1984年4月7日 図書新聞
写真の冷さ見事発揮
伐採された巨木背景に無表情な樵夫 (ねじめ 正一氏)D・ボーン/R・ペチェック著 田口孝吉訳 中上健次解説
ビニ本ならいざ知らず、写真集なぞほとんど買ったことがない私でもこの写真集はスゴイと思った。そのスゴサは何かといったら人間の汗がいっさい見えてこないことである。それは人間の欲望を封じ込めることによって、写真という装置性の冷たさを発揮していることである。見事に発揮している。
我々が写真に撮られるという暗箱作用の中で、すべての人間がいままでどんな生き方をし、階級・階層の差なども関係なく被写体としてだけ、我々の前に立ち現われてしまうのである。ここに収められている被写体は、人間のそれぞれの力量の差も表わさず、いかなるものも付加されず、引きずっていない。
パックリとあいた巨木の伐り込み口に、一人の樵夫が寝返べり、左右に一人ずつ樵夫がポーズをとり、巨大な鋸が傍らに置いてある。つい先程まで、この巨木に向かって満身の気合いを込めて斧を振り、鋸を引いて伐り込み作業をしていた連中なのであろうが、写真に収まっている彼等には何程の汗も気迫も見せていない。まるで、東京タワーをバックに制服姿の学生たちの修学旅行の記念撮影のようにも見える。彼らの樵夫としてのキャリアも、奥深い森林の中での文明から閉ざされたキャンプ生活の日常、排泄も性欲も食欲も、すべての欲望が被写体のカラダから表われず、巨木の伐り口と同様に凍結されてしまっている。ひとつの儀式的堅固さとして感じられる。
しかし、一瞬の瞬間(ワンショット・ワンショットを接続する瞬間)として表われてくるのでは決してない。この時代の写真技術は、一枚の写真を撮るのに今の写真を撮るスピードに比べてはるかに長い時間をかけて、大きな機材を移動させ、背景を定め、アングルを決め、ようやくシャッターをきる瞬間に辿り着くというプロセスを経なければならない。撮る側も撮られる側も、カラダにまとわりつく一切合財のものを、シャッターをきるまでの長い時間の内に個々のカラダに押し込め押し込め、やっとシャッターをきる瞬間を迎えるのである。ダリウス・キンゼイの写真機は、まさしく超低温瞬間フリージングの暗箱なのである。
巨木の伐り込み口は、あとひと引き鋸を引けば崩れるというのでもなく、絶対崩れないと確信することもできない。
雄大な山並みを映す湖は、波打つでもなくまた鏡のように滑らかという表現も許してはいない。
キャンプ小屋の屋根から立ち登る煙は、風に流れるわけでもなく、夕食を作る臭いも感じさせない。
広い伐採キャンプの食堂の大きなテーブルに整然と並べられたフォークやスプーン、コーヒカップもこれから樵夫たちが朝食をとるのであろうという予感を全く想起させない。何かが始まることも、また何かが終わることもなく、また何かの瞬間でもない。
私の目の前にあるブ厚くて重い写真集は欲望していない。欲望する余地が与えられていないのだ。超低温瞬間フリージング機械だけが、凄まじい意思で欲望している。それは、この機械を操るダリウス・キンゼイの意思でもないのではないか。自然も人間も物も、そして写真を見る者も、封じ込められるのである。
いいかえれば、すべてがポーズでしか生きていないことが私にとってはスゴイのである。
(2・1刊、B4変型二七六頁・アボック社出版局) (詩人)