1994年2月4日 週刊読書人
総地名数約三八万件を位置づける 博物学全般にわたる基礎資料としても有効
日本全国を四四二二枚でカバーする国土地理院発行のニ万五千分の一の地形図をご存知だろう。この地形図上に書き込まれている地名約三十八万件を全部捨い、その位置を経緯度で示すという膨大な計算の上に、完成された索引を編集したのが、国立料学博物館の植物科学研究部部長の金井弘夫氏である。この膨大な索引がこのほど「新日本地名索引」全三巻として、アボック社(〒247、鎌倉市大船2―14―13、電話0467・45局5119番)から刊行きれた。体裁はB5判変型(257×187mm)、総七三八九頁で、セット価一五五〇〇〇円。発売は丸善。
全三巻の概要は、第一巻=五十音篇(地名よみ)、第二巻=漢字篇・上、第三巻=漢字篇・下となっており、第一巻の総地名数は三八四九五九件にのぼり、漢字篇は巡環送り地名総数一〇七四三二三件となる。収載された地名一件のデータ項目は、よみ地名・漢字地名・採録地図名・市町村名・県名・経緯度座標・分単位が記載されている。
植物分布図の作成がきっかけに
金井氏の専門は植物地理学・植物分類学でなぜ地理学者でもない人がこんあ膨大な作業をしたのか質問をぶつけてみた。
「大学で卒論をやるころに植物分布図を作ったのです。いろんな植物によってそれぞれのパターンがあり、系統によっても違う。そんなことに興味を持ったんです。それで分布図をもっと作ろうと思うんですが、採集標本のラベルに産地が書いてある。それを地図上に位置づけることができないんです、すぐには。分県地図などでさがして、一つ一つ白い地図に目分量で記入していく。こんな手間をかけて、二〇〇くらいの分布図を先生と一緒になって出した。だけど時間がかかり過ぎるんでなかなか出来なかったんです。それなら地名を先に全部探して、位置のリストを作ってしまえということで二十万分の一の地図を買い込んでそこからはじめたわけです」
そして出来たのが、十年前に刊行した「日本地名索引」全二巻(アボック社)であった。しかし、産地がこれでは半分ほどしかわからないことに気がつき、ただちに二万五千分の一で再び同じ作業をつづけた。その作業とはどんなものであったのだろうか。
「買ってきた地図に経緯度の線を引いて、位置座標を書き込み、県や村の境界線を引いて市町村名を拾うという予備作業を経て、アルバイトの学生にこの地図の中の文字は全部拾えということでまかせ、読みは学生なりにつけさせた。それをある程度チェックしてみたわけです。烏帽子が鳥帽子になったりしていまして、こういうことはずいぶんあるんです。それはチェックできるものはチェックしたが、とにかく目をつぶることににしました」
それでは正確さという点ではおとるのではないかと感じられるが、もともとの出発が植物分類学の発想からのもので、地理学者の手を経たものではないということがあるようだ。
「僕は間違ってもいいと思っているんです。ニ十万分の一の時は県単位に確認の作業をしましたが、今度は数が多いのと、だいたい金がないですからね。誰かに県単位ぐらいで確認を頼んでも、頼まれた方がものすごいエネルギーを使わしちゃうわけです、何の反対給付もないのですから。間違ってもいいから出しちゃえば、難かが違っているぞというだろう。それで次に直せばいい。もう一つには、この本は本というよりデータベースとして使うんだから、データベースの上だったら直すのが簡単だということもある。本が出て間もないのですが、実際間違っているところがかなり出てきています。僕のコンピュータでは直しております」。
金井氏の言葉に金がないという話があったが、それは、研究費とか助成金が出にくいということがあるらしい。特に植物分類学関係の助成金は少なかったという。
「こういう仕事は植物学でもないし、助成金の世界は、それが来てからじゃ間にあわないんです。先端科学などは助成金が出てから次の年までに成果を出せるのでいいのですが、こういう仕事はそうはいかないんです。定常的に金が入ららないというのが一番困っています」。
データベースとしての地名索引
ところで、この本は生物地理や植物分類学などばかりでなく、民俗や歴史・言語・地名・姓氏など博物学全般にわたる基礎資料としても有効なものである。鏡味完二氏の「日本地名学」での指摘で有名な「※谷と※沢」の極端な地名分布図があるが、本書によると二つの図(図1・2=本書のデータベースを分布地図作図プログラムKLIPSを用いて出力したのも)でもわかるように東西に見事にわかれてはいるものの、鏡味氏ほどに綺麗にはわかれないという発見もあった。こういう分布図が、この本をデータベースで作ることは意外に簡単なことのようである。そういう利用法が本書の価値だともいう。そのほかにも発見はいろいろあった。
「例えば二万五千分の一では、東京という地名はないんです、秋田とかもそうです。地点としてないんです。新宿もないんです。新宿一丁目とか西新宿とがそういう地名がやたら多くなって、本来の新宿というのがどこかへ行っちゃう。そういう点じゃ、この地名はこの地名はあまり面白くない。だから昔の五万分の一の地形図がほんとはいいんです。データもとってあるんです。今多くある標本も五万分の一の時代に調べたものなんです、採集地名が。五万分の一の戦前の参謀本部の地図でやるともっとわかるようになるし、古い地名も残っている。新しい地図はみっともない地名がどんどん削られているんです。例えば差別用語の地名とかね」
データベースとしての地名索引ができたのだから当初の目的である植物分布図も比較的簡単にとれるのではないかと素人は考えるが、どうもそうではないらしい。
「まだ植物の方の産地のデータというのが充分にとれていない。それをとって、この地名索引にぶっつけて、位置座標として数字として入れれば植物分布図はあっという間にできることになります」。
発見といえばこんな発見もあった。
「パソコンの文学というのはかなりいい加減に作られているということです。衣偏がなくなっています。衣偏も示偏もみんなカタカナの「ネ」になっているんです。あれは文化の破壊だと思います」とパソコンの利点を充分に活用した人の言としてはこれは重い。
一九三〇(昭和五)年に台北で生まれた金井氏は一九五四年に東大理学部生物学科を卒業し、植物学教室に残り、七三年に国立科学博物館研究官となり、一九九一年、現職となり、現在に至っている。
「実はこの本をまだよく見ていないんですよ。本を見なくてもコンピュータを見ればいいんで、どうも本を見ない。目がわるくなってきたんで、細かい字の本はチラチラして苦手なんです」
それにしても、個人の永年の作業としては驚くべき忍耐と根気のいるものであったのは想像に難くない。大きな仕事を成し遂げた笑顔をもって金井氏は、東京都新宿区百人町の国立科学博物館分館の研究室で語ってくれた。
(写真:金井弘夫氏/「新日本地名索引」全三巻)
図1「※谷」の分布(地名数9763件)
図2「※沢」の分布(地名数13680件)
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