常に目標と希望をもって忙しくて病気をする暇がない
農学博士 毛藤勤治
〝地球の皮はぎ屋〟といわれ
明治は遠く去りにけり、といいますが、私が盛岡市に生まれたのは、その明治時代の末期、四十一年七月で、今でも口の端に残る九月はじめの盛岡大洪水の三年前でした。この大洪水は、人工二七、〇〇〇人、全戸数約六、〇〇〇戸だった盛岡市の、床上浸水一、四〇〇戸、全半壊三四戸、流出七〇戸、市内の中津川の全部の橋が流失というひどいもので、生家の川原町の全戸が、一メートル以上の濁水に呑まれたといいます。
裏のくわ畑を沈めながら勝手口にヒタヒタと迫ってくる赤く濁った水と、避難船から消防の人にいだかれて坂上に移してもらったことを、その写真を見るたびに、今でも思い出します。これは、遠くに住む親類や知人の見舞の手紙にこたえて撮ったものだそうです。
実は、この一枚の写真の台紙におしてあったスタンプから、奇しくも四、六〇〇枚のガラス乾板が、撮影した写真館の御遺族に保存されていることがわかり、昭和六十三年七月七日、「蔵から出てきた盛岡」と題して、NHKテレビでその掘り起こしの経緯とその内容とが放映されました。これなどは、私の長生きの余徳だったかなぁとひとりがってんしています。
私は大正十五年に盛岡中学校を、昭和四年に盛岡高等農林学科農科を卒えましたが、もともと機械好きで、在学中に自動車運転免許を受け、卒業後一年は当時の国鉄の臨時雇で機関車に乗ったり、観武が原の格納庫に通って民間飛行士伊藤左内さんの飛行機整備のお手伝いや、横浜の子安にあったフォード組立工場から盛岡までの陸送などをし、思いっ切り青春を楽しんだものでした。
その後は宮城県立農業館(農業機械研究機関)い八年、宮崎県種蓄場と宮崎県畜産課に終戦までの十年、二十二年に里心がついたわけではなかったが、縁あって岩手県畜産課と農務課兼務で、畜力機械からトラクター時代を迎えるまで、その技術指導を担当しました。とくに三十四年以降は、農蚕課(農務課改称)で農業改良普及事業のなか農作業機械化推進を、畜産課では経営係として牧草の調査研究と草地造成の機械化部門を担当。林務部関係者からは「山林をねらい食いする泥棒猫だ」とか、「地球の皮はぎ屋だ」などと陰口をたたかれたものです。もっとも私がかかわった分だけでも一七、〇〇〇ヘクタールを越していましたから……。切り倒した雑木、掘りかえした林床の灌木や草花、とても数えきれるものではないほどでした。三十七年から久慈農林所長に出て三年後に定年退職で私の役所仕事は終りましたが、この最後の勤めは、その後の生涯を決めた貴重なものだったことは、後述する。ともあれ、この長い役所勤めの間にただ一度、たしか昭和二十五年の真夏、執務中突然に腹痛をおこし、七転八倒の苦しさ、県立盛岡病院にかつぎ込まれ八日間の入院、しかも腸チフスの疑いで隔離病棟の病床に移されたことです。
このとき家内が飾ってくれた紫色のカンパニュラの花と、たいくつしのぎに読んだ久保田万太郎の詩集「微光」を今でも忘れません。
病気といえばこれだけですんだのは、きっと、だた「忙しい忙しいで暮し続けた」ことにあったのでは……。忙しくて病気などやっているひまがなかったと申し上げたら読者に失礼にあたるか知ら……。だったらお許しください。
―体験と研究を五年で纒め博士となる― 八時間睡る生活リズムつくる
定年の年から岩手大学工学部(農業機械学講述・昭和五十二年まで)と農学部(飼料生産計画論を昭和五十五年までと、畜産経済学を現在まで)の非常勤講師として、教壇の上から若くはつらつとした学生諸君に会える機会に恵まれ、幸福だと思っています。
いっぽう職務については、てん菜振興協会・経済連畜産課をそれぞれ二カ年づつのあと、岩手県畜産五〇〇億達成運動推進協議会に席を置いて、再び県庁の空気を五カ年も吸い、つづいて農業機械関係会社顧問を三年間勤めました。以上でサラリー生活に終止符をうったというわけです。
話がすこしさかのぼりますが、地方在職中その体験と経験から、いま進められている土地利用の方式が はたしてこれが最良なものだろうかという疑問を持っていました。それでその解明のためにまず十七の仮説をたてて、これをひとつひとつ帰納法的にデーターを主体として解析し、これを証明して組立てて行けば実施の可能性が得られるだろうとひとりぎめに考え、基盤に対座して長考するように、微分と積分の本を首っぴきしながら思考錯誤の日々を根気よく続けました。こうして一つの論理建てに到達、これを講義の中に加えていましたが、この論理を学術的評価を受けるべきであると農学部の先生がたからのおすすめもあって、まとめをして北海道大学にエッセーとして提出、ドクターのタイトルを頂くことになったのは昭和四十六年でした。
このためにかれこれ五年を要し、この間はまるで高校生の大学進学勉強をさながら、この体験は私の健康を支えてくれた贈物をもたらしてくれました。その賜物は外ではありません、つぎのような「生活のリズム」でした。
勤めから帰ると夕食は年中六時と決め、食前に晩酌一杯(一合が限度)。食後はすぐに二時間の睡眠をとり、八時三〇分から午前一時、ときには二時まで机に向い、七時三十分に起床八時出勤という生活リズム、一日におおむね八時間の睡眠が確実にとれる日常の生活の様式です。
このリズムは今でも崩さずに続けていますが、実は一番こまったのは寝付きの問題でした。根付け薬にウイスキーをチョッピリやって見ましたが、体質のせいか、どうも夢を見る頻度が多くて駄目でした。まくらもとに哲学書と英文法か独文法かの本を置いて、これらを一夜おきか二夜おき順ぐりにひもとくわけ。前者はよくて数行、後者は長くても半頁もてばよいほうで、もう睡魔のとりこになってしまうこと必定です。これは私の眠りの秘薬といってよいと思っています。
山を丸坊主にした罪ほろぼしに、ユリノキなどの苗木を頒布
こうなると「無趣味な机の虫に過ぎない」とそしられるおそれがでてきます。 私も人間ですから趣味豊かな生きざまを希望します。
実は、私の専攻は植物生理学でしたかた、植物に趣味を求める結果になりました。まず木のうちで一番に惚れ込んだのはユリノキ、草花ではクサキョウチクトウで、ユリノキはいままでに一万数千本を有苗して望まれる人びとにさし上げたし、クサキョウチクトウはここ二十年間をかけて三〇〇種に近い、花の違ったものを作出しました。そのためには多いときで一万種株を相手として育種を続け、現在では約七、〇〇〇株を手がけ、結構、自ら楽しんでいます。
しかし、いかに役所の仕事とはいえ、私は数千万株の樹木をブッタ切り、また、その何十倍かの草類の根絶やしにしました。その埋め合せをしなければという潜在的な償いの心が、このような道を選ばせたのかも知りません。
ともあれ、私は趣味の絶対的要件は、他人に迷惑をかけないもの、たとえ家族に対してでも…と思っています。
趣味も自分以外の人に迷惑になるようになっては、それはもうはっきりと「道楽」になります。趣味は決して悔を残すものではありません。これに徹した趣味は、精神的な健康の源泉であり、同時に肉体的な健康に強いつながりを持つことを認識したいものです。
(盛岡市加賀野)
「岩手の保健」通巻第一三六号
平成元年三月九日 印刷発行
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