1997年10月1日 博物研究会 会誌(会誌 はっけん) /
BOLETIM CENTRO DE PESQUISAS DE HISTÓRIA NATURAL No.10
パソコン導入でカード整理に拍車薬草見本園で会の特色を出す
邦字紙も賞賛 整然、博研標本館 “白亜の殿堂”が似合う
[写真:整然とした博物研究会の本部・標本館 イタケーラ]
標本館建設委員会解散に寄せて
会長 越村 建治
今ここにこのテーマに基づいて建設委員会結成の様子や建設資金に関するいくつかのエピソードを記すことが出来ることを大変嬉しく思っている。
思えば標本館建設は、博研の長年の夢であったがその夢が現実となった今日、やはり大きな感慨に包まれるのである。
橋本先生がパラナに居られた随分昔の時代、一九八三年にサンパウロに移られて以来、博研が膨大な資料の管理をはじめたポーツダム街の時代、これ等の時代はもはや遠い過去となりつつある。
それからいよいよ標本館建設の必要性にせまられて真剣に標本館建設の構想を練った時代、募金活動の時代、二年半も費やした建築の時代。そしてようやく建物が完成し、外部の「道(西村通り)」と駐車場が完成し、ついに建設委員会が解散出来るということ、これ等すべてのことが私たち一人一人の心のなかに懐かしい思い出となって長くとどまることであろう。
さて、これまで標本の価値、標本館の意義と必要性、標本館建設の理念などについて述べてきたので今回はこれらのことには触れず、特に深く心に残ったエピソードや記録に残しておきたいことなどを中心に記すことにする。
さて、私たちが標本館建設の構想を固めた時、まず橘富士雄氏をたずねて意見をお伺いした。標本館をただ博研のものとするのではなく、日系コロニアの資産として後世に遺したいというのが私たちの初めからの考えだったからである。
橘さんはコロニアの銀行「南銀」を育て上げた実力者であり、コロニアの偉大な指導者であった。橘さんは私たちの話を聞いて「これは悪いことではない。まぁしっかりやりなさい。」と言われた。つまりコロニアのトップから「それはいいことだ、しっかりやりなさい。」と励まされたわけで、これは最後まで我々にとって大きな力となった。
そして建設委員会の組織作りに取りかかったのであるが、これは思いがけない困難な作業となった。博研は建設委員長をコロニアの実力者にお願いする方針を決め、橘さんをはじめ数名の方々を訪ねた。標本館はコロニアの資産としたいという考えからである。
しかし誰からも承諾を得ることは出来なかった。考えてみればそれもそのはずである。
理想だけ高く経済的基盤の全くない小団体に何程の信頼が世間から得られるというのだろうか、やはりわれわれ独自の力でやらなければならないという結論に達したのである。
建設委員長に越村建治、副委員長はベテランの石橋誠也さんと徳光毅彦さんにお願いし、実務委員は博物研究会の役員がそのまま委員を兼任することになった。
こうして募金運動が開始され、一九九四年六月二〇日にいよいよ建設工事着工の運びとなった。
ところでどんな事業を行うにしてもその原動力となるものは勿論資金である。
建設資金は博研が年中行事やその他の活動で得た資金が全体のほぼ三割、あとは一般の寄附金とその他の資金源からといってよいと思われる。資金獲得については地道に寄付を募って歩くのが最上の方法と私たちは最初から考えていた。
こうして募金と支払いのカケッコがはじまったが募金の方が先を行くことはほとんどなく、いつも支払いに追われるのが常であった。
どんな事業もいざ始めてみるとそこには多くの学びがある。頼れる人、頼れない人、立派なことを言いながら行動が伴わない人、正しい理念に基づいて発言し、行動に移す人、世はさまざまである。
今回深く心に残ったいくつかのことを述べることにしよう。
まず第一に頭に浮かぶのは橘さんのことである。標本館建設のことで四、五回お目に掛かる機会を得たがコロニアの指導者と言われた方に何回もお会いできたことを大変光栄に思っている。寄付は二回に分けて二五00レアイス合計五000レアイスという多額なお金を寄付してくださった。日伯修好百年の時には、橘委員長直々のお呼び出しがあり、一万レアイスの助成金を渡してくださった。ユーモラスな言葉の端々からいつも意味深いものを感じ取らせていただいた。
その次に思い浮かぶのは、池上さんが都合してくださった一万ドルの件である。
工事を始めて数ヶ月、大きな支払いが相次ぎ、またたく間に準備資金がなくなった。工事をはじめて間もない頃であり博研の信用にもかかわる。まとまった金が即刻必要だがすぐにはその目当てはない。その時池上さんから一万ドルを都合するという申し出があったのである。無利子、返済の期限なし、ただし支払いはドルで、というのが唯一の条件であった。このお金が大きな推進力になったことは言うまでもない。今年の二月無事返済出来たとき大きな安心感に包まれたのであった。
応援は日本からも来た坂嵜信之、毛藤圀彦両氏が世話人となり、自然科学、植物、園芸、博物館など各分野で活躍する諸氏が発起人となって誠に鮮やかな募金運動が展開された。そして坂嵜氏自ら来伯、二万千ドルを手渡して下さったのである。又会社ではANEWの協力がある。多数の標本箱や資材資金など物心両面にわたる長い間の博研への援助も忘れられない。
このように時折現れる思いがけない助け船によって窮地を脱出することが多々あった。
しかし標本館の最後の仕上げを可能にしたのは橋本梧郎先生の大著「ブラジル産薬用植物事典」であった。五年あまりの歳月をかけて執筆されてきた薬用植物事典であるが、その出版と工事の仕上げのタイミングがちょうど一致したこと、毛藤氏が橋本先生への謝意を表するものとし博研会員版を二〇〇冊増刊してくださったことなど、実に不思議な回り合わせに恵まれたのであった。
日系コロニアからは、特に花や園芸植物の栽培者が中心となり、イタペチ、イタケーラ、アチバイア、イビウーナなどの方々の大きな協力があった。サンパウロ市内ではリベルダーデ商工会、コロニアの知名人の方々に お世話になった。
そして、ついに今年の 一月二五日 (サンパウロ の日)を吉日として標本館の落成式が行われた。 日系コロニアの主だった方々、ブラジル人社会の 方々、日本国総領事館及びJICAの代表の方々など大変大勢の方々のお集まりをいただき盛大な催しとなった。
ところで、こうして無事落成式をおこなうことは出来たが建物の外部は全く何も出来ていなかった。又いつ出来るという当てもなかった。落成式の当日私たちは建物がやっと出来たことに喜びを感じていたのであるが、思いがけずポンペイアの西村先生が標本館の側面の「道」作りに一万レアイスの援助を申し出てくださったのである。これに力を得てついに六月中旬「道」と駐車場が完成したのであった。
まだやらねばならないことはいくらでもあるが、建物と外部が出来た段階で建設委員会を解散することにした。
委員の方々にはあらゆる意味で苦労があったと思われるが、ともかくもこれまで頑張ってくださったことに対し深くお礼申し上げる。しかし本番はこれからだということを忘れずに今後とも一層のご協力を期待する次第である。
最後に最近たいへん光栄なことがあったので合わせて記させて頂きたいと思う。
それは六月五日、文協一階のサロンでおこなわれた天皇皇后両陛下のご引見の場に日系コロニア代表の一人として出席させて頂けたことである。博物研究会の代表として身に余る栄誉で、博物研究会の名誉を共に喜びたいと思うものである。
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