1984年12月号 GRAPHICATION
はじめパンフレットで見て凄いと思った。 この本の実物と同じグラビア印刷で、原寸大のものが二、三ページ付いている。それが宣伝用に送られてきて、それを見て「凄い」と思ったのだ。
何が凄いかというと、その写真の精密さかげんと、それによって写されれいる被写体が物凄いと思うのである。
まず、メディアとしての写真が凄い。ベタ焼きなのだ。ベタ焼きといってもわからないかもしれないが、写真のネガから引き伸し機のレンズを使って引き伸ばすのではなく、ネガを印画紙にじかに密着させて、それで感光させて紙焼きをとる。それをベタ焼きという。密着ともいう。これは写真の鮮明度において第一であること、間違いはない。だけどベタ焼きというと、いまではカメラも三十五ミリフィルムを使うのがふつうなので、三十五ミリ幅の小さな紙焼きを思い浮かべてしまう。そうすると鮮明ではあっても、ルーペでも使わないと見えにくい。
だけどこの写真集の場合は違う。ベタ焼きといっても、フィルムにかわるガラス乾板自体が大きい。一桁は違う。三十五ミリどころか、四、五十センチの幅のガラス乾板である。もちろんカメラもでかい。それで撮影したものを印画紙に密着させて焼くのだから、迫力がまるで違う。まさに「迫力」という文字そのもので、被写体がディテールをさらけたまま目の前に迫ってくる。
被写体は森である。密林といった方がいいのかもしれない。それも巨大な密林である。アメリカ大陸の密林だから樹木が巨大だ、地球誕生以来まだ誰にも伐採されていない。
日本にも森があり密林もあるが、やはりそこに生えている植物の大きさが違う。規模が違う。陸地が小さいとそれに見合った植物しか生えないのだろうか。
ひょっとしてそういうことがあるのかもしれない。しかしそれよりも、日本列島にはもうだいぶ前から人類が住んでいる。だから樹木も何度か伐採されては生え、伐採されては生え、ということを小刻みに繰り返していて、どうしても小粒なものになっているのあもしれない。
アメリカ大陸の人類の歴史は新しい。インディアンは古くからいたが、それほど樹木は伐採していなかったと思う。だから密林の樹木は桁外れに大きい。その伐採現場を大きなガラス乾板で密着写真にするのだから、まるで新品の地球の肉体の、包み紙を剥がしていくようである。
そういう密林への密着写真が、私たしを虫のようにしてしまう。人間では入り込めぬような、密林の隅から隅を這い回る虫である。植物の膚のすべてが体に触れる。
ほとんどフロッタージュみたいな写真だということにもう一度考えてしまう。 フロッタージュで紙の上にあらわれるものは、いわば盲人が皮膚で感じる世の中である。視線を閉じたまま指先で知る世の中のありさまを、もう一度視覚的な映像に置きかえる。つまりフロッタージュというのは、距離をもたなければ無効となる視覚というものを、その視覚のまま距離を縮めて無距離の触覚にまで一気に近づけたものである。
別に理屈を言いたてようとしているのではない。ある時期私は、身の回りのあらゆるものをフロッタージュしてみながら、お札もやってみたのだ。フロッタージュといえばふつうはもっと硬くて凸凹のあるものを対象に選ぶものだけど、私はあえてお札をやってみたので。一万円札の上に薄手の紙を置いて、その上かを柔らか鉛筆でそうっとなぜていく。十円玉ならともかく、ペラペラの紙のお札をフロッタージュして絵柄が出てくるわけがない。ないのだけど、そのナンセンスが面白くて、あえてやってみたのだ。
そうしたら驚いた。出たのである。何が出たのか。
一万円札というのは凸版と平版と凹版とを併用して印刷してある。この中で平版はまずほとんど凹凸がない。凸版は凸で圧した分だけやや窪みが出来るが、これもフロッタージュではほとんど出ない。凹版は紙の上にインクが盛り上がる分だけ、フロッタージュの鉛筆でこするとほんのかすかに印刷の模様があらわれてくる。だけど、それは本当にのんのかすかで、まあ出ないといってもいいだろう。だから机の上のお札をフロッタージュでこすっていくと、白い紙の上にはただお札の矩形が灰色に出てくるだけだった。
ところが。
スカシが出たのだ。 これには驚いた。フロッタージュの作業が端から進んで、中央の丸い空白部分にさしかかると、そこにゆっくりと夢殿があらわれてきたのだ。
私は思わず鉛筆が止まってしまった。ふだん目に見えていた印刷模様が消えてしまって、まるで見えなかったスカシ模様だけがはっきりとした形になってあらわれてくる。
それまで何も見ていなかった一万円札のスカシ部分に、印刷インクの盛り上がり以上にはっきりとした凹凸で、夢殿の像が潜んでいたのである。それがフロッタージュという密着の視覚で目の前にあらわれてきた。
私はその瞬間に盲人世界を横切った。おそらく盲人の知覚は、一万円札といえばまずその空白部分を見つめていたのだ。いや、触っていたのだ。その指先が知る触角世界を、濡れた目玉の先で潜り抜けたようだった。
それがフロッタージュというものである。 このダリウス・キンゼイの写真集は、アメリカ開拓期の森の中を、このフロッタージュにも比すべき密着写真で私たしの眼前に持ち出してくる。密林の土も、草も、荒々しい樹皮も、ささくれた葉の先も、虫も、空気も、そのすべてがガラス乾板の乳剤にベタリと密着して、目の前の写真となってあらわれてくる。
私はその乳剤となって、アメリカ密林の樹木にからみついてしまった。樹木というものを、これほど生きものとして見つめたことはいままでになかった。少なくとも写真では。
とにかく尊敬する外はない。その巨大な樹木を。人類とは格が違う。と素直に思ってしまう。人類に信仰というものが始ることさえ、その遙かな生命を見ていて頷けてしまう。
この密林の樹が一本でも日本やどこかに生えていたら、たちまち神木となったろうと、この本の付録の座談会の中で話しが出ている。そのような樹が森の奥へ行くほどに林立しているのだ。つまりアメリカの森の中に神様がごろごろといるのである。そのごろごろいすぎるというところから信仰が消えてしまうのか、木こりたちによる巨木の伐採がはじまる。
そこのところは非常に残酷な写真集だ。アメリカのイルカを助ける人たちが見たら失神するのではないかと思われた。巨大な樹木の切り口が、本当に肉の切り口のようである。 だけど樹木は平然としている。写真を見る現代人は、むしろそのことに圧倒される。その巨大さと、生命の偉大さと、精神性において、樹木には勝てないと思って。
その樹木を伐り倒す人類の代表者である木こりたちは、その残酷な現場でみんなカメラに向って静止直立している。それが何故かみんなキョトンとした表情に見える。人間が斧や鋸そのものに化してしまったあとの虚脱だろうか。そのキョトンとした表情がよけいに殺生行為を思わせるのだ。
それを見ていて、人間というのはしょうがないものだと思う。そしてまた人類というのはうるさいものだとも思わされる。とにかく壮大に不思議な写真集だ。
(おつじかつひこ 作家)
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