1984年5月号 新潮
青野 聰
ダリウス・キンゼイの写真集を見た。この写真家の名前は、聞いたことがあったように思うし、聞いたことがなかったようにも思う。重い写真集を手にとって、表紙の、のこぎりと斧で鮫の口のようにえぐられた、それでもしっかりと立ちつづける巨木ときこりたちの写真を見て、だいぶ前に一度見たような気がしてきた。じっくりと見つめ合わないまでも、街角の本屋のガラスケースに飾られているのを、通りすがりに目尻でとらえた、というように。あるいは、見たことはまったくないのかもしれない。いずれにしても、かつて見たことがある、という思いを喚起する写真である。
写っているのは巨木ときこり達で、撮られた時期は今世紀の初頭。写真機はマジック・ボックスとして登場したばかりで、キンゼイがつかったのは一式そろえると四十キロ以上もあったという。それを担いできこり達の現場まで行くのは大変な労働であったろう。撮られる側のきこり達は、なにげなく撮られるわけにはいかない。光さえあれば誰にでも写真が撮れる現在は、佳いポートレートを撮る為に、被写体に撮られることを意識させないようにあれこれ気をつかい、努力する。しかしこれは反対だ、きこり達はレンズに向って集中し、キンゼイが費した労力に見合う力を眼から発散する。相撲の立ち合いのような烈しさがあるといってよく、きこり達は、百パーセントそこにいる。きこり達は、この立ち合いの一瞬に仲間といっしょに撮られているという意識を失っているにちがいない。じっとみていると、ひとりひとりが勝手に動き出しそうで恐くなってくる。ぼくたちは、もはやこのような人物をフィルムに定着させることはできないだろうし、また、撮られることもできないと思うゆえんだ。
きこり達は森の捕鯨船団の乗り組員で、それぞれがモリの射手として優れた腕を持つ。巨木は決して動かず、それゆえに射損じることはなく、自信と紙一重の、殺しの習慣を身につけた者に特有の残忍さにあふれている。まことに血なまぐさく、樹木を伐り倒す現場ではこんなにもおびただしい量の血が流されているのかと思い知らされ、驚きもする。「森へ」とタイトルがつけられているものの、庇護者、地球の肺、天地間の水の巡りを司る暗い沈黙のサンクチュアリ、といった、ぼくたちが容易にもちうる森のイメージはここにはない。火を生む生きものということで、伐り倒す前に祈りを捧げるインディアンの思い入れもない。あるのは仕事としての殺しと、快楽としての殺しの境界が崩れた屠殺者の顔である。
面白いのは、なんといっても鮫の口のようにえぐられた伐りこみ口を構図の中心にして、血のにおいがふんぷんとするその鮫の口の中にきこり達を寝かせたり、笑わせたりして撮った写真である。露光時間が長いという制限があったためだと思うが、巨木が今まさに倒れるという——巨鯨が甲板にひきあげられ、巨象が横倒しになる瞬間をとらえた写真は一枚もない。しかし、伐りこみ口に大の男が寝そべってポーズをとった瞬間にはそれ以上の死と、不思議な安心感がある。撮る側と撮られる側の心意気にかかわりなく、血にまみれての巨木伐りが、けっきょくのところ巨木と巨木を育む多淫な森の赦しのもとで行われていると語っているからだ。
(アボック社刊)
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