戻そう。そのためには、過去において育っていた草花を主体とし、四季折々の美しい草花を加えながら、群落の形でこれらの草花が生育する場にしようとしたものです。
具体的には三六種類の植物をとり上げ、その花ごよみも添えてあります。
さらに、河川敷の植物群落のメンティナンスにも触れ、現在、建設省が実施している高水敷緑地化に関する事業を、市が国の委託を受けて行える行政の一本化と、建設省の監督と指導のもとに、市と市民が一体となって推進してゆくシステム化なども内容に加えています。
東島 まことにロマンでユニークな提言内容だと思います。
この進言を市当局にどこまで受け入れてもらえるのか、報道関係者としても関心が持たれます。
行政の一本化については、街路樹について「伸びよ天まで」のキャンペンをかざして、緑化の推進を進めている徳島市が、市内の国道と県道について、土木的な事業を除いた一切の管理事業を市が一手に受託し、これに市の予算を上積みするという行政の一本化が行われていると聞いています。
このような事例からも、今の提言の実現性は十分にあるのではないかと思われます。
人為を加えない自然景観の造成
毛藤圀彦 環境緑化の推進は、常に人間の意志によってつくり出して行くもの。そういう感じをうけますが、自然の植物界に人間が介入しないで、自然力に一任した形で緑化の環境を整えて行く……。これが緑化思想の源泉ではないでしょうか。ところで、人間がその植生に全く介入しないものに原生林があります。
○植生の復元性
毛藤 原生林といえば、高山や深山に存在するものと考えられ勝ちです。
しかし、東京都調布市深大寺の東京都立神代植物公園には、普時の姿を今に伝える「武蔵野の森」が残されており、北海道大学の附属植物園の近くにも「石狩の森」があって、昔ながらの植物生態系がそのまま保存されています。
いずれも平地林であることに大きい意義を持っています。
木炭の生産が盛んだったつい半世紀前まで、薪炭林は約三〇年周期で自然林の伐採が繰り返されてきました。また、森林火災に会った自然林もいつかはもとの自然林という森林構造を形成してきました。
火災や皆伐によって絶滅したと見られる植物が自らの萌芽力と風や鳥獣類や昆虫類の生活を介入して種子が侵入し、以前、その土地に最も適応したと思われる様相の林分と林内植物構造を復元して行きます。
このように、長い年月を経過するなかで、過去にあったような林相を期待することは可能ではないかと考えられます。
だから、盛岡市にも「みちのくの森」があってもよく、これなどは全市民が誇りとするに足るものにちがいありません。
盛岡市の中心部は、標高一二六メートルですが、直線距離で約二五キロメートル東方に標高一、七〇〇メートルの毛無森があります。およそ七〇〇メートルあたりの上方に、約四〇〇ヘクタールに及ぶブナの原生林地域があります。
これから見まして、このことから毛無森の標高七〇〇メートルあたりまでの間に、約標高一五〇メートル毎に、今申し上げたみちのくの森の地域を設定するという計画を進めてはどんなもんでしょうか。
この森は、将来とも絶対に斧を入れない「不伐の森」なのですから、長い将来には「不滅の森」、「永存の森」、「永久(とわ)の森」、「永古の森」などと呼んでよい。いわゆるエバー・ラステングなエターナル・フォーレストを形成することになるでしょう。
これらの森は、それぞれ標高差による森林植生の特長をよく示し、後々には今世紀の遺産として「みちのくの森」を形成することでしょう。
○とわの森構想
太田 盛岡市で、このような「とわの森」を設置しようということになれば、市の中心部から八キロメートル以内の地域に三、四ヶ所を設けることができるでしょう。しかもこの地域には三〇年以上を経過した広葉樹林が点々と残っていますから、この地点を核とし、その周辺に向って拡げるための土地を確保することも可能になります。
ただ、この場合に最も警戒を要することは、山林火災で防火に対する配慮と施設は絶対的な必要条件になります。
毛藤 森林の防火線としては以前、森林の周囲に牧草地を設けたことがあります。しかし晩秋に掃除刈りを怠ると、翌春の山家事危険期に牧草の枯葉が、却って導火線となって逆効果だったということがありました。
だから現在では観光的な要素を加味して、常緑性のキヅタ、ビンカミノール、ヤブラン、シャガなどを選ぶとか、花が美しいオオキンケイギク、ノコギリソウ、ルドベキア、クサキョウチクトウなどの永年草を植え込んで、花の大群落をつくると観光価値が一層強まるでしょう。ただ、これらの植物は枯れた莖を残すので、地上刈りが必要となります。
また、この土地はヘリコプターの発着地として活用できる利点を備えることにもなります。
東島 極端な乱伐とその他すべての点で自然の乱開発時代であった二〇世紀に生きたわれわれ世代の人間が、その罪の償いの一つとして、即ち贖罪。これ位のことは、われわれの手で実行に移し、われわれの遺産として「原始の森」を残すことぐらいのことはやるべき責任があるものと思います。
工藤 同感です。国がまずその気持になって先頭に立ち、県や市町村に協力を要請すえうような体制づくりが最も望ましいと思われます。
といっても国を動かすのは国民の意志と力なわけですから、そうなれば私たちも大いに心をひきしめて、この問題の実現に取り組まなければならない立場にあることを認識する必要があります。
都市周辺に目を向けた田園都市づくり
毛藤圀彦 盛岡市は田園都市ともいわれるように、市街地のまわりに農村部と広い山林地域をもっています。このような自然条件の中での緑化事業がどうあるべきでしょうか。
○市街地だけの緑化は行詰る
船越 都市の緑化を進めるとき、単に人口が集中している地域だけの環境緑化にとどまるなら行詰まりが生じてきます。
盛岡市は、市街地とその近郊の田園地帯である丘陵部をはさんで広葉樹林地帯が背中合わせになっています。
このような地形は仙台市にも秋田市にも見られないもので、まことに恵まれた自然条件をそなえています。
ところが近年、この地帯はその内部で、農業の近代化が急激に進んで、次第に管理化された自然に移行しつつありますし、そのうえ市街地の膨張で、これまた建築様式の画一化が進むなかで形態管理された、あたかも型で抜いたような住宅が、ちょうど都市部から一戸一戸を切り離して移し変えたような規格化された住宅が点在し、それが無統一な集団となっていて、自然との調和が乱れはじめています。
これに反して背部に広がる山林地帯は、人工林も広葉樹林も、近年の労働力不足と材価の低落で管理が行届かず、逆に自然の姿にもどりつつあります。
いかにして丘陵地帯の自然の管理化、画一化を調整しながら、自然の姿にもどりつつある山林地帯のこの自然の美林を、いかに都市環境の向上に役立たせるのか。こうした問題をかかえているのが盛岡市であるという認識は重要だと思います。
白滝から愛宕山・北山を経て、高松の池の丘陵地帯の約一〇キロメートル、さらに高松の池から北の方、東松園の後を経て狐森・更沢・黒岩・鉢の皮や外山岸を通って小鳥沢の四十四田ダム湖畔までの約一三キロメートルのライン、会わせて二〇キロメートルを越す丘陵地は、盛岡市外縁部にあってすばらしい自然景観をそなえています。
とくに後者は、広葉樹の美しい林が多い特長があり、まだあまり都市化が進んでいません。しかも、この丘陵地は標高二四〇から三二〇メートルと起伏が少ないので、ここを対象として自然的な風致維持を前提として新たな開発事業を実施するとした場合、投資が比較的少なくてすむという、他に余り見られない地形的なメリットを持っています。
東島 そのとおりだと思います。自然力が自らの力で維持を続けている景観地帯。こんな宝庫を盛岡市が内臓しているとは、まことに喜ぶべきことであって、この自然の聖地を中央の不動産業者などの食いものにさせてはならないと思います。
太田 今、お話しのあった盛岡市を取り囲む東側の丘陵地は、自然環境の護持と景観の保全や防災上の立場から総合計画などで常に乱開発を規制して保全してゆく方針を貫いています。風致地区、市街化調整区域などの制度で守ってきたものですが、行政だけでは容易ではありません。
市民の共通の財産として、多くの市民の理解と協力で、次の時代に無傷のままで引継いでゆきたいものです。
○自然散策路の設定
毛藤 この辺一帯を森林公園の指定をうけるのが一番てっとり早い方法ではないでしょうか、知らないでいるうちに中央の大資本家が地権者になっていたというようなことがないようにするためにも……。それから、二、三年前のことでした。岩手緑化研究会が市の委託で、北山散策路に沿って生育している樹木調査を行ないました。同定者に岩手大学の戸沢先生をお願いして、私も同行しましたが、マーキングした樹木数は三八五本で、樹種は高木五七種、中高木二〇種、低木が一六種でした。なお、林床には沢山の草種がまあ余り荒されずに残っていたことを知ってホッとした思いをしましが、是非このままの姿で維持したいものと思ったものでした。と同時に、市民が足しげくここを訪れるようになったとき、植物の保存の点で、今のままでよいのかと深く考えされました。
太田 盛岡市には北山散策路(約五キロメートル)大志田ー中津川コース(約一八キロメートル)白滝コース(約四キロメートル)蝶が森ーたたら山コース(約三キロメートル)高松ー四十四田コース(約五・五キロメートル)合計五つの都市近郊自然歩道が全長で約三〇・五キロメートルが設定され、市民に解放しています。
もともと自然歩道は健脚者を前提として設定されてきた向きもないではありませんからこんごは、こんな点が今後の研究課題として残されているものと思っています。
毛藤 今申したように、都市郊外自然歩道の樹木調査にタッチした経験から、この機会に考えていることを述べさせてもらいます。
盛岡市の南から東側を通って北にいたる丘陵地帯は、直線距離で約一七キロメートルの間に長々と横たわっています。これは南の方から川目、大久保、新庄、綱取ダム、下米内、伊勢沢、名乗沢、外山岸、東松園、小鳥沢を経て庄ケ畑までの間で、標高は二二〇メートルから二六〇メートルとなっています。この経路を地図の上でコンターで辿りますと二一キロメートル位の長さになります。
この区間に、ほぼ等高線に沿って散策路をマークして行き、コンターラインの間隔が狭い、つまり、傾斜度の強いところでは斜行または蛇行路にして急坂を緩和するなどに考慮を払って描いたとき、この散策路はなだらかな丘や低い尾根をよぎり、浅い谷間を渡り、自然林や人口林の中とそのほとりを、または場所によっては、小川のせせらぎを下方に聞き、やがて見晴しのよい原野に沿って、所々で遠くにまたは近くに農家の畑やリンゴ園をかいま見る等々、まことに変化に富んだものとなります。
ただこの場合、路の長さが問題になりましょう。しかし、この南から北に及び二〇キロメートル余りの予想路線は、現在すでに完成している六本の自動車道路と交叉していますので、このままでも全長を五区に区切ることが可能となります。
工藤 都市の緑化というと、とかく市街地の街路樹、町並み、住宅街などと、さらに都市の膨張にともなう都市開発計画だけに議論が集中するきらいがあります。
今後の環境緑化は、都市の周縁部にまで及ぶ大きい視野に立って考えねばならないことを痛感しました。
盛岡市に限らず、今後の環境保全、維持開発のもって行き方にあたって貴重な意見だと拝聴しました。その実現に向って進まなければならない重要課題だと思います。
東島 近く市政百周年を迎える盛岡市の記念事業の一つとして、できなければせめて、二十世紀内に完成し、これを次の世紀の市民の贈物とする。これは私一人の願いではないと思います。
記念樹の植栽について
毛藤圀彦 この辺で記念植樹についてのご意向をうかがうことにします。
○むづかしい記念の森づくり
佐藤 学校などでは、卒業生が記念樹を贈って母校を巣立って行きます。また、家庭でも子供の誕生とか入学のときに「記念の木」を植えています。しかし、これも都市のドマンナカに生活する家庭では、まず不可能なわけです。
この願いを行政面でかなえてやれないものでしょうか。
太田 市は結婚記念樹植栽ということで「結婚の森」を設定し、新婚夫婦が植樹をし、あとあとには美しい人工林として残して行くという計画で、岩山公園の中にヤマボウシの林を作った経緯があります。現在は春の緑化まつりのときに結婚や入学の記念樹として苗木をプレゼントしていますが……。
船越 結婚の記念として記念樹の人工林造成の考えは目先きが変っていて、聞いただけではチョット面白く感じますが、いざ人工林となりますと、苗木を供給して植えれば、それで達成できるという、そんな簡単なものではありません。毎年少しづつ林分を拡大して行くには、事前の地ごしらえが大事で、手数も金も多くかかります。そのうえ植栽後の五、六年間は欠かさずに下刈りを続けて雑草を抑制し、つる性の植物を切り払い一一年目から一二、三年目に除伐する。これは一ヘクタール当たり三、〇〇〇本位の苗木を新植した場合ですが、今の「結婚記念の林」では、一、〇〇〇本以下〇植栽密度になることが予想されます。そうなると今申し上げた保育期間内にかかる炉力と経費は倍加することを覚悟してかからなければなりません。といってスギやマツやカラマツのように造林施業方式が確立しているからということで、これを記念樹種とするからといっても、夢多い新婚さんたちは「スギ、マツ、カラマツではどうも」と首をかしげることでしょう。(笑い)
だから私は、基金による拠金制度のようなものを考え、新婚者が一つの力に結集して、一つの記念の森を創生しよう。そのためには、その経費は「あなたと私が出し合いしましょう」というとになって、挙式費の一部を「結婚記念の森造成基金」として拠金に参加していただくということのほうが、そのあとの維持管理を考えた場合、増しではないかと思っています。
工藤 岩手郡西根村大更の「いこいの村」の入口にある、巨大なアカマツ林は学術参考林として残されていますが、あのような立派な林を造成しようとする事業に結婚を記念して参加していただくことになるので、いっそう意義深いものとなりましょう。
この企てに参加したカップルには、市長から木盃でも贈って祝福するようにすれば、さらによいと考えられます。
佐藤 それは、成人向きの企画としては、大いに結構な構想に違いありませんが、子供を考えに入れると、やはり美しい花の咲く木、紅葉の彩りのよい木、匂いがよく蜜の多い花をつけ、あういは色々な実もとれるような樹種が欲しくなります。
こうしたものは一人一人の一生のうちに少くとも一本は植えさせたいものです。
○すゝめたい記念の並木
船越 日本列島の林づくりは、昔から常緑樹が主体になっていて、広葉樹の人口林は無きに等しい状態です。これには色々な理由があるわけで、これを詳しく述べる時間がありませんが、いままで造林樹種に外国樹種を選んで成功した例がないということです。だから、今のお話にあった子供向けの記念樹種の植え付けは、記念の森という考えかたを棄て、むしろ「記念の並木」というこちに考えを移して進めたらよいと思います。
毛藤 記念の並木ということになると、私は盛岡の東側に横たわる丘陵地帯に長々と連らなる散策路開設の一環として取り上げるとよいではないかと考えています。
現在既設の六本の道路に加えて、さらに数本の道路を通してこれを散策路に結び、全体を十区分位に小さく区分し、この新設路を「花の記念並木路」とします。この並木路は、小区分された各散策路への起点でもあり、終点でもある出入口に通ずる役割りを果します。そして植栽する樹種、たとえばヤマボウシ・ヤマナシ・アズキナシ・ミズキ・ケンポナシ・オオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)、コブシ・トチノキ・ヒトツバタゴ・ヒメリンゴ・ナナカマド・アカシア・ハナキササゲ・ユリノキ・チョウセンゴシュユ・モクゲンジ・ヤマモミジなどを選び、この木をそれぞれの並木の上につけて呼ぶことにします。また潅木のなかにもエゴノキ・カンボク・ニシキギ・マユミ・ツリバナ・ノリウツギ・リキウバイ・バイカウツギなど、探せば相当数の樹種を挙げることができます。これからは小並木では一本仕立とし、高木並木に立体感を出させるために根本にプッシュとして用いてもよいと思います。この植栽は幼稚園または小学校入学記念植樹と結びつけて行いたいと思います。
盛岡市内には公立の中学校が十七校で、その生徒数は約三、五〇〇名ですから、並木の管理は体験学習としてこれに当たってもらう。このようにやりようによっては出来ないことはないものと信じています。
こうして出来上った並木を通って行きつく散策路には、多くの市民が、自分の脚力と好みに応じて一区間だけ、あるいは二区間、三区間と自由に選んで訪れることになります。
健脚の人びとは、一日がかりで全線を踏破するでしょうし、また夏はマラソンコースとして、冬は平地スキーのトレーニングコースとしての活用するなど立派なヘルスロードとなります。
東島 夢が際限なく、だんだん広がって行く思いがします。しかしこの夢、いやこの構想は実現の可能性を十分持つものと、私は観ます。
したがって、是非とも実現すべき盛岡市の大課題だと思います。
そのためには、まず市が立ち上って先頭に立ち、長期計画に盛り込んでもらいたい。これが私の今の気持です。
緑とのつき合い
毛藤圀彦 緑と仲よしになって、植物を愛し育てることが前提となって緑化が促進され、それだけ都市の文化性を増すことになると思いますが……。
○緑化は木の名を覚えることから
船越 人と人との関係でも、相手の名前を覚えて接するのと、そうでないとでは親しみかたが違います。学校教育の場では、とくにこれは重視されています。
植物には全てに名前があり、これを覚えることが生物に接し、緑を愛する心を育てます。名前を知った木は、一段と親しみが濃いわけですから、緑化運動は、まず「緑の名前を覚える運動」からはじめるべきだと考えています。
毛藤 昭和五四年に中国では、全国人民代表者会議で環境保全にかかわる法律を制定しまして直に実施しました。その中で環境緑化関係では「四傍緑化」といって、集落・河川敷・家屋の周辺・施設の内外を緑で埋め尽そうというキャンペーンを展開し、膨大な政府予算を投じて緑化関係の大事業を活発に実施しています。
教育部門では、全国の小学校では五年と六年生に、中学教育期間では全期の三年間、合計五年の間に、一年に三〇種づつ計一五〇種の植物名を完全に覚えさせるカリキュラムを組んで実行しているといいます。
東島 中国はご承知のとおり、日本の二三倍の国土を持っていても、その大半は裸地と砂漠です。だから、緑化推進は国の切実な問題です。しかし日本はそれに比べれば、緑に被われた国であるから、緑化について払う関心はほどほどでよいなんていう甘い考えを持つことは絶対に許されません。
というのは、わが国の国土はたしかに面積的に比べものにならないほど小さくても、日本の自然破壊はまことに悪質であって、許し難いからです。
この歯止めのためにも、子供のときから緑化を通じて自然を大事にしようとの思想を植えつける必要があります。
そのためには、まず大人がまっさきにその気に徹するべきだと思います。
○植物を仲良しの友達とする
毛藤 我国が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士の言葉を思い出しました。
植物と仲よしの友だちになるためには、まず、その植物の名を知ることです……。その名を正しく知ることが、植物に近ずく第一歩です。相手の名も知らないで仲よしになることはできません。
人間は忘れっぽいもので、植物の名をちょっとおぼえたくらいでは、すぐ忘れてしまいます。
しかし、子供の時におぼえた名は、強くあたまにやきついて、なかなか忘れないものです。ですから私は、少年のころに名をおぼえておくことは、その人の生涯にとって幸せなことだと思います。
要するに、田園都市が文化性を高めるための緑化の根底は、ここに住む人びとが、いま以上に生きた緑に対してもっともっと強い関心を払い、より深い愛情をもって植物と仲よしになることだと信じています。
工藤 環境緑化は豊かな情操をはぐくむための社会教育であり、もっと煎じつめれば、家庭教育としても欠かせないものです。
昔は、食糧としても、薬としても、遊び相手としても欠かすことのできなかった植物でしたから、その名前は祖父や父が教え込んできました。
しかし、今は科学と資本主義経済の発達にともなって、このような知識が実用的には必要がないような時代に変って、大人たちは、その大事な子供たちに、尊い贈物をすることを忘れかけています。情操豊かな子供に育てたいと願う親心は、昔も今も変りはないんだから、第一に家庭環境の一環として取り上げなければなりません。
また、全般的には社会教育の問題でもありますから、行政も市民も大いに関心を持ち、家ぐるみ、町ぐるみで取組むべきです。
毛藤圀彦 お忙しい皆さんから、長時間にわたって貴重なご意見をいただきまして、まことにありがとうございました。ではこの辺で「田園都市の緑化」の座談会を終らせていただきます。
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