1998年9月 (掲載誌不明)
地平線の群像・語り継ぐ破天荒人生■第三回■(サンバウロ新聞編集長 中曾根武彦)
戦前ブラジルに移住した日本人のほとんどは、当時の日伯移住地協定に従い、農業に従事している。後年、農業の神様とまでいわれた日系人の特技を生かし、ブラジル社会に貢献した業績はあえて紹介するまでもない。だが一方で、移住後に艱難辛苦に遭遇して農業から脱出しそれぞれの生き方を選んだ人も少なくない。
しかし、転身直後の職種はまちまちで、丁稚(でっち)まがいとか庭師、大工など、おおかたはカ仕事が主流だった。うまく商工業に活路を見いだした人は、成功者として、後に日系社会発展の立役者となった。外国に移り住んでも、多様な人間模様が織りなす世界がある。
なかでも、紛れ込んでいた、といっては語弊があるが、汗水をそれほど流さなかったインテリ移民の生業(なりわい)はどうだったろう。これらの人々は、移住することに目的意識をはっきりもたずに渡ってきた人と、しっかりした目標をもって、ブラジルの予備知識を備えてきた人とに大別される。
ブラジル植物学の権威、橋本梧郎は後者で、アマゾンを抱える広大なブラジルには無限の種類とも思われる植物があることを知り、探求心をかきたてられて移住した人である。
植物にとりつかれて
橋本は一九一三年(大正二年)、静岡県に生まれた。現在、八十五歳。静岡県立掛川中学(現・掛川西高校)を卒業後、植物にとりつかれ、三二年には日本植物学会会員として日本中部地方の各地に調査研究旅行を続けて、植物学・昆虫学の研究発表をしている。
一九三四年(昭和九年)、大日本帝国が軍国主義を謳歌した頃、祖国を後にした。当時の旧制中学は現代のカリキュラムとはまったく異なり、専門分野はもとより一般常識や国語、歴史、地理の実力は、今の大学卒も及ばない高度なものであった。橋本は渡航に当たり四千点の標本を国立博物館に寄贈している。
ブラジルにくるとサンパウロ市郊外にあったエメボーイ農業実習所に入り、半日実習、半日ポルトガル語の勉強を二年間続げて卒業。第四期生だったが、日本のお声がかかり、その同校はその四期で消滅している。この間、橋本は、二年前にできたばかりのサンパウロ植物園に毎週出かけては、生まれて初めて見るブラジルの珍種の植物に魂を奪われる。わけてもキク科は三万種に及ぶが、北半球の日本では樹木としては存在しないのに、同種でありながらここでは大木となる。
何を見てもびっくり仰天する小柄な日本人、当時としてはなじみの薄い民族だから不審な視線を注がれたが、植物園も開店早々だし、熱心に観察する珍客は次第に大切に扱われ、やがては木戸御免となる。橋本のブラジル植物採集、資料収集、動物の剥製保存に生涯をかける六〇有余年のスタートはここからである。戦後の四八年から五四年まで同園の正式な自由研究員となりブラジル植物の分類を研究、約二千点の標本を同園に寄贈し、今も大切に保管されている。
戦前に戻るが、橋本にも食わねばならぬ事情があった。三六年にはサンパウロ市から約六十キロ離れたモジ・ダス・クルーゼス郡の一移住地で、日本人会経営の日本語学校校長となり、ここで二年間過ごす。
以降の主な職歴である。
一九三八~五四年 サンパウロ市栗原自然科学研究所生物学部長
五三年 イビラプエーラ公園日本庭園部長
五四~六一年 バラナ州グアイーラ市農事試験場場長
六一年 グアイーラ市にセッテ・ケーダス博物館を創設、日系人博物館第一号を完成させ俺長となる
六一~七五年 同市の農務省気象観測所主任
六四~六五年 パラナ州農務局狩猟監督官
七七~八三年 パラナ州ロランジャ市に創設のバラナ日伯文化連合会経営の開拓農業博物館初代館長。州政府公務員兼任
日本は三等国だった
橋本が多くの標本を集めたり、その研究結果を発表し真価を発揮するのは五〇歳を過ぎてからのことである。植物学者の喜びはそうした収集の分類をなしとげたり、それらを後世に残すことが約束されるということにあるのだろう。
彼から「身体がふるえるような感動」の体験を聞いた。これまでも何度か経験があるが、と断りながら、つい最近、近郊イビウーナで…(後文不明)
(イラスト:『ブラジル産薬用植物事典』より)