それは6年前の新宿御苑に始まる
ついに幻の原生林に出会った!
文・毛藤國彦数粒のユリノキの種子が、明治初め、北米から渡ってきた。
その種子はいま、東京・新宿御苑に亭々たる3本の大樹となってそびえている。
この木が母となって、ユリノキは日本各地に広がっていった。
この巨樹に魅せられた私は、日本各地の二世三世を訪ね歩き、
ヨーロッパを経て、ついに世界のユリノキのふるさと、
北米東部のアパラチア山脈の峰々にわけいった……。
写真・増永 弘/武田浩吉/毛藤國彦探し求めていたユリノキの原生林は アメリカ東部「ジョイス・キルマーの森」でついに発見した 樹齢三百五十年から四百年を数える巨樹が五十メートル近くの高さですっくと立っていた
詩は
私のような愚か者がつくる
しかし 樹は
ただ 神のみがつくりうる
《"TREES"の一節》三十二歳の若さで第一次世界大戦に散った詩人ジョイス・キルマーは アパラチアの自然を愛し 木々と神々との対話を多くの詩でうたった 黄金に輝く樹冠の形がユリノキの特徴をよくあらわしている(ノースカロライナ州)
ユリノキの米名はイエローポプラー
彼らは単にポプラーと愛称する
この元の意味は《ピープル=人民》
いかにもアメリカ人の好みに合った呼び名だ(ケンタッキー州)ユリノキは荒れ地に最初の林をつくる
すなわちパイオニヤ樹種である
ケンタッキー州の牧場の外れに針葉樹のストローブ松と混生した黄葉のユリノキノースカロライナ州ベントクリークのユリノキ実験林
案内してくれた森林調査官フェリス・ドルマン嬢は まだ大学を出たばかり
ここを"ゴールデンヒル"と呼んでいたケンタッキーの山地に直立する樹幹をならべたユリノキの再生林
下方の谷間は風のため落葉がはじまっていた
ケンタッキーからノースカロライナの州境付近では
黄葉したユリノキの林が谷間を埋めていた「ジョイス・キルマーの森」の最大樹 直径約2メートル
世界で最長老のユリノキだろう
「ここでは生きている木も死んだ木も切られたり 取り除かれたりしない」と森林監視官が言ったスレート葺きの家はアメリカ開拓史の名残で
アパラチアの田舎町で時おり見かけた
この極上の屋根板はユリノキ材の老壮木にかぎるという(テネシー州)ワシントン市の公園の主役はユリノキである
樹齢150年以上の大樹がいたるところに林を作っている(ロック・クリーク公園)
ノースカロライナ州のアッシュビルの山の手にユリノキの自然林が広がっている
こんな大樹がどの家の庭にもあった森はいっせいに紅葉し めくるめくような豊かな色彩で幻想の風景をくりひろげる
ハナミズキ スズカケ モミジバフウ……のふるさともここにある(ノースカロライナ)
北米から日本にはじめて入ってきたのが 東京・新宿御苑のこのユリノキだ
このユリノキの二世三世がいまや各地に広がっているそびえたつ大木に魅せられて
東京の新宿御苑の真ん中にユリノキの大木がある。かつては皇居専用のゴルフ場であった広大な庭園に、樹高約三十九㍍、三本のユリノキが程よい間隔で三角形状に植えられているから、遠目にはそれが一本の大樹に見え、実に勇壮である。
私がある人のすすめで最初に見たユリノキが、このすばらしい大木だった。ちょうど六年前の晩冬の一日で、全く人気のない御苑には寒風が吹き荒れていた。
それまでユリノキを知らなかった私は、はじめその樹名がもつニュアンスから、「中高木ぐらいの花木だろう」程度にしか考えていなかった。だから、広い御苑の中央にそびえ立つそれがユリノキと知った時、もう私は魅せられていた。
東北地方に育った私は、たとえばケヤキやヤチダモ、サイカチなどの大きな木が好きだった。そして、それらの近しい木々が四季を通じていちばん立派に思えたのは、なぜか冬枯れの雄大な木立であった。小学校の冬の校庭、中学校や高校に通う雪の川岸などに、その木々は必ずあって、私は思い出の中の樹影にこのユリノキを重ねようとしていた――。
近づくにつれ、ユリノキは強い風にあおられて巨体を傾け、枝々は音を発して鳴り、その梢は烈しく揺れ動いている。まるで巨象の足のように根元が地中にめり込んでおり、その根周りは四㍍はあろうか。黒みを帯びた樹皮は、風紋のように波打つ襞を歳月のうちに刻んで美しい。その一本の幹にもたれて見上げると、その全容が目に迫った。
私は、北米に生まれたというこのユリノキに、すっかり圧倒されてしまった。
各地に育つ″二世たち″
大樹ほど花形は立派で大きい
この花一つから小さじ1杯の蜜をとったというアメリカの記録があるこの御苑の大樹こそ、実はユリノキが日本に渡米した初代であった。明治七年ごろに植栽されて、いま樹齢百余年に達する。この木の生みの親は、医師の伊藤圭介(一八〇三-一九〇一年)であった。わが国最初の理学博士でもある氏は、シーボルトの鳴滝塾に学んだ機縁から、洋学を土台とする植物研究者となったが、明治初期に米人モーレに自国から携えてきた種子を贈られて、自ら邸内へ植えて苗木づくりに成功したという。これが文献におけるユリノキの初出であり、その大成した姿を私たちは御苑の中庭で見る……。
移植された若木は、生長して花開き実を結び、やがて実生となって各地のユリノキの〝母なる木〟となった。その二世は数多い。
わが国で最も端正な並木として知られている東京・四谷の迎賓館前の百四十一本のユリノキは、明治四十三年の植栽。また四十五年に京都の烏丸通に植えられたのは、すべてユリノキであり、その経緯は同市役所の記事に詳しい。しかし、古都の大通りも、現在ではスズカケノキに代わってしまい、ユリノキはわずかに五十四本が点在するだけだ。いまや戦前の町なみの並木を知る人も少ないであろう。
新宿の御苑から若木をリヤカーで運んで植えた――という記録もある。国立博物館の前庭、樹高が約三十二㍍に育っている上野公園のメーン・トリーだ。
東京ではそのほかに、日比谷交差点から桜田門までの並木に六十本。また、皇居には三十㍍を超える大樹があるが、これは見ることができない。いずれもユリノキ二世たちである。
遠い日、心ある人の手によって実生し育成されたユリノキは、各地に多いにちがいないが、長い月日のうちに生まれたエピソードの一つを、ここにご紹介しておこう。
十年ほど以前のこと、迎賓館前のユリノキの並木に事故が発生して、地中のガス管が破れ枯死した一本があった。さっそく事後処理にあたった区の職員は、その木の根元を掘り出してアッと息をのんだ。根の部分は木炭によって大切に囲われているのだった。
「通気性と、適度の通水性とを考慮したこの手法は、ドイツから伝わった技術でしょう。こんな手間のかかる植栽を、いま造園業界は全く忘れているんですよ」と、区の老係員の話は心なしか暗く私にひびいた。
チューリップの形の花
昭和四十九年八月の三菱重工爆破事件でこの一本も爆風の犠牲者となった 昭和四十年ごろの植栽だがまだ花をみない(東京・大手町)ユリノキは、わが国では一般にハンテンボクと呼ばれることが多い。つまり絆纏木で、葉の形が似ていることからついた親しみのある呼び名といえる。この形容にふさわしいユニークな葉形をしており、一度見れば忘れることはないだろう。この葉には葉先がなく、世界の樹木にも類似した葉形は見当たらない。
また、「ユリ」と「チューリップ」という二つの花名を合わせたぜいたくな学名をもった木でもある。学名(ラテン名)の、リリオデンドロン・チューリッピフェラとは、「百合の樹でチューリップの花形を持った」の意味だ。学名の前半は属名、後半は種小名であり、したがってユリノキという和名は属名の直訳である。英名ではチューリップトリーと呼んでいるが、これは種小名から由来したことがわかる。事実、名のとおりチューリップに似た高さ七㌢に及ぶ花をつける。
ユリノキは、コブシやホオノキ、モクレン、タイサンボクなどと同じモクレン科に属し、大輪の花を頂生する。つまり、花は上向きにつく。花全体は淡い緑色で、その花弁の腰あたりに、ぼかしたような黄色の帯を浮かびあがらせ、気品のある美しさだ。
東京では、例年五月十日ごろに咲くが、大きな花をたくさんつけた木の下を気づかずに通り過ぎてしまう人が多い。緑の花なので、葉の緑にまぎれてしまうからであろう。
ビルの上階からおびただしいユリノキの開花をみつけ、急いで路上へ降り立って木を見上げると、花の姿はなかった――と言った人もいた。
新宿御苑のユリノキの花を撮っていた時、高い脚立をすえ、ようやく花にとどく下枝を見つけて夢中でシャッターを切っていると、足もとに幾組かが立ち止まってこちらを見上げている。そのうちに、いっぱい咲いている花に気づいたらしい。人々の間から声があがった。家族づれで来ていた幼い女の子の叫んだ声がよかった。
「お母さん、見て!チューリップの花よ!」
岩手県江刺市田原にあった林は のどかな日本の田園風景とひと味ちがった景観をつくっていた
赤い屋根が紺野ツマさんの家(岩手県江刺市)化石が語る原始の森
ユリノキの林があると聞いて飛んでいったことがある。岩手県の南部、江刺市田原町の山あいのアカマツ林相の一画にそれがあった。わずか四百平方㍍足らずの広さに、五十九本のユリノキがまさに林立していた。これまで単木の植栽樹形ばかり見慣れてきた私は、ここで初めて野生のユリノキに接したのだった。
岩手大学では学園のシンボル樹となっていた 昭和4年に卒業した同期生は 会誌「はんてんぼく」を発行している樹高三十メートルに達する木々は、まっすぐ天を指している。
この林の所有者、紺野ツマさんは、この木を「エンピツノキ」と呼んでいた。「亡夫が養蚕学校を出て、福島県三河地方に研修に行った際に、珍木だといって実をもらってきたんです。大正十年のことです」という。帰村後に実生発芽させ、これを裏山に植えたのがいま林を形づくっている。推定樹齢五十五年のユリノキである。
林業試験場や演習林を除いては、林となっているものは極めて珍しいが、かつてユリノキが日本列島で謳歌していた時代もあった。一五〇〇万年という遙かな昔である。
岩手大学の地質学教室を訪ねて、村井貞充先生から、雫石地方の第三紀新世層中期の地層より先生自らがとり出されたという、ユリノキの化石を見せられた。
「この学名はリリオデンドロン・ホンシューエンシスといって……」と、手渡された一片の化石となった小葉を手にした時、私の思いは広がった。何か途方もなく大きな世界の、とめどない時の流れに誘いこまれ、閉ざされて押しやられていくような感覚があった。
太古の時代の、原始の森、そのほの明かりの中で本州百合の木は、森の仲間たちと並び立ち、鮮やかに黄葉を輝かせ、はらはらと無数の葉を暗い湖面に落としていく……。
アパラチア山脈への旅
樹木の大敵アメリカシロヒトリは なぜかこの木につかない 怖いのは根ぐされ病 これにかかると強風で倒れてしまう (迎賓館前)「ユリノキは今や衰退期に入っている木であろう」と言われたのは、森林生態学者の四手井綱英先生だった。多くの文化が興り、栄え、そして滅びていったように、植物にもそうした運命があるのだろうか。
ユリノキは、結実果が極端に少ない。不稔度(粃率)は八六㌫以上であり、種としての子孫保持能力に大きな障害となる。これが運命の岐路をなす--との生態学見地からの予見であった。この道を止める方法は、結局、人間の協力でしかないのだろうか。
いつしか私の胸には、地球上に残されているユリノキ原生林をこの目で確かめておきたいという思いがふくらんだ。文献や資料類を読みあさるうちに、その所存は北アメリカ東部の内陸部に横たわるアパラチア山脈のあたりと目星がついた。
しかし、わが国とちがって広大な大陸である。地図で見るアパラチア山脈は南北約三千キロに連なり、それは日本列島の長さと等しい。その広がりのどこに、わがユリノキの原生林があるのかは不明だった。このような時に、私がとる道は一つしかない。まず行動を起こすこと、その現地に飛びこむこと――これが私の主義であった。
よくスズカケノキと間違えられるが 葉を見ると大違い ご覧のように葉先を鋏でちょん切ったような珍しい形をしているアパラチアの山なみを、北から南まで走ってやろう。そうすればユリノキにぶつかるだろう。そう思った。
この旅をヨーロッパから始めたのは、北米でユリノキの黄葉する時期をねらったためで、それにはまだ日があったからだ。フランスとドイツを訪れて、公園樹や庭園樹として植栽されているユリノキを見た。ヨーロッパには日本よりも早く十七世紀半ばに渡米しているが、亭々たる大木はない。それから私は北米大陸に飛んだ。
光り輝くみごとな再生林
強風に乗ると種子は500メートルも飛ぶから 以外な所で実生苗を見つけることがある 体に似合わず大きな葉をつけるのがかわいいワシントンでは私の望む情報は得られなかった。レンタカーを借りて、アパラチア山脈北部のシェナンドーにたどり着いたが、ここにはユリノキの原生林はなかった。車を飛ばしてオハイオ州に入ったが、ここでも空しく、引き返してケンタッキー州に入り、今度は西からアパラチア山脈に近づいた。
ケンタッキーのハザードという町で会った森林サービス局のデビッド氏は、ユリノキを追っている変な日本人のために自ら車のハンドルを握り、同州で唯一の原生林へ案内してくれた。氏はおだやかな口調で言う。「ユリノキは有用樹だから、これをどのように育てていくかが我々の課題だ」と。また、ユリノキは材質が軟らかで、吸湿しにくい。さまざまな楽器や家具などの材として珍重され、一般建築用材にも盛んに活用されていること。さらに蜜蜂たちにとって、ユリノキの花は大切な蜜源であることを語った。
しかし、その小規模な原生林で私が出合ったのは、胸高直径一㍍ほどの六本のユリノキだった。私が探しているものではなかった。
再び山を越えて、私はノースカロライナ州の州郡アッシュビルに向かった。
言葉の異なる国の広大な土地を走り続けながら、その道すがらに私を慰めてくれたものは、次々と現れるユリノキの再生林であった。それらの若いユリノキは、山肌に沿ってひときわ澄明な鮮黄色の群落を形づくり、時として渓谷いっぱいに広がり、また、山の斜面を帯状に登りつめて輝いて見えた。
一つの堅果は50粒ほどの種子の集まりだが種子なしがほとんどだ 発芽にはたくさんの種子をひろってきて畑に敷きつめるこの旅での一つの発見は、原産地アメリカにおけるユリノキがパイオニア種であったことだ。裸地や伐採跡地、荒れ地などには、ユリノキがいちばん最初に進出して林相をつくり、明るい陽光をうけて成長を始めていた。旅立つ前に私が憂えた″ユリノキ衰退説″をくつがえすほどのものではないが、うれしい発見だった。くりかえされた伐採跡地にすら、いまユリノキは蘇ってきているのだから……。
やがて州都アッシュビルに到着した私は、森林サービス局を訪れて多くの人たちに問い、さらにその出先機関まで足をのばして、ようやくめざす原生林について知ることができた。ユリノキ原生林は、詩集「樹たち」の著者の名前をとった。″ジョイス・キルマーの森″である。その森までの道筋を描いた紙片を受け取ると、私はただちに南へ約百六十㌔を駆けて、ロビンスビルという田舎町に着いた。
破壊の歴史でもあった開拓史
矢印は筆者の踏査ルート二度もホテルを断られたあと、やっと探しあてた粗末なドライブインの一室で、原生林に入る記念すべき前夜というのに、私の心は重かった。すでに三千㌔近くを走っていたから、肉体の疲労もあったが、暗いのめりこむような気持ちになったのは、別な理由である。私はまだ、満足できるユリノキの原生林に一度も出会っていないのだ。
人も馬も通さぬあの黒い森、インディアンも恐れて立ち入らなかったという奥深い原始の樹海は、これまで影さえなかった。明るく整えられた再生林は多く見たけれども、それは往時の破壊の跡であった。苛立ちというより、むしろ怒りに近い感情に私はとらわれていた。
アメリカ大陸開拓史が、そのまますさまじい破壊の歴史であったことを、いま私たちは知っている。十九世紀の初め、東部海岸から西部へと向かった白人開拓者が最初に突き当たったのはアパラチア山脈だった。開拓の名を借りた乱伐が行われ、この地帯のめぼしい木は片端から倒されて、特に有用樹であるユリノキは相次いで姿を消していった。住居の丸太小屋とするために切られ、追われて森へ逃げこんだインディアンたちをさらに追うために切られ、欝蒼たる森への恐怖感からも切られていった。
ユリノキは標高五百メートル以上の山地では育たない。開拓者たちはアパラチア山脈のふもと一帯を覆っていたユリノキ原生林を根こそぎにし、さらに山を越えて中部へ、そして西部へと進んだのだった。材として極めて優れたユリノキの原生林はこうして絶滅したのである。
世界で唯一最大といわれるユリノキ原生林は、はたしてこの町から十六㌔という山麓にあるのだろうか……。
ジョイス・キルマーの森
ユリノキ化石は世界で16種報告されているが その関連性や地球上での発祥については まだ不明な点が多い(岩手大地質学研究室所蔵)翌日、ジョイス・キルマーの森に足を踏み入れた時、私の思いは満たされた。
このユリノキ原生林は、ナンターラ国立公園のほぼ中央部に位置している。ケンタッキーとの州境にあるグレート・スモーキー・マウンテンのちょうど南面にあたり、ゆるやかに起伏する湿潤の肥沃地帯であった。森から出る一筋の清流は深い渓谷をつくって山なみを切り、西へ流れてテネシー川にそそぐ。
巨大な自然倒木の橋を渡って森に入ると、十分ほどで「ポプラー・ケープ」の小さな立て札があり、幾本かのユリノキの大木が見えた。そこを右に曲がると、巨木のユリノキが何本も連なって目に入った。私はここで、目通し直径一㍍を超えるユリノキだけで五十本まで数えたが、それらの中では、樹高約五十㍍余、胸高直径百八十五㌢が最大樹であった。
そこそこに木漏れ日が降りそそぎ、灰褐色の樹幹にあたって揺れている。森の内部は意外と明るく、視界もきいた。見上げると幾重にもかさなった黄葉のかなたに、青空と太陽の気配がある。わがユリノキは、根元からその太さをほとんど変えることなく、幹を三十㍍から四十㍍まで直立させ、その堂々とした姿は、これまでに私が見たどんなユリノキよりも立派だった。
十月二十八日。快晴。当地でいうインディアンサマー。ワシントンを発ってから十一日が過ぎていた。
毛藤圀彦氏は昭和十八年生まれ。盛岡市出身。神奈川大貿易学科卒。樹木ほか植物に関する一切を手がける「アボック・グループ」を主宰。また撮影した増永弘、武田浩吉の両氏も同グループの一員。
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