1990年4月29日 読売新聞「教育/それぞれの生涯学習」
人に聞いて覚えるのが一番
北村太郎 ― (下)
植物や動物の名を知ると、なぜうれしくなるのだろう。万物にはみな人間のつけた名があって、たとえば〈名もなき雑草〉なんてものはないし、〈とるに足らぬ虫けら〉などという虫は存在しない。どんな小さな草や虫にも、ちゃんと名前が与えられているのだ。それらをひとつひとつ知ることがなぜ喜びなのか。モノをこと細かに観察して種や類に区分けする作業自体が快楽になりうるとは、考えてみるとじつにふしぎである。
自分の若いころの詩を読み返してみると、「花」とか「雲」とかいうことばを多用しているのに驚く。「動物たち」「貝」「魚族」なんていうことばも使っている。ようするに「花」や「貝」という大まかな一般名詞のほうが、たとえば「ウメ」とか「ハマグリ」などの特殊名詞よりも美しいと思ったからだろう。個々の名をいうよりも、「花」「貝」といったほうが抽象的、観念的であるが、青少年はその種のことばを具象的、現実的な表現よりも好むものらしい。
中年を過ぎてからの詩を見ると、右のような傾向はずいぶん変わってきている。単に「雲」と書くかわりに「積乱雲」「層雲」などと記し、「花」ではなくで「ヒマワリ」「フヨウ」と特定することが多くなった。その時分からようやく自然に目を向けるようになったのだろう。根は町っ子であるが、動物、植物、天然現象など、つまりは自然に慰めを求めるという、たいていの人がたどるコースにわたくしも向かっていたのだ。
ところでわたくしは、動物、植物を問わず、個々の種類の呼び名についてはほとんど無知に近かった。植物に話を限ると、つい三十年ほど前までは、よく友人に、「ぼくの知ってる木は松竹梅にヤナギとサクラくらいだよ」と放言していたほどだった。その後、徐々に草や木に心を寄せるようになり、努めて名を覚えるようにしているが、なかなか効果があがらない。元来記憶力が弱いうえに、そもそも関心を抱く時期が遅すぎたのだ。
ユリノキを知ったのはつい六年ばかり前、横浜に住んでいたときだった。街をぶらぶら歩いていて、大きな緑の葉の陰に、あのチューリップみたいな花を認めたのだが、あまりの美しさにわたくしはぼんやりして、しばらくその街路樹の下に立ち尽くしていた。
住居に帰って、すぐに横浜市の関係職場に電話をかけ、木の名前を尋ねた。その折の係員の応対はじつに親切だった。街路樹の植わっている場所をいうと、即座に「ユリノキです」と答え、その名の由来や本邦へ渡来した経緯などをこと細かに説明してくれた。「葉っぱをよくごらんになってください。半纏(はんてん)に似てるんですよ。だから日本ではハンテンボクっていう人がいます」とも教えてくれた。
そのユリノキ、五月には花が咲き始める。晩学の自然観察者には、図鑑などをあさるよりも、信用できる人に直接きくほうが、しっかり記憶に残るようである。
(詩人)
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