成都から夜汽車で重慶に入った。ここから、長江を下る。かの三峡下りの手前の町、万県まで、まる一日と半日、大河を滑るようにすすむ船中は、とてもたいくつだ。うとうとしながら、めざすメタセコイアのふる里を想う。
メタセコイアによく似た、セコイアという樹がある。樹の名は、チェロキーインディアンで最初に文字を作ったセイチェム(酋長)の名セコイアによる。セコイアは米国西海岸にあって大森林を形成する。
この名にメタ(後のの意味)を冠して、元大阪市立大学教授の三木茂博士がメタセコイアを命名。1941年のことである。三木博士は化石の研究から、メタセコイアを、すでに地球から絶滅した種で、セコイアと異なる新属として独立させたのだった。
ところが、偶然にも、このメタセコイアの生木が同年、中国の奥地で発見されていて、1948年に学会に報じられた。世界をゆるがすビッグニュースであった。
利川がこの生地である。ここまで、万県から車でさらに半日、四川省から湖北省に入る。メタセコイアの原木は、省境ぞいのこの村のはずれ、磨刀渓という小さな部落にあった。それは、ごらんの通りの田んぼの中の一本だった。セコイアの大森林をイメージしていた私の期待ははずれた。
この部落には、ツーチェーという少数民族が住む。土家族と書く。土家族にとってこの木は、身近で有用な木であった。彼らは昔からこの材を棺桶に使っていて、とくに長老が死ぬと、大きな木を切り倒したという。こうしたこともあって、メタセコイアの大樹は、ふる里から消えていったのであろうか。
しかし、メタセコイアはみごとに蘇生した。発見されたこの一本を母樹として、二世、三世、四世のメタセコイアが世界中に広がっていったのである。
メタセコイア(Metasequoia glyptostroboides)スギ科では珍しく落葉樹。30メートルになる。和名はアケボノスギ(曙杉)、中国名は水杉。「生ける化石植物」をして有名。
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